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「弱肉強食」の真実

目次

はじめに

「アメリカ II」の中で、家族システムにおける「権威」が果たす機能の第一は秩序維持であると書いた

権威には秩序維持機能があるという想定の下、「権威が確立していないとどう困るか」についてはこう書いている。

限られた領域に大勢の人間が暮らしている場合、少なくとも最小限の秩序維持機能は絶対に必要といえる。それがなければ、弱肉強食、血で血を洗う抗争の世界となってしまうから。

このとき私が想定していた「弱肉強食」の世界とは、殺人やら喧嘩闘争が頻発する世界、要するに、無秩序が支配する世界だった。

しかし、その後、いわゆる未開社会(=原初的核家族)の事例をいろいろ読んでいて、「あれ?」と思うようになった。

そこはたしかに「弱肉強食」の世界ではあった。しかし無秩序かといえば無秩序ではない。何というか、秩序そのものが「弱肉強食」の原理に従っているのだ。

原初的核家族がもたらす「不正な秩序」

「権威の不在→無秩序」という想定は、秩序には「正しさ」が含まれることを暗黙の前提としている。

だからこそ、私は権威(「正しさ」の基盤である)が確立していない社会では、秩序の維持は困難であろうと考えたのだ。

広辞苑で「秩序」を引くと、最初の説明はこうである。

①物事の条理。物事の正しい順序・筋道。次第。

これでいくと、「秩序」とは何かしら「正しい」ものであり、権威がなければ秩序は築けないということになりそうである。

他方、Oxford Dictionary of Englishで ”order” を引くと、その大元の意味はつぎのように説明されている。

1 the arrangement or disposition of people or things in relation to each other according to a particular sequence, pattern, or method:  

こちらの説明では、人間や物事同士の関係が何らかの順序、パターン、方法にしたがって配置・整理されていれば「order」といえるのであって、それが「正しい」ことは必要ではない。

言われてみればその通り。

日本人(広辞苑や私)の思い込みとは違って、たしかに、「正しさ」(したがって権威の裏付け)がなくても、秩序の維持は可能だ。

強い者が有利な立場を得て、弱い者がいろいろと我慢を強いられる。その弱肉強食の状態をそのまま固定してしまえばよいのである。その状態は「不正」ではあるが、無秩序ではない。

実際、いろいろ見てみると、権威の確立していない社会がもたらしがちなのは、無秩序というよりは「不正な秩序」のようなのである。

「不正な秩序」が生まれるとき

農耕を始め、定住し、人口が増え、土地が不足し、利害関係の調整が必要となったような場合、共同体は、何らかの形で権威を組み入れた家族システムを発展させ、「正しい秩序」を可能にするのが普通だろう。

しかし、この世界では、原初的核家族を営む人々のもとに、ふいに外部から文明が現れ、複雑な利害調整が必要な状況に追い込まれるということもありうる。例えば、未開社会に西欧の人々が踏み込んできて、奴隷貿易を持ちかけてくるとか。

*奴隷貿易に関しては西欧の側の「不正」ぶりも興味深いが、ここでは未開社会の側に着目する。

突然巨大な権益を投げ込まれた未開社会は、一時の無秩序を経て、秩序形成に向かう。しかし、社会の基層をなすシステムの中に、複雑な事象を「正しく」処理するのに必要な「権威」は確立されていない。

そういうときに何が起こるか。デヴィッド・グレーバー『負債論―貨幣と暴力の5000年』(以文社、2016年)が紹介する事例を見てみよう。

大西洋奴隷貿易と西アフリカ

大西洋奴隷貿易は15世紀に始まり19世紀まで続いた。17世紀後半までには、ヨーロッパの6つの帝国(イギリス、デンマーク、オランダ、フランス、スペイン、ポルトガル)による三角貿易の仕組みが確立し、現地の社会を揺るがせることになる。

wiki掲載の図に加筆(https://ja.wikipedia.org/wiki/大西洋奴隷貿易

①ヨーロッパの工業製品(布、雑貨、武器など)がアフリカへ
②アフリカの奴隷がアメリカへ
③アメリカの一次産品(銀、砂糖、綿花、タバコなど)がヨーロッパへ
 

ヨーロッパの各種製品や武器の流入が西アフリカ社会に大きな影響を与えたことは、この時期以降に諸王国が興隆した事実にみてとれる。オヨ王国やアシャンティ王国、ダホメ王国(現在のベナン共和国の場所)などである。

ダホメ王国の王と女官たち 

西アフリカでの奴隷の調達は、最初のうちは、純粋な暴力が中心だった(戦争の捕虜とか、適当に拉致して連れ去るとか)。アフリカの商人がヨーロッパの商人から信用取引で商品を購入する際に、信用の担保として人質を提供し、その人質が債務不履行によって奴隷として売られていくというパターンも多かったという(債務不履行を待たずに連れ去られてしまうケースもあった)。

しかし、奴隷貿易はやがて、アフリカの権力者や有力商人にとっても、富と権力の源として「なくてはならないもの」に成長する。すると、彼らは、組織的かつ合法的に、地域の住民を奴隷に変えて、ヨーロッパの商人に売り払う仕組みを作り上げていくのである。

奴隷調達のための「不正な秩序」

ダホメやアシャンティといった王国では、統治者は、犯罪に対する刑罰として、本人の奴隷化や「本人の死刑+家族の奴隷化」を定めたり、とてつもなく高額の罰金を課して支払えない場合に本人と家族を奴隷にする、といった方法で奴隷を調達したという。

王国といえるほど発達していない地域では、長老や有力な商人が同様の司法体系を整備し、罪を犯した者を(比較的軽微な罪であっても)奴隷として売り飛ばした。訴えた者は一定の代金を得る仕組みであったので、長老などの協力を得て、無実の罪がでっち上げられることも少なくなかったという。

後者のケースで(国の行政組織に代わって)大きな役割を果たしたのは、商人のリーダーたちが作る秘密結社であった。この秘密結社(エクペ(Ekpe)という)は、神秘的な教義を伝授したり、大掛かりな仮装パーティーを主催することで知られていたが、その裏で、極秘の任務を遂行していた。債務の取り立てである。彼らは債務を支払えない者に対して、(組織的な)取引拒否から、罰金、差し押さえ、逮捕、処刑に至る各種制裁を実行する権限を有していた。

南ナイジェリアのekpeのコスチューム(詳細は不明)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Egbo_Secret_Society,_Mgbe,_Etuam,_Egbo,_South_Nigeria_Wellcome_M0005360.jpg

秘密結社エクペの会員であることは名誉と風格の証とされ、誰もが会員になることを望んだ。果たして、エクペには、等級別に異なる入会金を支払いさえすれば、誰でも加入することができたのだ。

入会金は高額だったが、金を用意できればメンバーになれる。そこで、多くの人々が、商人に借金をして高額の入会金を払い、エクペに加入した。彼らはまた、仮装パーティーで使用する道具や衣装を作るためにも、商人から金を借りた。

こんなのを作ったのかもしれません。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:British_Museum_Room_25_Mask_Ekoi_people_17022019_5015.jpg

エクペに憧れ、借金をして入会し、やはり借金をして衣装を作った人々。彼らがこの借金を返せなかったらどうなるか。

彼らはいまやエクペの一員であるため、債務者であると同時に、自ら債務取り立ての任務も負っている。彼らは、自分の家族や従僕を人質として差し出す代わりに、エクペの一員であるという地位を利用して近隣の村を襲い、子どもや大人、財物、家畜などあらゆるものを強奪して、それを代わりに差し出すことで許しを得ようとした。

*この場合、襲われた人々は、何の正当な理由もないのに、奴隷として売られていくことになる。

責任を他人に押し付けるこの作戦は成功することもあったが、しないこともあったという。後者の場合、結局は、自分の子ども、家族、従僕、最後には自分自身まで差し出すよう強いられ、手枷足枷をはめられて、奴隷として売られていったのである。

エクペのメンバーになりたくて、商人から金を借りたばっかりに、一族郎党が殺され、あるいは奴隷として売り払われていく。そんな仕組みが確立されて、長期間保持されていたのだ。

「人肉債務」の物語

こうした奴隷調達システムが現地の人々の心性にどんな影響を与えていたかを示すものとして、ティブ族の信じる「人肉債務」の話がある。

ティブ族(Tiv)は1750年ごろ(ちょうど奴隷貿易が活発であったころだ)からナイジェリアのべヌエ川流域に居住する部族で、20世紀中頃に人類学者による調査が行われている。

あきらかに、ティブ族には権威の形成にかんして大きな問題があった。

グレーバー『負債論』227頁

ティブ族の間には、公式の政治機構は存在せず、人々は平等主義的で、あらゆる形式の主従関係について懐疑的だったという。それぞれの村落は、一人の長老(=カリスマ性のある実力者)が絶対的な権力をふるうことによって、その秩序を維持していた。典型的な原初的核家族の世界である。

ティブ族の人々の間では、人肉を食べることで特別なカリスマを得る妖術師=殺人鬼の存在が信じられていた。人々は、政治的な指導者になるような有力者はみなこの妖術師なのではないかという疑惑に取り憑かれていたという。

妖術師は結社を組織していて、結社は、つねに新しい成員を求めている。成員を獲得する方法は、だまして人肉を食べさせることである。妖術師は、候補者を食事に招き、こっそり人肉(妖術師が妖術師自身の家族を殺し、その肉を混ぜるとされている)を食べさせる。

うっかり人肉を食べてしまった者は、結社と「人肉負債」の契約を結んだことになり、自らの肉を提供するよう言われる。それを逃れる唯一の方法は、自らの家族をかわりに差し出すことである。彼は、妖術師の指図通りに、兄弟、姉妹、こどもたちを一人一人殺していかなければならないのだ。

「人肉負債」は、はてしなくつづく。債権者はいくどもやってくる。‥‥すべての係累を失い、家族が全滅するまで「人肉負債」から逃れられない。かくして、債務者は、みずからおもむいて横たわり、屠殺され、そこで負債からついに解き放たれるのである。

グレーバー・226頁

このストーリーが何を示唆しているかは明らかだろう。先ほどの秘密結社の影響力がティブ族の地域にまで及んでいたのかどうかは(本を読んだ範囲では)はっきりしない。

*グレーバーは「〔彼らが〕なぜそんな強迫観念に脅かされていたのかというと、2、300マイル離れたところの住人たちの身にそれが文字通り起こっていたからである」としか述べていない。

しかし、私は、ティブ族の有力者の中にも秘密結社のメンバーになったり、周辺地域の秘密結社と関わりがある者がいたのではないかと想像する。

ティブ族の人々は、隣人である有力者の手引きによって、いつ何時、債務不履行、あるいは押し付けられた負債によって、自分やその家族が奴隷として売り払われてもおかしくないという秩序の下で暮らしていた。

そうした事態が現実化することへの恐怖が、妖術師による「人肉負債」の物語を生んだのではないだろうか。

巨大な権益を得た原初的核家族の一般理論

奴隷貿易にまつわるこうした「不正な秩序」の発生は、西アフリカに特異な事例というわけでは決してなく、むしろ、西欧の商業文明と接した未開社会では通常のことだったという。

支配者が(でっち上げを含む)犯罪や債務を理由に臣民を従属させ、奴隷として外国人に売り払って富を築く。「弱肉強食」の自然的事実をそのまま糊で固めたような社会制度は、奴隷貿易の対象となった各地域に確立し、100〜数百年にもわたって営まれていた。

*グレーバーの本では、東南アジアの山間部やバリ島の事例が紹介されている。

権威が確立されていない社会では、強さと正しさは同義である。巨大な権益を手にした強者はそれを正当な自分の取り分であると信じ、弱者の側もそれを信じる。おそらくはそんな単純な仕組みによって、「不正な秩序」は確立され、維持されていくのだと思われる。

原初的核家族のもとに巨大な既得権が発生したとき、必ずといってよいほど「不正な秩序」が形成されるという事実は、この世界を隈なく理解したいと願うわれわれにとって、非常に示唆に富んでいる。

何しろ、現在の世界の秩序は、二度の世界大戦でヨーロッパ列強が凋落した結果、さほど強く望んだわけでもないのに、いつの間にか巨大な権益を手中にしていた原初的核家族を中心に形成されてきたものなのだから。

おわりに

私がグレーバーの本を手に取ったのは、一つには、アメリカの金融覇権とはいったい何なのかを理解するためだった。

なぜ(日本を含む)西側諸国はこれほどまでにアメリカに従属することとなり、なぜグローバルサウスはドルの支配から逃れようとしているのかを、何となくではなく、はっきりと理解するためだった。

グレーバーを読み、さらに調査を進めて分かったことは、現在の金融秩序はかなりデタラメだということである。デタラメで、めちゃくちゃで、まあ、特にアメリカ、それから(ある程度)その同盟国である西側諸国に都合のよい仕組みである。

ただ、じゃあ、アメリカは巨大な悪の帝国で、緻密な計画に基づき周到に準備してこの仕組みを作り上げてきたのか、といえば、そういうわけでもなく、どちらかというと、あまり深く考えず、短期的に見た自己利益を最大にするべく、そのつどそのつど行き当たりばったりで策を講じてきたら、壮大な「不正な秩序」が確立されていた、という感じなのだ。

そのやり方は、まさしく突然巨大な権益を手に入れた原初的核家族のものであり、もう笑うしかない。しかし、被害者の側面もありつつ、グローバルサウスと呼ばれる地域との関係では明らかに受益者側であるわれわれは、やはり、その仕組みをしっかりと理解して、世界と、それからとくに若い人たちと、認識を共有する必要があると思う。

もうすぐシリーズが始まります。
お楽しみに。

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核家族とイノベーション
ー人類の未来ー

 

核家族のイノベーション適性

技術力全般でいえば、日本や韓国、ドイツなどの直系家族に劣るところはないが、イノベーションとくに新技術の実用化といえば核家族だ。

鉄道、自動車、飛行機、電話。テレビにコンピューターにインターネット。冷蔵庫に電子レンジに抗生物質に‥‥と、暮らしを一変させたイノベーションにはたいていイギリス人やアメリカ人がかんでいる。

  *よく調べていません。

家族システムの観点から見ると、理由はかなりはっきりしているように思われる。

核家族はがまんができない。より正確にいうと、限られた領域の中で大勢の人間が定住生活をしていくという場面で、自分の側の価値観や行動を変えて状況に適応するという心の構えを持っていない。

狩猟採集の移動生活ならそのままでも快適に暮らせるし、定住を始めても人口密度が低いうちは何とかなったかもしれない。

しかし、そんな彼らが「満員の世界」への居住を余儀なくされたらどうなるか。彼らは困る。実に不自由で、不愉快だ。

だったら外側を変えればいいじゃないか💡」

ということで、核家族は、科学技術を使ったイノベーションに乗り出すのである。

古代ギリシャやアラブ・イスラム圏における学問・科学の発展も、同じ仕組みである可能性があると思う。古代ギリシャはメソポタミアやエジプトとの関係では辺境に位置する原初的核家族だった。のちに内婚制共同体家族を発明しイスラム教の民となるアラブの人々も、もともとは、メソポタミアやエジプトとの関係で辺境に位置する原初的核家族だった。彼らは、より発展した地域の文明を受け入れ、あるいは伍していく際に、家族システムの後進性を補うために、科学技術を必要としたのではないだろうか。

家族システムはもう進化しない

科学技術が発達する以前、人類の生存・繁栄に必要なイノベーションは、主に、人間側が工夫し、技術を高め、暮らし方を変えることで実現された(たぶん)。家族システムの構築はその一つであり、最大のものといえる。

人口が増え「満員の世界」が訪れたとき、人類は、その環境に適合するために、家族システムを進化させた。

家族システムの進化は、原則として、世代間の縦の繋がり(権威的関係)の構築から始まる。本質的に、社会の全成員に対して、一定の自己抑制(規律)や不自由を強いる性格のものである。

それでも、人口密度が高まり、現に争いが頻発する世界では、そうした方が快適だから、その方向にシステムが進化していったのだ。

文明の中心地とその周辺で家族システムが進化する一方、原初に近い核家族を保っていた辺境の人々が、識字化を契機に、唐突に世界の中心に躍り出る。

心の奥底に原初的自由を湛えた彼らは、人間側の自己抑制による「適応」を潔しとしなかった。さまざまな道具を作り、天然資源を大々的に利用し、自分たちを取り巻く環境の側に手を加えることで、世界をわがものとした。それが近代だ。

したがって、近代以降の世界では、どれだけ人口密度が上がっても、家族システムは、退化こそすれ、進化はしないと思われる。人間の関係性を体系化し、自分たちの行動をシステマティックに制御するという「不自由な」やり方を採用しなくても、科学技術を用いれば、快適に暮らしていくことができるからだ。

土地が少なければ高層マンションを建てればいいし、農地が足りなければビルの一室で野菜を作ればいい。そういう世界で、家族システムが進化することはないだろう。

アメリカの家族システムがいつまでも原初的核家族のままなのは、おそらくそういう事情である。

持続可能性には問題が

こうして、核家族は世界を変えた。

その核家族に、「君たち、何でそんな不自由な暮らしをしているんだ。こうすれば、もっと自由に快適に暮らせるじゃないか。」

と、言われてみればそのとおりなので、直系家族の民も、共同体家族の民も、こぞって彼らの後を追い、見事に科学技術を発展させた。

おかげで、私たちは、熊に襲われることもない安全で清潔な環境で、衣食住の必要を容易に満たし、医療技術に守られ、長い平均寿命を謳歌するようになった。最先端の娯楽にだってスイッチ一つでアクセスできる。ほとんどおとぎ話の世界といえる。

しかし、「人類が世界に適応するのではなく、人類の都合に合うように世界を変える」というこのやり方には、問題があった。人口が増えすぎて、世界を蕩尽し、地球を壊してしまうのだ。

私は、過去に起こったことについてとやかくいうつもりは全くない。核家族の躍進も、科学技術の発展も、起こるべくして起きたことであると思えるし、人類史に新たな地平が開かれたことは間違いない。

しかし、このまま「世界を変える」「イノベーション」方式で進んでいけば、早晩地球が壊れるということはかなりはっきりしている。

さて、どうするか。

サステナブルな未来

私がトッドと決定的に袂を分かつのはここからだ。

人口学者であるトッドは、人口の維持が良い未来を作るという命題を譲らない。彼は経済の問題はよく語るが、環境問題にはほぼ言及しないのだ。

「人口維持こそ希望の源」という立場の決定的な弱点だからかもしれないし、「人類の側が適応する」という構えを持たない核家族メンタリティで、困難があるなら克服すればよいと考えているのかもしれないし、世代かもしれない。まあ、理由は分からない。

一方、私は、地球環境の問題は重大だと感じている。おまけに「SDGs」はもちろん、化石燃料の使用を止めて平均気温の上昇を抑えればサステナブルな未来が待っているというような話はまったく信じていない(やっても仕方がないと言っているわけではない)。

現代の大学や企業や研究機関でなされる何らかの技術開発が地球を救うという可能性も基本的に信じていない(だってそれはシステム上「金儲けのため」「保身のため」「とにかく現状維持のため」として設計されているので‥‥)。

私の考えでは、サステナブルな未来とは、たぶん、人類の人口が激減し、平均寿命も低下し、人類以外の動植物、有機物、無機物が(他にもありますか?)豊かに繁茂したときに訪れるものである。

そのとき、人類の暮らしが、原始人みたいな暮らしになるのか、江戸~中世みたいになるのか、それとも何か全く新しい形態になるのか、そこら辺はまったく見当がつかない。

もしかしたら、その前に地球環境が激変し、恐竜が鳥として生き延びているように、人類は、妙に脳と言語機能が発達したネズミ系の小動物(ミッキーマウス!?)となって生き延びたりするのかも‥‥などと考えたりもする。

 *「ネズミ系の小動物」という設定はここから来ています。

しかし、いずれにしても、人口が激減し、平均寿命も低下し、人類が「その他大勢」の動植物の中の一つ(今もそうだけど)に落ち着く未来は、それほどわるいものではないと思う。

生きている限り、同類の仲間と、他のありとあらゆる生命や物質と、助け合ったり、食べたり食べられたり、コミュニケーションを取ったり、遊んだりしながら、生きる。そして、病気でも事故でも、自然災害でも、飢えでも、老いでも、とにかく死ぬ時がくれば死ぬ。

何だそれ。

まったく普通ではないか。

おわりにー選択

最後に少しもっともらしいことをいうと、仮に「ソフトランディング」がありうるとしたら、それを主導するのは共同体家族ではないかと思う。

自然を破壊・蕩尽することで「豊かに」暮らすという近代以降の方向性を大々的に転換するというような巨大プロジェクトを率いることができるのは、おそらく、共同体家族だけだから。

人類史としては美しいストーリーかもしれない。直系家族が国家を作り、共同体家族が帝国を繁栄させた。ジョーカーの核家族は科学技術を解き放ち、文明の大転換をもたらした。それが行き過ぎに及んだとき、再び共同体家族が底力を発揮して地球と人類を和解させ、サステナブルな未来を導くのだ。

いい話だねえ。‥‥とは思うが、正直なところ、ソフトランディングはないんじゃないか、と私は思う。人類はちょっと増えすぎた。あまりにも急激に増えすぎたのだ(↓)。

 

人類だけが豊かに栄える「サステナブルな地球(あるいは宇宙)」などというものはあり得ないと私は思う。

おそらくは自然の摂理として、適正規模に戻るまでは、自然災害や戦争の絶えない世界が続く。あるいはまた、気象変動が起きて、否応なく数を減らされたりするのだろう。

世間的には、こんなことはうっかり口にしてはいけない恐怖のシナリオなのかもしれないが、宇宙に属する一個の生物として考えると、別にどうってことはない。

最悪、ちょっと早めに死ぬだけだし。

 *「悪」かどうかももちろん分からない。

さて、ここからが私たちの選択だ。

この人生を、人類のみの繁栄の永続というあり得ない(と私は思う)目標のために捧げるか、自然界の一部として普通に生きるか、私たちは選べる。

前者はどちらかといえば奴隷の人生であり(主人は「人類至上主義」あるいは「人間社会」)、焦燥と恐怖とたぶん狂気の人生である。

後者は、現下の環境の中に生きる人類であるという条件の下で、正気を保ち、最大限平和に楽しく自由に生きる道だと思う。

現下の環境の中に生きる人類であるから、戦争やら何やらに巻き込まれることは避けられない。でも火に油を注ぐようなことをせず、人間や動物やその他もろもろと助け合い、ともに楽しみ、平和な宇宙に貢献することはできるのだ。

どうする?

どうしよう?

私はもちろん、後者を選びます。

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ナチズムが生まれる場所

はじめに

現在の世界には「ネオナチ」という日本語では甘っちょろく感じられるほどの本物のナチズムが繁茂している場所が(私の知る限り)2箇所ある。一つはイスラエル、もう一つはウクライナ西部だ。

*以下「ナチズム」は民族などの属性に基づいて特定の対象を激しく差別・迫害することを指します。

両者はどちらも原初的核家族である。アメリカやイギリス(原初的核家族または絶対核家族)が黙認している点も共通。

「むむ‥何かある」とにらんで考察を進めた結果、壮大な(?)仮説を得たのでご紹介させていただく。

仮説

ナチズムがもっとも発生しやすい場所は、共同体家族地域に対峙する原初的核家族地域である。

(1)世界に残る原初的核家族地域

説明しよう。

原初的核家族とは、ざっくりいうと、国家以前の原初的人類(移動生活の狩猟採集民とか遊牧民とか)の家族のあり方である。

人間は群れで生活する生物なので、基本仕様として集団を作る能力は持っているのだが、多数の集団を束ね、国家を作る段になると、基本仕様だけでは足りなくなる。そのときに家族システムが進化するのだ。

直系家族、共同体家族が備えている「権威」。それは、世代と世代を縦の線でつなぐことで生まれるものだが、この「権威」の軸が、国家のまとまり(凝集力)、秩序(規律)を成り立たせる基礎となる。

 *権威の機能については、この記事この記事をご覧ください。

いまは、全世界のすべての土地に国境が引かれ、いずれかの国に属することになっている。しかし、歴史的には、文明の中心地で国が生まれ、帝国に発展し、周辺の国家形成を促したりした後も、国家に属しているのかいないのかよく分からない土地がそこここに広がりまたは点在していた。そういう時代が長かったのだと思う。

そういう地域は、19世紀以降(なのか?)、どこかの国に領土として編入されたり、20世紀後半になると独立国となったりしたが、家族システムは原初的核家族のままであるケースが少なくない。国の成り立ちは特殊だがイスラエルはそうだし、ウクライナ(東部以外)もそうである。東南アジアの多くの国もそうだ。

そういう国は、国でありながら、自然な国家のまとまりを生む「権威」の軸を持っていない。放っておかれれば国家など形成しなかったはずの人たちで、メンタリティは原初的人類のままなのだ。

(2)原初的人類とは?

原初的人類のままであるとはどういうことか。これはもちろん私の考えだけど、こういうことだと思う。

「家族のためには戦えるが、国家のためには戦えない」

つまり、国民としてのアイデンティティが希薄なのである。

戦争を前提にした書き方をしたけれど、このメンタリティは国家運営全般に当てはまる。言い方を変えてみよう。

「家族には尽くせるが、国家には尽くせない」

しかし、主権国家を基本単位とする現代の世界では、彼らも国家として成り立ってゆかなければならない。国民としてのアイデンティティを確立し、一つにまとまっていかなければならない。

凝集力の核を持たない人々が、一つにまとまらなければならなくなったとき、通常発生するものは差別である。

何か特定の対象(A)を排除すれば、残りの人たちは「私たちは〔Aではないという点で〕同じ」という一体感を得られるからだ。

*例えば、原初的核家族の国家、アメリカの成立には先住民・黒人差別が大きな役割を果たしていることが指摘されている

では、その原初的核家族地域の隣に、非常に強力な共同体家族の国家があったらどうだろう。

国民としてのアイデンティティが希薄な人々が、単に一つにまとまるだけでなく、強烈な国家的アイデンティティを誇る帝国と渡り合っていかなければならないとしたら、どうだろう。

その状況で発生するのがナチズムだ、というのが私の仮説である。

統合の軸を持たない彼らは、任意の対象をそれはそれはもう激しく嫌悪し排除することによって、自分たちをギューっと絞り上げ、凝集力を高めようとする。そうすることで、共同体家族に匹敵する強固なかたまりとなり、国家のために戦う力を得ようとするのである。

検証1ーイスラエルとウクライナ

イスラエルは、アラブ諸国に囲まれ、パレスチナと対峙している。アラブ諸国は文句なしの共同体家族であり、長く帝国の支配下にあったパレスチナ人もそうだろう。

原初的核家族であり、国家としての伝統も持たないイスラエルの民は、共同体家族のパレスチナやアラブ諸国と伍していくために必要な強力な国家意識を形成・保持するために、ナチズムー差別の対象はパレスチナ人・アラブ系住民ーを制度化することになっているのではないだろうか。

ウクライナが対峙しているのはもちろんロシアだ。ソ連が崩壊し、棚ぼた的に独立してはみたものの、ウクライナもまた原初的核家族であり、国家の伝統を持っていない。

東部にはロシア系住民がいてロシアとうまくやっていたけれど、西部はあまりうまくまとまれず、経済的にも苦しいままだった。

何とかしたい。ロシアの一部としてではなく、ウクライナとして、自分たちの国を立派に成り立たせ、名誉ある地位を得たい。

と、そういう状況で、ナチズムが生まれてしまったのではないだろうか。

検証2ーナチ型虐殺事例

原初的核家族と共同体家族の接点でナチズム的事態が発生した事例は他にもある。

例えば、カンボジア・ポルポト政権下でのクメールルージュによる民族浄化(被害者は150-200万人とか(wikiです))。クメールルージュは中国共産党の支援を受けた共産党政権であり、原初的核家族が共産主義国家を目指した(共同体家族と同等の凝集力を得ようとした)ことで発生した事態であったかもしれない。

 *虐殺の規模の大きさは、移行期危機と関係すると思われる。

インドネシア大虐殺では、主たる虐殺対象は共産党関係者だった(被害者は少なくとも50万-。200万以上という説もあるとか(倉沢愛子『インドネシア大虐殺』(中公新書、2020年))。

インドネシアでは共産党は合法で4大政党の一つとして大きな勢力を持っていた。インドネシアは大半が原初的核家族なのだが、一部に共同体家族の地域がある。共産党の隆盛はそのことと関係があるかもしれない。そして、彼らと対峙し、勝利するために、原初的核家族は、ナチズムに基づく虐殺を行うことになったのかもしれない。

検証3ードイツと日本

ナチズムの本場といえばドイツ。直系家族の地である。ナチズムについては、移行期危機脱キリスト教化が重なって起きた悲劇であると基本的に理解していたが、今回、共同体家族との対峙という側面もあるのかも、と考えるようになった。

ナチズムは、反ユダヤ主義として捉えられるのが一般的だが、少し調べてみると、第一次大戦の敗戦以後、ナチ運動が一貫して敵視していたのはむしろマルクス主義者だった。

1940年代初頭にドイツ支配下のヨーロッパで行われたことを考えると、ヴァイマル共和国最後の数年間、ナチの暴力の主な標的がユダヤ人ではなく共産党員と社会民主党員だったことは奇妙に思われるかもしれない。ユダヤ人はもちろんSA〔突撃隊〕に目をつけられたし、NSDAP〔国家社会主義ドイツ労働者党〕が攻撃的な人種差別を行う反ユダヤの党であることに疑いを抱く者はいなかっただろう。しかし、この時期のユダヤ人への攻撃は、ほとんどあとからの思いつきで、左翼の支持者を攻撃する際、目についたものに攻撃の矛先が向かっただけのように思われる。

リチャード・ベッセル著 大山晶訳『ナチスの戦争 1918-1949』(中公新書、2015年)41-42頁

これはナチスを支持したドイツ国民についても同じで、1930年代前半の段階では、NSDAPに投票した人々が明確に支持していたのは反マルクス主義の主張であって、反ユダヤについては「黙認」していたという感じだったという。

ヒトラーが闘争により勝ち取らなければならないと考えていたドイツ民族の「生存圏」は「第一にロシアとその周辺国家」だった(坂井栄八郎『ドイツ史10講』195頁)。

当時のドイツは、共産主義ロシアと対峙するために、ユダヤ人迫害を必要としたのかもしれない。

原初的核家族とは異なり、直系家族には権威の軸がある。しかし、それは本来は都市国家や領邦国家向けのものであり、国民国家を支えるにもやや弱く、帝国となれば「到底無理」という体のものなのだ。

その直系家族が大帝国建設という壮大な夢を見て共同体家族ロシアに対峙したとき、本来持ち得ないレベルの凝集力を得るために、ナチズムが発生してしまう、というのは、ありそうなことのように思われる。

同じことは日本についても言える。私は日本にナチズムが跋扈した時代があるとは考えていないが、民族浄化的な虐殺ということでは、関東大震災(1923年)のときの朝鮮人虐殺があり、日中戦争の南京事件(1937年)がある。

関東大震災のときには社会主義者も多く殺害されており、ロシア革命(1917年)の影響による共産主義拡大への警戒感が一つの要素として存在したことは間違いない。南京の虐殺は、簡単に勝てると思って仕掛けた戦争で中国側の思わぬ強靭さに接した後で起きた事件である。

おわりに

私が刑法学をやめ、今やっている方向の研究に乗り出した理由の一つに、ふと「自分が生きていて、社会科学の研究などしているときに、日本がまた大虐殺とかすることになったら嫌だなあ」と思った、ということがある。

その懸念は、高齢化と人口減少が続く以上はありそうにない、ということで一旦は収まったが、そうこうするうちに、ウクライナ危機が発生し、ウクライナ東部のロシア系住民に対してなされていたことを知り、イスラエルで起きていることを知った。

とくにイスラエルのことは全然よく知らないが、どちらも移行期危機とはいえないのではないかと思う。

いまは「○○になったら嫌だなあ」というようなことは基本的に考えない(考えても仕方ないので)。しかし、それがどういう現象なのかは理解したかった。

私の場合、理解するということは、その対象物を「憎まないで済む」ことを含む。感情的にならず、冷静に、ほどほどに暖かい目で観察できる、ということだ。

前回はアメリカについてそれができて、よかったな、と自分では思っていた。

この「ナチズムが生まれる場所」は「アメリカ II」の副産物なのだが、ナチズムすら憎まないで済むなんて、結構すごい達成ではなかろうか。

カテゴリー
社会のしくみ

アメリカ II (3・完)
ー帝国の繁栄と衰退ー

 

はじめに

なぜ、アメリカは巨大な格差を放置してますます状況を悪化させ、軍事介入やCIA秘密作戦に熱中し続けているのか。

「権威」の不在に着目し、その謎を解き明かすシリーズの最終回。
いよいよ、アメリカの建国から現在までを追いかけよう。

建国ー独立戦争の英雄の下で

Washington Crossing the Delaware by Emanuel Leutze, MMA-NYC, 1851

アメリカの初代大統領は独立戦争の英雄ジョージ・ワシントン(在任1789−1797)である。

総司令官として独立戦争を勝利に導いた彼は「生きながらにして神格化の途上にあった」というが、戦争終了後は最小限の兵力を残して軍を解体、自ら権力を握ろうとはせずに地元に帰る。しかし、

当時の人々にとって、大統領に相応しい人物はワシントン以外に考えようもなかったし、そもそもワシントンを想定しつつ、合衆国憲法第二条の大統領に関する規定が作られたともいわれる。

和田光弘『植民地から建国へ』アメリカ合衆国史①(岩波新書、2019年)164-165頁

ワシントンは、周囲からの強い働きかけに応じて大統領選挙に出馬、満票を得て、アメリカ合衆国初代大統領に就任するのである(1789年4月30日)。

彼は大統領を2期務めて退任する(3期目は出馬せず)が、「終身で務めてくれると考えていた者も、当時のアメリカ国内には多かった」という(和田・180頁)。

軍歴と人格により圧倒的な信頼を勝ち得て、終身の大統領就任を望まれる。まるで古代ゲルマン民族の王のようではないか。

バラバラな植民地の寄せ集めにすぎなかった13州を一つの統一国家にまとめ上げる力となったのは、1つには、イギリス本国という強大な敵との戦いとその勝利、そして英雄ジョージ・ワシントンの存在であったと考えられる。

ただ、「権威」なき原初的核家族の英雄による建国の場合、相続争いや遺産分割で国はまもなく分裂し弱体化していくのが通例である(クローヴィスとカール大帝の例についてこちら)。アメリカはどうやってこれを乗り切っていったのであろうか。

13州を一つの統一国家にまとめ上げる力となったのは、①イギリス本国という強大な敵との戦いとその勝利、②英雄ジョージ・ワシントンの存在だった

「常道」の確立ー連邦裁判所と政党対立

(1)政党対立

アメリカ建国の父たちは、当初から「国王」を持たない共和政体の脆弱さを認識していたという。

古代ローマは版図拡大に連れて共和政から帝政に移行したし、ピューリタン革命後のイギリスも結局王政に回帰した。当時は「共和政は政治的に脆弱だ」というのが常識だったのだ(和田・161頁)。

しかし、君主制のイギリスを反面教師としたアメリカに、「国王」の選択肢はなかった。

広大な領土を傘下に収める「新共和国」存続の困難さを憂慮した政治指導者たちは、これまで統合の中枢にあった国王が存在しない今、「有徳の市民」が私益ではなく公益を優先させることでシステムの暴走を防げるとの見通しを抱いていた。公共善の防衛を謳う共和主義の主張であ〔る〕。

和田・161頁

つまり、建国の時点で、彼らは「国王はいないけど一つにまとまらなければ」と強く意識しており、大統領たるワシントンの下、皆が公益実現に向け一丸となって国家の運営にあたることを想定していたのである。

ところが、日本人から見ると「さすが」としかいいようがないが、以後アメリカ政治の基本モードとなる二大政党の党派対立は、早くもワシントン大統領の任期中に発生しているのだ。

「第一次政党制」と呼ばれる連邦派(商工業中心の国づくり・強力な連邦政府を志向)と共和派(農業立国・州の権限尊重を求める)の対立の様子は、非常に原初的核家族的で面白い。

1820年代後半に形成される第二次政党制などとの違いは、極論すれば、互いに相手の党派の存在を政治的に認めていなかった点にあるといえる。つまり双方とも自分たちのみが正しい道筋を示していると確信していたのであって、意見は異なっても互いの存在を認めた上で政権を相争う政党政治のあり方とは、大いに趣を異にしていたのである。

和田・172頁

日本では、どうしても一つの勢力が政権に落ち着いてしまい、いくら頑張っても二大政党制にならないというのに、アメリカでは国が動き出した途端に意に反して政党制が生まれてしまう。家族システムの作用としかいいようがないであろう。

自分たちの考えを素朴に正しいと信じている人たち(つまり権威を持たない人たち)の間では、意見が異なれば即座に対立が生じる。おそらく、その単純な成りゆきが、二大政党制の基礎なのだ。

最初の合衆国連邦議会の様子
https://constitutioncenter.org/blog/happy-birthday-to-first-united-states-congress

(2)連邦裁判所

手元にあるはずの本(こちらです)が見つからず、うろ覚えで申し訳ないのだが、建国当初から、連邦最高裁判所は自ら積極的にその権限を強化するべく行動していった(違憲立法審査権を確立したとされる有名な判例は1803年に出ている)。

こうして、ごく初期のうちに、スコウロネクのいう「裁判所と政党からなる国家」、私の言葉では「暫定権威(連邦裁判所)+党派対立」を基礎とする国家の構造ができあがったわけである。

原初的核家族のアメリカでは建国後まもなく意図せずに二大政党制が生まれ、連邦裁判所が暫定権威を担い、「裁判所+党派対立」の基本体制が確立した

南北戦争(1861-1865) 

https://www.battlefields.org/learn/articles/north-carolina-civil-war

(1)合衆国の再統一

建国の父たちが懸念した通り、広大な領土を収める新共和国アメリカは、19世紀後半に分裂の危機を迎える。

このときに起きた内戦(南北戦争)の死者数をご覧いただきたい。

戦死者数動員者総数人口1万人当り死者数
独立戦争4435217000117.9
南北戦争4983323263363181.7
第一次世界大戦116516473499111.1
第二次世界大戦4053991611256629.6
ベトナム戦争902001533032.8
貴堂・後出108頁
(独立戦争と南北戦争についてはもっと多く数える文献もあるそうです)

南北戦争は、アメリカが戦ったすべての戦争の中で、最大の(アメリカ人の)死者を出した戦争なのだ。 

南北戦争とはいったい何だったのかと考えたとき、鍵になると思われるのは、(1)で見た領土の拡張である。

大西洋岸の13州から始まったアメリカは、1850年までにこれだけ領土を広げ、人口も相応に増加した。 

連邦裁判所と政党対立でどうにかやりくりしていた原初的核家族の「小さな政府」(と国民)に、これだけの領土をまとめていく能力はなかったはずである。

南北戦争は、おそらく、原初的核家族の集団が二つの陣営に分かれて総力戦を戦い、雌雄を決することで、新たに統一を成し遂げる、合衆国再統一のための戦争だったのだ。 

(2)新たな建国ー生まれ変わるアメリカ

南北戦争は、州の主権を尊重し「小さな政府」しか持たなかったアメリカが、より「国家らしい国家」に生まれ変わる転換点となる戦争だった。

連邦政府は、総力戦となる内戦を戦うなかで、それまで州に奪われていた通貨発行権を国家主権の名において奪い返し、連邦課税を実施し、財政政策の主導権を握った。さらに、「祖国のために死ぬ」ことを強いる連邦徴兵を、一気に実現していった。

また‥‥、再建期には、市民権法や憲法修正第13条、第14条、第15条などで、連邦市民権の概念を確立し、それまでの連邦と州の関係を大きく変質させて、国家主権の優越を確立していったのだ。リンカンがゲティスバーグ演説で、「ユニオン」に代えて「ネイション」を使ったのは、南部連合が離脱宣言で主張した、州権論的な国家観を否定するためだった。

貴堂嘉之『南北戦争の時代』アメリカ合衆国史②(岩波新書、2019年)113-114頁

とはいえ、彼らの家族システムは、原初的核家族のままである。

これ以後、アメリカの国家および政府の規模は拡大の一途をたどる。それは、連邦裁判所と二項対立から成る「国家なき国家」が限界に達し、「大きな政府」を持つ中央集権型国家へと変貌を遂げていく過程だが、大きな政府の適正な維持こそは、「原初的核家族の国家」にとって、最大のチャレンジなのだ。

アメリカは、南北戦争による「再統一」を経て、中央集権型国家に変貌を遂げていく

帝国への道

南北戦争後、先住民の迫害(というか虐殺)と同時に、大統領選や中間選挙の投票率が20年に渡って(1870-90)80%前後を記録し続けるという「デモクラシーの時代」を築いたアメリカが、次に進んだのは、海外進出、つまり「帝国」への道である。

北米大陸の征服を完了した後、アメリカは、中南米、太平洋島嶼部を自らの勢力圏として固めることに力を注ぎ始めた。

1904年、セオドア・ルーズベルト大統領は次のように述べ、アメリカが今後、(当面は)地域の「国際警察」としての責務を積極的に担っていくことを宣言する(1904年年次教書・28頁)。

我が国が望むのは隣国が安定して、秩序があり繁栄していることだ。‥‥〔しかしながら〕彼国が愚行を繰り返し、無力に打ちひしがれて、文明の紐帯を弱めてしまったときは、文明国の介入を受けざるをえない。西半球の場合はモンロー・ドクトリンを信奉するアメリカが‥‥国際警察力を発動することになる。

*前後の内容を含め、中野耕太郎『20世紀アメリカの夢』アメリカ合衆国史③(岩波新書、2019年)27頁周辺参照

*いわゆる「モンロー・ドクトリンのルーズベルト系論」。オリジナルのモンロー・ドクトリンの主眼が南北アメリカ大陸へのヨーロッパの干渉を排する点にあったのに対し、ルーズベルトは南北アメリカ大陸におけるアメリカの(武力行使を含む)秩序維持の責務を根拠づけるものとする新解釈を示した。

棍棒を持ってカリブ海を歩き回るルーズベルト(当時の風刺画)

中央集権化が進行する時期、北米大陸征服を終えたアメリカは海外に進出し、「帝国」への道を歩み始める

二つの世界大戦 

(1)第一次世界大戦

セオドア・ルーズベルトの宣言は、新興国として出発したアメリカが、西欧の干渉を排して国力を充実させるという内向きの姿勢(オリジナルのモンロー主義(孤立主義)だ)から、西欧列強の一角として、積極的に世界にコミットする姿勢に転換したことを示していた。

実際、1870年から1913年の人口および経済の成長は、世界に類を見ないレベルに達していた。その基礎となった教育水準はさらに上昇を続け、さらなる国力の充実を約束していた。

アメリカは、その勢いに見合った活躍を求め、ついに「自由と民主主義」のリーダーとして名乗りを上げるのだ。

1917年4月2日、第一次世界大戦への参戦を決定したウィルソン大統領の議会演説をお聞きいただこう。

我々の〔戦争の〕目的は、世界の暮らしの中で、利己的で宣誓的な権力に反対し、平和と正義の原則を確立すること、そして、今後この原則を守り、保証するために、自治を行う真に自由な諸国民の間に、目的と行動の協調関係を樹立することです。‥‥世界は民主主義のために安全にされなければならないのです。

*中野・前出63頁

(2)「大きな政府」へ

大きな戦争を戦うということは、大勢の人間と大量の物資を組織的・計画的に動かすということであり、その実行にはどうしても大きな政府が必要になる。

南北戦争後に初めて「国家らしい」連邦政府を持つようになったアメリカは、大戦に参加する度に、社会・経済的な統制の能力を高め、より「大きな」政府に持つ国家に生まれ変わっていくのである。

1929年に始まった大恐慌は、アメリカが「大きな政府」を積極的に肯定していく契機となった。

1933年に就任したフランクリン・ルーズベルト大統領は、就任演説で、次のように述べている。

我々が恐れなくてはならないのは、恐怖そのものだけです。‥‥国民は行動を求めています。今すぐ行動せよと。‥‥議会にもう一つ危機への対処の手段を要請したい ------ 緊急事態に対する戦争を行えるように行政権力を拡大してほしいのです。

*中野・前出135頁

以後、1969年までの36年間、アイゼンハワー(共和党)2期を除いて民主党が政権を独占する「長いニューディール」の時代が続く。

アメリカが「二項対立」を封印し、大きな政府の下に一つにまとまって、国内では国民の福祉を、世界に向けては「自由と民主」(と豊かさ)を実現していこうとする理想主義の時代である。

しかし、彼らの「大きな政府」は、旧ソ連や中国共産党のような強大な権威に基づくものではない。

「二項対立」を封印したアメリカが、大きな政府の下で国民の統合を維持していくためには、憲法の理念、戦争、排外主義といったあらゆる手段を駆使していかなければならないだろう。

(3)第二次世界大戦

フランクリン・ルーズベルトが参戦の意図を語った1941年の一般教書演説について、中野先生にご紹介いただく(適宜改行します)。

冒頭ローズヴェルトは「アメリカの安全保障が今ほど外部からの大きな脅威に晒されたことはない」と危機感を煽ったうえで、「もはや我々は慈悲深い心を持つ余裕などない」と戦争が不可避であることを示した。

そして大統領は来るべきアメリカの戦争の大義を「人類の欠くことのできない四つの自由」ーーすなわち、①言論と表現の自由、②礼拝の自由、③欠乏からの自由、④(侵略の)恐怖からの自由、に求め、これを「〔日独伊三国同盟による〕専制政治の新秩序の対極に」位置づけた。

重要なのは、「四つの自由」の理念がアメリカの国家的目標であるばかりか、「世界のあらゆる場所で」実現されるべき理想として語られたことである。例えば、四つのうちで最もニューディール的な「自由」である「欠乏からの自由」は次のように敷衍されたーー「それは、世界的な観点から言えば、あらゆる国で、その住民の健全で平和な生活を保障するような経済的合意を意味」する、と。

この教書はアメリカがついに孤立主義を脱し、世界政治に本格的にコミットする決意の言葉でもあった。

中野・156頁
戦争目的の周知のために流行画家ノーマン・ロックウェルに描かせた「四つの自由」

理想主義に基づく世界政治への本格的コミットメントという方向性は、中等教育の普及が規定する下意識の健全な発露であり、「自由」の名の下に世界に打って出たアメリカの行動は完全に自然で正常である(倫理的当否について語るものではない)。

憲法的理念、排外主義、使用可能な全てのツールを総動員して第二次世界大戦を戦い終えたとき、アメリカは、世界に並ぶもののない超大国となっていた。

また、総力戦を戦った結果として、その国家には、極めて大きな政府が備わり、政府、軍、大企業、アカデミア等から成る「軍産複合体」が意思決定機構の中心を占めるようになっていた。

しかし‥‥この期に及んでも、アメリカの家族システムは共同体家族に進化したりなどしていない。原初的核家族のままなのだ。不釣り合いな「大きな政府」を持つこととなった国家の運命や、いかに。

二つの大戦を経て世界に並ぶもののない超大国となったアメリカは、同時に、巨大な政府を持つ国家となっていたが、家族システムは原初的核家族のままである

冷戦

(1)世界規模の「二項対立」

大戦以来の「大きな政府」は、民主党政権の下で、国内では「偉大な社会」の理想を追求する福祉国家(Welfare State)として開花する一方、対外関係では、軍事国家(Warfare State)として機能した。

*豊かで平等なこの時期のアメリカについてはこちらをご参照ください。

世界が荒廃する中、ただ一人無傷で、圧倒的な軍備と経済力を手に、世界の中心に立っていたアメリカ。その国は、しかし、自ら開発した核兵器の恐怖に足を掬われ、共産主義に恐れを抱き、すぐさま世界を敵と味方の二つに分けて、冷戦をスタートさせるのだ。

まるで、強力な中央政府が存在しない世界で、秩序を保つ方法は、核家族にはお馴染みの二項対立しかないというかのようである。

この「トルーマン・ドクトリン」は、世界政治の現状を「多数者の意思に基づく」自由な生活様式と「恐怖と圧制」の政治秩序との闘争と捉え、前者の擁護のためには、アメリカが他地域に介入することも避けられないと説明していた。

また‥‥こうも述べられた。「全体主義の種は悲惨と欠乏の中で育ち‥‥よりよい生活の‥‥希望が消えたとき完成する」と。ここに「欠乏からの自由」のレトリックは、共産圏膨張の「恐怖からの自由」—- つまり冷戦の戦いへと展開していく。

中野耕太郎『20世紀アメリカの夢』178頁
古矢旬『グローバル時代のアメリカ』6頁

この時期、アメリカの政府支出はさらに飛躍的な伸びを見せているのだが(↑)、この巨大な政府は、冷戦という特殊な戦争を戦う過程で、通常の政府が持ちうる「大きさ」とは質的に異なる、2つの「飛び道具」を手に入れる。

(2)金融覇権ー基軸通貨ドル

その一つは、ドルが国際金融の基軸通貨としての地位を確立したことによる金融覇権である。

‥‥ドルというのは魔法の通貨で、貿易収支の赤字が重大化した局面の間も、少なくとも2002年4月までは価値が下がることがなかった。まことに魔法のような動きを見せたわけで、経済学者の中にはそこから、アメリカ合衆国の世界経済における役割は、もはや他の国々のように財を生産することではなく、通貨を生産することなのだという結論を演繹したものもいる。

エマニュエル・トッド『帝国以後』130頁

私が理解している範囲でざっくりいうと、ブレトン・ウッズ体制下での基軸通貨としての地位、IMFや世界銀行の政策に対する事実上の支配権、マーシャル・プランを通じた欧州への多額の復興支援等を通じて、アメリカはグローバル金融を支配する地位に着いた。

政府支出の増大と産業競争力の低下で貿易赤字が常態化し、経済的覇権が危うくなった後も、金本位制を止めてドルを金(ゴールド)から切り離すなどして乗り切り(ニクソン時代の1971年)、唯一の大国としての謎の金融支配力を通じて、「どれだけ借金をしても潰れない」「ドルを刷ればいくらでも支出ができる」という謎の状態を作り上げたのだ。

*金本位制とは、「金(ゴールド)だけが本物のお金(マネー)であり、通貨は金(ゴールド)の引換券にすぎない」という考え方の制度で、この制度の下では、金(ゴールド)の裏付けなしにドルを刷ることはできない(ドルと金を引き換える(兌換)義務がある)。ブレトン・ウッズ体制は純粋な金本位制ではなく、金=ドル本位制というような感じのものだったという話だが、このことの意味は私にはまだわからない(いつか分かったら説明します)。また、金(ゴールド)とドルの交換レートが第二次大戦当時のアメリカの経済力を前提としたレートで固定していたため、1971年のアメリカにとっては「過大評価」となっていた(円は1973年に変動相場制となった瞬間に固定時の360円から約260円に上がっている)。ゴールド不足とドルの過大評価に悩んでいたアメリカは、金本位制を止めたことで、ゴールドなしにドルを刷れるようになり、また実力に応じたドルの切り下げにも成功したのである。
 

(3)秘密作戦

もう一つは、CIAなどの諜報機関を通じた秘密作戦である。

秘密の工作活動は第二次世界大戦期から行われていたが、朝鮮戦争の後、財政引き締めの観点から通常兵器の大幅削減が目指された際に、改めてその使用が拡大されたという(通常兵器の穴を埋めたもう一つは核兵器)。

*アメリカの正規軍の実力が(軍備の割に)大したことないというのはある程度定説なので、有効性の観点から選択された可能性もあるかもしれません。なお、アメリカ軍の「弱さ」について、トッドはつぎのように指摘しています(国家規模の戦争における犠牲的精神のなさは「権威の不在」の明らかな徴標だと私は思います)。

「イギリスの歴史家で軍事問題の専門家であるリデル・ハートが見事に見抜いたように、あらゆる段階でアメリカ軍部隊の行動様式は官僚的で緩慢で、投入された経済的・人的資源の圧倒的優位を考慮すれば、効率性に劣るものだった。ある程度の犠牲精神が要求される作戦は、それが可能である時には必ず同盟国の徴募兵部隊に任された。‥‥」(『帝国以後』121-122頁)

主としてCIAの主導の下で、アメリカ合衆国は、数百にのぼる秘密裏の不法介入を行なっているが、それが行われた地域以外ではほとんど注目されないままに終わっているのである。これらの秘密活動は、通常の統計調査の網の中には入ってこないところで行われている。専門的に言うならば、国防総省は「秘密工作活動」と「不法工作活動」を区別している。前者の場合には、活動のスポンサーが誰であるのかが隠され、そのスポンサーに関して「まことしやかに否認する」ことが許されているのに対し、後者の場合には、活動の存在自体が隠蔽される。しかし、実際には、この区別は普通は曖昧で、こうした行動とその実行者は、それがいかに犯罪的な行為で、その実態がいかに徹底的に明らかにされようとも、全く責任を問われないのである。

ジョン・W・ダワー(田中利幸 訳)『アメリカ 暴力の世紀  第二次世界大戦以後の戦争とテロ』(岩波書店、2017年)56頁

CIAの活動については、日本の一般の人々にはあまりにも知られていないと思うので、もう一箇所、引用をさせていただく。

1987年、CIAに幻滅した十数人の元CIA職員が自分たちの組織を作り、次のような声明を出した。

「アメリカ合衆国と戦争状態にない諸国、合衆国に対して十分な物理的損傷を与えるような能力を有していない諸国、あるいは「共産主義」か「資本主義」かという問題で、合衆国に対して悪意を全くもっていないか強い関心をもっていない国々、そのような諸国の数百万人にのぼる人たちが、アメリカの秘密工作活動で、殺傷されたりテロ行為の犠牲にされたりしている」

これらの元CIA職員は、詳細な情報を提供していないが、「第二次世界大戦以後、アメリカの秘密工作活動の結果死亡した数は、少なくとも600万人にのぼっている」と結論づけている。

同・58頁

https://theintercept.com/2015/11/12/edward-snowden-explains-how-to-reclaim-your-privacy/

思い出していただこう。謎の金融支配力、決して責任を問われることのない秘密作戦遂行能力、この恐るべき権力を握っている主体は、原初的核家族である。

そして「中等教育の普及+少数のエリート」という絶妙な配置の時代はまもなく終わる。国民全体の利益のために「大きな政府」を担うことのできる本物のエリートはいなくなり、高等教育による国民の階層化と私益を追求する(にせ物の)エリートの時代がやってくる。

彼らの手にそれらの権力が渡ったら何が起こるであろうか。
多分、それが、いまのアメリカで起きていることである。

巨大な政府を持つアメリカは、冷戦を経て、
①謎の金融支配力、②CIA等による秘密作戦の自在な遂行能力
という恐るべき権力を手に入れた。

最後の政権交代ーニクソン政権の誕生

https://www.theguardian.com/us-news/2020/nov/12/from-the-archive-1968-president-elect-nixon-planning-for-a-smooth-transition-of-power

「長いニューディール」とも言われる民主党時代(1933-69)にも、一度だけ共和党への政権交代が実現したことがあった。1953-61のアイゼンハワー大統領の時代である。

トルーマンの不人気と朝鮮戦争の泥沼化を背景とした政権交代で、「長い民主党時代の小休止」(中野・191頁)とも評されるこの時代、政権は「宗教戦争のごとき民主党の理念外交に警鐘を鳴らし、また伝統的な財政均衡論の立場から無節操な軍事費の増大を批判」(中野・191-192頁)して、通常兵器の大幅削減を目指すなどしたというが、冷戦の継続、福祉国家という基本路線に変化はなかった。

「長いニューディール」の終焉をもたらす本当の意味の政権交代が起きたのは、ニクソン共和党政権(1969−1974)誕生のときである。

「政権交代」を「民意に応じて政治の大きな方向性が変わること」と定義しよう。そうすると、ニクソン政権の誕生は、アメリカ史における最後の政権交代だったのではないかと思う。

ニクソンは誰の心を掴んで当選したのか、彼の演説を聞くとそれが分かる(共和党候補者指名大会での演説 中野・215頁)。

〔今や〕都市は煙と炎に包まれ、夜にはサイレンが鳴り響く。遠く海外の戦場で死にゆくアメリカ人、国内で違いに憎しみ合い、戦い、殺し合うアメリカ人達。数百万人のアメリカ人が怒りに震えているのがわかる。‥‥それはもう一つの声‥‥阿鼻叫喚の喧騒の中での静かな声だ。それは大多数のアメリカ人、忘れ去られたアメリカ人----デモで雄叫びをあげるような人ではない----の声である。

1968年、それは正に「高等教育の頭打ちが見えて」きて「理想主義への反発が生まれ」たそのときである。反発したのはもちろん、高等教育に達することが見込めなくなった非エリートの労働者たち。

ニクソンが狙い撃ちにしたのは、(自由貿易による)国内産業崩壊の影響をじかに被り、高等教育組が推進した人種差別撤廃政策で黒人に社会的・経済的地位を奪われる恐怖を覚え、理想主義に背を向けたサイレント・マジョリティ、白人非エリート層だったのだ。

このとき、彼らの票は、ニクソン共和党に32州での勝利を与え、本物の政権交代を実現させた。

ニクソンは、対外関係においては、ベトナムから兵力を撤収し、大統領補佐官ヘンリー・キッシンジャーとともに、現実主義の名の下で、中国やソ連との関係を改善し、戦略兵器を削減する「帝国」のダウンサイジングを行った。この現実主義は、主に財政上の必要によるものであったというが、非エリート層の意向にも合致しただろう。

では、社会・経済政策はどうであったか。

ニクソン政権は、福祉国家から新自由主義という極端な変化のちょうど移行期にあたる政権であり、その政策には両方の側面が見られるという(例えば黒人解放のためのバス通学、アファーマティブ・アクションなどは主にニクソン政権期の政策だ)。

しかし、経済政策という点でいえば、ニクソン政権は、確かに、新自由主義への最初の一歩を踏み出した政権だったといえる。

すでに述べたように、政権は、冷戦期の貿易収支の悪化に、金本位制の廃止等の金融政策で対応した。

労働者階級の生活の向上には、国内産業の育成こそが必要だったのに、政権は「小さな政府」「自助の精神」を称揚して彼らを放置し、金融という「魔法」によって資本家の利益を確保する方向に舵を切ったのである(この辺りの政治家の「裏切り」についてはこちらもご参照ください)。

にもかかわらず、労働者階級の不満は、ニクソン政権には向かわず、大学生たちのベトナム反戦運動や黒人解放運動に向かった。このとき、黒人への反感も醸成されたのだ。

高等教育組に反感を抱く白人非エリート層の支持によって実現したニクソン共和党政権は、民意によって政策の方向性が転換した「最後の政権交代」だった。

「大きな政府」のその後

ニクソン共和党への転換が「最後の政権交代」ではなかったか、というのは、これ以後、とくに1981年のレーガン政権以降、アメリカはほぼ「誰が政権をとっても同じ」という状況に陥っているからである。

こんなのが作られてSNSで人気になるほど「みんな同じ」感があるのだ。 
https://ifunny.co/picture/reagan-nerd-cool-dumb-classic-reagan-reagan-reagan-ah-eloquent-5INvk8Ed9

レーガン時代に確立した新自由主義・新保守主義(ネオコン)の路線が、その後の政権で揺らいだことはなかった。

90年以前であれば「親ソ」それ以降は「権威主義」とみなした国々への終わることのない軍事介入(CIAの秘密作戦はレーガン期に再度強化されている)。

ところで、トッドは、軍事予算をめぐり、1990年代のアメリカに興味深い転換があったことを指摘している。

ソ連が崩壊した1990年から1995年からの5年間のアメリカには、軍備の縮小による対外収支均衡に取り組んだ形跡が見られるという。

*軍事予算は1990年から1998年の間に28%(3850億ドル→2800億ドル)、現役の兵力も200万人(1990年)から140万人(2000年)に減少。
*1990年台前半の政府予算の上昇率の低下は、このグラフにも見て取れる。

しかし、1996年から2000年の間に、この傾向は逆転していく。再び軍備の増強が始まり、貿易収支の赤字が爆発的に増大する。なぜか。

どれほど巨額な貿易収支の赤字も金融収入で埋め合わせることができるというドルの魔力は、ドルの信用に依存している。

つまり、ドルが全世界に信用による強制レートと弁済手段としての強制通用力を持つのでなければ、何の意味もないのである。

『帝国以後』132頁

第二次大戦後、アメリカは、唯一無傷で生き残った(しかもなお成長期にある)大国としての圧倒的な経済的優位に基づいてドルの覇権を築いた。

その経済力が失われた今、どうやってその覇権を維持していけばよいだろう。

1999年前後に、アメリカの政治的エスタブリッシュメントは、帝国型の経済、つまり依存的経済という仮説を立てた場合、軍事潜在力が現実に不足しているということを自覚した。

同・127頁

軍事力の再増強は、アメリカ合衆国の経済的脆さが増大しつつあるという自覚から派生するのである。 

同・126頁

国内産業の育成による貿易収支の健全化を諦め、金融支配力=ドルの覇権によって生きていくことを決めた大国。

金融支配力=ドルの覇権の維持のために、「自由と民主主義のリーダー」としての軍事力の誇示や対外介入を続ける大国。

これがアメリカの現在の姿である。

レーガン以降、アメリカは誰が政権を取っても変わらず新自由主義・ネオコン路線を突き進んでいる。

1995-2000年頃以後、アメリカの軍事行動は金融支配力(ドルの覇権)維持を目的とするものとなっている

二項対立の終わり

原初的核家族は、基本的に、行政機構を適正に維持する能力を欠いている。それにもかかわらず、アメリカは、南北戦争、二度の世界大戦、そして冷戦を通じて、巨大な政府を持つ国家となってしまった。

アメリカの現状は、「権威」なき国家の巨大な政府が、「暫定権威」の支配に屈することとなった結果と見ることができると思われる。

現在アメリカを支配する暫定権威。それは、連邦裁判所ではなく、軍ですらなく、おそらく、金融資本とCIAなのだ。

そのような事態を招いた原因は、根本的には、原初的核家族の国家としてはありえないほど、政府が大きくなってしまった点にある。

フィリピンの入管施設のようなメンタリティの人たちが、この巨大な政府を担っていると考えてみてほしい。統率の効かない政府において、最終的に幅を利かせるようになったのが金融資本とCIAだったというのは「なるほどねー‥」という感じではないだろうか。

ただ、そうは言っても、アメリカは、「大きな政府」となる以前には、憲法と二項対立によって国家を保っていた国だ。党派対立、選挙、議会。政治の力はどこに行ってしまったのであろうか。

1969年にはわずかながら残っていた二項対立(政権交代)の力が、その後ほぼ完全に失われた理由は、アメリカI、IIと続けて読んできていただいた方には見当が付くと思う。

高等教育の拡大による社会の階層化は、アメリカでとくに激しい格差と分断を生んだ。

おそらく、アメリカ社会では、「上下の対立」、というより「上による下の支配」の比重が大きくなりすぎて、左右の(イデオロギー上の)対立に意味がなくなってしまったのだ。

トッドは、高等教育の拡大による社会の階層化に「平等の破壊」を通じてデモクラシーを破壊させる機能を認めた。

私は、同じことを「権威」の観点から述べている。高等教育による社会の階層化は、「国家をまとめる」役目を果たしていた二項対立の機能を無化した。

「大きな政府」は一部の人間の利益のために暴走するしかなくなってしまったのである。

アメリカは、
 原初的核家族にはありえないほどの政府の巨大化
 ②「上下」の分断による「左右」二項対立の無化
により、金融資本とCIAが暫定権威として幅を利かせる国家となった

おわりに

人種差別撤廃に向けた運動が白人の平等を揺り動かしたという悲しい事実を解明してしまったトッドは、次のように述べ、彼らの英雄的な努力に目を向けるよう促した。

‥‥このときアメリカのデモクラシーはその人種的な母体から逃れようと努めた。われわれは彼らの試みの英雄的側面を感じ取る必要がある。アメリカ史の文脈においては、これがまさしく天を衝こうという試みであったことを理解する必要がある。

『我々はどこから来て、今どこにいるのか』下・76頁、英語版 227頁

私も同じことをさせてもらいたい。
トッドだったら、こんな風に語るだろうか。

祖国を離れて新大陸に渡った彼らは、理想の国家を目指してアメリカを建国した。見事に成長を果たした後は、「偉大な社会」を求め、世界に冠たる帝国たることを目指した。われわれは、その英雄的側面を感じ取る必要がある。原初的核家族の彼らにとって、これがまさしく天を衝こうという試みであったことを理解する必要がある。

偽トッド語録

狩猟採集民のメンタリティを持ちながら帝国の建設を目指すという正に英雄的な試みの末、完全な寡頭制に陥ってしまったアメリカ。陰謀とかではなく、非常に合理的な過程を踏んで、(もちろん「ある程度」ですが)なるべくしてなった結末だと私は思う。

原初的核家族のアメリカで、巨大化してしまった政府が秩序を取り戻すことはありそうにないし、国民が一丸となって政府を倒すというようなこともありそうにない。

おそらく、比較的近年のうちに、ドルの覇権は崩壊し、金融資本とCIAの帝国は消滅するだろう。

その過程では、アメリカや日本はもちろん、世界中が相当な苦境を経験するだろうと予想はするけれど、それでも、私の気分は明るい(アメリカ I を書いた後とはずいぶん違うのだ)。

だって、それは、金(マネー)がすべてで、自分の領分を守るためには世界の半分を敵に回さなければいけないみたいな、このヘンテコな世界が終わるときなのだ。これが希望でなくていったい何だろう。

私たちがどう生きるかでこの先の世界は変わる。‥‥というのは、まあ、いつの時代も真実だが、それが、この超、ド、激変期に当たっているなんて、楽しい、としか言いようがないではないか。

ねえ、皆さん?

今日のまとめ

  • 建国当初のアメリカは、小さな政府しか持たず「裁判所と党派対立」でなんとかやりくりする国家だった。
  • アメリカは、南北戦争による「再統一」を経て中央集権国家に生まれ変わり、大戦後には巨大な政府を持つようになっていたが、家族システムは原初的核家族のままだった。
  • 巨大な政府を持つアメリカは、冷戦を経て、
    ①謎の金融支配力、②CIA等による秘密作戦の自在な遂行能力
    という恐るべき権力を手に入れた。
  • アメリカは、
    原初的核家族にはありえないほどの政府の巨大化 
    「上下」の分断による「左右」二項対立の無化
    により、金融資本とCIAが暫定権威として幅を利かせる国家となった。
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アメリカ II (2)
ー国家をまとめる5つの方法ー

 

はじめに

アメリカは、家族システムの「権威」が供給する諸機能を持たないにもかかわらず、国家を誕生させ、成長し、歴史上稀有な繁栄を見せた。

いったい、どういうやり方で、国家に必須の機能を補い、国を成り立たせてきたのだろうか。

アメリカの習慣的な行動の中には、「たぶん、これだな」と思わせるものがいくつかある。まず、それらのツールをまとめておこう。

アメリカの「権威」代替ツール

(1)合衆国憲法

建国時、原初的核家族だったゲルマン諸民族はキリスト教を「借り物」の権威として役立てた。

アメリカの場合はどうだろう。ピルグリム・ファーザーズの神話化といったもっともらしい事実があるものの、私は、キリスト教の信仰がアメリカの建国に本質的な役割を果たしたとは考えていない。

ピューリタンの情熱は「プレ近代化」局面にあった人々が「自分たちにふさわしい信仰」を求めた結果であり、彼らはすでに文字を読み、合理的に考える習慣を持ち始めていた。

そのような人々にとって、宗教そのものが真に「権威」の代わりになりうるとは思えないのだ。

権威に代わるものがあったとすれば、それは、合衆国憲法ではなかったかと思われる。

宗教と学問」で書いた通り、西欧は脱宗教化の過程で、学術・イデオロギーの繚乱の時期を迎えた。それは、一神教の神を希求する心の形が、(一時的に)世俗の事物に転用された結果であった。

自由、人権、人民主権、三権分立。こうした輝かしい概念は、言ってみれば、一神教の神の後継者なのだ。

独立宣言、合衆国憲法。誰にでも読める言葉で書かれたそれらの文書は、脱宗教化バージョンの「聖書」として、国家統合の象徴となった。

第一世界大戦での世界デビュー以来、アメリカが何かにつけて「自由と民主主義」などの理念に言及するのは、それがアメリカという国家のアイデンティティそのものとして機能しているからだと考えられる。

(2)二項対立

二項対立は、絶対核家族のイギリス、原初的核家族のアメリカが「正しさ」を定立する際の基本的なスタイルであるが、これも権威の軸を代替する機能を果たしているように思われる。

*当事者二者が争う裁判制度や二大政党が争う政治制度を想定しています。 

イギリスの場合、薄いながらも縦型の軸が存在している。おそらく、その薄っすらした軸を中心に、構成員(集団と書いたが近代国家の成立以後は主に個人)が二つに分かれて争うことで、中心に向かう凝集力と似た力を生み、権威の軸を強化しているのだ。  

*比較対象(直系家族)↓

「権威」ありの直系家族の場合 

アメリカの場合には、中心に軸があるとすれば、憲法(的理念)であろう。後で見るように、アメリカでは、建国後まもなく自然に党派対立が発生し、以後の政治の基本システムとなったが、憲法を中心に、二者が対立し、政権を実際に行ったり来たりさせることでバランスを取り、権威の軸に似たものを生み出し、国の統合を保つ仕組みと考えられる。

しかし、「なんとなく」ではあるが、このやり方で安定を保てるのは、国の規模が比較的小さい場合に限られるのではないか、という気がする。

近年のアメリカは、二大政党はあり、政権交代もあるけれど、政治・経済・外交の基本路線は変わらないという状況に陥っている。

なぜそうなったのかは後で検討するが、二項対立という核家族の基本ツールが使えなくなっていることと、アメリカの不調とは関係があると思われる。

(3)戦争

アメリカの歴史には目立った党派対立がなく、あるいは政権交代が起こらない時期が間欠的に発生しているが、それは大抵大きな戦争の(戦中)戦後期である。

*1812年戦争(米英戦争・第二次独立戦争ともいう)後の「好感情の時代」、南北戦争から再建期の共和党時代、第二次大戦前後の民主党時代

このことは、戦争がアメリカにおけるもう一つの国家統合ツールとして機能していることを推測させる。

そう、アメリカ史は何より戦争と征服の歴史である。まずイギリスと戦って独立し、北米大陸を征服(普通は「開拓」といいますが)すると、中南米、太平洋島嶼部を勢力圏として固め、アジアにも進出。

第一次世界大戦への参戦でいよいよ世界をリードしようと試み、第二次大戦でついに並ぶもののない大国となったが、なお共産主義の封じ込めに躍起になって冷戦を始めてしまう。

冷戦期には朝鮮戦争やベトナム戦争などの目に見える軍事介入とともにCIAによる対外工作(クーデターなど)を多用。ソ連崩壊でついに名実ともに「唯一の超大国」となったが、それでも各種戦争や軍事介入、対外工作をやめられず、現在に至る。

という感じである。

*第二次大戦後にCIA等によって行われた秘密作戦の数は500以上とされている。
さしあたりこちらを参照。

この地図を見てほしい。2020年現在、アメリカは現在世界各地に800に及ぶ軍事基地を展開しているのだ。

http://www.overseasbases.net

これを見ていて私の頭をよぎったものがあった。

実を言うと、アメリカ以前にも、「原初的核家族の大帝国」という語義矛盾のような事態が実現したことが(おそらく一度だけ)ある。

アレクサンドロスの帝国である。

アレクサンドロス(前356-323)の頃のマケドニアの家族システムについて確かな情報を得ることはできないが、ギリシャの周縁という地理的・文化的な位置を考えると、原初的核家族と仮定してそれほど的外れではないと思う。

*トッドは古典期のギリシャについて一時的父方同居を伴う核家族(私の用語では原初的核家族の一種)という仮説を立てている。

アレクサンドロスは征服に征服を重ねて大帝国を築き上げ、行く先々に都市「アレクサンドリア」(ペルシャ語・アラビア語ではイスカンダル)を建設するが、帝国は彼の死後間もなく分裂し、マケドニアはやがてローマの属州となる。

これが彼が各地に建設したアレクサンドリアである。
まるで米軍基地みたいではないか。

発達した家族システムを持たない不安定な「帝国」でも、君臨する王が異民族を征服し領土を拡張し続けているうちは求心力を保てる。しかし、征服を止め、覇権戦争をやめると、バラバラに崩壊し、国家として成り立たなくなってしまうのだ。

「戦い続けているうちは倒れない」。国家維持のこの方式を「アレクサンドロス方式」と呼ぼう。

アメリカも、アレクサンドロスと同様に、この方式を(もちろん意図せずに)採用しているのではないだろうか。

(4)暫定権威

以上に加え、はっきりした権威の軸が存在しないアメリカ社会には、つねに「混乱期におけるヤクザ方式」の暫定権威も働いているように思われる。

「混乱期ヤクザ方式」とは、そのときどきでもっとも規律のある機関が存在感を高め、権力を掌握するというシステムだが、建国当時のアメリカでそのヤ‥‥いや、暫定権威の地位に着いたのは、連邦裁判所である。

アメリカにおける連邦司法の権限と影響力の大きさは、合衆国憲法に書き込まれた「計画通り」のものではない。

違憲立法審査権なども、連邦最高裁が自らの判決を通じて、既成事実として確立させていったものなのだ。

国として動き出せば、さまざまな場面で「正しさ」が求められるが、「権威」なき合衆国にはその機能がなかった。そこで、憲法の権威を背負う連邦裁判所に、その任が回ってきたのであろう。

こうして、初期のアメリカ政治における基本体制は、「暫定権威としての連邦裁判所(backed by 憲法)+党派対立」と合い成った。

なお、アメリカの政治学者の中に、これとほぼ同じことを述べている人がいる。スティーヴン・スコウロネクという人である(以下、貴堂嘉之『南北戦争の時代』(岩波新書、2019年)112頁以下参照)。

彼によると、建国当時のアメリカの特徴は、常備軍や中央の課税権限を拒否して政府権力を分散させている点、すなわち「国家不在(statelessness)」にある。

そして、「国家不在」状況において、政府としての一体性を保持する役割を果たしたのは、連邦裁判所と政党であり、当時のアメリカは「裁判所と政党からなる国家」であった、というのである。

*原典は Stephen Skowronek, Building a New American State: The Expansion of National Administrative Capacities, 1877-1920, Cambridge University Press, 1982(私は読んでいません)

アメリカが「国家不在」となったのはアメリカの家族システムが「権威不在」だったからであり、要するに、彼は私と全く同じことを言っているのである。

だから何だという話ではあるが、私がそうそう奇妙キテレツな見解を述べているわけではないと安心していただけるかと思ってご紹介した次第である。

二項対立が今ひとつ機能しなくなっているのと同様に、連邦司法の方も、政治に絡め取られ、往時の輝きを失っているように見える。

では、その代わりに誰が暫定権威を担うようになったのか、ということが、おそらく現在のアメリカを理解する鍵の一つである。

(5)排外主義

トッドはアメリカの人種主義に「平等」を支える機能を認めたが、人種主義を含む排外主義には「権威」に代替する機能があることも見逃せない。

権威の重要な機能の一つは、「自然な一体感」つまり凝集力である。前回述べたように、これは秩序の基盤であると同時に、外敵からの防衛(国防)の際に力を発揮する。

家族システムに「権威」を持たない人々が、凝集力を高めなければならない状況に追い込まれたとき、発生するのが排外主義だ。

何らかの対象を強く排斥することによって、その反動によって、凝集力を生むのである。

アメリカの場合、まず、先住民と黒人奴隷を排除することで、建国を成し遂げた。

領土拡張の歴史は先住民排除の歴史でもあり、1830年にはインディアン強制移住法が成立している。

先住民排除(というか虐殺)の動きは、南北戦争の後、より国家らしい国家に生まれ変わる「新たな建国」の時期(後で説明します)に、さらなる高まりを見せた。

西部では1860年から1890年までの間に、伝統的なエリート層のまったくいない社会が開花していったが、それに伴っていたのは、大平原のインディアン25万人の殲滅、人種感情が最高潮に達する状況の中で発生した殺戮であった。

下・23頁

20世紀初頭、アメリカが「国際警察」を名乗って「帝国」への道を歩み始めた時期(これも後で)は、投票要件の厳格化による黒人からの実質的な投票権剥奪や、「ジム・クロウ法」と呼ばれる公共の場での物理的な人種隔離の法制化など、新たな形での黒人差別制度が生まれた時期と重なる。

第一次世界大戦から第二次世界大戦にかけ、大きな政府を持つ中央集権国家に生まれ変わっていった時期には、まず排外主義の高まり(1920〜 第二次KKK、厳格で差別主義的な移民政策)があり、日系人差別が激化した(1940〜 強制収容、原子爆弾によるジェノサイドも?)。

*第二次世界大戦後の黒人差別についてはこちらをご覧ください。

権威か平等かー排外主義の扱い
 
本文でも書いたが、トッドは排外主義を活用したアメリカのデモクラシーを一貫して「平等」の観点から分析している。国家の統合について考えるときに、日本人である私が「権威」に着目し、フランス人であるトッドが「平等」に着目するのは、日本という国家の統合の軸は「権威」であり、フランス統合の軸は「平等」だからだと思われる。

共同体家族が統べる「帝国」を、国家統合のお手本と考えてみよう。彼らの家族システムは「権威=平等」の組み合わせである。このうち、平等が未発達で「権威」だけを持っているのが日本、ローマ帝国で一度は成立した「権威=平等」のうち権威が衰退し、平等だけが残ったのがフランスなのだ。

だから「平等」に国家をまとめる力があるのは分かるし、「平等」の観点から国家の統合を論じることが可能であるのも分かる。アメリカの場合、権威も平等も持っていないから、どちらから論じても議論が成り立つということも分かる。

分かるが、直系家族(権威)→共同体家族(権威+平等)というのが国家形成を促す通常の進化の過程であることを考えると、トッドのアプローチが倒錯していることは否めないと思う。

アメリカ史 第二の基層ー教育と時代精神

(1)教育の進展

日本やヨーロッパと異なり、アメリカは最基層(家族システム)の変化を経験していないので、「時代精神」は教育の層に見事に規定されている。

アメリカ史総論としてまとめておこう。
まずは教育の進展状況である。

初等教育については最初から高い。

中等教育(高校)の充実で世界に先駆け、その後の発展の基礎を築いた。 

*こうして改めて初等・中等教育のデータを眺めていると、イギリスから渡ってきたプロテスタントの人々が、聖書を読み、子供たちに基本的な教育を与えようと地域で努力したことがアメリカの発展の基礎だったんだなあとしみじみと感じます。

高等教育については、まずトッドの本から。

『我々はどこから来て、今どこにいるのか』英語版(Lineages of Modernity) 208頁

1960年以前については次のグラフで感じが分かる(パーセンテージではなく数)。

https://nces.ed.gov/pubs93/93442.pdf

(2)アメリカ史の時代精神

教育の進展状況と「時代精神」の対応関係は、つぎのように整理できる。
(次回の準備として政府の大きさも入れた。)

 

並列はほぼ同じものの言い換え、「/」は二つの傾向の併存

みんなが読み書きできる状況が開拓精神(自由主義)を生み、中等教育の普及が「よりよい社会を目指そう」という進歩主義(理想主義)につながり、高等教育の頭打ちが見えてくると理想主義への反発が生まれ、さらに階層化が進むと開き直って新自由主義に突っ走るのだ。 

(3)教育と「大きな政府」

教育の普及度合いは「大きな政府」の制御能力にも関わりがあることを付言しておく。

「権威」を持たないアメリカで、「大きな政府」がもっともよく機能したのは20世紀前半。中等教育が社会全体に広く拡大する一方、高等教育受益者はごく少数に止まっていた時期である。

高等教育受益者が希少である時期(15%以下を「エリート段階」とするモデルがよく知られている)、彼らは本物のエリートとして機能する。5%とか15%の知識層がその力を発揮していくには、社会に関わり、社会全体のために奉仕するしかないからだ。 

20世紀前半のアメリカは、中等教育の普及による理想主義・進歩主義と、その実現のために奉仕するエリートの両方を備えていた。「大きな政府」機能させるのに最適の条件を持っていたのである。

やがて、20%、30%と拡大していくと、高等教育受益者はエリートとしてのメンタリティを持たなくなり、その力をただ自分たちの利益のために使っていくようになる。社会は高等教育受益者とそれ以外の二つに分かれ、全体に対して責任を担う者はいなくなる。

20世紀後半以降のアメリカが、実際には極めて大きな政府を持っているにもかかわらず、小さな政府を志向する(→「お前たちの面倒を見る気はない」という意味だ)という奇妙な事態に立ち至ったのは、おそらくこのためである。

(次回に続く)

今日のまとめ

  • アメリカにおける権威の代替物は、①合衆国憲法、②二項対立、③暫定権威、④戦争、⑤排外主義 である。
  • 合衆国憲法の理念は一神教の神の後継者であり、ゲルマン民族が建国時に利用したキリスト教(借り物の権威)の近代版である。
  • 建国当初は連邦裁判所が暫定権威を担い、「連邦裁判所+党派対立」がアメリカ政治の基本体制となった。
  • アメリカの時代精神は教育の進展状況に規定されている。
  • アメリカの「大きな政府」は、「中等教育の普及+少数の高等教育受益者(エリート)」の局面で最もよく機能した。
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アメリカ II(1)
ー権威なき帝国の謎ー

目的

アメリカがグローバリズムに走って著しい格差と分断を生み出した機序については、私は基本的にはトッドの説明に納得している。しかし分からないこともある。

新自由主義の弊害はかなり早くから認識されていた。その上、2008年には世界金融危機も起きたし、2012年には大規模な抗議運動「Occupy Wall Street(ウォールストリートを占拠せよ)」も起きた。

格差が生まれてしまったことは仕方がないとして、アメリカはなぜこのときに至ってもブレーキをかけられなかったのだろうか(大統領はオバマだった)。

また、経済格差が顕在化した1980年から現在という時期は、アメリカがCIAなどの諜報機関による代理戦争、代理テロ、その他、ありとあらゆる手法による世界秩序の撹乱に熱中しはじめた時期と一致している。

 *私はウクライナ戦争もこの一部と捉えています。

不平等の下意識が拡大したからってなぜそんな秘密作戦にのめり込まなければならないのか。

私は「よい人間がよい社会を作り、悪い人間が悪い社会を作る」という考えを採用していない。アメリカが何かうまくいっていないように見えるのは、彼らが悪いからでも愚かだからでもなく、システムと状況の相互作用によるものなのであるはずなのだ。

その機序を解明しよう、というのがこの文章の目的である。

仮説:原初的核家族の帝国

トッドの分析を読んで、私はアメリカは絶対核家族というより原初的核家族なのではないかと考えるようになった。アメリカ II はその方向で行かせてもらう。

*絶対核家族だとしても「直系家族の痕跡を喪失した絶対核家族」なので大して変わりはない。

現在のアメリカの混迷は、アメリカが大きくなりすぎたことによる、というのが私の基本的な仮説である。

原初的核家族とは、狩猟採集社会における部族(tribe)のシステムである。本来は国家の形成すら困難な狩猟採集民が、なぜか並ぶもののない超大国として世界を率いることになってしまった、というのが現在のアメリカなのである。

問題が起きない方がおかしいといえるが、
どういう問題なのかは特定される必要がある。

アメリカの大きさ

1776年の独立宣言から数えて約250年、1788年の合衆国憲法誕生発効からだと235年という短期間の間に、アメリカは、人口、領土、そして中央政府の規模という点で、驚くべき膨張を遂げている。

まずはその様子を確認しておこう。

(1)人口

人口はまずこんな感じ。ずっと増え続けているが、とくに19世紀後半からの伸びが著しい。

*1860年頃にイギリスを抜いていると思います。

しかしその割に、人口密度は19世紀の間はあまり上がっていない。領土が大幅に拡張したためである。

ちなみに、日本の人口密度は2010年がピークでその後低下を始めているが、アメリカは当分増え続ける見込みである

(2)領土

建国の基礎となった13州はこれだけである(濃いピンクの部分)。これだけでもかなりの広さではあるが。

その後少しずつ領土を拡張し、1803年にフランスからルイジアナを購入してこれだけ大きくなった(濃いオレンジ、水色、濃い緑)。

そして、1840年代にテキサス、オレゴン、カリフォルニア、ニューメキシコを含む広大な領土を獲得し、ほぼ現在のアメリカ、大西洋岸から太平洋岸に至る大陸国家アメリカになるのである(濃いオレンジ、水色、濃い緑)。

https://maps.lib.utexas.edu/maps/histus.html

(3)連邦政府の規模

詳しくは次回に見るけれど、中央政府にあたる連邦政府の機能は18世紀後半から強化され始め、その後は基本的に拡大の一途をたどる。

アメリカといえば「小さな政府」というイメージがあるが、20世紀以降のアメリカには当てはまらない。

連邦予算の推移を見ると、とりあえず「膨張しているな」ということは分かると思う(青が歳入、赤が歳出)。 

https://stats.areppim.com/stats/stats_usxbudget_history.htm

未開社会と国家はどう違う?
ー「権威」の機能

アメリカ帝国の驚異とは「これだけ大きな国家を原初的核家族が運営している」ということに尽きる。

国家規模の拡大は、歴史的には、家族システムの進化とともに起こるものだった。メソポタミアにおける国家成立の背景には原初的核家族から直系家族への進化があったし、ハンムラビ王がメソポタミアを統一し、秦の始皇帝が中国を統一する背景には、直系家族から共同体家族への進化があった。

それなのに、アメリカは、どういう運命のいたずらか、原初的核家族のままで大国を率いることになってしまったのである。

さて、しかし、原初的核家族であることのいったい何が問題なのであろうか。未開社会と比較して、国家における「権威」の機能をおさらいしておこう。

(1)未開社会

約7万年前から、人類は何らかの倫理観念を持ち、集団の紐帯として役立てていた。その小さな部族的集団(親族が基本)の中では、人間たちはそうそう争うことはなく、大体同じようなことを考えて生きていたのではないかと思われる。

*ときどきニュースなどで「人間の脳には共感を司る部位があることが解明された」「利他性を司る部位が・・」とかいう話があるのはおそらくその関連で、人間の身体(脳を含む)は基本的に毎日接する相手や考え方を「正しい」と前提し、助け合って生きていく仕組みになっているように思う。

こういった集団にも、「長老の発言権が大きい」などの緩やかな権威は存在するであろう。しかし、その種の権威には持続性がなく、国家の軸にはまだ弱い。

狩猟採集民は移動生活が基本なので、移動できる広いスペースがある限り、他の集団との「正しさ」(倫理)の違いが深刻な問題を生じることはない。彼らは素朴に自分たちの考えを正しいものと信じて生きていくことができるのだ。

何らかの事情で他の集団と争いとなった場合、相手集団は単純に「敵」である。戦うか、離れるか。基本的にはその二択で対応するだろう。

*なお、国家の成立に関する社会科学や哲学の議論は「個人」を主体として観念することが多いが(近代化に向かう時期の核家族エリアで始まったからだ)、近代国家が生まれる以前の人類は例外なく集団を基本単位として暮らしていた。国家も「個人と個人」の関係性ではなく「集団と集団」の関係性から生まれたはずなのだ。ということで、少し違和感を感じる人が多いと思うが、集団を基本単位として議論を進める。

↓権威の機能についてはこの記事でも(ほとんど同じ話を‥‥)書いているのでよろしければどうぞ。

(2)国家

定住が始まり、人口が増え、土地が希少になったときが、国家成立のタイミングである。

部族的集団同士の間で「正しさ」のすり合わせた必要になるタイミングと、土地を子孫に受け継ぐことが必要になるタイミングが一致するというのがミソで、土地の継承のために生まれる直系家族の権威の軸が、共有物としての「正しさ」=「法」の基礎を提供する。

未開社会の部族民と(直系家族以上の)国民の根本的な違いは、「正しさ」の基準が自分の内側にあるか外側にあるかであると考えられる。

未開社会の人々が自分たちの考えを素朴に「正しい」と信じるのに対し、「権威」の軸を持つようになると、人々は「正しさ」とは自分の外側にあるものだと感じるようになるのである。

日本には「権威」の軸があるので、その作用は日本人には理解しやすいであろう。私たちの多くは、誰もいない所でも「お天道様が見ているから」行動を律しなければならないという感覚を持っていると思う。これこそが、家族システムの中に「権威」があるということの意味であり、効果なのだ。

権威の軸を持つ社会では、各集団(に属する人間たち)はその軸を「正しさの源」と見て(具体的な中身が分からなくても)それに従おうとする。

それによって生まれる「凝集力」。これが国のまとまりの源である。

これが出来てしまえばシメたもので、あとはこの軸に、行政組織とか、いろいろ付け足していけば、立派な国家ができあがる。この軸を持ってさえいれば、国家を維持することは、大して難しいことではないのである。

(3)国家における権威の機能

①秩序維持

国家において「権威」が果たしている役割は非常に根源的で総合的なものだが、「ないとどういう風に困るか」を理解していただくため、その機能を3つに分けて説明してみたい。

第一は、秩序維持機能である。

権威が確立した社会では(おそらく特に直系家族の場合)、人々は自ら行動を律する傾向を持つようになるし、法を定立することも、警察、司法制度を機能させることも容易になる。

限られた領域に大勢の人間が暮らしている場合、少なくとも最小限の秩序維持機能は絶対に必要といえる。それがなければ、弱肉強食、血で血を洗う抗争の世界となってしまうから。

そのため、限られた領域に人間がひしめいているにもかかわらず、権威が確立していない場合(原初的核家族はこれにあたる)、何が起きるかというと、たいてい、最も強い規律と実力を持つ組織が「権威」を代替することになる。

日本でも、戦後の混乱期などには、ヤクザ組織が地域を治めているケースがあった(と思う)。シチリアのマフィアなどもそういう機能を果たしていただろう。

また、急に国家としてやっていかなければならなくなった国では、とりあえず軍が国の中枢を担うことが多い。他に有効に機能する権威がないからだ。軍事政権は「悪」の代名詞みたいに言われるが、ヤクザだってマフィアだって軍だって、ないよりはあった方がましなのだ。

これも新興国にありがちなもう少し穏当なケースとしては、裁判所(司法機関)が実質的に一番強い権力を持っている場合がある。比較的安定した社会では、信頼感と規律の高さで司法機関が優越するのかもしれない。

大事なことなのでもう一度言う。

広大な領域に少ない数の人間が暮らしているだけなら「権威」が存在する必要はない。自由、自律、すばらしいことである。

しかし、限られた領域に大勢の人間が暮らすときには、権威は絶対に必要である。だからこそ、それがない場所では、自動的に「暫定権威」が生まれてくるである。

②行政の適正

国家に権威が不可欠である理由のもう一つは、権威があってはじめて行政機能の維持が可能になるためである。

行政とは公共サービスである。したがって、自分の利益よりも「みんなの利益」を優先できるメンタリティが普及していないと、国の行政機能を適正に維持するのは難しい。それを可能にするのは、「権威」の存在なのだ。

フィリピンの入管施設の(日本から見ると)デタラメぶりに驚いた日本人は多いと思う。しかし、「公務の廉潔性」というのは原初的核家族にはよく分からない概念であろう。

*フィリピンは原初的核家族(『家族システムの起源 I 上』336頁以下)。

権威の軸(この文脈では「正しさの基準」)を持たない人々にとって、入所者から金をもらって優遇してやることは単に「win-win」である。自分が得をして、相手も得をする。それだけだ。

したがって、今後もその種の腐敗がなくなることはおそらくないし、当地の一般の人たちは別段問題とも思っていないはずである。

そういうわけなので、アメリカ建国期の「小さな政府」は、原初的核家族には適した仕組みであったといえる。しかし、上に見たように、現在のアメリカ政府は巨大なのだ。

③自然な一体感

上の図を見てもらうとわかりやすいと思うが、権威の軸には、社会に自然な一体感を醸成する機能がある。

日本語だと「同じ太陽の下」とか「ひとつ空の下」と表現される感覚がそれに当たり、社会が適正サイズに収まっている場合には、おそらく、抑圧的に働くものではないと思われる。

*今の日本が抑圧的でないと言っているわけではありません。現代の直系家族国家がやや窮屈なのは、多分、規模が大きすぎるせいなのです(そのうち書きます)。

そうして得られる一体感やまとまり感(凝集力)は、秩序のおおもとでもあるし、外敵から身を守る国防力の源泉でもあるだろう。

したがって、それを持たない人々が、一体感やまとまり感を持つ必要に迫られた場合、何らかの代替的手法を編み出していくはずである。それが何かは、次回の主なテーマとなる。


家族システムにおける「権威」とは、国家の成立に不可欠な基本機能を供給してくれるありがたい存在である。

直系家族は権威の軸を持ち、共同体家族はもっと強力なそれを持ち、絶対核家族は持っていないけど、例えばイギリスであれば、ノルマン貴族の末裔である王侯貴族、彼らが作った行政の伝統、ローマに由来する教会組織などの「権威」の痕跡が数多く残された土地を持っている。

ところが、アメリカは、それに類するものを何一つ持たずに、世界に冠たる超大国となってしまった。

これがどれほど奇妙で、「ありえない」と思しき事態か、ご想像いただけたであろうか。

今日のまとめ

  • アメリカの混迷は、狩猟採集民の家族システムのまま、超大国を率いることになったことによる(仮説)。
  • 進化した家族システムを持つ標準的な国家の場合、権威の軸がもたらす凝集力が国家のまとまりの源となっている。
  • 権威は、①秩序維持機能、②行政の適正、③自然な一体感 を国家に供給している。
  • 歴史的には、国家規模の拡大は家族システムの進化を伴う。「権威なき」アメリカの事例はかなり「ありえない」事態である。
カテゴリー
社会のしくみ

ドイツ(4・完)
-強くて不安定なドイツ-

 

目次

 

ドイツの地殻変動:宗教改革から三十年戦争まで

(1)基本情報:家族システム、人口、識字

「地殻変動」を表す基本情報として、家族システムの生成は前回見たので、それ以外の要素を確認しよう。

〈 人口 〉ヨーロッパ全体の数字だが、16世紀に8100万人から1億4000万人に増加しているという(阿部謹也『物語 ドイツの歴史』145頁)。かなりの増加具合である。

ドイツの人口増加は11世紀に始まっているが、1348年から14世紀末にペストによる大幅減少があったので、15-16世紀はそこからの回復期に当たっていたと考えられる。

〈 識字 〉下の地図をご覧いただきたい。「●」は1480年以前に1台以上の印刷機が稼働していた州(県)であることを表している。グーテンベルクが印刷機を発明したドイツ中南部(ストラスブール~マインツ)からイタリアを中心に、北部ドイツ、ネーデルラント、イギリスに広がっていることが分かる。イタリアを除いて、いずれも宗教改革の中心となる地域である。

『新ヨーロッパ大全 I』137頁

これは宗教改革直前の状況を推認させるデータであるが、宗教改革の過程でプロテスタントとなった地域では(「聖書のみ」の教えに従って)聖書を自ら読むために識字率の上昇に拍車がかかったはずである。

(2)なぜ「宗教」なのか?

南北朝の動乱も応仁の乱も十分に分かりにくいが、日本人のわれわれには、宗教改革はなお一層分かりにくい。直系家族システムに依拠した国家体制を作るための動乱が、いったいなぜ、宗教改革・宗教戦争という形を取らなければならないのか。

しかし、「建国の秘密」を知っているわれわれにとっては、もうそれほど難しい話ではないだろう。

ドイツにおける「舶来の権威」はキリスト教で、それを具体的に掌握していたのは「(皇帝+教会)の複合体」だった。

したがって、「地物」の権威にとって、一つの可能性は、「キリスト教とともに(皇帝+教会)複合体を捨て去る」というものであったと思われる。後の時代のフランスの選択である。

しかし、宗教的権威に反感を抱くよりはむしろうっとりしてしまう直系家族の人々はその方向性を選択しない(時代の問題もある)。彼らが選んだのは「(皇帝+教会)とは縁を切り、キリスト教は残す」という道だった。

その実現には、政治的権威を「(皇帝+教会)複合体」から奪うと同時に、キリスト教を教会の手から奪うことが欠かせない。

そのための戦いが、宗教改革なのだ。

宗教改革(1517-1555)

(1)宗教的側面

宗教戦争、政治闘争の2側面を持っていた宗教改革。まずは宗教戦争としての側面から見ていこう。

①信仰心の高まり

トッドが指摘する通り、宗教改革は、識字率上昇の過程で、自らに相応しい信仰を求めた人々による「信仰心の民主化」運動である(『新ヨーロッパ大全 I』122頁)。

前回も見たように、直系家族のドイツで、識字化の進展は信仰心の深化をもたらしていた(教会刷新運動についてこちら)。

15世紀にはかつてないほどドイツの一般民衆の信仰心は深まっていた。このことは、教会への寄進、マリア信仰、巡礼、聖遺物崇拝や聖人信仰などに見ることができる。このほかにも新しい信仰 Devotio Moderna の動きが北ドイツやネーデルラントに広がり、主として聖書を自ら読むことによって信仰を深めようとしていた。

阿部謹也『物語 ドイツの歴史』(中公新書、1998年)86頁

一方、その同じ時期、ドイツの聖職者たちは、俗物としかいいようのない存在だった。

下級司祭や代理司祭は、ラテン語ができないどころか、一般の農民とほとんどかわらない暮らしをしていた。

彼らの生活は禄によっていたが、その禄を各地にもちながらミサもあげられない司祭も数多くいた。一方、下級司祭にしてみると、給与も一般の職人より安かったから、結婚式や葬式の謝礼で生活を立てるしかなかった。そのために物欲しげな司祭のイメージが広まり、酒や女におぼれる者も少なくなかったのである。

高位聖職者の中には内縁の妻をもっている者も少なくなかった。数十の教区に1000以上もの聖職禄を得て、26000ドゥカーテンもの年収を得ている者もいた。さらに都市の娼家に、聖職者の姿が見られない日はないとさえいわれていた。なかには司祭で娼婦宿を経営している者もいた。

阿部・90頁

その挙句に、教会は贖宥状の販売によって多額の収益を得て、豪華な教会を建て、教皇の贅沢な暮らしを支えていたというのだから、「革命」が起こらない方がおかしいというものだろう。

②騎士戦争と農民戦争

よく知られるように、1517年10月、ルターが贖宥状に反対する「95箇条の論題」を公表したことが、宗教改革の発端である。1520年の論文で、彼は次のような呼びかけを行なった。

教皇、司教、司祭、修道院の者たちは聖職身分と呼ばれ、諸侯、領主、職人、農民は俗人身分と呼ばれる、などということになっているが、これはまさしく巧妙な企みにして見事な偽善である。しかし何ぴともこのような区別に脅かされてはならない。何となれば、実はすべてのキリスト者は聖職身分に属するのであり、キリスト者の間には、役目の違いを除いて、いかなる違いも存在しないという正当な理由があるのである。このことはパウロが次のように述べて示したところである。すなわち、われわれは単一の集団をなすものであるが、その成員はそれぞれ固有の役目を持っている、と。

ルター「ドイツ国民のキリスト教貴族に告ぐ」(トッド『家族システムの起源I』下123頁より)

諸侯を含む「貴族」に向けたものだが、彼の言葉は、準備のできたすべての人々に「革命」の扇動として響いたと思われる。

教会から破門を宣告されたルターの取り扱いが問題となる中、1522年に下級貴族たちが(騎士戦争)、1524年には農民たちが(ドイツ農民戦争)蜂起したのはその証拠であり、同時に、彼ら(の少なくとも一部)にまで識字が広がっていたことの証拠である。

もちろん、彼らの蜂起は容赦なく鎮圧された。時代はまだまだ、下級貴族の下剋上を許し、農民の政治参画を認めるところまでは行っていないので、当然の帰結である。

また、「時代」の趨勢は、反乱の収束過程にも表れた。彼らを鎮圧し、秩序を回復したのは、皇帝ではなく諸侯だったのだ(皇帝はそもそも1521-30年の間海外にいて留守だった)。

庶民たちの反乱を収めることで、諸侯たちはもはや彼らなしに国は成り立たないことを見せつける。

これ以降、宗教改革は、「諸侯 VS (皇帝+教会)」の政治闘争として展開していくのである。

(2)政治的側面:誰が宗教を支配するか?

もちろん、諸侯たちが宗教的側面に無関心だったというわけではない。政治的側面と厳密に区別するのは困難であったとしても、諸侯たちは、ルターの呼びかけを受けて、それを支持する者と支持しない者(政治的には、反(皇帝+教会)/ 現状維持)に分かれていた。

彼らの中で、ルター支持派(プロテスタント)は一貫して少数派だったのだが、最終的には、諸侯は一致して皇帝+教会側と戦って勝利を収めることになる。

その理由を理解するために、まずは和議(アウクスブルクの宗教和議(1555年))の内容を見ておこう。

■アウクスブルクの宗教和議の主な内容

・プロテスタント/カトリックは領邦ごとの選択制とする
・「領主の宗教がその地の宗教」の原則に則り、領邦の宗教はその地の領主が決定する
・住民は領主の決定に従う(従えない者は移住税を払って移住が可能)
・プロテスタントとして許容されるのはルター派のみ

これを見て分かるのは、政治闘争としての宗教改革の争点は、最終的には「誰が宗教を支配するか」だった、ということであろう。

カトリック支持派が多かったにもかかわらず、諸侯たちが「反(皇帝+教会)」で一致することになった決定的な要因として、坂井栄八郎先生は次の点を挙げている。

シュマルカルデン戦争に皇帝がスペイン軍を動員したこと、またそのスペイン軍をドイツに留めたことは、カトリック派を含めてドイツ諸侯を皇帝から離反させた。その上、カールが息子でスペインの継承者フェリペを、フェルディナントの後の皇帝位継承者としてスペインとドイツの再結合を計ったことが、ドイツ諸侯を決定的に離反させた。

坂井栄八郎『ドイツ史10講』86頁

ハプスブルク家の出身でスペイン王でもあった皇帝カール5世は、改革派との戦い(シュマルカルデン戦争)においてスペイン軍を動員した。さらに、スペインの王位継承者に決まっていた息子フェリペ(スペイン生まれスペイン育ち。母はポルトガル王の娘)を、ドイツの「次の次」の皇位継承者に指名することで(「次」は弟フェルディナントに決まっていた)、スペインとドイツの統合を画策した。

彼らにとってそれは「スペインへの隷属」を意味したのであり、彼らは「ドイツの自由」の名の下に皇帝に抵抗する。

坂井・86頁

皇帝が「ヨーロッパの王」としての資格でドイツを抑えこもうとしたとき、カトリック支持の諸侯たちも、「(皇帝+教会)統合体」の支配から脱することの重要性を理解した。

こうして、諸侯たちは、プロテスタント/カトリックを問わずに団結し、皇帝軍に対して勝利を収めたわけである。

すでに多くを失っていた「皇帝+教会」にとって、宗教の支配権は最後の砦だった。そのため、宗教改革の過程における諸侯の勝利は、事実上、綱引きの終了、「地物」側の完全勝利を意味していたといえる。

ただし、その新たな体制が安定を見るには、もう一度、激しい争乱の時期を通り抜けることが必要だった。

三十年戦争(1618-1648)

(1)概要

世界史の教科書をあらためて読んでみても何がなんだかさっぱり分からない三十年戦争であるが、私の理解はこんな感じである。

・宗教改革の波がヨーロッパに広がり、ドイツでもカトリック諸侯とプロテスタント諸侯の対立が再燃。
・そこへ、オーストリアの属領ボヘミアでハプスブルク家の王フェルディナントが諸侯を無視してカトリックを強制(反宗教改革)し、反発した諸侯が蜂起する事件が発生。
・フェルディナントが神聖ローマ帝国皇帝となった(1619年)こともあり、ドイツおよびヨーロッパ全体を巻き込む戦乱に発展。
・ヨーロッパ全体では、カトリック/プロテスタントに加え、ハプスブルク家 VS 反ハプスブルク勢力の争いの側面が強くなり、プロテスタント諸侯側にはデンマーク、スウェーデン(いずれもプロテスタント)のほかフランス(カトリック)が加勢。
・ドイツでは、カトリック(皇帝+カトリック諸侯)/プロテスタント(プロテスタント諸侯)の争いで優勢となり調子に乗った皇帝が「復旧令」(宗教改革で没収されたプロテスタント領邦内の教会領をカトリック教会に返還するよう命令)を出したことで、再び「皇帝 VS 諸侯」の構図に
・ドイツ国内で諸侯軍が皇帝軍に対して劣勢となったとき、反ハプスブルクを掲げたフランスが参戦。その結果‥‥

反ハプスブルクが旗印であったから、プロテスタントであれ、どのような勢力であれ取り込み、まずはイタリアとスイスとスペインに対して成果を収めた。しかしその後、デンマークとスウェーデンの対立やオスマン帝国の介入があって、戦況は複雑となった。すでに内戦以来30年を数え、戦いに疲れたために平和を求める声が高まり、1648年に講和が成立した。 

阿部・150-151頁(太字は筆者)

(2)「動乱」の様相

いろいろな勢力が巻き込まれてダラダラと続く戦い、みんなが疲れ果ててようやく終結‥‥というこの感じには覚えがある。応仁の乱だ。

日本語で簡単に読める情報量が圧倒的に少ないのであまり説得力はないのだが、三十年戦争が「大規模システム改修」の一環であったことを示す要素をいくつか挙げることはできる。

世情の混乱:三十年戦争が始まる前の17世紀初頭、ドイツ各地で一揆や反乱、ユダヤ人迫害、魔女狩りなどの現象が多発

傭兵の活躍:プロテスタント側でも皇帝側でも傭兵隊が活躍

  *傭兵の活躍は直系家族の指標です 

下克上:三十年戦争の英雄といえば傭兵隊長ヴァレンシュタインだが、彼はおそらく下流の貴族である。自前の武器工場を作ったりして多方面で活躍し、最後は皇帝に殺害されるのだが、

彼には人望があり、時運に乗れば王位につく可能性もあったといわれている。この時代、このような傭兵隊長の社会的上昇も可能になっていたのである

阿部謹也『物語 ドイツの歴史』150頁

(3)ウェストファリア条約:直系家族国家の完成

1648年のウェストファリア条約で終結した三十年戦争。条約は教皇やヨーロッパ諸国、オスマン帝国まで参加した会議の成果であり、内容も多方面に及ぶが、ドイツに関して確認しておきたいのは以下の2点である。

①領邦にほぼ完全な主権が認められ、領邦国家としてのドイツが国際法上も承認された(常備軍の設置、外国との条約締結権等)

②宗教的寛容が実現
-「領主の宗教がその地の宗教」の原則を確認した上で「その地の宗教」を1624年時点で固定(諸侯の改宗権を制限し非人格化)
– 領邦の宗教と異なる信仰を持つ者や団体の存在も許容
– ルター派以外のプロテスタント(主にカルヴァン派)もOK

こうして、三十年戦争を経たドイツは、いよいよ、直系家族の権威(≒諸侯)に依拠する領邦国家(300余の国の連合体)体制を確固たるものとした。

皇帝はその政治的権威・支配力をほぼ失ったし、ローマ教会の勢力も排除され、政治・宗教の支配権は完全に諸侯の下に置かれることとなり、これ以後、ドイツは、絶対主義、啓蒙主義といったヨーロッパ史の展開を、すべて領邦ごとに経験していくことになるのである。

ドイツとキリスト教

(1)ドイツ統合の礎

天皇の存在をよすがに統一を保った日本と違って、ドイツでは直系家族の完全勝利が(定石通り)小国の並立状態をもたらすことになったわけだが、統一体としての「ドイツ」が、この1648年をもって(あるいはまた神聖ローマ帝国が解体された1806年に)消え去ってしまったかといえば、そうではないだろう。

18世紀後半に「ドイツ国制論」を書いたヘーゲルや、ナポレオン占領下のベルリンで「ドイツ国民」に呼びかけたフィヒテ(『ドイツ国民に告ぐ』)の頭の中には間違いなく「ドイツ」があった。

直系家族の生成以後、皇帝の権威を打ち捨て、教会の支配から逃れ、ドイツを領邦に分割する作業に一心に取り組んできた人々に、のちの再統一を可能にしたものは何だったのか。

いうまでもない。
キリスト教である。

(2)宗教改革の経験

島国でもないドイツで、分裂がちな直系家族をあの規模の国家にまとめるには、それ相応の大きな権威が必要となる。

直系家族化したドイツの人々の無意識が「(皇帝+教会)とは縁を切るが、キリスト教は残す」という方針を選んだのはそのためかもしれないと思うほどである。

ドイツは、おそらく、宗教改革の過程を通じて、「借り物」であったキリスト教を「自分たちの」キリスト教に作り直し、直系家族に依拠した領邦国家「新生ドイツ」の統合の源泉に据えたのだ。

宗教改革の時期に「国民意識」を深める契機があったという指摘は、坂井栄八郎『ドイツ史10講』の中にもある。

15世紀以後、国内の堕落した聖職者に不満を募らせていたドイツの人々は多数の苦情を教皇庁に寄せていた(「ドイツ国民のグラヴァミナ(苦情書)」と呼ばれる)。

これをめぐる議論の応酬が、ドイツ国民の国民意識を育てたというのが、坂井先生の指摘である。

この「グラヴァミナ」に対するローマの応答として、古典の学識に富む枢機卿ピッコロミニ(のちの教皇ピウス2世)は1494年、タキトゥスのそれと対照的な『ゲルマニア』を著し、ゲルマン時代以来のドイツのめざましい発展を指摘して、この間のキリスト教会の役割を弁護した。

これに対する反論を通じて、人文主義者を中心に、ドイツ側の「国民意識」も深められる。人文主義者の帝国騎士フッテンが「ゲルマーニアの解放者」を主題に風刺対話劇『アルミニウス』(1515-20頃)を書いたのも、この関連においてであった。

坂井栄八郎『ドイツ史10講』76頁

*アルミニウスは「トイトブルクの森の戦い」(紀元9)で勝利しローマ帝国によるゲルマニア征服を阻んだとされるゲルマン民族の英雄(タキトゥスも彼を「ゲルマーニアの解放者」と呼んだ)。

「グラヴァミナ」はルターを始めとする様々な論者に引用されたということであり、まさに「彼らのキリスト教」を作る過程の中核にあったといってよいように思われる(「グラヴァミナ」本体の引用もできないのであまり説得力がないですが)。

(3)ドイツ的とは何か

「直系家族の権威+キリスト教の権威=ドイツ的メンタリティ」という仮説を思いついたばかりに、長い(そして少々雑な)文章を書くことになったが、私としては「ドイツ的とは何か」の答えは出たと思っている。

ドイツの人類学システムについては、
3つのことがいえる。

①縦型の権威の軸が強力である

ドイツの場合、通常の直系家族よりも縦型の権威の軸が強い。超強力である。何しろ、世代を貫くその一本の線は、最終的に、一神教の神に接続されているのだから。

日本と同傾向でありながら、私に「本当に同じ家族システムなのか?」と感じさせる極度の体系性、硬さ、生真面目さといったものはこれによって説明できる。

トッドのいうドイツの「凄まじいパワー」もここから来ているものだろう。日本人のように真面目で勤勉で、彼らはその上、単一の真理(神)を仰ぎ見ているのだ。

トッドが度々指摘している不安定なリーダーシップという問題も、私は直系家族というよりは、ドイツシステムの特徴ではないかと思う。彼はよくこんなことをいう。

権威主義的文化はつねに二つの問題を抱えています。
一つはメンタルな硬直性、そして、もう一つはリーダーの心理的不安です。
すべてがスムーズに機能する階層構造の中にいると皆の居心地がよいのですが、ピラミッドの頂点にいるリーダーだけは煩悶に苛まれます。

『「ドイツ帝国」が世界を破滅させる』162頁

ドイツは歴史上、支配的なポジションについたときに変調しました。特に第一次世界大戦前、ヴィルヘルム2世の統治下でビスマルク的理性から離れ、ヨーロッパでヘゲモニーを握ったときがそうだった。今日の状況は、ナチス勃興の頃よりも、あのヴィルヘルム時代の方に類似しています。

212−213頁

ドイツの国家としても振る舞いを観察すると二つの異なる心理的・政治的行動様式が確認できます。

一つは、理性的な行動様式で、私はそれをビスマルク様式と呼んでいます。この様式に従うとき、ドイツは友好国をできるだけ多くつくることによって、自らの支配領域のコントロールを保持しようと努めます。‥‥

もう一つは、ヴィルヘルム様式です。この様式ではドイツは暴走し、できるだけ多くの敵国をつくって、せっかく獲得したものをすべて失います。‥‥ つまり、平常心を失わないドイツ様式と偏執狂的なドイツ様式が存在するのです。

『問題は英国ではない、EUなのだ』36頁

トッドのコメントは、ドイツへの指摘としては「なるほど」と思うが、日本には当てはまらない。日本の縦型の軸は一つの家族(家系)向けの仕様であり、基本的に「強いリーダー」を輩出しない(ドイツと大きく違う点だ)。ピラミッドの頂点に誰かいるように見えても、実際の意思決定システムは分散的で、誰か一人が極度の緊張状態に置かれるということはない(*だから理性的だというわけではもちろんない)。

ドイツのリーダーシップの不安定さというのは、おそらく、本来一家族向けの縦型の軸を、長く伸ばして一神教の神につないでしまったことによるものだと思われる。

普通の家のお父さんががんばって働いて出世したらなぜか「神の代理人」になっていた、というのがドイツのリーダーなのだから、狂気に陥らない方がおかしい。

②強力ではあるが所詮は直系家族の軸だ

ドイツの縦型の権威は強力なので、より大きな範囲を統率できるような気がして、しばしば帝国を作る試みに乗り出してしまう。

しかし、共同体家族のように「騎馬戦隊構造」(私は長い軸の先に扇風機の羽根がついたような構造をイメージしている)を持っているわけではないので、本物の帝国が作れるかといえば作れない。

トッドがよく(EUにおけるドイツのふるまいを念頭に)、どれほど力があっても身内の利益しか考えられず「全員の面倒を見てやる」という姿勢を取れない、というようなことをいうが(出典が見つかったら加筆します)、そういうことである。

③巨大な空白を抱えている

ドイツのシステムはそのようなものだが、しかし、生きた信仰としてのキリスト教はもう存在していない。その場所にはおそらく巨大な穴が空いているだろう。それがドイツに何をもたらすのかは問題かもしれない。

トッドは、現代ヨーロッパの危機の根幹には信仰の喪失があるという立場を取る。私は信仰の喪失そのものが問題だという立場を取らないが(私の意見はこちら)、ヨーロッパにおいてキリスト教が特別の役割を担ってきたことは事実であり、喪失による精神的ダメージが一番大きそうなのはやはりドイツである。

核家族の国におけるキリスト教というのは、移動式テントで人々が思い思いに暮らしている村の中心に作られた公共広場+道路みたいなものだから、なくなったら不便だが、精神的なショックはないだろう。

これに対して、ドイツの場合、キリスト教は直系家族の彼らのシステムを外側から強化する形で作用していた。木造家屋が立ち並ぶ村を魔法で要塞に変えたようなものである。それがすべて張り子の偽物だったとしたら‥‥その不安は大変なものだと思われる。

当初あまり乗り気ではなかった(らしい)ドイツが、1990年という「脱宗教化」完成の年を経て、EUというプロジェクトに熱心に取り組んだのは、そのためかもしれない。

この穴が埋まることがあるのかどうか知らないが、埋まった場合、おそらくドイツは普通の直系家族の国になり、安定はするけれど、現在の版図は維持できないと思われる。

穴が埋まらないうちは、ドイツは「神」に代わる何かを求め、不安定になりながらそのパワーを発揮していくのだろう。

正直なところこれを書くまで私はドイツという国の行く末にそれほど関心を持っていなかった。でも、いまでは興味津々、「見逃せないぜ!」という気持ちでいっぱいである。

今日のまとめ

  • 宗教改革−三十年戦争は、ドイツの地殻変動に伴うシステム改変のための動乱である。
  • 宗教改革は、直系家族が「(皇帝+教会)複合体」から政治的権威とキリスト教を奪うための戦いだった。
  • 最後の砦であった宗教の支配権を切り崩したことで、諸侯は「舶来の権威」VS「地物の権威」の争いに最終的に勝利した。
  • 宗教改革を通じて「借り物」を「自分たちの物」に作り直すことで、ドイツは直系家族国家の統合の源泉にキリスト教を据えた。
  • ドイツのシステムは直系家族の縦型の権威の先に「」を繋いだ構造。強さと不安定を特徴とする。
カテゴリー
社会のしくみ

ドイツ(3)
-ドイツ的メンタリティの誕生-

直系家族の成立

トッドの研究によると、ドイツで直系家族の浸透が始まるのは11世紀から13世紀である。西フランク王国(フランス)のカペー朝の下で10世紀末に直系家族が生まれ、ドイツでは農民層の間に遺産の不分割(単独相続)が広がる。そのせいで、貴族階級の間で一時的に遺産の分割が活発化するという現象が起こり、所領の細分化をもたらすが、13世紀には不分割原則が広く受け入れられていく(『家族システムの起源 I ユーラシア』(下 597頁以下)。

その過程で起きたことを具体的に見ていこう。

(1)人口増加

直系家族は「満員の時代」に生成する。そこで、まず人口について見ると、ドイツでは11世紀以降に人口の急増が起きたことが確認されている。

1000年頃にドイツとスカンディナヴィア半島には約400万人しか住んでいなかったといわれている。しかし11世紀以後人口は急速に増加し、14世紀には1150万人にのぼっている。

阿部謹也『物語 ドイツの歴史』21-22頁

人口の増加は、農業生産の増大と連動するのが通常であるが、この点については次のようにある。

これほどの増加は穀物生産の飛躍的な増大がなければ考えられない。実際、11・12世紀には各地で未耕地が開墾され、湿地帯も耕地となり、耕作面積は増大していた。初期中世には小集落でしかなかったところもこの頃には村としての体裁を整え始めていた。‥‥この頃にニ圃制の耕地のほとんどが三圃制に転換され、収量は飛躍的に増加した。鍬の改造や馬の引き具の改造もそれを促進していた。

阿部・22頁

人口が増え、開墾が進み、土地が不足する「満員の時代」。それこそが、直系家族誕生のタイミングである。果たして、ドイツでは、それを裏付けるかのように、植民そして十字軍遠征が始まるのだ。

(2)「ドイツ人の東方植民」

なぜ植民が直系家族の指標になるかというと、植民の活発化は、土地の不足とともに、家から排除された次男坊、三男坊の存在を推測させるためである。

直系家族が成立すると、土地を与えられない兄弟は、新たな活躍の場所を求めて、植民にでたり、傭兵になったり、十字軍に参加したりするものなのだ。

一般に「ドイツ人の東方植民」と呼ばれる動きは、12世紀から14世紀に起きている。開拓・開墾の活発化自体は全ヨーロッパ的な動きであったというが(坂井栄八郎『ドイツ史10講』52頁、阿部 22頁)、植民という点でドイツの動きが目立つのは、ドイツに直系家族が浸透したことの現れといえるだろう。

ドイツ人はエルベ川を越えて東方に活発な植民活動を行ない、エルベ川からその東のオーダー川へ、そしてさらに東のスラヴ人居住地域に進出して、この北東ヨーロッパを大きく「ドイツ化」してしまったのである。

坂井・52頁

(3)十字軍

十字軍が直系家族浸透の指標であることについては、トッドが次のように書いている。

数次にわたる十字軍という、弟たちが各地に四散していく動きは、〔土地のー筆者注〕不分割というものが大陸の西から東へと伝播普及していくさまを示すかなり確実な指標である。

第1回十字軍(1096-99)の主要な出発点ーということはつまり、参加者が募られた地点ーはフランスであった。三つの軍隊がそれぞれフランスの北部、中部および南部から出発した。四つめの軍隊はノルマン人の指揮の下、イタリア南部で移動を開始した。

しかし半世紀後の第2回十字軍(1147-48)では、フランス人と並んでドイツ人が登場する。この騎士たちの参加に見られるずれは、ドイツ人の帝国と比較してみれば、フランス王国とノルマンディ公国において、貴族の直系家族がきわめて早期に形成されたことの結果であると考えるべきではないか。

『家族システムの起源 I ユーラシア』(下 602-603頁)

そういうわけで、フランス・ノルマンディの貴族には一歩遅れたものの、直系家族はどこよりもドイツにおいて順調に根を下ろし、第2回(1147-48)、第3回十字軍(1189)に主力として参加する。

そして、大変興味深いことには、この十字軍とともに、大規模なユダヤ人迫害が起きているのである。

(4)ユダヤ人迫害

大変微妙な話題であることは承知しているが、科学者として、ズケズケと話を進めることをお許しいただきたい。

ドイツにおけるユダヤ人迫害は、第1次十字軍のときに始まり、ユダヤ人の村の襲撃、虐殺は「やがて‥‥日常的に行われるように」なっていったという。

ライン河岸の都市では激しいユダヤ人迫害が起こり、多くのユダヤ人が東ヨーロッパに逃亡した。1096年にはシュバイエル郊外で十字軍兵士がユダヤ人のシナゴーグ(ユダヤ教の礼拝場)を襲撃し、ヴォルムスでもユダヤ人が襲撃された。‥‥

こうして1215年のラテラノ公会議ではユダヤ人に印を付けさせるという差別的な規則が制定されたのである。

阿部・33-34頁

ちなみに、ドイツではペストが大流行した14世紀(1348-52)にも、大量殺戮を含む激しい迫害が起きている。

ユダヤ人迫害はドイツだけの現象ではない。イギリスでも、フランスでも、他のヨーロッパ諸国でも起きている。しかし、簡単に手に入る情報をざっと見る限り、大陸では、ドイツ、フランス南部、ライン川沿いのスイス、オーストリアなどの直系家族地域がその中心であるように見える。

20世紀まで視野に入れれば、これをドイツおよび大陸の直系家族地域にとくに顕著な現象と考えることには合理性があると思えるので、そのような前提で話を進めさせていただくとすると、11世紀以降になって初めてユダヤ人迫害という現象が起きているという事実は、「直系家族の権威+キリスト教の権威=ドイツ的メンタリティ」という仮説の例証の一つになりうると思う。

直系家族は、親子の権威的関係に加え、兄弟間の不平等が規範であることから、人間同士の間に差異を見出しがちである。要するに、差別という現象を引き起こしやすいということだ。

トッドは差別という現象に関して親子関係の「権威」を重視していないが、私は関係があると見ている。親子関係が自由な社会でも差別は起こる。しかし権威的な社会では差別は「規範」になってしまうのだ。

日本ももちろん例外ではなく‥‥これは説明の必要はないと思うが、部落差別とか、朝鮮・韓国系差別とか、技能実習生の不当な扱いとか、昔も今もいろいろとある。

そういうわけで、11世紀以降のドイツにユダヤ人差別が生じたことは、同時期の直系家族の浸透によって説明できる。

しかし、社会・経済的な諸条件を考え合わせても、単に直系家族が浸透したというだけでは、同地におけるユダヤ人迫害の激しさは説明できないと思われる。

ドイツにおいてユダヤ人差別がとりわけ激しい形態で発現し、しかも、その激しい迫害現象が歴史上たびたび繰り返されたのはなぜか。

その鍵を提供すると思われるのが、第1回で述べた仮説である。

直系家族システムの権威+キリスト教の権威=ドイツのメンタリティ

ドイツでは、直系家族の権威は、すでに存在していた一神教の神の権威の上に付加される形で成立した。

この「権威の過剰」が、差別を「神の規範」「どうしてもしなければならない行為」にまで高め、集団的な熱狂を生じさせてしまう‥‥というような感じの仕組みで、ドイツ史に「激しさ」を添加しているのではないだろうか。

個人の誕生?:「罪の告白」義務について

この時期におけるドイツのメンタリティの変化に大いに注目している日本人の研究者が私以外にもいる。すでにたびたび教えを乞うてきた阿部謹也さんである。

急に個人的なことを言わせてもらうと、阿部謹也さんは、私が10代の終わり頃から20代にかけて一番熱心に読み、その後も折々に接してきた数少ない著者の一人であった。

たぶん、日本社会に対する「?」という違和感の持ち方が共通していたのだと思う。社会を知れば知るほどその感が深まり、日本と西欧の違いをほとんど一生かけて探究する羽目になっている点も(思えば‥)まったく同じだ。

なので、今ここで阿部謹也さんと対話をしながら、阿部説と異なる私自身の解釈を提示できることが嬉しい。もうご本人に読んではもらえないけど(故人なので)、この解釈を阿部謹也さんの魂に捧げます。

(1)フーコー = 阿部 説

さて、その阿部謹也さんは、ドイツにおける心性の変化の時期を「12世紀」に特定し、この時期を「個人の誕生」の時期と位置付けている。

そして、その「個人」の原点を、キリスト教における「罪の告白」(告解)の義務に求めているのである。

信者が司祭に自ら犯した罪を告白する「罪の告白」は、神から許しを得るための秘蹟の一つとして古くからなされてきた行為だそうだが、12世紀になって広く関心を集め、1215年の第4回ラテラノ公会議(ちなみにユダヤ人に印をつけることを定めたのと同じもの)で、年に一度の告白が全信者の義務とされるに至った。

 いつから「秘蹟」と言われているのかは知りません

阿部謹也さんは、フーコーを引用して、次のように書いている。

この問題の重要性をM・フーコーは次のように説明している。

「個人としての人間は長いこと他の人間達に基準を求め、また他者との絆を顕示することで(家族、忠誠、庇護などの関係がそれだが)自己の存在を確認してきた。ところが、彼が自分自体について語りうるかあるいは語ることを余儀なくされている真実の言説によって、他人が彼を認証することになった。真実の告白は、権力による個人の形成という社会的手続きの核心に登場してきたのである」(『知への意志』渡辺守章訳)

 ここにヨーロッパにおける個人のあり方の原点があり、この原点からヨーロッパにおける近代的個人が形成されてゆくのである。ここに日本とヨーロッパの個人のあり方の根本的な違いがある。

阿部・48頁

なるほど。

「罪の告白」の義務化によって、人々は、自分一人で司祭に向き合い、自分自身の罪について語ることを余儀なくされる。それまでは「○○の息子」「○○の従者」で済んでいたものが、他者、それも神の代理人である司祭に、自分が語る言葉の中身によって、自分という人間が認証される。

これが、フーコーによれば「権力による個人の形成」、阿部によれば「ヨーロッパにおける個人のあり方」の核心であり原点であるというのだが、果たしてそうか。

私の解釈は違う。

そもそも、12世紀になって「罪の告白」が関心を集め、義務化にまで至ったのはなぜだろう。

答えは明らかだと思う。直系家族がそれを求めたのだ。

(2)「直系家族の誕生」説

○教会刷新運動と直系家族

「罪の告白」の義務化は、(前回触れた教会刷新運動(11世紀-)の流れと関係があると思われる。

運動の中心であったクリュニー修道院やシトー派修道会があるブルゴーニュは、ドイツ語では「ブルグンド」。つまり、かつてのブルグンド王国であり、1032年以降、13世紀頃までは神聖ローマ帝国の支配下にあった場所である。 

https://sekaishi-gendaishi.com/archives/722

シトー派修道会はまた「ドイツの東方植民とも結びつき、大開墾時代をもたらした」ことでも知られている(*当時修道院は文化の中心で、農業技術改良の主要な舞台でもあった)。

すなわち、純粋な信仰の回復を目指す教会刷新運動は、人口増加、東方植民、十字軍、ユダヤ人迫害といった現象群と同じ土壌の上で起こったものであり、直系家族の生成と連動する運動であったことが強く推認されるのである。

○苦悩する直系家族ー十字架に架けられたキリスト

キリスト教がその教えの中心に「罪」の概念を据えたのは、「ルールなし」の原初的核家族の人々に「権威」を教えるのに有効だったからだと思われる。

自分たちの思う通りに行動するのが当然であった彼らは、全人類の罪を背負って十字架にかけられたキリストを見て、自分たちよりも「偉い」ものの存在、従うべき「権威」の存在を知る。

まっすぐに手を伸ばし、威厳のある姿で描かれたキリスト像を(↓)見て「何と立派な‥‥」と思う彼らは、キリストとその向こうにいる神に素朴に敬意を抱いたに違いない。

メッスの典礼書(870年頃) https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/btv1b53019391x/f22.image

しかし、「全人類の罪を背負って十字架に架けられたキリスト」などという脅迫的な存在が、直系家族の前に現れたらどうなるか。

直系家族システムに立脚する人々は「権威に従う」という態度を基本姿勢として身につけている。彼らは本来「権威」の存在を教わる必要のない人々なのだ。

12世紀、直系家族が浸透したドイツで、彼らは、自分たちの罪を償うために十字架に架けられたキリストを再発見する。

その背後に強大な一神教の神の存在を見て、彼らは悩むのだ。

「どうすれば正しく生きられるのか」
「どうすれば神に従ったことになるのか」

彼らが狂おしく希求した「正解」、それが「罪の告白」の義務化ではなかったか。

これも阿部謹也さんが指摘していることだが、この頃からキリストの姿は変化を見せる。

時代はだいぶ後だが、阿部謹也さんが「苦悩のイエスのイメージ」の「頂点」とするグリューネヴァルトの十字架像
https://www.researchgate.net/figure/Matthias-Gruenewald-The-Crucifixion-from-the-Isenheim-Altarpiece-1512-15-oil-on-panel_fig3_347976069

苦悩に顔を歪めるイエス。

これは、強大な一神教の神の権威に押し潰されそうになりながら、正しい行いを求めて苦悩する直系家族の内面の現れなのだ。

というのが私の仮説である。
いかがでしょうか。

・ ・ ・

たしかに「罪の告白」の義務というのは非常に過酷なものだ。とくに「権威に従わなければならない」と考える生真面目で自責的な人々にとっては。

阿部謹也さんは、おそらく、直系家族のメンタリティを共有するからこそ、「個人の内面を他人の前で語る」という行為の厳しさが「個人」を誕生させたと考え、そこに「日本とヨーロッパの個人の在り方の根本的な違い」を見た。

しかし、順序はおそらく逆であり、さらに、このとき誕生したのは「個人」ではない。原初的核家族仕様の神を持っていた地域に、権威主義の直系家族が誕生した。そのことによって「告白」の義務化などという、自虐的な事態が現出したのである。

地殻変動の開始ー直系家族率50%仮説

日本の場合、13世紀頃から直系家族が生成を始め、14-15世紀に「動乱」(南北朝の動乱、応仁の乱)の時期を迎えた。

ドイツの場合も、11-13世紀頃から直系家族の浸透が始まるが、宗教改革から三十年戦争に至る「動乱」期は16-17世紀に起こる。

とくにドイツについて私が手に入れられる情報が少ないので、あまり立ち入った検討をすることはできないのだが、ドイツの場合、14世紀にペストの大流行で人口がかなり減少しているので、これが地殻変動期の遅れにつながったことは考えられる。

もう一つ、考えられる仮説は、直系家族化の進行が遅かったということだろう(人口とも関連する)。

トッドは、日本で最近翻訳が出た『我々はどこから来て、今どこにいるのか?』の中で、家族システムの浸透過程を捉えるために「直系家族率」の考え方を導入することを提案している。

もしデータ上可能ならば、われわれは直系家族をほかのさまざまな量的連続変数ー識字化、出生率、プロテスタントの比率、宗教実践、キリスト教民主党への、社会民主党への、はたまた国家社会主義党への投票などーと同じように扱うべきなのだ。つまり、個々の国と、その国を構成する各地域に、年代ごとの直系家族率を付与すべきなのである。

『我々はどこからきて、今どこにいるのか?』上 247-8頁

ここで、トッドは「試しに、厳密には正当化できない数値を想定してみよう」と言って、ドイツについて数字を挙げている。

もちろん「試し」であって「厳密には正当化できない」ものだが、ヨーロッパについて研究し尽くしてきたトッドの「試し」であるから、参考にするくらいは許されよう。

それによると、ドイツの直系家族率は「1500年頃に‥40%、1800年頃には60%‥1870年頃には80%」である。

トッドはこの数値について、例えば「直系家族が40%ないし50%であれば、社会はダイナミックに機能するが、それが75%に達したり、それ以上になったりすると硬直する、というようなことが言える」のではないか、としているのだが、私はちょっと別のことを考える。

ヨーロッパや日本のように、その土地に根ざした家族システムが生まれる前に、借り物の権威によって建国した国の場合、「「地物」の家族システムが50%に達する頃に、システム改変のための動乱が起きる」、というようなことが言えるのではないか。

ちょうど、近代化革命に関する「ストーンの法則」と同様に、中世の動乱に関する法則が立てられるかもしれない、などと夢見るのである。

・ ・ ・

ともかく、ドイツでは、「これがシステム改変のための動乱だな」と私が思うものは、16世紀に始まる。そしてドイツの場合、それは宗教改革、三十年戦争という形を取るのである。

今日のまとめ

  • 人口増加、植民の活発化、十字軍はいずれも直系家族浸透の指標である。
  • キリスト教の権威を持つ人々が直系家族化したことで、ドイツ的メンタリティが生まれたと考えられる。
  • ユダヤ人迫害現象の開始およびその激しさは「直系家族+キリスト教=ドイツ的メンタリティ」仮説の例証かもしれない。
  • 「罪の告白」義務がドイツ的メンタリティを生んだという順番ではなく、直系家族化したキリスト教徒(=ドイツ的メンタリティ)が「罪の告白」の義務化を求めたと考えるのが合理的である。
カテゴリー
社会のしくみ

ドイツ(2)
-ドイツ史概観-

   

目次

建国:クローヴィスの洗礼 (496)

今回は、ドイツがキリスト教の権威を借りて建国するところから、皇帝の権威が低下し諸侯が優位を確立するところまで一気に行く。

ドイツは建国時にはフランク王国の一部であったので、建国の事情はフランスと同じである。

ゲルマンの民、フランク族の王クローヴィス(在位481-511)が496年にカトリックの洗礼を受け、カトリック王としての権威とローマ帝国貴族の支持(と行政能力)を獲得し、「異端からの解放」の大義の下に全フランクを統一した。

というくらいを思い出していただければOKである。

カール大帝:(皇帝+教会)の蜜月

まだフランスとドイツは一体の「フランク王国」であるが、そのフランク王国とローマ教会の関係はカール大帝(在位768-814)の時代にいっそう強まった。 

カールは、フランス、ドイツ、中部イタリアを支配下に収める帝国を築き上げ、領域内のゲルマン諸部族をローマ=カトリックに改宗させる。

名実ともに「西方キリスト教世界の王」となったカールに、教皇レオ3世(ハドリアヌス1世の次)は、ローマ皇帝の帝冠を与え、西ローマ帝国の復活を宣言するのである(800年)。

教皇がカールに戴冠した背景にあったのは、ローマ教会が、ビザンツ帝国下のコンスタンティノープル教会との対抗上、強力な政治勢力による保護を必要としていたという事情である。

カールの方としても、広大な帝国を維持し、その勢力を安定させるためには、キリスト教の権威と教会の組織力が不可欠であったので、教会と皇帝の利害は完全に一致し、両者は二人三脚で「教会国家」カロリング帝国を支えることになったのだった。

青がカール即位時、赤がカールが征服した領土、黄色がカールの勢力圏
(紫はビザンツ帝国領)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Empire_carolingien_768-811.jpg

 

神聖ローマ帝国(10世紀~)

(1)オットー1世:蜜月は続く

フランク王国は(まだ原初的核家族だったので)カールの死後に3つに分裂する。

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Vertrag-von-verdun_1-660x500_japref.png

そのうち、ドイツにつながる東フランクでは、10世紀初頭にカロリング家の血統が途絶え、諸侯の選挙で王が選ばれる選挙王制となる。

936年に選挙で選ばれて即位したオットー1世(在位936-973)が、962年にローマ皇帝の戴冠を受けたのが、いわゆる「神聖ローマ帝国」の始まりである。

ローマ皇帝の名の通り、オットーもまた、「西方キリスト教世界の王」というに相応しい存在だった。

彼は「当時東方から侵入を繰り返していたアジア系マジャール人を‥‥決定的に破ってキリスト教世界の防衛に大きな成果をあげ」「東方辺境のエルベ川中・上流に軍事植民地「辺境区」を設定してこれを辺境伯に託し、スラヴ系異教徒に対する防衛体制を固め」、そして「北方や東方、デンマークやスラヴ諸民族へのキリスト教布教にも努めた」。

そしてイタリア遠征を行ってイタリアの支配権を確立したオットーが、962年にローマで皇帝に戴冠した時、彼はまさに名実ともに「西方キリスト教会の指導者」だったのである。

坂井栄八郎『ドイツ史10講』(岩波新書、2003年)30−31頁

(2)諸侯との綱引きが始まり、教会との火種が生まれる(王国教会政策)

国内統治に教会組織を活用した点もカールと同じだが、オットーの場合には、「カールの時代のようにそれ以外に方法がなかったからというよりも、世俗の大貴族勢力〔「諸侯」ー筆者注〕に対する対抗勢力として、教会を意図的かつ積極的に利用した」(坂井・31頁)、ということらしい。

オットーは、分国の支配者(公)は自身で直接任命し、それより下のレベルの地方勢力については事実上世襲を認めていた。

しかし地方の支配者が世襲的にその地方権力を固めれば、それがとかく王権から離反する傾向をもつこともまた避けがたい。

坂井・31頁

そこで、オットーは、教会組織を「王国教会」と位置付けて手厚く保護し、国の統治機構の一部とすることで、地方権力(諸侯)の離反を防ぐための重しとしたのである。

もちろん、皇帝が教会の保護を続けると、教会そのものが大きな権力を持つようになるのだが、

世俗諸侯と違って結婚しない聖職者に世襲はない

坂井・31頁

「だから任免権さえ握っていれば大丈夫」と、オットーをはじめとする歴代皇帝は(多分)思っていたのだが、長い目で見ると、そうは問屋が卸さなかったのである。

 これが聖職叙任権ですね!

「世襲はない」といってもローマ教会の聖職者はみな広い意味では親族のようなものだから、「保護」(具体的には土地の寄進や特権の付与など)を続ければ、教会組織全体の権力が肥大していくことは避けられない。

教会が皇帝の庇護を必要としなくなったときが、皇帝と教会の「蜜月」が終わるときである。教会と皇帝の間には紛争が発生し「地物」諸侯に付けいる隙を与えていくだろう。

叙任権闘争

(1)教皇 VS 皇帝

11世紀、ローマ教会周辺では、教会の腐敗や世俗化傾向を正そうとする教会刷新運動(「修道院運動」という)が活発になっていた。

  *なぜこの時期に教会組織や信仰のあり方を見直す運動が
   起きたのかは次回取り上げます。

「西方キリスト教世界の王」である神聖ローマ皇帝にとっても、教会の混乱は望ましいことではなかったので、歴代の皇帝は、この運動の精神に則って教皇庁や教会の改革を支援した。

ところが、改革が成果を上げて、教会が体制を立て直すと、教皇側は、なんと、「刷新」のロジックをそのまま用いて、皇帝を攻撃しはじめるのである。

その教皇とは、グレゴリウス7世(在位1073-85)。改革派として大教会改革を指導し、教皇権の最盛期を開くことになる人物である(日本大百科全書(ニッポニカ)[野口洋二])。

グレゴリウス7世

聖職売買や聖職者の妻帯を禁じる方針を取っていたグレゴリウス7世は、即位後まもなく、俗人による聖職叙任を禁じる勅書を発布する。俗人による聖職叙任は「聖職売買」に当たるというのがその理由である。

前項で述べたように、聖職者の任免権の掌握は、ドイツにおける「王国教会政策」の肝だった。ところが、教皇は、皇帝による聖職者の任免は「聖職売買」であるとして、これを糾弾してきたのである。

聖職叙任権をめぐる教皇との争いは、ドイツ以外(フランスやイギリス)でも起こったが、ドイツにおける闘争がとくに激しいものとなったことには理由がある。

教皇側では司教の叙任権は国王や俗人のものではないという主張を繰り返した。しかしドイツでは伝統的に国王は俗人とは見なされていなかったのである。国王はChristus Domini 〔*神の子としてイエス・キリストと同様の存在であることを意味していると思います(辰井)〕であり、いかなる人間よりも高められて聖なる職位についていると見なされていた。したがって、国王も俗人であり、司教叙任権を持たないという教皇側の主張は単に司教叙任権のみならず、国王の存在そのものに対する侵害を意味していた。

阿部謹也『物語 ドイツの歴史』(中公新書、1998年)19−20頁(太字は筆者)

そういうわけで、皇帝と教皇の叙任権闘争は大荒れに荒れ、ついに教皇は皇帝を破門するに至る。ショックを受けたドイツ諸侯は皇帝の廃位を決議(鎌倉幕府の御家人が上皇との和平を求めて執権を解任するような感じでしょうか)。

やむなく皇帝は北イタリアのカノッサ城に教皇を訪ね、雪中3日間門前に立って謝罪する。いわゆるカノッサの屈辱(1077年)である。

カノッサの屈辱(中央にひざまづくのが皇帝(ハインリッヒ4世)
左がクリュニー修道院長、右は仲介者マティルダ伯妃)

謝罪は功を奏し、皇帝は破門を解かれたが、叙任権をめぐる争い自体はまだしばらく続き、ヴォルムスの協約(1122年)によってようやく決着が付く。

(2)ヴォルムスの協約:「神の子」から俗人へ

当時の聖職者には、聖職者としての側面と行政官ないし領主としての側面があった。そこで、教皇と皇帝は、「聖職叙任権」を二つに分け、聖職者の「聖的」側面の任免権を教皇が、「世俗的」側面の任免権を皇帝が持つという形で妥協した。これがヴォルムスの協約である。

いろいろあって単純に「教皇の勝ち」とは言えないのであるが、諸侯との綱引きという観点からは、皇帝が被った打撃は決定的だった。

ドイツの文脈では、皇帝が聖職叙任権の「聖」の部分を放棄するということは、皇帝が自らその「聖性」を否定し、俗人であると認めることを意味したからである。

カールやオットーの時代には「神の子」であった皇帝は、いまやどこにでもいる世俗勢力の一人である。この時点で、もともと脆弱な国内基盤しか持っていなかった皇帝に、国内における支配的な地位を維持できる見込みはほとんどなくなっていたのである。

(3)大空位時代:「皇帝の時代」から「諸侯の時代」へ

以後、歴代の皇帝は、残された唯一の資産である「ヨーロッパの王」としての権威を保つべく、支配領域の拡大に努め、ブルグンド王国(フランス語でブルゴーニュ)からシチリア王国に至る地域に君臨したフリードリヒ2世(在位1215-50)の下で、「神聖ローマ帝国の帝権はまさに絶頂に達した」(10講37頁)と言われるまでになるのだが、それによって国内における勢力の低下に歯止めがかかることはなかった。

ここに至る前の段階で、皇帝は、すでにイタリアに遠征するにも諸侯の協力が不可欠だという状況に陥っており、領域拡大に成功したからといって国内での状況が改善する余地はなかったのである。

フリードリヒ2世

そういうわけで、フリードリヒ2世が亡くなり、その血統が途絶えると、「大空位時代」(1256-73)がやってくる。名目上の国王は選ばれたものの、誰一人、実質的な支配権を得て、正規の皇帝に認定される者はなかったという時代である。

1272年にローマ教皇に促されてハプスブルク家のルードルフを国王=皇帝に選ぶまで、ドイツ諸侯は自分たちの国王を自分たちの中から選ぶことができなかった。反面、諸侯の独立性だけはこの間に決定的に固められたのである。以後ドイツ史は「皇帝の時代」から「諸侯の時代」に入ってゆくのである

『ドイツ史10講』42頁

次回予告

今回は教科書的にドイツにおける「舶来の権威」から「地物の権威」への移行の過程を見てきたが、その背景、というか「深層」にはもちろん家族システムの進化があって、家族システムそして識字率の上昇に伴うメンタリティの変化こそが次の展開(地殻変動)をもたらすのである。

というわけで次回予定は「ドイツ的メンタリティの誕生」。
お楽しみに!

今日のまとめ

・フランク王国時代にキリスト教の権威と行政能力を借りて建国
・皇帝と教会の利害が一致し、カール大帝の時代に(皇帝+教会)統合体による支配が確立
・神聖ローマ帝国でも蜜月は続くが、皇帝の庇護(王国教会政策)が教会の成長と離反を招く
叙任権闘争で「神の子」の地位を奪われ、皇帝の権威が大きく低下。「皇帝の時代」から「諸侯の時代」へ

カテゴリー
社会のしくみ

ドイツ(1)
-日本とドイツ-

目次

はじめに

トッドの人類学理論を学び、紹介・展開していく中で、いつも引っ掛かりを感じていたのがドイツのことだった。ドイツは直系家族だ。地域によって多少のバリエーションはあるにせよ国土全体を直系家族が占めている。日本と同じである。

ドイツと日本が同じシステムであることは、他のヨーロッパ諸国との比較ではそれなりに納得できる。地道で真面目な感じ、家族的価値観の強さ、遵法意識の強さとか。

しかし、両者がそっくりかと言われると、首を傾げてしまう。私は法学が専門だった関係でドイツとは比較的接点が多かったが、日本とドイツの間に、日本と韓国以上の違いがあることは否定できないと思う。

秩序志向であるという一致した傾向の中でも、ドイツの体系的でひたすら固く真面目なあの感じは何だ。分厚いコンメンタール(法律の注釈書です)、荘厳な音楽、カントにヘーゲルにマルクス‥‥

どれをとっても、とても生身の人間の仕事とは思えない体系性と壮大さが感じられるではないか。くらべると日本はどこか散漫でいい加減で、「本当に同じ家族システムなのか?」と言いたくなるほどの異質感がある。

それには人類学的な理由があるはずだが・・と思いつつ、ドイツの話にはあまり手を出さないようにしていたが、国家と「権威」の関係、ヨーロッパにおいてキリスト教が果たした役割を探究する過程で、ようやく「あっ!」という瞬間が訪れ、一つの仮説が誕生したので、ご紹介したい。

トッドによる「日本とドイツ」

最初に、トッドが日本とドイツの違いをどう見ているかを紹介しておこう。私の知る限り、彼は日本とドイツの違いをそれほど重く見てはいない。

日本社会とドイツ社会は、元来の家族構造も似ており、経済面でも非常に類似しています。産業力が逞しく、貿易収支が黒字だということですね。差異もあります。

日本の文化が他人を傷つけないようにする、遠慮するという願望に取り憑かれているのに対し、ドイツ文化はむき出しの率直さを価値づけます。

エマニュエル・トッド『「ドイツ帝国」が世界を破滅させる』(文春新書、2015年)157頁 (太字は筆者)(以下「ドイツ帝国」) 

太字の部分は基本的に感情表現に関する事柄であり、内婚と外婚の相違に対応させて日本と韓国の相違を説明した私の分析の範囲内である。

しかし、トッドも、ドイツが歴史上時折見せる激しさやパワーに特別なものを感じてはいるのだ。

以下の引用をお読みいただきたい。

人類は皆同じと決めてかかる態度は、われわれの不安を鎮めてくれるかもしれないが、ドイツの過去の、現在の、そして未来の歴史的発展についての理解を禁じてしまう。ドイツも他の国同様の一国にすぎないと独断的に宣言するのは、人類全体の識字化や、1550年から1650年にかけてのメンタリティの大変容において、ドイツが演じた決定的な役割を見ようとしないことである。1880年から1930年にかけて発揮された、経済と科学におけるドイツの伸張のパワーを忘れることである。二つの世界大戦の戦時中にドイツが示した軍事的な有能さーほとんど超人的な有能さーを見ようとしないことである。‥‥1943年~44年頃、イギリスとソ連と米国の連結したパワーに対する抵抗において示した新たなステージの超人的有能さに到っては、ひとつの社会的・精神的構造が生み出した病理と認定するに充分であろう。‥‥ドイツは武力によって鎮圧され、1945年に分割された。するとわれわれは、あのネイションとその文化の凄まじいまでのパワーを忘れようとした。そして今、そのツケを払わされる時が来ている。‥‥

『我々はどこから来て、今どこにいるのか?下』(文藝春秋、2022年)159-160頁
(太字は筆者)

と、ドイツについてここまで言っておきながら、トッドは、日本との相違という点については、次の程度でお茶を濁してしまうのである。

考えてみれば、日本もまた、歴史上のパフォーマンスにおいて並外れていたし、今日なお並外れている国である。非ヨーロッパ諸国のうちで先頭を切って、日本は19世紀に経済的に離陸し、今なお世界の最先進国の一つにとどまっている。特許取得数は、先述のように、世界全体の三分の一にも近い。‥‥しかも、この驚くべきネイションが擡頭したのは、地震に絶え間なく晒されている列島の上でなのだ。 

同上 160−161頁

おそらく、フランス人であるトッドには、ドイツと核家族地域の違いを説明できればそこそこ満足なのだと思う。それで、すべてを「直系家族のパワー」で片付けてしまうのだ。

しかし、「はじめに」で述べたように、日本とドイツはメンタリティにも違いがあるし、歴史的経験も大きく異なっている。

並外れたパフォーマンス? 日本は確かに識字化・人口増の時代には人並みに活躍し、暴れもしたが、その後は教育の頭打ち・人口減少という基層に従って順調に停滞している。

一方、ドイツは、本来なら停滞してもよさそうなそのときに、EUを主導し、トッドが「一人勝ち」(トッド・ドイツ帝国56-57頁)というほどの経済システムを構築したりしているのだ。

そういうわけで、日本人である私はこの違いに目を瞑ることができず、勝手に新たな仮説を立てたのである。

ドイツのメンタリティ:権威の過剰?

まずは、ドイツのメンタリティについて。単に直系家族であるというだけでは説明できない何かをドイツにもたらしているものは何なのか。

今となっては答えは簡単だ。
キリスト教である。

直系家族システムの権威+キリスト教の権威=ドイツのメンタリティ

この等式が私の仮説の全てである。

同じ直系家族でありながら、日本にはない体系性や生真面目さをドイツが持っているのは、ドイツが直系家族の権威に加えて、キリスト教の権威も合わせ持っているからなのだ。

キリスト教は一神教である。

一神教とはどのようなものであったか、思い出してみよう(参照:国家と宗教ー一神教と多神教)。

一神教は、もともと、家族システムが未発達で、メンタリティの中に「権威」を受け入れる素地を持たない原初的核家族の生み出した宗教である。

原初的核家族とは、関係性を律する規則を持たない「家族システム以前」の状態(あるいはそれに近い状態)を指し、彼らは内発的に国家を生み出すことはない。

それでも、近隣に都市国家やら帝国やらが林立してその勢力が迫ってくると、自身も国家を組織しなければアイデンティティを保つことができない状況に陥るであろう。しかし、彼らの家族システムは国家形成に必要な権威を欠いている。

窮地に陥った彼らは、天上にその権威を求める。

それが一神教の神である。

世俗の人々を導いてくれる強い神、全知全能で唯一絶対の神の姿を彼岸に描き、その支配を受け入れることで、世俗の権威に代替するのである。

国家と宗教ー一神教と多神教

一神教の神の権威は、原初的核家族をどうにかして国家にまとめるという目的のためにちょうどよい強度に作られている。

家族システムの中にすでに権威の軸を持っている人々が、それに加えて、さらに強大な一神教の権威を胸に抱いていたらどうなるか。

それがドイツの場合なのである。

日本史との共通点

これより、上記仮説の検証がてらドイツの歴史を概観していくが、もしお読みでない方は、「日本史概観」を先にお読みいただいた方が分かりがよいと思う。

なぜかというと、ドイツと日本は、同じく原初的核家族の時代に「舶来の」権威を借りて建国した国家として、そして同じく直系家族システムを育んだ国家として、よく似た構造の歴史を持っているからである。

①原初的核家族である間に「舶来の」権威によって建国

②直系家族が生成し、舶来の権威と地物の権威が綱引きを始める

③地殻変動期の内戦を経て「地物」直系家族の国家体制が確立する

④直系家族と「権威」の好相性ゆえに「舶来の権威」の方も保持され

ドイツと日本は、①-④のシークエンスを完全に共有している。

ドイツも日本も、遅くとも③の段階では、①で用いた「舶来の権威」は「なくても何とかなる」という状態になっているのだが、「権威」との好相性を誇る直系家族として(平等核家族のケースはこちら)、①で用いた権威を大切に持ち続けた点も同様である(④)。

両者の違いは、日本の「舶来」品が、中華帝国にインスパイアされて自己流で作った「天皇」であったのに対し、ドイツのそれが「キリスト教」であったという、その一点だけなのだ。

ドイツ史の激しさと複雑さ

しかし、パッと見たところ、ドイツ史と日本史は、だいぶ雰囲気が違う。ドイツ史はなんか複雑だし、激しいし‥‥

違いをもたらしているのは、「キリスト教」、というか、舶来の権威の性格である。

まず、「激しさ」は、「直系家族+キリスト教」のドイツのメンタリティの産物ということでよいだろう。

では複雑さをもたらすものは何か。二点にまとめよう。

(1)「舶来の権威」の主体は(皇帝+教会)の複合体

キリスト教は、単に権威ある宗教であったというだけでなく、ローマ帝国以来のガッチリした教会組織を持っていたので、建国以来、ドイツはその組織力の方も借り受けて、行政組織として活用した。

ドイツにおける「舶来の権威」の主体は、実質的には、「皇帝+教会」の複合体であり、そのせいで、綱引きの構図がやや複雑になるのである

日本では「天皇 VS 武士」であったものが、
ドイツでは「(皇帝+教会) VS 諸侯」となる。

したがって、直系家族のドイツは、自らの家族システムに即した国家を打ち立てるために、皇帝と教会の双方を打倒しなければならなかった。

その過程で皇帝と教会の間に勢力争いが起こることも構図の複雑化に一役買うが、それほどややこしくはないので、ここで押さえておこう。

皇帝と教会はその時々の都合で協力しあったり争ったりする。両者の協力関係は諸侯にとって脅威だが(宗教改革のときがそうだった)、いがみ合ってくれるとどちらかの勢力が落ちるので、諸侯にとってはありがたい。

ドイツ史で一番重要なのは、世界史でも習う「叙任権闘争」(詳しくは次回)で、これによって(譲歩した)皇帝側の権威が低下したことが、諸侯の優位に大きく貢献したのである。

(2)「皇帝」は「西方キリスト教世界の王」の称号だった

フランク(のちドイツ)の王がローマ教皇から授かった「皇帝」の称号は、ドイツの王というより、「西方キリスト教世界の王」としての称号であったので、皇帝がその権威を保つためには、西ヨーロッパ世界での支配権を保持している必要があった。

「ローマ皇帝」であった皇帝は、実際のところ、あまりドイツ国内にはいなくて、海外に遠征してばかりいるのである(ドイツ語を話せなかった人すらいる)。

頭に入れておいていただくとよいのは、ここでも諸侯勢力にとって「棚ぼた」的状況が発生するということである。皇帝は、領土を広げたり守ったりするのに忙しく、あまり国内にはいない。その間、国内では、留守番をしている諸侯たちの勢力が必然的に強まるのである。

・ ・ ・

こうした要素があるために、ドイツにおける「(皇帝+教会) VS 諸侯」の綱引きは、承久の乱のように両者が直接戦うという構図にはなかなかならず、概ね以下のような経過をたどる。

皇帝は、教会との争いや海外遠征によってその勢力をすり減らし、諸侯がじわじわと国内での勢力を拡大する。

「プレ近代化」状況で各階層の国民が(皇帝+教会)に対して反乱を起こし(宗教改革)、これを収める過程で諸侯の優位が確定する。

最終的に、宗教改革の終盤(およびその延長戦である三十年戦争)で両者の直接対決があり、勝利した諸侯が、直系家族システムに依拠した国家体制を確立するのである。

ドイツ国家史のシークエンス(予告編)

①ー④のシークエンスにこれらの要素を書き加えて、次回の予告編とさせていただこう。次回以降、だいたいこんな感じで話が進む、というだけなので「へー」と眺めていただければと思う。

①原初的核家族である間に「舶来の」権威(皇帝+教会)によって建国

②直系家族が生成し、舶来の権威(皇帝+教会)と地物の権威(諸侯)が綱引きを始める

②-1 皇帝は諸侯の勢力を抑えるために教会を保護する

②-2 力をつけた教会は皇帝と対立(叙任権闘争)。皇帝が権威を低下させ、相対的に諸侯の勢力が高まる

②-3 皇帝は海外に支配権を広げ「帝権の絶頂期」を迎えるが、国内では諸侯が勢力を固める

③地殻変動期の内戦(宗教改革・三十年戦争)を経て、「地物」直系家族の国家体制が確立する

③-1 識字率を高めた「地物」直系家族の国民が教会に反旗を翻す(宗教改革)

③-2 反乱を収めた諸侯が支配権を確立

③-3 「(皇帝+教会)VS 諸侯」の最終決戦となり、諸侯を中心とした領邦国家体制が確立する

④直系家族と「権威」の好相性ゆえに「舶来の権威」の方も保持される

④-1 皇帝の宗教的権威、教会の権威はともに失われるが、国民は宗教改革を通じて「自分たちの信仰」を練り上げる

④-2 領邦毎に選択された信仰(カトリック or ルター派 or カルヴァン派)が領邦君主の支配下で公式に生き残る

今日のまとめ

  • ドイツのメンタリティは、直系家族とキリスト教(一神教)が重なる権威の過剰によって生み出された。
  • 直系家族である日本とドイツは、①舶来の権威による建国、②舶来の権威と地物の権威の綱引き、③地物の権威の勝利、④舶来の権威を保持、というシークエンスを共有する。
  • ドイツ史の複雑さは、①当初の権力主体が「皇帝+教会」であったこと、②皇帝がドイツ王というより「西方キリスト教世界の王」であったことによる。
  • 「天皇 VS 武士」に相当する対立軸は「(皇帝+教会) VS 諸侯」
  • 直系家族の国家体制の確立のためには、皇帝と教会の両方から支配力を奪う必要があった。