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ドイツ(4・完)
-強くて不安定なドイツ-

 

目次

 

ドイツの地殻変動:宗教改革から三十年戦争まで

(1)基本情報:家族システム、人口、識字

「地殻変動」を表す基本情報として、家族システムの生成は前回見たので、それ以外の要素を確認しよう。

〈 人口 〉ヨーロッパ全体の数字だが、16世紀に8100万人から1億4000万人に増加しているという(阿部謹也『物語 ドイツの歴史』145頁)。かなりの増加具合である。

ドイツの人口増加は11世紀に始まっているが、1348年から14世紀末にペストによる大幅減少があったので、15-16世紀はそこからの回復期に当たっていたと考えられる。

〈 識字 〉下の地図をご覧いただきたい。「●」は1480年以前に1台以上の印刷機が稼働していた州(県)であることを表している。グーテンベルクが印刷機を発明したドイツ中南部(ストラスブール~マインツ)からイタリアを中心に、北部ドイツ、ネーデルラント、イギリスに広がっていることが分かる。イタリアを除いて、いずれも宗教改革の中心となる地域である。

『新ヨーロッパ大全 I』137頁

これは宗教改革直前の状況を推認させるデータであるが、宗教改革の過程でプロテスタントとなった地域では(「聖書のみ」の教えに従って)聖書を自ら読むために識字率の上昇に拍車がかかったはずである。

(2)なぜ「宗教」なのか?

南北朝の動乱も応仁の乱も十分に分かりにくいが、日本人のわれわれには、宗教改革はなお一層分かりにくい。直系家族システムに依拠した国家体制を作るための動乱が、いったいなぜ、宗教改革・宗教戦争という形を取らなければならないのか。

しかし、「建国の秘密」を知っているわれわれにとっては、もうそれほど難しい話ではないだろう。

ドイツにおける「舶来の権威」はキリスト教で、それを具体的に掌握していたのは「(皇帝+教会)の複合体」だった。

したがって、「地物」の権威にとって、一つの可能性は、「キリスト教とともに(皇帝+教会)複合体を捨て去る」というものであったと思われる。後の時代のフランスの選択である。

しかし、宗教的権威に反感を抱くよりはむしろうっとりしてしまう直系家族の人々はその方向性を選択しない(時代の問題もある)。彼らが選んだのは「(皇帝+教会)とは縁を切り、キリスト教は残す」という道だった。

その実現には、政治的権威を「(皇帝+教会)複合体」から奪うと同時に、キリスト教を教会の手から奪うことが欠かせない。

そのための戦いが、宗教改革なのだ。

宗教改革(1517-1555)

(1)宗教的側面

宗教戦争、政治闘争の2側面を持っていた宗教改革。まずは宗教戦争としての側面から見ていこう。

①信仰心の高まり

トッドが指摘する通り、宗教改革は、識字率上昇の過程で、自らに相応しい信仰を求めた人々による「信仰心の民主化」運動である(『新ヨーロッパ大全 I』122頁)。

前回も見たように、直系家族のドイツで、識字化の進展は信仰心の深化をもたらしていた(教会刷新運動についてこちら)。

15世紀にはかつてないほどドイツの一般民衆の信仰心は深まっていた。このことは、教会への寄進、マリア信仰、巡礼、聖遺物崇拝や聖人信仰などに見ることができる。このほかにも新しい信仰 Devotio Moderna の動きが北ドイツやネーデルラントに広がり、主として聖書を自ら読むことによって信仰を深めようとしていた。

阿部謹也『物語 ドイツの歴史』(中公新書、1998年)86頁

一方、その同じ時期、ドイツの聖職者たちは、俗物としかいいようのない存在だった。

下級司祭や代理司祭は、ラテン語ができないどころか、一般の農民とほとんどかわらない暮らしをしていた。

彼らの生活は禄によっていたが、その禄を各地にもちながらミサもあげられない司祭も数多くいた。一方、下級司祭にしてみると、給与も一般の職人より安かったから、結婚式や葬式の謝礼で生活を立てるしかなかった。そのために物欲しげな司祭のイメージが広まり、酒や女におぼれる者も少なくなかったのである。

高位聖職者の中には内縁の妻をもっている者も少なくなかった。数十の教区に1000以上もの聖職禄を得て、26000ドゥカーテンもの年収を得ている者もいた。さらに都市の娼家に、聖職者の姿が見られない日はないとさえいわれていた。なかには司祭で娼婦宿を経営している者もいた。

阿部・90頁

その挙句に、教会は贖宥状の販売によって多額の収益を得て、豪華な教会を建て、教皇の贅沢な暮らしを支えていたというのだから、「革命」が起こらない方がおかしいというものだろう。

②騎士戦争と農民戦争

よく知られるように、1517年10月、ルターが贖宥状に反対する「95箇条の論題」を公表したことが、宗教改革の発端である。1520年の論文で、彼は次のような呼びかけを行なった。

教皇、司教、司祭、修道院の者たちは聖職身分と呼ばれ、諸侯、領主、職人、農民は俗人身分と呼ばれる、などということになっているが、これはまさしく巧妙な企みにして見事な偽善である。しかし何ぴともこのような区別に脅かされてはならない。何となれば、実はすべてのキリスト者は聖職身分に属するのであり、キリスト者の間には、役目の違いを除いて、いかなる違いも存在しないという正当な理由があるのである。このことはパウロが次のように述べて示したところである。すなわち、われわれは単一の集団をなすものであるが、その成員はそれぞれ固有の役目を持っている、と。

ルター「ドイツ国民のキリスト教貴族に告ぐ」(トッド『家族システムの起源I』下123頁より)

諸侯を含む「貴族」に向けたものだが、彼の言葉は、準備のできたすべての人々に「革命」の扇動として響いたと思われる。

教会から破門を宣告されたルターの取り扱いが問題となる中、1522年に下級貴族たちが(騎士戦争)、1524年には農民たちが(ドイツ農民戦争)蜂起したのはその証拠であり、同時に、彼ら(の少なくとも一部)にまで識字が広がっていたことの証拠である。

もちろん、彼らの蜂起は容赦なく鎮圧された。時代はまだまだ、下級貴族の下剋上を許し、農民の政治参画を認めるところまでは行っていないので、当然の帰結である。

また、「時代」の趨勢は、反乱の収束過程にも表れた。彼らを鎮圧し、秩序を回復したのは、皇帝ではなく諸侯だったのだ(皇帝はそもそも1521-30年の間海外にいて留守だった)。

庶民たちの反乱を収めることで、諸侯たちはもはや彼らなしに国は成り立たないことを見せつける。

これ以降、宗教改革は、「諸侯 VS (皇帝+教会)」の政治闘争として展開していくのである。

(2)政治的側面:誰が宗教を支配するか?

もちろん、諸侯たちが宗教的側面に無関心だったというわけではない。政治的側面と厳密に区別するのは困難であったとしても、諸侯たちは、ルターの呼びかけを受けて、それを支持する者と支持しない者(政治的には、反(皇帝+教会)/ 現状維持)に分かれていた。

彼らの中で、ルター支持派(プロテスタント)は一貫して少数派だったのだが、最終的には、諸侯は一致して皇帝+教会側と戦って勝利を収めることになる。

その理由を理解するために、まずは和議(アウクスブルクの宗教和議(1555年))の内容を見ておこう。

■アウクスブルクの宗教和議の主な内容

・プロテスタント/カトリックは領邦ごとの選択制とする
・「領主の宗教がその地の宗教」の原則に則り、領邦の宗教はその地の領主が決定する
・住民は領主の決定に従う(従えない者は移住税を払って移住が可能)
・プロテスタントとして許容されるのはルター派のみ

これを見て分かるのは、政治闘争としての宗教改革の争点は、最終的には「誰が宗教を支配するか」だった、ということであろう。

カトリック支持派が多かったにもかかわらず、諸侯たちが「反(皇帝+教会)」で一致することになった決定的な要因として、坂井栄八郎先生は次の点を挙げている。

シュマルカルデン戦争に皇帝がスペイン軍を動員したこと、またそのスペイン軍をドイツに留めたことは、カトリック派を含めてドイツ諸侯を皇帝から離反させた。その上、カールが息子でスペインの継承者フェリペを、フェルディナントの後の皇帝位継承者としてスペインとドイツの再結合を計ったことが、ドイツ諸侯を決定的に離反させた。

坂井栄八郎『ドイツ史10講』86頁

ハプスブルク家の出身でスペイン王でもあった皇帝カール5世は、改革派との戦い(シュマルカルデン戦争)においてスペイン軍を動員した。さらに、スペインの王位継承者に決まっていた息子フェリペ(スペイン生まれスペイン育ち。母はポルトガル王の娘)を、ドイツの「次の次」の皇位継承者に指名することで(「次」は弟フェルディナントに決まっていた)、スペインとドイツの統合を画策した。

彼らにとってそれは「スペインへの隷属」を意味したのであり、彼らは「ドイツの自由」の名の下に皇帝に抵抗する。

坂井・86頁

皇帝が「ヨーロッパの王」としての資格でドイツを抑えこもうとしたとき、カトリック支持の諸侯たちも、「(皇帝+教会)統合体」の支配から脱することの重要性を理解した。

こうして、諸侯たちは、プロテスタント/カトリックを問わずに団結し、皇帝軍に対して勝利を収めたわけである。

すでに多くを失っていた「皇帝+教会」にとって、宗教の支配権は最後の砦だった。そのため、宗教改革の過程における諸侯の勝利は、事実上、綱引きの終了、「地物」側の完全勝利を意味していたといえる。

ただし、その新たな体制が安定を見るには、もう一度、激しい争乱の時期を通り抜けることが必要だった。

三十年戦争(1618-1648)

(1)概要

世界史の教科書をあらためて読んでみても何がなんだかさっぱり分からない三十年戦争であるが、私の理解はこんな感じである。

・宗教改革の波がヨーロッパに広がり、ドイツでもカトリック諸侯とプロテスタント諸侯の対立が再燃。
・そこへ、オーストリアの属領ボヘミアでハプスブルク家の王フェルディナントが諸侯を無視してカトリックを強制(反宗教改革)し、反発した諸侯が蜂起する事件が発生。
・フェルディナントが神聖ローマ帝国皇帝となった(1619年)こともあり、ドイツおよびヨーロッパ全体を巻き込む戦乱に発展。
・ヨーロッパ全体では、カトリック/プロテスタントに加え、ハプスブルク家 VS 反ハプスブルク勢力の争いの側面が強くなり、プロテスタント諸侯側にはデンマーク、スウェーデン(いずれもプロテスタント)のほかフランス(カトリック)が加勢。
・ドイツでは、カトリック(皇帝+カトリック諸侯)/プロテスタント(プロテスタント諸侯)の争いで優勢となり調子に乗った皇帝が「復旧令」(宗教改革で没収されたプロテスタント領邦内の教会領をカトリック教会に返還するよう命令)を出したことで、再び「皇帝 VS 諸侯」の構図に
・ドイツ国内で諸侯軍が皇帝軍に対して劣勢となったとき、反ハプスブルクを掲げたフランスが参戦。その結果‥‥

反ハプスブルクが旗印であったから、プロテスタントであれ、どのような勢力であれ取り込み、まずはイタリアとスイスとスペインに対して成果を収めた。しかしその後、デンマークとスウェーデンの対立やオスマン帝国の介入があって、戦況は複雑となった。すでに内戦以来30年を数え、戦いに疲れたために平和を求める声が高まり、1648年に講和が成立した。 

阿部・150-151頁(太字は筆者)

(2)「動乱」の様相

いろいろな勢力が巻き込まれてダラダラと続く戦い、みんなが疲れ果ててようやく終結‥‥というこの感じには覚えがある。応仁の乱だ。

日本語で簡単に読める情報量が圧倒的に少ないのであまり説得力はないのだが、三十年戦争が「大規模システム改修」の一環であったことを示す要素をいくつか挙げることはできる。

世情の混乱:三十年戦争が始まる前の17世紀初頭、ドイツ各地で一揆や反乱、ユダヤ人迫害、魔女狩りなどの現象が多発

傭兵の活躍:プロテスタント側でも皇帝側でも傭兵隊が活躍

  *傭兵の活躍は直系家族の指標です 

下克上:三十年戦争の英雄といえば傭兵隊長ヴァレンシュタインだが、彼はおそらく下流の貴族である。自前の武器工場を作ったりして多方面で活躍し、最後は皇帝に殺害されるのだが、

彼には人望があり、時運に乗れば王位につく可能性もあったといわれている。この時代、このような傭兵隊長の社会的上昇も可能になっていたのである

阿部謹也『物語 ドイツの歴史』150頁

(3)ウェストファリア条約:直系家族国家の完成

1648年のウェストファリア条約で終結した三十年戦争。条約は教皇やヨーロッパ諸国、オスマン帝国まで参加した会議の成果であり、内容も多方面に及ぶが、ドイツに関して確認しておきたいのは以下の2点である。

①領邦にほぼ完全な主権が認められ、領邦国家としてのドイツが国際法上も承認された(常備軍の設置、外国との条約締結権等)

②宗教的寛容が実現
-「領主の宗教がその地の宗教」の原則を確認した上で「その地の宗教」を1624年時点で固定(諸侯の改宗権を制限し非人格化)
– 領邦の宗教と異なる信仰を持つ者や団体の存在も許容
– ルター派以外のプロテスタント(主にカルヴァン派)もOK

こうして、三十年戦争を経たドイツは、いよいよ、直系家族の権威(≒諸侯)に依拠する領邦国家(300余の国の連合体)体制を確固たるものとした。

皇帝はその政治的権威・支配力をほぼ失ったし、ローマ教会の勢力も排除され、政治・宗教の支配権は完全に諸侯の下に置かれることとなり、これ以後、ドイツは、絶対主義、啓蒙主義といったヨーロッパ史の展開を、すべて領邦ごとに経験していくことになるのである。

ドイツとキリスト教

(1)ドイツ統合の礎

天皇の存在をよすがに統一を保った日本と違って、ドイツでは直系家族の完全勝利が(定石通り)小国の並立状態をもたらすことになったわけだが、統一体としての「ドイツ」が、この1648年をもって(あるいはまた神聖ローマ帝国が解体された1806年に)消え去ってしまったかといえば、そうではないだろう。

18世紀後半に「ドイツ国制論」を書いたヘーゲルや、ナポレオン占領下のベルリンで「ドイツ国民」に呼びかけたフィヒテ(『ドイツ国民に告ぐ』)の頭の中には間違いなく「ドイツ」があった。

直系家族の生成以後、皇帝の権威を打ち捨て、教会の支配から逃れ、ドイツを領邦に分割する作業に一心に取り組んできた人々に、のちの再統一を可能にしたものは何だったのか。

いうまでもない。
キリスト教である。

(2)宗教改革の経験

島国でもないドイツで、分裂がちな直系家族をあの規模の国家にまとめるには、それ相応の大きな権威が必要となる。

直系家族化したドイツの人々の無意識が「(皇帝+教会)とは縁を切るが、キリスト教は残す」という方針を選んだのはそのためかもしれないと思うほどである。

ドイツは、おそらく、宗教改革の過程を通じて、「借り物」であったキリスト教を「自分たちの」キリスト教に作り直し、直系家族に依拠した領邦国家「新生ドイツ」の統合の源泉に据えたのだ。

宗教改革の時期に「国民意識」を深める契機があったという指摘は、坂井栄八郎『ドイツ史10講』の中にもある。

15世紀以後、国内の堕落した聖職者に不満を募らせていたドイツの人々は多数の苦情を教皇庁に寄せていた(「ドイツ国民のグラヴァミナ(苦情書)」と呼ばれる)。

これをめぐる議論の応酬が、ドイツ国民の国民意識を育てたというのが、坂井先生の指摘である。

この「グラヴァミナ」に対するローマの応答として、古典の学識に富む枢機卿ピッコロミニ(のちの教皇ピウス2世)は1494年、タキトゥスのそれと対照的な『ゲルマニア』を著し、ゲルマン時代以来のドイツのめざましい発展を指摘して、この間のキリスト教会の役割を弁護した。

これに対する反論を通じて、人文主義者を中心に、ドイツ側の「国民意識」も深められる。人文主義者の帝国騎士フッテンが「ゲルマーニアの解放者」を主題に風刺対話劇『アルミニウス』(1515-20頃)を書いたのも、この関連においてであった。

坂井栄八郎『ドイツ史10講』76頁

*アルミニウスは「トイトブルクの森の戦い」(紀元9)で勝利しローマ帝国によるゲルマニア征服を阻んだとされるゲルマン民族の英雄(タキトゥスも彼を「ゲルマーニアの解放者」と呼んだ)。

「グラヴァミナ」はルターを始めとする様々な論者に引用されたということであり、まさに「彼らのキリスト教」を作る過程の中核にあったといってよいように思われる(「グラヴァミナ」本体の引用もできないのであまり説得力がないですが)。

(3)ドイツ的とは何か

「直系家族の権威+キリスト教の権威=ドイツ的メンタリティ」という仮説を思いついたばかりに、長い(そして少々雑な)文章を書くことになったが、私としては「ドイツ的とは何か」の答えは出たと思っている。

ドイツの人類学システムについては、
3つのことがいえる。

①縦型の権威の軸が強力である

ドイツの場合、通常の直系家族よりも縦型の権威の軸が強い。超強力である。何しろ、世代を貫くその一本の線は、最終的に、一神教の神に接続されているのだから。

日本と同傾向でありながら、私に「本当に同じ家族システムなのか?」と感じさせる極度の体系性、硬さ、生真面目さといったものはこれによって説明できる。

トッドのいうドイツの「凄まじいパワー」もここから来ているものだろう。日本人のように真面目で勤勉で、彼らはその上、単一の真理(神)を仰ぎ見ているのだ。

トッドが度々指摘している不安定なリーダーシップという問題も、私は直系家族というよりは、ドイツシステムの特徴ではないかと思う。彼はよくこんなことをいう。

権威主義的文化はつねに二つの問題を抱えています。
一つはメンタルな硬直性、そして、もう一つはリーダーの心理的不安です。
すべてがスムーズに機能する階層構造の中にいると皆の居心地がよいのですが、ピラミッドの頂点にいるリーダーだけは煩悶に苛まれます。

『「ドイツ帝国」が世界を破滅させる』162頁

ドイツは歴史上、支配的なポジションについたときに変調しました。特に第一次世界大戦前、ヴィルヘルム2世の統治下でビスマルク的理性から離れ、ヨーロッパでヘゲモニーを握ったときがそうだった。今日の状況は、ナチス勃興の頃よりも、あのヴィルヘルム時代の方に類似しています。

212−213頁

ドイツの国家としても振る舞いを観察すると二つの異なる心理的・政治的行動様式が確認できます。

一つは、理性的な行動様式で、私はそれをビスマルク様式と呼んでいます。この様式に従うとき、ドイツは友好国をできるだけ多くつくることによって、自らの支配領域のコントロールを保持しようと努めます。‥‥

もう一つは、ヴィルヘルム様式です。この様式ではドイツは暴走し、できるだけ多くの敵国をつくって、せっかく獲得したものをすべて失います。‥‥ つまり、平常心を失わないドイツ様式と偏執狂的なドイツ様式が存在するのです。

『問題は英国ではない、EUなのだ』36頁

トッドのコメントは、ドイツへの指摘としては「なるほど」と思うが、日本には当てはまらない。日本の縦型の軸は一つの家族(家系)向けの仕様であり、基本的に「強いリーダー」を輩出しない(ドイツと大きく違う点だ)。ピラミッドの頂点に誰かいるように見えても、実際の意思決定システムは分散的で、誰か一人が極度の緊張状態に置かれるということはない(*だから理性的だというわけではもちろんない)。

ドイツのリーダーシップの不安定さというのは、おそらく、本来一家族向けの縦型の軸を、長く伸ばして一神教の神につないでしまったことによるものだと思われる。

普通の家のお父さんががんばって働いて出世したらなぜか「神の代理人」になっていた、というのがドイツのリーダーなのだから、狂気に陥らない方がおかしい。

②強力ではあるが所詮は直系家族の軸だ

ドイツの縦型の権威は強力なので、より大きな範囲を統率できるような気がして、しばしば帝国を作る試みに乗り出してしまう。

しかし、共同体家族のように「騎馬戦隊構造」(私は長い軸の先に扇風機の羽根がついたような構造をイメージしている)を持っているわけではないので、本物の帝国が作れるかといえば作れない。

トッドがよく(EUにおけるドイツのふるまいを念頭に)、どれほど力があっても身内の利益しか考えられず「全員の面倒を見てやる」という姿勢を取れない、というようなことをいうが(出典が見つかったら加筆します)、そういうことである。

③巨大な空白を抱えている

ドイツのシステムはそのようなものだが、しかし、生きた信仰としてのキリスト教はもう存在していない。その場所にはおそらく巨大な穴が空いているだろう。それがドイツに何をもたらすのかは問題かもしれない。

トッドは、現代ヨーロッパの危機の根幹には信仰の喪失があるという立場を取る。私は信仰の喪失そのものが問題だという立場を取らないが(私の意見はこちら)、ヨーロッパにおいてキリスト教が特別の役割を担ってきたことは事実であり、喪失による精神的ダメージが一番大きそうなのはやはりドイツである。

核家族の国におけるキリスト教というのは、移動式テントで人々が思い思いに暮らしている村の中心に作られた公共広場+道路みたいなものだから、なくなったら不便だが、精神的なショックはないだろう。

これに対して、ドイツの場合、キリスト教は直系家族の彼らのシステムを外側から強化する形で作用していた。木造家屋が立ち並ぶ村を魔法で要塞に変えたようなものである。それがすべて張り子の偽物だったとしたら‥‥その不安は大変なものだと思われる。

当初あまり乗り気ではなかった(らしい)ドイツが、1990年という「脱宗教化」完成の年を経て、EUというプロジェクトに熱心に取り組んだのは、そのためかもしれない。

この穴が埋まることがあるのかどうか知らないが、埋まった場合、おそらくドイツは普通の直系家族の国になり、安定はするけれど、現在の版図は維持できないと思われる。

穴が埋まらないうちは、ドイツは「神」に代わる何かを求め、不安定になりながらそのパワーを発揮していくのだろう。

正直なところこれを書くまで私はドイツという国の行く末にそれほど関心を持っていなかった。でも、いまでは興味津々、「見逃せないぜ!」という気持ちでいっぱいである。

今日のまとめ

  • 宗教改革−三十年戦争は、ドイツの地殻変動に伴うシステム改変のための動乱である。
  • 宗教改革は、直系家族が「(皇帝+教会)複合体」から政治的権威とキリスト教を奪うための戦いだった。
  • 最後の砦であった宗教の支配権を切り崩したことで、諸侯は「舶来の権威」VS「地物の権威」の争いに最終的に勝利した。
  • 宗教改革を通じて「借り物」を「自分たちの物」に作り直すことで、ドイツは直系家族国家の統合の源泉にキリスト教を据えた。
  • ドイツのシステムは直系家族の縦型の権威の先に「」を繋いだ構造。強さと不安定を特徴とする。
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ドイツ(3)
-ドイツ的メンタリティの誕生-

直系家族の成立

トッドの研究によると、ドイツで直系家族の浸透が始まるのは11世紀から13世紀である。西フランク王国(フランス)のカペー朝の下で10世紀末に直系家族が生まれ、ドイツでは農民層の間に遺産の不分割(単独相続)が広がる。そのせいで、貴族階級の間で一時的に遺産の分割が活発化するという現象が起こり、所領の細分化をもたらすが、13世紀には不分割原則が広く受け入れられていく(『家族システムの起源 I ユーラシア』(下 597頁以下)。

その過程で起きたことを具体的に見ていこう。

(1)人口増加

直系家族は「満員の時代」に生成する。そこで、まず人口について見ると、ドイツでは11世紀以降に人口の急増が起きたことが確認されている。

1000年頃にドイツとスカンディナヴィア半島には約400万人しか住んでいなかったといわれている。しかし11世紀以後人口は急速に増加し、14世紀には1150万人にのぼっている。

阿部謹也『物語 ドイツの歴史』21-22頁

人口の増加は、農業生産の増大と連動するのが通常であるが、この点については次のようにある。

これほどの増加は穀物生産の飛躍的な増大がなければ考えられない。実際、11・12世紀には各地で未耕地が開墾され、湿地帯も耕地となり、耕作面積は増大していた。初期中世には小集落でしかなかったところもこの頃には村としての体裁を整え始めていた。‥‥この頃にニ圃制の耕地のほとんどが三圃制に転換され、収量は飛躍的に増加した。鍬の改造や馬の引き具の改造もそれを促進していた。

阿部・22頁

人口が増え、開墾が進み、土地が不足する「満員の時代」。それこそが、直系家族誕生のタイミングである。果たして、ドイツでは、それを裏付けるかのように、植民そして十字軍遠征が始まるのだ。

(2)「ドイツ人の東方植民」

なぜ植民が直系家族の指標になるかというと、植民の活発化は、土地の不足とともに、家から排除された次男坊、三男坊の存在を推測させるためである。

直系家族が成立すると、土地を与えられない兄弟は、新たな活躍の場所を求めて、植民にでたり、傭兵になったり、十字軍に参加したりするものなのだ。

一般に「ドイツ人の東方植民」と呼ばれる動きは、12世紀から14世紀に起きている。開拓・開墾の活発化自体は全ヨーロッパ的な動きであったというが(坂井栄八郎『ドイツ史10講』52頁、阿部 22頁)、植民という点でドイツの動きが目立つのは、ドイツに直系家族が浸透したことの現れといえるだろう。

ドイツ人はエルベ川を越えて東方に活発な植民活動を行ない、エルベ川からその東のオーダー川へ、そしてさらに東のスラヴ人居住地域に進出して、この北東ヨーロッパを大きく「ドイツ化」してしまったのである。

坂井・52頁

(3)十字軍

十字軍が直系家族浸透の指標であることについては、トッドが次のように書いている。

数次にわたる十字軍という、弟たちが各地に四散していく動きは、〔土地のー筆者注〕不分割というものが大陸の西から東へと伝播普及していくさまを示すかなり確実な指標である。

第1回十字軍(1096-99)の主要な出発点ーということはつまり、参加者が募られた地点ーはフランスであった。三つの軍隊がそれぞれフランスの北部、中部および南部から出発した。四つめの軍隊はノルマン人の指揮の下、イタリア南部で移動を開始した。

しかし半世紀後の第2回十字軍(1147-48)では、フランス人と並んでドイツ人が登場する。この騎士たちの参加に見られるずれは、ドイツ人の帝国と比較してみれば、フランス王国とノルマンディ公国において、貴族の直系家族がきわめて早期に形成されたことの結果であると考えるべきではないか。

『家族システムの起源 I ユーラシア』(下 602-603頁)

そういうわけで、フランス・ノルマンディの貴族には一歩遅れたものの、直系家族はどこよりもドイツにおいて順調に根を下ろし、第2回(1147-48)、第3回十字軍(1189)に主力として参加する。

そして、大変興味深いことには、この十字軍とともに、大規模なユダヤ人迫害が起きているのである。

(4)ユダヤ人迫害

大変微妙な話題であることは承知しているが、科学者として、ズケズケと話を進めることをお許しいただきたい。

ドイツにおけるユダヤ人迫害は、第1次十字軍のときに始まり、ユダヤ人の村の襲撃、虐殺は「やがて‥‥日常的に行われるように」なっていったという。

ライン河岸の都市では激しいユダヤ人迫害が起こり、多くのユダヤ人が東ヨーロッパに逃亡した。1096年にはシュバイエル郊外で十字軍兵士がユダヤ人のシナゴーグ(ユダヤ教の礼拝場)を襲撃し、ヴォルムスでもユダヤ人が襲撃された。‥‥

こうして1215年のラテラノ公会議ではユダヤ人に印を付けさせるという差別的な規則が制定されたのである。

阿部・33-34頁

ちなみに、ドイツではペストが大流行した14世紀(1348-52)にも、大量殺戮を含む激しい迫害が起きている。

ユダヤ人迫害はドイツだけの現象ではない。イギリスでも、フランスでも、他のヨーロッパ諸国でも起きている。しかし、簡単に手に入る情報をざっと見る限り、大陸では、ドイツ、フランス南部、ライン川沿いのスイス、オーストリアなどの直系家族地域がその中心であるように見える。

20世紀まで視野に入れれば、これをドイツおよび大陸の直系家族地域にとくに顕著な現象と考えることには合理性があると思えるので、そのような前提で話を進めさせていただくとすると、11世紀以降になって初めてユダヤ人迫害という現象が起きているという事実は、「直系家族の権威+キリスト教の権威=ドイツ的メンタリティ」という仮説の例証の一つになりうると思う。

直系家族は、親子の権威的関係に加え、兄弟間の不平等が規範であることから、人間同士の間に差異を見出しがちである。要するに、差別という現象を引き起こしやすいということだ。

トッドは差別という現象に関して親子関係の「権威」を重視していないが、私は関係があると見ている。親子関係が自由な社会でも差別は起こる。しかし権威的な社会では差別は「規範」になってしまうのだ。

日本ももちろん例外ではなく‥‥これは説明の必要はないと思うが、部落差別とか、朝鮮・韓国系差別とか、技能実習生の不当な扱いとか、昔も今もいろいろとある。

そういうわけで、11世紀以降のドイツにユダヤ人差別が生じたことは、同時期の直系家族の浸透によって説明できる。

しかし、社会・経済的な諸条件を考え合わせても、単に直系家族が浸透したというだけでは、同地におけるユダヤ人迫害の激しさは説明できないと思われる。

ドイツにおいてユダヤ人差別がとりわけ激しい形態で発現し、しかも、その激しい迫害現象が歴史上たびたび繰り返されたのはなぜか。

その鍵を提供すると思われるのが、第1回で述べた仮説である。

直系家族システムの権威+キリスト教の権威=ドイツのメンタリティ

ドイツでは、直系家族の権威は、すでに存在していた一神教の神の権威の上に付加される形で成立した。

この「権威の過剰」が、差別を「神の規範」「どうしてもしなければならない行為」にまで高め、集団的な熱狂を生じさせてしまう‥‥というような感じの仕組みで、ドイツ史に「激しさ」を添加しているのではないだろうか。

個人の誕生?:「罪の告白」義務について

この時期におけるドイツのメンタリティの変化に大いに注目している日本人の研究者が私以外にもいる。すでにたびたび教えを乞うてきた阿部謹也さんである。

急に個人的なことを言わせてもらうと、阿部謹也さんは、私が10代の終わり頃から20代にかけて一番熱心に読み、その後も折々に接してきた数少ない著者の一人であった。

たぶん、日本社会に対する「?」という違和感の持ち方が共通していたのだと思う。社会を知れば知るほどその感が深まり、日本と西欧の違いをほとんど一生かけて探究する羽目になっている点も(思えば‥)まったく同じだ。

なので、今ここで阿部謹也さんと対話をしながら、阿部説と異なる私自身の解釈を提示できることが嬉しい。もうご本人に読んではもらえないけど(故人なので)、この解釈を阿部謹也さんの魂に捧げます。

(1)フーコー = 阿部 説

さて、その阿部謹也さんは、ドイツにおける心性の変化の時期を「12世紀」に特定し、この時期を「個人の誕生」の時期と位置付けている。

そして、その「個人」の原点を、キリスト教における「罪の告白」(告解)の義務に求めているのである。

信者が司祭に自ら犯した罪を告白する「罪の告白」は、神から許しを得るための秘蹟の一つとして古くからなされてきた行為だそうだが、12世紀になって広く関心を集め、1215年の第4回ラテラノ公会議(ちなみにユダヤ人に印をつけることを定めたのと同じもの)で、年に一度の告白が全信者の義務とされるに至った。

 いつから「秘蹟」と言われているのかは知りません

阿部謹也さんは、フーコーを引用して、次のように書いている。

この問題の重要性をM・フーコーは次のように説明している。

「個人としての人間は長いこと他の人間達に基準を求め、また他者との絆を顕示することで(家族、忠誠、庇護などの関係がそれだが)自己の存在を確認してきた。ところが、彼が自分自体について語りうるかあるいは語ることを余儀なくされている真実の言説によって、他人が彼を認証することになった。真実の告白は、権力による個人の形成という社会的手続きの核心に登場してきたのである」(『知への意志』渡辺守章訳)

 ここにヨーロッパにおける個人のあり方の原点があり、この原点からヨーロッパにおける近代的個人が形成されてゆくのである。ここに日本とヨーロッパの個人のあり方の根本的な違いがある。

阿部・48頁

なるほど。

「罪の告白」の義務化によって、人々は、自分一人で司祭に向き合い、自分自身の罪について語ることを余儀なくされる。それまでは「○○の息子」「○○の従者」で済んでいたものが、他者、それも神の代理人である司祭に、自分が語る言葉の中身によって、自分という人間が認証される。

これが、フーコーによれば「権力による個人の形成」、阿部によれば「ヨーロッパにおける個人のあり方」の核心であり原点であるというのだが、果たしてそうか。

私の解釈は違う。

そもそも、12世紀になって「罪の告白」が関心を集め、義務化にまで至ったのはなぜだろう。

答えは明らかだと思う。直系家族がそれを求めたのだ。

(2)「直系家族の誕生」説

○教会刷新運動と直系家族

「罪の告白」の義務化は、(前回触れた教会刷新運動(11世紀-)の流れと関係があると思われる。

運動の中心であったクリュニー修道院やシトー派修道会があるブルゴーニュは、ドイツ語では「ブルグンド」。つまり、かつてのブルグンド王国であり、1032年以降、13世紀頃までは神聖ローマ帝国の支配下にあった場所である。 

https://sekaishi-gendaishi.com/archives/722

シトー派修道会はまた「ドイツの東方植民とも結びつき、大開墾時代をもたらした」ことでも知られている(*当時修道院は文化の中心で、農業技術改良の主要な舞台でもあった)。

すなわち、純粋な信仰の回復を目指す教会刷新運動は、人口増加、東方植民、十字軍、ユダヤ人迫害といった現象群と同じ土壌の上で起こったものであり、直系家族の生成と連動する運動であったことが強く推認されるのである。

○苦悩する直系家族ー十字架に架けられたキリスト

キリスト教がその教えの中心に「罪」の概念を据えたのは、「ルールなし」の原初的核家族の人々に「権威」を教えるのに有効だったからだと思われる。

自分たちの思う通りに行動するのが当然であった彼らは、全人類の罪を背負って十字架にかけられたキリストを見て、自分たちよりも「偉い」ものの存在、従うべき「権威」の存在を知る。

まっすぐに手を伸ばし、威厳のある姿で描かれたキリスト像を(↓)見て「何と立派な‥‥」と思う彼らは、キリストとその向こうにいる神に素朴に敬意を抱いたに違いない。

メッスの典礼書(870年頃) https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/btv1b53019391x/f22.image

しかし、「全人類の罪を背負って十字架に架けられたキリスト」などという脅迫的な存在が、直系家族の前に現れたらどうなるか。

直系家族システムに立脚する人々は「権威に従う」という態度を基本姿勢として身につけている。彼らは本来「権威」の存在を教わる必要のない人々なのだ。

12世紀、直系家族が浸透したドイツで、彼らは、自分たちの罪を償うために十字架に架けられたキリストを再発見する。

その背後に強大な一神教の神の存在を見て、彼らは悩むのだ。

「どうすれば正しく生きられるのか」
「どうすれば神に従ったことになるのか」

彼らが狂おしく希求した「正解」、それが「罪の告白」の義務化ではなかったか。

これも阿部謹也さんが指摘していることだが、この頃からキリストの姿は変化を見せる。

時代はだいぶ後だが、阿部謹也さんが「苦悩のイエスのイメージ」の「頂点」とするグリューネヴァルトの十字架像
https://www.researchgate.net/figure/Matthias-Gruenewald-The-Crucifixion-from-the-Isenheim-Altarpiece-1512-15-oil-on-panel_fig3_347976069

苦悩に顔を歪めるイエス。

これは、強大な一神教の神の権威に押し潰されそうになりながら、正しい行いを求めて苦悩する直系家族の内面の現れなのだ。

というのが私の仮説である。
いかがでしょうか。

・ ・ ・

たしかに「罪の告白」の義務というのは非常に過酷なものだ。とくに「権威に従わなければならない」と考える生真面目で自責的な人々にとっては。

阿部謹也さんは、おそらく、直系家族のメンタリティを共有するからこそ、「個人の内面を他人の前で語る」という行為の厳しさが「個人」を誕生させたと考え、そこに「日本とヨーロッパの個人の在り方の根本的な違い」を見た。

しかし、順序はおそらく逆であり、さらに、このとき誕生したのは「個人」ではない。原初的核家族仕様の神を持っていた地域に、権威主義の直系家族が誕生した。そのことによって「告白」の義務化などという、自虐的な事態が現出したのである。

地殻変動の開始ー直系家族率50%仮説

日本の場合、13世紀頃から直系家族が生成を始め、14-15世紀に「動乱」(南北朝の動乱、応仁の乱)の時期を迎えた。

ドイツの場合も、11-13世紀頃から直系家族の浸透が始まるが、宗教改革から三十年戦争に至る「動乱」期は16-17世紀に起こる。

とくにドイツについて私が手に入れられる情報が少ないので、あまり立ち入った検討をすることはできないのだが、ドイツの場合、14世紀にペストの大流行で人口がかなり減少しているので、これが地殻変動期の遅れにつながったことは考えられる。

もう一つ、考えられる仮説は、直系家族化の進行が遅かったということだろう(人口とも関連する)。

トッドは、日本で最近翻訳が出た『我々はどこから来て、今どこにいるのか?』の中で、家族システムの浸透過程を捉えるために「直系家族率」の考え方を導入することを提案している。

もしデータ上可能ならば、われわれは直系家族をほかのさまざまな量的連続変数ー識字化、出生率、プロテスタントの比率、宗教実践、キリスト教民主党への、社会民主党への、はたまた国家社会主義党への投票などーと同じように扱うべきなのだ。つまり、個々の国と、その国を構成する各地域に、年代ごとの直系家族率を付与すべきなのである。

『我々はどこからきて、今どこにいるのか?』上 247-8頁

ここで、トッドは「試しに、厳密には正当化できない数値を想定してみよう」と言って、ドイツについて数字を挙げている。

もちろん「試し」であって「厳密には正当化できない」ものだが、ヨーロッパについて研究し尽くしてきたトッドの「試し」であるから、参考にするくらいは許されよう。

それによると、ドイツの直系家族率は「1500年頃に‥40%、1800年頃には60%‥1870年頃には80%」である。

トッドはこの数値について、例えば「直系家族が40%ないし50%であれば、社会はダイナミックに機能するが、それが75%に達したり、それ以上になったりすると硬直する、というようなことが言える」のではないか、としているのだが、私はちょっと別のことを考える。

ヨーロッパや日本のように、その土地に根ざした家族システムが生まれる前に、借り物の権威によって建国した国の場合、「「地物」の家族システムが50%に達する頃に、システム改変のための動乱が起きる」、というようなことが言えるのではないか。

ちょうど、近代化革命に関する「ストーンの法則」と同様に、中世の動乱に関する法則が立てられるかもしれない、などと夢見るのである。

・ ・ ・

ともかく、ドイツでは、「これがシステム改変のための動乱だな」と私が思うものは、16世紀に始まる。そしてドイツの場合、それは宗教改革、三十年戦争という形を取るのである。

今日のまとめ

  • 人口増加、植民の活発化、十字軍はいずれも直系家族浸透の指標である。
  • キリスト教の権威を持つ人々が直系家族化したことで、ドイツ的メンタリティが生まれたと考えられる。
  • ユダヤ人迫害現象の開始およびその激しさは「直系家族+キリスト教=ドイツ的メンタリティ」仮説の例証かもしれない。
  • 「罪の告白」義務がドイツ的メンタリティを生んだという順番ではなく、直系家族化したキリスト教徒(=ドイツ的メンタリティ)が「罪の告白」の義務化を求めたと考えるのが合理的である。
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社会のしくみ

ドイツ(1)
-日本とドイツ-

目次

はじめに

トッドの人類学理論を学び、紹介・展開していく中で、いつも引っ掛かりを感じていたのがドイツのことだった。ドイツは直系家族だ。地域によって多少のバリエーションはあるにせよ国土全体を直系家族が占めている。日本と同じである。

ドイツと日本が同じシステムであることは、他のヨーロッパ諸国との比較ではそれなりに納得できる。地道で真面目な感じ、家族的価値観の強さ、遵法意識の強さとか。

しかし、両者がそっくりかと言われると、首を傾げてしまう。私は法学が専門だった関係でドイツとは比較的接点が多かったが、日本とドイツの間に、日本と韓国以上の違いがあることは否定できないと思う。

秩序志向であるという一致した傾向の中でも、ドイツの体系的でひたすら固く真面目なあの感じは何だ。分厚いコンメンタール(法律の注釈書です)、荘厳な音楽、カントにヘーゲルにマルクス‥‥

どれをとっても、とても生身の人間の仕事とは思えない体系性と壮大さが感じられるではないか。くらべると日本はどこか散漫でいい加減で、「本当に同じ家族システムなのか?」と言いたくなるほどの異質感がある。

それには人類学的な理由があるはずだが・・と思いつつ、ドイツの話にはあまり手を出さないようにしていたが、国家と「権威」の関係、ヨーロッパにおいてキリスト教が果たした役割を探究する過程で、ようやく「あっ!」という瞬間が訪れ、一つの仮説が誕生したので、ご紹介したい。

トッドによる「日本とドイツ」

最初に、トッドが日本とドイツの違いをどう見ているかを紹介しておこう。私の知る限り、彼は日本とドイツの違いをそれほど重く見てはいない。

日本社会とドイツ社会は、元来の家族構造も似ており、経済面でも非常に類似しています。産業力が逞しく、貿易収支が黒字だということですね。差異もあります。

日本の文化が他人を傷つけないようにする、遠慮するという願望に取り憑かれているのに対し、ドイツ文化はむき出しの率直さを価値づけます。

エマニュエル・トッド『「ドイツ帝国」が世界を破滅させる』(文春新書、2015年)157頁 (太字は筆者)(以下「ドイツ帝国」) 

太字の部分は基本的に感情表現に関する事柄であり、内婚と外婚の相違に対応させて日本と韓国の相違を説明した私の分析の範囲内である。

しかし、トッドも、ドイツが歴史上時折見せる激しさやパワーに特別なものを感じてはいるのだ。

以下の引用をお読みいただきたい。

人類は皆同じと決めてかかる態度は、われわれの不安を鎮めてくれるかもしれないが、ドイツの過去の、現在の、そして未来の歴史的発展についての理解を禁じてしまう。ドイツも他の国同様の一国にすぎないと独断的に宣言するのは、人類全体の識字化や、1550年から1650年にかけてのメンタリティの大変容において、ドイツが演じた決定的な役割を見ようとしないことである。1880年から1930年にかけて発揮された、経済と科学におけるドイツの伸張のパワーを忘れることである。二つの世界大戦の戦時中にドイツが示した軍事的な有能さーほとんど超人的な有能さーを見ようとしないことである。‥‥1943年~44年頃、イギリスとソ連と米国の連結したパワーに対する抵抗において示した新たなステージの超人的有能さに到っては、ひとつの社会的・精神的構造が生み出した病理と認定するに充分であろう。‥‥ドイツは武力によって鎮圧され、1945年に分割された。するとわれわれは、あのネイションとその文化の凄まじいまでのパワーを忘れようとした。そして今、そのツケを払わされる時が来ている。‥‥

『我々はどこから来て、今どこにいるのか?下』(文藝春秋、2022年)159-160頁
(太字は筆者)

と、ドイツについてここまで言っておきながら、トッドは、日本との相違という点については、次の程度でお茶を濁してしまうのである。

考えてみれば、日本もまた、歴史上のパフォーマンスにおいて並外れていたし、今日なお並外れている国である。非ヨーロッパ諸国のうちで先頭を切って、日本は19世紀に経済的に離陸し、今なお世界の最先進国の一つにとどまっている。特許取得数は、先述のように、世界全体の三分の一にも近い。‥‥しかも、この驚くべきネイションが擡頭したのは、地震に絶え間なく晒されている列島の上でなのだ。 

同上 160−161頁

おそらく、フランス人であるトッドには、ドイツと核家族地域の違いを説明できればそこそこ満足なのだと思う。それで、すべてを「直系家族のパワー」で片付けてしまうのだ。

しかし、「はじめに」で述べたように、日本とドイツはメンタリティにも違いがあるし、歴史的経験も大きく異なっている。

並外れたパフォーマンス? 日本は確かに識字化・人口増の時代には人並みに活躍し、暴れもしたが、その後は教育の頭打ち・人口減少という基層に従って順調に停滞している。

一方、ドイツは、本来なら停滞してもよさそうなそのときに、EUを主導し、トッドが「一人勝ち」(トッド・ドイツ帝国56-57頁)というほどの経済システムを構築したりしているのだ。

そういうわけで、日本人である私はこの違いに目を瞑ることができず、勝手に新たな仮説を立てたのである。

ドイツのメンタリティ:権威の過剰?

まずは、ドイツのメンタリティについて。単に直系家族であるというだけでは説明できない何かをドイツにもたらしているものは何なのか。

今となっては答えは簡単だ。
キリスト教である。

直系家族システムの権威+キリスト教の権威=ドイツのメンタリティ

この等式が私の仮説の全てである。

同じ直系家族でありながら、日本にはない体系性や生真面目さをドイツが持っているのは、ドイツが直系家族の権威に加えて、キリスト教の権威も合わせ持っているからなのだ。

キリスト教は一神教である。

一神教とはどのようなものであったか、思い出してみよう(参照:国家と宗教ー一神教と多神教)。

一神教は、もともと、家族システムが未発達で、メンタリティの中に「権威」を受け入れる素地を持たない原初的核家族の生み出した宗教である。

原初的核家族とは、関係性を律する規則を持たない「家族システム以前」の状態(あるいはそれに近い状態)を指し、彼らは内発的に国家を生み出すことはない。

それでも、近隣に都市国家やら帝国やらが林立してその勢力が迫ってくると、自身も国家を組織しなければアイデンティティを保つことができない状況に陥るであろう。しかし、彼らの家族システムは国家形成に必要な権威を欠いている。

窮地に陥った彼らは、天上にその権威を求める。

それが一神教の神である。

世俗の人々を導いてくれる強い神、全知全能で唯一絶対の神の姿を彼岸に描き、その支配を受け入れることで、世俗の権威に代替するのである。

国家と宗教ー一神教と多神教

一神教の神の権威は、原初的核家族をどうにかして国家にまとめるという目的のためにちょうどよい強度に作られている。

家族システムの中にすでに権威の軸を持っている人々が、それに加えて、さらに強大な一神教の権威を胸に抱いていたらどうなるか。

それがドイツの場合なのである。

日本史との共通点

これより、上記仮説の検証がてらドイツの歴史を概観していくが、もしお読みでない方は、「日本史概観」を先にお読みいただいた方が分かりがよいと思う。

なぜかというと、ドイツと日本は、同じく原初的核家族の時代に「舶来の」権威を借りて建国した国家として、そして同じく直系家族システムを育んだ国家として、よく似た構造の歴史を持っているからである。

①原初的核家族である間に「舶来の」権威によって建国

②直系家族が生成し、舶来の権威と地物の権威が綱引きを始める

③地殻変動期の内戦を経て「地物」直系家族の国家体制が確立する

④直系家族と「権威」の好相性ゆえに「舶来の権威」の方も保持され

ドイツと日本は、①-④のシークエンスを完全に共有している。

ドイツも日本も、遅くとも③の段階では、①で用いた「舶来の権威」は「なくても何とかなる」という状態になっているのだが、「権威」との好相性を誇る直系家族として(平等核家族のケースはこちら)、①で用いた権威を大切に持ち続けた点も同様である(④)。

両者の違いは、日本の「舶来」品が、中華帝国にインスパイアされて自己流で作った「天皇」であったのに対し、ドイツのそれが「キリスト教」であったという、その一点だけなのだ。

ドイツ史の激しさと複雑さ

しかし、パッと見たところ、ドイツ史と日本史は、だいぶ雰囲気が違う。ドイツ史はなんか複雑だし、激しいし‥‥

違いをもたらしているのは、「キリスト教」、というか、舶来の権威の性格である。

まず、「激しさ」は、「直系家族+キリスト教」のドイツのメンタリティの産物ということでよいだろう。

では複雑さをもたらすものは何か。二点にまとめよう。

(1)「舶来の権威」の主体は(皇帝+教会)の複合体

キリスト教は、単に権威ある宗教であったというだけでなく、ローマ帝国以来のガッチリした教会組織を持っていたので、建国以来、ドイツはその組織力の方も借り受けて、行政組織として活用した。

ドイツにおける「舶来の権威」の主体は、実質的には、「皇帝+教会」の複合体であり、そのせいで、綱引きの構図がやや複雑になるのである

日本では「天皇 VS 武士」であったものが、
ドイツでは「(皇帝+教会) VS 諸侯」となる。

したがって、直系家族のドイツは、自らの家族システムに即した国家を打ち立てるために、皇帝と教会の双方を打倒しなければならなかった。

その過程で皇帝と教会の間に勢力争いが起こることも構図の複雑化に一役買うが、それほどややこしくはないので、ここで押さえておこう。

皇帝と教会はその時々の都合で協力しあったり争ったりする。両者の協力関係は諸侯にとって脅威だが(宗教改革のときがそうだった)、いがみ合ってくれるとどちらかの勢力が落ちるので、諸侯にとってはありがたい。

ドイツ史で一番重要なのは、世界史でも習う「叙任権闘争」(詳しくは次回)で、これによって(譲歩した)皇帝側の権威が低下したことが、諸侯の優位に大きく貢献したのである。

(2)「皇帝」は「西方キリスト教世界の王」の称号だった

フランク(のちドイツ)の王がローマ教皇から授かった「皇帝」の称号は、ドイツの王というより、「西方キリスト教世界の王」としての称号であったので、皇帝がその権威を保つためには、西ヨーロッパ世界での支配権を保持している必要があった。

「ローマ皇帝」であった皇帝は、実際のところ、あまりドイツ国内にはいなくて、海外に遠征してばかりいるのである(ドイツ語を話せなかった人すらいる)。

頭に入れておいていただくとよいのは、ここでも諸侯勢力にとって「棚ぼた」的状況が発生するということである。皇帝は、領土を広げたり守ったりするのに忙しく、あまり国内にはいない。その間、国内では、留守番をしている諸侯たちの勢力が必然的に強まるのである。

・ ・ ・

こうした要素があるために、ドイツにおける「(皇帝+教会) VS 諸侯」の綱引きは、承久の乱のように両者が直接戦うという構図にはなかなかならず、概ね以下のような経過をたどる。

皇帝は、教会との争いや海外遠征によってその勢力をすり減らし、諸侯がじわじわと国内での勢力を拡大する。

「プレ近代化」状況で各階層の国民が(皇帝+教会)に対して反乱を起こし(宗教改革)、これを収める過程で諸侯の優位が確定する。

最終的に、宗教改革の終盤(およびその延長戦である三十年戦争)で両者の直接対決があり、勝利した諸侯が、直系家族システムに依拠した国家体制を確立するのである。

ドイツ国家史のシークエンス(予告編)

①ー④のシークエンスにこれらの要素を書き加えて、次回の予告編とさせていただこう。次回以降、だいたいこんな感じで話が進む、というだけなので「へー」と眺めていただければと思う。

①原初的核家族である間に「舶来の」権威(皇帝+教会)によって建国

②直系家族が生成し、舶来の権威(皇帝+教会)と地物の権威(諸侯)が綱引きを始める

②-1 皇帝は諸侯の勢力を抑えるために教会を保護する

②-2 力をつけた教会は皇帝と対立(叙任権闘争)。皇帝が権威を低下させ、相対的に諸侯の勢力が高まる

②-3 皇帝は海外に支配権を広げ「帝権の絶頂期」を迎えるが、国内では諸侯が勢力を固める

③地殻変動期の内戦(宗教改革・三十年戦争)を経て、「地物」直系家族の国家体制が確立する

③-1 識字率を高めた「地物」直系家族の国民が教会に反旗を翻す(宗教改革)

③-2 反乱を収めた諸侯が支配権を確立

③-3 「(皇帝+教会)VS 諸侯」の最終決戦となり、諸侯を中心とした領邦国家体制が確立する

④直系家族と「権威」の好相性ゆえに「舶来の権威」の方も保持される

④-1 皇帝の宗教的権威、教会の権威はともに失われるが、国民は宗教改革を通じて「自分たちの信仰」を練り上げる

④-2 領邦毎に選択された信仰(カトリック or ルター派 or カルヴァン派)が領邦君主の支配下で公式に生き残る

今日のまとめ

  • ドイツのメンタリティは、直系家族とキリスト教(一神教)が重なる権威の過剰によって生み出された。
  • 直系家族である日本とドイツは、①舶来の権威による建国、②舶来の権威と地物の権威の綱引き、③地物の権威の勝利、④舶来の権威を保持、というシークエンスを共有する。
  • ドイツ史の複雑さは、①当初の権力主体が「皇帝+教会」であったこと、②皇帝がドイツ王というより「西方キリスト教世界の王」であったことによる。
  • 「天皇 VS 武士」に相当する対立軸は「(皇帝+教会) VS 諸侯」
  • 直系家族の国家体制の確立のためには、皇帝と教会の両方から支配力を奪う必要があった。
カテゴリー
社会のしくみ

日本史概観(4・完)
-天皇の位置-

 

目次

はじめに

「日本史概観」最終回のテーマは「天皇」である。なぜか。
ご説明しよう。

前回も書いたように、戦国時代から後の日本の歴史は、ごく標準的な直系家族国家の歴史である。

まずは小国が並び立ち、覇権争いをする。

信長、秀吉を経て、最終的に勝利を収めた家康の徳川家が統一日本の覇権を確立する。

この間、騎馬民族が侵入してきて相互に影響を与え合うといった事情もなかったので、共同体家族への進化は起こらず、直系家族のまま近代化して現在に至る。

ただし、典型的な直系家族国家の日本には、一つ、非典型的なものが存在している。それこそが、何あろう、「天皇」なのだ。

直系家族がすっかり完成したのに、なぜ、どのような形で、「舶来の」権威である「天皇」が生き続けることになったのか。家族システムと国家の関係を探究しているこのシリーズとしては、最後にぜひとも解明しておきたい課題なのである。

まずはその準備として、前回からの積み残し、戦国時代に入る直前、応仁の乱を経て室町幕府が倒れたときに、同じ京都に存在していた天皇や貴族はどうなったのか、というところから話をはじめよう。

応仁の乱と「舶来の」権威

(1)室町幕府ー京都の武家政権

真面目に日本史の勉強をしたことがない人間(私だ)にとって、室町幕府はちょっと分かりにくい。

幕府なんだから武家の政権のはずだ。しかし、場所は京都だし、花の御所に住んでみたり、煌びやかな離宮を建ててみたり、貴族みたいな雰囲気も濃厚ではないか。

金閣寺(鹿苑寺) PennyによるPixabayからの画像

鎌倉幕府から戦国時代になって徳川幕府、というなら分かりやすいのだが、その間に室町幕府があるせいで、全体の流れが一気に掴みにくくなってしまうのだ。

しかし、今なら分かる。「ローマは一日にして成らず」というとおり、鎌倉幕府が武家政権を打ち立てたといっても、鎌倉が一夜にして京都になれるわけではない。

「京都の武家政権」室町幕府の存在は、人口や教育といった人的な成長のスピードと、蓄積が物をいう「場所」の成長スピードの違いがもたらしたものなのだ。

(2)室町幕府はなぜ京都に本拠を置いたのか?

室町幕府は鎌倉ではなく京都に本拠地を置いたのか。

それには、南北朝の動乱で敵対した後醍醐天皇の動きを封じる必要があったという当初の事情に加え、都市としての京都の力があったとされる。

‥‥〔幕府が京都に置かれた〕根本は、京都がいぜんとして政治・文化・宗教の中心であるばかりか、荘園領主が集住し、全国の富や人や情報が集まる経済・流通の中心都市で、幕府が真の意味で全国政権たらんとすれば、そこに政権を置かざるをえないという点にあった。

高橋正明『京都〈千年の都〉の歴史』(岩波新書、2014年)140頁

そう。繰り返しになるが、東国で武士が力をつけて政権を確保したとはいえ、鎌倉や関東がすぐに京都や畿内と同じ程度に発展できるというわけではない。

流通経済が発達し、農村中心の社会から都市間のネットワークが支える社会に移行しつつあったこの時期、武家政権が全国を統治するには、京都という歴史ある大都市に蓄積された各種資源を活用することが不可欠だったのだ。

(3)伝統的政治文化と一体化した室町幕府

鎌倉時代がそうであったように、室町時代もまた、直系家族の地物の権威がその基盤を強化し、朝廷の「舶来の」権威を凌駕していく(かなり一直線に近い)過程(↓下図)の一部であり、室町幕府が京都に政権を置いたからといってその点が揺らぐわけではない。

しかし、室町幕府が京都に拠点を置いたことで、幕府と朝廷という二つの権威の関係性には変化が生じた。

鎌倉時代、鎌倉の幕府と京都の朝廷は並び立ち、やがて前者が優位になったものの、朝廷は政治勢力として存在し続けた。

これに対し、京都の武家政権である室町幕府は、同地における天皇や貴族、寺社勢力の権力とその文化を吸収し、一体化していくのである。

少し具体的に見ていこう。

南北朝の動乱が収まった頃、すでに幕府の優位は明らかであり、天皇や貴族が統治に実質的に関与する世の中は終わっていた。

一方で、幕府は、朝廷や寺社に直接に影響力を行使し、その力を抑え込むために、それぞれに仕える公家衆や門徒を雇って使ったりもしている(高橋・147頁)。

つまり、京都の地で幕府が朝廷の上に立つということは、幕府の下で、天皇家や公家の政治文化と武家文化が融合し、一体となることでもあったのだ。 

室町幕府に貴族風のきらびやかな雰囲気が漂うのはそのためで、皇位簒奪疑惑もある足利義満は、公家から買い上げた「花の御所」に住み、のちに金閣寺となる絢爛豪華な建物を建てて別荘に用い、公家風の花押を用いた。京都に暮らすようになった有力武士たちもまた、貴族風の贅沢な暮らしを始め、財政を圧迫させたりしていたのである。

こっちは武家様の花押で
https://nanbokuchounikki.blog.fc2.com/blog-entry-1141.html
これが公家様の花押だそうです。https://twitter.com/toki_museum/status/1269498479216230400?lang=zh-Hant

室町幕府における貴族文化と武家文化の一体化の傾向は、北条氏の歴代得宗が官位に関心を示さず「とんでもなく低い地位に甘んじていた」のに対し、足利将軍が高い官位を求めたことにも見て取れる。

京都で権力を振るう以上、将軍は「官位の上でも他を圧する地位に立つ必要があった。」

この点で、足利氏は平氏と同じ地平に立つ。だからこそ、「清盛は従一位太政大臣に達したし、義満も従一位太政大臣に達した後に出家し、法皇と同等の礼遇を受け」たのである(以上につき、近藤成一『鎌倉幕府と朝廷』(岩波新書、2016年)253頁)。

(4)応仁の乱の効果ー「舶来の権威」の決定的凋落

応仁の乱による京都の荒廃そして室町幕府の崩壊は、幕府が京の地で伝統的権力と一体化していたことにより、幕府の滅亡以上の結果をもたらすことになった。

かつて京都で権力を振るった平清盛は、貴族の衣を纏って自爆することで、皇族・貴族政治の時代を終わらせ、武家が主役となる時代を導いた。

同様に、京都の町の荒廃と同時に起きた室町幕府の崩壊は、日本に残った皇族・貴族政治の「残像」をきれいさっぱり吹き飛ばし、正真正銘の武将の時代を現出させることになったのである。

〈図解〉日本史概観 

ここまで書いてきたことのまとめとして、日本の建国から徳川の覇権に至るまでの日本史の流れを、国家の軸である「権威」に着目して図解してみよう。

①日本の建国

家族システムは進化していなかったが(原初的核家族)、中国皇帝に並び立つ存在としての「天皇」の権威を軸に国家を形成した。 

②平安時代末期

天皇家・貴族の「舶来の権威」+原初的核家族という基本構造は変わらないが、地域で武士が力を付け始める。

③平氏政権

貴族と武士の中間的な存在である平氏が政権をとる。舶来の権威+原初的核家族という基本構造の中で、平氏が「舶来の権威」に成り代わり、天皇家を抱え込む形で権力を振るう。

そして、それゆえに、 平氏の滅亡は「舶来の権威」にも大きな打撃を与えることになった。 

④頼朝による鎌倉幕府

同じく貴族と武士の中間的な存在である源頼朝が鎌倉に幕府を開き、舶来の権威(京都・朝廷)と地物の権威(関東・武家)が並び立つ体制を作り出す。関東では直系家族の生成が近づく。

⑤北条氏による鎌倉幕府

北条氏の下で直系家族が成立。権威を安定させて勢力を強め、京都の朝廷に対する優位を確立する。

⑥京都の武家政権、室町幕府

足利尊氏は全国統治の必要から京都に幕府を開き、幕府の下で天皇・貴族文化と一体化。そのため、 室町幕府の崩壊は、天皇・貴族の権威の決定的凋落をもたらした。

なお、この間、京都は核家族が基本であった(と考えられる)一方、全国では着実に直系家族が拡大していく。

⑦徳川幕府の覇権 

もちろん濃淡はあるのだが、全国に直系家族が広がり、直系家族の権威の頂点に立つ徳川家の下で安定した国家体制が確立。

天皇の位置

(1)天皇の存在は「当然」ではない

室町幕府とともに天皇や貴族による政治の残像が吹っ飛び、戦国時代を経て、みごとな直系家族の国家体制が確立した、というのが(すぐ上の)図⑦である。

しかし、それで日本から「天皇」という権威が失われたかといえば、もちろんそんなことはない。

日本に天皇がいるのは、当たり前のことのように思えるかもしれない。だって建国のときにすでに天皇はいたのだし。しかし、家族システムの観点から見ると、全然、まったく当たり前ではないのである。

例えば、日本と同じく、原初的核家族の時代に「借り物」の権威を用いて建国を成し遂げたフランスの場合である。彼らはローマ帝国の遺産であるキリスト教の権威を借りたのだが、平等主義核家族の国家体制を確立するや、直ちに宗教を公領域から捨て去った。

日本の場合も、直系家族が成立した時点で、国家の軸としての「権威」は自前で持つようになったのだから、舶来品である天皇の権威を排除したって、おかしくはなかったのだ。

(2)直系家族と天皇の相性

それでも日本が「天皇」を持ち続けたのはなぜかというと、直系家族と天皇の権威とは相性がよかったからである。

建国から約1300年を経てフランスが確立した「地物」の国家体制の基礎にあったのは平等主義核家族で、この家族システムは宗教的権威とは決定的に相性がわるかった

「自由と平等」のフランス市民にとって、宗教は「権威と不平等」そのもの、彼らの価値観に真っ向から対立する不倶戴天の敵である。

彼らの意思が政治に反映されるようになった時点で、公共領域からの宗教の排除は必然であったのだ。

カトリックとライシテのフランスー建国の秘密(西欧編) https://www.satokotatsui.com/secret-founding-european-nations/

他方、直系家族(権威と不平等)の日本の民にとって、はるかな大陸の威光に照らされ、「万世一系」の物語のもと古式ゆかしい日本の伝統を体現する存在でもある天皇は、ごく自然な敬意の対象である。

共同体家族とは違い、直系家族は自ら「帝国」を統率するに足る強大な権威を生み出すことはできないのだが、よく似たものが予め存在しているとなれば、それを排除する理由はない。

そういうわけで、いってみれば、後から成立した家族システムとの「たまさかの相性」によって、日本は地物の権威が確立した後も、天皇という存在を戴き続けることになったのである。

(3)天皇の「政治的」機能

とはいえ、天皇が、共同体家族(例えば中国)の皇帝に相当する強大な権威を担う存在であったかといえば、それは違う。

日本は中国における皇帝の存在に感化されて「天皇」を戴くこととなったが、そのやり方は最初から自己流で、文物や人的交流を通じて「権威とはこんな感じかな?」と考えながらやってみた、当時核家族であった日本人による「大陸風」である。

その後、戦国時代に至る頃までには、天皇や貴族の界隈にも直系家族システムが伝播し定着していたと思われ、メンタリティにおいて本質的な相違はなくなっていたはずである。

しかし、その生い立ち(?)に由来する「別種の」権威としての立ち位置によって、「天皇」は、自ずと、直系家族システムに欠ける点を補うべく進化していったように思われる。

二つの実例を挙げたい。

①「天下統一」の夢

二つの動乱によるシステム改変を経て、直系家族国家に生まれ変わった日本は、大名の領国が並立し互いに勢力を争う戦国時代に突入した。

このとき各地に成立した独立性の高い「国」は、いずれも直系家族システムに立脚した小国であり、織田、豊臣、徳川のいずれも、共同体家族システムの「帝国」を発展させることはなかった。

この地点から、人類学の知見をもって、日本の「ありうべき将来」を展望してみると、このたくさんの領国たちが、ときには征服したりされたりして再編を繰り返しつつ、相互に独立した国家として長く存続し続ける、ということは十分に考えられる(ドイツがこれに近い状態だった)。「統一国家の形成には適しない」というのが、直系家族システムの特性なのだから。

しかし、実際には、信長は天下統一を目指して上洛し、その事業を引き継いだ秀吉は統一を成し遂げた。直系家族システムに依拠しながら、彼らはなぜ「統一」を目指すことができたのだろうか?

考えられる理由は一つしかないと私は思う。
「そこに京都があり、天皇がいたから」である。

歴史と伝統といってしまえばそれまでだが、日本に「天皇」があり、帝国に並び立つ国家のイメージを伝えていたからこそ、彼らは当然のように「統一」を目指した。

統一に際して、信長や秀吉が天皇の権威を利用したことはよく知られているが、それ以前に、彼らが「天下統一」を夢見ることができたのは、天皇の存在があったからこそなのである。

②非常用「権威」装置

他方、すでに統一された国家の中で、覇権を確立してしまった徳川幕府にとっては、天皇はどちらかといえば邪魔な存在だった。下手に尊んで政治に口出しをされても困るし、他の大名に利用されても困る。

そういうわけで、徳川政権は、最初こそ正統性の確保のために天皇の権威を利用したものの、その時期をすぎると天皇や貴族勢力の規制と監視に努め、天皇は、祭祀や儀式の再興に努め、(人によっては)学問や歌道に打ち込むだけの存在となっていった。

しかし、そのことによって、天皇の存在に(政治的に)意味がなくなったかといえば、そうではないと思われる。その何よりの証拠は、江戸末期、日本が「内憂外患」の危機におそわれたとき、各階層の人々の間から自然と天皇・朝廷の権威を求める動きが生じたことである(山川出版社『詳説日本史 改訂版』(2020年)242頁)。

この後、1868年から1945年までの77年間、天皇が果たした役割は、私の思うに、「非常用代替「権威」装置」としてのそれだ。

直系家族の安定した政治システムは、平時には、天皇のような大きな権威を必要としない。しかし、安定性が高いからこそ、時代の転換期に大きな困難を抱えるのも直系家族であり、「別種の」権威の存在は、このときに威力を発揮する。

19世紀後半から20世紀前半、日本が「移行期」を迎え、否応なしの政治的変革に導かれたとき、天皇は、若い新政権には望むべくもない「権威」を提供し、危機の日本を支えた。

この時期については、天皇が政治的権力を持ったから危機がもたらされたかのように言われることがある。しかし、順序はおそらく逆で、日本が非常事態にあったからこそ、天皇は、その「権威」を発動し、表舞台に立つことになったのである。

③〈図解〉天皇

普段は目立たないが確かに権威として存在している「天皇」。図解してみたのが下図である。

色は白ではなく透明だ。

直系家族日本の日の丸(⑦)には、つねに、天皇の権威が重ね合わさっている。

政治体制がどのような色合いのものに変わっても、政治的に無色の存在としてそこにあり、平時には目立たず国家の一体性を支え、危機に陥ったときにのみ、表に出てきて、政治的な権威として機能する。

何とありがたい存在であろうか、と私はしみじみと思ったが、いかがであろうか。

 

おわりに

日本はいま直系家族が生み出した二度目の長期安定政権のもとにある。

この政権は、第二次大戦後、アメリカと融和的な関係を切り結ぶことで安定を築いた政権なので、アメリカ中心の世界が変わるときが、政権交代のときとなると予想される。

その激動のとき、次の安定を見出すまでの一時期に、再び天皇が日本政治を支えるというようなことがあるのかもしれない。

そんなことを考えるようになるなんて自分でも驚きだが、「概観」を書き終えた今、それはかなり現実的な可能性であるように思える。

今日のまとめ

  • 京都の武家政権(室町幕府)の下で武家の文化と朝廷の文化が一体化したため、応仁の乱による幕府の崩壊+京都の荒廃は、同時に、天皇・貴族の決定的凋落をもたらした。
  • 直系家族の国家体制確立後も「天皇」が存在し続けたのは、直系家族と天皇の「権威」の相性がよかったからである。
  • 戦国時代以降、天皇の権威は、分裂しがちな直系家族の日本の統一を保つのに役立った。
  • 直系家族の安定政権の下では、天皇の権威は、政治的危機の際に発動される「非常用代替「権威」装置」として機能する。

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社会のしくみ

日本史概観(3)
-鎌倉幕府、二つの動乱、直系家族国家の誕生-

鎌倉幕府ー綱引きが始まった

(1)源頼朝ー朝廷と並び立つ武家政権の確立

平氏が朝廷を乗っ取って(最終的に)討たれたのに対し、東国に拠点を築くことで、天皇家と武家が並び立つ時代を現出させたのが源氏である。

源氏も天皇家の出身だから元々は畿内(西)の出だが、房総を舞台とした平忠常の乱(1028)の鎮圧に乗り出したのをきっかけに東国に進出したという。

以後、東国の武士団との主従関係を強め、着実に勢力を築いた源氏は、頼朝の下で平氏を討伐した後、弟義経を排斥(これをやらなければならなかったのはまだ長子相続の習慣が確立していなかったからだ)、上皇も黙らせて、武家政権としての鎌倉幕府を確立させる。

(2)北条氏ー直系家族の誕生

鎌倉幕府を本当に軌道に乗せたのは北条氏であるが、日本における直系家族誕生の瞬間に立ち会ったのも北条氏ではないかという気がする。

北条氏は現在でいえば総理大臣に当たりそうな「執権」の地位を世襲するが、やがて執権の地位は飾り物となり、権力は北条の家督を継ぐ嫡流の当主「得宗」に集中していく。天皇家の権力が家長としての上皇に集中したようなもので、父系の権威が強まったことの現れといえる。

*なお、得宗の地位は概ね長子に受け継がれているが、長子の死没以外に、側室の子を避けて次男の時宗が継いだ例がある。「側室の子は差別される」というと女性が低く扱われているような感じがするかもしれないが、そうではなく、この場合、(父親の家系ほどではないにせよ)母親の家系「も」重視されていることを示唆している。つまり、重要性において父親と母親(男性と女性)を区別しない双系性の名残りであり、どちらかというと、父系直系家族の未完成を示すものと考えられる。

北条はまた、泰時(坂口健太郎だ)の時代に御成敗式目(1232年)も作っている。

天正2年(1574年)写本
https://archives.pref.kanagawa.jp/www/contents/1551940097112/index.html

御成敗式目は律令の影響を受けない武家初の成文法典である。室町幕府には基本法典として継承され、江戸時代には武家の道理を教える子供向けの教科書として用いられたというから、武家版十七条憲法のような位置付けかもしれない(当初の条文はその3倍の51箇条である)。

メソポタミアにおいて(中国でも)直系家族の誕生は国家の誕生であり、文字と法律の誕生でもあった。北条における直系家族や武家法の成立を見ると、この時期こそ、日本における(大陸の影響を抜きにした)自律的な国家生成の時期だったのではないかと思われるのである。

(3)承久の乱ー「地物」の優位が確定

北条において直系家族の権威が生成中であったと考えると、この時期に、朝廷のトップであった後鳥羽上皇と北条義時がぶつかり、上皇側が挙兵するという事件が起きたのは「必然的だった」と言いたくなる。

1221年、今なら勝てると踏んだ後鳥羽上皇は義時追討の宣旨を出し、鎌倉に兵を差し向ける。しかし、期待に反して幕府への造反者は少なく、上皇側はあえなく敗北。幕府の圧勝に終わったのである。

もちろん、かりに朝廷と北条の対立が、深層の動きに操られた必然であったとしても、この段階で、北条率いる幕府軍の勝利が必然であったとまではいえないであろう。

しかし、ともかく、北条はこの戦いに勝ち、それによって、朝廷の権力を抑え、実質的な統治の範囲を西国にまで大きく広げることになった。統治という点で、朝廷に対する幕府の優位、すなわち「舶来」の権威に対する「地物」の権威の優位を確たるものとしたのである。

二つの動乱

(1)中世の動乱ーヨーロッパと日本

ヨーロッパの歴史と日本の歴史には、共通点、というか、共通の分かりにくさがある。それは、近世(初期近代)以降の分かりやすい発展の過程が始まる前に、何かよく訳のわからない激しい内戦の時期を経験しているということである。

英仏では百年戦争、薔薇戦争がある。フランスは宗教戦争を含めてもよいだろう。ドイツは宗教改革から三十年戦争まで。日本は南北朝の動乱と応仁の乱である。

これらはいったい何なのか。トッドの人類学を参照しながら歴史を見ると、つぎのような仮説が成り立つと思う。

ヨーロッパ日本はどちらも、家族システムの進化の前に、外部の権威を借りて建国している。

そのため、国家の内側が充実し(その基礎にはもちろん識字率の上昇がある)、自律的な家族システムの進化が起きると、新たなシステムに合わせた国家の作り替えが必要になる。

おそらくそのときに、内戦や動乱が起きるのである。

この時期に起きる動乱は、外国や国王といった分かりやすい敵がいないので、ディテールを追っても何が何だかよく分からないことが多いし、当事者の勝ち負けにも大きな意味はない。しかし、このとき、国家は、社会の地殻変動に合わせた大々的なシステム改変を行なっているのである。

(2)南北朝の動乱(1336-1392頃)

北条氏のもとで(多分)生まれた直系家族が、完成度を上げ、日本全土に拡大していく長い過程を開始した頃、南北朝の動乱は起きた。

端緒を作ったのは後醍醐天皇である。

この時期、政治の最高権力を握っていたのは北条であり、天皇ではなかった。しかし、政治に対して一貫して強いやる気を持っていた後醍醐は、鎌倉幕府の御家人であった足利尊氏の協力も得て北条の鎌倉幕府を滅し、政治的復権を狙う(1333年)。

後醍醐天皇は、幕府はもちろん、院も摂政・関白も置かずに自ら政治の舵取りをしようとするが(建武の新政)、うまくいかない。

そこで、足利尊氏は後醍醐を見限り、武家政権としての幕府再建を目指して武力で京都を制圧、光明天皇を立てて室町幕府を開始する(1336年)。

こうして、以後60年に長きに亘る南北朝の動乱が始まるのだが、この時期に、なぜこのような動乱が起こったのであろうか。 

https://ja.wikipedia.org/wiki/後醍醐天皇#/media/ファイル:Emperor_Godaigo.jpg

①後醍醐天皇 VS 直系家族システム

動乱が始まった時点で、後醍醐の南軍と尊氏の北軍の間には、二つの対立軸がある。

 (1) 武家政権 VS 天皇親政(地物の権威 VS 舶来の権威) 
 (2) 天皇家の家督争い(兄弟間の相続争い)

後醍醐天皇は、天皇政治の最盛期とされる醍醐天皇(897-930)・村上天皇(946-967)の親政を理想としていたという。後醍醐は、武家政権を倒し、自らの力で理想の政治を追及したかった。

自分の実力を試したいという後醍醐天皇のあり方には、実力の時代に差し掛かっていた時代の空気が影響しているようにも感じられるが、天皇がそれをやっても「下克上」にはならない。

後醍醐はもしかすると不本意かもしれないが、客観的に見れば、それは新興の「地物の権威」から旧来の「舶来の権威」が権力を奪い返すため戦いである(1)。

さらに、足利尊氏が光明天皇を立てた背景には、天皇家における相続争い(持明院統(北朝・後深草(兄)系統)VS 大覚寺統(南朝・弟(亀山)系統)があった。

光明天皇は北朝であり、後醍醐天皇は南朝(弟系統)である。争いは、天皇家において長子相続が未確立であったから起きたことだが、争いが激化したのは「長子相続」が確立する可能性が見えていたからだということもできるだろう(2)。

要するに、後醍醐天皇は、武家政権と争い、兄系統である光明天皇と争うことによって、日本の土地の上に生成しつつある直系家族システムと争っていた、ということができるのである。

②兄弟間の緊張は全国でーー拡大の要因

後醍醐天皇(南朝)VS 足利尊氏(北朝)の対立から始まった動乱は、やがて、南朝、北朝、足利直義(尊氏の弟)派の三者が離合集散を繰り返す長くややこしい争いに展開する。

なぜそんなことになったのか。

山川教科書にはこうある。

このように動乱が長引いて全国化した背景には、すでに鎌倉時代後期頃から始まっていた惣領制の解体があった。この頃、武家社会では本家と分家が独立し、それぞれの家の中では嫡子が全部の所領を相続して、庶子は嫡子に従属する単独相続が一般的になった。こうした変化は各地で武士団の内部に分裂と対立を引きおこし、一方が北朝に付けば反対派は南朝につくという形で、動乱を拡大させることになった。

惣領制とは何か、という話からいこう。

惣領制とは、幕府と御家人の関係が「惣領」を責任者とする血縁集団を単位として構築される仕組みのことである。

それぞれの血縁集団には「惣領」(「家督」ともいう)がいて、軍役や祭祀(葬儀とか)の責任を担う。しかし、この制度の前提はなお分割相続であり、惣領が所領のすべてを相続するということはない。惣領は「本家」として所領の多くを相続するけれども、それ以外の子供たち(庶子)も土地を持ち、「分家」として自立できたのである。

惣領制の解体は、人口が増え、開墾が進んだ結果土地が不足し、所領のすべてを惣領一人に一括して相続させなければならなくなったこと(単独相続)に起因する。制度の前提であった分割相続ができなくなったのである。

惣領制の下でも、惣領と庶子は平等ではなかったが、庶子は庶子で土地をもって自立することができた。しかし、これが崩れ、単独相続となると、兄弟のうち、家督を継ぐ者とそれ以外の者の格差が異常に大きくなる。

もしこの状態で惣領制を続けるとなると、惣領が家の主人であるのに対し、他の兄弟は全員使用人のような位置付けにならざるを得ないだろう。

そういうわけで、兄弟の間には激しい緊張が走り、惣領制は解体を始めた。しかもそれは、一軒や二軒ではなく、全国の武士(御家人)の家で起こっていたのだ。

後醍醐と尊氏の戦いは、ガスが充満する国土に火花を散らし、全国に終わらない動乱を広げることになったのだと思われる。

(3)応仁の乱へー騒ぎは続く15世紀も

14-15世紀は、直系家族拡大の第一波であったが、人口という面で見ると、日本における人口成長の第三の波が始まった時期とされる(鬼頭宏『人口から読む日本の歴史』(講談社学術文庫、2000年)77頁)。

直系家族への進化を生む典型的な状況は「土地の不足」であるから、直系家族の生成と人口成長の波が同時に来ても何の不思議もないのだが、頭に置いておきたいのは、人口が急成長している社会とは、大勢の若者で溢れる社会だということである。

南北朝の動乱が、家族システムの変化、若年人口の肥大、そして識字率の上昇という要素が同時期に重なったことで起きたものだとすれば、50年や100年での収束は見込めない。

そういうわけで、南北朝の動乱が収まった後に迎えた15世紀もまた、波乱と紛争の世紀となるのである。

①幕府内部のお家騒動 

まず、15世紀前半には、家内の緊張から来る争乱が室町幕府の内部を襲った。

1416年、幕府の関東の拠点である鎌倉府で、関東管領上杉禅秀が鎌倉公方足利持氏に反乱を起こす。詳細は省くが、背景にあったのは上杉一門の中の犬懸家と山内家の争いとされる(永原慶二『日本の歴史10 下克上の時代』(中公文庫、2005年)24頁)。

「世はすでに血縁による同族の絆が弱まり、諸家それぞれに武力をととのえ、互いに自立して力を争う時代になっていたのである。」(同上25頁)と説明されているから、基本的には、先ほどの惣領制の解体という状況に対応して生じた争いと見ることができるだろう。

1438年には、鎌倉公方足利持氏が幕府に背く行動を重ねて将軍足利義教と対立する(こちらの系図が見やすいです)。将軍義教は持氏を討伐したが(永享の乱)、1441年には、その義教が守護の赤松満祐に殺害されるという衝撃的な事件が起きる(嘉吉の変)。

騒動自体が将軍家の統率力の低下を表すものだが、立て続けに起こる事件で足利将軍の社会的権威は大いに低下することになった。

②土一揆の多発

同じ頃に土一揆が多発していたことも見逃せない。

農民たちは困窮した武士や都市の民とともに代官の免職や年貢の減免、債務の免除などを求めて蜂起した。背景には天候の異変による飢饉があったが、農民の中に自立的なアクターとなりうる層が育っていたことが大前提である。

14世紀には「国人」と呼ばれる在地の武士が団結し、自律的な地域権力を営んでいたことが知られる。農民もまた自ら惣・惣村という自治的な村を生み出していた。こうして主体性(≒識字能力)拡大の波は農民層にも及び、土一揆の15世紀を迎えたと考えられる。

数万人が京都を占拠した嘉吉の徳政一揆(1441年)で、ついに土一揆の要求を受け入れて徳政令を発布して以後、幕府は土一揆に応じて徳政令を乱発するようになる。

下克上のさきがけとなる民からの突き上げで、幕府の力はいっそう弱まった。

③応仁の乱(1467-1477)

こうした状況の下でいよいよ始まる応仁の乱。
これもきっかけは家督争いだった。

将軍の権力が弱体化したことも関係し、将軍家の周辺で家督争いが相次ぐ。畠山家、斯波家、そして将軍家本体。

これらの争いに、幕府内でその勢力を争っていた山名(西軍)と細川(東軍)が介入したことで、応仁の乱は始まった。

幕府内の二大勢力である山名と細川が争えば、幕政に関わっていた有力大名たちは必然的にこれに巻き込まれ、それぞれどちらかの陣営について戦わざるを得なくなる。そういうわけで、戦いは京都を中心に、日本の中央部分(≒ 東北、関東、九州以外)全体に広がり、中央を二分する争乱に発展したのである。

戦国時代の始まりー直系家族の日本へ

南北朝の乱、応仁の乱の二つの動乱を経て、システム改変を終えた日本は、どのような社会に生まれ変わったのだろうか(乱の詳細は全部省略します!)。

応仁の乱の後、日本は戦国時代に突入する。室町幕府の政治が崩壊し、群雄割拠の時代が始まるのである。

小規模な国家が濫立し互いに勢力を争うという状況は、まさしく直系家族システムのものであり、メソポタミア、中国では、直系家族の誕生=国家の誕生と同時に、類似の状況が訪れていた。

日本の場合、直系家族システムを素直に反映させたこの「戦国」状況を現出させるために、システムの大変革が必要であったのだが、具体的に、何がどう変わることで、「群雄割拠」が可能になったのかを見ていこう。

一般に指摘されるのは、以下の2点である。

(1)地域の独立

まず、室町幕府の崩壊によって、地域が中央の縛りから解放されたということがある。

鎌倉以後、力を付けた武士は大名として地域の支配に関わったが、その地位は幕府の守護職への任命に基づいていた。「守護大名」と呼ばれる彼らは、幕府の行政官だったのである。

応仁の乱を経て幕府による政治が崩壊すると、地域と中央を結びつけるものがなくなり、領国とか分国とか呼ばれた地方の行政区画が独立国家の様相を呈していく。これが、「群雄割拠」の一つの前提である。

(2)支配層の変化ー誰が戦国大名になったのか?

従来の社会秩序の中では低い地位にあった者が実力でのし上がり、「群雄」つまり戦国大名になっていく、というのがもう一つの変化であるが、この「下克上」には主に2つのルートがある(ようである)。

①辺境の守護大名の下克上(地域的な下克上)

第一は、辺境の守護大名による「下克上」である。

室町幕府の下で、有力だった守護大名はみな応仁の乱に巻き込まれてその勢力を大きく削がれたが、幕政に関わることの少なかった関東以北や九州の守護大名は、乱に参加せずに済んだので、力を温存することができたわけである。

のちに戦国大名として名を上げる何人かはこうした「辺境の」守護大名で、駿河の今川義元、薩摩の島津貴久、甲斐の武田信玄などがこれに当たる。

②守護代、国人の下克上(社会的地位の下克上)

では、守護大名が乱に参加した地域はどうなったかというと、彼らの留守中に領地を守り、地域版の乱を戦った守護代や国人が実権を握ることになり、そのうちの実力者が戦国大名にのし上がることになった。

有名な戦国大名のうち、上杉謙信、織田信長は守護代、長宗我部元親、徳川家康、伊達稙宗(政宗の曽祖父)、毛利元就は国人上がりである。

*以上につき、武光誠・大石学・小林英夫監修『地図・年表・図解で見る 日本の歴史(上)』(小学館 2012年)123頁)参照。この本はとてもおすすめです。

と、以上のようなわけで、応仁の乱は、幕府の縛りから地域を解放し、「下克上」を導くことで、群雄割拠の戦国時代を到来させたのである。・・

というのが教科書的な説明で、これはこれでこの通りなのだと思うが、「舶来の権威から地物の権威へ」の移行過程を追っているわれわれとしては、これだけではちょっと物足りない。

室町幕府が倒れたのはよいとして、同じ京都に存在していたはずの「舶来の」権威たち、つまり、天皇や貴族はいったいどうなったのだろうか。(次回に続きます)

今日のまとめ

  • 頼朝は関東に武家政権を打ち立て、天皇家(朝廷)と武家(幕府)が並び立つ時代を現出させた。
  • 直系家族の誕生に立ち会った北条氏の下で、朝廷(舶来)に対する幕府(地物)の優位が確立された。
  • 借り物の権威によって建国した国で独自の家族システムが生成するとシステム改変が必要となる。それが中世の動乱(西欧、日本)である。
  • 南北朝の動乱応仁の乱は、家族システムの進化、若年人口の肥大、識字率の上昇が重なる時期に起きた。
  • 小国が濫立する戦国時代は素直な直系家族システムの表れであり、日本が直系家族国家として生まれ変わったことを意味している。
  • 応仁の乱は、地域を中央から解き放ち、下克上の世を導くことで、群雄割拠の戦国時代を可能にした。
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社会のしくみ

国家の誕生

 

「国家の誕生」は突然に

人類にとって、「人間らしさ」の獲得(約7万年前)に次ぐ大事件は、国家の誕生(紀元前3300年頃)だと思われる。

「社会」はおそらく7万年前から存在していた。農業も紀元前12000年頃には始まっていたとされる。人々は、互いに協力して、狩猟や採集、農耕によって食糧を確保し、子供を育て、外敵から身を守り、老いた者の面倒をみていた。踊りを踊って親睦を深めたり、何か決める必要があるときには話し合いもしただろう。

しかしその何万年かの間に国家が生まれていた形跡はない。つまり、この世界にまだ王はなく、法も、軍隊も、官僚も、宗教も、歴史も存在しなかった。

「人間らしさ」の獲得と同様に、国家の誕生も、漸進的な過程とは違う。人類が少しずつ進歩して法、軍隊、官僚、宗教、歴史を育んだ、というのではなくて、紀元前3300年前後、人類史の時間的尺度からすれば「一瞬」と言って差し支えないある時期に、その全てが同時に生まれたのである。

いったい、何が起きたのだろうか。

国家を生んだのは仲間内の争い

きっかけとなったのは、一つの単純な事実。人口の集中である。

メソポタミアでは、気候の乾燥が河川沿いへの移住をもたらしたらしいが、ともかく、大勢の人が一定の領域内に定住するようになり、土地が不足したのだ。

土地の不足は土地をめぐる争いを生む。
誰の間で?

社会契約説だと、人々は万人の万人に対する闘争状態(ホッブズ)を回避するために自由を差し出す。万人と万人はどっちも、無色透明の一個の個人であることが想定されている。

しかし、土地をめぐる争いが国家の誕生につながったのは、その争いが「万人の万人に対する争い」というよりも、味方同士、もっといえば、身内同士の争いだったからなのである。

国家以前の社会

国家形成以前の7万年の間、人類がどんな社会で暮らしていたかは、大体見当がついている。

夫婦二人と子供の核家族が基本単位。この家族がいくつか集まって、ともに移動し、狩猟や採集や移動農耕を行う一つのグループを形成している(血縁があることが多い)。

出入りは自由、regroupあり、上下関係もない横のつながりだが、原則としてこのグループの範囲では結婚しない(「バンド(band)」とか「小村(hamlet)とかいうが、以下「バンド」で統一)。

その外側にはさらに一定の領域内に暮らす1000人くらいのコミュニティがある。これも横のつながりで、上下関係はない。親戚ではないが、地縁に基づく仲間という感じのつながりで、人々は通常この範囲の中で結婚相手を探すことになる。

彼らが帰属する社会はここまで。この外の人間たちは基本「よそ者」であり、潜在的な敵である。

*なお、国家形成以前の階層化が進んでいない社会でも、すべての人間が平等の個人として観念されるということは決してなく、集団単位で、仲間とそれ以外、味方と敵というくくりを持っていたという。Todd, Lineages of Modernity, pp75-77. 本文の記載もこの本の63頁以下を主に参照。

こういう社会で、法律とか国王とかが必要かといえば、必要ではないだろう。

バンドやコミュニティの絆はゆるいから、内部での深刻な争いは起きにくい。バンド内で揉めたら一方が出ていって、どこか他のバンドに入れてもらえばいい。コミュニティの中に居場所がないという事態はおそらく(ゆるいので)生じないし、どうしてものときは出ていけばいい。

外部の人間との争いは実力勝負だ。
敵を裁くのに法はいらない。
負けた方が滅び、または撤退するのみ。

プレ国家状況

人口集中による土地の不足は、こうした状況を大きく変えた。

同じコミュニティとりわけバンド内というもっとも近しい身内の間で、のっぴきならない争いが頻発するようになったのだ。

農耕社会における土地の不足。それは、親は土地を持っていても、その子供たちが新たに開墾する土地は残っていないということを意味する。

今までは、子供たちは成人したら家を出て、新たに開墾した土地で新たな世帯を営めばよかったのだが、それができなくなるのである。

一家は、親の土地を子供に伝えることを考えるようになる。最初はきょうだいに分け与えることができても、それを続ければ土地は狭小になる。農業効率の低下を避けるには、分割せずに継承させることが不可欠だ。

さあ、誰に継がせるか。

というところで、争いが起きる。それも、一軒や二軒の話ではない。地域一帯のすべての家で同様の争いが起き、バンド内の誰は誰の味方に、誰は誰の味方になったりして何かややこしいことになり、戦争だって起きかねない(というか起きる)。

国家とは、どうやら、こういうときに発生するものらしい。

家族システムの誕生

世界史の教科書には、メソポタミアで都市国家が成立した頃に、文字が生まれ、王、官僚、軍隊、宗教、法が生まれたことが書かれている。

*最古の法典として知られるウルナンム法典は紀元前2000年前後の編纂とされるが、「法典」はそれ以前に通用していた法を整理してまとめたものだから、法そのものはそれよりずっと古いと考えられる。

しかし、国王、官僚制度、軍隊、宗教、法制度、そのすべてを成り立たせるのに不可欠な「権威」は、どこから調達されたのだろうか。

都市国家は誕生するとすぐに都市国家同士で戦争を始めるものだが(これはシュメールでも中国でも日本でも同じ)、都市国家の成立そのものは軍事的征服の結果ではない。軍事力以外のいったい何が、最初の王の誕生を可能にしたのか。

世界史の教科書には書かれていないが、答えは分かっている。
家族の体系化である。

人口の集中により土地が不足すると、親の土地を誰か一人の子供に受け継ぐという仕組みが開発される。これによって生まれる世代間の絆が、システム形成の基礎になる。

最初はルールが曖昧で、親が死んだらまずは親の兄弟に譲り、兄弟が死ぬと子供の世代に、とかってやるんだけど(Z型継承という)、それをやっていると相続争いは止まらない(日本だと南北朝の動乱とか応仁の乱とかって完全にこれだと思う)。

よし、それなら長男に継がせると決めてしまおう。
これで長子相続制が完成だ。

長子相続制(=直系家族)の完成によって、親子をつなぐ縦の絆は、家系をつなぐ一本の線となり、親から子(長子)、子から孫(長子)へと連綿と受け継がれることになる。社会の中に、確固たる縦型の権威の軸が据えられるのである。

直系家族契約による構造化

ここまでくれば、国家はできたも同然だ。

「親の権威を認め、親の権威が長子に受け継がれることを認め、家の繁栄と永続のために結束する」という社会契約が結ばれたことで、ゆるやかな横のつながりでしかなかったバンド、コミュニティの人間関係は、一気に縦型に構造化される。

共通の祖先をいただくコミュニティ内の「家長」が王となり、兄弟の序列に擬えて家と家の関係性が定まり、官僚機構が形成される。

国家以前(家族システム以前)の世界では、争いの解決は実力によるしかないのだが、権威が生まれたことで、法に基づく解決が可能になる。前述の契約に基づき、権威者の裁定に従い、権威者の定めるルールに従うことが、人々の義務となる。

と、まあこんな感じで、最初の国家は生まれたと考えられる。

人類最初の国家を生んだ社会契約は万人の万人に対する闘争状態を回避するために自由を差し出すというような契約ではなく、最初の国家は激しい闘争を勝ち抜いた者が人民を征服することで生まれたのでもない。

農耕社会における土地の不足という非常に具体的な条件の下で、土地の細分化および土地をめぐる争いを回避し、家系の維持(≒人類の生存)を確実にするために、人々は「親の権威を認め、親の権威が長子に受け継がれることを認め、家の繁栄と永続に協力する」という契約を結んだ。

この契約によって地球上に初めて発生した「権威」。これこそが、王、官僚制度、軍隊組織、宗教制度、法制度のすべてを成り立たせ、国家の成立を可能にしたのである。

今日のまとめ

  • 自然状態において人類はグループに分かれ、仲間とそれ以外、味方と(潜在的)敵を区別している。
  • 農耕社会における土地の不足で仲間内での争いが避けられなくなったとき、家族システムの最初の進化が起こり、同時に国家が発生する。
  • 最初の社会契約は「親の権威に従い、親の権威が長子に受け継がれることを認め、家の繁栄と永続のために結束する」という直系家族契約だった。
  • 直系家族の親の権威が、国家の成立に不可欠な権威を提供した。
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行政の立ち位置

 

普通に頭がよさそうで、普通にいい人そうな人が、日本の総理大臣になるのはすごく久しぶりだ。それだけで私はとても嬉しい。

それ以上に政治家に多くを期待する習慣はないが、岸田氏にはほかにもずいぶん期待できるところがある。新自由主義的政策の転換もそうだし「政治主導」とか言わないところもいい。行政官に対して敬意を示し、協力を仰いでやっていく姿勢を示しているのは、日本における自民党の立ち位置をよく理解していることの表れだと思う。本当によかった。

書斎の窓の連載で「第4回 日本の近代ーー国家篇」を書いたとき、原稿段階では「行政の立ち位置」という項目を設けていた。字数の関係で削除せざるを得なかったので、この機会に、貼り付けておきます。

・・・

行政の立ち位置

行政が占めているのは「優秀な次男坊」の地位であると私は見ている。家督は継げないので、試験を受けて活躍する道を選んだ人たちである(システムの説明である)。

政治を弱点とする日本で、その代わりを務めてきたのは行政であり、この人たちのがんばりなしに、現在の日本はない。にもかかわらず、長男(この文脈では政治であろう)は優秀な彼らをやっかみ、親族一同(国民一同である)は「次男のくせに」と軽んじる。一言でいえば、私たちは彼らに甘えてきたのである。

新たに政治を目指そうという人たちには、行政の経験に学び、行政と信頼関係を築くことを第一に考えてほしいと思う。エリート行政官たちは、理想としてのリベラル・デモクラシーと日本の現実との間で悩みながらも社会を動かし続けてきたのであり、そこには、日本人にフィットしたやり方で民主的な意思決定を行うための知恵が受け継がれている。理想化するつもりはないが、新しく作られる政治に役立つ知恵と経験を持つ「先輩」は、日本には彼らしかいないのである。末期自民党政権が行政の自律性を軽んじ、居丈高にバカ殿の尻拭いをさせるような真似をしてきた後であればこそ、清新でしたたかな政治勢力が最大限の敬意をもって臨めば、彼らは応じてくれるのではないだろうか。

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「権威主義」を使いこなそう(2・政治編)

責任の所在が曖昧ーー政治主導より行政主導で

直系家族システムの権威主義が面白いのは、正しさは「決まっている」。しかし「何が正しいかは誰にもわからない」という点です。

人類学システムの中には、直系家族以外にも、権威主義的な親子関係を特徴とするものがあります。中国やロシアの外婚性共同体家族、中東や中央アジアに多い内婚性共同体家族です。直系家族では、結婚後も家に残るのは一人の子どもだけですが、共同体家族ではすべての子どもたちが妻子ごと一つ屋根の下にとどまります。家長である父親は、いくつもの家族を束ね、その頂点に君臨する。リーダーの権威はこのシステムが最大です。

このようなシステムでは「正しさ」の所在は明白です。中国やロシアでは、絶大な権力をもって君臨する父親が「正しさ」の源であり、現在の政治体制の中では共産党のトップ(ロシアではプーチン個人?)がそれに当たります。内婚性共同体家族では、システム全体を統率しているのは「慣習」である、という面があり、父親の権威はやや形式的ですが、慣習はイスラム法という形で明確になっています。指導者は、共産党の綱領、イスラム法の解釈を通じて「正しさ」を判断(決定)し、人々をこれに従わせるわけです。

直系家族では「親にも子にも「正しさ」をめぐって論争する自由はない」と先ほど書きました。

親の権威は、祖父から受け継ぎ、いずれ自動的に長男に移る、一時的なものにすぎない。現在は家長であるといっても、「何が正しいか」を、自分一人の権限で決める立場にはないのです。

それでも、この「縦型の」システムの下では、下位の者は上位の者に従うのが習いですから、上位の者は「何が正しいか」を示さなければなりません。権限もないしよくわからないけど、示さなければならないのです。

さあ、どうしましょう。あなただったらどうしますか?

そうそう、そうです。「周りを見回す」のです。

今、日本の「上の方」で、コロナ対策を決めている人たちも、多分同じだと思います。さりげなく周りを見回し、顔を見合わせ、「こんな感じかな?」「この辺りが無難じゃないか」という感じで、空気を作る。で、それに沿うような形で、それぞれ(まるで自分の意見のように)「人流」とか「ワクチン」とか言っているわけです。

だからもちろん、責任の所在は曖昧です。

でも、これは仕方ないと思います。

この社会で出世するということは、そのような行動様式を誰よりもよく身につけているということですから、その人たちに「責任あるリーダー」のふるまいを期待するのは現実的ではありません。一方、「我こそはリーダーである」という顔で登場してくる人たちは、大抵、こうした日本社会のシステムの意味もよく理解しておらず、他のシステムのリーダーのような資質を身につけているわけでもなく、ただ闇雲に「決断」すればいいと思っているだけですから、そんな人たちに権力を振るわせるのは危なっかしいことこの上ない。

ロックダウンのような強い措置を実施する習慣がないのは、この社会には、そのような措置を責任を持って判断できるリーダーシップが存在しないからです。「歴史的な知恵」といってもいい。私はそれでいいと思います。

強いリーダーシップに期待すべきでないならどうしたらいいか、ですが、日本の人たちが一番力を発揮するのは「組織(≒家)のためにみんなで頑張る」ときですから、基本的には、統治の責任をいろいろな組織が分け持つというのが一番うまくいくのではないでしょうか。「政治主導」よりは「行政主導」で、政治は調整役・監査役に徹する。民間の組織に預けられるものは預ける(「官」の領域にあるものを民間に受け持たせるということです。新自由主義的なことを言っているのではありません)。ワクチン接種だって、職域接種を始めたら急激に進んだではないですか。

いろいろな組織が分け持つというやり方は、もちろん、必ず「縦割りの弊害」を生みます。「弊害」を減らすために、政治が調整の努力をすることは必要ですが、そのために、行政の権限を政治に移譲するというのは、よいやり方ではない。というか、はっきりいえば「最悪」だと思います(この後に及んでまだ「行政改革」などと言っている政治家を決して信用してはいけません)。

それは、日本において、統治の経験がもっとも豊富で、実績があり、効率的に機能しうることが歴史的に見て明らかな集団から権限を奪い、「選挙によって選ばれた政治的リーダー」などという、日本ではかつて一度も有効に機能したことがないものにそれを与える、ということにほかならないわけですから。

統治を担う本体がなくなってしまう、その有効性が損なわれてしまうということに比べたら、「縦割りの弊害」なんて些細なことではないでしょうか。「縦割りの弊害」をなくすための「政治主導」などというのは、正しく「throw the baby out with the bathwater (お風呂の水と一緒に赤ちゃんを流してしまう)」だと私は思います。

「縦割りの弊害」は、別に、行政官たちが無能だから(あるいは「悪いやつだから」)起きているわけではありません。人類学的に定められた宿痾、というのはやや大げさで、単なる「くせ」なのです。そのことを自覚し、気づいたら「あ、またやっちゃった」「またやってるよ」と、みんなで笑い合って修正する、ということをしていけば、それでよいのではないでしょうか。

過ちを認められないーー「カイゼン」しよう!

日本は第二次世界大戦に負け、大変深い心の傷を負いました。戦争に負けたことがない国というのは滅多にありませんが、これほど痛手を負った国民も少ないのではないか、と私は見ています。

権威主義とは、国家(≒親)が正しいことを前提とするシステムです。そうでなければ権威は成り立ちません。だから「誤り」や「失敗」はあってはならない。ただ、ここまでは、共同体家族の場合も同じです。

直系家族の痛手が共同体家族よりも大きいのは、おそらく、直系家族の権威は先祖代々から受け継がれた「万世一系」のものであり、代えが効かないからです。

中国やロシアのシステムは、リーダーが絶大な権力を持ちますが、その権力は自動的に誰かに継承されるものではありません。死没などによりリーダーがいなくなると組織は途端にバラバラになり、権力争いが始まる。非常に不安定な構造です(だからリーダーたちは可能な限り長く権力者であり続けようとするのです)。しかし、だからこそ、「敗戦」というような国家的危機を迎えた時は、体制を変えてしまうことができます。負けたのは国そのものではなく、前の政権だ、ということにして、片付けてしまえるのです。

直系家族ではそうはいきません。この点、ドイツ(直系家族です)は「ナチスドイツ」に責任を押し付けることで何とか乗り切りましたが、日本はそれはできなかった。天皇家は直系家族システムの頂点、日本社会の永続性の象徴ですから、責任を押し付けて切り捨てるなどということは考えられませんし、東条や近衛では役不足です。それが「国民総懺悔」、原爆の被害すら「過ちは繰り返しません」と言って自分たちの咎とする、そのような態度を生んだのだと思います。

ちょっと話が脱線したかもしれませんが、そういうわけで、このシステムの社会では、「リーダーの過ちを認める」ということは非常に難しい。リーダー自身にとってそうだというだけではありません。リーダーの背後に「権威」を認める全ての人々にとって、その過ちを指摘し糺すということは、不穏で、不快なことなのです。

これも「くせ」なので、分かったからには「気をつける」ということは必要です。アメリカ人やイギリス人の真似をして(彼らも「すぐに」は認めないことがありますが、時間が立てば、かなり深刻なことでも、割合フランクに認めているように見えます)、過去の過ちを認め、修正していくということを、あまり深刻にならずに、みんなで励まし合ってやっていくのはよいと思います。

一方で、違うやり方もあるかもしれません。もし、この社会が、過去の間違いを認識することもできず、路線変更もできない社会だとしたら、それは、非常に大きな問題です。でも、実際にはやってますよね。やってるんじゃないでしょうか。

例えば、トヨタなどの製造業で有名な「カイゼン」。これは、今のやり方が完全ではないということを大前提とすることで、日常的に問題点を修正していく、非常に優れた方法といえます。「過ちがない」などということはあり得ないのですから、現在の「不完全」を「失敗」として糾弾し、責任を問い、見せしめ的にリーダーを交代させる、なんてことをしなくたっていい。よりよいやり方が見つかったら、現場から随時「カイゼン」していけばいいのです。これは、政治でも同じことではないでしょうか。

責任を問うことよりも、現実がよくなることの方が大事です。それは、日本のような、責任の所在がはっきりしない社会において、とくに言えることだと思います。

このところ、気になるのは、政治家がリーダーを気取り、「この路線で行きます!」と強く宣言しすぎる傾向が見られることです。「無駄に強い宣言」と「過ちを認められないクセ」が組み合わさると、最初に決めた方向性の変更というのが、本当にできなくなってしまいますから。

日本に相応しい、ちゃんと機能するリーダーとはどういうものか。人々ときちんとコミュニケーションが取れて、全体の調整ができて、つねに「カイゼン」を促しながら、よりよい方向に道をつけていけるのはどういう人か。思い描いてみるときだと思います。

日本の偉大な政治家として、私の心に浮かぶのは、伊藤博文と、大平正芳の二人です。たまたま本を読んだからという話もありますが・・

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「権威主義」を使いこなそう (1)

目次

はじめに

みなさん、新型コロナウィルス対策ワクチンを打ちましたか? 私のことは秘密です。どっちにしてもいろいろめんどくさいので。

新型コロナウィルス対応をめぐって、日本の政治、専門家集団、マスコミ、職場の在り方・・要するに「日本社会」そのものについて、疑問や不満をもっておられる方は多いと思います。

ただ、ずっと日本社会のことを研究してきた立場からすると、これって「いつものこと」です。室町時代の途中からこんな感じになり始めて、ずっと続いているらしいのです。なので、多くの方が「なぜ日本はこうなのか」と思っている、その部分については、少なくとも向こうしばらくは、変わることはないと思います。

一個人としては、その「変わらない部分」については、この社会の「くせ」あるいは弱点として受け止めてしまった方が、心穏やかでいられると思います。

ただ、社会全体としてどうするべきかは、問題です。疑問や不満の対象となるのは、主に、欧米と違っていて、(その部分だけを見ると)欧米の方が優れていると感じられる部分なので、明治以来の日本はずっと、それを「変えよう」「直そう」としてきたと思います。今もそうでしょう。

「変えよう」といって変わるならいい。でも、変わらないとしたら、どうでしょう。「変えよう」「直そう」と言い続けることで、私たちは、自分たち自身に、「まだまだだめだ」「遅れてる」という劣等感を植えつけてきました。しかも、いくら言い続けても、実際には「変わらない」。ということは、その部分に起因する現実の問題は、一つも解決されないわけです。

「変えよう」という前向きな言葉も、こうなるとほとんど「呪い」です。こんな馬鹿げたことは、早くやめた方がいい。むしろ、「変わらない部分」については、「そういうもの」という理解を社会全体で共有し、問題を軽くするための具体的な対策を工夫する方が、ずっと建設的だと思います。背が低いなら台に乗ればいいし、目が悪いなら眼鏡をかければいい。背が低いことも目が悪いことも、恥じることではないのですから。

日本の「くせ」は、農村の家族から

新型コロナウィルス対応に関連して感じられるいろいろな問題点、「誰が決めているのかよくわからない」「対策の効果を検証しているように見えない」「同じやり方に拘泥している」「マスコミの報道が偏っている」「同調圧力が強い」といったことは、すべて、日本社会の権威主義的な性格から来ています。

「ああやっぱり。日本は権威主義的で、嫌な社会だよね!」と思った方がいるかもしれませんが、「権威主義的である」=「よくない」というのは単なる思い込みです。直ちに「嫌だ!」という反応をされた方は、「近代的な(=西欧流の)自由主義=正義」という刷り込みが強すぎる可能性があります。つい先ごろまで私もそうでしたので、気持ちは非常によく分かりますが、今はとりあえず、その考えはどっかの棚にしまって、続きをお読みください。

*エマニュエル・トッドの「人類学システム」*

以下でお伝えする私の考えは、エマニュエル・トッドという人の研究成果をもとにしています。彼は、近代化以降の各社会のイデオロギー体系(政治・経済・行動様式のすべてに関わる基本的な価値体系)は、それぞれの社会の近代化以前の家族システムをほぼそのままに反映していることを明らかにしました。まず、共産主義圏の地図が「外婚性共同体家族」というシステムの地図と一致することに気づき、そこから各地域のイデオロギーシステムと家族システムの重なり合いを検証したのです。結果は驚くべきものでした。

近代化以前の社会とは農村中心の社会で、家族のつながりが中心にある社会です。近代化によって、農業中心の社会は、商工業を中心とした社会に変化しますから、中心となる生活圏も農村から都市に移ります。かつては農村で親族と近接して住んでいた人々も多くは都市に移り住み、狭いアパートなんかで核家族を営むようになるわけです。このとき、一見すると、古い家族システムは崩壊したように見えます。しかし、トッドの研究によれば、家族を司っていたシステムは、近代国家の統合原理として生き続ける。近代化によって、システムが機能する場所は家族から国家に変わるけれども、社会全体の統合のシステムには変化がないのだというのです。

家族のシステムだと思われていたものは、実際には、人類の社会的統合の原理であった。ということから、このシステムのことを、トッドは「人類学システム」と呼ぶようになりました。

権威主義って何?

日本の人類学システムは、直系家族システムです。トッドは最初、この家族を「権威主義家族」と呼んでいましたが、「権威主義」だと「悪!」と決めつけてしまう人が出てくるので、より中立的な名称に変更したのでしょう。

人類学システムの定義において、トッドは「自由」と「権威」を対立概念として用いています。

何についての「自由」、何についての「権威」なのか?

トッドは、常識の延長線上にある自然な言葉遣いを好み、用語の定義を嫌います。そのため、自由や権威についても明確な説明はないのですが、私の理解では、ここで問題となっているのは「正しさ」です。

核家族システムでは、子どもは成長したら直ちに独立し、親子は別世帯となります。直系家族のように「子どもが家を継ぐ」ということはないわけです。大人になるまで面倒を見ることは親の責任ですが、「○○家の後継ぎに相応しい価値観を身に付けさせること」は不要です。このシステムでは、親子の関係は対等な友人の関係に近く、親子(とくに子ども)はそれぞれ価値判断において「自由」です。

一方、直系家族の場合、親は祖先から受け継いだ「家」を子どもの世代に伝えるという重い責任を負っています。親は子どもにきちんとしたしつけ、よい教育を与えようとします。そうすることで、「何が正しいか」「どうふるまうべきか」を子どもに教え込む。

では、親に「正しさ」を決める権限があるのか、というと、そうもいえません。このシステムでは、何が正しいかを決めているのは、親というよりは祖先であり、歴史であるからです。

子どもとの関係では親に決定権がありますが、親の背後により大きな権威が控えている。このシステムでは、親にも子にも、「正しさ」をめぐって論争する自由は与えられていないのです。

権威主義は何のため?

この文章では、権威主義システムに由来する問題点を中心に見ていくわけですが、その前に、このシステムには良い面もたくさんあることを確認しておきたいと思います。

しっかり子どもをしつけ、よい教育を与える。これは日本国民の全体的な民度の高さにつながっていますし、受け継がれた価値観に従うという態度は、安定した社会秩序の基盤です。伝統文化の継承、例えば日本には個性的な日本酒を醸す小さな酒蔵がたくさんありますが、これなどは明らかに、「細々と長く伝統を受け継ぐ」直系家族システムの産物です。フランスにも小さなワイナリーがたくさんあるけど、とお思いの方がいるかもしれませんが、フランスという国は、核家族の地域と直系家族の地域に分かれていて、有名なワインの産地はどこも直系家族なのです。

どういう事情で、このようなシステムが発達してきたのでしょうか?大きな要因は、土地が希少になり、耕作地を子孫に受け継ぐ必要が生じたこと、加えて、家族を中心とする社会的絆を安定させ、縦型の規律を整えることが、軍事力の強化にもつながったことにあると考えられています。

日本では縄文時代の終わり頃から農耕が始まったとされていますが、農耕が始まっても、人口が少なく、土地があり余っているうちは、親から子への継承のメカニズムはとくに必要ではありません。子どもは自活できるようになったらさっさと親の家を出て、他の土地を開拓すればいいわけですから。

しかし、やがて、人口が増え、開拓するべきよい土地がなくなるときがやって来ます。親が持っている土地が「守るべきもの」となる瞬間です。親の土地がよほどたくさんあるなら、分割して子どもに分け与えることもできますが、そうやって分けていくと、一人の持ち分はどんどん小さくなり、効率的な生産ができなくなります。それよりは、誰か一人をリーダーと決めて土地を継承させ、そのリーダーの下で、協力して農業を営んでいくことが合理的です。

では、そのリーダー、どうやって決めましょうか?

「子どもたちの中で一番優れた者」に受け継ぐのがよいかもしれませんが、それが「争いの元」であることはお分かりだと思います。成人した子どもたちのそれぞれに、それぞれの思惑を持った親世代が味方して戦い、殺し合いになったりしたら、元も子もありません1実際、直系家族システムが生成する直前、鎌倉時代の終わり頃には、相続争いがたくさん起きるようになっていたそうです。 近藤成一『鎌倉幕府と朝廷』(岩波新書、2016年)207–208頁参照

それを防ぐために「相続するのは長男」と決めてしまったわけです。直系家族システムにもバリエーションがあって、男女を問わずに長子に相続させるところや、末の娘に相続させるところなどもあるそうですが、日本で長男の相続が主流になったのは、システムが生成した当時の時代背景(武士の時代ですね)において、高い軍事力の保持が家族システムに期待される機能の一つであったためと考えられます。

直系家族システムの権威主義は、親族内部での争いを防ぎ、土地を安定的に子孫に受け継いでいくために生まれました。そうすることで、システムに属する人々は、安定的に食物を生産することができ、(統率力を高めて)外敵から身を守ることもできる。要するに、生き延びていく可能性を高めるものだったのです。

この仕組みは、今の時代に同じように必要とはいえません。なので、無理して、頑張って、維持することはないと思います。しかし、この社会は何百年にも渡ってこのやり方で生き延びてきたので、いくら変えたくても、一朝一夕には変わらない。その点は覚悟しなければなりません。

「ま、仕方ないな」と私は思うので、以下では、どうやって「問題点」に対処していくかを考えたいと思います。

  • 1
    実際、直系家族システムが生成する直前、鎌倉時代の終わり頃には、相続争いがたくさん起きるようになっていたそうです。 近藤成一『鎌倉幕府と朝廷』(岩波新書、2016年)207–208頁参照