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自己紹介(2025年4月)

初めての方も、そうでない方も、こんにちは。
辰井聡子といいます。

以前は大学で法学を教えていましたが、2021年(実質的には2019年)に大学を辞め、ひとりで社会についての研究をはじめました。研究に関連して、このウェブサイトのほか、姉妹サイト「エマニュエル・トッド入門講座」を運営しています。

ウェブサイトをご覧になった方から「なぜそのような活動をしているのか」と問われると、少し困ります。しかし、私自身も「なぜ‥」と思うことがあるので、納得の行く答えを探ってみようと思います。

なぜひとりで研究をしているのか

社会について研究する人の動機は、大きく分けると、以下の二つのどちらか(あるいは両方)であることが多いと思います。

1️⃣正義の追究(「社会をよくしたい」)
2️⃣好奇心の追究(「面白いから」)

自分にもこのような動機が全くないとはいいませんが、少なくとも現在の自分にとって、1️⃣、2️⃣は主ではありません。それでも、私が「やむにやまれず」という感じで研究をしてきたことは、間違いない。

「なんでかなあ‥」

自分として、一応、納得できる答えは、「自由であるために、仕方なく始めた」というものです。

自由ねえ。誰だって自由っていいますよね。
自由って、何でしょう。

この社会の中で、言いたいことが言える、好きなことができる、欲しいものが手に入る。それもまた自由かもしれません。

でも、この、どうにもややこしい世の中で、その仕組みもわからないのに、わかったような顔をして、「あーだ」「こーだ」「こうあるべきだ」と、好きなように発言し、好きなように行動したからって、それで、自分の人生を、自由に生きているといえるだろうか。

地続きの世界の中で、戦争とか虐殺とか、結構なことが日常的に起きていて、なぜだか世界はそれを止めないし、自分も手の出しようはない。それでも、「あーだ」「こーだ」「こうあるべきだ」なんていって、満足していられるだろうか。

「そんなの、ゲームの中で遊んでいるようなものだよなあ・・」

少し極端な比喩ですが、特殊な機械があって、脳に接続すると、薔薇色の(あるいはそれぞれの好みに合った理想の)世界の中を、思う存分、自由に生きている、と信じたまま、一生を終えることができる、とします。

そのような人生を生きたいか、否か。
意見の分かれるところかもしれませんが、私は迷わず「否」派です。

「だって、そんなの自分の人生じゃねーじゃん」

そして、何が何だかわからなくても、目を閉じて、社会に適応して生きていく。その人生は、機械に繋がれた人生と、そんなに違わないんじゃないか、とも感じてしまうのです。


教員人生の終盤、私はずっとモヤモヤしていました。

「あーだ」「こーだ」「こうあるべきだ」と発言できる立場にはなった。でも、おかしいな。どうも、このあたまの中の世界は、現実の世界とちゃんとつながっていないみたいだ。

自分の目で耳で手で足でこの世界を捉えたい。社会のことがわかりたい。それで学者になったのに、このままでは、全然、真実に近づけそうにないじゃないか。

それで、仕方なく(制度的な)学問の世界を離れ、ひとりで研究をすることになったのです。

わかったけど、どうする?

そんなこんなで、研究を始め、約5年が経ちました。それでどうなったかというと‥‥

一言でいうと、すべてわかりました。まさかここまで、いろいろなことがわかるとは思わなかった。そのくらい、わかりました。

いえ、もちろん、知らないことはいくらでもありますが、自分が知りたかったことや、「ここがこの世界の肝」ということについては、大筋で、わかっちゃった。

わかっちゃって、知ったことは、やはり、「あたまの中の世界」は、現実の世界とは、全然、違う。両者の乖離ぶりは、当初の予想をはるかに超えていて、ほとんど別の世界、裏返しの世界、といってもよいほどでした。

さて、問題はここからです。

「まじか・・」としみじみした後、「で、どうしようかな」と考えます。

私が「わかっちゃった」事実は、近代以降の学問が拠って立つ、その基盤を掘り崩すようなものでもあるので、どう考えても、(制度的な)学問の世界に居場所はないだろう。

その上、私が「わかった」ことの中でも、とりわけ重要なものの一つは、「わかったからって、社会を変えるためにできることはほとんどない」。

「みんなで社会をよくしようぜー」といって颯爽と言論界にデビューする、という道も、ありそうにない。

「面白いよ!」という方向はどうだろうか。面白い、とは思う。でも、明らかに「取り扱い注意」であるものたちを、うかうかエンタメに供するのは気が引ける。

一方で、私にとって、これらを知ることがどうしても必要であったように、これらを必要としている人がいるだろう、とも思うのです。

私の「わかった」ことを、同じように「わかる」ことで、より健やかに、前向きに、のびのびと生きていける、という人たちが。

年齢や国籍を様々にするであろう、その人たちには、ぜひ、このじじつたちを届けたい。

というわけで、この先も、地道に、しかし、少しは間口を広げていく方向で、活動を続けたいと思います。

どうぞ、お楽しみに。

肩書き

さて、「もうちょっと、外に出ていこうかな」というときに、必要になるのが肩書きです。

大学を辞めた後、どうしても必要な場合は「研究者」と称してお茶を濁していましたが、多少迷った末、今年から(必要な場合には)「独立研究者」の肩書きを用いることにしました。

「独立研究者」の肩書きは、辞職直後から候補には上がっていましたが、使用には躊躇がありました。

「独立はいいけど、何の研究者?」と思ったからです。

私は、法学者としては、プロの研究者を名乗れるだけの実績がありました。「法学の独立研究者」なら理屈は通るでしょう。

しかし、まったく新しく、法学ではないことを始めようというのだから、何をかいわんや。この時点で「独立研究者」を名乗っても、明らかに「自称」です。

でも、この5年間で、私は、新たに別の分野で博士論文を書くくらいの仕事はしたと思う。

それに、社会に関して、真実を掴むには、大学とも、専門分野とも距離を置いて、社会のすみっこで、ひとりで研究をする以外にない。このことにも、確信が持てました。

その意味で、独立研究者、というのは、今の自分には相応しい肩書きだと思っています。

とはいえ、私にとって、研究者であること(というか研究すること)は手段であって目的ではありません。

「やむにやまれぬ」研究が一段落したいま、研究は私の主な仕事ではなくなっていくような気もしますが、ひとまず、しばらくは「独立研究者」で行くことにさせていただきます。