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イエメンQ&A

ガザとイエメンー「フーシ派」は何と闘っているのかー」の内容を元にザックリ目に解説します。「本当か?」とお思いの方はぜひ同記事をご参照ください。

目次

Q イエメンのフーシ派はなぜハマスと連帯を掲げたり、紅海で船舶を拿捕したり、アメリカ・イギリスと戦ったりしているのですか?

フーシ派、というよりイエメンの人々は、ハマス、というよりパレスチナの人々に対し、同じ敵と戦う同志という意識を持っているからです。

イエメンは2014年からサウジアラビアと戦争状態にありました。2017年からはサウジ軍によって国境を全面的に封鎖され、「世界最悪の人道危機」と呼ばれる状況に陥りました。

イエメンに対するサウジアラビアの攻撃がアメリカの全面的な支援と支持を受けて行われた一方的な(正当性のない)攻撃であった点を含め、イエメンが置かれた状況は、2008年以来のガザの状況とよく似たものでした。

一方で、イエメンの場合、状況はわずかながら改善の方向に向かっていました。

ウクライナ戦争で忙しくなったバイデン政権がサウジへの軍事的支援を減少させたことで、サウジはイエメンとの和平を模索せざるを得なくなったからです。

2023年1月にはサウジとイエメンの直接交渉が始まり、年内には合意締結か、といわれるようになった頃、ガザ危機が始まったのです。

イエメンの人々は当事者です。ガザ危機が始まったとき、彼らは、これまで自分たちに向けられていた理不尽な力の矛先が、アメリカの差配によって、今度はガザに向けられたのだということをはっきり理解したと思います。

イエメン人とパレスチナ人は、同じアラブのムスリムです。どちらも、アメリカを初めとする「国際社会」の恣意的な行動によって、長い苦しみを味わってきました。その同胞に対して、同じ敵が、(彼らから見れば)邪悪な攻撃を仕掛けている。

となれば、若いイエメンの人々(年齢中央値19歳です)が、パレスチナとの連帯を掲げ、敵方(アメリカ、イギリス、イスラエル)の駆逐を誓うのは、ごく自然なことだと私は思います。

なお、日本ではまったく報道されませんが、「フーシ派」(西側に近いメディアが勝手にこう呼んでいるだけであり、正式名称は「アンサール・アッラー」です)の今回の行動は、イエメン国民から熱烈な支持を受けています。

アンサール・アッラー(フーシ派)の行動は、アメリカに代表される西側世界やイスラエルが行使する理不尽な力から、パレスチナ人の権利を守り、イエメンの自由と独立を守り抜くというイエメン国民の意思に支えられたものです。決して「反政府組織による暴挙」といった性格のものではありません。

民間人エリアへの無差別攻撃を含む戦闘行為、全面的な国境封鎖による物資の不足等により、多数の人々が死傷し、飢餓や感染症による生命の危険に晒され、劣悪な環境での暮らしを強いられている状況を指します。

国連開発計画(UNDP)の2021年12月の報告書によると、2015年から2021年12月末までの死者数は約37万7000人。死亡原因の約4割が戦闘関連、残りの約6割は飢餓や感染症によるものだそうです

国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)によると、2023年の時点で、国内避難民は約450万人、人口の約7割に当たる約2160万人が極度の貧困状態に置かれています。

このような事態は、2015年3月にサウジアラビアがイエメンへの攻撃を開始し、イエメンが戦場となったことによって発生しました(私は勝手に「第二次サウジ・イエメン戦争」と呼んでいます)。

なお、サウジによる国境封鎖は現在(2024年3月)も続いています。

Q 「世界最悪の人道危機」の原因は内戦だと思っていました。違うのですか?

いわゆる「国際社会」は「人道危機」の原因を内戦と言い張っていますが、事実は異なります。「内戦」と呼ばれているものの実態は、サウジアラビア VS イエメンの戦争です。

イエメンでは2014年に本物の民主化革命が始まり、2015年2月にアンサール・アッラー(フーシ派)が新政権の樹立を宣言しました(西側に近い国のメディアでは「クーデター」としか言われませんが、イエメン国民の大多数はこの政権を支持しています)。

サウジの攻撃はこの革命を阻止するためのものです。したがって、サウジ側から見れば干渉戦争、イエメンから見れば革命防衛戦争ということになるでしょう。

戦争に至る経緯を確認しましょう。

1️⃣アメリカ・サウジと蜜月にあり、外国資本頼みの経済運営を続けたサーレハ政権(任期1978-2012)の下、攘夷(反米・反イスラエル)を訴えるアンサール・アッラー(フーシ派)の運動が勃興

2️⃣アンサール・アッラー(フーシ派)を脅威に感じたサーレハは、彼らの拠点があるイエメン北部にサウジアラビア軍と合同で大規模軍事攻撃(イエメン焦土作戦・2009)を展開。国民の心は政府から離れ、アンサール・アッラーの支持拡大。

3️⃣イエメンに反米・反サウジ政権が誕生することを嫌った外国勢力は、アラブの春」(2012)を利用してサーレハに退任を迫り、従来通りの「売国」政策を引き継ぐ傀儡政権を樹立(ハーディ暫定政権)

4️⃣IMF/世界銀行経由の融資を使い果たした暫定政権は2014年1月に公務員の給与支払いを停止。追加融資を得るために緊縮策(イエメン国民の命綱である燃料補助金の削減)の条件を呑んで同7月にガソリン・軽油の大幅値上げ

5️⃣怒ったイエメン国民は暫定政権の退陣を求めて立ち上がる(2014年7月〜)革命の開始

6️⃣アンサール・アッラー(フーシ派)は2014年9月に首都サナアを掌握。暫定政府は辞意を表明し(2015年1月)、アンサール・アッラーが新政権樹立を宣言(2015年2月)

7️⃣2015年2月、暫定政府は辞意の撤回を宣言してサウジアラビアに逃亡。サウジの庇護下で亡命傀儡政府を樹立

8️⃣その直後、サウジはイエメンへの激しい空爆を開始(2015年3月)。第二次サウジ・イエメン戦争が始まり「世界最悪の人道危機」へ

西側に近い国のメディアが第二次サウジ・イエメン戦争を「内戦」と呼ぶのは、アメリカやサウジが代表する「国際社会」は、亡命傀儡政権こそが正統なイエメン政府であるという立場を崩していないからです。

しかし、傀儡のハーディ暫定政権は、もともと、イエメン国内には全く支持基盤を持たない「国際社会だけが支持するイエメン政府」でした。

そのやり口に怒ったイエメン国民が革命を起こして暫定政府を辞任させ、新たな政権を樹立した今、亡命したハーディ暫定政権を「正統イエメン政府」とするのは無理筋というほかありません。

そういうわけですので、この戦争は、決して、「正統なイエメン政府軍 VS 反政府軍」の内戦ではありません。「革命によって新政権を樹立したイエメン VS それが気に入らないサウジ(とアメリカ)」の戦争です。そして、この戦争におけるサウジ軍の攻撃こそが、「世界最悪の人道危機」を引き起こしたのです。

詳しくはこちらをご覧ください

Q フーシ派ってテロ組織ですよね。フーシ派が正統な新政権の担い手だなんて、ちょっと信じられないのですが・・

アンサール・アッラー(フーシ派)は、イエメン北部のイスラム教ザイド派地域から出た真面目な政治運動です。ザイド派を再興し、反米・反イスラエルに立つ新しいイエメンを作ろうとする運動で、暴力を厭わないところを含めて、「尊王攘夷」を謳って台頭した幕末の志士のようなものと考えればよいと思います。

彼らは、サーレハ政権(ハーディの前の大統領。親米・親サウジではあったが傀儡ではなかった)の時代から政府との武力衝突を繰り返していました。今の日本では、暴力で政権を取るなんてことは考えられないので、「そんな粗暴な勢力が正統な政府なんて・・」と思う気持ちはわかります。

しかし、初代内閣総理大臣を務め、昭和の千円札にまでなった伊藤博文だって、幕末には何人も人を斬り、英国公使館に火をつけたりしていたのです。

革命に暴力は付き物です。その上、アメリカ・サウジなどの大国が日常的に介入してくるのですから、相当高度な軍事力を駆使できなければ、革命はおろか国の独立すら維持できない。それが彼らの置かれた状況です。アンサール・アッラー(フーシ派)が高度に武装しているからといって、野蛮なテロ組織と見るのは的外れだと私は思います。

アンサール・アッラーのメンバー
長州奇兵隊(wiki)

新政権は、昨年の段階で全人口の70-80%の居住地域を支配下に収めたといわれていましたが、ガザ危機に対する新政権の決然とした行動は、国民からの幅広く熱烈な支持を集めているようです。イエメンには南部に自立を志向する分離派が存在しますので、彼らとの内戦が継続する可能性はありますが、新政権の基盤が根本的に揺らぐことはないように思えます。

なお、アンサール・アッラー(フーシ派)が「国際テロ組織」とされるのは、敵対しているアメリカが勝手に「国際テロ組織」に指定しているからであって、それ以上の意味はありません。 

Q サウジアラビアやアメリカはなぜそこまでしてイエメンの革命を阻止したいのですか?

民主化革命が波及してくると困るからです。

サウジアラビアや湾岸諸国は近代化(ここでは識字率上昇を指標とします)においてイエメンに先行していますが、本格的な民主化革命を経験していません。

イエメンでの革命が波及して彼らの政体(世襲による君主制)の打倒につながることを避けたいというのが、サウジや湾岸諸国がイエメンに介入したい根本的な理由です。

この点は、実はアメリカも同様です。アメリカは、西アジアの君主制国家と親密な関係を保つことで、石油などの天然資源開発やその利権の差配による利益を大いに得てきました。産油国との関係は、石油決済におけるドル使用の確保などを通じ、ドル覇権を支える重要な要素にもなっています。

西アジアで続々と革命が起こり、真に国民の利益を代表する政権が誕生した場合、新たな政府は、アメリカの利益や為政者の保身よりも、国民の利益を重視するようになるでしょう。

イラン革命(1979)後のイランがそうしたように、天然資源の国有化を目指し、軍事力を強化し、経済・外交における自立を確保しようとするでしょう。

とりわけ、西アジア最大の産油国であるサウジアラビアの忠誠が失われることは、アメリカにとって最大の脅威の一つであり、絶対に避けなければならない事態なのです。

すでにお気づきかと思いますが、アメリカがイランを徹底的に貶め、敵視しているのもそのためです。

イランがアメリカに嫌われるのは、決して、イランが「人権無視で非民主的な専制主義国家だから」ではありません。真の理由はその正反対で、イランが本物の民主化革命を成功させ、経済・外交政策において自立し、国民の利益のための国家運営を始めたからなのです。

1974年7月にニクソン大統領の命を受けて、ウイリアム・サイモン財務長官がサウジアラビアを訪問、「米国はサウジアラビアから石油を購入するとともに、サウジアラビアに対して軍事援助を行う。その見返りとしてサウジアラビアは石油収入を米国債に還流させ、米国の歳出をファイナンスする」仕組みを提案した。サウジアラビアのファイサル国王は、自らの米国債購入が間接的に米国によるイスラエル支援に向かうことを恐れ、米国債購入については極秘扱いすることを要請したという。サウジアラビアの要請に応じ、米財務省は通常の競争入札によらず、購入実績が開示されない特別な形式によってサウジアラビアが米国債を購入できるように便宜を図ったのである(いわゆるワシントン・リヤド密約)。今日まで続いている国際的な原油取引におけるドル建て決済の慣習はワシントン・リヤド密約に基づくものと考えられ、戦後のブレトンウッズ体制崩壊後もドルが基軸通貨としての地位を維持できたことの一因にこの密約があったとも言える。

長谷川克之「サウジアラビア通貨政策の現在・過去・未来」(2023)(太字は辰井)

Q イエメンの宗教はイランと同じシーア派で、フーシ派の背後にいるのはイランだと聞いたことがあります。そうなのですか?

アンサール・アッラー(フーシ派)とイランが良好な関係にあることは事実ですが、アンサール・アッラー(フーシ派)がイランの手先とか子分ということはありません

両者は意思決定主体として独立しており、経済力や発展度合いの相違はあるにせよ、基本的に対等な関係性を保っていると見られます。

また、イエメンとイランが良好な関係にあるのは、現下の国際情勢において、両者が共通の志を持ち、共通の利害を有するからであり、宗教は関係がありません

「関係がない」といいながら、一応確認をしておきますが、宗教においても、両者は「同じシーア派」というわけではありません。

イエメンのザイド派は、たしかに、大きな括りではシーア派に属します。イランの国教である12イマーム派も、大きな括りではシーア派です。

しかし、この「シーア派」という括りが曲者で‥‥何ていうのでしょうか、キリスト教における「プロテスタント」と同じようなもので、シーア派に属するとされる諸宗派は、「主流派(スンナ派)に対するアンチ」という立ち位置を共有するだけなのです。

ザイド派の成立は12イマーム派よりも早く、12イマーム派の影響下に成立したわけではないですし、ザイド派が12イマーム派に影響を与えたという事実もないようです。

そういうわけで、ザイド派と12イマーム派は、ほとんど共通点のない(相互に)独立した宗派といってよいと思います。

詳しくはこちらをご覧ください

Q ガザやイエメンをめぐる情勢が何かもっと大きな動きにつながることはありえますか?

近年起きている大きな事件は、すべて、アメリカを中心とする世界から、ユーラシア大陸の旧帝国地域(西アジア、中国、ロシア‥)を中核とする多元的な世界へ、という大きな動きの一部を形成していると私は見ています。

崩壊の過程にあるアメリカ帝国の「最後の悪あがき」が、ウクライナ戦争であり、ガザ危機です。アメリカには、もっと穏やかに衰退し、普通の国になるという選択肢も(理論的には)あったはずですが、もう無理だと思います。アメリカ帝国は、数年のうちに自滅していくでしょう。

その後、世界は、そして西アジアはどうなっていくのか、と考えたとき、ガザ・イエメン情勢が持つ意味が浮かび上がってきます。

西アジアの近未来を想像してみましょう。

  • アメリカの退場で不和の種は激減
  • 「国民国家」という仕組みの(地域への)不適合が顕在化し、紛争・混乱を経てアラブ統一国家の樹立に向かう可能性
  • イスラム諸国とイスラエルの関係が大問題に。中国等の仲介による和平or戦争を経て、新たな秩序の構築へ

民主化革命を成功させ、パレスチナ人のために敢然と戦うイエメンは、「アメリカ後」の世界で特別に重要な国(地域)となり、世界を動かしていく可能性があります。なぜか。

アラブ諸国の中で、軍事・外交・経済政策の面で、アメリカの影響力を完全に排除できている(自主独立を保持している)国は、じつは、革命後のイエメンしかありません。

治安・軍事面でアメリカに依存してきた国々の政府(多くは世襲の君主制です)が、本物の民主化革命に怯え、自国民との関係を構築し直さなければならないのに対し、政府と国民が一丸となって、サウジ、アメリカを駆逐し、イスラエルと戦ってきたイエメンは、貧しくても悠然としていられるでしょう。

パレスチナの大義のために、国家として正々堂々と戦ったイエメンは、アラブの人々の間で尊敬を受け、国際社会においても、名誉ある地位を得るでしょう。

国際社会からの支援を得て復興を遂げた後、イエメンは、アラブ圏の中心となり、発展途上にあるアフリカの国々の先頭に立って、次の世界を率いていくのではないでしょうか。

アメリカは倒れ、西側は弱体化し、中国やロシアが力技で新たな世界秩序の基礎を作った後、大々的に再編された西アジア・アフリカが新しい形の世界の進歩をもたらしていく

ガザ危機に接した各国の行動とイエメンの大活躍は、そのような明るい未来を見事に映し出している。私はそう感じています。

人口動態も私が明るい展望を抱く根拠の一つです
「アメリカが倒れ・・」のくだりが唐突に感じられた方はこちらの連載をご覧ください。

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ガザとイエメン
– 「フーシ派」は何と闘っているのか-

目次

1 革命のイエメン

イエメンはいま革命の只中にある。誰もそんなことを言う人はいないが、そうなのだ。CIAが仕組んだ「カラー革命」なんかとは違う、フランス革命と明治維新を足して2で割ったような本物の市民革命だ。

イエメンは西アジアの中でもっとも近代化が遅れた国で、20-24歳の男性の識字率が50%を超えたのは1980年である(↓)。彼らは、日本の150年前、フランスの250年前くらいの時期を迎えているわけなので、いまが市民革命の真っ只中というのは、人類史の過程として全く正常といえる。

イスラム諸国の近代化(トッド/クルバージュ『文明の接近』(藤原書店、2008年)31頁より)

世間では、イエメンはいま「世界最悪の人道危機」に陥っていて、その原因は内戦であるとされている。私の調査によれば、それは真実ではない。真実はこうだ。

イエメンに攻撃を加え、国境封鎖までして、「人道危機」を引き起こしているのは、イエメンの革命を阻止したい外国の勢力である。イエメンで起きているのは、革命のイエメンに対して外国(サウジ、アメリカほか「国際社会」)が仕掛けた干渉戦争なのである。

しかし、いったいなぜ、近代化において先行しているはずの諸外国は、そんなにまでしてイエメンの民主化を妨害しなければならないのであろうか。

イエメン情勢に深く関わる勢力は、サウジ、アメリカ、IMF/世界銀行。私にとっては「基軸通貨ドル」の総復習のような事例だった。

2 イエメンの旧体制(アンシャン・レジーム)

(1)イエメンの近代化

イエメン革命の中心地は北部、首都サナア周辺の山岳地帯である。この地域は、859年以来、ザイド派イマーム(宗教指導者)が王として統治していた。

Northern Yemen (Photo by aisha59, available at Flickr.)

しかし「歴史」でも書いたように、イマーム=国王が安定した中央集権を実現していたわけではないという点は重要である。イエメン北部には部族単位の地域共同体があって、その長が大きな力を持っている。国王は、彼らの協力を取り付けなければ、決して国をまとめることはできなかったのだ。

オスマン帝国の支配を受けた時代にも、北部地域はオスマン帝国への抵抗を続けた。ということは、その時期も、イマーム=国王がいて、部族長が治める地域共同体があるという国の基本構造が失われることはなかったということである。

イエメン史の中心にはいつもこの北部地域の部族社会がある。この地域を中心に、市民革命に至る近代化の歴史を描くと、その過程は以下のようにまとめることができる。

1️⃣イエメン王国の成立(1918):オスマン帝国からのザイド派イマーム王国の独立

2️⃣イエメン・アラブ共和国の誕生と確立(1962-68):イエメン革命(1962)によって共和国が成立。内戦を経てザイド派イマーム王朝が終焉を迎え、共和政体が確立

3️⃣強権的リーダーによる近代化(1968-2012):共和国の確立後も政権交代は主にクーデター、強権的なリーダーの力で近代化が進められた。ハムディ政権(1974-1978)の後に長期政権を確立したのがアリー・アブドッラー・サーレハ(Ali Abudullah Saleh 1978-2012)。

このサーレハの時代こそが、現在の革命にとっての旧体制(アンシャン・レジーム)である。

(2)サーレハ政権末期

サーレハは毀誉褒貶(というか毀と貶)の激しい人物だが、アメリカやサウジの意向で政権を追われた人物であるから、その全てを真に受けることはできない。彼の任期全体についての概観は現在の私の手には負えないので、政権末期の状況を中心に、要点を確認しよう。

2004年アメリカ国防総省でのサーレハ(wiki)

①サーレハと石油

1940年頃には石油生産を始めていたサウジなどと異なり、イエメンが産油国となったのは1980年代に入ってからである(おそらく1985年頃)。

サーレハ大統領は、長年続いた内戦からの国家再建のために石油・ガス開発に取り組み、石油開発を成功させて、経済を活性化させた。

そこまではよかったのだが、サーレハは、分裂含みのこの国をまとめていくにあたって、地域や勢力間の利害調整を行い、共通の基盤を形成するという根気のいる仕事に取り組む代わりに、北部の部族長やら、南部の分離派勢力、対立する議員を、石油利権で懐柔するという安直な方法に頼った。

国の経済についても、持続的な発展の基盤の上に、近代国家としての仕組みを成り立たせるのではなく、公務員の給与から施設の整備まで、すべてを石油収入に依存した。

サーレハは、石油利権や、1980年代に急増した外国からの開発資金をほしいままに分配することで、自らの権力を固めつつ、イエメンを石油(と外国からの資金)なしには成り立たない、不安定な国家に仕立てていった。

この記事を大いに参考にしました

②サーレハとアメリカ:湾岸戦争の経験

サーレハ政権は、就任当初から、外国からの開発資金を積極的に受け入れる政策を取った。石油開発もおそらくアメリカなどの資金であろう(調べていません)。

ただ、その頃のサーレハが「親米」であったかどうかはよくわからない。サーレハは湾岸戦争の際に中立の姿勢を保った(要するにアメリカ側に付かなかった)ことで知られている。このことから推察するに、当初のサーレハは、ごく普通に、国家建設や政権の安定に必要な限度で外国からの資金を受け入れるが、だからといって外国の言いなりにはならない、という気分でいたのではないだろうか。

しかし「是々非々」の常識は「国際社会」には通用しなかった。湾岸戦争でアメリカ率いる多国籍軍側につかなかったことで、イエメンは、アメリカをはじめとする「国際社会」や周辺のアラブ諸国から総スカンを喰らい、外国からの資金は激減、深刻な経済的困窮に陥ったのだ。

このときの経験が、おそらく、サーレハと、のちに革命を率いることになる若者たちの行く先を分けることになる。サーレハの方は、アメリカをはじめとする「国際社会」や湾岸諸国の資金なしに政権を維持するのが不可能であることを悟り、親米・親サウジの現実路線を選択した。他方、若者たちは、アメリカ、サウジの横暴に怒りを募らせ、これに迎合してイエメンの外国依存度をいっそう高めようとするサーレハ政権にも怒りを向けたのだ。

湾岸戦争後の経済的困窮の中、イエメン各地で頻発するようになった反米・反サウジの抗議運動は、政府への抗議運動と重なり、不安な政情の下に、革命の下地を形成していくのである。

③IMF/世界銀行への依存度の増大

イエメンは1990年に南北統一を果たしているが、サーレハ政権への南イエメン側の不信感は収まらず、1994年には内戦が勃発している。内戦はすぐに(2か月)終わったが、経済的困窮の度は増した。 

こうした中、サーレハ政権は、IMF/世銀からの多額の融資と構造調整プログラムの受け入れを決める。多額の開発資金という「毒饅頭」の受け入れは、サーレハの当座の権力基盤を強化し、同時に、GDP成長率を急激に押し上げた。

しかし、「ワシントン・コンセンサス」に忠実なプログラムー公務員数の削減、増税、補助金の削減、金融・資本自由化等ーが、イエメン経済の安定的な成長を阻み、経済の土台を不安定化するものであったことは疑いない。

開発資金の流入による目先の利益を求め、IMF/世界銀行(≒ アメリカ)への依存度を高めるサーレハ政権に、安定した生活基盤を求めるイエメン国民そして「憂国の志士たち」の不信感はいよいよ強まったはずである。

IMF/世界銀行のやり方の問題点についてはこちらをご覧ください。

この(記事の)先の理解のキーになるポイント3点を予め解説しておきます。必要を感じたら戻ってお読み下さい。

公務員:発展途上の国家としては当然のことだが、イエメンでは公務員の存在が極めて大きい。教師、医師、ソーシャルワーカー、建設労働者、各種技術者、警察官などのあらゆる仕事を公務員が担っており、彼らの雇用が維持され、給与がきちんと支払われるということが、イエメン社会にとって決定的な重要性を持っている。IMF/世界銀行の「民営化」方針によって公務員の数が削減されたり、その他の事情で給与の支払いが停止すれば、直ちに社会の緊張・不安が発生する。そういう構造の社会である。

燃料補助金:イエメンが石油によって上げる利益が国民に還元される主なルートは燃料補助金。補助金による安価なガソリン・軽油が多くの国民の生活を支えている(燃料補助金の恩恵を受けていたのは貧困ラインよりも上の人々だったとされている)。

社会福祉基金(the Social Welfare Fund):おそらく1995年以降の支援の過程で世界銀行が創設した基金で、イエメンにおける唯一の社会福祉プログラムだった。資金も全面的に世界銀行が拠出しており、石油が払底してからは燃料補助金(の一部?)もこの基金から支払われていた(公務員の給与もこの基金から出ていたという話もある)。設立当初(1996年)の10万人だった支援対象者は、2000年には100万人を超えていた。社会福祉を必要とする貧困世帯はイエメンの場合、国民の半数近くに及んでいる。つまり、IMF/世界銀行は、社会福祉基金への資金提供(→燃料補助金の維持と貧困世帯への支援)を通じて、イエメンの人々の生殺与奪の権を握る存在となっていたのだ。

④払底する石油

こうした中、外国からの援助(+出稼ぎ)以外の唯一の資金源であり、政治的安定の要でもあった石油の産出に翳りが見え始める。

1980年代にようやく石油産出国となったイエメンの石油生産高は、1990年代後半には早くも減少に転じるのである。

石油が底をついたことで、サーレハの求心力はあからさまに弱まり、権力失墜の過程が始まる。同時に、経済には暗雲が漂い、IMF/世界銀行への依存度はいっそう強まる。

「革命前夜」のイエメンである。

3 革命の端緒:イエメン焦土作戦

(1)アンサール・アッラー(フーシ派)の勃興

世間では一般に「フーシ派」と呼ばれるアンサール・アッラーが勃興したのもこの頃のことである。幕末の日本で「尊王攘夷」が盛り上がったのと全く同様に、北イエメンでは、ザイド派の再興を図り、反米・反イスラエルの機運を高めようとする運動が盛り上がった。ザイド派のウラマーを父に持つフセイン・バドルッディーン・フーシ(1959-2004)が1990年頃に立ち上げた青年信仰運動。それがアンサール・アッラーの起源である。

アンサール・アッラーは基本的に生真面目な若者たちの集まりであったと私は思うが、政権側から見て、アンサール・アッラーの勃興が「脅威」と感じられたことは疑いない。

イエメン史を通じて基幹的な政治的影響力を手放したことのない北部ザイド派地域から出た運動であること、サーレハの提供する各種利権に懐柔された部族長たちの不甲斐なさに不満を抱く若者たちの運動であること、加えて、イエメンは出生率が低下を始めたばかりの時期、つまり、若年人口極大化(ユースバルジ)の時期に当たっていたこと(↓)。

サーレハ政権にとっての脅威は、政権と蜜月の関係にあるサウジやアメリカにとっての脅威でもある。2004年にフセイン・バドルッディーン・フーシがイエメン当局に殺害されて以降、反対勢力には「フーシ派」と呼ばれるようになったアンサール・アッラーは、こうして、明確に、国際社会の「敵」と位置付けられるようになった。

これは2020年のピラミッドですが、35年分ずらして見ると、ユースバルジ(若年人口の団塊)が一層顕著であることがわかります。

(2)イエメン焦土作戦(Operation Scorched Earth 2009)

これもほとんどどこにも書いていないのだが、アンサール・アッラーが率いる現在の革命の端緒といえるのは、2009年にサーレハが実施したイエメン焦土作戦(Operation Scorched Earth 8月-2010年2月)である。

イエメン北部サーダ(Saada)で発生した政府への抗議運動を口実に、イエメン政府とサウジアラビアは北部ザイド派地域に対する合同軍事作戦を展開した。

イエメン軍の地上部隊は北部に散らばるアンサール・アッラーの拠点を、サウジ空軍は部族勢力の居住地域を執拗な空爆で攻撃。数ヶ月に渡る作戦で、北部住民を中心に8000人以上のイエメン人が死亡、50000人以上が強制退去させられたという。

サーレハがサウジと組んで行ったこの作戦は、当然のことながら、イエメン中の人々を激怒させた。貧しく若い国民にとって「敵」に近いのはどちらかといえばサーレハやサウジであって、アンサール・アッラーではない。イエメン政府でありながら、サウジと組んでの「焦土作戦」とは何事か。

こうして、人々の心は政府から離れた。長年サーレハを支えてきた部族勢力、ザイド派、そして南部の分離派運動の担い手までもが、サーレハの非道なやり方に怒り、アンサール・アッラーとの連帯を示し、反政府で団結した。

この作戦を機に、イエメン全土で、政府側と反政府側が散発的に交戦する内戦状態が始まった。北イエメンではアンサール・アッラーとサーレハ政府が、南イエメンでは分離派とAQAP(アラビア半島のアルカーイダ)が、1年近くに渡って戦闘を繰り広げた。

(3)「焦土作戦」の背景:世銀レポート

イエメン焦土作戦は、アンサール・アッラーの反政府運動を鎮圧するための軍事行動と説明されるのが一般的であるが、その真実性はかなり疑わしい。

この時期、イエメン政府とサウジアラビア、そしてIMF/世界銀行(≒ アメリカ)には、イエメン北部を「焦土」にしたい明確な理由があったからだ。

イエメンにおける石油の将来が暗いことを知った世界銀行は、新たな投資・開発の対象として、イエメンの鉱物資源とその開発状況に関する調査を行った。

世界銀行「イエメン 鉱物開発部門の調査報告(2009年6月)」(Yemen Mineral Sector Review, June 2009)の中で、執筆者は、イエメンがサバア王国(潤沢な金の産出で知られていたらしい)の地であることに触れ、「イエメン西部がそれらの金の産出源であることが明らかになっているにもかかわらず、近代以降、金の採掘がほとんど行われていないのは驚くべきことのように思われる」と述べる。

その同じレポートの中で、世界銀行は、イエメンの鉱物部門が投資先として非常に有望であることを示しつつ、投資および開発にとって脅威となりうる要素として以下の2点を挙げているのだ。

・イエメン北部の反乱は投資家の国に対する印象を悪化させる。
・部族の土地では資源へのアクセスが困難である可能性がある。

このレポートが公表された2ヶ月後、イエメン政府とサウジアラビアは「焦土作戦」を実施した。

彼らが、1️⃣鉱物資源へのアクセスを容易にし、2️⃣アンサール・アッラーを叩く、という一石二鳥を狙っていたのだとしたら、作戦は1️⃣については失敗、2️⃣については逆効果に終わったことになる。

甚大な被害を出したにも関わらず、政府は勝利を宣言することはできなかった(1️⃣は失敗)。それどころか、全国民を敵に回し、革命の導火線に火をともすことになったのだ。

4 前哨戦:イエメン尊厳革命(2011)

(1)イエメンに到達した「アラブの春」

https://en.wikipedia.org/wiki/Yemeni_Revolution#/media/File:Yemen_protest.jpg

2010年12月にチュニジア、2011年1月にエジプトに到達した「アラブの春」の波を受け、イエメンでも学生を中心とするデモが始まった。

学生の要求は当初は失業、経済、汚職に関するものだったというが、要求はエスカレートし、彼らはやがてサーレハ大統領の辞任を要求するようになった。

サーレハはいつも通りの強硬な対応を取り、軍の鎮圧によって2000人以上の市民が死亡、数百人以上が負傷した。

決定的な転機として知られるのは「変革広場(Change Square)の虐殺」である。サーレハは、学生たちがサナアの大モスクから金曜礼拝を終えて出てきたところを軍に実弾と毒ガス弾で狙い撃ちさせ、90人の学生のうち52人を死亡させたという(生存者の約4割は脳障害等の傷害を負った)。

この事件の後、軍のトップであり長年イエメンのナンバー2と目されてきたアリー・ムフセン・アブダッラー(Ali Mohsen Abdullah)が公式にサーレハ政権からの離反を表明し、サーレハの辞任は避けられない情勢となった。

・ ・ ・

というのが、一般に言われている筋書きなのだが、どうでしょう。私はこれをその通りに受け止めることができない。

学生がデモを始めたところまでは、自発的な動きかもしれない。しかし、その後、彼らがサーレハの辞任を要求するようになるまでの間に、外国勢力(アメリカが中心)の介入があったのではないだろうか。

2011年のデモについては、イギリスの監督による映画「気乗りのしない革命家」があって、学生たちがツイッターによるエジプトから指示を受けながらデモを実行する様子が映されているという(私は見ていない)。

さらに、このデモで負傷した息子を抱き抱える女性を撮影した写真が、2012年の世界報道写真大賞に選ばれている。

その上、「尊厳革命(the Yemen Revolutionary of Dignity)なんていう立派な名前を付けられて。

どう見ても怪しい、と私は思う。

(2)サーレハの辞任

約10ヶ月の抗議運動の後、2011年11月にサーレハ大統領は正式に辞任するのだが、これを「民衆の勝利」と評価してよいのかはわからない。

なぜかというと、サーレハが辞任を約束したのは、2011年6月に大統領官邸のモスクで謎の爆弾事件が起き、身体の40%の火傷、頭部負傷、内臓出血で死にかけて運ばれたサウジアラビアの病院で、当時のオバマ政権の国土安全保障・テロ対策大統領補佐官で後にCIA長官となったジョン・ブレナンと面会した後のことだからだ。

尊厳革命でサーレハをめぐる情勢が悪化して以来、サウジアラビアをはじめとするGCC(the Gulf Co-operation Council:湾岸協力理事会)諸国は、サーレハに対する早期退陣を説得していた。

サーレハは、GCCが仲介する権力の平和的移行のための協定への署名を繰り返し拒否していたが、爆破事件の2週間後、オバマ大統領からの書簡を携えてサーレハ大統領と面会したブレナンは、GCCが仲介する合意に署名し辞任するよう要求したという(以上アルジャジーラ)。

結局、サーレハは、サウジの事実上の国営メディアであるアル=アラビーヤが生中継する中、リヤドのアル・ヤママ宮殿で合意に調印(2011年11月23日)。身柄の保証や訴追免除等を条件とした権力の移譲に合意した(GCCイニシアチブ)。

https://www.cbc.ca/news/world/yemen-president-agrees-to-step-down-1.990428

(3)「国際的に承認された」新政府:傀儡政権の誕生

サーレハの後、代行を経て大統領に就任したのは、アブド・ラッボ・マンスール・ハーディである。

2013年のハーディ(これも場所はアメリカの国防総省)

彼は南イエメンの出身だが、同じく南部出身の副大統領(アル・サーレム・アル=ビード)が1994年の内戦で敗北した後、その後任として副大統領になった。以来、一貫して、サーレハの片腕であった人物である。

ハーディは、IMF/世界銀行への依存度を高める政策においても、サウジと組んでのイエメン焦土作戦の実施においても、サーレハの共犯者であった。したがって当然、抗議運動に参加したイエメンの民衆は彼の大統領就任を歓迎しなかった。

サーレハを辞任に追い込み、ハーディに跡を継がせるというこの一連のプロセスの筋書きを書いたのは国連所属の外交官でイエメン特使(2011-15)を務めたジャマル・ベノマール(Jamal Benomar)だとされている(本人が2021年のニューズウィーク誌に書いているという)。

それにしても、「尊厳革命」と(西側に)持て囃された反政府運動の末に辞任した大統領の跡を、長年連れ添った副大統領に継がせる、というのは一体どういう筋書きなのか。

「決まっている」と私は思う。

サーレハ政権末期、サウジやアメリカに代表される「国際社会」とサーレハ政権の利害は一致していた。「現実路線」を選択したサーレハは、外国からの資金を積極的に受け入れ、構造調整プログラムも大人しく実施したし、IMF/世界銀行(≒ アメリカ)やサウジ、UAEが推進したい鉱山開発のためには、自国民を犠牲にすることすら厭わなかった。

しかし、その「焦土作戦」は、予想外の反発ーアンサール・アッラー以外の勢力も一丸となって反対するというーを生み、事実上、サーレハの下で開発を進めることは不可能な状況に陥った。

そこで、アメリカ、サウジなどの「国際社会」は、すべての責任をサーレハに押し付け、何もかも承知しているハーディを後釜に据えた。

はっきりさせておこう。

ハーディの大統領就任によって、イエメン政府は本物の傀儡政権になった。曲がりなりにもイエメン共和国の正当な大統領であったサーレハと異なり、ハーディ、そして2022年4月にその後を継いだアリーミー(大統領職は廃止され、大統領指導評議会議長)が率いる「国際的に承認された」イエメン政府は、もはや、イエメン国内にはまったく支持基盤を持っていない。「国際社会」だけが支持する政権なのである。

5 革命本番へ(2014年7月〜)

(1)引き金を引いたIMF/世界銀行

本物の革命のスタートは2014年7月。イエメン社会にはすでにそのエネルギーが満ちていた。しかし、2014年に7月に革命が始まるよう仕向けたのはIMF/世界銀行である。

世界銀行を経由したイエメン政府への融資は、ハーディの着任以降急増していた。しかし、2014年1月、政府は融資に対する基本手数料の支払いができなくなり、(おそらく融資が中断されて)政府は資金難に陥った。公務員に対する給与の支払いは停止され(1月〜)、社会福祉基金の資金もなくなった(代替するセーフティーネットは存在しなかった)。他になすすべもなく、政府はIMFに手数料支払いのための援助を求めた。

2014年5月、IMFとイエメン政府は、政府が要請した5億6000万ドルの融資について協議した。IMFはイエメン政府に燃料補助金を削減し、燃料価格を引き上げて歳入を確保するよう要請した(債務の返済に充てるため)。ハーディは、融資の条件として2014年10月から段階的に燃料補助金の削減を行うことを約束したが、IMFは納得せず、より早期に燃料補助金の削減を行うよう圧力をかけた。

この時点で、IMF/世界銀行は、燃料補助金がイエメン社会にとって極めてクリティカルな事項であること、セーフティーネットの構築なしに燃料補助金の削減=燃料価格の引き上げを行えば、イエメンに大きな社会不安が発生することを十分に承知していた(世界銀行のプロジェクト評価文書に記載がある)。それにもかかわらず、IMFは、今すぐ、思い切った燃料補助金削減=燃料価格の引き上げを行うよう、ハーディに迫ったのである。

(2)「名なし」の抗議運動が勃発

2014年7月、いまだ公務員の給与が支払われない中、政府は燃料価格の引き上げを行った(ガソリン価格60%、軽油価格95%値上げ)。燃料価格の高騰でパンの輸送費は一晩で20%上昇、人口の60%を占める農業従事者は農機具を動かす燃料を賄えなくなり失業が蔓延、商品は不足し、市場は閑散とした。

案の定、2011年を超える規模の抗議運動がイエメン政府を襲った。首都サナアにおける学生主導の運動であった2011年の「尊厳革命」と異なり、今度は各種労働者、部族勢力、貧困層、学生など、あらゆる人々が、イエメン全土で立ち上がった。

それにもかかわらず、2014年に始まった抗議運動には「尊厳革命」のような名前がついていない。理由は明らかだと思われる。「国際社会」(アメリカ、サウジほか)にとって、彼ら自身の傀儡政権に対する抗議運動は(少なくとも建前上は)不都合なものである。美しい名前など付けて称賛している場合ではない。

しかし、将来、イエメンが自律的な秩序を回復した暁には、こちらの運動こそが、長く困難な革命の始まりを告げた事件として記憶されることになるだろう。

8月22日サナア アンサール・アッラーの支持者が傀儡政権の辞任を求めるデモの最中に祈りを捧げる様子(Reuter

(3)革命政権の樹立

抗議運動の中心にいたアンサール・アッラーは、2014年9月、首都サナアを掌握した。

ハーディの政府は一切抵抗せず(怪しいですね・・)、国連の仲介でアンサール・アッラーとの間で協定を結び(the Peace and National Partnarship Agreement)を結んでサナアを共同統治するという体裁を確保した。しかし、軍事力を伴う実際の統治権がアンサール・アッラーに移ったことは「誰の目にも明らかだった」。

アンサール・アッラーは2015年1月下旬に大統領府・官邸と主要軍事施設、メディアを掌握。ハーディ大統領と首相は辞任を表明し、2月6日、アンサール・アッラーが新政権の樹立を宣言した。

(4)「内戦」名下の干渉戦争ー第二次サウジ-イエメン戦争

これを受けて、2015年3月、サウジ率いる有志連合軍(the SLC:Saudi-Led Coalition)は(なんと!)イエメンへの空爆を開始する。第二次サウジーイエメン戦争の始まりである。この戦争を「第二次サウジーイエメン戦争」と呼ぶ人を私は今のところ見たことがないが、どう見てもそれが実情なので、そう呼ぶことにする。

サウジによるイエメンへの攻撃は、イエメンで起きている革命に対する純然たる干渉戦争である。それなのになぜ、世間はこれを「内戦」と呼ぶのかといえば、「国際社会」が、予め、これを「内戦」に見せかけるためのお膳立てをしておいたからである。

傀儡政権のハーディは、2015年1月に辞任を表明した後、2月末になってこれを撤回する意向を表明し、自分たちこそが正統なイエメン政府であると改めて主張した。直後に(3月)彼はサウジに逃亡し、サウジに庇護される形でリヤドに亡命政府を置いたのだ。

これによって、本当は「サウジ VS サナア政府(アンサール・アッラー) 率いるイエメン」(サウジ・イエメン戦争)である戦争の構図は、「国際的に承認されたイエメン亡命政府 VS サナア政府」の戦い(内戦)に書き換えられた。以後、サウジがイエメンに対して行う蛮行は、すべて「内戦」への介入(「正規の政府軍への支援」)と位置付けられることになったのである。

確認しておきたい。「国際的に承認された」政府のイエメン国内の支持基盤はゼロである。したがって、ハーディ傀儡政権 VS アンサール・アッラーの戦いはいかなる意味でも「内戦」ではない。実態は純粋なサウジ(ないし「国際社会」) VS イエメン の戦争なのだ。

(5)無差別爆撃と国境封鎖ー「史上最大の人道危機」へ

2015年3月、サウジはイエメンの空爆を始めた(Operation Decisive Storm:決意の嵐作戦)。彼らの攻撃は最初から無差別爆撃で、民間人の居住地域が破壊され、多くの犠牲者が出た。

サウジ連合軍は、当初から、国連の承認を取り付けて、ある程度の国境封鎖も行なっていたようだが、2017年11月4日、サウジアラビアの空港を狙ったイエメン国内からの弾道ミサイル発射が確認されると(サウジは「迎撃した」と発表)、国境封鎖の範囲をイエメン全土に拡大した。

国連はすぐに、サウジ連合軍による無差別爆撃と国境封鎖が、イエメンにどれほど破滅的な影響を及ぼすかに気付き、注意を喚起した。

国連の専門家パネルは、サウジが意図的にイエメンへの人道援助物資の搬入を妨害していることを指摘し、何百万の市民を飢餓に陥らせるおそれのある措置の合理性に疑問を呈していたし、国連の人道問題担当長官も、国境封鎖が続けば、何百万人が飢餓によって死亡し、世界が数十年来経験したことのないレベルの人道危機が発生すると指摘した

指摘はそのまま現実となった。2021年12月の国連開発計画の報告書によれば、2015年から2021年12月末までの死者は37万7000人に達する見込みであり、死因の4割は爆撃などの戦闘関連、残り6割は飢餓や感染症であるという。そして、これを書いている2024年2月、国境封鎖はまだ解除されていない。

こういうことである。

イエメンにおける「世界最悪の人道危機」は、内戦の激化によってひとりでにもたらされたものでは決してない。

サウジは、最初から、民間人の犠牲を全く厭わず、イエメンの国土を破壊することを意図して攻撃を開始し、それを全面的に支持・支援したアメリカは、犠牲が増え続ける中でも、軍事的支援の手を緩めることはなかった。

国連もまた(アメリカが支援している以上当然ではあるが)、サウジの攻撃を止めるための有効な手立てを講じることはなかった。

でも、なぜ?

サウジの方から行こう。

6 アンサール・アッラーとサウジの和平交渉

(1)サウジはなぜ戦争を起こしたのか

「決意の嵐作戦」を指揮したのは、ムハンマド・ビン・サルマーン王太子(当時国防大臣)とされている。サルマーンは、数日でサナアを奪還できるという見通しで作戦を始め、泥沼にはまった。

若きプリンス、ムハンマドはなぜイエメンに介入したかったのだろうか。

2つの理由があったと考えられる。1つはサウジ(というか湾岸諸国)固有のもので、もう一つはアメリカとの関係に関わるものだ。

サウジは1957年に男性識字率50%の時期を迎えているが、民主化革命を経験していない。

幕末日本に例えると、ムハンマドは徳川慶喜である。1985年生まれの彼は、民主化 ≒ 近代化の流れが不可避であることも、アメリカ頼みの国家経営が盤石でないことも理解しているであろう。とはいえ、せっかく王子に生まれ、王太子の地位を手に入れたのだから、その地位を生かして活躍したい。革命で倒される役回りなどまっぴらごめんだ。

そういうわけで、隣国イエメンで本格的な革命が始まった時、ムハンマドはまず、それを潰さなければならなかった。「遅れた」国であるはずのイエメンの革命は、サウジに波及し、彼の地位を危うくする可能性が大であるからだ。

加えて、イエメンへの介入は、アメリカとの軍事的・経済的な相互依存(ないし共存共栄)の関係を強化し、サウジの政権基盤の当面の安定にもつながるはずだった。

2009年以来、「国際社会」は、サウジやUAEを表に立てたイエメンでの鉱山開発に並々ならぬ意欲を示しており、イエメンが自立し、コントロールが効かなくなることをおそれている。サウジとアメリカの利害は完全に一致しているのだ。

アメリカの全面的な支持と支援が約束されている以上、イエメンでの勝利は容易であり、確実だ、とムハンマドは思ったであろう。革命勢力を潰し、傀儡政権を維持できれば、イエメンはサウジの属国同然となる。その華々しい成果は、サウジ王室への国民の支持をつなぎ止め、民主化への流れを抑えるのに役立つはずだ。

そう考えたムハンマドは、電撃的勝利を夢見て「決意の嵐」を吹かせたが、アンサール・アッラーはしぶとかった。そこで、ムハンマドは、イランに責任を転嫁し(「背後で支援している」と攻め立て)、国境を封鎖しあらゆる物資の供給をストップするという非情な手段まで動員した。それでも、サウジ連合軍はアンサール・アッラーの勢力拡大を抑えることができず、イエメン全人口の70-80%の居住地域がアンサール・アッラーの支配下に入る事態となった。

ここまで来ると、サウジとアメリカの利害は分かれる。アメリカにとってイエメンそのものは取り立てて重要な国ではない。イエメンの開発がうまくいかないなら他に行けばよいだけだ(他国が取りにくれば別)。しかし、サウジにとっては、イエメンは国境を接する隣国だ。激しい憎悪を掻き立てて、そのままにしておくわけにはいかない。

(2)単独・直接の和平交渉へ

バイデン政権が始まり(2021年)アメリカからの武器供与や後方支援が縮小すると、サウジは出口を探し始める。

停戦に向けた動きはいろいろあったようだが、大きく報道されたものとしては、国連の仲介による2022年4月の停戦合意があった。しかし、この合意は結局は機能しないまま終わった。

より重要なのは、2023年1月に、国連やその他の関与なしに、アンサール・アッラーとサウジの直接交渉が開始されたことである。

こちらを参照しました。

2022年12月、アンサール・アッラーは会談したオマーンの代表団にイエメン北部全域に設置されたミサイル発射基地の地図を見せ、彼らがサウジアラビア域内、具体的にはリヤド国際空港をいつでも攻撃できる態勢にあることを伝えるとともに、サウジ当局への伝達を依頼。オマーン代表団はアンサール・アッラーが攻撃可能な標的を示した地図を見せてサウジを説得し、サウジは直接交渉に臨むことを決める。

2023年1月の交渉の席では、アンサール・アッラーは同様の情報をサウジに直接伝えた上、サウジがイエメンの封鎖を解除しないなら、サウジの空港が封鎖されることになると述べたという。サウジは和平の必要を認め、封鎖の解除・公務員への給与支払を条件に含めた和平の実現に前向きな姿勢を示した。

2023年1月 サナア サウジ連合軍の国境封鎖に対する抗議デモ
スローガンは「Blockade is War!(国境封鎖は戦争だ)」

https://twitter.com/syribelle/status/1611468741128212501?s=21&t=nkoK3iQUHJ20Ik_BJLG4oQ (デモの動画が見れます)

この直後、西アジア情勢に大きな動きがあった。サウジとイランの外交関係正常化である(2023年3月・仲介は中国)。当時の私には考えが及ばなかったが、今思えば、サウジをイランとの関係改善に向かわせた要因の一つは、イエメンであったかもしれない。

アンサール・アッラーを裏で操っているのがイランだというのは嘘である。しかし、両者が良好な関係にあることは事実なので、サウジが、イランを間にはさんで、イエメンと安定した関係を構築することを考えたということは十分にありうる。

ともかく、サウジとイランの関係正常化は大事件だった。これを契機に、サウジとイエメン、サウジとシリアの関係が改善に向かう可能性があったし、立役者であった中国はパレスチナーイスラエルの和平の仲介にも積極的な意向を示していた。

ひょっとして、西アジアについに平和が訪れるのか、という明るい展望が開けたそのとき、ガザ危機が起きたのだ。

5 ガザとイエメン

(1)ガザ危機とアメリカ

ガザ危機へのアメリカの関与は、基本的に、サウジによる「決意の嵐」作戦への関与と類似のものだと私は思う。

つまり、サウジにはサウジ固有の動機があり、イスラエルにはイスラエル固有の動機がある。アメリカはそれを後押しするだけだ。

しかし、アメリカという覇権国家の全面的な支持と支援は、イスラエルやサウジといった普通の国家が本来なら成し得ないことを可能にしてしまう。加えて、アメリカは、自らの許可を得てから実行するよう含めておくことで、実行のタイミングをほぼ完全にコントロールできるのだ。

サウジがイエメンに「決意の嵐」を吹かせ、イスラエルが(念願の!)パレスチナ人の駆逐に乗り出したのは、アメリカがゴーサインを出したからである。彼らの攻撃の規模とタイミングを決めたのはやはりアメリカだと私は思う。

では、なぜ、アメリカはこのタイミングで、イスラエルに「Go!」のサインを出したのか。

第二次サウジ・イエメン戦争と同様、背景として資源の問題があったことは間違いないと思うが(イエメンは鉱物(金とか)、ガザはガス田)、タイミングを決めたのは、もしかしたら、西アジアの和平の動きであったかもしれない。

軍事的支援によって西アジアの「友好国」との関係をつなぎ止めているアメリカは、そのプレゼンス(というか支配力)の維持のため、地域の軍事的緊張をつねに一定以上に高めておくよう腐心している。平和になって、居場所がなくなっては困るのだ。

そのための火種なら、ガザに用意されている。いつ、どんなときでも使えるように。

(2)イエメンの決意

こうして(多分)起きたガザ危機に、イエメンの人々が即座に強い反応を示したのは当然といえる。

2014年以来サウジの無差別爆撃を受け続け、2017年からはほぼ完全に国境を封鎖されたイエメンの状況は、長年狭い場所に押し込められてイスラエルからの度重なる攻撃を受け、2008年からは国境封鎖の強化で基本物資もロクに手に入らなくなっていたガザとうり二つだった。

10年前にイエメンを襲い、アンラール・アッラーが長く激しい戦いを経てようやく撃退しようとしている「決意の嵐」が、同じ敵(アメリカ)の手によって、今度は、同じアラブ・イスラム地域の仲間であり、同じ苦境を戦ってきた同志であるガザのパレスチナ人に襲い掛かり、彼らを殲滅しようとすらしている。年齢中央値19歳、革命の只中にあるイエメンが行動しないはずがない。

彼らにとって、紅海におけるアメリカ・イギリスとの戦いは、もちろん、パレスチナの解放のための戦いであり、イエメンの自由と独立のための戦いである。しかし、それだけではない。

欧米諸国が西アジアの歴史の中で果たしてきた邪悪な役割を知らない人は(西アジアには)いない。しかし、第二次大戦後、覇権国アメリカと結ぶことで利益を得てきた諸国は、それを殊更には言い立てないようにしてきたし、いま現在、アメリカが行なっている各種策謀も見ないことにしている。

アメリカに敵視され、蹂躙されている国の人々には、現在の世界においてアメリカが果たしている邪悪な役割が、これ以上ないほど鮮明に見えているだろう。

同時に、アメリカに従属することで利益を得てきた国々の狡さ、醜さ、不甲斐なさも、正すべき不正と見えているに違いない。

彼らにとって、アメリカ・イギリス・イスラエルとの戦いは、決して、パレスチナやイエメンだけのための戦いではあり得ない。世界をアメリカから解放し、道理の通った新しい世界を作るための戦いなのだ。

おわりに

これを書いている2024年2月下旬、アンサール・アッラーとアメリカ・イギリス・イスラエルの戦いはますます本格化している。

しかし、アンサール・アッラーはまったく怯んでいないし、彼らの決然とした行動により、サナア政府へのイエメン国民の支持は拡大しているという

パレスチナとの連帯を示すデモ(2024年2月23日)https://www.ansarollah.com/archives/657639

こちらでデモの動画が見られます。

われわれは、神を礼賛するーーわれわれに、イスラエルやアメリカと直接対峙するという偉大なる祝福、偉大なる名誉を与えて下さったことに。

Abdul-Malik al-Houthi(出典

攻撃をエスカレートさせる道を選んだアメリカは、すぐに後悔することになるだろう

Hussein al-Ezzi(出典

強がりと見る向きもあろうが、私はそうは思わない。2014年以来の過酷な状況に耐え、革命を実現させた彼らが、あと数年の戦いを持ちこたえられない理由がないからだ。

1、2年がまんすればアメリカは勝手に潰れる(要するに彼らが勝つ)。今回の戦争では、大義は明らかにアンサール・アッラーの側にある。「アメリカ後」の世界を担う次代の「国際社会」は、彼らの政府を正統と認め、惜しみない支援を与えるだろう。

当面の苦境を乗り切り、人口を増やしたイエメンは、数十年後、世界の中心に返り咲いているのかもしれない。

(おわり)