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社会のしくみ

カトリックとライシテのフランスー建国の秘密(西欧編)

ゲルマン人はなぜ国家を作れたのか?

ヨーロッパにおける直系家族の起源は10世紀末、カペー朝のフランス(フランク王国)である。ローマ帝国分裂の頃からヨーロッパに入ってきていたゲルマン人たちは基本的に「家族システム以前」の原初的核家族であり、国家形成に必要な「権威」の軸をまだ持っていなかった。

それでも、彼らは国家を作っていく。西ゴート王国、ブルグンド王国、ランゴバルド王国、アングロ=サクソン七王国とか。中でもフランク王国は栄え、のちに分裂してフランス、ドイツ、イタリアの元になる。

ゲルマン人たちは「家族システム以前」であり「国家以前」であったはずなのに、なぜ国家を作ることができたのだろうか。

私の考えでは、原初的核家族に国家の樹立・運営が困難なのは、彼らがその家族システム(=メンタリティの深層)の中に「権威」を持たないからである。

それでも国家を作りたかったらどうしよう。
どっかから「権威」を借りてくればよいのだ。

フランスの誕生

ヨーロッパの場合、ローマ帝国の権威、そしてローマの遺産であるキリスト教がそれに当たる。内面に深く働きかける宗教、しかも一神教であるキリスト教は、核家族の無意識に「権威」を補う最高のサプリメントであったと思われる。

今回はフランク王国(≒フランス)の場合を少し詳しめに見ていきたい。

彼らはどのようにキリスト教と関わり、国家を築いていったのか。

そして、家族システムが進化し国家が軌道に乗ったとき、国家とキリスト教の関係はどのように変化していったのか。

①クローヴィスの洗礼(メロヴィング朝)
 ー原初的核家族+外付けの権威

ガリア北部からピレネー山脈までを支配下に収めたフランクの王クローヴィス(在位481-511)は、496年に洗礼を受け、キリスト教に改宗している。

ローマ教会の司教の勧めによるものだというが(ブルグンド王国出身の妻の勧めという説もあり)、タイミングがとてもよかった。

この以前、教会内部に教義上の争いがあって、アリウス派とアタナシウス派が対立していた(内容はさしあたりどうでもよい)。

論争の決着は4世紀末に着き、アタナシウス派が正統(カトリック)となったので、5世紀に改宗したクローヴィスはアタナシウス派を受容した。

しかし、ローマの近くに位置していたためにより早期に改宗していた各国の王たちは、みなアリウス派だった。

クローヴィスは図らずも「唯一のカトリック王」となり、カトリック王としての権威と「異端からの解放」という(周辺地域征服の)大義が与えられたのである。

カトリック王としての権威によってローマ帝国時代の貴族たちも味方に付けたクローヴィスは、武力に加え、教会(キリスト教)の権威、征服の大義、貴族たちの行政能力を手に入れて、国家の統一を成し遂げた。

クローヴィスの頃のフランクは原初的核家族であったが、教会との関係および唯一のカトリック王としての地位を「外付けの権威」として用いることで、統一国家の樹立に成功したといえる。

②「聖別」の典礼(カペー朝)
 ー直系家族+権威の補強

しかし、この統一は長続きしない。原初的核家族のメロヴィング朝は相続の度に王国の分割をめぐって争いを起こし、混乱の末にカロリング朝に取って代わられる。

そのカロリング朝の王たちは順調に支配領域を拡大し、シャルルマーニュ(=カール大帝)の時代には、ドイツ、フランス、イタリアにまたがる広大な地域を支配下に収め、ローマ教皇からローマ皇帝の戴冠を受けるまでになる(800年)。

しかしまだ核家族だったのでやはり相続争いを避けられず、シャルルマーニュの死後、カロリング帝国はフランス、ドイツ、イタリア(の原型となる3つの国)に分裂してしまうのである。

「おい、そろそろ何とかしろよ」と思えるこの頃、ようやく、フランス領域内で家族システムの進化が始まる。

柴田三千雄『フランス史10講』によると、この頃のフランスでは、王の任命で行政官として配された地方の有力者たちが「分割継承をめぐる武力抗争の過程で武装銃士団をつくって自立し、領邦権力にまで成長していた」という。

ちょうど、日本で武士というか武家が生まれてくるのと同じような感じである。この領邦権力=貴族たちは、間もなく、長子相続を採用し、直系家族を確立していくだろう。

下から権力が育ってくると、国王の権威は揺らぐ。選挙王制が採用され、カロリング家以外の王が登場したのもその一つの現れである。

まず888年にロベール家のウード、987年にはやはりロベール家のユーグ・カペーが非カロリング家の王となった。

ユーグ・カペーは、相続争いを避け安定的な継承を可能にするため、貴族の間で広まりつつあった長子相続制を自ら採用し、生前に長子を後継者に指名する。こうして、ついに、家族システムの進化(直系家族)とともに、カペー朝が始まるのである。

カペー朝の登場は、現在から見ると、実質的に「フランス国誕生」と同視できる大きな事件であるが、当初、その権力基盤は脆弱だった。

シャルルマーニュが持っていたローマ皇帝の称号は、さっさと直系家族を定着させて安定を見たドイツに持っていかれてしまうし(962年オットー1世に教皇からローマ皇帝の称号が与えられ、神聖ローマ帝国が始まる)。

内外に対してその正統性を主張する必要に迫られたカペー朝が用いたのも、やはりキリスト教だった。

カペー朝は「聖別」の儀式としての塗油を即位式の典礼として確立する1カロリング帝国分裂後のフランス(西フランク)で新たに生み出されていた伝説(クローヴィスの洗礼の際、白い鳩が聖油の小瓶を口にくわえて天から舞い降りたという)に依拠するものという。。塗油の儀式には、神による選択という意味が込められる。これによって、カペー朝の王は、教会の権威にも依存せず、神に選ばれ、神に超自然的な力を与えられた者、いわば「新たなキリスト」と位置づけられたのである。

③教皇のバビロン捕囚
 ー教皇を屈服させる王権

当初は群雄割拠の中の名目上の王に過ぎなかったカペー王朝は、12世紀以降次第に勢力圏を広げ、14世紀初めには王国の約4分の3を支配下に置くなどして、実質的な統一を実現していった。

12世紀以降というこの時期は、フランスの主たる家族システムである平等主義核家族が成立した時期と一致している。

10世紀に生まれた直系家族はドイツ全土に広がったが、フランスでは農地システム(大規模土地所有)に阻まれて拡大を止めた(大規模土地所有はローマの遺産である)。

しかし、直系家族を拒んだ地域では、貨幣経済への回帰、都市の再生、大規模農業経営の再確立とともに、平等主義核家族が「再浮上」したのである2「再確立」とか「再浮上」とかいう言葉は、ローマ帝国時代のものが一旦失われて再度現れたことを指示する。

この時期が、フランスという国の「国柄」が確立されていった時期といってよいだろう。

基層における(直系家族+)平等主義核家族システムの確立と実質的な国家統一が同時に実現したこの時期に、世界史の教科書でも印象深い、教皇ボニファティウス8世と国王フィリップ4世の確執が起きている。

ヨーロッパ各国の王と教皇の間には従前から聖職者への課税や司教の任命権をめぐる対立があったが、フランス王は教皇と比較的良好な関係を保っていた。

しかし、カペー朝の王は13世紀後半から攻勢に出る。フィリップ4世は教皇権の絶対性を主張する教皇を側近に急襲させ監禁するという挙に出たのである(1303年 アナーニ事件)。教皇はまもなく釈放されたが屈辱のうちに死亡した(「憤死した」とも言われますね)。

フィリップ4世はその後教皇庁をアヴィニョン(南フランス)に移し、以後約70年間、教皇を支配下に置く(教皇のバビロン捕囚 1309-1377)。

王権の拡大と教皇権の衰退を示すエピソードとして知られるこれらの事件は、ヨーロッパの国家建設においてキリスト教が果たしていた役割を頭に置くと、いっそう分かりやすくなる。

原初的核家族のゲルマン人が国家を樹立するには「外付けの権威」としての宗教が不可欠だった。

家族システムの進化とともに国家が権力基盤を固めていく過程においても、宗教の力を借りて「権威」を補強する必要があった。

しかし、王権が伸張し、国家運営が軌道にのってくれば、聖なる権力はむしろジャマになる。この段階に至ると、これまでとは反対に、宗教の権威を押さえつけ、あからさまに蹂躙することこそが、王の権威を高めることになるのである。

ライシテ(政教分離)の基盤

フランス王国はその後もカトリック国家であり続けたが、革命を経た共和政フランスは、国王の権威を否定すると同時に聖職者の権威も否定し、やがて、公共領域から宗教を徹底して排除する独自の政教分離原則(ライシテ)を確立するに至る。

とりわけ厳格な宗教排除原則がフランスで確立されたのは、同国に定着したのが平等主義核家族システムであったことによると考えられる。

「自由と平等」のフランス市民にとって、宗教は「権威と不平等」そのもの、彼らの価値観に真っ向から対立する不倶戴天の敵である。

彼らの意思が政治に反映されるようになった時点で、公共領域からの宗教の排除は必然であったのだ。

経緯を整理しておこう。

①第1段階:原初的核家族のフランス
権威の欠落をキリスト教で補い、国家建設に成功。

②第2段階:直系家族のフランス
王侯貴族(と一部地域の人々)の間に直系家族が定着し「権威」が発生するが、キリスト教は引き続き脆弱な権力基盤を補強する役目を果たす。

③第3段階:直系家族+平等主義核家族のフランス
王権が伸張し中央集権国家が軌道に乗る。王は教皇を侮辱し聖職者を支配下に置くことで安定した国家運営を図る。

④第4段階:平等主義核家族のフランス
直系家族(王侯貴族)VS 平等主義核家族(一般市民)の戦いで(も)あったフランス革命で平等主義核家族が勝利。「自由と平等」の人民は「権威と不平等」の権化である宗教の公領域からの排斥を求める。

次回に向けて

原初的核家族がキリスト教の助けを借りて作った国家である点は他のヨーロッパ諸国も同じだが、宗教への態度や宗教(および脱宗教化)が社会に与えた影響は国によってかなり異なる。おそらくは定着した家族システムとの関係なので、次回に探究したい。日本との比較もできると思う。

もう一つ。国家における「権威」の重要性を知ると、宗教を排斥し、国王も排斥したフランスが、その空白を何で埋めたのかを知りたくなる。この点も次回以降に探究しよう。

今日のまとめ

  • 原初的核家族(権威なし)であるゲルマン人の国家建設にはキリスト教の権威が不可欠だった。
  • キリスト教は、直系家族+平等主義核家族のフランスが生まれた後も、権力基盤の強化・安定に役立った。
  • フランス革命は直系家族(王侯貴族) VS 平等主義核家族(一般市民)の戦いでもあった。
  • 革命に勝利したフランス人民(平等主義核家族=自由と平等)にとって、宗教(権威と不平等)は不倶戴天の敵だった。
  • ライシテは、平等主義核家族と宗教システムの極度の不適合が生み出した制度である。

<主要参考文献>
・柴田三千雄『フランス史10講』(岩波新書、2006年)
・エマニュエル・トッド(石崎晴己訳)『新ヨーロッパ大全I』(藤原書店、1992年)
・エマニュエル・トッド(石崎晴己監訳)『家族システムの起源I ユーラシア 下』(藤原書店、2016年)

  • 1
    カロリング帝国分裂後のフランス(西フランク)で新たに生み出されていた伝説(クローヴィスの洗礼の際、白い鳩が聖油の小瓶を口にくわえて天から舞い降りたという)に依拠するものという。
  • 2
    「再確立」とか「再浮上」とかいう言葉は、ローマ帝国時代のものが一旦失われて再度現れたことを指示する。