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社会のしくみ

日本史概観(3)
-鎌倉幕府、二つの動乱、直系家族国家の誕生-

鎌倉幕府ー綱引きが始まった

(1)源頼朝ー朝廷と並び立つ武家政権の確立

平氏が朝廷を乗っ取って(最終的に)討たれたのに対し、東国に拠点を築くことで、天皇家と武家が並び立つ時代を現出させたのが源氏である。

源氏も天皇家の出身だから元々は畿内(西)の出だが、房総を舞台とした平忠常の乱(1028)の鎮圧に乗り出したのをきっかけに東国に進出したという。

以後、東国の武士団との主従関係を強め、着実に勢力を築いた源氏は、頼朝の下で平氏を討伐した後、弟義経を排斥(これをやらなければならなかったのはまだ長子相続の習慣が確立していなかったからだ)、上皇も黙らせて、武家政権としての鎌倉幕府を確立させる。

(2)北条氏ー直系家族の誕生

鎌倉幕府を本当に軌道に乗せたのは北条氏であるが、日本における直系家族誕生の瞬間に立ち会ったのも北条氏ではないかという気がする。

北条氏は現在でいえば総理大臣に当たりそうな「執権」の地位を世襲するが、やがて執権の地位は飾り物となり、権力は北条の家督を継ぐ嫡流の当主「得宗」に集中していく。天皇家の権力が家長としての上皇に集中したようなもので、父系の権威が強まったことの現れといえる。

*なお、得宗の地位は概ね長子に受け継がれているが、長子の死没以外に、側室の子を避けて次男の時宗が継いだ例がある。「側室の子は差別される」というと女性が低く扱われているような感じがするかもしれないが、そうではなく、この場合、(父親の家系ほどではないにせよ)母親の家系「も」重視されていることを示唆している。つまり、重要性において父親と母親(男性と女性)を区別しない双系性の名残りであり、どちらかというと、父系直系家族の未完成を示すものと考えられる。

北条はまた、泰時(坂口健太郎だ)の時代に御成敗式目(1232年)も作っている。

天正2年(1574年)写本
https://archives.pref.kanagawa.jp/www/contents/1551940097112/index.html

御成敗式目は律令の影響を受けない武家初の成文法典である。室町幕府には基本法典として継承され、江戸時代には武家の道理を教える子供向けの教科書として用いられたというから、武家版十七条憲法のような位置付けかもしれない(当初の条文はその3倍の51箇条である)。

メソポタミアにおいて(中国でも)直系家族の誕生は国家の誕生であり、文字と法律の誕生でもあった。北条における直系家族や武家法の成立を見ると、この時期こそ、日本における(大陸の影響を抜きにした)自律的な国家生成の時期だったのではないかと思われるのである。

(3)承久の乱ー「地物」の優位が確定

北条において直系家族の権威が生成中であったと考えると、この時期に、朝廷のトップであった後鳥羽上皇と北条義時がぶつかり、上皇側が挙兵するという事件が起きたのは「必然的だった」と言いたくなる。

1221年、今なら勝てると踏んだ後鳥羽上皇は義時追討の宣旨を出し、鎌倉に兵を差し向ける。しかし、期待に反して幕府への造反者は少なく、上皇側はあえなく敗北。幕府の圧勝に終わったのである。

もちろん、かりに朝廷と北条の対立が、深層の動きに操られた必然であったとしても、この段階で、北条率いる幕府軍の勝利が必然であったとまではいえないであろう。

しかし、ともかく、北条はこの戦いに勝ち、それによって、朝廷の権力を抑え、実質的な統治の範囲を西国にまで大きく広げることになった。統治という点で、朝廷に対する幕府の優位、すなわち「舶来」の権威に対する「地物」の権威の優位を確たるものとしたのである。

二つの動乱

(1)中世の動乱ーヨーロッパと日本

ヨーロッパの歴史と日本の歴史には、共通点、というか、共通の分かりにくさがある。それは、近世(初期近代)以降の分かりやすい発展の過程が始まる前に、何かよく訳のわからない激しい内戦の時期を経験しているということである。

英仏では百年戦争、薔薇戦争がある。フランスは宗教戦争を含めてもよいだろう。ドイツは宗教改革から三十年戦争まで。日本は南北朝の動乱と応仁の乱である。

これらはいったい何なのか。トッドの人類学を参照しながら歴史を見ると、つぎのような仮説が成り立つと思う。

ヨーロッパ日本はどちらも、家族システムの進化の前に、外部の権威を借りて建国している。

そのため、国家の内側が充実し(その基礎にはもちろん識字率の上昇がある)、自律的な家族システムの進化が起きると、新たなシステムに合わせた国家の作り替えが必要になる。

おそらくそのときに、内戦や動乱が起きるのである。

この時期に起きる動乱は、外国や国王といった分かりやすい敵がいないので、ディテールを追っても何が何だかよく分からないことが多いし、当事者の勝ち負けにも大きな意味はない。しかし、このとき、国家は、社会の地殻変動に合わせた大々的なシステム改変を行なっているのである。

(2)南北朝の動乱(1336-1392頃)

北条氏のもとで(多分)生まれた直系家族が、完成度を上げ、日本全土に拡大していく長い過程を開始した頃、南北朝の動乱は起きた。

端緒を作ったのは後醍醐天皇である。

この時期、政治の最高権力を握っていたのは北条であり、天皇ではなかった。しかし、政治に対して一貫して強いやる気を持っていた後醍醐は、鎌倉幕府の御家人であった足利尊氏の協力も得て北条の鎌倉幕府を滅し、政治的復権を狙う(1333年)。

後醍醐天皇は、幕府はもちろん、院も摂政・関白も置かずに自ら政治の舵取りをしようとするが(建武の新政)、うまくいかない。

そこで、足利尊氏は後醍醐を見限り、武家政権としての幕府再建を目指して武力で京都を制圧、光明天皇を立てて室町幕府を開始する(1336年)。

こうして、以後60年に長きに亘る南北朝の動乱が始まるのだが、この時期に、なぜこのような動乱が起こったのであろうか。 

https://ja.wikipedia.org/wiki/後醍醐天皇#/media/ファイル:Emperor_Godaigo.jpg

①後醍醐天皇 VS 直系家族システム

動乱が始まった時点で、後醍醐の南軍と尊氏の北軍の間には、二つの対立軸がある。

 (1) 武家政権 VS 天皇親政(地物の権威 VS 舶来の権威) 
 (2) 天皇家の家督争い(兄弟間の相続争い)

後醍醐天皇は、天皇政治の最盛期とされる醍醐天皇(897-930)・村上天皇(946-967)の親政を理想としていたという。後醍醐は、武家政権を倒し、自らの力で理想の政治を追及したかった。

自分の実力を試したいという後醍醐天皇のあり方には、実力の時代に差し掛かっていた時代の空気が影響しているようにも感じられるが、天皇がそれをやっても「下克上」にはならない。

後醍醐はもしかすると不本意かもしれないが、客観的に見れば、それは新興の「地物の権威」から旧来の「舶来の権威」が権力を奪い返すため戦いである(1)。

さらに、足利尊氏が光明天皇を立てた背景には、天皇家における相続争い(持明院統(北朝・後深草(兄)系統)VS 大覚寺統(南朝・弟(亀山)系統)があった。

光明天皇は北朝であり、後醍醐天皇は南朝(弟系統)である。争いは、天皇家において長子相続が未確立であったから起きたことだが、争いが激化したのは「長子相続」が確立する可能性が見えていたからだということもできるだろう(2)。

要するに、後醍醐天皇は、武家政権と争い、兄系統である光明天皇と争うことによって、日本の土地の上に生成しつつある直系家族システムと争っていた、ということができるのである。

②兄弟間の緊張は全国でーー拡大の要因

後醍醐天皇(南朝)VS 足利尊氏(北朝)の対立から始まった動乱は、やがて、南朝、北朝、足利直義(尊氏の弟)派の三者が離合集散を繰り返す長くややこしい争いに展開する。

なぜそんなことになったのか。

山川教科書にはこうある。

このように動乱が長引いて全国化した背景には、すでに鎌倉時代後期頃から始まっていた惣領制の解体があった。この頃、武家社会では本家と分家が独立し、それぞれの家の中では嫡子が全部の所領を相続して、庶子は嫡子に従属する単独相続が一般的になった。こうした変化は各地で武士団の内部に分裂と対立を引きおこし、一方が北朝に付けば反対派は南朝につくという形で、動乱を拡大させることになった。

惣領制とは何か、という話からいこう。

惣領制とは、幕府と御家人の関係が「惣領」を責任者とする血縁集団を単位として構築される仕組みのことである。

それぞれの血縁集団には「惣領」(「家督」ともいう)がいて、軍役や祭祀(葬儀とか)の責任を担う。しかし、この制度の前提はなお分割相続であり、惣領が所領のすべてを相続するということはない。惣領は「本家」として所領の多くを相続するけれども、それ以外の子供たち(庶子)も土地を持ち、「分家」として自立できたのである。

惣領制の解体は、人口が増え、開墾が進んだ結果土地が不足し、所領のすべてを惣領一人に一括して相続させなければならなくなったこと(単独相続)に起因する。制度の前提であった分割相続ができなくなったのである。

惣領制の下でも、惣領と庶子は平等ではなかったが、庶子は庶子で土地をもって自立することができた。しかし、これが崩れ、単独相続となると、兄弟のうち、家督を継ぐ者とそれ以外の者の格差が異常に大きくなる。

もしこの状態で惣領制を続けるとなると、惣領が家の主人であるのに対し、他の兄弟は全員使用人のような位置付けにならざるを得ないだろう。

そういうわけで、兄弟の間には激しい緊張が走り、惣領制は解体を始めた。しかもそれは、一軒や二軒ではなく、全国の武士(御家人)の家で起こっていたのだ。

後醍醐と尊氏の戦いは、ガスが充満する国土に火花を散らし、全国に終わらない動乱を広げることになったのだと思われる。

(3)応仁の乱へー騒ぎは続く15世紀も

14-15世紀は、直系家族拡大の第一波であったが、人口という面で見ると、日本における人口成長の第三の波が始まった時期とされる(鬼頭宏『人口から読む日本の歴史』(講談社学術文庫、2000年)77頁)。

直系家族への進化を生む典型的な状況は「土地の不足」であるから、直系家族の生成と人口成長の波が同時に来ても何の不思議もないのだが、頭に置いておきたいのは、人口が急成長している社会とは、大勢の若者で溢れる社会だということである。

南北朝の動乱が、家族システムの変化、若年人口の肥大、そして識字率の上昇という要素が同時期に重なったことで起きたものだとすれば、50年や100年での収束は見込めない。

そういうわけで、南北朝の動乱が収まった後に迎えた15世紀もまた、波乱と紛争の世紀となるのである。

①幕府内部のお家騒動 

まず、15世紀前半には、家内の緊張から来る争乱が室町幕府の内部を襲った。

1416年、幕府の関東の拠点である鎌倉府で、関東管領上杉禅秀が鎌倉公方足利持氏に反乱を起こす。詳細は省くが、背景にあったのは上杉一門の中の犬懸家と山内家の争いとされる(永原慶二『日本の歴史10 下克上の時代』(中公文庫、2005年)24頁)。

「世はすでに血縁による同族の絆が弱まり、諸家それぞれに武力をととのえ、互いに自立して力を争う時代になっていたのである。」(同上25頁)と説明されているから、基本的には、先ほどの惣領制の解体という状況に対応して生じた争いと見ることができるだろう。

1438年には、鎌倉公方足利持氏が幕府に背く行動を重ねて将軍足利義教と対立する(こちらの系図が見やすいです)。将軍義教は持氏を討伐したが(永享の乱)、1441年には、その義教が守護の赤松満祐に殺害されるという衝撃的な事件が起きる(嘉吉の変)。

騒動自体が将軍家の統率力の低下を表すものだが、立て続けに起こる事件で足利将軍の社会的権威は大いに低下することになった。

②土一揆の多発

同じ頃に土一揆が多発していたことも見逃せない。

農民たちは困窮した武士や都市の民とともに代官の免職や年貢の減免、債務の免除などを求めて蜂起した。背景には天候の異変による飢饉があったが、農民の中に自立的なアクターとなりうる層が育っていたことが大前提である。

14世紀には「国人」と呼ばれる在地の武士が団結し、自律的な地域権力を営んでいたことが知られる。農民もまた自ら惣・惣村という自治的な村を生み出していた。こうして主体性(≒識字能力)拡大の波は農民層にも及び、土一揆の15世紀を迎えたと考えられる。

数万人が京都を占拠した嘉吉の徳政一揆(1441年)で、ついに土一揆の要求を受け入れて徳政令を発布して以後、幕府は土一揆に応じて徳政令を乱発するようになる。

下克上のさきがけとなる民からの突き上げで、幕府の力はいっそう弱まった。

③応仁の乱(1467-1477)

こうした状況の下でいよいよ始まる応仁の乱。
これもきっかけは家督争いだった。

将軍の権力が弱体化したことも関係し、将軍家の周辺で家督争いが相次ぐ。畠山家、斯波家、そして将軍家本体。

これらの争いに、幕府内でその勢力を争っていた山名(西軍)と細川(東軍)が介入したことで、応仁の乱は始まった。

幕府内の二大勢力である山名と細川が争えば、幕政に関わっていた有力大名たちは必然的にこれに巻き込まれ、それぞれどちらかの陣営について戦わざるを得なくなる。そういうわけで、戦いは京都を中心に、日本の中央部分(≒ 東北、関東、九州以外)全体に広がり、中央を二分する争乱に発展したのである。

戦国時代の始まりー直系家族の日本へ

南北朝の乱、応仁の乱の二つの動乱を経て、システム改変を終えた日本は、どのような社会に生まれ変わったのだろうか(乱の詳細は全部省略します!)。

応仁の乱の後、日本は戦国時代に突入する。室町幕府の政治が崩壊し、群雄割拠の時代が始まるのである。

小規模な国家が濫立し互いに勢力を争うという状況は、まさしく直系家族システムのものであり、メソポタミア、中国では、直系家族の誕生=国家の誕生と同時に、類似の状況が訪れていた。

日本の場合、直系家族システムを素直に反映させたこの「戦国」状況を現出させるために、システムの大変革が必要であったのだが、具体的に、何がどう変わることで、「群雄割拠」が可能になったのかを見ていこう。

一般に指摘されるのは、以下の2点である。

(1)地域の独立

まず、室町幕府の崩壊によって、地域が中央の縛りから解放されたということがある。

鎌倉以後、力を付けた武士は大名として地域の支配に関わったが、その地位は幕府の守護職への任命に基づいていた。「守護大名」と呼ばれる彼らは、幕府の行政官だったのである。

応仁の乱を経て幕府による政治が崩壊すると、地域と中央を結びつけるものがなくなり、領国とか分国とか呼ばれた地方の行政区画が独立国家の様相を呈していく。これが、「群雄割拠」の一つの前提である。

(2)支配層の変化ー誰が戦国大名になったのか?

従来の社会秩序の中では低い地位にあった者が実力でのし上がり、「群雄」つまり戦国大名になっていく、というのがもう一つの変化であるが、この「下克上」には主に2つのルートがある(ようである)。

①辺境の守護大名の下克上(地域的な下克上)

第一は、辺境の守護大名による「下克上」である。

室町幕府の下で、有力だった守護大名はみな応仁の乱に巻き込まれてその勢力を大きく削がれたが、幕政に関わることの少なかった関東以北や九州の守護大名は、乱に参加せずに済んだので、力を温存することができたわけである。

のちに戦国大名として名を上げる何人かはこうした「辺境の」守護大名で、駿河の今川義元、薩摩の島津貴久、甲斐の武田信玄などがこれに当たる。

②守護代、国人の下克上(社会的地位の下克上)

では、守護大名が乱に参加した地域はどうなったかというと、彼らの留守中に領地を守り、地域版の乱を戦った守護代や国人が実権を握ることになり、そのうちの実力者が戦国大名にのし上がることになった。

有名な戦国大名のうち、上杉謙信、織田信長は守護代、長宗我部元親、徳川家康、伊達稙宗(政宗の曽祖父)、毛利元就は国人上がりである。

*以上につき、武光誠・大石学・小林英夫監修『地図・年表・図解で見る 日本の歴史(上)』(小学館 2012年)123頁)参照。この本はとてもおすすめです。

と、以上のようなわけで、応仁の乱は、幕府の縛りから地域を解放し、「下克上」を導くことで、群雄割拠の戦国時代を到来させたのである。・・

というのが教科書的な説明で、これはこれでこの通りなのだと思うが、「舶来の権威から地物の権威へ」の移行過程を追っているわれわれとしては、これだけではちょっと物足りない。

室町幕府が倒れたのはよいとして、同じ京都に存在していたはずの「舶来の」権威たち、つまり、天皇や貴族はいったいどうなったのだろうか。(次回に続きます)

今日のまとめ

  • 頼朝は関東に武家政権を打ち立て、天皇家(朝廷)と武家(幕府)が並び立つ時代を現出させた。
  • 直系家族の誕生に立ち会った北条氏の下で、朝廷(舶来)に対する幕府(地物)の優位が確立された。
  • 借り物の権威によって建国した国で独自の家族システムが生成するとシステム改変が必要となる。それが中世の動乱(西欧、日本)である。
  • 南北朝の動乱応仁の乱は、家族システムの進化、若年人口の肥大、識字率の上昇が重なる時期に起きた。
  • 小国が濫立する戦国時代は素直な直系家族システムの表れであり、日本が直系家族国家として生まれ変わったことを意味している。
  • 応仁の乱は、地域を中央から解き放ち、下克上の世を導くことで、群雄割拠の戦国時代を可能にした。