カテゴリー
世界を学ぶ

John Pilger アメリカは私たちをロシアとの戦争に引きずりこもうとしている(The Gurdian, Tue 13 May 2014 20.30)

以下は、John Pilger, In Ukraine, the US is dragging us towards war with Russia(The Guardian, Tue 13 May 2014 20:30)の翻訳です。(小見出しを付け、改行を増やしました。)

私たちは西側の犯罪を何も知らない

なぜ私たちは私たちの名の下での第三次世界大戦の脅威を許容するのか。そのリスクを正当化するための嘘の数々をなぜ許すのか。Harold Pinter は書いている。我々が受けている洗脳のスケールは「目覚ましく、洒脱とすらいえる」、その「催眠行為」は「いままさに起きている現実を起きていないものと」と信じさせることに「見事に成功している」。

米国の歴史家 William Blumが毎年公刊している「米国の外交政策に関する記録の要旨・最新版」によれば、1945年以降、米国は50以上の政府(その多くは民主的に選出されたものである)の転覆を企図し、30カ国の選挙に大規模に介入し、30以上の国で民間人を爆撃し、化学兵器や生物学兵器を用い、外国の指導者の暗殺を試みている。

イギリスはその多くのケースで協力者として関わっている。犯罪性はもちろん人的被害の程度も西側ではほとんど知られていない。世界でもっとも進んだ情報通信手段と名目上はもっとも自由なジャーナリズムを誇っているにもかかわらず。

西側によるテロ

最大のテロの被害者―言っておくが「私たちによる」テロである―はいうまでもなくイスラム教徒である。9/11をもたらした極端なジハード主義が、英米の政策遂行のための武器として育成されたものだった(アフガニスタンにおける”Operation Cyclone”)という事実は隠蔽されている。4月、米国政府は、2011年のNATOによる軍事介入の結果「リビアはテロリストの隠れ家となってしまった」と認めた。

「私たちの」敵として指名される者の名前は時を経て変化した。共産主義からイスラム主義へ。しかし総じてその対象は、西側勢力から距離を置く国で、戦略的要衝または天然資源豊富な領土を持つか、あるいは、数は少ないが、米国の覇権にかわる選択肢を提示する国である。

こうした〔米国の覇権にとって〕邪魔な国々の指導者たちは、イランにおける民主派のムハンマド・モサデク、グアテマラのハコボ・アルベンス・グスマン、チリのサルバドール・アレンデのように暴力的に排除されるか、コンゴ民主共和国のパトリス・ルムンバのように殺害されるのが通常である。

そして、彼らはみな、西側メディアによる中傷キャンペーンの被害者となる。フィデル・カストロ、ヒューゴ・チャベスのように。今その真っ只中にあるのはウラジミール・プーチンである。

プーチンを挑発するアメリカ

ウクライナにおけるワシントン〔米国政府〕の役割は、すべての私たちにとって格別な意味を持っている。レーガン以降では初めて、米国が世界を戦争に連れ込もうとしている兆しがあるからだ。

東ヨーロッパとバルカン諸国はいまやNATOの軍事的前衛地であるが、ロシアと国境を接する最後の「緩衝国家」であるウクライナが、米国とEUが解き放ったファシスト勢力によって分断されようとしている。西側の私たちは今、過去にナチスシンパがヒトラーを支援したその国でネオナチを支援しているのである。

2月に民主的に選出されたウクライナ政府を巧みに転覆させた後、米国政府はロシアがクリミアに合法的に建設した不凍港の海軍基地を占拠(seizure)しようとして失敗した。ロシア人たちは100年余りに渡って西側からのあらゆる脅威や侵略に対してしてきたのと同様に自分たちの基地を守り切った。

しかし、米国がウクライナにおけるロシア系住民に対する攻撃を指揮するのに合わせ、NATOの軍事的包囲は加速している。プーチンが挑発に乗ってロシア系住民の救援に乗り出そうものなら、彼に予め与えられた「除け者」(pariah)の役目がNATOによるゲリラ戦争を正当化し、ロシアそのものを巻き込んでいく可能性が高い。

プーチンは挑発には乗るかわりに米国政府およびEUとの和解を探る姿勢を見せ、ウクライナ国境からロシア兵を撤退させ、東ウクライナのロシア系住民に週末に予定されていた問題含みの住民投票の実施を断念させて、戦争を望んでいた連中を混乱させた。

ウクライナの人口の三分の一を占めるロシア語話者(またはロシア語・ウクライナ語のバイリンガル)たちは長い間、ウクライナの民族的多様性を反映し、キエフ(ウクライナ政府)に対する自律性とモスクワ(ロシア政府)からの独立性の両方を担保した民主的な連邦政府の実現を模索してきた。

そのほとんどは西側メディアが言うような「分離派」でもなければ「反乱分子」でもない。ただ祖国で安全に暮らしたいだけの市民たちである。

CIAのテーマパークとなったウクライナ

廃墟となったイラクやアフガニスタンと同様に、ウクライナはCIAのテーマパーク―CIA長官のJohn Brennanが個人的に運営し、CIAとFBIからの何十もの「特別ユニット」が2月のクーデターに反対する人々に対する残忍な攻撃を差配するための「安全保障体制」を構築する―になりつつある。

今月起きたオデッサでの虐殺について、ビデオを見て、目撃者の報告を読んでほしい。バスに乗ってやってきたファシストの殺し屋たちが労働組合本部に火をつけ中にいる41人を殺害する場面、そして警察がただ立ってみている様子を。

現場にいたある医師はこう述べた。「〔人々を助けようとしたが〕ウクライナ政府を支持するナチ過激派に止められました。そのうちの一人に乱暴に突き飛ばされ、私やオデッサのユダヤ人たちもすぐに同じ目に遭う運命だと脅されました。昨日ここで起きたようなことは、私の町では、第二次大戦中のファシスト占領下でも起きたことはありません。私は不思議に思います。なぜ世界中の人々が何も言わずに放置しているのかと」。

プーチンに罪をなすり付ける西側のプロパガンダ

ロシア語話者のウクライナ人たちは生存のために戦っている。プーチンが国境からのロシア兵の撤退を告知したとき、キエフ暫定政府の防衛大臣Andriy Parubiy(ファシスト自由党(the fascist Svoda party)の創立メンバ)は、それでも「暴徒たち」への攻撃は続くと豪語した。西側のプロパガンダは、オーウェル風に、彼らの戦いを、モスクワが「対立と挑発を煽っている」と言い換える(これはWilliam Hague(イギリスの政治家)の発言)。

彼のシニシズムはオデッサの虐殺後のクーデター暫定政府の「すばらしい抑制」を称賛したオバマのグロテスクな祝辞に匹敵する。オバマによれば、暫定政府は「正当に選ばれた」のだ。

ヘンリー・キッシンジャーがかつて述べたように「重要なのは何が真実かではなく、何が真実とみなされるかである」。

米国のメディアではオデッサの惨劇は「混乱」とみなされ、「ナショナリスト」(ネオナチ)が「分離派」(ウクライナの連邦化に関する住民投票を求める署名を集めていた人々)を攻撃した「悲劇」という程度に扱われている。

ルパート・マードックのウォールストリートジャーナルは「多くの死者を出したウクライナの劫火、犯人は反乱分子か(政府)」と決めつけた。

ドイツのプロパガンダは冷戦そのもので、フランクフルターアルゲマイネは読者にロシアの「宣戦布告なしの戦争」への警戒を呼びかけた。

21世紀のヨーロッパにおけるファシズムの復興を非難した唯一の指導者がプーチンであるという事実は、ドイツ人には痛烈な皮肉である。

なぜ許すのか?

9/11の後「世界は変わった」とよく言われる。しかし何が変わったのだろうか。〔ベトナム戦争に関する機密文書を漏洩した〕偉大な内部通報者であるDaniel Ellsbergによれば、ワシントンで静かな政変が起き凶暴な軍事主義が現在の米国政府を支配しているという。ペンタゴン〔国防総省〕は現在「特別作戦」ー要するに秘密の戦争であるーを124ヵ国で展開している。足元では、永続的な戦争状態の歴史的な帰結として貧困が増大し自由が失われようとしている。これに核戦争のリスクが加わった今、問うべきは「なぜ私たちはこれを許すのか」である。

カテゴリー
社会のしくみ

カトリックとライシテのフランスー建国の秘密(西欧編)

ゲルマン人はなぜ国家を作れたのか?

ヨーロッパにおける直系家族の起源は10世紀末、カペー朝のフランス(フランク王国)である。ローマ帝国分裂の頃からヨーロッパに入ってきていたゲルマン人たちは基本的に「家族システム以前」の原初的核家族であり、国家形成に必要な「権威」の軸をまだ持っていなかった。

それでも、彼らは国家を作っていく。西ゴート王国、ブルグンド王国、ランゴバルド王国、アングロ=サクソン七王国とか。中でもフランク王国は栄え、のちに分裂してフランス、ドイツ、イタリアの元になる。

ゲルマン人たちは「家族システム以前」であり「国家以前」であったはずなのに、なぜ国家を作ることができたのだろうか。

私の考えでは、原初的核家族に国家の樹立・運営が困難なのは、彼らがその家族システム(=メンタリティの深層)の中に「権威」を持たないからである。

それでも国家を作りたかったらどうしよう。
どっかから「権威」を借りてくればよいのだ。

フランスの誕生

ヨーロッパの場合、ローマ帝国の権威、そしてローマの遺産であるキリスト教がそれに当たる。内面に深く働きかける宗教、しかも一神教であるキリスト教は、核家族の無意識に「権威」を補う最高のサプリメントであったと思われる。

今回はフランク王国(≒フランス)の場合を少し詳しめに見ていきたい。

彼らはどのようにキリスト教と関わり、国家を築いていったのか。

そして、家族システムが進化し国家が軌道に乗ったとき、国家とキリスト教の関係はどのように変化していったのか。

①クローヴィスの洗礼(メロヴィング朝)
 ー原初的核家族+外付けの権威

ガリア北部からピレネー山脈までを支配下に収めたフランクの王クローヴィス(在位481-511)は、496年に洗礼を受け、キリスト教に改宗している。

ローマ教会の司教の勧めによるものだというが(ブルグンド王国出身の妻の勧めという説もあり)、タイミングがとてもよかった。

この以前、教会内部に教義上の争いがあって、アリウス派とアタナシウス派が対立していた(内容はさしあたりどうでもよい)。

論争の決着は4世紀末に着き、アタナシウス派が正統(カトリック)となったので、5世紀に改宗したクローヴィスはアタナシウス派を受容した。

しかし、ローマの近くに位置していたためにより早期に改宗していた各国の王たちは、みなアリウス派だった。

クローヴィスは図らずも「唯一のカトリック王」となり、カトリック王としての権威と「異端からの解放」という(周辺地域征服の)大義が与えられたのである。

カトリック王としての権威によってローマ帝国時代の貴族たちも味方に付けたクローヴィスは、武力に加え、教会(キリスト教)の権威、征服の大義、貴族たちの行政能力を手に入れて、国家の統一を成し遂げた。

クローヴィスの頃のフランクは原初的核家族であったが、教会との関係および唯一のカトリック王としての地位を「外付けの権威」として用いることで、統一国家の樹立に成功したといえる。

②「聖別」の典礼(カペー朝)
 ー直系家族+権威の補強

しかし、この統一は長続きしない。原初的核家族のメロヴィング朝は相続の度に王国の分割をめぐって争いを起こし、混乱の末にカロリング朝に取って代わられる。

そのカロリング朝の王たちは順調に支配領域を拡大し、シャルルマーニュ(=カール大帝)の時代には、ドイツ、フランス、イタリアにまたがる広大な地域を支配下に収め、ローマ教皇からローマ皇帝の戴冠を受けるまでになる(800年)。

しかしまだ核家族だったのでやはり相続争いを避けられず、シャルルマーニュの死後、カロリング帝国はフランス、ドイツ、イタリア(の原型となる3つの国)に分裂してしまうのである。

「おい、そろそろ何とかしろよ」と思えるこの頃、ようやく、フランス領域内で家族システムの進化が始まる。

柴田三千雄『フランス史10講』によると、この頃のフランスでは、王の任命で行政官として配された地方の有力者たちが「分割継承をめぐる武力抗争の過程で武装銃士団をつくって自立し、領邦権力にまで成長していた」という。

ちょうど、日本で武士というか武家が生まれてくるのと同じような感じである。この領邦権力=貴族たちは、間もなく、長子相続を採用し、直系家族を確立していくだろう。

下から権力が育ってくると、国王の権威は揺らぐ。選挙王制が採用され、カロリング家以外の王が登場したのもその一つの現れである。

まず888年にロベール家のウード、987年にはやはりロベール家のユーグ・カペーが非カロリング家の王となった。

ユーグ・カペーは、相続争いを避け安定的な継承を可能にするため、貴族の間で広まりつつあった長子相続制を自ら採用し、生前に長子を後継者に指名する。こうして、ついに、家族システムの進化(直系家族)とともに、カペー朝が始まるのである。

カペー朝の登場は、現在から見ると、実質的に「フランス国誕生」と同視できる大きな事件であるが、当初、その権力基盤は脆弱だった。

シャルルマーニュが持っていたローマ皇帝の称号は、さっさと直系家族を定着させて安定を見たドイツに持っていかれてしまうし(962年オットー1世に教皇からローマ皇帝の称号が与えられ、神聖ローマ帝国が始まる)。

内外に対してその正統性を主張する必要に迫られたカペー朝が用いたのも、やはりキリスト教だった。

カペー朝は「聖別」の儀式としての塗油を即位式の典礼として確立する1カロリング帝国分裂後のフランス(西フランク)で新たに生み出されていた伝説(クローヴィスの洗礼の際、白い鳩が聖油の小瓶を口にくわえて天から舞い降りたという)に依拠するものという。。塗油の儀式には、神による選択という意味が込められる。これによって、カペー朝の王は、教会の権威にも依存せず、神に選ばれ、神に超自然的な力を与えられた者、いわば「新たなキリスト」と位置づけられたのである。

③教皇のバビロン捕囚
 ー教皇を屈服させる王権

当初は群雄割拠の中の名目上の王に過ぎなかったカペー王朝は、12世紀以降次第に勢力圏を広げ、14世紀初めには王国の約4分の3を支配下に置くなどして、実質的な統一を実現していった。

12世紀以降というこの時期は、フランスの主たる家族システムである平等主義核家族が成立した時期と一致している。

10世紀に生まれた直系家族はドイツ全土に広がったが、フランスでは農地システム(大規模土地所有)に阻まれて拡大を止めた(大規模土地所有はローマの遺産である)。

しかし、直系家族を拒んだ地域では、貨幣経済への回帰、都市の再生、大規模農業経営の再確立とともに、平等主義核家族が「再浮上」したのである2「再確立」とか「再浮上」とかいう言葉は、ローマ帝国時代のものが一旦失われて再度現れたことを指示する。

この時期が、フランスという国の「国柄」が確立されていった時期といってよいだろう。

基層における(直系家族+)平等主義核家族システムの確立と実質的な国家統一が同時に実現したこの時期に、世界史の教科書でも印象深い、教皇ボニファティウス8世と国王フィリップ4世の確執が起きている。

ヨーロッパ各国の王と教皇の間には従前から聖職者への課税や司教の任命権をめぐる対立があったが、フランス王は教皇と比較的良好な関係を保っていた。

しかし、カペー朝の王は13世紀後半から攻勢に出る。フィリップ4世は教皇権の絶対性を主張する教皇を側近に急襲させ監禁するという挙に出たのである(1303年 アナーニ事件)。教皇はまもなく釈放されたが屈辱のうちに死亡した(「憤死した」とも言われますね)。

フィリップ4世はその後教皇庁をアヴィニョン(南フランス)に移し、以後約70年間、教皇を支配下に置く(教皇のバビロン捕囚 1309-1377)。

王権の拡大と教皇権の衰退を示すエピソードとして知られるこれらの事件は、ヨーロッパの国家建設においてキリスト教が果たしていた役割を頭に置くと、いっそう分かりやすくなる。

原初的核家族のゲルマン人が国家を樹立するには「外付けの権威」としての宗教が不可欠だった。

家族システムの進化とともに国家が権力基盤を固めていく過程においても、宗教の力を借りて「権威」を補強する必要があった。

しかし、王権が伸張し、国家運営が軌道にのってくれば、聖なる権力はむしろジャマになる。この段階に至ると、これまでとは反対に、宗教の権威を押さえつけ、あからさまに蹂躙することこそが、王の権威を高めることになるのである。

ライシテ(政教分離)の基盤

フランス王国はその後もカトリック国家であり続けたが、革命を経た共和政フランスは、国王の権威を否定すると同時に聖職者の権威も否定し、やがて、公共領域から宗教を徹底して排除する独自の政教分離原則(ライシテ)を確立するに至る。

とりわけ厳格な宗教排除原則がフランスで確立されたのは、同国に定着したのが平等主義核家族システムであったことによると考えられる。

「自由と平等」のフランス市民にとって、宗教は「権威と不平等」そのもの、彼らの価値観に真っ向から対立する不倶戴天の敵である。

彼らの意思が政治に反映されるようになった時点で、公共領域からの宗教の排除は必然であったのだ。

経緯を整理しておこう。

①第1段階:原初的核家族のフランス
権威の欠落をキリスト教で補い、国家建設に成功。

②第2段階:直系家族のフランス
王侯貴族(と一部地域の人々)の間に直系家族が定着し「権威」が発生するが、キリスト教は引き続き脆弱な権力基盤を補強する役目を果たす。

③第3段階:直系家族+平等主義核家族のフランス
王権が伸張し中央集権国家が軌道に乗る。王は教皇を侮辱し聖職者を支配下に置くことで安定した国家運営を図る。

④第4段階:平等主義核家族のフランス
直系家族(王侯貴族)VS 平等主義核家族(一般市民)の戦いで(も)あったフランス革命で平等主義核家族が勝利。「自由と平等」の人民は「権威と不平等」の権化である宗教の公領域からの排斥を求める。

次回に向けて

原初的核家族がキリスト教の助けを借りて作った国家である点は他のヨーロッパ諸国も同じだが、宗教への態度や宗教(および脱宗教化)が社会に与えた影響は国によってかなり異なる。おそらくは定着した家族システムとの関係なので、次回に探究したい。日本との比較もできると思う。

もう一つ。国家における「権威」の重要性を知ると、宗教を排斥し、国王も排斥したフランスが、その空白を何で埋めたのかを知りたくなる。この点も次回以降に探究しよう。

今日のまとめ

  • 原初的核家族(権威なし)であるゲルマン人の国家建設にはキリスト教の権威が不可欠だった。
  • キリスト教は、直系家族+平等主義核家族のフランスが生まれた後も、権力基盤の強化・安定に役立った。
  • フランス革命は直系家族(王侯貴族) VS 平等主義核家族(一般市民)の戦いでもあった。
  • 革命に勝利したフランス人民(平等主義核家族=自由と平等)にとって、宗教(権威と不平等)は不倶戴天の敵だった。
  • ライシテは、平等主義核家族と宗教システムの極度の不適合が生み出した制度である。

<主要参考文献>
・柴田三千雄『フランス史10講』(岩波新書、2006年)
・エマニュエル・トッド(石崎晴己訳)『新ヨーロッパ大全I』(藤原書店、1992年)
・エマニュエル・トッド(石崎晴己監訳)『家族システムの起源I ユーラシア 下』(藤原書店、2016年)

  • 1
    カロリング帝国分裂後のフランス(西フランク)で新たに生み出されていた伝説(クローヴィスの洗礼の際、白い鳩が聖油の小瓶を口にくわえて天から舞い降りたという)に依拠するものという。
  • 2
    「再確立」とか「再浮上」とかいう言葉は、ローマ帝国時代のものが一旦失われて再度現れたことを指示する。
カテゴリー
世界を学ぶ

彼らは友人だったー9/11に寄せて(翻訳)

 

 

以下は “Ted Snider, Remembering Our Friends on 9/11″の翻訳です。ウクライナ戦争勃発以後、この人の記事が琴線に触れることが多く、今回もそうだったので訳しました。

https://original.antiwar.com/ted_snider/2022/09/08/remembering-our-friends-on-9-11/

世界の首脳の中で、9/11同時多発テロ(2001年)の後ブッシュ大統領に一番に電話をかけてきたのはウラジミール・プーチンだった。実は彼は2日前の9月9日にもブッシュに電話をかけ、長期に渡って準備されてきた何かがまもなく実行される兆しがあることを知らせ、警告していたのだ。

ツインタワービルが破壊される様子をテレビで見たプーチンはただちにブッシュに連絡し、弔意と同情を示した。エアフォース・ワンに搭乗中だったブッシュにはつながらなかったが、プーチンは迷わずコンドリーザ・ライスに伝言を託した。翌朝、ブッシュと直接話をしたプーチンは「この困難を乗り切るため、団結し協力しよう」と約束した。

プーチンは同情と団結の意思を示しただけではなかった。彼はブッシュが何を決断しようとそれを全面的にサポートすると約束したのだ。プーチンとブッシュはその後40分間語り合った。次の月曜、プーチンは、機密情報の共有、人道支援のための(米の)ロシア上空の通行許可、捜索救難活動への参加、アフガニスタンの北部同盟への軍事的支援の増強を申し出た。そればかりか、彼は、少しの躊躇の後、ロシア軍の上級司令官の反対にもかかわらず、米軍の中央アジアへの派兵を認めると申し出て、アメリカを唖然とさせた。アメリカはキルギスタンとウズベキスタンへの軍事基地の建設を許されたのである。

ロシアは自身の戦争を通じてアフガニスタンについて詳細な知見を得ていたため、その機密情報の共有には非常に大きな価値があった。ロシアの諜報機関は確かな地図をアメリカに提供し、カブールと数多くの山や洞窟を案内した。ロシアの諜報機関は、9/11以前の2000年6月頃までにも、アフガニスタンからのテロリストの脅威に関する情報をアメリカに提供していた。

このとき、プーチンはまだアメリカおよび西側との関係改善に望みを抱いていた。彼はアメリカへの援助と協力がそれを促進することを期待した。プーチンは9/11の悲劇を、アメリカに対し、ロシアをパートナーとする形での国際秩序が可能であることを知らしめる契機と捉えていた。2011年11月のワシントンでのスピーチでプーチンは次のように述べている。「テロとの戦いにおける我々の相互協力を露米関係の単なる一エピソードとして終わらせてはなりません。これを長期のパートナーシップと協力関係のスタートとすることこそが重要なのです。」

しかし、その10年前にアメリカがソ連を罠にはめて敗戦に追い込んだアフガニスタンの地で、アメリカの勝利を助けてくれたロシアは、その返礼として何一つ得ることはなく、NATOは東方拡大を続けた。2004年までに、NATO拡大の「ビックバン」はロシア国境沿いのバルト諸国に達していた。

Philip Shortの著書『プーチン』によると、イギリス版NSA(国家安全保障局)にあたるGCHQの当時の長であったFrancis Richardsは次のように述べていた。「われわれは9/11後のプーチンからの援助に非常に感謝していたが、その感謝をあまり示していなかった。私は受け取るだけでなく与えることもしなければならないと人々を説得することに努めたのだが‥おそらくロシアの人々はNATOの問題を通じて彼らは騙されて利用されたと感じていたと思う。そして、それは事実だったのだ。」

9月11日、中国主席の江沢民は、テレビでテロ攻撃を見つめていた。2時間と経たないうちに、彼はブッシュに電話をし、哀憐と援助の意思を示した。

9/11への中国の反応は、アフガニスタン戦争が混迷を極めていくにつれ、複雑さを増していった。中国はタリバンのテロの脅威が国際社会および中国国内に及ぼす影響を懸念していたが、それと同程度に、長引く駐留で近隣でのアメリカの軍事的存在感が高まることを恐れていた。

中国は国境地域で(中国の)同盟国パキスタンが米軍基地の受け入れと移動ルートの提供を強要されていること、パキスタンに完全なアメリカ寄りの傀儡政権が建設される可能性を懸念していた。

戦争が長引くと、中国はタリバンとアメリカのどちらも全面的に支持しない姿勢を取るようになり、タリバンと外交関係を維持した上、武器を提供することすらあった。

しかし2011年9月のあの最初の数時間、中国のリーダーは直ちにアメリカ大統領に電話をかけて援助を申し出ていた。Andrew Smallの著書『The China-Pakistan Axis』によれば、中国は機密情報の共有と地雷除去装置の提供を申し出た上、北京にFBIのオフィスを設置することまで提案した。アメリカは中国からの援助の申し出のほとんどを拒絶したが、しかし、中国は援助を申し出たのだ。

イランもまた、9/11の後、アメリカの支援者となった一人である。アメリカでのテロ攻撃の後、イランは直ちにアメリカ側に付き、タリバンおよびアルカイダに反対する立場を明らかにした。ロシアや中国と同様にアメリカとの関係改善を望んでいた改革派の大統領セイイェド・モハマド・ハータミーは、この悲劇を彼らのパートナーシップと友情を証明する不幸であるがよい機会と捉えた。

イランは国境地域に逃げ込んできた何百人ものアルカイダおよびタリバンの戦士たちを逮捕した。イランは200人以上のアルカイダおよびタリバンの逃亡者たちの身元を特定して国連に文書を提供し、その多くを彼らの出身国に送り返した。送還させられない者たちの多くに対しては、イラン国内での受け入れを提案した。イランはまたアメリカの捜索要請に応えてアメリカが特定したアルカイダ工作員たちの相当数を逮捕し移送した。

アメリカと同盟国がアフガニスタンを侵攻した際に反タリバン戦闘員の多くを提供した北部同盟を取りまとめ、アメリカとの協力関係に置いたのは概ねイランである。イランはその空軍基地をアメリカに提供し、アメリカが撃ち落とされた米軍機の捜索救助活動を行うことを許した。イランの人々はタリバンとアルカイダの容疑者に関する機密情報も提供した。

イランの外交官たちは2001年10月までにアメリカ政府高官と秘密会合を持ち、タリバンを排除しアフガニスタンに新たな政府を作る計画を練った。2001年11月のボン会議で、イランはイラン専門家や『Losing an Enemy』の著者Trita Parsi によれば、アフガニスタンのポストタリバン政権の樹立に「決定的に重要な役割」を 果たしたという。

ロシアと同じく、イランもその返礼は何一つ得ていない。アメリカが彼らに与えたものは「悪の枢軸」のメンバーの地位だけである。 

ロシア、中国、イランというアメリカにとっての大悪魔(arch enemies)たち3人は皆そろって、9/11の後、友情からの支援の手を差し伸べていた。言葉だけではない。彼らの両手は本物の支援策でいっぱいだった。アメリカが差し伸べられた手を取って、Francis Richards がいうように感謝を表し、受け取るだけでなく与えることもしていたら、今日の世界はもう少しましなところになっていたかもしれない。

カテゴリー
社会のしくみ

国家と宗教
ー一神教と多神教ー

神は権威を支える

国家を統治するために不可欠の道具は「正しさ」である。武力でも一時的な秩序維持は可能だが、長きに渡って共存していくことを前提とするのが国家である以上、いずれその正統性を「正しさ」(=法)に求めなければならないときが来る。

強さとは異なり「正しさ」は自然界に存在しないので、統治に使うには裏付けが必要である。それを担うのが権威だ。

縦型の権威がないところに国家がなく、権威が生まれると同時に国家が誕生するのは、そういうわけである。

そう考えると、国家の誕生と同時に歴史(=文字)が生まれ、宗教が生まれるという事実も驚くには当たらない。

直系家族(国家誕生の第一段階である)の場合、権威の基礎は先祖代々家系が受け継がれてきたという事実にあるので、歴史を書き記し後世に伝えることは欠かせない。

そして、直系家族に限らず、権威を自他に対して納得させるには、彼岸から、神に支えてもらうのが一番なのだ。

直系家族の神

世界で初めて都市国家を生んだシュメールの宗教は多神教である。

この点は、同じ直系家族の日本人には分かりやすい。

直系家族システムを支えるのは縦のラインだが、そのラインは一本ではないし、それぞれの線が一人の先祖だけにつながっているわけでもない。

田中さんには田中さんの先祖がいて、鈴木さんには鈴木さんの先祖がいる。

それぞれの家系に、お父さん、おじいさん、ひいおじいさん、ひいおばあさん(女性が権威を担うこともある)・・と沢山の人々が連なって、権威を構成しているわけなので、神様は一人で済むわけがないのだ。

エマニュエル・トッドは直系家族と一神教のつながりを論じたことがある(『移民の運命』198頁以下)。しかし、これはちょっと無理筋だと私は思う。ルター派の強い神のイメージと浄土真宗の阿弥陀信仰に共通性を見出したりするのだが、ドイツは直系家族の成立以前にキリスト教を受容しているからその範囲内でアレンジしただけと思われるし、浄土真宗が阿弥陀を大事にするからといって日本人の信仰が一神教的であるとは到底いえないだろう。トッドは当初ユダヤ人を直系家族と見ていたので(のちに撤回している)、それに引っ張られた面もありそうだ。

勝手に断言しよう。
直系家族システムの権威を支える宗教体系は多神教だ。

間違いない。

帝国を支える神

中東では、直系家族とともに都市国家が生まれた後、都市国家間の争いが絶えない時代を経て統一国家が生まれ、やがて帝国に発展する。そのとき、社会の基層では、共同体家族システムが形成されていた。

国家統一がなされると何となく一神教が生まれそうな感じもするが、おそらくそうではない。

帝国では、王は何らかの形で神格化され、王にその身を投影する神は最高神とされるであろう。しかし、ほかにもさまざまな神、妃や母に当たる女神や、帝国に服属する地域の神などがいて、皆が揃って最高神を崇める、といった形で現実の王の権威を支えるのが典型的ではないかと思われる。

共同体家族の帝国では、頂点に君臨するのは生身の王であり、その人格こそが権威の源泉である。直系家族にも当てはまることだが、すでに確固たる権威が存在する国家において、宗教に期待されるのは補強の役割にすぎない。世俗の権威を凌駕するような強大な神にいてもらってはむしろ困るのだ。

王が君臨する国家と一神教の相性の悪さは、旧約聖書にも描かれている。

唯一神ヤハウェは、預言者サムエルを通じて、イスラエルの人々に、異教の神々への信仰を捨て、ヤハウェのみに心を定めることを要求する(一神教であるゆえんである)。しかし、ヤハウェの要求はそれにとどまらない。ヤハウェは人々に、世俗の王を求めず、ひたすらヤハウェのみに従うことを求めるのである。

聖書が王の君臨する国家をロクでもないものと考え、ほとんど憎しみすら抱いていることは、世俗の王を求める民に預言者サムエルが伝える次の言葉に現れている。

君達を支配する王の習慣(ならわし)は次のようなものだ。彼は君達の息子をとって、自分の為にその戦車に乗り組ませ、王の軍馬に乗らせ、又王の車の前を走らせる。又彼らを千人の隊長、百人の隊長とし、更にその耕地を耕させ、刈入れの労働に服させ、又武器の製造と戦車の装備にあたらせる。君達の息女(むすめ)達をとって、香料作りとし、料理女とし、又パン焼き女とする。王は君達の畑地と葡萄園と橄欖畑のよきものを取り上げ、それを彼の宦官と役人達に与える。又、君達の下僕(しもべ)、婢女(はしため)、又君達の牛のよきものと驢馬とを取って、自分の為に働かせる。彼は君達の家畜の群の十分の一を取り上げ、君達は遂に彼の奴隷となるであろう。君達はその時自ら選んだ君達の王の前に泣き叫ぶであろう。しかしヤハウェは最早その時君たちに答え給わない。 

『サムエル記』(関根正雄訳)岩波文庫、昭和32年、29頁

それでも人々は、自分たちにもよその国と同じように王が必要であると言って聞かない。そこで、ヤハウェは彼らに王(サウル)を与えるが、サウルはヤハウェの命令に背いたことで王位を奪われ、王国の樹立はつぎのダビデの治世まで持ち越されることになる。

一神教を必要とするのは誰か

直系家族システムの国家には縦に連なる権威の軸が存在し、家々の祖先達を思わせる多神教の神々がそのイメージを補強する。

共同体家族システムの帝国には生身の王が君臨し、下位の神々の上に最高神が君臨する天界のイメージが、王の権威の正統性を強化する。

現実世界に確固とした権威を備えたこれらの国家は、決して、世俗の権威を否定するような強大な神を彼岸に生み出すことはない。

ではいったい誰が一神教の神を必要とするのだろうか。

家族システムと国家の対応関係を知った後では、答えは明らかなように思われる。

原初的核家族である。

親子関係兄弟関係国家形態
原初的核家族不定(イデオロギーなし)不定(イデオロギーなし)なし
直系家族権威不平等都市国家 / 封建制 
共同体家族 権威平等帝国
(表1)家族システムの「進化」と国家

原初的核家族とは、関係性を律する規則を持たない「家族システム以前」の状態(あるいはそれに近い状態)を指し、彼らは内発的に国家を生み出すことはない。

それでも、近隣に都市国家やら帝国やらが林立してその勢力が迫ってくると、自身も国家を組織しなければアイデンティティを保つことができない状況に陥るであろう。しかし、彼らの家族システムは国家形成に必要な権威を欠いている。

窮地に陥った彼らは、天上にその権威を求める。
それが一神教の神である。

世俗の人々を導いてくれる強い神、全知全能で唯一絶対の神の姿を彼岸に描き、その支配を受け入れることで、世俗の権威に代替するのである。

以上が私の仮説である。さて、これが実例で証明できるかどうか。
試してみよう。

例証① ユダヤ教

もともと遊牧民であったため、長く未分化な核家族性を保持していたユダヤの人々が、国家(イスラエル王国)を形成するに至ったのは、紀元前11世紀の終わり頃である。

世界史の教科書によると、シリア・パレスチナ地方では、紀元前13世紀頃の「海の民」の進出によりエジプト、ヒッタイトという大国が勢力を後退させ、それに乗じてアラム人・フェニキア人・ヘブライ人(ユダヤ人)が活動を開始していた。

このうち、アラム人とフェニキア人はそれぞれシリアと地中海沿岸に多くの都市国家を建設していた。アラム文字は楔形文字に代わってオリエント世界の多くの文字の源流となり、フェニキア文字はアルファベットの起源となったということでも知られる。そして、彼らの宗教は多神教である。都市国家、文字、多神教‥‥おそらく、彼らの家族システムは直系家族だ。

一方、原初的核家族のユダヤ人には国家がなかった。しかし「海の民」の一派であるペリシテ人との争い等を通じ、ユダヤの人々は王が統率する国家の成立を待望するようになっていた。

その経緯は、旧約聖書の「サムエル記」(「王国の書」の別名もある)で扱われている。

預言者サムエルの下でヤハウェに忠実であった間、ペリシテ人は撃退され、再度イスラエルを侵すことはなかった。やがてサムエルは年を取り、その息子達を後継に任じたが、彼らは父と違って行いが悪く、およそ頼りにならなかった。

人々はサムエルに訴える。

「御覧下さい。あなたは既にお年を召され、あなたの息子達はあなたの歩まれた道を守りません。さあ、どうかわれわれを審(さば)く為、総ての異国の民と同じようにわれわれに一人の王を与えて下さい。」

『サムエル記』28頁

前々項で引用した「王の習慣(ならわし)」に関するサムエルの言葉は、この訴えに対する回答の中で述べられたものである。しかし、人々はそれを聞こうともせず、こういうのである。

「いや、われわれには王が必要です。私達もそうすれば他の総ての国民と同じようになるでしょう。王は私達を審き、先頭に立って出陣し、われわれの戦いを闘ってくれるでしょう」。

『サムエル記』29頁

エジプトやヒッタイトはもちろん、アラム人にもフェニキア人にもペリシテ人にも王があり国家があるのに、ユダヤの民にはそれがない。しかし、彼らだって人並みに、先頭に立って彼らを率いてくれる王が欲しかったのだ。

家族システムの中に権威を持たない彼らは、そのままでは国家を作れない。そこで、必要に駆られた人々は、その彼岸に、強大な神ヤハウェを頂く一神教を作り上げた。

天上の権威を地上の権威に代替することで、国家の建設を可能にしたのである。

と、このように考えると、かなり辻褄が合うように思われる。

例証② キリスト教

キリスト教については、1世紀以後ローマ帝国の版図内で勢いを増し、コンスタンティヌス帝の下での公認(313年)を経て、テオドシウス帝の下で国教とされるに至った(392年)、その「時期」に着目したい。

共和政末期から帝政の初期にかけて(前1世紀~)、ローマはガリア全土(現在のフランス、ベルギー)とブリタニア(イギリス)を征服、ヒスパニア(スペイン)を吸収し、西ヨーロッパ全体を版図に収め、北アフリカとエジプトも支配下に置いた。

ローマ帝国は絶頂期を迎えたわけだが、西と南に向かう版図の拡大は、水面下で、というか社会の最基層、家族システムの層において、後の解体につながる本質的な変化をもたらしていた。

トッド入門講座の方で扱ったが、当初は父系制で共同体的であったローマの家族システムは、「共和政末期から後期ローマ帝国に至る少なくとも6世紀に渡る期間」に一種の退行を見せ、おそらくは征服した核家族地域(西ヨーロッパとエジプト)の影響で、より核家族的なシステムに変化していったのである。

キリスト教が普及し、迫害、公認を経て、ローマ帝国の国教となって定着する期間(後1世紀~5世紀)は、ちょうどローマが西ヨーロッパを版図に収め、家族システムを退行させていく期間と一致する。

未分化の核家族であるユダヤ人の間で生まれたキリスト教が、この時期に帝国版図内の人々の心を掴んでいったのは、やはり未分化の核家族であった西ヨーロッパの人々にとっては、帝国という現実に順応するのに必要な(意識下の)「権威」を、その一神教が彼らに供給してくれたためかもしれない。

帝国中央部の人々にとっては、(家族システムの退行により)薄らいでいく権威を、その一神教が補充してくれるのが感じられたためかもしれない。

もちろん、それでも帝国の分裂を回避することはできず(395年)、西ローマ帝国の方はまもなく滅亡に至る(476年)。しかし、この地に根付いたキリスト教は、おそらく、多くは未分化の核家族であったゲルマン人に権威を貸し与えることで、その国家形成を促すことになるのである(次回扱う予定です)。

例証③ イスラム教

最後はイスラム教である。

唯一神アッラーへの信仰を説いたムハンマド(570頃-632)が、軍事的・宗教的指導者としてイスラム共同体を成立させ、アラビア半島の大半を支配するに至った頃、アラブ人の家族システムは(内婚制)共同体家族システムであった。

しかし、アラブ人が生粋の共同体家族の民であったかというと、決してそうではない。

メソポタミアから見れば辺境であるアラビア半島で遊牧生活を送っていた彼らは、中央部で共同体家族が確立してからも長い間、未分化の家族システムを保っていた。

彼らの共同体家族は、2-3世紀から5-6世紀の間に受容した、比較的新しいものなのだ(システムの新しさは一般にシステムの弱さを意味します)。

後に中東を席巻した内婚制共同体家族というシステムは、アラブ人が(外婚制)共同体家族を受容したとき、叔父方イトコとの結婚を理想とする「内婚制」を付け加えたことで生み出されたものである(比較的男女平等であったアラブ人が女性の地位を確保するために編み出した工夫ではないかというのがトッドの仮説である)。

元々のシステムから来る彼らのメンタリティは、硬質の共同体家族とはミスマッチであり、修正を加えなければ受け入れることができなかったのである。

国家形成に不向きな「システム以前」の状態にあったアラブ人に、たった数世紀の間に、統一国家、さらにはイスラム帝国を建設させるだけの軍事的・政治的統率力を与えたもの、その一つはもちろん共同体家族の伝播であるが、それを補強したのが一神教の受容ではなかったかと思われる。

ムハンマド以前、アラビア半島には国家も大都市もなかったが、アラブの人々は、隣接するササン朝ペルシアとビザンツ帝国から強い影響を受けていた。各地の有力者はササン朝皇帝の「総督」という称号を受けてそれぞれの地を抑え1(後藤明「巨大文明の継承者」『都市の文明イスラーム(新書 イスラームの世界史①)』講談社現代新書、1993年)57頁)、半島の外れ(シリアなど)にはビザンツ帝国の衛星国家的な小国もあったという2(小杉泰『イスラーム帝国のジハード』講談社学術文庫、2016年)27頁)

おそらく、彼らは、ササン朝から共同体家族を受け取り、ビザンツ帝国から一神教を受け取った(キリスト教とユダヤ教は5世紀頃から浸透していた)3(後藤・47-48頁)。一神教の神の権威は、女性の地位の確保のために弱めざるを得なかった共同体家族の父の権威を補い、イスラム帝国の大攻勢を可能にしたのである。

おまけ 韓国のキリスト教

国家を成立させるために必要な権威を代替するのが一神教であると考えると、近代朝鮮(韓国)におけるキリスト教定着の基盤も理解できるような気がする。

朝鮮半島は直系家族が中心と考えられ、もともと国家形成がまったく不得意というわけではない。しかし、共同体家族の帝国が隣接していた朝鮮半島で、直系家族が独立を維持していくことは容易ではなく、朝鮮の王朝はつねに中国の強い影響下にあった。

14世紀以来の朝鮮王朝(李氏朝鮮)は、中国の弱体化により後ろ盾を失い、日本に併合されて滅亡する。その日本もすぐに敗戦し、権力の空白が生まれる。

韓国でキリスト教が広がったのはまさにこの時期(19世紀末~)、誇り高い韓国の人々が国家の中心となるべき世俗の権威を失った時期である。

異国(日本ですが)の侵略下で、世俗の王に代わる寄る辺となって韓国社会を支えたもの、それが一神教の神であった、という仮説は、それなりに説得力があるような気がするが、いかがでしょうか。

今日のまとめ

  • 国家は「正しさ」(=法)の裏付けとして権威を必要とする。
  • 直系家族の権威を支えるのは、家々かつ代々の祖先たちを思わせる多神教の神々である。
  • 共同体家族の帝国では、王は神格化され、多神教の神々が最高神に服する形で王の強大な権威を支える。
  • 確固たる権威を備えた社会は、世俗の権威を凌駕するような強大な一神教の神を生み出すことはない。
  • 権威を欠く原初的核家族が国家形成の必要に迫られたとき、地上の権威の代替として生み出すのが一神教の神である。




  • 1
    (後藤明「巨大文明の継承者」『都市の文明イスラーム(新書 イスラームの世界史①)』講談社現代新書、1993年)57頁)
  • 2
    (小杉泰『イスラーム帝国のジハード』講談社学術文庫、2016年)27頁)
  • 3
    (後藤・47-48頁)
カテゴリー
社会のしくみ

国家の誕生

 

「国家の誕生」は突然に

人類にとって、「人間らしさ」の獲得(約7万年前)に次ぐ大事件は、国家の誕生(紀元前3300年頃)だと思われる。

「社会」はおそらく7万年前から存在していた。農業も紀元前12000年頃には始まっていたとされる。人々は、互いに協力して、狩猟や採集、農耕によって食糧を確保し、子供を育て、外敵から身を守り、老いた者の面倒をみていた。踊りを踊って親睦を深めたり、何か決める必要があるときには話し合いもしただろう。

しかしその何万年かの間に国家が生まれていた形跡はない。つまり、この世界にまだ王はなく、法も、軍隊も、官僚も、宗教も、歴史も存在しなかった。

「人間らしさ」の獲得と同様に、国家の誕生も、漸進的な過程とは違う。人類が少しずつ進歩して法、軍隊、官僚、宗教、歴史を育んだ、というのではなくて、紀元前3300年前後、人類史の時間的尺度からすれば「一瞬」と言って差し支えないある時期に、その全てが同時に生まれたのである。

いったい、何が起きたのだろうか。

国家を生んだのは仲間内の争い

きっかけとなったのは、一つの単純な事実。人口の集中である。

メソポタミアでは、気候の乾燥が河川沿いへの移住をもたらしたらしいが、ともかく、大勢の人が一定の領域内に定住するようになり、土地が不足したのだ。

土地の不足は土地をめぐる争いを生む。
誰の間で?

社会契約説だと、人々は万人の万人に対する闘争状態(ホッブズ)を回避するために自由を差し出す。万人と万人はどっちも、無色透明の一個の個人であることが想定されている。

しかし、土地をめぐる争いが国家の誕生につながったのは、その争いが「万人の万人に対する争い」というよりも、味方同士、もっといえば、身内同士の争いだったからなのである。

国家以前の社会

国家形成以前の7万年の間、人類がどんな社会で暮らしていたかは、大体見当がついている。

夫婦二人と子供の核家族が基本単位。この家族がいくつか集まって、ともに移動し、狩猟や採集や移動農耕を行う一つのグループを形成している(血縁があることが多い)。

出入りは自由、regroupあり、上下関係もない横のつながりだが、原則としてこのグループの範囲では結婚しない(「バンド(band)」とか「小村(hamlet)とかいうが、以下「バンド」で統一)。

その外側にはさらに一定の領域内に暮らす1000人くらいのコミュニティがある。これも横のつながりで、上下関係はない。親戚ではないが、地縁に基づく仲間という感じのつながりで、人々は通常この範囲の中で結婚相手を探すことになる。

彼らが帰属する社会はここまで。この外の人間たちは基本「よそ者」であり、潜在的な敵である。

*なお、国家形成以前の階層化が進んでいない社会でも、すべての人間が平等の個人として観念されるということは決してなく、集団単位で、仲間とそれ以外、味方と敵というくくりを持っていたという。Todd, Lineages of Modernity, pp75-77. 本文の記載もこの本の63頁以下を主に参照。

こういう社会で、法律とか国王とかが必要かといえば、必要ではないだろう。

バンドやコミュニティの絆はゆるいから、内部での深刻な争いは起きにくい。バンド内で揉めたら一方が出ていって、どこか他のバンドに入れてもらえばいい。コミュニティの中に居場所がないという事態はおそらく(ゆるいので)生じないし、どうしてものときは出ていけばいい。

外部の人間との争いは実力勝負だ。
敵を裁くのに法はいらない。
負けた方が滅び、または撤退するのみ。

プレ国家状況

人口集中による土地の不足は、こうした状況を大きく変えた。

同じコミュニティとりわけバンド内というもっとも近しい身内の間で、のっぴきならない争いが頻発するようになったのだ。

農耕社会における土地の不足。それは、親は土地を持っていても、その子供たちが新たに開墾する土地は残っていないということを意味する。

今までは、子供たちは成人したら家を出て、新たに開墾した土地で新たな世帯を営めばよかったのだが、それができなくなるのである。

一家は、親の土地を子供に伝えることを考えるようになる。最初はきょうだいに分け与えることができても、それを続ければ土地は狭小になる。農業効率の低下を避けるには、分割せずに継承させることが不可欠だ。

さあ、誰に継がせるか。

というところで、争いが起きる。それも、一軒や二軒の話ではない。地域一帯のすべての家で同様の争いが起き、バンド内の誰は誰の味方に、誰は誰の味方になったりして何かややこしいことになり、戦争だって起きかねない(というか起きる)。

国家とは、どうやら、こういうときに発生するものらしい。

家族システムの誕生

世界史の教科書には、メソポタミアで都市国家が成立した頃に、文字が生まれ、王、官僚、軍隊、宗教、法が生まれたことが書かれている。

*最古の法典として知られるウルナンム法典は紀元前2000年前後の編纂とされるが、「法典」はそれ以前に通用していた法を整理してまとめたものだから、法そのものはそれよりずっと古いと考えられる。

しかし、国王、官僚制度、軍隊、宗教、法制度、そのすべてを成り立たせるのに不可欠な「権威」は、どこから調達されたのだろうか。

都市国家は誕生するとすぐに都市国家同士で戦争を始めるものだが(これはシュメールでも中国でも日本でも同じ)、都市国家の成立そのものは軍事的征服の結果ではない。軍事力以外のいったい何が、最初の王の誕生を可能にしたのか。

世界史の教科書には書かれていないが、答えは分かっている。
家族の体系化である。

人口の集中により土地が不足すると、親の土地を誰か一人の子供に受け継ぐという仕組みが開発される。これによって生まれる世代間の絆が、システム形成の基礎になる。

最初はルールが曖昧で、親が死んだらまずは親の兄弟に譲り、兄弟が死ぬと子供の世代に、とかってやるんだけど(Z型継承という)、それをやっていると相続争いは止まらない(日本だと南北朝の動乱とか応仁の乱とかって完全にこれだと思う)。

よし、それなら長男に継がせると決めてしまおう。
これで長子相続制が完成だ。

長子相続制(=直系家族)の完成によって、親子をつなぐ縦の絆は、家系をつなぐ一本の線となり、親から子(長子)、子から孫(長子)へと連綿と受け継がれることになる。社会の中に、確固たる縦型の権威の軸が据えられるのである。

直系家族契約による構造化

ここまでくれば、国家はできたも同然だ。

「親の権威を認め、親の権威が長子に受け継がれることを認め、家の繁栄と永続のために結束する」という社会契約が結ばれたことで、ゆるやかな横のつながりでしかなかったバンド、コミュニティの人間関係は、一気に縦型に構造化される。

共通の祖先をいただくコミュニティ内の「家長」が王となり、兄弟の序列に擬えて家と家の関係性が定まり、官僚機構が形成される。

国家以前(家族システム以前)の世界では、争いの解決は実力によるしかないのだが、権威が生まれたことで、法に基づく解決が可能になる。前述の契約に基づき、権威者の裁定に従い、権威者の定めるルールに従うことが、人々の義務となる。

と、まあこんな感じで、最初の国家は生まれたと考えられる。

人類最初の国家を生んだ社会契約は万人の万人に対する闘争状態を回避するために自由を差し出すというような契約ではなく、最初の国家は激しい闘争を勝ち抜いた者が人民を征服することで生まれたのでもない。

農耕社会における土地の不足という非常に具体的な条件の下で、土地の細分化および土地をめぐる争いを回避し、家系の維持(≒人類の生存)を確実にするために、人々は「親の権威を認め、親の権威が長子に受け継がれることを認め、家の繁栄と永続に協力する」という契約を結んだ。

この契約によって地球上に初めて発生した「権威」。これこそが、王、官僚制度、軍隊組織、宗教制度、法制度のすべてを成り立たせ、国家の成立を可能にしたのである。

今日のまとめ

  • 自然状態において人類はグループに分かれ、仲間とそれ以外、味方と(潜在的)敵を区別している。
  • 農耕社会における土地の不足で仲間内での争いが避けられなくなったとき、家族システムの最初の進化が起こり、同時に国家が発生する。
  • 最初の社会契約は「親の権威に従い、親の権威が長子に受け継がれることを認め、家の繁栄と永続のために結束する」という直系家族契約だった。
  • 直系家族の親の権威が、国家の成立に不可欠な権威を提供した。