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社会のしくみ

イギリスのすべて ③革命とその後

目次

革命期のアイルランド

(1)イギリスとスコットランド

イギリスがアイルランドを制圧していったん落ち着きを見せたアイルランド情勢は、17世紀中盤に次なる高揚期を迎える。

アイルランドが、ブリテン島におけるイギリス、スコットランド双方の「地殻変動+民主化革命」期の煽りを受けたこの時期。連合王国の統合のためにアイルランドが果たした役割を理解するためには、スコットランドおよびイギリスの状況に目を向けておく必要がある。

ここでは、それぞれに「地殻変動+民主化革命」期を迎えていたイギリスとスコットランドが、ぶつかり、妥協し、連合王国として統合されていくまでの過程をざっくり説明しよう。

①スコットランドのこだわり:長老派教会

独立王国であることに誇りを持つ直系家族のスコットランドは、イギリスとは異なり、どの時点においても、「国王を倒したい」という願望を持つことはなかった。

この時期の彼らにとって、もっとも重要な課題は、宗教改革によって作り上げた自分たちの信仰を守ることであり、国王やその他の政治勢力との関係性は、この一点によって左右されていく。

イギリスとの関係で、彼らの信仰におけるアイデンティティは、何より、長老派の教会制度に置かれることになった。

②チャールズ1世との対立:主教戦争に勝利!

ピューリタン革命で倒される運命のチャールズ1世(ジェームズ1世の息子)とスコットランドが対立することになったのは、カトリックに傾倒気味だったチャールズが、国教会の共通祈祷書(1559年版:聖職者の式服着用を奨励するなどややカトリックに寄せたもの)をスコットランドの教会にも強要したためである。

スコットランドは、カトリックを毛嫌いしているわけではないし、国王に恨みがあるわけでもない。しかし、彼らのアイデンティティである長老制教会を否定されることには我慢ができなかった。

スコットランド各地で民衆の暴動が起こる。暴動はついには国王軍との間の戦争に発展(主教戦争 1639-1640)。そして、スコットランドはなんと(?)これに勝利する。

国王に勝利して、長老派教会を守り抜いたスコットランドは勢いに乗り、イングランドの内戦に積極的に関わっていくのだ。

共通祈祷書に反対する民衆の反乱の様子(wiki

③ピューリタン革命の開始(1642-)

一方、敗北したチャールズ2世は、今度はイギリス国内のピューリタン(改革派プロテスタントの総称として用います)の突き上げに遭う。

スコットランドへの賠償の支払いのために国王がやむなく召集した議会(いわゆる長期議会 1640年11月-)で、国王派と対立する議会派(革命側です)は、星室庁(国王大権に基づく裁判所)の廃止、枢密顧問官の更迭、大主教の弾劾、国王の忠臣を大逆罪で処刑するなどの「革命」的な急進策を次々と実現。ピューリタン革命のはじまりだ。

近頃、ピューリタン革命は単なる内戦でありいわゆる「革命」ではなかったという言説に接することが少なくないが、やはり、革命というにふさわしい事態ではあったらしい。近藤和彦さんの話を聞こう。

情況をこのように急展開させたのは、スコットランド進駐軍の圧力、これと通じた長老派議員、紙の戦い、ロンドン群衆であった。群衆は議会や宮廷を包囲して要求を叫び、ピム議員は院外の圧力を背景に急進策を実現していった。ほとんど150年後のフランス革命における、言論とサンキュロットの蜂起を背景にした革命派議員を想わせる事態である。

近藤和彦『イギリス史10講』125頁

このとき、スコットランドは、イングランドの議会派と同盟を結んで、国王派と戦っていた。

スコットランドが議会派の側についたのは、議会派が長老派教会の存続を保証し、イギリスでのさらなる(教会制度の)改革を約束したからである。

スコットランドは、自らの影響力を強め、あわよくばブリテン諸島を「長老派教会化」することまで狙っていた。

④議会派との決裂→国王派への回帰→敗北→王政復古

識字率上昇期にあるイギリス・スコットランドの革命連合軍は強かった。

‥‥後半の重要な戦いに勝ち続けたのは議会軍だった。スコットランド貴族の子サー・トマス・フェアファクス大将(1612-71)とケインブリッジ選出議員オリヴァ・クロムウェル中将(1599-1658)の指揮する「ニューモデル軍」の士気、規律、兵站がまさったのである。経済・金融の中心ロンドン市〔シティ・オブ・ロンドン〕を掌握していたのも決定的だった。

近藤・127頁

そういうわけで、議会派は国王軍に勝利。しかし、往生際の悪い国王が再び挙兵したために起きた第二次内戦(1648年:これも議会派が勝利)の後、スコットランドの反対にもかかわらず、チャールズ1世が処刑されるに及んで、スコットランドと議会派は決裂する。

スコットランドは、チャールズ2世(1世の息子)を国王として迎え入れ、戴冠式を執り行うのだ(1651年1月)。

共和国の指導者となったオリバー・クロムウェルは、このスコットランドの動きを共和国への反逆と見て、スコットランドに進軍。

スコットランドは戦いに負けてイングランド共和国に吸収され、独自の教会、議会、法制度とすべてを失うことになるのだが、クロムウェルが死去すると共和国はあっけなく崩れ、王政復古でスコットランドの独立は回復(チャールズ2世が復権)(1660年)。

しかし、王政復古とともに国教会の教会制度(長老制ではなく司教制)が復活したため、スコットランド国民の不満は高まった

スコットランド国民の多くは、正規の教会を無視して、屋外で集会を開いて彼らの信仰を実践したが、国王(チャールズ2世と次のジェームズ2世)はこの集会への参加を禁じ、迫害した。スコットランドは「the Killing Time殺戮時代)」(概ね1679-1688)と呼ばれる陰惨な時代を迎え、宗教弾圧、処刑、反乱とその鎮圧のための戦いによって多くの人命が失われる。

ウィリアムとメアリを新国王に担いだクーデターがイングランドで起きたとき、スコットランドが直ちにこれに乗ったのはそのためである。

⑤名誉革命(1688-89)

ジェームズ2世は、「カトリックと絶対王政の復活を目指した時代錯誤な専制主義者」で、「だから名誉革命で倒された」というのが古典的な筋書きだが、話はそれほど単純ではないようだ。

ジェームズ2世がカトリックの復権を目指したことはたしかである。しかし、当時のイギリスが実施していたカトリック差別は明らかに不当なものだったし、プロテスタントが圧倒的な勢力を誇っていたイギリスで、ジェームズ2世が求めたのはさしあたり「カトリックへの寛容」にすぎないのだから、これを「時代錯誤」と評価することはできない。

ジェームズ2世が、絶対君主政に憧れていたことも事実のようだが、当時はヨーロッパ最大の大国フランスがルイ14世の下で繁栄を謳歌していた時代なのだから、後進国の王としてそれを目指すのが不合理とはいえない。

しかし、もちろん、ジェームズ2世が、ブリテン諸島の「近代」からはじき出されたことには理由があった。

ピューリタン革命で処刑されたチャールズ1世の息子である彼は、宗教うんぬんとはほぼ関係なく、長老派とピューリタンを許すことができなかったのだ。

地殻変動+民主化革命期のブリテン島で、長老派はスコットランド国民のアイデンティティであり、ピューリタン(非国教徒)はイギリスが目指すべきさらなる宗教的・政治的自由の象徴だった。このどちらとも相容れない以上、ブリテン島の将来にジェームズの居場所はない。

ジェームズ2世が、イギリス、スコットランドの両方で王位を追われることになるのは、必然的なことだったと思われる。

⑥名誉革命体制:不安定な統合

しかし、本来、長老派のスコットランドとイングランドのピューリタンは、決して一枚岩ではない

スコットランドの方は、長老派教会さえ存続できればよいのであって、国王にもカトリックにも恨みはない。ひたすら自由を求めて分裂し、政治的にも過激化しがちなピューリタンとの相性は決してよくないのだ。

長老派を主流とするスコットランドと、活性化するピューリタンを抱え込んでいたイングランドが、名誉革命を機に一つにまとまることができたのは、双方がともにジェームズ2世に嫌われ、対立していたからにすぎない。

単に「敵の敵は味方」の論理で糾合しただけのイギリスとスコットランドに、永続的な統合をもたらすには、ジェームズ2世にかわる永続的な「敵」が必要だった。

その役目を務めたものこそ、カトリックであり、アイルランド。もっといえば、「カトリックのアイルランド」だったのだ。

(2)アイルランド

①アイルランドを視界に入れる

ここでは、イングランド、スコットランドがそれぞれ地殻変動(+民主化革命)を起こし、一応の統合を成し遂げるまでの間、人身御供となる運命のアイルランドがどんな経験をしたのかを見ていきたい。

一般に、イギリス革命(ピューリタン革命と名誉革命)は、アメリカ独立戦争(独立革命)やフランス革命、ロシア革命と比べて暴力の程度が低く、人身被害も小さかったと捉えられている。

しかし、それは端的に誤りである。イギリス革命の暴力性が低かったといえるのは、単にアイルランドを視界から外しているからである。アイルランドの被害を計算に入れるなら、イギリス革命は、他の諸革命にまったく引けを取らない、立派な暴力革命なのだ。

②17世紀前半のアイルランド

17世紀中盤、アイルランドの(潜在的)緊張は高まっていた。16世紀後半に「カトリック化」していたアイルランドに、イギリスの植民事業によって大量のプロテスタントが送り込まれたからである。

ただし、暴発に向かうエネルギーの大きさにおいて、カトリックのアイルランドと、イギリス・スコットランドのプロテスタントが対等でなかったことは抑えておく必要がある。イギリス・スコットランドは急速な大衆識字化の真っ最中であったのに対し、アイルランドの方では、まだその過程は始まってもいなかったからだ。

アイルランドが置かれていた緊張状態は、その意味では、受動的なものだった。そんなとき、対岸のブリテン島で、革命が始まるのだ。

③ピューリタン革命とアイルランド

イギリス、スコットランドの双方で、民衆が活性化する。イギリスのピューリタンは「反国王=反カトリック」、スコットランドは長老派(プロテスタント)で行きがかり上「反ジェームズ」だ。

ブリテン島出身のプロテスタントとの関係で、受動的緊張状態にあるアイルランドにとって、この動きは脅威以外の何物でもない。

というところで、アイルランドのカトリックは、先手必勝とばかりに、反乱を起こすのだ(the Irish Rebellion of 1641)。

1641年冬ー42年始め、‥‥ロンドンに届いたのは、アイルランドにおけるカトリック反乱の報である。ピューリタン入植者は復讐的なテロル/ポグロムを威嚇していたが、危機感をもったカトリック住民が予防的に反撃して数千人を殺した。この宗派的対抗テロルが「信仰正しき者数十万人の大虐殺」と報道され、パニックを背景に、ウェストミンスタの議会は鎮圧軍の指揮権を獲得した。

近藤和彦『イギリス史10講』126頁

アイルランドのカトリックによるプロテスタントの虐殺はあった。しかし、歴史の年表に特筆されているのが、アイルランドにおける「虐殺」の事実ではなく、イギリスにおける「大虐殺報道」であることには注意が必要である(近藤和彦『イギリス史10講』114頁の年表)。

基層に溜まるマグマの量の少なさゆえに、アイルランド・カトリックの反乱が、想定される反撃よりも大きくなることは決してない。他方、大量のマグマが沸騰中のブリテン島では、アイルランドの事件は、事実の何倍も何十倍も大きく、誇張して伝えられ、壮大な反作用を生み出していく。

「女性や子供を手にかけている」として残虐性をアピールする当時のプロパガンダ

イギリスのピューリタンは、アイルランドの「先制攻撃」に過剰に反応しーーというより、半ば口実にしてーー反乱鎮圧の名目で軍の統帥権を奪い、国王を倒し、共和国を建設する(ピューリタン革命:共和国成立は1649年)。実権を握ったクロムウェルは、その足で、颯爽とアイルランドの征服(カトリック殲滅)に向かうのである。

被支配者側の先制攻撃を口実とした、支配側による殲滅戦。大変既視感のあるこの戦いが、近代の幕開けを告げる戦いであったことは趣深い。

近代とは何かを知る鍵となるこの戦争は、一般にはほとんど知られていないと思うので、実際の戦いの概要を少し詳しめにご紹介したい。

  • 1649年8月、クロムウェル自身が指揮官として上陸
  • 1649年9月 ドロヘダの戦い(Siege of Drogheda)(「ドロヘダの虐殺」とも)カトリック同盟側駐留軍約3000人とカトリックの聖職者および民間人700-800人が殺害された。
  • 1649年10月 ウェクスフォードの戦い(Siege of Wexford)(「ウェクスフォードの略奪(Sack)」とも)議会軍は降伏交渉の継続中に町を襲い、約2000人の兵士と1500人の民間人を殺害。略奪後、町の大部分に火が放たれた。
  • 以上の2つの事件は、イギリス軍の残虐さを示す事件としてアイルランドの人々の記憶に深く刻まれている。
  • 初期の戦いにおける無慈悲なやり方のために、カトリック同盟側が降伏交渉に応じる可能性が失われ、抵抗が激化・長期化したことが指摘されている。
  • 戦争末期、議会軍は、食糧庫の破壊、銃後で支援していると見られる民間人の強制移住、(勝手に指定した)「戦闘禁止地域(free-fire zone)」で発見された者はすべて敵と見なして生命・財産を奪うといった戦略を取り、民間人に多大な犠牲を出した。
  • 1651-52年(ゴールウェイ陥落が52年)にはほぼ決着するも、ゲリラ戦が続き、イングランド議会が反乱鎮圧を宣言した1653年9月27日をもって終了とされる(その後も散発的な抵抗は長く続いた模様)。
  • 軍医として従軍したWilliam Pettyの試算によると、戦闘、飢餓、疫病等によるアイルランド側の死者は1641年以降で618000人(人口の約40%)。うち40万人はカトリックで16万7000人が戦闘ないし飢餓、残りは疾患で死亡したとする。
  • 現代の歴史家は上の数字には修正が必要と考えているようだが、少なくとも20万以上が死亡したことは確実とされる。
  • 1641年の反乱に関与した者、王党派の指導者、カトリックの聖職者が全員処刑されたほか、約50000人のアイルランド人(戦争犯罪人とされた者を含む)が年季奉公労働者(indentured labourers)(「白人奴隷」とも呼ばれる)として北米や西インド諸島の植民地に移送された。

通常、ピューリタン革命(イングランド内戦)の死者数に、アイルランド同盟戦争(クロムウェルの征服戦争含む)の死者は含まれていない。

アイルランドのアニメ映画「ウルフウォーカー」に出てくるLord Protector(クロムウェルがモデル)。クロムウェルの征服時、狼の絶滅を図ったのも史実のようです

⑤戦後処理:アイルランド近代の基礎

征服後のクロムウェルが行った処分は、イギリスの近代アイルランド政策の基礎となった、といえる。

  • 1️⃣カトリックの体系的差別
  • 2️⃣カトリックからの土地の没収

という骨格は、クロムウェルの死後まもなく王政復古がなり(1660年)、名誉革命を経てイギリスが近代国家に生まれ変わった後も、ジェームズ2世の治世における一時期を除き、基本的に維持されることになったからである。

1️⃣については後に回し、ここでは主にクロムウェル政権下で行われた土地処分を見ておきたい。

  • イングランド議会は、1652年8月にアイルランド処分に関する法律(Act for the Settlement of Ireland 1652)を制定
  • 上述の死刑対象者(1641年反乱の指導者、王党派の指導者、カトリック聖職者)の土地はすべて没収、それ以外の軍の指導者の土地も大部分が没収された
  • 「共和国の利益に常に忠実だった者」以外(要するにプロテスタントの議会派以外→全カトリック)は戦争不参加でもすべて反徒とみなされ、所有する土地の4分の3を没収された
  • 当局には、(死刑対象者以外で)土地の没収処分を受けた者に共和国政府の指定する代替地を与える権限が付与された
  • 実際に代替地に指定されたのはコナハト地方(↓緑の部分)。要するに、カトリックをすべてシャノン川以西のコナハトに閉じ込め、それ以外をプロテスタントの入植地とする政策だ(1653年の法律でカトリックはすべてここに強制移住させられることになった)
  • 以上により、カトリックの保有地の比率は、60%から8%に低下した
  • この比率は、王政復古で20%に上昇(カトリックの王党派が補償を受けたため)したが、名誉革命後には再び10%に低下した

⑥名誉革命戦争ーウィリアマイト戦争

カトリックのジェームズ2世を廃してプロテスタントのウィリアム3世・メアリ2世を王位につけたクーデター事件が「名誉革命」と呼ばれるのは、イギリス(イングランド)では(ほぼ)無血革命だったからである。

しかし、ウィリアム3世とジェームズ2世は、アイルランドの地ではしっかり剣を交えている(ウィリアマイト戦争 1689-1691)。

しかも、その戦争では、ジェームズ2世側で参戦した兵士約15000人、民間人を含めると約10万ともいわれる生命が犠牲となっているのである(wiki)。

アイルランドの近代

ここまで見てきたように、イギリスの近代は、アイルランドの多大な犠牲の上に成立した。

では、イギリスが安定した国家体制を確立し、経済的飛躍を遂げた後には、イギリスとアイルランドの関係は正常化したのかというと、決してそうではなかった、というのが重要な点だと思う。

実際のところ、私たちがお手本としてきた近代イギリスは、その覇権の終盤まで、一貫して、アイルランド差別・排除政策を、体制の中に組み込んでいたのである。

①名誉革命体制

名誉革命は、政治面では制限君主制を確立し、宗教面では、厳格な国教会体制(ピューリタン革命以前)とも、過激なピューリタン体制(革命政権)とも異なる、寛容なプロテスタント体制を確立した事件として知られる。

議会が、権利の章典(1688)とともに、寛容法(1689)を制定したことは、教科書にも書かれているほどだ。

教科書の記載を続けると、1707にはイングランドとスコットランドは合同して大ブリテン王国(Great Britain)となり、ウォルポール(在任1721-42)が首相となる頃には責任内閣制が形成される。その間には、イングランド銀行の創設(1694)、国債制度の整備もあり、近代国家イギリスは、この時期、覇権への道をまっしぐらに進んでいる。

しかし、そもそも、名誉革命が、宗教上の寛容を実現したというのは事実ではない。寛容法は、非国教徒のプロテスタントには信仰の自由(独自の信仰集会の開催など)を認めたが、カトリックはその対象外だったのだ。

それもそのはずで、イギリスは、教科書記載の(覇権への)道のりを歩んでいるその裏で、アイルランド統治においては、クロムウェルの征服で強化されたカトリック差別政策を基本的に踏襲した「刑罰法」(英語では単にPenal Laws)体系を整備していくのである。

近代国家イギリスの確立と同時に、アイルランド・カトリック差別の体系化が進行したという事実は、示唆的だと思う。

アメリカにおいて、排除された先住民と黒人奴隷の存在こそが、「われら人民(We the people)」の統合を可能にしたように、イギリスでは、おそらく、差別され否定された「カトリックのアイルランド」の存在こそが、グレート・ブリテン王国の統合を可能にし、選挙権すら与えられなかった多くのイギリス人(スコットランド人含む)に「帝国の臣民」としての意識を付与したのである。

②アイルランドのアパルトヘイト体制

刑罰法の下でのアイルランド統治は、一種のアパルトヘイト体制といえる。「プロテスタントの優位(Protestant Ascendancy)」と呼ばれるこの体制の下では、アイルランド国民は以下の3種に分類される。

  • プロテスタント(国教徒)支配層
  • プロテスタント(非国教徒):具体的にはピューリタン(イングランド出身)と長老派(スコットランド出身)。刑罰法の下で一定の差別を受ける。(両者の間にも差異があったかもしれないが詳細は(私には)不明)
  • カトリック:最下層 刑罰法の下で基本的人権を否定され全面的な差別を受ける。

刑罰法の下でカトリックがどのような扱いを受けていたのか。まずは井野瀬久美恵先生に概要をご説明いただこう。

1695年から施行されたこれら一連の法律は、カトリックを、陸海軍や法曹界、商業上の活動などから締め出し、彼らの選挙権を与えず、行政上の公職に就くことも許さず、土地の購入も禁じた。カトリックの地主には均等相続が強制され、彼らの保有する農地がどんどん細分化される一方、プロテスタントの地主には、イングランド同様、長子一括相続によって土地保有の温存が図られた。けっきょく、アイルランドの大半の土地が没収され、プロテスタントのイングランド人入植者に分配される。カトリックのアイルランド人を全面的に否定することによって、連合王国は、プロテスタントという自らのアイデンティティを構築していった

井野瀬久美恵『大英帝国という経験』(講談社学術文庫 2017年)103-104頁

私の調査では、差別は以下の項目に及ぶ。

  • 公民権(公職就任権、公職選挙権・被選挙権)の否定
  • 銃器の所持、軍務、5ポンド以上の馬の所持の禁止
  • プロテスタント(国教徒?)との婚姻禁止
  • 教育の制限(カトリックの学校設立・運営の禁止、カトリックが若年者に教育を行うことは学校でも家でも禁止、国外で教育を受けることも禁止)
  • 大学進学の禁止
  • 土地の購入・保有の制限
  • 遺産(土地)相続に関する特別ルールの適用

全て網羅したものではないが、おおよそ上記のような差別を受けたので、大前提として、アイルランドの民衆の社会的上昇はあり得なかった

その上で、農業で生計を立てていく以外にない彼らにとって、実際上、もっとも深刻であったのは、土地相続の問題である。

イギリス法(コモン・ロー)の基本は、男子優先の長子相続制である。アイルランドでもプロテスタント(国教徒?)はこれに従うので、地主の土地は(分割されることなく)そのままの形で子孫に継承される。

しかし、アイルランドのカトリックには、すべての子供の間での均等相続が強要された。元は自作農が中心であったアイルランドの農民は、改宗するか、さもなければ、土地の細分化に甘んじて(事実上土地を失い)、小作人となるしかなかったのである。

一連の差別は、18世紀末(1770年代以降)の「カトリック救済法」と呼ばれる一連の立法により、法的には緩和に向かった。最終的に、カトリックの公職就任権が認められたのは1829年、ダブリン大学(トリニティ・カレッジ)での学位取得に関する制限が取り除かれたのは1873年である(脱宗教化の頃だ)。

それでも、イギリスの植民地として、アイルランド人が虐げられる状況は変わらなかった。最終的に、アイルランドの人々が「二級市民」を脱するには、イギリスと戦い、独立を勝ち取る以外になかったのである。

③グレート・ブリテン王国への編入(1801)

ここで、アイルランドの法的な位置付けを整理しておこう。

1541年以降、アイルランドは、イギリスの王を国王とする「アイルランド王国」として存在していた。

1707年には、イギリスと(本物の独立王国だった)スコットランドが合併し、グレート・ブリテン王国(Kingdom of Great Britain)を形成したが、アイルランドはこの動きには無関係で、「アイルランド王国」のままだった。

それが、1801年になって、おもむろに、アイルランドはグレート・ブリテン王国に編入されるのだ(Kingdom of Great Britain and Ireland)。

これはいったいどういうことなのか。

連合王国の一員になったというと聞こえはよいのだが、この措置は、インド大反乱にショックを受けたイギリスが、インドを帝国に編入して直接統治下に置いたのと同質のものといえる。

併合により、アイルランド議会(1782年に立法権の独立を獲得していた)は閉鎖され、アイルランド選出議員は代わりに連合王国議会に議席を得た。では、連合王国の政府がアイルランド統治の責任を担うのかといえばそうではなく、引き続き、アイルランド総督が担ったのだ。

連合王国への編入は、1798年に起きた大規模な反乱(ユナイテッド・アイリッシュメンの反乱)を鎮圧した直後のことであり、その目的は、直接統治による支配の安定化、そして、対仏戦争のための兵力の確保にあったと見られている。

④ジャガイモ飢饉

兵力確保の準備としてイギリスが行った国勢調査のおかげで、1801年以降のアイルランドの人口は正確に記録されている。

人口の推移を見ると、連合王国への編入が、アイルランドに何をもたらしたか(あるいは「もたらさなかったか」)が如実にわかる。

1806年の人口は約560万人
1841年には、約817万人のピークに達するが、
1851年には約655万人に落ち込む。
1901年には約446万人と、ピーク時の約817万人から60年間で半減。

以後、第二次世界大戦の終了まで、アイルランドの人口はほぼ減少の一途をたどり、現在に至るまで、1841年の人口を回復できていないのである(2023年で約530万人)。

1841年までの人口増と1851年の人口減の原因は同じ。ジャガイモである。

イギリス本国に対する食糧供給地として、生産した穀物(小麦等)をすべてイギリスに送っていたアイルランドでは、ヨーロッパの他地域に先駆けて、18世紀にはジャガイモを食べていた。

19世紀前半の数十年は、フランスとの戦争のために海外からイギリスへの食糧供給が滞った時期で、この時期にアイルランド農業は大いに発展を遂げた。ついでにジャガイモもたくさん採れて、人口が増えたのだ。

ところが、1845年、46年と連続でジャガイモが不作に陥る。それで人口が激減したのである。

飢饉と栄養失調に発疹チフスや赤痢といった疫病の発生、街にあふれる物乞いの群れ。政府が雇用対策として行った公共事業では、日当めあてに道路工事の作業に集まった人たちが、飢えのために次々と亡くなった。埋葬費が貯まるまで死体は埋められず、腐敗するにまかされたため、疫病被害はさらに拡大した。飢饉が収束し始めるのは1851年頃だが、同年の国勢調査では、10年間に162万人の人口減少が確認されている。

井野瀬・99-100頁

地獄絵図である。
でもジャガイモの不作なら仕方ない。
そう思われるでしょうか。

実は、大飢饉の時代、凶作だったのはじゃがいもだけであり、イギリスに輸出された穀物で、当時のアイルランドの人口の2倍を養えたと算定されている。また、イギリス市場の需要の変化に呼応して耕地から放牧地への転換が進行中だったことから、畜産物の生産も増大傾向にあった。飢饉は人災ーー。しかも、放牧地確保のため、借地料を払えなくなった人たちは即刻、強制的に土地を追われた。だが、アイルランドには、彼らを吸収する産業などなかったのである。

井野瀬久美恵『大英帝国という経験』108頁
ダブリンにある飢饉追悼碑

⑤問題を輸出する「帝国」

以後、アイルランドからの人口流出は加速する。それ以前からあったブリテン島や北米への移民がこれを機に激増し、その流れが止まらなくなるのである。

しかし、イギリスはこれを止めようとはしなかった。実はこの時期、イギリスの農村でも人口圧が高まり、まずは都市へ、次いで海外へ、という流れによる人口流出が急増していたが、イギリスはこれも意に介さなかった。

移民という安全弁がなければ、1840-50年代のイギリスとアイルランドの社会がどうなっていたか、想像することさえ難しい

エイザ・ブリッグズ『改良の時代 1783-1867』(1959)(井野瀬・120頁から孫引き)

そう。イギリスにとって、移民は、つねに「イギリス社会にとって好ましくない人たちを排除する手段」(井野瀬・121頁)であり、問題解決の方法だったからである。

イギリスは、1660年代以降は北米に、アメリカが独立した後はオーストラリアに囚人を送った。

社会不安による窃盗の横行、人口過剰による食糧不足、抑圧された人々による反乱。近代イギリスは、こうした問題を政治的に解決する代わりに、一貫して「輸出」することで対処した。「イギリスは断じて帝国ではない」と私が考える所以である。

⑥アイルランドのその後と北アイルランド紛争

アイルランドは、独立戦争、内戦を経て、1922年にアイルランド自由国(完全な独立国ではなくイギリス連邦内の自治領(Dominion))として独立。1949年には、イギリス連邦を離脱した。

独立によって、アイルランドのカトリックがみな解放されたかというと、そうではない。北アイルランドが分離したからだ。

アイルランドが自由国として独立した1922年、北アイルランドは自由国から離脱し、グレート・ブリテン王国の自治領の地位を得た。

前回書いたように、北アイルランド(アルスター)の人口構成は、他の地域と違っていた。「イギリス化」のための大規模な植民事業が行われた結果、支配層(地主階級)だけでなく、庶民の間でも、イギリス出身者(プロテスタント)の割合が高くなっていたのだ。

だからこそ、彼らはアイルランド自由国から離脱することを選んだ。それはよくわかる。問題なのは、しかし、北アイルランドにも、アイリッシュのアイデンティティを持つカトリックが多数住んでいる、ということなのだ。

有権者の多数を占めるイギリス系プロテスタント(ユニオニスト)は権力を独占し、プロテスタントの支配を維持するべく、政治的・経済的にカトリック住民を差別する政策を取り続けた

‥‥北アイルランドは1921年に自治国家として成立した。しかし、その社会は、多数とはいえ3分の2、あるいは地域によっては少数派であるプロテスタントのユニオニスト(イギリスとの連合派)がカトリックを強権的に支配する構造であった。それを支えたのが、

(1)普通警察や武装警察に加えて、独立戦争中に編成された特別警察(なかでもBスペシャルとよばれたパートタイムの武装警察がもっとも凶暴であった)と容疑者を無期限に拘留するインターンメント(予防拘禁)などによる治安体制

(2)比例代表制の廃止、複数選挙権制(普通選挙権に加えて、資産家に認める企業家特権などー公民権運動が始まると廃止)やゲリマンダー(特定政党が有利になる不自然な選挙区割)などによる各地方議会のプロテスタント独占

であった。それによってカトリックの失業率がプロテスタントのつねに2倍以上という職業差別など、従来からあったカトリック差別の社会構造がいっそう極端に固定されてしまった。その基盤にはカトリック住民とプロテスタント住民の宗派対立意識があるが、それがいっそう拡大、固定されたのである。

日本大百科全書(ニッポニカ)「北アイルランド紛争」[堀越智] より一部抜粋

つまり、アイルランドが独立し、イギリスのくびきから(ほぼ)解放された後も、北アイルランドには「プロテスタントの優位」に基づく「アイルランド版アパルトヘイト」が残った(そしてイギリスはこれを放置した)、ということである。

北アイルランド紛争とは、基本的に、この「アパルトヘイト」をめぐる闘争なのだ。

そういうわけなので、北アイルランド紛争は、決して、「北アイルランドにおける宗教対立」の問題などではない。

北アイルランド紛争は、単純に、イギリスのアイルランド支配(アパルトヘイト政策)の問題であり、自らが引き起こしたその問題を「自治」に任せて放置したゆえの問題なのだ。

The front page of the Irish Independent, 31st January, 1972. (血の日曜日事件の新聞記事)

おわりに

いかがでしょうか。

私は、知っているようで知らないことが多く、調査の間、いちいち「ええっ!」とか「きゃー」とか、ジェットコースターに乗っているような気分でした。

フランスと戦って島国となってもまだ権威の軸を持たなかったイギリスは、アイルランドに敵役を押し付けてグレート・ブリテン王国を築き、大量のアイルランド人の血の上に近代化を達成し、アイルランド・カトリックの隔離と差別を国家統合の基礎として、世界に冠たる植民地「帝国」を築きました。

そのイギリスは、現在、後継者たるアメリカ「帝国」の崩壊を前に、ウクライナを表に立てて対ロシア戦争を仕掛け、イスラエルによるガザ・レバノン侵攻を猛烈に支援し、反イスラエル闘争を固い決心の下に遂行するイエメンと戦争をしているわけですが、この顛末は、いかなる意味でも、偶然とはいえない、と私は思います。

いま世界で起きていることは、イギリス・アメリカに率いられて私たちが歩いてきた近代の道のりの、かなり必然に近い帰結であるに違いないのです。

・  ・  ・

「でも、ねえ‥‥」

ため息をついたところで、話は本編の方に戻ります。

しかし、彼らだって、決して、好きで「抗争と掠奪」に明け暮れているわけではないはずです。そのことは、150年間、西欧人になろうと努力し続けた私たちが一番よく知っている。私たちがなんか知らないけどつい長いものに巻かれて周囲と同じように行動してしまうように、彼らは彼らで、なんか知らないけど、自由を叫び、争い、奪ってしまうのです。

「トッド後」の近代史3ー③

どうして、核家族が先頭を走ると、世界はこんなふうになってしまうのか。元の道に戻って、探究を続けましょう。

主な参考文献

  • 近藤和彦『イギリス史10講』(岩波新書、2013年)
  • 木畑洋一・秋田茂編『近代イギリスの歴史』(ミネルヴァ書房、2011年)
  • 川北稔・木畑洋一編『イギリスの歴史』(有斐閣アルマ、2000年)
  • 井野瀬久美恵『大英帝国という経験』(講談社学術文庫、2017年)
  • 山本正『図説 アイルランドの歴史』(河出書房新社、2017年)
  • 佐藤賢一『英仏百年戦争』(集英社新書、2003年)
  • エマニュエル・トッド『我々はどこから来て、今どこにいるのか? 上』(文藝春秋、2022年)
  • エマニュエル・トッド『家族システムの起源Ⅰ ユーラシア 下』(藤原書店、2016年)
  • エマニュエル・トッド『新ヨーロッパ大全Ⅱ』(藤原書店、1993年)

カテゴリー
社会のしくみ

イギリスのすべて ②イギリスとアイルランド

目次

はじめにーイギリス史の根本問題

「トッド後」の視点でイギリス国家史を見る場合、根本的な問題は、「イギリスには、結局、権威の軸が生まれなかった」ということである。

ヨーロッパの国家の多くは、原初的核家族であった時代に建国しているが、建国後には家族システムの進化が起こり、部分的にであっても、直系家族の地域が生まれている。中には、イタリアやポルトガルのように、ローマないしイスラムの遺産として共同体家族を備えている国もある。

フランス、ドイツ、ついでに日本の場合、歴史の基本構造はこうである。

外部から権威を借り受けて建国:ヨーロッパの場合はローマ帝国の遺産であるキリスト教(一神教の教えと教会制度)、日本は中国の影響(中華帝国皇帝と並び立つ者としての天皇の権威)のおかげで建国を成し遂げる。

直系家族が生成:直系家族の生成とともに国内に自前の権威が生成してくると、しばし、借り物の権威と地物の権威の綱引きが続く。

地物の権威が勝利し、その国の国柄にあった国家が完成:ドイツと日本の場合は直系家族の国家が、フランスの場合は国内の直系家族と平等主義核家族の間の争いを経て平等主義核家族の国家が成立。

イギリスの場合はどうか。

イギリスも、建国に際してキリスト教の権威を借り受けている点は同じである(5️⃣6️⃣)。

フランス、ドイツ、日本では、この後、国内で(内発的に)直系家族が生成したが、イギリスの場合、直系家族の権威もまた、国の外から、「征服」を通じてもたらされた(ノルマン・コンクエスト6️⃣)。

フランス貴族のノルマン人が持ち込んだ萌芽的な直系家族はイギリスには定着せず、上からの押しつけに対する反動で、自由(権威なし)にこだわる頑なな核家族(絶対核家族)を生成する。

結局、最後まで、イギリス国内に権威の軸が生まれることはなかったのだ。

したがって、家族システムから見る限り、イギリスはアメリカとまったく同じ。同じメンタリティである。

ところが、アメリカとは異なり、イギリスには、建国から数えれば1000年、テューダー朝の成立から数えても500年の歴史がある。

そう。ここがいちばんの謎なのだ。

いったい、彼らは、この500年間、どうやって権威の軸もなしに、王国をまとめ、連合王国に発展させ、イギリス「帝国」を築き上げ、そして‥‥ 成熟したヨーロッパの大国として一定の存在感を維持するなどという偉業を成し遂げてきたのだろうか。

イギリスの地殻変動ー民主化革命と一体化

家族システムが未発達の時代に「借り物の権威」によって建国した国は、国の内部で家族システムの進化が起き、かつ、識字化による(一定の)民度の上昇を見たとき、システム改変のための地殻変動期を迎える、というのが私の依拠する仮説である。

日本の場合には、南北朝の動乱(1336-1392)と応仁の乱(1467-1477)の辺り、ドイツの場合には宗教改革(1517-)から三十年戦争(1618-1648)の辺りがそれに当たると私は見ているが、イギリスの場合はどうだろう。

イギリスにおける絶対核家族の生成時期を、トッドは1550-1650年の100年間に求めている(『我々はどこから来て、今どこにいるのか』上・318頁)。

イギリスにおけるこの100年間は、イギリスで識字率が急上昇し、成人男性の50%を超えていく時期でもある。つまり、イギリスの場合、家族システムの生成に伴う地殻変動の時期と、近代化(識字率上昇による民主化)の時期が、ほぼ同時にやってくるのだ。

多くの国が二度経験した激動を、彼らはいっぺんに経験する。宗教改革と近代化革命が連続してあるいはほぼ一体化した形で発生するのもそのためだ。

しかしともかく、彼らはこの100年の地殻変動と革命を通じて、近代イギリスの基礎を確立することになる。

イギリスの宗教改革ー国教会とは何か

Hans Holbein the Younger – Portrait of Henry VIII 1537

絶対核家族が生成しても、識字率が上がっても、それでもイギリスに権威の軸は存在しない。この点を頭に入れておくとよくわかるのが、イギリスの宗教改革である。

国教会を設立するのはヘンリー8世だが、当時のイギリス国家の課題を理解するため、バラ戦争に勝ち抜いて王位に就いた先代ヘンリー7世から話を始めよう。

テューダー朝の創始者、ヘンリー7世(在位1485-1509)の時代には、王権の基礎固めこそが最重要課題だった。それには、国内での権力基盤の強化のほかに、国際的承認を得て王朝の権威を高め、ヨーロッパの一君主としての地位を確立することが欠かせない。ヘンリー7世は外交に奔走し、近隣の国々との友好関係の樹立に努めた。

次のヘンリー8世(在位1509-1547)の時代になると、目標が一段階上がる。自らを「ヨーロッパの隅に位置する王国の小さな君主」と述べた彼は、その「小さな君主」を脱し、大国の君主と並び立つことを目指した(木畑洋一・秋田茂『近代イギリスの歴史』(ミネルヴァ書房、2011年)西川杉子]32頁)。

大国と同盟を組んで喜んでいる場合ではない。ローマ教皇や諸外国から自立して、世界の中心に立たなければ。

ヘンリー8世は、イギリスの宗教改革を「上訴禁止法」の制定(1533年)からスタートした。この法律は、国内の「契約や婚姻などをめぐる係争、訴訟」について、ローマ教皇やその他の国外の法廷に上訴することを禁じる法律で、直接的な目的は、ヘンリー8世の最初の妻キャサリンとの離婚および愛人アン・ブーリンとの再婚について、ローマ教皇の介入(による妨害)を防ぐことにあった。

しかし、離婚問題がなかったとしても、やがて地殻変動期を迎え、絶対核家族に相応しい国家の建設に向かうイギリスにとって、ローマ教会からの独立は、いずれは達成しなければならない課題であったはずだ。

その〔上訴禁止のー辰井注〕根拠として、イングランドを「至上の長にして国王」によって統治された「インパイア」とする法文には、イングランドにおける聖俗両面にわたる最高の主権は国王にあることを承認させ、ローマ教皇や神聖ローマ帝国皇帝といった国外の権威を拒絶する強固な意志が表れている。つまりこの議会制定法は、ローマ教皇を地上における「神の代理人」とする超国家的なキリスト教共同体からの、主権国家イングランドの独立宣言とみなすことができるだろう。翌年には改めて、国王を「イングランド教会の地上における唯一最高の長」とする議会制定法、すなわち「国王至上法」が成立し、イングランドの教会のローマ教皇からの独立が確定した。

木畑洋一・秋田茂『近代イギリスの歴史』(ミネルヴァ書房、2011年) 33頁[西川杉子]

しかし、イギリスには問題があった。

イギリスらしい国家に生まれ変わるため、「借り物の権威」は脱ぎ捨てなければならない。しかし、フランスやドイツと異なり、イギリスには、その代わりとなるはずの「自前の権威」は育っていないのだ。

イギリスの宗教改革では、国王を首長とするとするイギリス国教会という制度が作られ、約500年の長きにわたって生き続けることになった。

イギリス国教会の組織構造や典礼は基本的にローマ教会と同じで、その実態は「名称と責任者を変更しただけのローマ・カトリック教会」である。

「自由のみ」(権威なし・平等なし)の絶対核家族が成立し、それに合わせた国家体制の変革が完了してもなお、権威的な教会制度が生き残ったのはなぜか。

答えははっきりしていると思う。ローマ・カトリック教会が構築してくれた縦型のヒエラルキーに基づく行政機構、そしてそれを支える「疑似権威」なしに、国家は立ち行かなかったからだ。

テューダー朝とステュアート朝のイギリスについて、トッドは次のように指摘している。

‥‥テューダー朝とステュアート朝の国家は「強い国家」であった。「強い国家」の社会保障システムが、絶対核家族の機能を下支えしていたのだ。ただし、その国家には官僚機構が欠けていた。ヨーロッパでいち早く機能した国家ではあったが、実際には大概、議会を通して中央集権的に国法を発布するだけに甘んじ、それらの法を各地域に強制する手段は持っていなかった。救貧法が教区ごとに具体化されたのは、地元のほぼ自主的な意志を基礎にしてのことだったのであり、その管理運営に当たったのも地域の上層農民であった。

302-303頁

トッドは「地域の上層農民」のみに言及しているが、救貧法の運用にあたって教区教会が大きな役割を果たしたことは疑いない(こちらに関連する記述がある)。実際、教区の司祭は、住民の洗礼、結婚、埋葬を記録する、一種の行政官でもあったのだ(近藤・101頁)。

直系家族が定着したドイツやスコットランドでは、システムの再編にあたって、ローマ・カトリック教会に由来する行政秩序(教会組織)をいったん放逐し、新たな(自前の)秩序に置き換える必要があった。

反対に、直系家族が定着せず、生成もしなかったイギリスは、近代国家に生まれ変わるその時にも、ローマ・カトリック教会由来の権威構造にしがみつくしかなかったのだ。

絶対核家族の100年

国教会の樹立によって、イギリスはローマ・カトリック教会からの独立を果たしたが、これは「彼ららしい国づくり」の第一歩にすぎない。

絶対核家族(自由のみ)生成中のイギリス、宗教的情熱と社会参加への欲求が渾然一体となったマグマが煮えたぎる基層の上で、権威主義的な教会制度とそれに支えられた政体を、そのままの形で維持することができるはずはないのだ。

というわけで、以後の100年間、イギリスは本物の革命期を迎え、2つの事項を成し遂げる。

  • 1️⃣近代的な政治・宗教体制の確立(立憲君主制・プロテスタントの信仰の自由(寛容))
  • 2️⃣グレートブリテン島の統一(Kingdom of Great Britainの樹立 イングランドとスコットランドの合併)

しかし、この2つの事業は、いずれも、絶対核家族のイギリスには決して容易ではなかったはずのものである。順番に確認していこう。

(1)政治・宗教の近代化

いわゆるピューリタン革命(1642-1660)で、革命勢力は、チャールズ2世を処刑して共和政を樹立し、国教会を廃止する。

君主制および(主教制の)国教会制度は、王政復古(1660)により復活するが、名誉革命(1688)に際して、国王は「権利の宣言」を承認することで議会の権限および王権の制限を認め(立憲君主制)、国教徒以外のプロテスタントの信仰の自由も認められた(寛容法)。

この時点で、穏健な君主制寛容な教会制度が成立。やがて君主は「君臨すれども統治せず」となって議会主権が確立し、脱宗教化とともに宗教は問題でなくなって一件落着(近代化の完了)、というのが教科書的な筋書きである。

イギリスは、国王と国教会という「疑似権威」の存在感を低下させることで近代国家を作ったわけだが、ここに謎が潜んでいることはすでにお気づきと思う。

既存の権威を否定するのはよいが、イギリスに、新たな権威は生まれていない。その状況で、どうやって、新たな行政機構を構築し、また、近代国家に生まれ変わるための求心力を得たのだろうか。

(2)グレート・ブリテン島の統一

現在のイギリスの正式名称は、グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国(United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland)。イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドという4つの国(country)が同じ一人の王の下に統合された連合王国という建付である。

この基礎となったのが、1707年のブリテン島統一Kingdom of Great Britainの成立(イギリスとスコットランドの合併))だ。

私は、イギリスがブリテン島を統一できたこと自体は、「謎」とは思っていない。

イギリス、ウェールズ、スコットランド(の主要部分)は、いずれもローマ帝国の属州であった地域であり、ローマ由来の土地制度、ローマ・カトリック教会由来の教会制度(=行政機構)を共有している。

ローマの遺産を足がかりに成立させた国家で、新たな秩序体系の基盤となりうる「地物の権威」も発生していないのならば、これらの地域が一つにまとまるのは、ごく自然なことなのだ。

©️Shogakukan

ただし、難所はあったと思う。それが、(とくにこの時期の)スコットランドだ。

前回書いたように、この時期か、あるいは少し前に、スコットランドの西部には、直系家族が生成していた。

しかも、スコットランドは、やはりイギリスと同時期(か少し早め)に、識字率急上昇の時期を迎えている。

イギリスの「地殻変動+民主化革命」期は、同時に、スコットランドの「地殻変動+民主化革命」期でもあったのだ

ブリテン島の中央部で、異なる家族システムに立つ若者たちの自己主張が衝突する。この時期、宗教的・政治的に独自の存在感を放っていたスコットランドの統合は、イギリスにとって、決して簡単ではなかったはずなのだ。

・  ・  ・

「これらの謎を解く鍵は、アイルランドにある。」というのが、私の提示する仮説である。

全体像を把握するため、少し遡って、イギリスとアイルランドの関係を確認していこう。

イギリスのアイルランド支配

(1)中世

①ローマ教皇の勅書が発端に(1154年)

イギリスのアイルランド支配の発端は、1154年にローマ教皇がイングランド王にアイルランド領有を認めたことにある(教皇勅書)。しかし、このとき、アイルランドに対して野心を持っていたのは、イギリスではなく、ローマ教皇であったようだ。

この時期は、ヨーロッパにおけるローマ=カトリック教会の権威が最高潮に達しようとしていた時期である。

ローマ教会の影響はアイルランドにも及び、12世紀前半にはちょうどアイルランドが教皇の許可の下で教会組織を整備したところだったのだが、その教会改革が完成した直後に、教皇はイングランド王にアイルランド領有を認める勅書を出したのだ。 

明確な理由は不明のようだが、この改革を通じてアイルランドの教会が独自の発展を遂げている事実を知り、ローマ=カトリック教会の支配を強めるためにイングランド王の助けを借りようとした、というのが考えられる筋書きの一つである。

しかし、ヘンリー2世の方は、この件には関心を持たなかったようで、彼は教皇からの勅書を放置した。20年後に、彼は自ら兵を率いてアイルランドに赴くが、それは、ヘンリーの政敵がアイルランドに拠点を築いていたからであって、教皇とはまったく関係がない。

②適当なアイルランド支配

ただし、この時期のイギリス国王はやる気がなかった(百年戦争やバラ戦争でそれどころではなかった)。イギリス国王は名目上アイルランド太守(Lord of Ireland)を兼ね、イギリスからの植民もそれなりに行われた。しかし、‥

イングランドからの渡来勢力がアイルランド全島を支配下に置くことはついになかった。追い込まれたゲール氏族勢力も、しだいにアングロ=ノルマンの軍事技術を習得、スコットランドから流入してきた傭兵集団をかかえて軍閥化し、徐々に奪われた土地を奪回していった。中世末期には、アングロ=ノルマンの子孫で自らのイングランド系であることを自覚する領主が支配する地域(「イングリッシュ・アイルランド」)‥ゲール氏有力氏族ーアングロ=ノルマンの子孫でありながらほとんどゲール化していた領主も含むーが支配する地域(ゲーリック・アイルランド」の面積は、ほぼ半々になっていた。なお、前者が優勢だったのはレンスタとマンスタ、後者が優勢だったのはアルスタとコナハトである。

川北稔・木畑洋一編『イギリスの歴史』(有斐閣アルマ、2000年)40頁[山本正]

1450年の時点で、イギリス系の領主が支配した土地は、アイルランド島のせいぜい半分(↑)。

そのイギリス系領主たちも王権から自立した勢力となっており、王権による支配が及んだのは「The Pale」と呼ばれるわずかなエリアだけだった。しかも、国王はその支配を総督(イギリスの大貴族が務めた)に丸投げしていたので、イギリス国王の支配は及んでいないようなものだったのだ。

(2)テューダー朝(1485-1603)

①アイルランドはなぜカトリックになったか

イギリスがアイルランド支配に本腰を入れて取り組むのは、ヘンリー8世(テューダー朝2代目)以降である。

国内における集権化の推進と並行して、イギリスはアイルランド支配の実質化に向けて改革を進める。これに、元々の支配層や、元々の支配層の下で暮らしていた人々が反発し、16世紀のアイルランドは「反乱の世紀」といった趣になっていくのだ。

しかし、イギリスとアイルランドは、なぜ、そんなに激しくぶつからなければならなかったのだろうか。

その答えは、一般的には、宗教の違いに求められているように思う。こんな感じで(↓)。

全ヨーロッパでプロテスタント(宗教改革勢力)VS カトリック(対抗宗教改革勢力)の抗争が過熱する中、宗教改革の只中にあり、国教会体制を堅持しなければならないイギリスは、国内のカトリック勢力に対しても強行路線を取らざるを得なくなる。アイルランドがカトリックの地盤であり、対抗宗教改革側に肩入れする以上、アイルランドがイギリスの「敵」となり、制圧の対象となっていくのは、やむを得ないことだった。

しかし、アイルランドは、本当に、最初から「カトリック」(対抗宗教改革勢力としての)だったのだろうか。調べてみると、この点には、大いに疑問の余地がある。

アイルランドは5世紀以来のキリスト教地域で、独自のケルト教会を発達させていたことで知られる。12世紀の教会改革で司教区が整備され、修道院も独自のものから大陸由来の新たな修道院(シトー会)に代えられていたが、彼らが抱いていた信仰が、宗教改革以前の素朴なカトリックであったことは疑いない。

しかし、素朴なカトリックと「対抗宗教改革勢力としてのカトリック」は異なる。イギリスが踏み込んでくる前のアイルランドに、宗教改革の影響は及んでおらず、彼らが「対抗宗教改革勢力」となる機縁はなかった。

彼らがヨーロッパの対抗宗教改革勢力と結託し「プロテスタントの敵」に育っていくのは、16世紀後半なのだ(↓)。

1540年代にアルスター地方ティローンのオニール族のもとを訪れたイエズス会士はまったく冷淡な対応しか得られなかったという。こうした地域で対抗宗教改革派が地歩を築くようになるのは、統治改革に対する既存勢力の抵抗が激化する世紀後半になってからであった。カトリックの対抗宗教改革が、こうした改革抵抗勢力に、王権=プロテスタントに対する反抗の正当性を付与したのである。

山本正『図説 アイルランドの歴史』(河出書房新社、2017年)40-41頁

なるほど‥
つまり、こういうことだな?

アイルランドがカトリックであるのは、イギリスがアイルランドを同化・統合できなかったことの結果であり、その原因ではない、と。

イギリスは、アイルランドを同化・統合するのに失敗し、その結果、アイルランドは強固なカトリックに育っていった。

近代化の開始からその覇権が終盤に差しかかるまでの約300年間、イギリスの支配下で、カトリックのアイルランドは制圧され、差別され、とんでもない冷遇を受けていくのだが、忘れないようにしよう。

アイルランドを「カトリック=敵」に仕立て上げたのはイギリスである。その上で、イギリスは、アイルランドを差別・排除し続けて、連合王国の統合の礎としたのである。

②アイルランド王国の樹立:キルデア伯の反乱

1541年、イギリスでは「イギリス王をアイルランドの王と定める法律」が制定された。

わかりにくいが、要するに、以下の2点を定める法律だ。

  • 1️⃣アイルランドを王国にする
  • 2️⃣イギリス王がアイルランド王を兼ねる

イギリスは、それまでイギリス王を宗主(Lord)とする一種の植民地でしかなかったアイルランドを、「アイルランド王国」に格上げしたのである。

王国への「格上げ」の契機となったのは、イギリス王権による支配の強化に反発するゲール系旧支配層の反乱だった(キルデア伯の反乱:Kildare Rebellion 1534)。

反乱の鎮圧後、アイルランドを「王国」に格上げしたのは、一つには、アイルランドとイギリスをともに一人の国王を頂く同君王国とすることで、ゲール系を含むアイルランドを、敵ではなく、仲間として受容することを企図したからである。

したがって、もし、彼らの企図が成功し、真に仲間として受容・統合できていたなら、アイルランドは「カトリック」に転じることもなく、現代に至るまで、グレートブリテン連合王国の一員であり続けていただろう。

しかし、イギリスはその試みに失敗する。彼らの「改革」は、地域を混乱させ、不信感を招き、反乱を誘発。結局は、軍事侵攻という方法で、アイルランドを制圧するしかなくなってしまうのだ。

キルデア伯の側について戦ったのはこんな感じの人たちだったそうです(wiki)

③デズモンド伯の反乱と九年戦争

旧領主層による反乱のうちの最後かつ最大級の2つを(主に被害に着目して)紹介しよう。

【反乱の背景】

キルデア伯家の取り潰しの後、イギリスから派遣された歴代総督の下で行われた改革の基本は、「降伏と再授封(surrender and regrand)」。要するに、領主に領土を差し出させ、国王への服従を誓った者には改めて封土として授与する。これによって、独立勢力であった領主たちを、王の直臣に変身させるという政策だった。

もう一つの重要政策は彼らの武装解除である。自立した政治勢力であった彼らは、それぞれ兵力(私兵団)を有する軍閥だった。彼らの兵力を奪うため、新設の地方長官職に兵力と警察権(法と秩序の維持)を集中させ、領主らには(私兵の保持を禁止した上で)その補助者の役目を与える策が取られた。

ゲール系の領主たちは、こうした施策に頭から反対したわけではなく、か強固なゲール系の地盤であったアルスター地方やコナハト地方でも、有力氏族が「降伏と再授封」の申し出に応じ、地域の伯に任じられる例は少なくなかったという。

しかし、こうした改革が挫折し、結局は「反乱→鎮圧」つまり「征服」に終わったのは、改革によって既得権や名誉ある地位を奪われることになる層への配慮が乏しかったことに加え、歴代総督の改革方針が場当たり的で守備一貫せず、改革に応じた領主たちとの間にさえ、信頼関係を築くことができなかったためである

そんなイギリスの「改革」が、アイルランド社会をいかに動揺させ、イギリスがそれをいかに粗暴なやり方で抑えつけようとしたかは、反乱の鎮圧のために用いられた暴力の激しさと、その死者数でわかる。

1570年のアイルランド

【デズモンド伯の反乱】

一つ目はデズモンド伯の反乱(1579-83)。アイルランド南西部のマンスター地方で起きた反乱だ。

反乱鎮圧のために派遣されたイギリス軍は反乱軍を虐殺し、わざと、武器を持たない市民や女性、子供を攻撃し(恐怖に陥れるための意図的な作戦)、一帯の畑を焼き払った

スマーウィック(Smerwick)の戦い(1580)で虐殺された約600人を悼むモニュメント(1980年)

三年間に渡る焦土作戦の影響で約30000人が餓死(1581年11月-翌4月の推計)。戦争終結後も継続した飢餓・疫病によって、1589年までにマンスターの人口の約3分の1が死亡したと推定されている(wiki)。

【九年戦争(ティロン伯の反乱)】

続いて、今度は北部アルスター地方の反乱(ティロン伯の反乱)から始まり、アイルランド全土に拡大した九年戦争(1594-1603)では、10万人のアイルランド人が死亡した(wiki 兵士と民間人の合計。民間人のほとんどは飢餓によるものとされる)。

④征服完了と植民事業

デズモンド伯の反乱、九年戦争の鎮圧によって、イギリスは、アイルランドの征服を完了した。反乱に関与した領主の領土はすべて接収され、国王の直接支配下に置かれたからだ(↓)。

濃いサーモンの部分が1450年までのイギリス系支配部分、薄いサーモンが1603年です。九年戦争終了時(1603年)までに全土がイギリスの支配下に入っていることがわかります。(緑のストライプ部分の話は後で出てきます。なお、ストライプ部分の説明に「Catholic Land Ownership by the Act of 1552」とありますが「1652」の誤りです(the Act for the Settlement of Ireland))

国王は、接収した土地を、ブリテン島からの植民事業にあてた(↓左の地図の方が正確らしいが右の図の方が興味深いので併せてご覧ください(wiki))。

いわゆる北アイルランド問題もまた、この時期の植民事業が遠因を作ったといえる。

現在、9県のうちの6県がイギリス(連合王国)に、3県がアイルランド共和国に属しているアルスター地方は、元々は、強固なゲール系の地盤だった。だからこそ、イギリスは「イギリス化」を推し進めるべく、この地域で大規模な植民事業を実施した(アルスター植民)。

ピンクの部分が北アイルランド(連合王国の一部)、緑の部分がアイルランド共和国

アルスターには、まずは「植民請負人(Undertakers)」として選抜された者(主に資力のある中産階級)が土地の分与を受け、地主として入植し、のちに彼らの土地で働く農民(借地農)が入植した。アルスターに特異的なのは、この、借地農の入植者の存在である。

アルスター以外の地域の人口は、ごく少数の支配層(=イギリス系(国教徒))と圧倒的多数の被支配層(=アイルランド系(カトリック))によって構成されていた。支配層の地主と被支配層の借地農の間にはもちろん分断があったが、被支配層の庶民は同じアイルランド系のカトリックだったのである。

これに対し、アルスターには、ブリテン島(とくにスコットランド)から大量の借地農が入植したため、被支配層の中に、イギリス系(国教徒・非国教徒のプロテスタント)とアイルランド系(カトリック)が混じり合うことになる。この庶民の間の分断が、(のちの)激しい紛争の土壌となるのである。

ゲール系貴族の亡命---伯の逃亡(Flight of the Earls:1607)

九年戦争の終結からゲール系貴族の領土接収までには実は少し時間が空いている。九年戦争の終了は1603年3月30日(降伏)、ちょうどその直前の24日にエリザベス1世が死亡していた(エリザベスの死を、国王軍はまもなく知ったが、反乱軍のゲール系貴族らはまだ知らない)。国王の死という非常事態、国王軍の司令官を務めていた貴族(マウントジョイ卿)はすぐにでもロンドンに駆けつけたかった。そのために、とりあえず比較的寛容な条件を提示して、早期の降伏を促したのだ。

しかし、この「とりあえずの寛容策」はその場限りの効果しかもたらさない。結局、イギリス王室とゲール系貴族の間に融和は得られず、双方の疑心暗鬼が続き、4年後、貴族らの反乱を疑った国王は彼らをロンドンに召喚。貴族たちはロンドンに行く代わりに大陸ヨーロッパに亡命する(1607年:亡命の理由については諸説あるようだ。この筋書きは英語版wiki)。これが「伯の逃亡」(伯爵の逃亡とも)と呼ばれる事件で、実際に領土が接収されたのはこの後のことだった。

この「伯の逃亡」と翌年のオドハティの反乱(ゲール系の族長オドハティは九年戦争で一貫して王権側に立っていたにもかかわらず伯の逃亡後に不当な扱いを受けるようになったことに耐えられず蜂起)を機に、ジェイムズ1世の姿勢が硬化。大規模な植民事業(アルスター植民)によるアイルランドのイギリス化が目指されることになる。

といったことから、「伯の逃亡」は、ゲール系の旧秩序の終焉と完全なイギリス植民地時代の始まりを告げるアイルランド史上の最重要事件の一つと捉えられているようです。

⑤アメリカ植民へ

16世紀後半に活躍した有名人(イギリス人)に、ウォルター・ローリー(1554-1618)という人がいる。

こんな絵が描かれるほどの有名人。
The Boyhood of Raleigh(ローリーの少年時代)By John Everett Millais(1870)

彼は、デズモンド伯の反乱を鎮圧した功績によりマンスター地方の土地を与えられ、故郷(デヴォン)の人々を植民させる試みを行った。

エリザベス1世の寵臣として出世を果たしたローリーは、女王に北米植民を進言し、女王の勅許を得て、自ら出資者となって今度は北米にデヴォンの人々を入植させる計画を実行する(1586年)。

彼が開拓した地につけた名前が、ヴァージニア。

アイルランドの統合に失敗し、統合をあきらめ、植民地支配の対象としたイギリス。イギリスは、その延長線上で、そのメンタリティのまま、世界に進出していった。

「イギリスのすべて」を知るために、アイルランドがいかに重要か、ご納得いただけるだろうか。

‥‥イギリス帝国の起源と海外への膨張の契機は、ブリテン島の西に隣接するアイルランド・アルスター地域(現在の北アイルランド)に対する、イングランドとスコットランドからの入植・定住が本格化した17世紀前半に求めるのが妥当だろう。天候不順、不作、食糧不足などによる「17世紀の全般的危機」の不況下で、新たな活路と土地を求めて、アイリッシュ海によってブリテン島と隔てられたアルスターには、1641年までに約3万人がスコットランドから入植した。彼らスコットランド人入植者たちは、中世末期以来、現地において支配的な地位を占めていたイングランドからの入植者との共存をめざした。彼ら入植者の間では、現地のカトリック勢力に対抗して「ブリティッシュ」(the British)という共通の意識とアイデンティティが育まれた。

こうしたブリテン島からアイルランドを経由した西方への勢力拡張は、大西洋世界のアメリカ大陸、西インド諸島への進出につながった。‥‥ アイルランド島への植民活動は、のちの大西洋をまたいだ海外進出の先駆けとなり、アイルランドはブリテン島から海外に出ていく諸活動の実験場になったのである。

秋田茂『イギリス帝国の歴史』(中公新書、2012年)24頁

(次回に続きます)

 新大陸でのイギリスについては、こちらをご覧ください
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イギリスのすべて① 前史と家族システム

目次

はじめに

この記事は、エマニュエル・トッド入門講座で連載中の「トッド後の近代史」のスピンオフである。事情を説明させていただこう。

同連載をやってみて分かったのは、近代以降のイギリスの行動は基本的に現代のアメリカと同じであるということだった。

イギリスとアメリカは(大体)同じ家族システムだ。だから、彼らの行動が似たり寄ったりでもおかしくはない。とはいえ、やはり少し釈然としない。

アメリカの歴史が250年として、イギリスは1000年の歴史を持つ「歴史と伝統の国」である。大陸との長い交流もあるし、ローマ帝国の遺産も、ノルマン貴族から受け継いだ直系家族の伝統もある。それで、何となくうまくやってきたんだと、トッドも言っていたではないか。

「いまさら、実はアメリカと同じでしたなんていわれても、ねえ‥‥」

‥‥とは思ったが、だからといってすぐに「イギリスのすべて」に取り組もうなどと考えたわけではなかった。先にやりたいこともあるし、イギリス史なんか始めたら、大変なことになるのは目に見えている。

それでも書かずにすまなくなったのは、重大な秘密を発見してしまったからである。

ちょっと、地図をご覧ください。

世界史の窓」からお借りしました

地球の片隅に、ブリテン諸島(ブリテン島とアイルランド島)がある。イギリスはかつてブリテン諸島全土を「連合王国」の領土として支配していたが、アイルランド島の大部分は現在は別の国(アイルランド共和国)になっている。

おかしいと思いませんか。かつて帝国(British Empire)といわれる広大な領土を支配したイギリス。しかし、そのイギリスは、実際には、このちっぽけな島を(真に)一つに統合することすらできなかったのだ。

「そんな国は、「帝国」の名に値しないよなあ‥‥」

そう思って、イギリスとアイルランドの歴史を調べ始めた。私は、イギリスがアイルランドにしてきたことを何となくは知っていたが、改めて調べてみると、その「ひどさ」加減は、私の想定をはるかに超えていた。

それで、気がついたのだ。

そう気がついて、改めてイギリス史を眺めると、あの事件にこの事件、私にとって何となく謎だったことのすべてが、きれいに理解できてしまったのである。

現代のこの世界の基礎を作ったのは間違いなくイギリスである。議会制民主主義や産業革命の祖として大いに美化されているその国は、本当はどういう成り立ちの国だったのか。

ぜひぜひ、共有させてください。

アメリカの統合およびデモクラシーにとっての先住民・黒人奴隷の意味については、こちらをご覧ください。

前史

イギリスのすべてを理解するには、ブリテン諸島の最初の方の歴史を知っていることが割と大切である。

最初の方の歴史のあり方が、各国の地域的区分、家族システムの配置、宗教の浸透などの基本的条件を決めているからだ。

しかし、この最初の方こそはあまり知られていない部分だと思うので、紀元前10000年から概略を追っていきたい。

1️⃣ブリテン諸島の形成(紀元前9000-8000)

氷期の終了(約1万年前)による海水面の上昇でブリテン諸島が形成される(それ以前はスカンジナビアと連続する半島だった)。

この頃から住んでいた先住の人々をのちのギリシャ人・ローマ人がケルト人と呼んだ(ケルトイ・ケルタエ・ガリなど)。

彼らの家族システムはもちろん原初的核家族である。

2️⃣ローマの侵攻(紀元前後)

紀元前55年に一度カエサルが攻め込んできた後、紀元43年に本格的な侵攻が始まる。

下の地図の白っぽい部分(スコットランド南部、イングランド、ウェールズ)が属州としてローマ帝国の統治下に入った。一応409年にローマ軍団の撤退とともに属州時代が終わったとされる(詳細は不明らしい)が、それ以前の4世紀頃からローマ帝国の支配力は薄らいでいた模様。

なお、この時期はゲルマン人の流入以前なので、ローマ属州(ブリタニア)に暮らしていたのは先住の人々(「ケルト人」)である。

https://www.atpress.ne.jp/news/244875

属州の支配を通じて、ローマ帝国の家族システムがブリテン島にもたらされた可能性はある。しかし、住民であったケルト人はゲルマン人に駆逐されたので(5️⃣)、その影響が残っているとは考えられない(後述)。

ハドリアヌスの長城

3️⃣ゲルマン人の流入(5世紀)

ゲルマン民族大移動で、ブリテン諸島にはアングロ・サクソン人(アングル族、サクソン族、ジュート族などの総称)がやってきて、先住ケルト人の民族・文化を駆逐した。

いうまでもないかもしれないが、アングロ・サクソン人の家族システムも、原初的核家族だ。

4️⃣キリスト教の浸透(5-6世紀)

ブリテン諸島でキリスト教の布教が始まるのはローマが撤退した後。ブリテン島より、アイルランド島への浸透の方が早かった。

Gallarus Oratory(初期キリスト教の礼拝堂)

アイルランドには5世紀にまずパラディウス、その後継者として後に聖人となるパトリックがやってきて本格的に布教した。

イングランドには597年にアウグスティヌスが50名の伝道団を率いてやってきて、当時ケント王国の都であったカンタベリーに教会を築いた(聖アウグスティヌスは初代カンタベリー大司教である)。

5️⃣キリスト教の権威を借りた国家統一:エドガー王の戴冠(973年)

7つの部族国家(七王国)にわかれていたアングロ・サクソン諸部族は、歴代のウェセックス王国の王によって次第に統一されていった。

特に功労者というわけではないようだが、情勢に恵まれ、イングランド統一を完成させることになったのがエドガー王(在位959-975)だ。

エドガー(Detail of miniature from the New Minster Charter, 966)

エドガー王は、バースで行われた戴冠式(973年)で、聖別の儀式として、カンタベリー大司教による塗油の礼を受けている。

フランクの王クローヴィスがキリスト教の権威を借りて統一国家を形成し(481年)、分裂後の東フランクではオットー1世がローマ皇帝の戴冠を受けて神聖ローマ帝国を始め(962年)、西フランク(フランス)ではユーグ・カペーがやはり塗油の儀式とともに戴冠してフランスを誕生させたように(987年)、エドガーもキリスト教の権威を借り受けることでイングランド統一を完成させたのだ。

クローヴィスやカペー朝についてはこちらをご覧ください

6️⃣ヨーロッパのイングランド王国へ:ノルマン・コンクエスト(1066年)

しかし、このウェセックス王朝は安定しない。息子(エゼルレッド2世)の代には再びノルマン人(の中のデーン人)の襲来を受けて、デンマーク王の血統を王位に招き入れ(カヌート王:1016-35)、ウェセックス家の血統に復帰しても(エドワード証聖王1042-66)、その死後には王位継承をめぐって争いが起きる(エドワードの父方のウェセックス家 VS 母方のノルマンディ公一族)。

結局、この最後の王位継承争いを武力で制したノルマンディー公のギヨームが、イングランド国王ウィリアム1世となり、現在に連なるイングランド王国が誕生するのである。

ところで、このノルマンディー公ギヨームなる人物は一体誰かというと、フランスのノルマンディー地方を治める貴族である。

彼はフランス生まれのフランス育ち、フランス語を話すフランス人で、有力なフランス貴族なのだ。

この人がギヨーム(ウィリアム1世)(バイユーのタペストリーより)

ノルマン・コンクエストについては、日本における大化の改新みたいなものと考えると、その重要性がわかりやすい。

大化の改新では、古くからの有力氏族である蘇我氏が倒され、律令制に代表される新たな国家体制への道が開かれた。

ノルマン・コンクエストでは、アングロ・サクソンの王が倒され、フランス貴族のノルマン人が王位につくことで、イギリスは、当時の先進地域であった大陸文化に接近。ヨーロッパの一角を占める国となったのだ。

以後、イギリスの国王は、このノルマン朝を起点として1世、2世と数える慣行である(近藤・43頁)

先日のチャールズ3世に至るまで、戴冠式も、ウィリアム1世のときのやり方を基本的に踏襲している。

ノルマン朝の成立こそが、新生イングランド王国の誕生といえるゆえんである。

7️⃣ノルマン・コンクエスト後のブリテン諸島地図

以下はノルマン・コンクエストの地図である。

ウィリアム率いるノルマン軍は、フランスのノルマンディーからやってきて、オックスフォードの辺りを拠点として進軍し、最終的には緑色の部分を除く全てのエリアを支配下に収める。

ノルマンディーとイングランドが同じ支配者を戴く一方で、この時点では、スコットランド、ウェールズの一部、アイルランドには支配は及んでいない。

なお、ノルマン・コンクエストの時点で、すでにフランス貴族の間では直系家族の生成が始まっていた(後述)。萌芽的な段階の直系家族の混入が、イギリスの家族システムをどのように変えていくのかは、後でじっくり検討しよう。

こちらからお借りしました

8️⃣百年戦争で島国に(1339-1453)

トッドはイギリスについて「島国だから」ということをよく言う。国民意識の強さなどについては、日本になぞらえたりすることもよくある。

しかし、住民のほぼ全員が原初的核家族であり、内在的な権威が発生していない段階では、島だからといって国家意識が強化されることはないと思われる。まったくの狩猟採集民にとっては、島も大陸も同じことではないだろうか。

この時代、まだほぼ狩猟採集民(のメンタリティ)であったイギリス人に、「島国」の意識を与える契機となったのは、百年戦争(1339-1453)である。

話の出発点はやはりノルマン・コンクエスト。すでに述べたように、イギリス王となったウィリアム1世は有力なフランス貴族だった。

ギヨームは、イングランドの国王ウィリアムとなった後も、フランス語を話し、イングランドに特別な用事(「反乱の鎮圧」だ)がない限りフランスで生活した。彼らは、イングランド国王である前に、フランス貴族だったのだ。

有力なフランス貴族であるとはどういうことか。それは、彼らが、フランス国王を含むフランス諸侯たちと勢力を争う立場にあったということ、そして、その勢力争いこそが、彼らの主要な関心事であったということである。

国王にフランス貴族を戴いたおかげで、イギリスは、フランスの戦国時代に巻き込まれていく。

当時、フランス国王(カペー朝)の権力基盤は弱体で、直接の支配権が及んでいたのはパリ周辺のごく狭い領域だけだった(↓上図の青い部分)。カペー朝は勢力の拡大に努めるが、それでも、全土の支配には遠く及ばなかった。

他方、イングランド国王(プランタジネット朝)の方は、相続や婚姻を通じて、一時は「アンジュー帝国」と呼ばれるほどの広大の領域を我が物とした(ヘンリー2世の時代(1154ー89)↓下図の赤系の部分)。

歴代フランス国王とイングランド国王は、フランス貴族同士として、どこかで雌雄を決しなければならない。そういう状況だったのだ。

百年戦争には「第一次百年戦争」ともいわれる前史がある。ヘンリー2世の生前に始まった「アンジュー帝国」の相続をめぐる争いで、ヘンリー2世本人、その息子たち、「帝国」の領地を狙うフランス国王を中心に、すったもんだがあって、イングランド王国のプランタジネット家は、南アキテーヌ(ガスコーニュ伯領↑南西の端っこ)以外のフランスの領土をほぼ全て奪われることになった(パリ条約(1259))。

この後、フランスでの栄華を諦めきれないプランタジネット家のイングランド王が、フランスの王位継承権を主張したことで起きたのが、本体の百年戦争だ。

仔細はすべて省略するが、いろいろあった末、最終的に勝利したのはフランス国王である。その結果、イングランド国王(敗戦時はヘンリー6世)は、フランス貴族の地位を追われ、「イングランド王国の王」を本業としていくしかなくなるのである。

この百年戦争こそが、統一国家としてのイギリス、そしてフランスを作った、というのが歴史学者の間の通説である。

イングランドのアンジュ朝〔プランタジネット朝〕とフランス(カペー朝、ヴァロア朝)、また各領邦、フランドル、ブルゴーニュ、スコットランド、スペイン、そして教皇庁などが合従連衡し、からみあっていた。城戸毅は「シャム双生児」のように、もつれあいからみあった複数の政体を「いわば一刀両断に切り離す外科的大手術の働きをしたのが百年戦争だった」という。双生児よりも、五つ子、六つ子がからみあう紛争といったほうがイメージしやすいかもしれない。何人かの子はまもなく政体としての生命を失い、やがてイングランドでもフランスでも、政治社会は近世的でナショナルな秩序へと移行するのである。

近藤・62-63頁

純然たる原初的核家族のイギリス、そして一部に直系家族が育まれていたものの、平等主義核家族をアイデンティティの中核としていくフランスは、双子のきょうだいとの激しい争いと別れを経験することで初めて、国家と国民意識を形成することができたのである。

9️⃣バラ戦争:テューダー朝の成立(1485)

百年戦争後の王位継承がうまくいくかどうかは、この時期のイギリス王室における直系家族の確立度合いを測るリトマス試験紙のようなものである。

百年戦争に敗北したときの国王はヘンリー6世。彼は健康上の問題を抱えていたが(遺伝性の精神疾患。断続的に発病したらしい)、ちょうど1453年に生まれた王太子がいた。

戦乱の世が終わり、今こそ、国をしっかり建て直すべきときである。幸いにも、王と王妃の間には男子が生まれ、その血統に問題はない。国王が錯乱するなら摂政でも立てて、王太子が成人するまで待てばよいではないか。

もし、イングランドの王侯貴族の間に本物の直系家族システムが成立していたなら、彼らは必ずそう考えるはずである。

しかし、実際には、イングランド王族の間ではそれまでも王位継承争いが絶えなかったし、今回も、血統でも実力でも引けを取らないと考える勢力が黙っていなかった。

ともに、百年戦争を始めたエドワード3世の血を引く、プランタジネット家傍流のランカスター家とヨーク家の人々は、王位をめぐって、30年もの間、戦闘を繰り広げたのだ(バラ戦争 1455-1485)。

王位をめぐって当然のように武力闘争が始まり、30年も争って、双方ヘトヘトにならなければ王朝が定まらなかったということほど、彼らの「直系家族」の実態を示すものはない、と私は思う。

後でまとめて検討するが、ノルマン・コンクエスト(1066年)で持ち込まれた直系家族の萌芽は、400年を経ても、定着し、安定した秩序の形成に貢献したわけではなかったのだ。 

ヘンリー7世
テューダー・ローズ

30年の間、王位が両家を行き来した後、最後の戦いを制したのは、ランカスター家のヘンリー・テューダー(ヘンリー7世)。

ヘンリー7世は、王位を安定させるべく、敵方のヨーク家から妃を取り(エリザベス・オブ・ヨーク)、ランカスターの赤いバラとヨークの白いバラを組み合わせたテューダー・ローズを家紋に採用したことで知られる。

彼はまた、戴冠後もしばらくは続いた王位僭称者による反乱を粛々と処理し、争いの種を除去することに努めた。

イギリスは、このテューダー朝の下で、近代国家の確立に向かう歩みを開始する。しかし、紅白のバラを掲げ、敵を皆殺しにしても、それで権威の軸が発生するわけではなく、この時期に至ってもまだ、イギリスは原初的核家族のままなのだ。

「権威なし」「平等なし」のままで、近代に立ち向かうイギリス。ここからが、本編の対象である(次回)。

ブリテン諸島の家族システム

百年戦争で大陸から切り離されたテューダー朝のイギリスは、ヨーロッパの中のイギリスとしてデビューを果たすとともに、ブリテン諸島内部での活動も活発化させる。スコットランドやアイルランドとの接点が大きくなるのも、ここからである。

イギリスの近代を隈なく理解するため、イギリスを含むブリテン諸島各地の家族システムを確認しておこう。

(1)イギリス(イングランド)

世界中のすべての地域と同じく、ブリテン諸島の家族システムも原初的核家族から出発する。

①ローマ属州時代の痕跡はゼロ

ブリテン島は紀元前後から400年程度に渡りローマ帝国の属州となるが、イギリスの家族システムにこの時代の痕跡は残っていない

トッドは2つの点に言及している。

・帝国時代のローマ(とくに西部)は版図となったヨーロッパの未分化性の影響で家族システムを退化させ(=父系制的・共同体家族的な色彩を失い)、ある種の核家族(平等主義核家族)となっていた(この点についてはこちら)。

・属州時代にブリテン島に居住していた「ケルト人」は、アングロ・サクソン人の侵略の際に駆逐されていること(3️⃣)。

そういうわけで、イギリスの家族システムには、ローマに由来する父系制・共同体性はもちろん、平等主義的な色彩すら、少しも残っていないということになる。

②ノルマン貴族への反動→絶対核家族へ

他方、ノルマン人が支配者となったことは(6️⃣)、イギリスの家族システムに本質的な変化をもたらした。

トッドによると、ヨーロッパにおける直系家族の発祥は、北フランスの貴族階級(↓)。ノルマンディーを領有するフランス貴族のノルマン人はそのど真ん中の人たちだ。

フランク王国の歴史をたどるなら、長子相続という概念の出現の年代を、現実的正確さをもって決定すること‥‥ができる。メロヴィング朝からカロリング朝へと時代が変わっても、留意することができるのは、フランク人の相続と親族のシステムの連続性にほかならない。‥ クローヴィスの子孫にとっても、シャルルマーニュの子孫にとっても、王国を分割するというのが規範に適ったことである。長子への遺産相続の規則が出現し、盛行するするようになるのは、10世紀末になってからにすぎない。‥‥ 西フランクにおいては、男子長子相続の出現は、新たな王朝、カペー朝の出現、そしてとりわけ、フランス王国の安定的形態の出現に対応している。‥‥ ユーグ・カペー〔フランス・カペー朝の創始者〕の国王選出ならびにそのあとを継いだ彼の子孫の王位継承の仕方が、フランスにおける長子相続原則の定着の画期をなしたと考えても、単純化しすぎたことにはなるまい。

さてそこで、長子相続はヨーロッパの社会的再編の歯車になって行く。カロリング帝国の崩壊とともに、全般的な階層序列的社会形成が進行した。宗主としての支配と封臣としての従属という概念は、上から下へと連なる従属関係、貴族社会の縦型で不平等主義的な形式化を確立していくのである。

下 597頁

したがって、「イングランドでは、長子相続原則の起源がノルマン人、すなわちフランス人であるとすることにはほとんど問題がない」(下 606頁)。

しかし、彼らがイングランドの支配者になって、イングランドに直系家族が根付いたかといえば、そうではない。

パリ周辺のフランスと同様、イングランドでは、早くから大規模農業経営が発達していた(ローマの遺産である)。

こうした地域、こうした農地制度の中に、直系家族は定着することができなかった。直系家族には機能上の正当化の根拠がなかったからである。‥‥土地を耕す労働者‥‥の小さな家と庭は、その相続に関して、不分割の規則が確立されるほどの十分な争奪の的となるには、小さすぎたのである。

家族システムの起源I 下 615頁

そういうわけで、ノルマン貴族(彼らがイギリスの貴族になる)が持ち込んだ長子相続の慣習は、土地持ちの富農(独立自営農民だ)の間にのみ広がる。しかし、彼らはやがて消滅する運命だ。

貴族以外のイギリス人は、逆に、上から押し付けられた直系家族的観念に反発し、「権威なし・平等なし(自由・非平等)」の絶対核家族システムを生み出していくのだ。

イギリスにおける絶対核家族の生成を、トッドは「遺言の自由」が確立される過程に見出している。

‥‥中世の終わり頃には、家族というものが己の法的自由を回復しようと努力していたことが感知される。ヘンリー8世(在位1509-1547年)から、遺言の自由が肯定されるようになる。1540年には‥‥[封土の]三分の二とそれ以外の土地全部を自由に処分することが可能となる。革命下にあって、‥‥[封土の観念は]明らかに時代遅れのものとなり、長期議会は1645年に遺言の完全な自由を確立する。1645年はクロムウェルが国王軍を粉砕するために新型軍(New Model Army)を創設した年である。したがって、遺言の自由は、比較的近年の歴史の産物なのである。

下 619頁

なお、法的に遺言の自由が確立しても、社会の上層階級は、限嗣相続(entails:相続方法を限定する制度)を慣行として確立し、長子相続の規則を存続させていた。トッドはつぎのようにいう。

パリ盆地のフランスの特徴をなす民衆と貴族の家族形態の対立が、より目立たない形で、イングランドにも見出されるわけである。この二つのケースには、分離的反動の観念が関与的である。

イングランドの核家族における個人主義的急進性は、まさしく世代を分離することに固執するが、ここに、貴族が担ってきた直系家族の観念に対する反動を認めることは、法外に大胆すぎることとは思われない。

下 620頁

ともかく、このようにして、イングランドには絶対核家族が誕生する。その生成期は、トッドの見立てによれば、1550-1650年の100年間である(『我々はどこから来て、今どこにいるのか』上・318頁)。

③王侯貴族の直系家族ー内実は?

ところで、トッドは、「貴族の長子相続制は、イングランドにおいては少なくとも19世紀末まで生き延びたことを忘れてはならない」として、イングランド社会の上層部(王侯貴族)の家族システムが直系家族であることを示唆する。

国王が分割相続を履行していては国はすぐにバラバラになってしまう。現にそうなっていない以上、彼らの間で、土地の不分割(一括相続)が規範となっていることには、疑問の余地はないといえる。

しかし、それは本当に、われわれの知る「直系家族」と同じものなのだろうか。

ノルマン・コンクエスト後のイギリス王室の歴史を見ても、王位(や当初は領土)の継承が安定しているようにはとても見えない。

ウィリアム1世の後、ノルマンディー公領とイングランド王国は別々に相続される(長子のロベール2世がノルマンディー、次男のウィリアム2世がイングランド王国)。ウィリアム2世の死後はその弟のヘンリー1世が跡を継ぎ、王位継承を主張するロベール2世(フランス王)との争いを制してノルマンディーも手にいれる。

ヘンリーが亡くなると王位継承をめぐって内戦となり、ノルマン朝は終焉。内戦を勝ち抜いたマティルダ(ヘンリー1世の娘で神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世の妃。ハインリヒと死別後フランス・アンジュー伯(プランタジネット家)と再婚)の息子、ヘンリ2世がプランタジネット朝(アンジュー朝ともいう)を開く。

ヘンリー2世は、そういうわけで、イングランド王国とアンジュー伯領と自身の妃が持ってきたアキテーヌ公領を継承するが、妃と不仲になったせいで妃や息子たちに反乱を起こされ、フランス王の介入もあってフランスの領土を失う。

もうこの辺でいいかなと思うが、ヘンリー2世の死後もリチャード1世(在位1189-1199)と弟のジョン(在位1199-1216)が争い、その争いに乗じてフランス王がノルマンディーを奪い、などいろいろあって、シェイクスピアの世界に突入。百年戦争(1337-1443)からバラ戦争に続くのだ。

百年戦争の後のバラ戦争を経てテューダー朝が始まった後の歴代国王の動きも不審である。

ヘンリー8世は、ローマ・カトリック教会から自立してイギリス国教会を開くが、跡を継いだ息子のエドワード6世が未婚のまま早逝したのでメアリ(ヘンリー8世の娘でエドワード6世の異母姉)が継ぐ。そこまではよいとしても、彼女はバリバリのカトリックで、国教会体制を大混乱に陥れるのだ。

これ以上は書かないが(本編で部分的に扱う)、この後も、王位継承そのものはそれなりのルールに従ってなされるものの、王位継承者(つまり歴代国王)の間の信仰は一貫しない。プロテスタント(国教徒)だったり、一応国王なので国教徒として振る舞うものの、本心はカトリックだったり。そして、彼らの信仰および宗教政策に対する疑心暗鬼が、この時期の波乱を増幅する大きな要素となっていくのだ。

「こんなの直系家族じゃない!」

そう思いますよね?

直系家族の縦型のつながりは、土地の分割を防ぐためだけのものではない。家系の永続のため、親は家督を継ぐ長子に、土地とともに、家長であるに相応しい資質を与えようと努める。読み書きや武術、必要な教育を授けるとともに、家訓やら、家長の務めやらの規範を教え込み、代々に蓄積した知恵を確実に伝えて、後代の繁栄を期するのだ。そしてもちろん、次子以下に、長子と協力して一家の繁栄に努めるべく含ませることも忘れてはならない。

それなのに、彼らときたら‥‥

彼らは、王の直系の子供を確実に得るための方策を取ろうともせず(養子も取りません)、王位を兄弟姉妹の間で受け継いだり、遠縁の親戚筋に移行させたりする。そしてもちろん、家系をまもるための教育は行き届いていない。そんなことだから、争いも絶えないし、歴代の王の価値観だってバラバラだ。王室は、安定の礎どころか、混乱の発火点なのである。

結局、こういうことではないだろうか。

ウィリアム1世率いるノルマン貴族は、確かに、イングランドに直系家族を持ち込んだ(1066年)。しかし、それはカペー朝(987-1328)のごく初期、生まれたばかりの萌芽的なものだった。

その萌芽は、大陸では、ドイツやフランス南西部に定着して庶民まで行き渡り、確固たる直系家族システムに成長していった。

しかし、イングランドでは、その「萌芽」にすぎない直系家族が、「暴力的に、しかも時期尚早で導入された結果、それは挫折することになり、その挫折が絶対核家族の発明へとつながっていく」(家族システムの起源・下 601頁)。

そして、貴族の間に一応保持された直系家族の方も、萌芽的な形態のまま推移したか、あるいは、土地の価値観に従って、どちらかといえば退化に向かった。

いずれにせよ、それは、ドイツやスウェーデン、日本に見られる、完成された、規律正しい直系家族とは似て非なるものと思われる。

(2)ウェールズ

トッドは、ウェールズを『新ヨーロッパ大全』(I 64頁)では直系家族に分類していたが、『家族システムの起源 I』(下 546頁)で修正している。

下の地図は、複合世帯(夫婦とその子供たちのセット以上のものを含む世帯)の割合が相対的に高い地域を表した地図である。ブリテン諸島では、スコットランド北部からウェールズ、コーンウォールに至るブリテン島の西側周縁部、アイルランドの周縁部にその地域がある。

 

新ヨーロッパ大全I 54頁

当初のトッドは、このデータによって「直系家族」と判定したのだが、家族システムの変遷に関する研究を経て修正され、ウェールズ核家族(絶対核家族以前の原初的核家族に近い形態)と判断するに至った。彼の言を引用しておこう。

当時まだル・プレイの聖三位一体の虜となっていた私は『新ヨーロッパ大全』の中で、それは直系家族の痕跡であると断言したが、それは誤りであり、そのように断言すべきではない。一時的同居の概念と末子による家の受け継ぎの概念を援用するなら、これはやや漠然とした核家族システムであって、発展サイクルのいくつかの局面の中でいくつかの複合世帯が出現することになるのだ、と考えることができるのである。ウェールズの家族はそのように考える必要がある‥(略)‥。

下 546頁

(3)スコットランド

ところで、ウェールズに関する上記引用の「‥(略)‥」の部分には、次のように書かれている。 

が、西スコットランドの家族はおそらくこのように考えてはいけない。

下 546頁

スコットランドについては、納得のいく(十分に質の高い)データがないらしい。それを認めた上で、トッドは、スコットランド西部を直系家族に分類している。

スコットランドの文化の「スタイル」は宗教の領域においてイングランドの文化より権威的であり、より教育にこだわるところから、まさに潜在的な直系家族を喚起している。

下 546頁

宗教改革の時点では、すでに明確に直系家族の「スタイル」が現れているので、スコットランドの場合も、イギリスと同じ頃(1550-1650)か、もしかするとそれより少し先行して直系家族の生成時期を迎えていたのではないかと思う。

(4)アイルランド

現在のアイルランド島については、その半分程度が直系家族であるということで問題はない。

しかし、『家族システムの起源 I』は、これに非常に重要な情報を追加している。アイルランドの半分程度が直系家族であるというのは事実だが、アイルランドに直系家族が出現したのはごく最近(19世紀後半)のことなのだ。

それ以前の家族システムは、私が「原初的核家族」と呼んでいるものそのものである。

大飢饉以前の1837年前後には、この直系家族はまだ存在していなかった。土地の再分割が規則となっており、地域によって微妙な差異があり、たいていの場合は息子を優遇するが、娘を優遇する場合もあった。世帯の単純性、末子の役割、核家族を取り囲む親族関係の重要性といった、標準的な古代的(アルカイック)システムのあらゆる特徴が、当時のイギリス議会の報告書の中に言及されていた。

下 540頁

加えて、近年の直系家族にも、典型的な形態とは異なる特徴がいろいろ確認されているらしい。長男の特権的地位がそれほど明確でないとか、母親の影響力が強いとか、直系家族としては世代間の同居率が低いとか。

トッドの見立てによると、これらの非典型的要素の存在は、アイルランドの直系家族がごく新しいものであることと関連する。また、同居率の低さは、独身者が多く、結婚が遅いことの結果と見られる。

(5)まとめ

以上をまとめるとこうなる。

1️⃣1066年以前、ブリテン諸島全土は、未分化な家族システム(原初的核家族)で覆われていた。

2️⃣1066年にフランス貴族のノルマン人がやってきて萌芽的な直系家族をイングランドに持ち込み、オックスフォード周辺を拠点に「上からの押し付け」を行う構図となった。直系家族は根付かず、反動として絶対核家族を生んだ。

3️⃣絶対核家族は、イングランドの支配的な家族システムとなり、辺境地域に残る原初的核家族と併せて、核家族ブリテン諸島を支配した。

4️⃣例外的に3箇所の直系家族(的)領域がある。

  1. イングランドおよび連合王国の王侯貴族にはノルマン貴族由来の直系家族が残る。ただし萌芽的ないし退化したバージョンで、社会に規律を与える力は弱い。
  2. 11世紀から16世紀の間のどこかで、スコットランド西部に直系家族が生成している。詳細は不明だが、本物の直系家族と見られる。
  3. 19世紀後半の危機の中で、アイルランドに一種の直系家族が成立している。複合世帯の増加はおそらく危機的状況への対処であり、新しいものであるため、家族内の権威関係には典型的な直系家族とは異なる点がある。

(次回に続きます)

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「弱肉強食」の真実

目次

はじめに

「アメリカ II」の中で、家族システムにおける「権威」が果たす機能の第一は秩序維持であると書いた

権威には秩序維持機能があるという想定の下、「権威が確立していないとどう困るか」についてはこう書いている。

限られた領域に大勢の人間が暮らしている場合、少なくとも最小限の秩序維持機能は絶対に必要といえる。それがなければ、弱肉強食、血で血を洗う抗争の世界となってしまうから。

このとき私が想定していた「弱肉強食」の世界とは、殺人やら喧嘩闘争が頻発する世界、要するに、無秩序が支配する世界だった。

しかし、その後、いわゆる未開社会(=原初的核家族)の事例をいろいろ読んでいて、「あれ?」と思うようになった。

そこはたしかに「弱肉強食」の世界ではあった。しかし無秩序かといえば無秩序ではない。何というか、秩序そのものが「弱肉強食」の原理に従っているのだ。

原初的核家族がもたらす「不正な秩序」

「権威の不在→無秩序」という想定は、秩序には「正しさ」が含まれることを暗黙の前提としている。

だからこそ、私は権威(「正しさ」の基盤である)が確立していない社会では、秩序の維持は困難であろうと考えたのだ。

広辞苑で「秩序」を引くと、最初の説明はこうである。

①物事の条理。物事の正しい順序・筋道。次第。

これでいくと、「秩序」とは何かしら「正しい」ものであり、権威がなければ秩序は築けないということになりそうである。

他方、Oxford Dictionary of Englishで ”order” を引くと、その大元の意味はつぎのように説明されている。

1 the arrangement or disposition of people or things in relation to each other according to a particular sequence, pattern, or method:  

こちらの説明では、人間や物事同士の関係が何らかの順序、パターン、方法にしたがって配置・整理されていれば「order」といえるのであって、それが「正しい」ことは必要ではない。

言われてみればその通り。

日本人(広辞苑や私)の思い込みとは違って、たしかに、「正しさ」(したがって権威の裏付け)がなくても、秩序の維持は可能だ。

強い者が有利な立場を得て、弱い者がいろいろと我慢を強いられる。その弱肉強食の状態をそのまま固定してしまえばよいのである。その状態は「不正」ではあるが、無秩序ではない。

実際、いろいろ見てみると、権威の確立していない社会がもたらしがちなのは、無秩序というよりは「不正な秩序」のようなのである。

「不正な秩序」が生まれるとき

農耕を始め、定住し、人口が増え、土地が不足し、利害関係の調整が必要となったような場合、共同体は、何らかの形で権威を組み入れた家族システムを発展させ、「正しい秩序」を可能にするのが普通だろう。

しかし、この世界では、原初的核家族を営む人々のもとに、ふいに外部から文明が現れ、複雑な利害調整が必要な状況に追い込まれるということもありうる。例えば、未開社会に西欧の人々が踏み込んできて、奴隷貿易を持ちかけてくるとか。

*奴隷貿易に関しては西欧の側の「不正」ぶりも興味深いが、ここでは未開社会の側に着目する。

突然巨大な権益を投げ込まれた未開社会は、一時の無秩序を経て、秩序形成に向かう。しかし、社会の基層をなすシステムの中に、複雑な事象を「正しく」処理するのに必要な「権威」は確立されていない。

そういうときに何が起こるか。デヴィッド・グレーバー『負債論―貨幣と暴力の5000年』(以文社、2016年)が紹介する事例を見てみよう。

大西洋奴隷貿易と西アフリカ

大西洋奴隷貿易は15世紀に始まり19世紀まで続いた。17世紀後半までには、ヨーロッパの6つの帝国(イギリス、デンマーク、オランダ、フランス、スペイン、ポルトガル)による三角貿易の仕組みが確立し、現地の社会を揺るがせることになる。

wiki掲載の図に加筆(https://ja.wikipedia.org/wiki/大西洋奴隷貿易

①ヨーロッパの工業製品(布、雑貨、武器など)がアフリカへ
②アフリカの奴隷がアメリカへ
③アメリカの一次産品(銀、砂糖、綿花、タバコなど)がヨーロッパへ
 

ヨーロッパの各種製品や武器の流入が西アフリカ社会に大きな影響を与えたことは、この時期以降に諸王国が興隆した事実にみてとれる。オヨ王国やアシャンティ王国、ダホメ王国(現在のベナン共和国の場所)などである。

ダホメ王国の王と女官たち 

西アフリカでの奴隷の調達は、最初のうちは、純粋な暴力が中心だった(戦争の捕虜とか、適当に拉致して連れ去るとか)。アフリカの商人がヨーロッパの商人から信用取引で商品を購入する際に、信用の担保として人質を提供し、その人質が債務不履行によって奴隷として売られていくというパターンも多かったという(債務不履行を待たずに連れ去られてしまうケースもあった)。

しかし、奴隷貿易はやがて、アフリカの権力者や有力商人にとっても、富と権力の源として「なくてはならないもの」に成長する。すると、彼らは、組織的かつ合法的に、地域の住民を奴隷に変えて、ヨーロッパの商人に売り払う仕組みを作り上げていくのである。

奴隷調達のための「不正な秩序」

ダホメやアシャンティといった王国では、統治者は、犯罪に対する刑罰として、本人の奴隷化や「本人の死刑+家族の奴隷化」を定めたり、とてつもなく高額の罰金を課して支払えない場合に本人と家族を奴隷にする、といった方法で奴隷を調達したという。

王国といえるほど発達していない地域では、長老や有力な商人が同様の司法体系を整備し、罪を犯した者を(比較的軽微な罪であっても)奴隷として売り飛ばした。訴えた者は一定の代金を得る仕組みであったので、長老などの協力を得て、無実の罪がでっち上げられることも少なくなかったという。

後者のケースで(国の行政組織に代わって)大きな役割を果たしたのは、商人のリーダーたちが作る秘密結社であった。この秘密結社(エクペ(Ekpe)という)は、神秘的な教義を伝授したり、大掛かりな仮装パーティーを主催することで知られていたが、その裏で、極秘の任務を遂行していた。債務の取り立てである。彼らは債務を支払えない者に対して、(組織的な)取引拒否から、罰金、差し押さえ、逮捕、処刑に至る各種制裁を実行する権限を有していた。

南ナイジェリアのekpeのコスチューム(詳細は不明)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Egbo_Secret_Society,_Mgbe,_Etuam,_Egbo,_South_Nigeria_Wellcome_M0005360.jpg

秘密結社エクペの会員であることは名誉と風格の証とされ、誰もが会員になることを望んだ。果たして、エクペには、等級別に異なる入会金を支払いさえすれば、誰でも加入することができたのだ。

入会金は高額だったが、金を用意できればメンバーになれる。そこで、多くの人々が、商人に借金をして高額の入会金を払い、エクペに加入した。彼らはまた、仮装パーティーで使用する道具や衣装を作るためにも、商人から金を借りた。

こんなのを作ったのかもしれません。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:British_Museum_Room_25_Mask_Ekoi_people_17022019_5015.jpg

エクペに憧れ、借金をして入会し、やはり借金をして衣装を作った人々。彼らがこの借金を返せなかったらどうなるか。

彼らはいまやエクペの一員であるため、債務者であると同時に、自ら債務取り立ての任務も負っている。彼らは、自分の家族や従僕を人質として差し出す代わりに、エクペの一員であるという地位を利用して近隣の村を襲い、子どもや大人、財物、家畜などあらゆるものを強奪して、それを代わりに差し出すことで許しを得ようとした。

*この場合、襲われた人々は、何の正当な理由もないのに、奴隷として売られていくことになる。

責任を他人に押し付けるこの作戦は成功することもあったが、しないこともあったという。後者の場合、結局は、自分の子ども、家族、従僕、最後には自分自身まで差し出すよう強いられ、手枷足枷をはめられて、奴隷として売られていったのである。

エクペのメンバーになりたくて、商人から金を借りたばっかりに、一族郎党が殺され、あるいは奴隷として売り払われていく。そんな仕組みが確立されて、長期間保持されていたのだ。

「人肉債務」の物語

こうした奴隷調達システムが現地の人々の心性にどんな影響を与えていたかを示すものとして、ティブ族の信じる「人肉債務」の話がある。

ティブ族(Tiv)は1750年ごろ(ちょうど奴隷貿易が活発であったころだ)からナイジェリアのべヌエ川流域に居住する部族で、20世紀中頃に人類学者による調査が行われている。

あきらかに、ティブ族には権威の形成にかんして大きな問題があった。

グレーバー『負債論』227頁

ティブ族の間には、公式の政治機構は存在せず、人々は平等主義的で、あらゆる形式の主従関係について懐疑的だったという。それぞれの村落は、一人の長老(=カリスマ性のある実力者)が絶対的な権力をふるうことによって、その秩序を維持していた。典型的な原初的核家族の世界である。

ティブ族の人々の間では、人肉を食べることで特別なカリスマを得る妖術師=殺人鬼の存在が信じられていた。人々は、政治的な指導者になるような有力者はみなこの妖術師なのではないかという疑惑に取り憑かれていたという。

妖術師は結社を組織していて、結社は、つねに新しい成員を求めている。成員を獲得する方法は、だまして人肉を食べさせることである。妖術師は、候補者を食事に招き、こっそり人肉(妖術師が妖術師自身の家族を殺し、その肉を混ぜるとされている)を食べさせる。

うっかり人肉を食べてしまった者は、結社と「人肉負債」の契約を結んだことになり、自らの肉を提供するよう言われる。それを逃れる唯一の方法は、自らの家族をかわりに差し出すことである。彼は、妖術師の指図通りに、兄弟、姉妹、こどもたちを一人一人殺していかなければならないのだ。

「人肉負債」は、はてしなくつづく。債権者はいくどもやってくる。‥‥すべての係累を失い、家族が全滅するまで「人肉負債」から逃れられない。かくして、債務者は、みずからおもむいて横たわり、屠殺され、そこで負債からついに解き放たれるのである。

グレーバー・226頁

このストーリーが何を示唆しているかは明らかだろう。先ほどの秘密結社の影響力がティブ族の地域にまで及んでいたのかどうかは(本を読んだ範囲では)はっきりしない。

*グレーバーは「〔彼らが〕なぜそんな強迫観念に脅かされていたのかというと、2、300マイル離れたところの住人たちの身にそれが文字通り起こっていたからである」としか述べていない。

しかし、私は、ティブ族の有力者の中にも秘密結社のメンバーになったり、周辺地域の秘密結社と関わりがある者がいたのではないかと想像する。

ティブ族の人々は、隣人である有力者の手引きによって、いつ何時、債務不履行、あるいは押し付けられた負債によって、自分やその家族が奴隷として売り払われてもおかしくないという秩序の下で暮らしていた。

そうした事態が現実化することへの恐怖が、妖術師による「人肉負債」の物語を生んだのではないだろうか。

巨大な権益を得た原初的核家族の一般理論

奴隷貿易にまつわるこうした「不正な秩序」の発生は、西アフリカに特異な事例というわけでは決してなく、むしろ、西欧の商業文明と接した未開社会では通常のことだったという。

支配者が(でっち上げを含む)犯罪や債務を理由に臣民を従属させ、奴隷として外国人に売り払って富を築く。「弱肉強食」の自然的事実をそのまま糊で固めたような社会制度は、奴隷貿易の対象となった各地域に確立し、100〜数百年にもわたって営まれていた。

*グレーバーの本では、東南アジアの山間部やバリ島の事例が紹介されている。

権威が確立されていない社会では、強さと正しさは同義である。巨大な権益を手にした強者はそれを正当な自分の取り分であると信じ、弱者の側もそれを信じる。おそらくはそんな単純な仕組みによって、「不正な秩序」は確立され、維持されていくのだと思われる。

原初的核家族のもとに巨大な既得権が発生したとき、必ずといってよいほど「不正な秩序」が形成されるという事実は、この世界を隈なく理解したいと願うわれわれにとって、非常に示唆に富んでいる。

何しろ、現在の世界の秩序は、二度の世界大戦でヨーロッパ列強が凋落した結果、さほど強く望んだわけでもないのに、いつの間にか巨大な権益を手中にしていた原初的核家族を中心に形成されてきたものなのだから。

おわりに

私がグレーバーの本を手に取ったのは、一つには、アメリカの金融覇権とはいったい何なのかを理解するためだった。

なぜ(日本を含む)西側諸国はこれほどまでにアメリカに従属することとなり、なぜグローバルサウスはドルの支配から逃れようとしているのかを、何となくではなく、はっきりと理解するためだった。

グレーバーを読み、さらに調査を進めて分かったことは、現在の金融秩序はかなりデタラメだということである。デタラメで、めちゃくちゃで、まあ、特にアメリカ、それから(ある程度)その同盟国である西側諸国に都合のよい仕組みである。

ただ、じゃあ、アメリカは巨大な悪の帝国で、緻密な計画に基づき周到に準備してこの仕組みを作り上げてきたのか、といえば、そういうわけでもなく、どちらかというと、あまり深く考えず、短期的に見た自己利益を最大にするべく、そのつどそのつど行き当たりばったりで策を講じてきたら、壮大な「不正な秩序」が確立されていた、という感じなのだ。

そのやり方は、まさしく突然巨大な権益を手に入れた原初的核家族のものであり、もう笑うしかない。しかし、被害者の側面もありつつ、グローバルサウスと呼ばれる地域との関係では明らかに受益者側であるわれわれは、やはり、その仕組みをしっかりと理解して、世界と、それからとくに若い人たちと、認識を共有する必要があると思う。

もうすぐシリーズが始まります。
お楽しみに。

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核家族とイノベーション
ー人類の未来ー

 

核家族のイノベーション適性

技術力全般でいえば、日本や韓国、ドイツなどの直系家族に劣るところはないが、イノベーションとくに新技術の実用化といえば核家族だ。

鉄道、自動車、飛行機、電話。テレビにコンピューターにインターネット。冷蔵庫に電子レンジに抗生物質に‥‥と、暮らしを一変させたイノベーションにはたいていイギリス人やアメリカ人がかんでいる。

  *よく調べていません。

家族システムの観点から見ると、理由はかなりはっきりしているように思われる。

核家族はがまんができない。より正確にいうと、限られた領域の中で大勢の人間が定住生活をしていくという場面で、自分の側の価値観や行動を変えて状況に適応するという心の構えを持っていない。

狩猟採集の移動生活ならそのままでも快適に暮らせるし、定住を始めても人口密度が低いうちは何とかなったかもしれない。

しかし、そんな彼らが「満員の世界」への居住を余儀なくされたらどうなるか。彼らは困る。実に不自由で、不愉快だ。

だったら外側を変えればいいじゃないか💡」

ということで、核家族は、科学技術を使ったイノベーションに乗り出すのである。

古代ギリシャやアラブ・イスラム圏における学問・科学の発展も、同じ仕組みである可能性があると思う。古代ギリシャはメソポタミアやエジプトとの関係では辺境に位置する原初的核家族だった。のちに内婚制共同体家族を発明しイスラム教の民となるアラブの人々も、もともとは、メソポタミアやエジプトとの関係で辺境に位置する原初的核家族だった。彼らは、より発展した地域の文明を受け入れ、あるいは伍していく際に、家族システムの後進性を補うために、科学技術を必要としたのではないだろうか。

家族システムはもう進化しない

科学技術が発達する以前、人類の生存・繁栄に必要なイノベーションは、主に、人間側が工夫し、技術を高め、暮らし方を変えることで実現された(たぶん)。家族システムの構築はその一つであり、最大のものといえる。

人口が増え「満員の世界」が訪れたとき、人類は、その環境に適合するために、家族システムを進化させた。

家族システムの進化は、原則として、世代間の縦の繋がり(権威的関係)の構築から始まる。本質的に、社会の全成員に対して、一定の自己抑制(規律)や不自由を強いる性格のものである。

それでも、人口密度が高まり、現に争いが頻発する世界では、そうした方が快適だから、その方向にシステムが進化していったのだ。

文明の中心地とその周辺で家族システムが進化する一方、原初に近い核家族を保っていた辺境の人々が、識字化を契機に、唐突に世界の中心に躍り出る。

心の奥底に原初的自由を湛えた彼らは、人間側の自己抑制による「適応」を潔しとしなかった。さまざまな道具を作り、天然資源を大々的に利用し、自分たちを取り巻く環境の側に手を加えることで、世界をわがものとした。それが近代だ。

したがって、近代以降の世界では、どれだけ人口密度が上がっても、家族システムは、退化こそすれ、進化はしないと思われる。人間の関係性を体系化し、自分たちの行動をシステマティックに制御するという「不自由な」やり方を採用しなくても、科学技術を用いれば、快適に暮らしていくことができるからだ。

土地が少なければ高層マンションを建てればいいし、農地が足りなければビルの一室で野菜を作ればいい。そういう世界で、家族システムが進化することはないだろう。

アメリカの家族システムがいつまでも原初的核家族のままなのは、おそらくそういう事情である。

持続可能性には問題が

こうして、核家族は世界を変えた。

その核家族に、「君たち、何でそんな不自由な暮らしをしているんだ。こうすれば、もっと自由に快適に暮らせるじゃないか。」

と、言われてみればそのとおりなので、直系家族の民も、共同体家族の民も、こぞって彼らの後を追い、見事に科学技術を発展させた。

おかげで、私たちは、熊に襲われることもない安全で清潔な環境で、衣食住の必要を容易に満たし、医療技術に守られ、長い平均寿命を謳歌するようになった。最先端の娯楽にだってスイッチ一つでアクセスできる。ほとんどおとぎ話の世界といえる。

しかし、「人類が世界に適応するのではなく、人類の都合に合うように世界を変える」というこのやり方には、問題があった。人口が増えすぎて、世界を蕩尽し、地球を壊してしまうのだ。

私は、過去に起こったことについてとやかくいうつもりは全くない。核家族の躍進も、科学技術の発展も、起こるべくして起きたことであると思えるし、人類史に新たな地平が開かれたことは間違いない。

しかし、このまま「世界を変える」「イノベーション」方式で進んでいけば、早晩地球が壊れるということはかなりはっきりしている。

さて、どうするか。

サステナブルな未来

私がトッドと決定的に袂を分かつのはここからだ。

人口学者であるトッドは、人口の維持が良い未来を作るという命題を譲らない。彼は経済の問題はよく語るが、環境問題にはほぼ言及しないのだ。

「人口維持こそ希望の源」という立場の決定的な弱点だからかもしれないし、「人類の側が適応する」という構えを持たない核家族メンタリティで、困難があるなら克服すればよいと考えているのかもしれないし、世代かもしれない。まあ、理由は分からない。

一方、私は、地球環境の問題は重大だと感じている。おまけに「SDGs」はもちろん、化石燃料の使用を止めて平均気温の上昇を抑えればサステナブルな未来が待っているというような話はまったく信じていない(やっても仕方がないと言っているわけではない)。

現代の大学や企業や研究機関でなされる何らかの技術開発が地球を救うという可能性も基本的に信じていない(だってそれはシステム上「金儲けのため」「保身のため」「とにかく現状維持のため」として設計されているので‥‥)。

私の考えでは、サステナブルな未来とは、たぶん、人類の人口が激減し、平均寿命も低下し、人類以外の動植物、有機物、無機物が(他にもありますか?)豊かに繁茂したときに訪れるものである。

そのとき、人類の暮らしが、原始人みたいな暮らしになるのか、江戸~中世みたいになるのか、それとも何か全く新しい形態になるのか、そこら辺はまったく見当がつかない。

もしかしたら、その前に地球環境が激変し、恐竜が鳥として生き延びているように、人類は、妙に脳と言語機能が発達したネズミ系の小動物(ミッキーマウス!?)となって生き延びたりするのかも‥‥などと考えたりもする。

 *「ネズミ系の小動物」という設定はここから来ています。

しかし、いずれにしても、人口が激減し、平均寿命も低下し、人類が「その他大勢」の動植物の中の一つ(今もそうだけど)に落ち着く未来は、それほどわるいものではないと思う。

生きている限り、同類の仲間と、他のありとあらゆる生命や物質と、助け合ったり、食べたり食べられたり、コミュニケーションを取ったり、遊んだりしながら、生きる。そして、病気でも事故でも、自然災害でも、飢えでも、老いでも、とにかく死ぬ時がくれば死ぬ。

何だそれ。

まったく普通ではないか。

おわりにー選択

最後に少しもっともらしいことをいうと、仮に「ソフトランディング」がありうるとしたら、それを主導するのは共同体家族ではないかと思う。

自然を破壊・蕩尽することで「豊かに」暮らすという近代以降の方向性を大々的に転換するというような巨大プロジェクトを率いることができるのは、おそらく、共同体家族だけだから。

人類史としては美しいストーリーかもしれない。直系家族が国家を作り、共同体家族が帝国を繁栄させた。ジョーカーの核家族は科学技術を解き放ち、文明の大転換をもたらした。それが行き過ぎに及んだとき、再び共同体家族が底力を発揮して地球と人類を和解させ、サステナブルな未来を導くのだ。

いい話だねえ。‥‥とは思うが、正直なところ、ソフトランディングはないんじゃないか、と私は思う。人類はちょっと増えすぎた。あまりにも急激に増えすぎたのだ(↓)。

 

人類だけが豊かに栄える「サステナブルな地球(あるいは宇宙)」などというものはあり得ないと私は思う。

おそらくは自然の摂理として、適正規模に戻るまでは、自然災害や戦争の絶えない世界が続く。あるいはまた、気象変動が起きて、否応なく数を減らされたりするのだろう。

世間的には、こんなことはうっかり口にしてはいけない恐怖のシナリオなのかもしれないが、宇宙に属する一個の生物として考えると、別にどうってことはない。

最悪、ちょっと早めに死ぬだけだし。

 *「悪」かどうかももちろん分からない。

さて、ここからが私たちの選択だ。

この人生を、人類のみの繁栄の永続というあり得ない(と私は思う)目標のために捧げるか、自然界の一部として普通に生きるか、私たちは選べる。

前者はどちらかといえば奴隷の人生であり(主人は「人類至上主義」あるいは「人間社会」)、焦燥と恐怖とたぶん狂気の人生である。

後者は、現下の環境の中に生きる人類であるという条件の下で、正気を保ち、最大限平和に楽しく自由に生きる道だと思う。

現下の環境の中に生きる人類であるから、戦争やら何やらに巻き込まれることは避けられない。でも火に油を注ぐようなことをせず、人間や動物やその他もろもろと助け合い、ともに楽しみ、平和な宇宙に貢献することはできるのだ。

どうする?

どうしよう?

私はもちろん、後者を選びます。

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ナチズムが生まれる場所

はじめに

現在の世界には「ネオナチ」という日本語では甘っちょろく感じられるほどの本物のナチズムが繁茂している場所が(私の知る限り)2箇所ある。一つはイスラエル、もう一つはウクライナ西部だ。

*以下「ナチズム」は民族などの属性に基づいて特定の対象を激しく差別・迫害することを指します。

両者はどちらも原初的核家族である。アメリカやイギリス(原初的核家族または絶対核家族)が黙認している点も共通。

「むむ‥何かある」とにらんで考察を進めた結果、壮大な(?)仮説を得たのでご紹介させていただく。

仮説

ナチズムがもっとも発生しやすい場所は、共同体家族地域に対峙する原初的核家族地域である。

(1)世界に残る原初的核家族地域

説明しよう。

原初的核家族とは、ざっくりいうと、国家以前の原初的人類(移動生活の狩猟採集民とか遊牧民とか)の家族のあり方である。

人間は群れで生活する生物なので、基本仕様として集団を作る能力は持っているのだが、多数の集団を束ね、国家を作る段になると、基本仕様だけでは足りなくなる。そのときに家族システムが進化するのだ。

直系家族、共同体家族が備えている「権威」。それは、世代と世代を縦の線でつなぐことで生まれるものだが、この「権威」の軸が、国家のまとまり(凝集力)、秩序(規律)を成り立たせる基礎となる。

 *権威の機能については、この記事この記事をご覧ください。

いまは、全世界のすべての土地に国境が引かれ、いずれかの国に属することになっている。しかし、歴史的には、文明の中心地で国が生まれ、帝国に発展し、周辺の国家形成を促したりした後も、国家に属しているのかいないのかよく分からない土地がそこここに広がりまたは点在していた。そういう時代が長かったのだと思う。

そういう地域は、19世紀以降(なのか?)、どこかの国に領土として編入されたり、20世紀後半になると独立国となったりしたが、家族システムは原初的核家族のままであるケースが少なくない。国の成り立ちは特殊だがイスラエルはそうだし、ウクライナ(東部以外)もそうである。東南アジアの多くの国もそうだ。

そういう国は、国でありながら、自然な国家のまとまりを生む「権威」の軸を持っていない。放っておかれれば国家など形成しなかったはずの人たちで、メンタリティは原初的人類のままなのだ。

(2)原初的人類とは?

原初的人類のままであるとはどういうことか。これはもちろん私の考えだけど、こういうことだと思う。

「家族のためには戦えるが、国家のためには戦えない」

つまり、国民としてのアイデンティティが希薄なのである。

戦争を前提にした書き方をしたけれど、このメンタリティは国家運営全般に当てはまる。言い方を変えてみよう。

「家族には尽くせるが、国家には尽くせない」

しかし、主権国家を基本単位とする現代の世界では、彼らも国家として成り立ってゆかなければならない。国民としてのアイデンティティを確立し、一つにまとまっていかなければならない。

凝集力の核を持たない人々が、一つにまとまらなければならなくなったとき、通常発生するものは差別である。

何か特定の対象(A)を排除すれば、残りの人たちは「私たちは〔Aではないという点で〕同じ」という一体感を得られるからだ。

*例えば、原初的核家族の国家、アメリカの成立には先住民・黒人差別が大きな役割を果たしていることが指摘されている

では、その原初的核家族地域の隣に、非常に強力な共同体家族の国家があったらどうだろう。

国民としてのアイデンティティが希薄な人々が、単に一つにまとまるだけでなく、強烈な国家的アイデンティティを誇る帝国と渡り合っていかなければならないとしたら、どうだろう。

その状況で発生するのがナチズムだ、というのが私の仮説である。

統合の軸を持たない彼らは、任意の対象をそれはそれはもう激しく嫌悪し排除することによって、自分たちをギューっと絞り上げ、凝集力を高めようとする。そうすることで、共同体家族に匹敵する強固なかたまりとなり、国家のために戦う力を得ようとするのである。

検証1ーイスラエルとウクライナ

イスラエルは、アラブ諸国に囲まれ、パレスチナと対峙している。アラブ諸国は文句なしの共同体家族であり、長く帝国の支配下にあったパレスチナ人もそうだろう。

原初的核家族であり、国家としての伝統も持たないイスラエルの民は、共同体家族のパレスチナやアラブ諸国と伍していくために必要な強力な国家意識を形成・保持するために、ナチズムー差別の対象はパレスチナ人・アラブ系住民ーを制度化することになっているのではないだろうか。

ウクライナが対峙しているのはもちろんロシアだ。ソ連が崩壊し、棚ぼた的に独立してはみたものの、ウクライナもまた原初的核家族であり、国家の伝統を持っていない。

東部にはロシア系住民がいてロシアとうまくやっていたけれど、西部はあまりうまくまとまれず、経済的にも苦しいままだった。

何とかしたい。ロシアの一部としてではなく、ウクライナとして、自分たちの国を立派に成り立たせ、名誉ある地位を得たい。

と、そういう状況で、ナチズムが生まれてしまったのではないだろうか。

検証2ーナチ型虐殺事例

原初的核家族と共同体家族の接点でナチズム的事態が発生した事例は他にもある。

例えば、カンボジア・ポルポト政権下でのクメールルージュによる民族浄化(被害者は150-200万人とか(wikiです))。クメールルージュは中国共産党の支援を受けた共産党政権であり、原初的核家族が共産主義国家を目指した(共同体家族と同等の凝集力を得ようとした)ことで発生した事態であったかもしれない。

 *虐殺の規模の大きさは、移行期危機と関係すると思われる。

インドネシア大虐殺では、主たる虐殺対象は共産党関係者だった(被害者は少なくとも50万-。200万以上という説もあるとか(倉沢愛子『インドネシア大虐殺』(中公新書、2020年))。

インドネシアでは共産党は合法で4大政党の一つとして大きな勢力を持っていた。インドネシアは大半が原初的核家族なのだが、一部に共同体家族の地域がある。共産党の隆盛はそのことと関係があるかもしれない。そして、彼らと対峙し、勝利するために、原初的核家族は、ナチズムに基づく虐殺を行うことになったのかもしれない。

検証3ードイツと日本

ナチズムの本場といえばドイツ。直系家族の地である。ナチズムについては、移行期危機脱キリスト教化が重なって起きた悲劇であると基本的に理解していたが、今回、共同体家族との対峙という側面もあるのかも、と考えるようになった。

ナチズムは、反ユダヤ主義として捉えられるのが一般的だが、少し調べてみると、第一次大戦の敗戦以後、ナチ運動が一貫して敵視していたのはむしろマルクス主義者だった。

1940年代初頭にドイツ支配下のヨーロッパで行われたことを考えると、ヴァイマル共和国最後の数年間、ナチの暴力の主な標的がユダヤ人ではなく共産党員と社会民主党員だったことは奇妙に思われるかもしれない。ユダヤ人はもちろんSA〔突撃隊〕に目をつけられたし、NSDAP〔国家社会主義ドイツ労働者党〕が攻撃的な人種差別を行う反ユダヤの党であることに疑いを抱く者はいなかっただろう。しかし、この時期のユダヤ人への攻撃は、ほとんどあとからの思いつきで、左翼の支持者を攻撃する際、目についたものに攻撃の矛先が向かっただけのように思われる。

リチャード・ベッセル著 大山晶訳『ナチスの戦争 1918-1949』(中公新書、2015年)41-42頁

これはナチスを支持したドイツ国民についても同じで、1930年代前半の段階では、NSDAPに投票した人々が明確に支持していたのは反マルクス主義の主張であって、反ユダヤについては「黙認」していたという感じだったという。

ヒトラーが闘争により勝ち取らなければならないと考えていたドイツ民族の「生存圏」は「第一にロシアとその周辺国家」だった(坂井栄八郎『ドイツ史10講』195頁)。

当時のドイツは、共産主義ロシアと対峙するために、ユダヤ人迫害を必要としたのかもしれない。

原初的核家族とは異なり、直系家族には権威の軸がある。しかし、それは本来は都市国家や領邦国家向けのものであり、国民国家を支えるにもやや弱く、帝国となれば「到底無理」という体のものなのだ。

その直系家族が大帝国建設という壮大な夢を見て共同体家族ロシアに対峙したとき、本来持ち得ないレベルの凝集力を得るために、ナチズムが発生してしまう、というのは、ありそうなことのように思われる。

同じことは日本についても言える。私は日本にナチズムが跋扈した時代があるとは考えていないが、民族浄化的な虐殺ということでは、関東大震災(1923年)のときの朝鮮人虐殺があり、日中戦争の南京事件(1937年)がある。

関東大震災のときには社会主義者も多く殺害されており、ロシア革命(1917年)の影響による共産主義拡大への警戒感が一つの要素として存在したことは間違いない。南京の虐殺は、簡単に勝てると思って仕掛けた戦争で中国側の思わぬ強靭さに接した後で起きた事件である。

おわりに

私が刑法学をやめ、今やっている方向の研究に乗り出した理由の一つに、ふと「自分が生きていて、社会科学の研究などしているときに、日本がまた大虐殺とかすることになったら嫌だなあ」と思った、ということがある。

その懸念は、高齢化と人口減少が続く以上はありそうにない、ということで一旦は収まったが、そうこうするうちに、ウクライナ危機が発生し、ウクライナ東部のロシア系住民に対してなされていたことを知り、イスラエルで起きていることを知った。

とくにイスラエルのことは全然よく知らないが、どちらも移行期危機とはいえないのではないかと思う。

いまは「○○になったら嫌だなあ」というようなことは基本的に考えない(考えても仕方ないので)。しかし、それがどういう現象なのかは理解したかった。

私の場合、理解するということは、その対象物を「憎まないで済む」ことを含む。感情的にならず、冷静に、ほどほどに暖かい目で観察できる、ということだ。

前回はアメリカについてそれができて、よかったな、と自分では思っていた。

この「ナチズムが生まれる場所」は「アメリカ II」の副産物なのだが、ナチズムすら憎まないで済むなんて、結構すごい達成ではなかろうか。

カテゴリー
社会のしくみ

アメリカ II (3・完)
ー帝国の繁栄と衰退ー

 

はじめに

なぜ、アメリカは巨大な格差を放置してますます状況を悪化させ、軍事介入やCIA秘密作戦に熱中し続けているのか。

「権威」の不在に着目し、その謎を解き明かすシリーズの最終回。
いよいよ、アメリカの建国から現在までを追いかけよう。

建国ー独立戦争の英雄の下で

Washington Crossing the Delaware by Emanuel Leutze, MMA-NYC, 1851

アメリカの初代大統領は独立戦争の英雄ジョージ・ワシントン(在任1789−1797)である。

総司令官として独立戦争を勝利に導いた彼は「生きながらにして神格化の途上にあった」というが、戦争終了後は最小限の兵力を残して軍を解体、自ら権力を握ろうとはせずに地元に帰る。しかし、

当時の人々にとって、大統領に相応しい人物はワシントン以外に考えようもなかったし、そもそもワシントンを想定しつつ、合衆国憲法第二条の大統領に関する規定が作られたともいわれる。

和田光弘『植民地から建国へ』アメリカ合衆国史①(岩波新書、2019年)164-165頁

ワシントンは、周囲からの強い働きかけに応じて大統領選挙に出馬、満票を得て、アメリカ合衆国初代大統領に就任するのである(1789年4月30日)。

彼は大統領を2期務めて退任する(3期目は出馬せず)が、「終身で務めてくれると考えていた者も、当時のアメリカ国内には多かった」という(和田・180頁)。

軍歴と人格により圧倒的な信頼を勝ち得て、終身の大統領就任を望まれる。まるで古代ゲルマン民族の王のようではないか。

バラバラな植民地の寄せ集めにすぎなかった13州を一つの統一国家にまとめ上げる力となったのは、1つには、イギリス本国という強大な敵との戦いとその勝利、そして英雄ジョージ・ワシントンの存在であったと考えられる。

ただ、「権威」なき原初的核家族の英雄による建国の場合、相続争いや遺産分割で国はまもなく分裂し弱体化していくのが通例である(クローヴィスとカール大帝の例についてこちら)。アメリカはどうやってこれを乗り切っていったのであろうか。

13州を一つの統一国家にまとめ上げる力となったのは、①イギリス本国という強大な敵との戦いとその勝利、②英雄ジョージ・ワシントンの存在だった

「常道」の確立ー連邦裁判所と政党対立

(1)政党対立

アメリカ建国の父たちは、当初から「国王」を持たない共和政体の脆弱さを認識していたという。

古代ローマは版図拡大に連れて共和政から帝政に移行したし、ピューリタン革命後のイギリスも結局王政に回帰した。当時は「共和政は政治的に脆弱だ」というのが常識だったのだ(和田・161頁)。

しかし、君主制のイギリスを反面教師としたアメリカに、「国王」の選択肢はなかった。

広大な領土を傘下に収める「新共和国」存続の困難さを憂慮した政治指導者たちは、これまで統合の中枢にあった国王が存在しない今、「有徳の市民」が私益ではなく公益を優先させることでシステムの暴走を防げるとの見通しを抱いていた。公共善の防衛を謳う共和主義の主張であ〔る〕。

和田・161頁

つまり、建国の時点で、彼らは「国王はいないけど一つにまとまらなければ」と強く意識しており、大統領たるワシントンの下、皆が公益実現に向け一丸となって国家の運営にあたることを想定していたのである。

ところが、日本人から見ると「さすが」としかいいようがないが、以後アメリカ政治の基本モードとなる二大政党の党派対立は、早くもワシントン大統領の任期中に発生しているのだ。

「第一次政党制」と呼ばれる連邦派(商工業中心の国づくり・強力な連邦政府を志向)と共和派(農業立国・州の権限尊重を求める)の対立の様子は、非常に原初的核家族的で面白い。

1820年代後半に形成される第二次政党制などとの違いは、極論すれば、互いに相手の党派の存在を政治的に認めていなかった点にあるといえる。つまり双方とも自分たちのみが正しい道筋を示していると確信していたのであって、意見は異なっても互いの存在を認めた上で政権を相争う政党政治のあり方とは、大いに趣を異にしていたのである。

和田・172頁

日本では、どうしても一つの勢力が政権に落ち着いてしまい、いくら頑張っても二大政党制にならないというのに、アメリカでは国が動き出した途端に意に反して政党制が生まれてしまう。家族システムの作用としかいいようがないであろう。

自分たちの考えを素朴に正しいと信じている人たち(つまり権威を持たない人たち)の間では、意見が異なれば即座に対立が生じる。おそらく、その単純な成りゆきが、二大政党制の基礎なのだ。

最初の合衆国連邦議会の様子
https://constitutioncenter.org/blog/happy-birthday-to-first-united-states-congress

(2)連邦裁判所

手元にあるはずの本(こちらです)が見つからず、うろ覚えで申し訳ないのだが、建国当初から、連邦最高裁判所は自ら積極的にその権限を強化するべく行動していった(違憲立法審査権を確立したとされる有名な判例は1803年に出ている)。

こうして、ごく初期のうちに、スコウロネクのいう「裁判所と政党からなる国家」、私の言葉では「暫定権威(連邦裁判所)+党派対立」を基礎とする国家の構造ができあがったわけである。

原初的核家族のアメリカでは建国後まもなく意図せずに二大政党制が生まれ、連邦裁判所が暫定権威を担い、「裁判所+党派対立」の基本体制が確立した

南北戦争(1861-1865) 

https://www.battlefields.org/learn/articles/north-carolina-civil-war

(1)合衆国の再統一

建国の父たちが懸念した通り、広大な領土を収める新共和国アメリカは、19世紀後半に分裂の危機を迎える。

このときに起きた内戦(南北戦争)の死者数をご覧いただきたい。

戦死者数動員者総数人口1万人当り死者数
独立戦争4435217000117.9
南北戦争4983323263363181.7
第一次世界大戦116516473499111.1
第二次世界大戦4053991611256629.6
ベトナム戦争902001533032.8
貴堂・後出108頁
(独立戦争と南北戦争についてはもっと多く数える文献もあるそうです)

南北戦争は、アメリカが戦ったすべての戦争の中で、最大の(アメリカ人の)死者を出した戦争なのだ。 

南北戦争とはいったい何だったのかと考えたとき、鍵になると思われるのは、(1)で見た領土の拡張である。

大西洋岸の13州から始まったアメリカは、1850年までにこれだけ領土を広げ、人口も相応に増加した。 

連邦裁判所と政党対立でどうにかやりくりしていた原初的核家族の「小さな政府」(と国民)に、これだけの領土をまとめていく能力はなかったはずである。

南北戦争は、おそらく、原初的核家族の集団が二つの陣営に分かれて総力戦を戦い、雌雄を決することで、新たに統一を成し遂げる、合衆国再統一のための戦争だったのだ。 

(2)新たな建国ー生まれ変わるアメリカ

南北戦争は、州の主権を尊重し「小さな政府」しか持たなかったアメリカが、より「国家らしい国家」に生まれ変わる転換点となる戦争だった。

連邦政府は、総力戦となる内戦を戦うなかで、それまで州に奪われていた通貨発行権を国家主権の名において奪い返し、連邦課税を実施し、財政政策の主導権を握った。さらに、「祖国のために死ぬ」ことを強いる連邦徴兵を、一気に実現していった。

また‥‥、再建期には、市民権法や憲法修正第13条、第14条、第15条などで、連邦市民権の概念を確立し、それまでの連邦と州の関係を大きく変質させて、国家主権の優越を確立していったのだ。リンカンがゲティスバーグ演説で、「ユニオン」に代えて「ネイション」を使ったのは、南部連合が離脱宣言で主張した、州権論的な国家観を否定するためだった。

貴堂嘉之『南北戦争の時代』アメリカ合衆国史②(岩波新書、2019年)113-114頁

とはいえ、彼らの家族システムは、原初的核家族のままである。

これ以後、アメリカの国家および政府の規模は拡大の一途をたどる。それは、連邦裁判所と二項対立から成る「国家なき国家」が限界に達し、「大きな政府」を持つ中央集権型国家へと変貌を遂げていく過程だが、大きな政府の適正な維持こそは、「原初的核家族の国家」にとって、最大のチャレンジなのだ。

アメリカは、南北戦争による「再統一」を経て、中央集権型国家に変貌を遂げていく

帝国への道

南北戦争後、先住民の迫害(というか虐殺)と同時に、大統領選や中間選挙の投票率が20年に渡って(1870-90)80%前後を記録し続けるという「デモクラシーの時代」を築いたアメリカが、次に進んだのは、海外進出、つまり「帝国」への道である。

北米大陸の征服を完了した後、アメリカは、中南米、太平洋島嶼部を自らの勢力圏として固めることに力を注ぎ始めた。

1904年、セオドア・ルーズベルト大統領は次のように述べ、アメリカが今後、(当面は)地域の「国際警察」としての責務を積極的に担っていくことを宣言する(1904年年次教書・28頁)。

我が国が望むのは隣国が安定して、秩序があり繁栄していることだ。‥‥〔しかしながら〕彼国が愚行を繰り返し、無力に打ちひしがれて、文明の紐帯を弱めてしまったときは、文明国の介入を受けざるをえない。西半球の場合はモンロー・ドクトリンを信奉するアメリカが‥‥国際警察力を発動することになる。

*前後の内容を含め、中野耕太郎『20世紀アメリカの夢』アメリカ合衆国史③(岩波新書、2019年)27頁周辺参照

*いわゆる「モンロー・ドクトリンのルーズベルト系論」。オリジナルのモンロー・ドクトリンの主眼が南北アメリカ大陸へのヨーロッパの干渉を排する点にあったのに対し、ルーズベルトは南北アメリカ大陸におけるアメリカの(武力行使を含む)秩序維持の責務を根拠づけるものとする新解釈を示した。

棍棒を持ってカリブ海を歩き回るルーズベルト(当時の風刺画)

中央集権化が進行する時期、北米大陸征服を終えたアメリカは海外に進出し、「帝国」への道を歩み始める

二つの世界大戦 

(1)第一次世界大戦

セオドア・ルーズベルトの宣言は、新興国として出発したアメリカが、西欧の干渉を排して国力を充実させるという内向きの姿勢(オリジナルのモンロー主義(孤立主義)だ)から、西欧列強の一角として、積極的に世界にコミットする姿勢に転換したことを示していた。

実際、1870年から1913年の人口および経済の成長は、世界に類を見ないレベルに達していた。その基礎となった教育水準はさらに上昇を続け、さらなる国力の充実を約束していた。

アメリカは、その勢いに見合った活躍を求め、ついに「自由と民主主義」のリーダーとして名乗りを上げるのだ。

1917年4月2日、第一次世界大戦への参戦を決定したウィルソン大統領の議会演説をお聞きいただこう。

我々の〔戦争の〕目的は、世界の暮らしの中で、利己的で宣誓的な権力に反対し、平和と正義の原則を確立すること、そして、今後この原則を守り、保証するために、自治を行う真に自由な諸国民の間に、目的と行動の協調関係を樹立することです。‥‥世界は民主主義のために安全にされなければならないのです。

*中野・前出63頁

(2)「大きな政府」へ

大きな戦争を戦うということは、大勢の人間と大量の物資を組織的・計画的に動かすということであり、その実行にはどうしても大きな政府が必要になる。

南北戦争後に初めて「国家らしい」連邦政府を持つようになったアメリカは、大戦に参加する度に、社会・経済的な統制の能力を高め、より「大きな」政府に持つ国家に生まれ変わっていくのである。

1929年に始まった大恐慌は、アメリカが「大きな政府」を積極的に肯定していく契機となった。

1933年に就任したフランクリン・ルーズベルト大統領は、就任演説で、次のように述べている。

我々が恐れなくてはならないのは、恐怖そのものだけです。‥‥国民は行動を求めています。今すぐ行動せよと。‥‥議会にもう一つ危機への対処の手段を要請したい ------ 緊急事態に対する戦争を行えるように行政権力を拡大してほしいのです。

*中野・前出135頁

以後、1969年までの36年間、アイゼンハワー(共和党)2期を除いて民主党が政権を独占する「長いニューディール」の時代が続く。

アメリカが「二項対立」を封印し、大きな政府の下に一つにまとまって、国内では国民の福祉を、世界に向けては「自由と民主」(と豊かさ)を実現していこうとする理想主義の時代である。

しかし、彼らの「大きな政府」は、旧ソ連や中国共産党のような強大な権威に基づくものではない。

「二項対立」を封印したアメリカが、大きな政府の下で国民の統合を維持していくためには、憲法の理念、戦争、排外主義といったあらゆる手段を駆使していかなければならないだろう。

(3)第二次世界大戦

フランクリン・ルーズベルトが参戦の意図を語った1941年の一般教書演説について、中野先生にご紹介いただく(適宜改行します)。

冒頭ローズヴェルトは「アメリカの安全保障が今ほど外部からの大きな脅威に晒されたことはない」と危機感を煽ったうえで、「もはや我々は慈悲深い心を持つ余裕などない」と戦争が不可避であることを示した。

そして大統領は来るべきアメリカの戦争の大義を「人類の欠くことのできない四つの自由」ーーすなわち、①言論と表現の自由、②礼拝の自由、③欠乏からの自由、④(侵略の)恐怖からの自由、に求め、これを「〔日独伊三国同盟による〕専制政治の新秩序の対極に」位置づけた。

重要なのは、「四つの自由」の理念がアメリカの国家的目標であるばかりか、「世界のあらゆる場所で」実現されるべき理想として語られたことである。例えば、四つのうちで最もニューディール的な「自由」である「欠乏からの自由」は次のように敷衍されたーー「それは、世界的な観点から言えば、あらゆる国で、その住民の健全で平和な生活を保障するような経済的合意を意味」する、と。

この教書はアメリカがついに孤立主義を脱し、世界政治に本格的にコミットする決意の言葉でもあった。

中野・156頁
戦争目的の周知のために流行画家ノーマン・ロックウェルに描かせた「四つの自由」

理想主義に基づく世界政治への本格的コミットメントという方向性は、中等教育の普及が規定する下意識の健全な発露であり、「自由」の名の下に世界に打って出たアメリカの行動は完全に自然で正常である(倫理的当否について語るものではない)。

憲法的理念、排外主義、使用可能な全てのツールを総動員して第二次世界大戦を戦い終えたとき、アメリカは、世界に並ぶもののない超大国となっていた。

また、総力戦を戦った結果として、その国家には、極めて大きな政府が備わり、政府、軍、大企業、アカデミア等から成る「軍産複合体」が意思決定機構の中心を占めるようになっていた。

しかし‥‥この期に及んでも、アメリカの家族システムは共同体家族に進化したりなどしていない。原初的核家族のままなのだ。不釣り合いな「大きな政府」を持つこととなった国家の運命や、いかに。

二つの大戦を経て世界に並ぶもののない超大国となったアメリカは、同時に、巨大な政府を持つ国家となっていたが、家族システムは原初的核家族のままである

冷戦

(1)世界規模の「二項対立」

大戦以来の「大きな政府」は、民主党政権の下で、国内では「偉大な社会」の理想を追求する福祉国家(Welfare State)として開花する一方、対外関係では、軍事国家(Warfare State)として機能した。

*豊かで平等なこの時期のアメリカについてはこちらをご参照ください。

世界が荒廃する中、ただ一人無傷で、圧倒的な軍備と経済力を手に、世界の中心に立っていたアメリカ。その国は、しかし、自ら開発した核兵器の恐怖に足を掬われ、共産主義に恐れを抱き、すぐさま世界を敵と味方の二つに分けて、冷戦をスタートさせるのだ。

まるで、強力な中央政府が存在しない世界で、秩序を保つ方法は、核家族にはお馴染みの二項対立しかないというかのようである。

この「トルーマン・ドクトリン」は、世界政治の現状を「多数者の意思に基づく」自由な生活様式と「恐怖と圧制」の政治秩序との闘争と捉え、前者の擁護のためには、アメリカが他地域に介入することも避けられないと説明していた。

また‥‥こうも述べられた。「全体主義の種は悲惨と欠乏の中で育ち‥‥よりよい生活の‥‥希望が消えたとき完成する」と。ここに「欠乏からの自由」のレトリックは、共産圏膨張の「恐怖からの自由」—- つまり冷戦の戦いへと展開していく。

中野耕太郎『20世紀アメリカの夢』178頁
古矢旬『グローバル時代のアメリカ』6頁

この時期、アメリカの政府支出はさらに飛躍的な伸びを見せているのだが(↑)、この巨大な政府は、冷戦という特殊な戦争を戦う過程で、通常の政府が持ちうる「大きさ」とは質的に異なる、2つの「飛び道具」を手に入れる。

(2)金融覇権ー基軸通貨ドル

その一つは、ドルが国際金融の基軸通貨としての地位を確立したことによる金融覇権である。

‥‥ドルというのは魔法の通貨で、貿易収支の赤字が重大化した局面の間も、少なくとも2002年4月までは価値が下がることがなかった。まことに魔法のような動きを見せたわけで、経済学者の中にはそこから、アメリカ合衆国の世界経済における役割は、もはや他の国々のように財を生産することではなく、通貨を生産することなのだという結論を演繹したものもいる。

エマニュエル・トッド『帝国以後』130頁

私が理解している範囲でざっくりいうと、ブレトン・ウッズ体制下での基軸通貨としての地位、IMFや世界銀行の政策に対する事実上の支配権、マーシャル・プランを通じた欧州への多額の復興支援等を通じて、アメリカはグローバル金融を支配する地位に着いた。

政府支出の増大と産業競争力の低下で貿易赤字が常態化し、経済的覇権が危うくなった後も、金本位制を止めてドルを金(ゴールド)から切り離すなどして乗り切り(ニクソン時代の1971年)、唯一の大国としての謎の金融支配力を通じて、「どれだけ借金をしても潰れない」「ドルを刷ればいくらでも支出ができる」という謎の状態を作り上げたのだ。

*金本位制とは、「金(ゴールド)だけが本物のお金(マネー)であり、通貨は金(ゴールド)の引換券にすぎない」という考え方の制度で、この制度の下では、金(ゴールド)の裏付けなしにドルを刷ることはできない(ドルと金を引き換える(兌換)義務がある)。ブレトン・ウッズ体制は純粋な金本位制ではなく、金=ドル本位制というような感じのものだったという話だが、このことの意味は私にはまだわからない(いつか分かったら説明します)。また、金(ゴールド)とドルの交換レートが第二次大戦当時のアメリカの経済力を前提としたレートで固定していたため、1971年のアメリカにとっては「過大評価」となっていた(円は1973年に変動相場制となった瞬間に固定時の360円から約260円に上がっている)。ゴールド不足とドルの過大評価に悩んでいたアメリカは、金本位制を止めたことで、ゴールドなしにドルを刷れるようになり、また実力に応じたドルの切り下げにも成功したのである。
 

(3)秘密作戦

もう一つは、CIAなどの諜報機関を通じた秘密作戦である。

秘密の工作活動は第二次世界大戦期から行われていたが、朝鮮戦争の後、財政引き締めの観点から通常兵器の大幅削減が目指された際に、改めてその使用が拡大されたという(通常兵器の穴を埋めたもう一つは核兵器)。

*アメリカの正規軍の実力が(軍備の割に)大したことないというのはある程度定説なので、有効性の観点から選択された可能性もあるかもしれません。なお、アメリカ軍の「弱さ」について、トッドはつぎのように指摘しています(国家規模の戦争における犠牲的精神のなさは「権威の不在」の明らかな徴標だと私は思います)。

「イギリスの歴史家で軍事問題の専門家であるリデル・ハートが見事に見抜いたように、あらゆる段階でアメリカ軍部隊の行動様式は官僚的で緩慢で、投入された経済的・人的資源の圧倒的優位を考慮すれば、効率性に劣るものだった。ある程度の犠牲精神が要求される作戦は、それが可能である時には必ず同盟国の徴募兵部隊に任された。‥‥」(『帝国以後』121-122頁)

主としてCIAの主導の下で、アメリカ合衆国は、数百にのぼる秘密裏の不法介入を行なっているが、それが行われた地域以外ではほとんど注目されないままに終わっているのである。これらの秘密活動は、通常の統計調査の網の中には入ってこないところで行われている。専門的に言うならば、国防総省は「秘密工作活動」と「不法工作活動」を区別している。前者の場合には、活動のスポンサーが誰であるのかが隠され、そのスポンサーに関して「まことしやかに否認する」ことが許されているのに対し、後者の場合には、活動の存在自体が隠蔽される。しかし、実際には、この区別は普通は曖昧で、こうした行動とその実行者は、それがいかに犯罪的な行為で、その実態がいかに徹底的に明らかにされようとも、全く責任を問われないのである。

ジョン・W・ダワー(田中利幸 訳)『アメリカ 暴力の世紀  第二次世界大戦以後の戦争とテロ』(岩波書店、2017年)56頁

CIAの活動については、日本の一般の人々にはあまりにも知られていないと思うので、もう一箇所、引用をさせていただく。

1987年、CIAに幻滅した十数人の元CIA職員が自分たちの組織を作り、次のような声明を出した。

「アメリカ合衆国と戦争状態にない諸国、合衆国に対して十分な物理的損傷を与えるような能力を有していない諸国、あるいは「共産主義」か「資本主義」かという問題で、合衆国に対して悪意を全くもっていないか強い関心をもっていない国々、そのような諸国の数百万人にのぼる人たちが、アメリカの秘密工作活動で、殺傷されたりテロ行為の犠牲にされたりしている」

これらの元CIA職員は、詳細な情報を提供していないが、「第二次世界大戦以後、アメリカの秘密工作活動の結果死亡した数は、少なくとも600万人にのぼっている」と結論づけている。

同・58頁

https://theintercept.com/2015/11/12/edward-snowden-explains-how-to-reclaim-your-privacy/

思い出していただこう。謎の金融支配力、決して責任を問われることのない秘密作戦遂行能力、この恐るべき権力を握っている主体は、原初的核家族である。

そして「中等教育の普及+少数のエリート」という絶妙な配置の時代はまもなく終わる。国民全体の利益のために「大きな政府」を担うことのできる本物のエリートはいなくなり、高等教育による国民の階層化と私益を追求する(にせ物の)エリートの時代がやってくる。

彼らの手にそれらの権力が渡ったら何が起こるであろうか。
多分、それが、いまのアメリカで起きていることである。

巨大な政府を持つアメリカは、冷戦を経て、
①謎の金融支配力、②CIA等による秘密作戦の自在な遂行能力
という恐るべき権力を手に入れた。

最後の政権交代ーニクソン政権の誕生

https://www.theguardian.com/us-news/2020/nov/12/from-the-archive-1968-president-elect-nixon-planning-for-a-smooth-transition-of-power

「長いニューディール」とも言われる民主党時代(1933-69)にも、一度だけ共和党への政権交代が実現したことがあった。1953-61のアイゼンハワー大統領の時代である。

トルーマンの不人気と朝鮮戦争の泥沼化を背景とした政権交代で、「長い民主党時代の小休止」(中野・191頁)とも評されるこの時代、政権は「宗教戦争のごとき民主党の理念外交に警鐘を鳴らし、また伝統的な財政均衡論の立場から無節操な軍事費の増大を批判」(中野・191-192頁)して、通常兵器の大幅削減を目指すなどしたというが、冷戦の継続、福祉国家という基本路線に変化はなかった。

「長いニューディール」の終焉をもたらす本当の意味の政権交代が起きたのは、ニクソン共和党政権(1969−1974)誕生のときである。

「政権交代」を「民意に応じて政治の大きな方向性が変わること」と定義しよう。そうすると、ニクソン政権の誕生は、アメリカ史における最後の政権交代だったのではないかと思う。

ニクソンは誰の心を掴んで当選したのか、彼の演説を聞くとそれが分かる(共和党候補者指名大会での演説 中野・215頁)。

〔今や〕都市は煙と炎に包まれ、夜にはサイレンが鳴り響く。遠く海外の戦場で死にゆくアメリカ人、国内で違いに憎しみ合い、戦い、殺し合うアメリカ人達。数百万人のアメリカ人が怒りに震えているのがわかる。‥‥それはもう一つの声‥‥阿鼻叫喚の喧騒の中での静かな声だ。それは大多数のアメリカ人、忘れ去られたアメリカ人----デモで雄叫びをあげるような人ではない----の声である。

1968年、それは正に「高等教育の頭打ちが見えて」きて「理想主義への反発が生まれ」たそのときである。反発したのはもちろん、高等教育に達することが見込めなくなった非エリートの労働者たち。

ニクソンが狙い撃ちにしたのは、(自由貿易による)国内産業崩壊の影響をじかに被り、高等教育組が推進した人種差別撤廃政策で黒人に社会的・経済的地位を奪われる恐怖を覚え、理想主義に背を向けたサイレント・マジョリティ、白人非エリート層だったのだ。

このとき、彼らの票は、ニクソン共和党に32州での勝利を与え、本物の政権交代を実現させた。

ニクソンは、対外関係においては、ベトナムから兵力を撤収し、大統領補佐官ヘンリー・キッシンジャーとともに、現実主義の名の下で、中国やソ連との関係を改善し、戦略兵器を削減する「帝国」のダウンサイジングを行った。この現実主義は、主に財政上の必要によるものであったというが、非エリート層の意向にも合致しただろう。

では、社会・経済政策はどうであったか。

ニクソン政権は、福祉国家から新自由主義という極端な変化のちょうど移行期にあたる政権であり、その政策には両方の側面が見られるという(例えば黒人解放のためのバス通学、アファーマティブ・アクションなどは主にニクソン政権期の政策だ)。

しかし、経済政策という点でいえば、ニクソン政権は、確かに、新自由主義への最初の一歩を踏み出した政権だったといえる。

すでに述べたように、政権は、冷戦期の貿易収支の悪化に、金本位制の廃止等の金融政策で対応した。

労働者階級の生活の向上には、国内産業の育成こそが必要だったのに、政権は「小さな政府」「自助の精神」を称揚して彼らを放置し、金融という「魔法」によって資本家の利益を確保する方向に舵を切ったのである(この辺りの政治家の「裏切り」についてはこちらもご参照ください)。

にもかかわらず、労働者階級の不満は、ニクソン政権には向かわず、大学生たちのベトナム反戦運動や黒人解放運動に向かった。このとき、黒人への反感も醸成されたのだ。

高等教育組に反感を抱く白人非エリート層の支持によって実現したニクソン共和党政権は、民意によって政策の方向性が転換した「最後の政権交代」だった。

「大きな政府」のその後

ニクソン共和党への転換が「最後の政権交代」ではなかったか、というのは、これ以後、とくに1981年のレーガン政権以降、アメリカはほぼ「誰が政権をとっても同じ」という状況に陥っているからである。

こんなのが作られてSNSで人気になるほど「みんな同じ」感があるのだ。 
https://ifunny.co/picture/reagan-nerd-cool-dumb-classic-reagan-reagan-reagan-ah-eloquent-5INvk8Ed9

レーガン時代に確立した新自由主義・新保守主義(ネオコン)の路線が、その後の政権で揺らいだことはなかった。

90年以前であれば「親ソ」それ以降は「権威主義」とみなした国々への終わることのない軍事介入(CIAの秘密作戦はレーガン期に再度強化されている)。

ところで、トッドは、軍事予算をめぐり、1990年代のアメリカに興味深い転換があったことを指摘している。

ソ連が崩壊した1990年から1995年からの5年間のアメリカには、軍備の縮小による対外収支均衡に取り組んだ形跡が見られるという。

*軍事予算は1990年から1998年の間に28%(3850億ドル→2800億ドル)、現役の兵力も200万人(1990年)から140万人(2000年)に減少。
*1990年台前半の政府予算の上昇率の低下は、このグラフにも見て取れる。

しかし、1996年から2000年の間に、この傾向は逆転していく。再び軍備の増強が始まり、貿易収支の赤字が爆発的に増大する。なぜか。

どれほど巨額な貿易収支の赤字も金融収入で埋め合わせることができるというドルの魔力は、ドルの信用に依存している。

つまり、ドルが全世界に信用による強制レートと弁済手段としての強制通用力を持つのでなければ、何の意味もないのである。

『帝国以後』132頁

第二次大戦後、アメリカは、唯一無傷で生き残った(しかもなお成長期にある)大国としての圧倒的な経済的優位に基づいてドルの覇権を築いた。

その経済力が失われた今、どうやってその覇権を維持していけばよいだろう。

1999年前後に、アメリカの政治的エスタブリッシュメントは、帝国型の経済、つまり依存的経済という仮説を立てた場合、軍事潜在力が現実に不足しているということを自覚した。

同・127頁

軍事力の再増強は、アメリカ合衆国の経済的脆さが増大しつつあるという自覚から派生するのである。 

同・126頁

国内産業の育成による貿易収支の健全化を諦め、金融支配力=ドルの覇権によって生きていくことを決めた大国。

金融支配力=ドルの覇権の維持のために、「自由と民主主義のリーダー」としての軍事力の誇示や対外介入を続ける大国。

これがアメリカの現在の姿である。

レーガン以降、アメリカは誰が政権を取っても変わらず新自由主義・ネオコン路線を突き進んでいる。

1995-2000年頃以後、アメリカの軍事行動は金融支配力(ドルの覇権)維持を目的とするものとなっている

二項対立の終わり

原初的核家族は、基本的に、行政機構を適正に維持する能力を欠いている。それにもかかわらず、アメリカは、南北戦争、二度の世界大戦、そして冷戦を通じて、巨大な政府を持つ国家となってしまった。

アメリカの現状は、「権威」なき国家の巨大な政府が、「暫定権威」の支配に屈することとなった結果と見ることができると思われる。

現在アメリカを支配する暫定権威。それは、連邦裁判所ではなく、軍ですらなく、おそらく、金融資本とCIAなのだ。

そのような事態を招いた原因は、根本的には、原初的核家族の国家としてはありえないほど、政府が大きくなってしまった点にある。

フィリピンの入管施設のようなメンタリティの人たちが、この巨大な政府を担っていると考えてみてほしい。統率の効かない政府において、最終的に幅を利かせるようになったのが金融資本とCIAだったというのは「なるほどねー‥」という感じではないだろうか。

ただ、そうは言っても、アメリカは、「大きな政府」となる以前には、憲法と二項対立によって国家を保っていた国だ。党派対立、選挙、議会。政治の力はどこに行ってしまったのであろうか。

1969年にはわずかながら残っていた二項対立(政権交代)の力が、その後ほぼ完全に失われた理由は、アメリカI、IIと続けて読んできていただいた方には見当が付くと思う。

高等教育の拡大による社会の階層化は、アメリカでとくに激しい格差と分断を生んだ。

おそらく、アメリカ社会では、「上下の対立」、というより「上による下の支配」の比重が大きくなりすぎて、左右の(イデオロギー上の)対立に意味がなくなってしまったのだ。

トッドは、高等教育の拡大による社会の階層化に「平等の破壊」を通じてデモクラシーを破壊させる機能を認めた。

私は、同じことを「権威」の観点から述べている。高等教育による社会の階層化は、「国家をまとめる」役目を果たしていた二項対立の機能を無化した。

「大きな政府」は一部の人間の利益のために暴走するしかなくなってしまったのである。

アメリカは、
 原初的核家族にはありえないほどの政府の巨大化
 ②「上下」の分断による「左右」二項対立の無化
により、金融資本とCIAが暫定権威として幅を利かせる国家となった

おわりに

人種差別撤廃に向けた運動が白人の平等を揺り動かしたという悲しい事実を解明してしまったトッドは、次のように述べ、彼らの英雄的な努力に目を向けるよう促した。

‥‥このときアメリカのデモクラシーはその人種的な母体から逃れようと努めた。われわれは彼らの試みの英雄的側面を感じ取る必要がある。アメリカ史の文脈においては、これがまさしく天を衝こうという試みであったことを理解する必要がある。

『我々はどこから来て、今どこにいるのか』下・76頁、英語版 227頁

私も同じことをさせてもらいたい。
トッドだったら、こんな風に語るだろうか。

祖国を離れて新大陸に渡った彼らは、理想の国家を目指してアメリカを建国した。見事に成長を果たした後は、「偉大な社会」を求め、世界に冠たる帝国たることを目指した。われわれは、その英雄的側面を感じ取る必要がある。原初的核家族の彼らにとって、これがまさしく天を衝こうという試みであったことを理解する必要がある。

偽トッド語録

狩猟採集民のメンタリティを持ちながら帝国の建設を目指すという正に英雄的な試みの末、完全な寡頭制に陥ってしまったアメリカ。陰謀とかではなく、非常に合理的な過程を踏んで、(もちろん「ある程度」ですが)なるべくしてなった結末だと私は思う。

原初的核家族のアメリカで、巨大化してしまった政府が秩序を取り戻すことはありそうにないし、国民が一丸となって政府を倒すというようなこともありそうにない。

おそらく、比較的近年のうちに、ドルの覇権は崩壊し、金融資本とCIAの帝国は消滅するだろう。

その過程では、アメリカや日本はもちろん、世界中が相当な苦境を経験するだろうと予想はするけれど、それでも、私の気分は明るい(アメリカ I を書いた後とはずいぶん違うのだ)。

だって、それは、金(マネー)がすべてで、自分の領分を守るためには世界の半分を敵に回さなければいけないみたいな、このヘンテコな世界が終わるときなのだ。これが希望でなくていったい何だろう。

私たちがどう生きるかでこの先の世界は変わる。‥‥というのは、まあ、いつの時代も真実だが、それが、この超、ド、激変期に当たっているなんて、楽しい、としか言いようがないではないか。

ねえ、皆さん?

今日のまとめ

  • 建国当初のアメリカは、小さな政府しか持たず「裁判所と党派対立」でなんとかやりくりする国家だった。
  • アメリカは、南北戦争による「再統一」を経て中央集権国家に生まれ変わり、大戦後には巨大な政府を持つようになっていたが、家族システムは原初的核家族のままだった。
  • 巨大な政府を持つアメリカは、冷戦を経て、
    ①謎の金融支配力、②CIA等による秘密作戦の自在な遂行能力
    という恐るべき権力を手に入れた。
  • アメリカは、
    原初的核家族にはありえないほどの政府の巨大化 
    「上下」の分断による「左右」二項対立の無化
    により、金融資本とCIAが暫定権威として幅を利かせる国家となった。
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アメリカ II (2)
ー国家をまとめる5つの方法ー

 

はじめに

アメリカは、家族システムの「権威」が供給する諸機能を持たないにもかかわらず、国家を誕生させ、成長し、歴史上稀有な繁栄を見せた。

いったい、どういうやり方で、国家に必須の機能を補い、国を成り立たせてきたのだろうか。

アメリカの習慣的な行動の中には、「たぶん、これだな」と思わせるものがいくつかある。まず、それらのツールをまとめておこう。

アメリカの「権威」代替ツール

(1)合衆国憲法

建国時、原初的核家族だったゲルマン諸民族はキリスト教を「借り物」の権威として役立てた。

アメリカの場合はどうだろう。ピルグリム・ファーザーズの神話化といったもっともらしい事実があるものの、私は、キリスト教の信仰がアメリカの建国に本質的な役割を果たしたとは考えていない。

ピューリタンの情熱は「プレ近代化」局面にあった人々が「自分たちにふさわしい信仰」を求めた結果であり、彼らはすでに文字を読み、合理的に考える習慣を持ち始めていた。

そのような人々にとって、宗教そのものが真に「権威」の代わりになりうるとは思えないのだ。

権威に代わるものがあったとすれば、それは、合衆国憲法ではなかったかと思われる。

宗教と学問」で書いた通り、西欧は脱宗教化の過程で、学術・イデオロギーの繚乱の時期を迎えた。それは、一神教の神を希求する心の形が、(一時的に)世俗の事物に転用された結果であった。

自由、人権、人民主権、三権分立。こうした輝かしい概念は、言ってみれば、一神教の神の後継者なのだ。

独立宣言、合衆国憲法。誰にでも読める言葉で書かれたそれらの文書は、脱宗教化バージョンの「聖書」として、国家統合の象徴となった。

第一世界大戦での世界デビュー以来、アメリカが何かにつけて「自由と民主主義」などの理念に言及するのは、それがアメリカという国家のアイデンティティそのものとして機能しているからなのだろう。

(2)二項対立

二項対立は、絶対核家族のイギリス、原初的核家族のアメリカが「正しさ」を定立する際の基本的なスタイルであるが、これも権威の軸を代替する機能を果たしているように思われる。

*当事者二者が争う裁判制度や二大政党が争う政治制度を想定しています。 

イギリスの場合、薄いながらも縦型の軸が存在している。おそらく、その薄っすらした軸を中心に、構成員(集団と書いたが近代国家の成立以後は主に個人)が二つに分かれて争うことで、中心に向かう凝集力と似た力を生み、権威の軸を強化しているのだ。  

*比較対象(直系家族)↓

「権威」ありの直系家族の場合 

アメリカの場合には、中心に軸があるとすれば、憲法(的理念)であろう。後で見るように、アメリカでは、建国後まもなく自然に党派対立が発生し、以後の政治の基本システムとなったが、憲法を中心に、二者が対立し、政権を実際に行ったり来たりさせることでバランスを取り、権威の軸に似たものを生み出し、国の統合を保つ仕組みと考えられる。

しかし、「なんとなく」ではあるが、このやり方で安定を保てるのは、国の規模が比較的小さい場合に限られるのではないか、という気がする。

近年のアメリカは、二大政党はあり、政権交代もあるけれど、政治・経済・外交の基本路線は変わらないという状況に陥っている。

なぜそうなったのかは後で検討するが、二項対立という核家族の基本ツールが使えなくなっていることと、アメリカの不調とは関係があると思われる。

(3)戦争

アメリカの歴史には目立った党派対立がなく、あるいは政権交代が起こらない時期が間欠的に発生しているが、それは大抵大きな戦争の(戦中)戦後期である。

*1812年戦争(米英戦争・第二次独立戦争ともいう)後の「好感情の時代」、南北戦争から再建期の共和党時代、第二次大戦前後の民主党時代

このことは、戦争がアメリカにおけるもう一つの国家統合ツールとして機能していることを推測させる。

そう、アメリカ史は何より戦争と征服の歴史である。まずイギリスと戦って独立し、北米大陸を征服(普通は「開拓」といいますが)すると、中南米、太平洋島嶼部を勢力圏として固め、アジアにも進出。

第一次世界大戦への参戦でいよいよ世界をリードしようと試み、第二次大戦でついに並ぶもののない大国となったが、なお共産主義の封じ込めに躍起になって冷戦を始めてしまう。

冷戦期には朝鮮戦争やベトナム戦争などの目に見える軍事介入とともにCIAによる対外工作(クーデターなど)を多用。ソ連崩壊でついに名実ともに「唯一の超大国」となったが、それでも各種戦争や軍事介入、対外工作をやめられず、現在に至る。

という感じである。

*第二次大戦後にCIA等によって行われた秘密作戦の数は500以上とされている。
さしあたりこちらを参照。

この地図を見てほしい。2020年現在、アメリカは現在世界各地に800に及ぶ軍事基地を展開しているのだ。

http://www.overseasbases.net

これを見ていて私の頭をよぎったものがあった。

実を言うと、アメリカ以前にも、「原初的核家族の大帝国」という語義矛盾のような事態が実現したことが(おそらく一度だけ)ある。

アレクサンドロスの帝国である。

アレクサンドロス(前356-323)の頃のマケドニアの家族システムについて確かな情報を得ることはできないが、ギリシャの周縁という地理的・文化的な位置を考えると、原初的核家族と仮定してそれほど的外れではないと思う。

*トッドは古典期のギリシャについて一時的父方同居を伴う核家族(私の用語では原初的核家族の一種)という仮説を立てている。

アレクサンドロスは征服に征服を重ねて大帝国を築き上げ、行く先々に都市「アレクサンドリア」(ペルシャ語・アラビア語ではイスカンダル)を建設するが、帝国は彼の死後間もなく分裂し、マケドニアはやがてローマの属州となる。

これが彼が各地に建設したアレクサンドリアである。
まるで米軍基地みたいではないか。

発達した家族システムを持たない不安定な「帝国」でも、君臨する王が異民族を征服し領土を拡張し続けているうちは求心力を保てる。しかし、征服を止め、覇権戦争をやめると、バラバラに崩壊し、国家として成り立たなくなってしまうのだ。

「戦い続けているうちは倒れない」。国家維持のこの方式を「アレクサンドロス方式」と呼ぼう。

アメリカも、アレクサンドロスと同様に、この方式を(もちろん意図せずに)採用しているのではないだろうか。

(4)暫定権威

以上に加え、はっきりした権威の軸が存在しないアメリカ社会には、つねに「混乱期におけるヤクザ方式」の暫定権威も働いているように思われる。

「混乱期ヤクザ方式」とは、そのときどきでもっとも規律のある機関が存在感を高め、権力を掌握するというシステムだが、建国当時のアメリカでそのヤ‥‥いや、暫定権威の地位に着いたのは、連邦裁判所である。

アメリカにおける連邦司法の権限と影響力の大きさは、合衆国憲法に書き込まれた「計画通り」のものではない。

違憲立法審査権なども、連邦最高裁が自らの判決を通じて、既成事実として確立させていったものなのだ。

国として動き出せば、さまざまな場面で「正しさ」が求められるが、「権威」なき合衆国にはその機能がなかった。そこで、憲法の権威を背負う連邦裁判所に、その任が回ってきたのであろう。

こうして、初期のアメリカ政治における基本体制は、「暫定権威としての連邦裁判所(backed by 憲法)+党派対立」と合い成った。

なお、アメリカの政治学者の中に、これとほぼ同じことを述べている人がいる。スティーヴン・スコウロネクという人である(以下、貴堂嘉之『南北戦争の時代』(岩波新書、2019年)112頁以下参照)。

彼によると、建国当時のアメリカの特徴は、常備軍や中央の課税権限を拒否して政府権力を分散させている点、すなわち「国家不在(statelessness)」にある。

そして、「国家不在」状況において、政府としての一体性を保持する役割を果たしたのは、連邦裁判所と政党であり、当時のアメリカは「裁判所と政党からなる国家」であった、というのである。

*原典は Stephen Skowronek, Building a New American State: The Expansion of National Administrative Capacities, 1877-1920, Cambridge University Press, 1982(私は読んでいません)

アメリカが「国家不在」となったのはアメリカの家族システムが「権威不在」だったからであり、要するに、彼は私と全く同じことを言っているのである。

だから何だという話ではあるが、私がそうそう奇妙キテレツな見解を述べているわけではないと安心していただけるかと思ってご紹介した次第である。

二項対立が今ひとつ機能しなくなっているのと同様に、連邦司法の方も、政治に絡め取られ、往時の輝きを失っているように見える。

では、その代わりに誰が暫定権威を担うようになったのか、ということが、おそらく現在のアメリカを理解する鍵の一つである。

(5)排外主義

トッドはアメリカの人種主義に「平等」を支える機能を認めたが、人種主義を含む排外主義には「権威」に代替する機能があることも見逃せない。

権威の重要な機能の一つは、「自然な一体感」つまり凝集力である。前回述べたように、これは秩序の基盤であると同時に、外敵からの防衛(国防)の際に力を発揮する。

家族システムに「権威」を持たない人々が、凝集力を高めなければならない状況に追い込まれたとき、発生するのが排外主義だ。

何らかの対象を強く排斥することによって、その反動によって、凝集力を生むのである。

アメリカの場合、まず、先住民と黒人奴隷を排除することで、建国を成し遂げた。

領土拡張の歴史は先住民排除の歴史でもあり、1830年にはインディアン強制移住法が成立している。

先住民排除(というか虐殺)の動きは、南北戦争の後、より国家らしい国家に生まれ変わる「新たな建国」の時期(後で説明します)に、さらなる高まりを見せた。

西部では1860年から1890年までの間に、伝統的なエリート層のまったくいない社会が開花していったが、それに伴っていたのは、大平原のインディアン25万人の殲滅、人種感情が最高潮に達する状況の中で発生した殺戮であった。

下・23頁

20世紀初頭、アメリカが「国際警察」を名乗って「帝国」への道を歩み始めた時期(これも後で)は、投票要件の厳格化による黒人からの実質的な投票権剥奪や、「ジム・クロウ法」と呼ばれる公共の場での物理的な人種隔離の法制化など、新たな形での黒人差別制度が生まれた時期と重なる。

第一次世界大戦から第二次世界大戦にかけ、大きな政府を持つ中央集権国家に生まれ変わっていった時期には、まず排外主義の高まり(1920〜 第二次KKK、厳格で差別主義的な移民政策)があり、日系人差別が激化した(1940〜 強制収容、原子爆弾によるジェノサイドも?)。

*第二次世界大戦後の黒人差別についてはこちらをご覧ください。

権威か平等かー排外主義の扱い
 
本文でも書いたが、トッドは排外主義を活用したアメリカのデモクラシーを一貫して「平等」の観点から分析している。国家の統合について考えるときに、日本人である私が「権威」に着目し、フランス人であるトッドが「平等」に着目するのは、日本という国家の統合の軸は「権威」であり、フランス統合の軸は「平等」だからだと思われる。

共同体家族が統べる「帝国」を、国家統合のお手本と考えてみよう。彼らの家族システムは「権威=平等」の組み合わせである。このうち、平等が未発達で「権威」だけを持っているのが日本、ローマ帝国で一度は成立した「権威=平等」のうち権威が衰退し、平等だけが残ったのがフランスなのだ。

だから「平等」に国家をまとめる力があるのは分かるし、「平等」の観点から国家の統合を論じることが可能であるのも分かる。アメリカの場合、権威も平等も持っていないから、どちらから論じても議論が成り立つということも分かる。

分かるが、直系家族(権威)→共同体家族(権威+平等)というのが国家形成を促す通常の進化の過程であることを考えると、トッドのアプローチが倒錯していることは否めないと思う。

アメリカ史 第二の基層ー教育と時代精神

(1)教育の進展

日本やヨーロッパと異なり、アメリカは最基層(家族システム)の変化を経験していないので、「時代精神」は教育の層に見事に規定されている。

アメリカ史総論としてまとめておこう。
まずは教育の進展状況である。

初等教育については最初から高い。

中等教育(高校)の充実で世界に先駆け、その後の発展の基礎を築いた。 

*こうして改めて初等・中等教育のデータを眺めていると、イギリスから渡ってきたプロテスタントの人々が、聖書を読み、子供たちに基本的な教育を与えようと地域で努力したことがアメリカの発展の基礎だったんだなあとしみじみと感じます。

高等教育については、まずトッドの本から。

『我々はどこから来て、今どこにいるのか』英語版(Lineages of Modernity) 208頁

1960年以前については次のグラフで感じが分かる(パーセンテージではなく数)。

https://nces.ed.gov/pubs93/93442.pdf

(2)アメリカ史の時代精神

教育の進展状況と「時代精神」の対応関係は、つぎのように整理できる。
(次回の準備として政府の大きさも入れた。)

 

並列はほぼ同じものの言い換え、「/」は二つの傾向の併存

みんなが読み書きできる状況が開拓精神(自由主義)を生み、中等教育の普及が「よりよい社会を目指そう」という進歩主義(理想主義)につながり、高等教育の頭打ちが見えてくると理想主義への反発が生まれ、さらに階層化が進むと開き直って新自由主義に突っ走るのだ。 

(3)教育と「大きな政府」

教育の普及度合いは「大きな政府」の制御能力にも関わりがあることを付言しておく。

「権威」を持たないアメリカで、「大きな政府」がもっともよく機能したのは20世紀前半。中等教育が社会全体に広く拡大する一方、高等教育受益者はごく少数に止まっていた時期である。

高等教育受益者が希少である時期(15%以下を「エリート段階」とするモデルがよく知られている)、彼らは本物のエリートとして機能する。5%とか15%の知識層がその力を発揮していくには、社会に関わり、社会全体のために奉仕するしかないからだ。 

20世紀前半のアメリカは、中等教育の普及による理想主義・進歩主義と、その実現のために奉仕するエリートの両方を備えていた。「大きな政府」機能させるのに最適の条件を持っていたのである。

やがて、20%、30%と拡大していくと、高等教育受益者はエリートとしてのメンタリティを持たなくなり、その力をただ自分たちの利益のために使っていくようになる。社会は高等教育受益者とそれ以外の二つに分かれ、全体に対して責任を担う者はいなくなる。

20世紀後半以降のアメリカが、実際には極めて大きな政府を持っているにもかかわらず、小さな政府を志向する(→「お前たちの面倒を見る気はない」という意味だ)という奇妙な事態に立ち至ったのは、おそらくこのためである。

(次回に続く)

今日のまとめ

  • アメリカにおける権威の代替物は、①合衆国憲法、②二項対立、③暫定権威、④戦争、⑤排外主義 である。
  • 合衆国憲法の理念は一神教の神の後継者であり、ゲルマン民族が建国時に利用したキリスト教(借り物の権威)の近代版である。
  • 建国当初は連邦裁判所が暫定権威を担い、「連邦裁判所+党派対立」がアメリカ政治の基本体制となった。
  • アメリカの時代精神は教育の進展状況に規定されている。
  • アメリカの「大きな政府」は、「中等教育の普及+少数の高等教育受益者(エリート)」の局面で最もよく機能した。
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アメリカ II(1)
ー権威なき帝国の謎ー

目的

アメリカがグローバリズムに走って著しい格差と分断を生み出した機序については、私は基本的にはトッドの説明に納得している。しかし分からないこともある。

新自由主義の弊害はかなり早くから認識されていた。その上、2008年には世界金融危機も起きたし、2012年には大規模な抗議運動「Occupy Wall Street(ウォールストリートを占拠せよ)」も起きた。

格差が生まれてしまったことは仕方がないとして、アメリカはなぜこのときに至ってもブレーキをかけられなかったのだろうか(大統領はオバマだった)。

また、経済格差が顕在化した1980年から現在という時期は、アメリカがCIAなどの諜報機関による代理戦争、代理テロ、その他、ありとあらゆる手法による世界秩序の撹乱に熱中しはじめた時期と一致している。

 *私はウクライナ戦争もこの一部と捉えています。

不平等の下意識が拡大したからってなぜそんな秘密作戦にのめり込まなければならないのか。

私は「よい人間がよい社会を作り、悪い人間が悪い社会を作る」という考えを採用していない。アメリカが何かうまくいっていないように見えるのは、彼らが悪いからでも愚かだからでもなく、システムと状況の相互作用によるものなのであるはずなのだ。

その機序を解明しよう、というのがこの文章の目的である。

仮説:原初的核家族の帝国

トッドの分析を読んで、私はアメリカは絶対核家族というより原初的核家族なのではないかと考えるようになった。アメリカ II はその方向で行かせてもらう。

*絶対核家族だとしても「直系家族の痕跡を喪失した絶対核家族」なので大して変わりはない。

現在のアメリカの混迷は、アメリカが大きくなりすぎたことによる、というのが私の基本的な仮説である。

原初的核家族とは、狩猟採集社会における部族(tribe)のシステムである。本来は国家の形成すら困難な狩猟採集民が、なぜか並ぶもののない超大国として世界を率いることになってしまった、というのが現在のアメリカなのである。

問題が起きない方がおかしいといえるが、
どういう問題なのかは特定される必要がある。

アメリカの大きさ

1776年の独立宣言から数えて約250年、1788年の合衆国憲法誕生発効からだと235年という短期間の間に、アメリカは、人口、領土、そして中央政府の規模という点で、驚くべき膨張を遂げている。

まずはその様子を確認しておこう。

(1)人口

人口はまずこんな感じ。ずっと増え続けているが、とくに19世紀後半からの伸びが著しい。

*1860年頃にイギリスを抜いていると思います。

しかしその割に、人口密度は19世紀の間はあまり上がっていない。領土が大幅に拡張したためである。

ちなみに、日本の人口密度は2010年がピークでその後低下を始めているが、アメリカは当分増え続ける見込みである

(2)領土

建国の基礎となった13州はこれだけである(濃いピンクの部分)。これだけでもかなりの広さではあるが。

その後少しずつ領土を拡張し、1803年にフランスからルイジアナを購入してこれだけ大きくなった(濃いオレンジ、水色、濃い緑)。

そして、1840年代にテキサス、オレゴン、カリフォルニア、ニューメキシコを含む広大な領土を獲得し、ほぼ現在のアメリカ、大西洋岸から太平洋岸に至る大陸国家アメリカになるのである(濃いオレンジ、水色、濃い緑)。

https://maps.lib.utexas.edu/maps/histus.html

(3)連邦政府の規模

詳しくは次回に見るけれど、中央政府にあたる連邦政府の機能は18世紀後半から強化され始め、その後は基本的に拡大の一途をたどる。

アメリカといえば「小さな政府」というイメージがあるが、20世紀以降のアメリカには当てはまらない。

連邦予算の推移を見ると、とりあえず「膨張しているな」ということは分かると思う(青が歳入、赤が歳出)。 

https://stats.areppim.com/stats/stats_usxbudget_history.htm

未開社会と国家はどう違う?
ー「権威」の機能

アメリカ帝国の驚異とは「これだけ大きな国家を原初的核家族が運営している」ということに尽きる。

国家規模の拡大は、歴史的には、家族システムの進化とともに起こるものだった。メソポタミアにおける国家成立の背景には原初的核家族から直系家族への進化があったし、ハンムラビ王がメソポタミアを統一し、秦の始皇帝が中国を統一する背景には、直系家族から共同体家族への進化があった。

それなのに、アメリカは、どういう運命のいたずらか、原初的核家族のままで大国を率いることになってしまったのである。

さて、しかし、原初的核家族であることのいったい何が問題なのであろうか。未開社会と比較して、国家における「権威」の機能をおさらいしておこう。

(1)未開社会

約7万年前から、人類は何らかの倫理観念を持ち、集団の紐帯として役立てていた。その小さな部族的集団(親族が基本)の中では、人間たちはそうそう争うことはなく、大体同じようなことを考えて生きていたのではないかと思われる。

*ときどきニュースなどで「人間の脳には共感を司る部位があることが解明された」「利他性を司る部位が・・」とかいう話があるのはおそらくその関連で、人間の身体(脳を含む)は基本的に毎日接する相手や考え方を「正しい」と前提し、助け合って生きていく仕組みになっているように思う。

こういった集団にも、「長老の発言権が大きい」などの緩やかな権威は存在するであろう。しかし、その種の権威には持続性がなく、国家の軸にはまだ弱い。

狩猟採集民は移動生活が基本なので、移動できる広いスペースがある限り、他の集団との「正しさ」(倫理)の違いが深刻な問題を生じることはない。彼らは素朴に自分たちの考えを正しいものと信じて生きていくことができるのだ。

何らかの事情で他の集団と争いとなった場合、相手集団は単純に「敵」である。戦うか、離れるか。基本的にはその二択で対応するだろう。

*なお、国家の成立に関する社会科学や哲学の議論は「個人」を主体として観念することが多いが(近代化に向かう時期の核家族エリアで始まったからだ)、近代国家が生まれる以前の人類は例外なく集団を基本単位として暮らしていた。国家も「個人と個人」の関係性ではなく「集団と集団」の関係性から生まれたはずなのだ。ということで、少し違和感を感じる人が多いと思うが、集団を基本単位として議論を進める。

↓権威の機能についてはこの記事でも(ほとんど同じ話を‥‥)書いているのでよろしければどうぞ。

(2)国家

定住が始まり、人口が増え、土地が希少になったときが、国家成立のタイミングである。

部族的集団同士の間で「正しさ」のすり合わせた必要になるタイミングと、土地を子孫に受け継ぐことが必要になるタイミングが一致するというのがミソで、土地の継承のために生まれる直系家族の権威の軸が、共有物としての「正しさ」=「法」の基礎を提供する。

未開社会の部族民と(直系家族以上の)国民の根本的な違いは、「正しさ」の基準が自分の内側にあるか外側にあるかであると考えられる。

未開社会の人々が自分たちの考えを素朴に「正しい」と信じるのに対し、「権威」の軸を持つようになると、人々は「正しさ」とは自分の外側にあるものだと感じるようになるのである。

日本には「権威」の軸があるので、その作用は日本人には理解しやすいであろう。私たちの多くは、誰もいない所でも「お天道様が見ているから」行動を律しなければならないという感覚を持っていると思う。これこそが、家族システムの中に「権威」があるということの意味であり、効果なのだ。

権威の軸を持つ社会では、各集団(に属する人間たち)はその軸を「正しさの源」と見て(具体的な中身が分からなくても)それに従おうとする。

それによって生まれる「凝集力」。これが国のまとまりの源である。

これが出来てしまえばシメたもので、あとはこの軸に、行政組織とか、いろいろ付け足していけば、立派な国家ができあがる。この軸を持ってさえいれば、国家を維持することは、大して難しいことではないのである。

(3)国家における権威の機能

①秩序維持

国家において「権威」が果たしている役割は非常に根源的で総合的なものだが、「ないとどういう風に困るか」を理解していただくため、その機能を3つに分けて説明してみたい。

第一は、秩序維持機能である。

権威が確立した社会では(おそらく特に直系家族の場合)、人々は自ら行動を律する傾向を持つようになるし、法を定立することも、警察、司法制度を機能させることも容易になる。

限られた領域に大勢の人間が暮らしている場合、少なくとも最小限の秩序維持機能は絶対に必要といえる。それがなければ、弱肉強食、血で血を洗う抗争の世界となってしまうから。

そのため、限られた領域に人間がひしめいているにもかかわらず、権威が確立していない場合(原初的核家族はこれにあたる)、何が起きるかというと、たいてい、最も強い規律と実力を持つ組織が「権威」を代替することになる。

日本でも、戦後の混乱期などには、ヤクザ組織が地域を治めているケースがあった(と思う)。シチリアのマフィアなどもそういう機能を果たしていただろう。

また、急に国家としてやっていかなければならなくなった国では、とりあえず軍が国の中枢を担うことが多い。他に有効に機能する権威がないからだ。軍事政権は「悪」の代名詞みたいに言われるが、ヤクザだってマフィアだって軍だって、ないよりはあった方がましなのだ。

これも新興国にありがちなもう少し穏当なケースとしては、裁判所(司法機関)が実質的に一番強い権力を持っている場合がある。比較的安定した社会では、信頼感と規律の高さで司法機関が優越するのかもしれない。

大事なことなのでもう一度言う。

広大な領域に少ない数の人間が暮らしているだけなら「権威」が存在する必要はない。自由、自律、すばらしいことである。

しかし、限られた領域に大勢の人間が暮らすときには、権威は絶対に必要である。だからこそ、それがない場所では、自動的に「暫定権威」が生まれてくるのである。

②行政の適正

国家に権威が不可欠である理由のもう一つは、権威があってはじめて行政機能の維持が可能になるためである。

行政とは公共サービスである。したがって、自分の利益よりも「みんなの利益」を優先できるメンタリティが普及していないと、国の行政機能を適正に維持するのは難しい。それを可能にするのは、「権威」の存在なのだ。

フィリピンの入管施設の(日本から見ると)デタラメぶりに驚いた日本人は多いと思う。しかし、「公務の廉潔性」というのは原初的核家族にはよく分からない概念であろう。

*フィリピンは原初的核家族(『家族システムの起源 I 上』336頁以下)。

権威の軸(この文脈では「正しさの基準」)を持たない人々にとって、入所者から金をもらって優遇してやることは単に「win-win」である。自分が得をして、相手も得をする。それだけだ。

したがって、今後もその種の腐敗がなくなることはおそらくないし、当地の一般の人たちは別段問題とも思っていないはずである。

そういうわけなので、アメリカ建国期の「小さな政府」は、原初的核家族には適した仕組みであったといえる。しかし、上に見たように、現在のアメリカ政府は巨大なのだ。

③自然な一体感

上の図を見てもらうとわかりやすいと思うが、権威の軸には、社会に自然な一体感を醸成する機能がある。

日本語だと「同じ太陽の下」とか「ひとつ空の下」と表現される感覚がそれに当たり、社会が適正サイズに収まっている場合には、おそらく、それほど抑圧的に働くものではないと思われる。

*今の日本が抑圧的でないと言っているわけではありません。現代の直系家族国家がやや窮屈なのは、多分、規模が大きすぎるせいなのです(そのうち書きます)。

そうして得られる一体感やまとまり感(凝集力)は、秩序のおおもとでもあるし、外敵から身を守る国防力の源泉でもあるだろう。

したがって、それを持たない人々が、一体感やまとまり感を持つ必要に迫られた場合、何らかの代替的手法を編み出していくはずである。それが何かは、次回の主なテーマとなる。


家族システムにおける「権威」とは、国家の成立に不可欠な基本機能を供給してくれるありがたい存在である。

直系家族は権威の軸を持ち、共同体家族はもっと強力なそれを持ち、絶対核家族は持っていないけど、例えばイギリスであれば、ノルマン貴族の末裔である王侯貴族、彼らが作った行政の伝統、ローマに由来する教会組織などの「権威」の痕跡が数多く残された土地を持っている。

ところが、アメリカは、それに類するものを何一つ持たずに、世界に冠たる超大国となってしまった。

これがどれほど奇妙で、「ありえない」と思しき事態か、ご想像いただけたであろうか。

今日のまとめ

  • アメリカの混迷は、狩猟採集民の家族システムのまま、超大国を率いることになったことによる(仮説)。
  • 進化した家族システムを持つ標準的な国家の場合、権威の軸がもたらす凝集力が国家のまとまりの源となっている。
  • 権威は、①秩序維持機能、②行政の適正、③自然な一体感 を国家に供給している。
  • 歴史的には、国家規模の拡大は家族システムの進化を伴う。「権威なき」アメリカの事例はかなり「ありえない」事態である。
カテゴリー
社会のしくみ

ドイツ(4・完)
-強くて不安定なドイツ-

 

目次

 

ドイツの地殻変動:宗教改革から三十年戦争まで

(1)基本情報:家族システム、人口、識字

「地殻変動」を表す基本情報として、家族システムの生成は前回見たので、それ以外の要素を確認しよう。

〈 人口 〉ヨーロッパ全体の数字だが、16世紀に8100万人から1億4000万人に増加しているという(阿部謹也『物語 ドイツの歴史』145頁)。かなりの増加具合である。

ドイツの人口増加は11世紀に始まっているが、1348年から14世紀末にペストによる大幅減少があったので、15-16世紀はそこからの回復期に当たっていたと考えられる。

〈 識字 〉下の地図をご覧いただきたい。「●」は1480年以前に1台以上の印刷機が稼働していた州(県)であることを表している。グーテンベルクが印刷機を発明したドイツ中南部(ストラスブール~マインツ)からイタリアを中心に、北部ドイツ、ネーデルラント、イギリスに広がっていることが分かる。イタリアを除いて、いずれも宗教改革の中心となる地域である。

『新ヨーロッパ大全 I』137頁

これは宗教改革直前の状況を推認させるデータであるが、宗教改革の過程でプロテスタントとなった地域では(「聖書のみ」の教えに従って)聖書を自ら読むために識字率の上昇に拍車がかかったはずである。

(2)なぜ「宗教」なのか?

南北朝の動乱も応仁の乱も十分に分かりにくいが、日本人のわれわれには、宗教改革はなお一層分かりにくい。直系家族システムに依拠した国家体制を作るための動乱が、いったいなぜ、宗教改革・宗教戦争という形を取らなければならないのか。

しかし、「建国の秘密」を知っているわれわれにとっては、もうそれほど難しい話ではないだろう。

ドイツにおける「舶来の権威」はキリスト教で、それを具体的に掌握していたのは「(皇帝+教会)の複合体」だった。

したがって、「地物」の権威にとって、一つの可能性は、「キリスト教とともに(皇帝+教会)複合体を捨て去る」というものであったと思われる。後の時代のフランスの選択である。

しかし、宗教的権威に反感を抱くよりはむしろうっとりしてしまう直系家族の人々はその方向性を選択しない(時代の問題もある)。彼らが選んだのは「(皇帝+教会)とは縁を切り、キリスト教は残す」という道だった。

その実現には、政治的権威を「(皇帝+教会)複合体」から奪うと同時に、キリスト教を教会の手から奪うことが欠かせない。

そのための戦いが、宗教改革なのだ。

宗教改革(1517-1555)

(1)宗教的側面

宗教戦争、政治闘争の2側面を持っていた宗教改革。まずは宗教戦争としての側面から見ていこう。

①信仰心の高まり

トッドが指摘する通り、宗教改革は、識字率上昇の過程で、自らに相応しい信仰を求めた人々による「信仰心の民主化」運動である(『新ヨーロッパ大全 I』122頁)。

前回も見たように、直系家族のドイツで、識字化の進展は信仰心の深化をもたらしていた(教会刷新運動についてこちら)。

15世紀にはかつてないほどドイツの一般民衆の信仰心は深まっていた。このことは、教会への寄進、マリア信仰、巡礼、聖遺物崇拝や聖人信仰などに見ることができる。このほかにも新しい信仰 Devotio Moderna の動きが北ドイツやネーデルラントに広がり、主として聖書を自ら読むことによって信仰を深めようとしていた。

阿部謹也『物語 ドイツの歴史』(中公新書、1998年)86頁

一方、その同じ時期、ドイツの聖職者たちは、俗物としかいいようのない存在だった。

下級司祭や代理司祭は、ラテン語ができないどころか、一般の農民とほとんどかわらない暮らしをしていた。

彼らの生活は禄によっていたが、その禄を各地にもちながらミサもあげられない司祭も数多くいた。一方、下級司祭にしてみると、給与も一般の職人より安かったから、結婚式や葬式の謝礼で生活を立てるしかなかった。そのために物欲しげな司祭のイメージが広まり、酒や女におぼれる者も少なくなかったのである。

高位聖職者の中には内縁の妻をもっている者も少なくなかった。数十の教区に1000以上もの聖職禄を得て、26000ドゥカーテンもの年収を得ている者もいた。さらに都市の娼家に、聖職者の姿が見られない日はないとさえいわれていた。なかには司祭で娼婦宿を経営している者もいた。

阿部・90頁

その挙句に、教会は贖宥状の販売によって多額の収益を得て、豪華な教会を建て、教皇の贅沢な暮らしを支えていたというのだから、「革命」が起こらない方がおかしいというものだろう。

②騎士戦争と農民戦争

よく知られるように、1517年10月、ルターが贖宥状に反対する「95箇条の論題」を公表したことが、宗教改革の発端である。1520年の論文で、彼は次のような呼びかけを行なった。

教皇、司教、司祭、修道院の者たちは聖職身分と呼ばれ、諸侯、領主、職人、農民は俗人身分と呼ばれる、などということになっているが、これはまさしく巧妙な企みにして見事な偽善である。しかし何ぴともこのような区別に脅かされてはならない。何となれば、実はすべてのキリスト者は聖職身分に属するのであり、キリスト者の間には、役目の違いを除いて、いかなる違いも存在しないという正当な理由があるのである。このことはパウロが次のように述べて示したところである。すなわち、われわれは単一の集団をなすものであるが、その成員はそれぞれ固有の役目を持っている、と。

ルター「ドイツ国民のキリスト教貴族に告ぐ」(トッド『家族システムの起源I』下123頁より)

諸侯を含む「貴族」に向けたものだが、彼の言葉は、準備のできたすべての人々に「革命」の扇動として響いたと思われる。

教会から破門を宣告されたルターの取り扱いが問題となる中、1522年に下級貴族たちが(騎士戦争)、1524年には農民たちが(ドイツ農民戦争)蜂起したのはその証拠であり、同時に、彼ら(の少なくとも一部)にまで識字が広がっていたことの証拠である。

もちろん、彼らの蜂起は容赦なく鎮圧された。時代はまだまだ、下級貴族の下剋上を許し、農民の政治参画を認めるところまでは行っていないので、当然の帰結である。

また、「時代」の趨勢は、反乱の収束過程にも表れた。彼らを鎮圧し、秩序を回復したのは、皇帝ではなく諸侯だったのだ(皇帝はそもそも1521-30年の間海外にいて留守だった)。

庶民たちの反乱を収めることで、諸侯たちはもはや彼らなしに国は成り立たないことを見せつける。

これ以降、宗教改革は、「諸侯 VS (皇帝+教会)」の政治闘争として展開していくのである。

(2)政治的側面:誰が宗教を支配するか?

もちろん、諸侯たちが宗教的側面に無関心だったというわけではない。政治的側面と厳密に区別するのは困難であったとしても、諸侯たちは、ルターの呼びかけを受けて、それを支持する者と支持しない者(政治的には、反(皇帝+教会)/ 現状維持)に分かれていた。

彼らの中で、ルター支持派(プロテスタント)は一貫して少数派だったのだが、最終的には、諸侯は一致して皇帝+教会側と戦って勝利を収めることになる。

その理由を理解するために、まずは和議(アウクスブルクの宗教和議(1555年))の内容を見ておこう。

■アウクスブルクの宗教和議の主な内容

・プロテスタント/カトリックは領邦ごとの選択制とする
・「領主の宗教がその地の宗教」の原則に則り、領邦の宗教はその地の領主が決定する
・住民は領主の決定に従う(従えない者は移住税を払って移住が可能)
・プロテスタントとして許容されるのはルター派のみ

これを見て分かるのは、政治闘争としての宗教改革の争点は、最終的には「誰が宗教を支配するか」だった、ということであろう。

カトリック支持派が多かったにもかかわらず、諸侯たちが「反(皇帝+教会)」で一致することになった決定的な要因として、坂井栄八郎先生は次の点を挙げている。

シュマルカルデン戦争に皇帝がスペイン軍を動員したこと、またそのスペイン軍をドイツに留めたことは、カトリック派を含めてドイツ諸侯を皇帝から離反させた。その上、カールが息子でスペインの継承者フェリペを、フェルディナントの後の皇帝位継承者としてスペインとドイツの再結合を計ったことが、ドイツ諸侯を決定的に離反させた。

坂井栄八郎『ドイツ史10講』86頁

ハプスブルク家の出身でスペイン王でもあった皇帝カール5世は、改革派との戦い(シュマルカルデン戦争)においてスペイン軍を動員した。さらに、スペインの王位継承者に決まっていた息子フェリペ(スペイン生まれスペイン育ち。母はポルトガル王の娘)を、ドイツの「次の次」の皇位継承者に指名することで(「次」は弟フェルディナントに決まっていた)、スペインとドイツの統合を画策した。

彼らにとってそれは「スペインへの隷属」を意味したのであり、彼らは「ドイツの自由」の名の下に皇帝に抵抗する。

坂井・86頁

皇帝が「ヨーロッパの王」としての資格でドイツを抑えこもうとしたとき、カトリック支持の諸侯たちも、「(皇帝+教会)統合体」の支配から脱することの重要性を理解した。

こうして、諸侯たちは、プロテスタント/カトリックを問わずに団結し、皇帝軍に対して勝利を収めたわけである。

すでに多くを失っていた「皇帝+教会」にとって、宗教の支配権は最後の砦だった。そのため、宗教改革の過程における諸侯の勝利は、事実上、綱引きの終了、「地物」側の完全勝利を意味していたといえる。

ただし、その新たな体制が安定を見るには、もう一度、激しい争乱の時期を通り抜けることが必要だった。

三十年戦争(1618-1648)

(1)概要

世界史の教科書をあらためて読んでみても何がなんだかさっぱり分からない三十年戦争であるが、私の理解はこんな感じである。

・宗教改革の波がヨーロッパに広がり、ドイツでもカトリック諸侯とプロテスタント諸侯の対立が再燃。
・そこへ、オーストリアの属領ボヘミアでハプスブルク家の王フェルディナントが諸侯を無視してカトリックを強制(反宗教改革)し、反発した諸侯が蜂起する事件が発生。
・フェルディナントが神聖ローマ帝国皇帝となった(1619年)こともあり、ドイツおよびヨーロッパ全体を巻き込む戦乱に発展。
・ヨーロッパ全体では、カトリック/プロテスタントに加え、ハプスブルク家 VS 反ハプスブルク勢力の争いの側面が強くなり、プロテスタント諸侯側にはデンマーク、スウェーデン(いずれもプロテスタント)のほかフランス(カトリック)が加勢。
・ドイツでは、カトリック(皇帝+カトリック諸侯)/プロテスタント(プロテスタント諸侯)の争いで優勢となり調子に乗った皇帝が「復旧令」(宗教改革で没収されたプロテスタント領邦内の教会領をカトリック教会に返還するよう命令)を出したことで、再び「皇帝 VS 諸侯」の構図に
・ドイツ国内で諸侯軍が皇帝軍に対して劣勢となったとき、反ハプスブルクを掲げたフランスが参戦。その結果‥‥

反ハプスブルクが旗印であったから、プロテスタントであれ、どのような勢力であれ取り込み、まずはイタリアとスイスとスペインに対して成果を収めた。しかしその後、デンマークとスウェーデンの対立やオスマン帝国の介入があって、戦況は複雑となった。すでに内戦以来30年を数え、戦いに疲れたために平和を求める声が高まり、1648年に講和が成立した。 

阿部・150-151頁(太字は筆者)

(2)「動乱」の様相

いろいろな勢力が巻き込まれてダラダラと続く戦い、みんなが疲れ果ててようやく終結‥‥というこの感じには覚えがある。応仁の乱だ。

日本語で簡単に読める情報量が圧倒的に少ないのであまり説得力はないのだが、三十年戦争が「大規模システム改修」の一環であったことを示す要素をいくつか挙げることはできる。

世情の混乱:三十年戦争が始まる前の17世紀初頭、ドイツ各地で一揆や反乱、ユダヤ人迫害、魔女狩りなどの現象が多発

傭兵の活躍:プロテスタント側でも皇帝側でも傭兵隊が活躍

  *傭兵の活躍は直系家族の指標です 

下克上:三十年戦争の英雄といえば傭兵隊長ヴァレンシュタインだが、彼はおそらく下流の貴族である。自前の武器工場を作ったりして多方面で活躍し、最後は皇帝に殺害されるのだが、

彼には人望があり、時運に乗れば王位につく可能性もあったといわれている。この時代、このような傭兵隊長の社会的上昇も可能になっていたのである

阿部謹也『物語 ドイツの歴史』150頁

(3)ウェストファリア条約:直系家族国家の完成

1648年のウェストファリア条約で終結した三十年戦争。条約は教皇やヨーロッパ諸国、オスマン帝国まで参加した会議の成果であり、内容も多方面に及ぶが、ドイツに関して確認しておきたいのは以下の2点である。

①領邦にほぼ完全な主権が認められ、領邦国家としてのドイツが国際法上も承認された(常備軍の設置、外国との条約締結権等)

②宗教的寛容が実現
-「領主の宗教がその地の宗教」の原則を確認した上で「その地の宗教」を1624年時点で固定(諸侯の改宗権を制限し非人格化)
– 領邦の宗教と異なる信仰を持つ者や団体の存在も許容
– ルター派以外のプロテスタント(主にカルヴァン派)もOK

こうして、三十年戦争を経たドイツは、いよいよ、直系家族の権威(≒諸侯)に依拠する領邦国家(300余の国の連合体)体制を確固たるものとした。

皇帝はその政治的権威・支配力をほぼ失ったし、ローマ教会の勢力も排除され、政治・宗教の支配権は完全に諸侯の下に置かれることとなり、これ以後、ドイツは、絶対主義、啓蒙主義といったヨーロッパ史の展開を、すべて領邦ごとに経験していくことになるのである。

ドイツとキリスト教

(1)ドイツ統合の礎

天皇の存在をよすがに統一を保った日本と違って、ドイツでは直系家族の完全勝利が(定石通り)小国の並立状態をもたらすことになったわけだが、統一体としての「ドイツ」が、この1648年をもって(あるいはまた神聖ローマ帝国が解体された1806年に)消え去ってしまったかといえば、そうではないだろう。

18世紀後半に「ドイツ国制論」を書いたヘーゲルや、ナポレオン占領下のベルリンで「ドイツ国民」に呼びかけたフィヒテ(『ドイツ国民に告ぐ』)の頭の中には間違いなく「ドイツ」があった。

直系家族の生成以後、皇帝の権威を打ち捨て、教会の支配から逃れ、ドイツを領邦に分割する作業に一心に取り組んできた人々に、のちの再統一を可能にしたものは何だったのか。

いうまでもない。
キリスト教である。

(2)宗教改革の経験

島国でもないドイツで、分裂がちな直系家族をあの規模の国家にまとめるには、それ相応の大きな権威が必要となる。

直系家族化したドイツの人々の無意識が「(皇帝+教会)とは縁を切るが、キリスト教は残す」という方針を選んだのはそのためかもしれないと思うほどである。

ドイツは、おそらく、宗教改革の過程を通じて、「借り物」であったキリスト教を「自分たちの」キリスト教に作り直し、直系家族に依拠した領邦国家「新生ドイツ」の統合の源泉に据えたのだ。

宗教改革の時期に「国民意識」を深める契機があったという指摘は、坂井栄八郎『ドイツ史10講』の中にもある。

15世紀以後、国内の堕落した聖職者に不満を募らせていたドイツの人々は多数の苦情を教皇庁に寄せていた(「ドイツ国民のグラヴァミナ(苦情書)」と呼ばれる)。

これをめぐる議論の応酬が、ドイツ国民の国民意識を育てたというのが、坂井先生の指摘である。

この「グラヴァミナ」に対するローマの応答として、古典の学識に富む枢機卿ピッコロミニ(のちの教皇ピウス2世)は1494年、タキトゥスのそれと対照的な『ゲルマニア』を著し、ゲルマン時代以来のドイツのめざましい発展を指摘して、この間のキリスト教会の役割を弁護した。

これに対する反論を通じて、人文主義者を中心に、ドイツ側の「国民意識」も深められる。人文主義者の帝国騎士フッテンが「ゲルマーニアの解放者」を主題に風刺対話劇『アルミニウス』(1515-20頃)を書いたのも、この関連においてであった。

坂井栄八郎『ドイツ史10講』76頁

*アルミニウスは「トイトブルクの森の戦い」(紀元9)で勝利しローマ帝国によるゲルマニア征服を阻んだとされるゲルマン民族の英雄(タキトゥスも彼を「ゲルマーニアの解放者」と呼んだ)。

「グラヴァミナ」はルターを始めとする様々な論者に引用されたということであり、まさに「彼らのキリスト教」を作る過程の中核にあったといってよいように思われる(「グラヴァミナ」本体の引用もできないのであまり説得力がないですが)。

(3)ドイツ的とは何か

「直系家族の権威+キリスト教の権威=ドイツ的メンタリティ」という仮説を思いついたばかりに、長い(そして少々雑な)文章を書くことになったが、私としては「ドイツ的とは何か」の答えは出たと思っている。

ドイツの人類学システムについては、
3つのことがいえる。

①縦型の権威の軸が強力である

ドイツの場合、通常の直系家族よりも縦型の権威の軸が強い。超強力である。何しろ、世代を貫くその一本の線は、最終的に、一神教の神に接続されているのだから。

日本と同傾向でありながら、私に「本当に同じ家族システムなのか?」と感じさせる極度の体系性、硬さ、生真面目さといったものはこれによって説明できる。

トッドのいうドイツの「凄まじいパワー」もここから来ているものだろう。日本人のように真面目で勤勉で、彼らはその上、単一の真理(神)を仰ぎ見ているのだ。

トッドが度々指摘している不安定なリーダーシップという問題も、私は直系家族というよりは、ドイツシステムの特徴ではないかと思う。彼はよくこんなことをいう。

権威主義的文化はつねに二つの問題を抱えています。
一つはメンタルな硬直性、そして、もう一つはリーダーの心理的不安です。
すべてがスムーズに機能する階層構造の中にいると皆の居心地がよいのですが、ピラミッドの頂点にいるリーダーだけは煩悶に苛まれます。

『「ドイツ帝国」が世界を破滅させる』162頁

ドイツは歴史上、支配的なポジションについたときに変調しました。特に第一次世界大戦前、ヴィルヘルム2世の統治下でビスマルク的理性から離れ、ヨーロッパでヘゲモニーを握ったときがそうだった。今日の状況は、ナチス勃興の頃よりも、あのヴィルヘルム時代の方に類似しています。

212−213頁

ドイツの国家としても振る舞いを観察すると二つの異なる心理的・政治的行動様式が確認できます。

一つは、理性的な行動様式で、私はそれをビスマルク様式と呼んでいます。この様式に従うとき、ドイツは友好国をできるだけ多くつくることによって、自らの支配領域のコントロールを保持しようと努めます。‥‥

もう一つは、ヴィルヘルム様式です。この様式ではドイツは暴走し、できるだけ多くの敵国をつくって、せっかく獲得したものをすべて失います。‥‥ つまり、平常心を失わないドイツ様式と偏執狂的なドイツ様式が存在するのです。

『問題は英国ではない、EUなのだ』36頁

トッドのコメントは、ドイツへの指摘としては「なるほど」と思うが、日本には当てはまらない。日本の縦型の軸は一つの家族(家系)向けの仕様であり、基本的に「強いリーダー」を輩出しない(ドイツと大きく違う点だ)。ピラミッドの頂点に誰かいるように見えても、実際の意思決定システムは分散的で、誰か一人が極度の緊張状態に置かれるということはない(*だから理性的だというわけではもちろんない)。

ドイツのリーダーシップの不安定さというのは、おそらく、本来一家族向けの縦型の軸を、長く伸ばして一神教の神につないでしまったことによるものだと思われる。

普通の家のお父さんががんばって働いて出世したらなぜか「神の代理人」になっていた、というのがドイツのリーダーなのだから、狂気に陥らない方がおかしい。

②強力ではあるが所詮は直系家族の軸だ

ドイツの縦型の権威は強力なので、より大きな範囲を統率できるような気がして、しばしば帝国を作る試みに乗り出してしまう。

しかし、共同体家族のように「騎馬戦隊構造」(私は長い軸の先に扇風機の羽根がついたような構造をイメージしている)を持っているわけではないので、本物の帝国が作れるかといえば作れない。

トッドがよく(EUにおけるドイツのふるまいを念頭に)、どれほど力があっても身内の利益しか考えられず「全員の面倒を見てやる」という姿勢を取れない、というようなことをいうが(出典が見つかったら加筆します)、そういうことである。

③巨大な空白を抱えている

ドイツのシステムはそのようなものだが、しかし、生きた信仰としてのキリスト教はもう存在していない。その場所にはおそらく巨大な穴が空いているだろう。それがドイツに何をもたらすのかは問題かもしれない。

トッドは、現代ヨーロッパの危機の根幹には信仰の喪失があるという立場を取る。私は信仰の喪失そのものが問題だという立場を取らないが(私の意見はこちら)、ヨーロッパにおいてキリスト教が特別の役割を担ってきたことは事実であり、喪失による精神的ダメージが一番大きそうなのはやはりドイツである。

核家族の国におけるキリスト教というのは、移動式テントで人々が思い思いに暮らしている村の中心に作られた公共広場+道路みたいなものだから、なくなったら不便だが、精神的なショックはないだろう。

これに対して、ドイツの場合、キリスト教は直系家族の彼らのシステムを外側から強化する形で作用していた。木造家屋が立ち並ぶ村を魔法で要塞に変えたようなものである。それがすべて張り子の偽物だったとしたら‥‥その不安は大変なものだと思われる。

当初あまり乗り気ではなかった(らしい)ドイツが、1990年という「脱宗教化」完成の年を経て、EUというプロジェクトに熱心に取り組んだのは、そのためかもしれない。

この穴が埋まることがあるのかどうか知らないが、埋まった場合、おそらくドイツは普通の直系家族の国になり、安定はするけれど、現在の版図は維持できないと思われる。

穴が埋まらないうちは、ドイツは「神」に代わる何かを求め、不安定になりながらそのパワーを発揮していくのだろう。

正直なところこれを書くまで私はドイツという国の行く末にそれほど関心を持っていなかった。でも、いまでは興味津々、「見逃せないぜ!」という気持ちでいっぱいである。

今日のまとめ

  • 宗教改革−三十年戦争は、ドイツの地殻変動に伴うシステム改変のための動乱である。
  • 宗教改革は、直系家族が「(皇帝+教会)複合体」から政治的権威とキリスト教を奪うための戦いだった。
  • 最後の砦であった宗教の支配権を切り崩したことで、諸侯は「舶来の権威」VS「地物の権威」の争いに最終的に勝利した。
  • 宗教改革を通じて「借り物」を「自分たちの物」に作り直すことで、ドイツは直系家族国家の統合の源泉にキリスト教を据えた。
  • ドイツのシステムは直系家族の縦型の権威の先に「」を繋いだ構造。強さと不安定を特徴とする。