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日本史概観(4・完)
-天皇の位置-

 

目次

はじめに

「日本史概観」最終回のテーマは「天皇」である。なぜか。
ご説明しよう。

前回も書いたように、戦国時代から後の日本の歴史は、ごく標準的な直系家族国家の歴史である。

まずは小国が並び立ち、覇権争いをする。

信長、秀吉を経て、最終的に勝利を収めた家康の徳川家が統一日本の覇権を確立する。

この間、騎馬民族が侵入してきて相互に影響を与え合うといった事情もなかったので、共同体家族への進化は起こらず、直系家族のまま近代化して現在に至る。

ただし、典型的な直系家族国家の日本には、一つ、非典型的なものが存在している。それこそが、何あろう、「天皇」なのだ。

直系家族がすっかり完成したのに、なぜ、どのような形で、「舶来の」権威である「天皇」が生き続けることになったのか。家族システムと国家の関係を探究しているこのシリーズとしては、最後にぜひとも解明しておきたい課題なのである。

まずはその準備として、前回からの積み残し、戦国時代に入る直前、応仁の乱を経て室町幕府が倒れたときに、同じ京都に存在していた天皇や貴族はどうなったのか、というところから話をはじめよう。

応仁の乱と「舶来の」権威

(1)室町幕府ー京都の武家政権

真面目に日本史の勉強をしたことがない人間(私だ)にとって、室町幕府はちょっと分かりにくい。

幕府なんだから武家の政権のはずだ。しかし、場所は京都だし、花の御所に住んでみたり、煌びやかな離宮を建ててみたり、貴族みたいな雰囲気も濃厚ではないか。

金閣寺(鹿苑寺) PennyによるPixabayからの画像

鎌倉幕府から戦国時代になって徳川幕府、というなら分かりやすいのだが、その間に室町幕府があるせいで、全体の流れが一気に掴みにくくなってしまうのだ。

しかし、今なら分かる。「ローマは一日にして成らず」というとおり、鎌倉幕府が武家政権を打ち立てたといっても、鎌倉が一夜にして京都になれるわけではない。

「京都の武家政権」室町幕府の存在は、人口や教育といった人的な成長のスピードと、蓄積が物をいう「場所」の成長スピードの違いがもたらしたものなのだ。

(2)室町幕府はなぜ京都に本拠を置いたのか?

室町幕府は鎌倉ではなく京都に本拠地を置いたのか。

それには、南北朝の動乱で敵対した後醍醐天皇の動きを封じる必要があったという当初の事情に加え、都市としての京都の力があったとされる。

‥‥〔幕府が京都に置かれた〕根本は、京都がいぜんとして政治・文化・宗教の中心であるばかりか、荘園領主が集住し、全国の富や人や情報が集まる経済・流通の中心都市で、幕府が真の意味で全国政権たらんとすれば、そこに政権を置かざるをえないという点にあった。

高橋正明『京都〈千年の都〉の歴史』(岩波新書、2014年)140頁

そう。繰り返しになるが、東国で武士が力をつけて政権を確保したとはいえ、鎌倉や関東がすぐに京都や畿内と同じ程度に発展できるというわけではない。

流通経済が発達し、農村中心の社会から都市間のネットワークが支える社会に移行しつつあったこの時期、武家政権が全国を統治するには、京都という歴史ある大都市に蓄積された各種資源を活用することが不可欠だったのだ。

(3)伝統的政治文化と一体化した室町幕府

鎌倉時代がそうであったように、室町時代もまた、直系家族の地物の権威がその基盤を強化し、朝廷の「舶来の」権威を凌駕していく(かなり一直線に近い)過程(↓下図)の一部であり、室町幕府が京都に政権を置いたからといってその点が揺らぐわけではない。

しかし、室町幕府が京都に拠点を置いたことで、幕府と朝廷という二つの権威の関係性には変化が生じた。

鎌倉時代、鎌倉の幕府と京都の朝廷は並び立ち、やがて前者が優位になったものの、朝廷は政治勢力として存在し続けた。

これに対し、京都の武家政権である室町幕府は、同地における天皇や貴族、寺社勢力の権力とその文化を吸収し、一体化していくのである。

少し具体的に見ていこう。

南北朝の動乱が収まった頃、すでに幕府の優位は明らかであり、天皇や貴族が統治に実質的に関与する世の中は終わっていた。

一方で、幕府は、朝廷や寺社に直接に影響力を行使し、その力を抑え込むために、それぞれに仕える公家衆や門徒を雇って使ったりもしている(高橋・147頁)。

つまり、京都の地で幕府が朝廷の上に立つということは、幕府の下で、天皇家や公家の政治文化と武家文化が融合し、一体となることでもあったのだ。 

室町幕府に貴族風のきらびやかな雰囲気が漂うのはそのためで、皇位簒奪疑惑もある足利義満は、公家から買い上げた「花の御所」に住み、のちに金閣寺となる絢爛豪華な建物を建てて別荘に用い、公家風の花押を用いた。京都に暮らすようになった有力武士たちもまた、貴族風の贅沢な暮らしを始め、財政を圧迫させたりしていたのである。

こっちは武家様の花押で
https://nanbokuchounikki.blog.fc2.com/blog-entry-1141.html
これが公家様の花押だそうです。https://twitter.com/toki_museum/status/1269498479216230400?lang=zh-Hant

室町幕府における貴族文化と武家文化の一体化の傾向は、北条氏の歴代得宗が官位に関心を示さず「とんでもなく低い地位に甘んじていた」のに対し、足利将軍が高い官位を求めたことにも見て取れる。

京都で権力を振るう以上、将軍は「官位の上でも他を圧する地位に立つ必要があった。」

この点で、足利氏は平氏と同じ地平に立つ。だからこそ、「清盛は従一位太政大臣に達したし、義満も従一位太政大臣に達した後に出家し、法皇と同等の礼遇を受け」たのである(以上につき、近藤成一『鎌倉幕府と朝廷』(岩波新書、2016年)253頁)。

(4)応仁の乱の効果ー「舶来の権威」の決定的凋落

応仁の乱による京都の荒廃そして室町幕府の崩壊は、幕府が京の地で伝統的権力と一体化していたことにより、幕府の滅亡以上の結果をもたらすことになった。

かつて京都で権力を振るった平清盛は、貴族の衣を纏って自爆することで、皇族・貴族政治の時代を終わらせ、武家が主役となる時代を導いた。

同様に、京都の町の荒廃と同時に起きた室町幕府の崩壊は、日本に残った皇族・貴族政治の「残像」をきれいさっぱり吹き飛ばし、正真正銘の武将の時代を現出させることになったのである。

〈図解〉日本史概観 

ここまで書いてきたことのまとめとして、日本の建国から徳川の覇権に至るまでの日本史の流れを、国家の軸である「権威」に着目して図解してみよう。

①日本の建国

家族システムは進化していなかったが(原初的核家族)、中国皇帝に並び立つ存在としての「天皇」の権威を軸に国家を形成した。 

②平安時代末期

天皇家・貴族の「舶来の権威」+原初的核家族という基本構造は変わらないが、地域で武士が力を付け始める。

③平氏政権

貴族と武士の中間的な存在である平氏が政権をとる。舶来の権威+原初的核家族という基本構造の中で、平氏が「舶来の権威」に成り代わり、天皇家を抱え込む形で権力を振るう。

そして、それゆえに、 平氏の滅亡は「舶来の権威」にも大きな打撃を与えることになった。 

④頼朝による鎌倉幕府

同じく貴族と武士の中間的な存在である源頼朝が鎌倉に幕府を開き、舶来の権威(京都・朝廷)と地物の権威(関東・武家)が並び立つ体制を作り出す。関東では直系家族の生成が近づく。

⑤北条氏による鎌倉幕府

北条氏の下で直系家族が成立。権威を安定させて勢力を強め、京都の朝廷に対する優位を確立する。

⑥京都の武家政権、室町幕府

足利尊氏は全国統治の必要から京都に幕府を開き、幕府の下で天皇・貴族文化と一体化。そのため、 室町幕府の崩壊は、天皇・貴族の権威の決定的凋落をもたらした。

なお、この間、京都は核家族が基本であった(と考えられる)一方、全国では着実に直系家族が拡大していく。

⑦徳川幕府の覇権 

もちろん濃淡はあるのだが、全国に直系家族が広がり、直系家族の権威の頂点に立つ徳川家の下で安定した国家体制が確立。

天皇の位置

(1)天皇の存在は「当然」ではない

室町幕府とともに天皇や貴族による政治の残像が吹っ飛び、戦国時代を経て、みごとな直系家族の国家体制が確立した、というのが(すぐ上の)図⑦である。

しかし、それで日本から「天皇」という権威が失われたかといえば、もちろんそんなことはない。

日本に天皇がいるのは、当たり前のことのように思えるかもしれない。だって建国のときにすでに天皇はいたのだし。しかし、家族システムの観点から見ると、全然、まったく当たり前ではないのである。

例えば、日本と同じく、原初的核家族の時代に「借り物」の権威を用いて建国を成し遂げたフランスの場合である。彼らはローマ帝国の遺産であるキリスト教の権威を借りたのだが、平等主義核家族の国家体制を確立するや、直ちに宗教を公領域から捨て去った。

日本の場合も、直系家族が成立した時点で、国家の軸としての「権威」は自前で持つようになったのだから、舶来品である天皇の権威を排除したって、おかしくはなかったのだ。

(2)直系家族と天皇の相性

それでも日本が「天皇」を持ち続けたのはなぜかというと、直系家族と天皇の権威とは相性がよかったからである。

建国から約1300年を経てフランスが確立した「地物」の国家体制の基礎にあったのは平等主義核家族で、この家族システムは宗教的権威とは決定的に相性がわるかった

「自由と平等」のフランス市民にとって、宗教は「権威と不平等」そのもの、彼らの価値観に真っ向から対立する不倶戴天の敵である。

彼らの意思が政治に反映されるようになった時点で、公共領域からの宗教の排除は必然であったのだ。

カトリックとライシテのフランスー建国の秘密(西欧編) https://www.satokotatsui.com/secret-founding-european-nations/

他方、直系家族(権威と不平等)の日本の民にとって、はるかな大陸の威光に照らされ、「万世一系」の物語のもと古式ゆかしい日本の伝統を体現する存在でもある天皇は、ごく自然な敬意の対象である。

共同体家族とは違い、直系家族は自ら「帝国」を統率するに足る強大な権威を生み出すことはできないのだが、よく似たものが予め存在しているとなれば、それを排除する理由はない。

そういうわけで、いってみれば、後から成立した家族システムとの「たまさかの相性」によって、日本は地物の権威が確立した後も、天皇という存在を戴き続けることになったのである。

(3)天皇の「政治的」機能

とはいえ、天皇が、共同体家族(例えば中国)の皇帝に相当する強大な権威を担う存在であったかといえば、それは違う。

日本は中国における皇帝の存在に感化されて「天皇」を戴くこととなったが、そのやり方は最初から自己流で、文物や人的交流を通じて「権威とはこんな感じかな?」と考えながらやってみた、当時核家族であった日本人による「大陸風」である。

その後、戦国時代に至る頃までには、天皇や貴族の界隈にも直系家族システムが伝播し定着していたと思われ、メンタリティにおいて本質的な相違はなくなっていたはずである。

しかし、その生い立ち(?)に由来する「別種の」権威としての立ち位置によって、「天皇」は、自ずと、直系家族システムに欠ける点を補うべく進化していったように思われる。

二つの実例を挙げたい。

①「天下統一」の夢

二つの動乱によるシステム改変を経て、直系家族国家に生まれ変わった日本は、大名の領国が並立し互いに勢力を争う戦国時代に突入した。

このとき各地に成立した独立性の高い「国」は、いずれも直系家族システムに立脚した小国であり、織田、豊臣、徳川のいずれも、共同体家族システムの「帝国」を発展させることはなかった。

この地点から、人類学の知見をもって、日本の「ありうべき将来」を展望してみると、このたくさんの領国たちが、ときには征服したりされたりして再編を繰り返しつつ、相互に独立した国家として長く存続し続ける、ということは十分に考えられる(ドイツがこれに近い状態だった)。「統一国家の形成には適しない」というのが、直系家族システムの特性なのだから。

しかし、実際には、信長は天下統一を目指して上洛し、その事業を引き継いだ秀吉は統一を成し遂げた。直系家族システムに依拠しながら、彼らはなぜ「統一」を目指すことができたのだろうか?

考えられる理由は一つしかないと私は思う。
「そこに京都があり、天皇がいたから」である。

歴史と伝統といってしまえばそれまでだが、日本に「天皇」があり、帝国に並び立つ国家のイメージを伝えていたからこそ、彼らは当然のように「統一」を目指した。

統一に際して、信長や秀吉が天皇の権威を利用したことはよく知られているが、それ以前に、彼らが「天下統一」を夢見ることができたのは、天皇の存在があったからこそなのである。

②非常用「権威」装置

他方、すでに統一された国家の中で、覇権を確立してしまった徳川幕府にとっては、天皇はどちらかといえば邪魔な存在だった。下手に尊んで政治に口出しをされても困るし、他の大名に利用されても困る。

そういうわけで、徳川政権は、最初こそ正統性の確保のために天皇の権威を利用したものの、その時期をすぎると天皇や貴族勢力の規制と監視に努め、天皇は、祭祀や儀式の再興に努め、(人によっては)学問や歌道に打ち込むだけの存在となっていった。

しかし、そのことによって、天皇の存在に(政治的に)意味がなくなったかといえば、そうではないと思われる。その何よりの証拠は、江戸末期、日本が「内憂外患」の危機におそわれたとき、各階層の人々の間から自然と天皇・朝廷の権威を求める動きが生じたことである(山川出版社『詳説日本史 改訂版』(2020年)242頁)。

この後、1868年から1945年までの77年間、天皇が果たした役割は、私の思うに、「非常用代替「権威」装置」としてのそれだ。

直系家族の安定した政治システムは、平時には、天皇のような大きな権威を必要としない。しかし、安定性が高いからこそ、時代の転換期に大きな困難を抱えるのも直系家族であり、「別種の」権威の存在は、このときに威力を発揮する。

19世紀後半から20世紀前半、日本が「移行期」を迎え、否応なしの政治的変革に導かれたとき、天皇は、若い新政権には望むべくもない「権威」を提供し、危機の日本を支えた。

この時期については、天皇が政治的権力を持ったから危機がもたらされたかのように言われることがある。しかし、順序はおそらく逆で、日本が非常事態にあったからこそ、天皇は、その「権威」を発動し、表舞台に立つことになったのである。

③〈図解〉天皇

普段は目立たないが確かに権威として存在している「天皇」。図解してみたのが下図である。

色は白ではなく透明だ。

直系家族日本の日の丸(⑦)には、つねに、天皇の権威が重ね合わさっている。

政治体制がどのような色合いのものに変わっても、政治的に無色の存在としてそこにあり、平時には目立たず国家の一体性を支え、危機に陥ったときにのみ、表に出てきて、政治的な権威として機能する。

何とありがたい存在であろうか、と私はしみじみと思ったが、いかがであろうか。

 

おわりに

日本はいま直系家族が生み出した二度目の長期安定政権のもとにある。

この政権は、第二次大戦後、アメリカと融和的な関係を切り結ぶことで安定を築いた政権なので、アメリカ中心の世界が変わるときが、政権交代のときとなると予想される。

その激動のとき、次の安定を見出すまでの一時期に、再び天皇が日本政治を支えるというようなことがあるのかもしれない。

そんなことを考えるようになるなんて自分でも驚きだが、「概観」を書き終えた今、それはかなり現実的な可能性であるように思える。

今日のまとめ

  • 京都の武家政権(室町幕府)の下で武家の文化と朝廷の文化が一体化したため、応仁の乱による幕府の崩壊+京都の荒廃は、同時に、天皇・貴族の決定的凋落をもたらした。
  • 直系家族の国家体制確立後も「天皇」が存在し続けたのは、直系家族と天皇の「権威」の相性がよかったからである。
  • 戦国時代以降、天皇の権威は、分裂しがちな直系家族の日本の統一を保つのに役立った。
  • 直系家族の安定政権の下では、天皇の権威は、政治的危機の際に発動される「非常用代替「権威」装置」として機能する。

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日本史概観(3)
-鎌倉幕府、二つの動乱、直系家族国家の誕生-

鎌倉幕府ー綱引きが始まった

(1)源頼朝ー朝廷と並び立つ武家政権の確立

平氏が朝廷を乗っ取って(最終的に)討たれたのに対し、東国に拠点を築くことで、天皇家と武家が並び立つ時代を現出させたのが源氏である。

源氏も天皇家の出身だから元々は畿内(西)の出だが、房総を舞台とした平忠常の乱(1028)の鎮圧に乗り出したのをきっかけに東国に進出したという。

以後、東国の武士団との主従関係を強め、着実に勢力を築いた源氏は、頼朝の下で平氏を討伐した後、弟義経を排斥(これをやらなければならなかったのはまだ長子相続の習慣が確立していなかったからだ)、上皇も黙らせて、武家政権としての鎌倉幕府を確立させる。

(2)北条氏ー直系家族の誕生

鎌倉幕府を本当に軌道に乗せたのは北条氏であるが、日本における直系家族誕生の瞬間に立ち会ったのも北条氏ではないかという気がする。

北条氏は現在でいえば総理大臣に当たりそうな「執権」の地位を世襲するが、やがて執権の地位は飾り物となり、権力は北条の家督を継ぐ嫡流の当主「得宗」に集中していく。天皇家の権力が家長としての上皇に集中したようなもので、父系の権威が強まったことの現れといえる。

*なお、得宗の地位は概ね長子に受け継がれているが、長子の死没以外に、側室の子を避けて次男の時宗が継いだ例がある。「側室の子は差別される」というと女性が低く扱われているような感じがするかもしれないが、そうではなく、この場合、(父親の家系ほどではないにせよ)母親の家系「も」重視されていることを示唆している。つまり、重要性において父親と母親(男性と女性)を区別しない双系性の名残りであり、どちらかというと、父系直系家族の未完成を示すものと考えられる。

北条はまた、泰時(坂口健太郎だ)の時代に御成敗式目(1232年)も作っている。

天正2年(1574年)写本
https://archives.pref.kanagawa.jp/www/contents/1551940097112/index.html

御成敗式目は律令の影響を受けない武家初の成文法典である。室町幕府には基本法典として継承され、江戸時代には武家の道理を教える子供向けの教科書として用いられたというから、武家版十七条憲法のような位置付けかもしれない(当初の条文はその3倍の51箇条である)。

メソポタミアにおいて(中国でも)直系家族の誕生は国家の誕生であり、文字と法律の誕生でもあった。北条における直系家族や武家法の成立を見ると、この時期こそ、日本における(大陸の影響を抜きにした)自律的な国家生成の時期だったのではないかと思われるのである。

(3)承久の乱ー「地物」の優位が確定

北条において直系家族の権威が生成中であったと考えると、この時期に、朝廷のトップであった後鳥羽上皇と北条義時がぶつかり、上皇側が挙兵するという事件が起きたのは「必然的だった」と言いたくなる。

1221年、今なら勝てると踏んだ後鳥羽上皇は義時追討の宣旨を出し、鎌倉に兵を差し向ける。しかし、期待に反して幕府への造反者は少なく、上皇側はあえなく敗北。幕府の圧勝に終わったのである。

もちろん、かりに朝廷と北条の対立が、深層の動きに操られた必然であったとしても、この段階で、北条率いる幕府軍の勝利が必然であったとまではいえないであろう。

しかし、ともかく、北条はこの戦いに勝ち、それによって、朝廷の権力を抑え、実質的な統治の範囲を西国にまで大きく広げることになった。統治という点で、朝廷に対する幕府の優位、すなわち「舶来」の権威に対する「地物」の権威の優位を確たるものとしたのである。

二つの動乱

(1)中世の動乱ーヨーロッパと日本

ヨーロッパの歴史と日本の歴史には、共通点、というか、共通の分かりにくさがある。それは、近世(初期近代)以降の分かりやすい発展の過程が始まる前に、何かよく訳のわからない激しい内戦の時期を経験しているということである。

英仏では百年戦争、薔薇戦争がある。フランスは宗教戦争を含めてもよいだろう。ドイツは宗教改革から三十年戦争まで。日本は南北朝の動乱と応仁の乱である。

これらはいったい何なのか。トッドの人類学を参照しながら歴史を見ると、つぎのような仮説が成り立つと思う。

ヨーロッパ日本はどちらも、家族システムの進化の前に、外部の権威を借りて建国している。

そのため、国家の内側が充実し(その基礎にはもちろん識字率の上昇がある)、自律的な家族システムの進化が起きると、新たなシステムに合わせた国家の作り替えが必要になる。

おそらくそのときに、内戦や動乱が起きるのである。

この時期に起きる動乱は、外国や国王といった分かりやすい敵がいないので、ディテールを追っても何が何だかよく分からないことが多いし、当事者の勝ち負けにも大きな意味はない。しかし、このとき、国家は、社会の地殻変動に合わせた大々的なシステム改変を行なっているのである。

(2)南北朝の動乱(1336-1392頃)

北条氏のもとで(多分)生まれた直系家族が、完成度を上げ、日本全土に拡大していく長い過程を開始した頃、南北朝の動乱は起きた。

端緒を作ったのは後醍醐天皇である。

この時期、政治の最高権力を握っていたのは北条であり、天皇ではなかった。しかし、政治に対して一貫して強いやる気を持っていた後醍醐は、鎌倉幕府の御家人であった足利尊氏の協力も得て北条の鎌倉幕府を滅し、政治的復権を狙う(1333年)。

後醍醐天皇は、幕府はもちろん、院も摂政・関白も置かずに自ら政治の舵取りをしようとするが(建武の新政)、うまくいかない。

そこで、足利尊氏は後醍醐を見限り、武家政権としての幕府再建を目指して武力で京都を制圧、光明天皇を立てて室町幕府を開始する(1336年)。

こうして、以後60年に長きに亘る南北朝の動乱が始まるのだが、この時期に、なぜこのような動乱が起こったのであろうか。 

https://ja.wikipedia.org/wiki/後醍醐天皇#/media/ファイル:Emperor_Godaigo.jpg

①後醍醐天皇 VS 直系家族システム

動乱が始まった時点で、後醍醐の南軍と尊氏の北軍の間には、二つの対立軸がある。

 (1) 武家政権 VS 天皇親政(地物の権威 VS 舶来の権威) 
 (2) 天皇家の家督争い(兄弟間の相続争い)

後醍醐天皇は、天皇政治の最盛期とされる醍醐天皇(897-930)・村上天皇(946-967)の親政を理想としていたという。後醍醐は、武家政権を倒し、自らの力で理想の政治を追及したかった。

自分の実力を試したいという後醍醐天皇のあり方には、実力の時代に差し掛かっていた時代の空気が影響しているようにも感じられるが、天皇がそれをやっても「下克上」にはならない。

後醍醐はもしかすると不本意かもしれないが、客観的に見れば、それは新興の「地物の権威」から旧来の「舶来の権威」が権力を奪い返すため戦いである(1)。

さらに、足利尊氏が光明天皇を立てた背景には、天皇家における相続争い(持明院統(北朝・後深草(兄)系統)VS 大覚寺統(南朝・弟(亀山)系統)があった。

光明天皇は北朝であり、後醍醐天皇は南朝(弟系統)である。争いは、天皇家において長子相続が未確立であったから起きたことだが、争いが激化したのは「長子相続」が確立する可能性が見えていたからだということもできるだろう(2)。

要するに、後醍醐天皇は、武家政権と争い、兄系統である光明天皇と争うことによって、日本の土地の上に生成しつつある直系家族システムと争っていた、ということができるのである。

②兄弟間の緊張は全国でーー拡大の要因

後醍醐天皇(南朝)VS 足利尊氏(北朝)の対立から始まった動乱は、やがて、南朝、北朝、足利直義(尊氏の弟)派の三者が離合集散を繰り返す長くややこしい争いに展開する。

なぜそんなことになったのか。

山川教科書にはこうある。

このように動乱が長引いて全国化した背景には、すでに鎌倉時代後期頃から始まっていた惣領制の解体があった。この頃、武家社会では本家と分家が独立し、それぞれの家の中では嫡子が全部の所領を相続して、庶子は嫡子に従属する単独相続が一般的になった。こうした変化は各地で武士団の内部に分裂と対立を引きおこし、一方が北朝に付けば反対派は南朝につくという形で、動乱を拡大させることになった。

惣領制とは何か、という話からいこう。

惣領制とは、幕府と御家人の関係が「惣領」を責任者とする血縁集団を単位として構築される仕組みのことである。

それぞれの血縁集団には「惣領」(「家督」ともいう)がいて、軍役や祭祀(葬儀とか)の責任を担う。しかし、この制度の前提はなお分割相続であり、惣領が所領のすべてを相続するということはない。惣領は「本家」として所領の多くを相続するけれども、それ以外の子供たち(庶子)も土地を持ち、「分家」として自立できたのである。

惣領制の解体は、人口が増え、開墾が進んだ結果土地が不足し、所領のすべてを惣領一人に一括して相続させなければならなくなったこと(単独相続)に起因する。制度の前提であった分割相続ができなくなったのである。

惣領制の下でも、惣領と庶子は平等ではなかったが、庶子は庶子で土地をもって自立することができた。しかし、これが崩れ、単独相続となると、兄弟のうち、家督を継ぐ者とそれ以外の者の格差が異常に大きくなる。

もしこの状態で惣領制を続けるとなると、惣領が家の主人であるのに対し、他の兄弟は全員使用人のような位置付けにならざるを得ないだろう。

そういうわけで、兄弟の間には激しい緊張が走り、惣領制は解体を始めた。しかもそれは、一軒や二軒ではなく、全国の武士(御家人)の家で起こっていたのだ。

後醍醐と尊氏の戦いは、ガスが充満する国土に火花を散らし、全国に終わらない動乱を広げることになったのだと思われる。

(3)応仁の乱へー騒ぎは続く15世紀も

14-15世紀は、直系家族拡大の第一波であったが、人口という面で見ると、日本における人口成長の第三の波が始まった時期とされる(鬼頭宏『人口から読む日本の歴史』(講談社学術文庫、2000年)77頁)。

直系家族への進化を生む典型的な状況は「土地の不足」であるから、直系家族の生成と人口成長の波が同時に来ても何の不思議もないのだが、頭に置いておきたいのは、人口が急成長している社会とは、大勢の若者で溢れる社会だということである。

南北朝の動乱が、家族システムの変化、若年人口の肥大、そして識字率の上昇という要素が同時期に重なったことで起きたものだとすれば、50年や100年での収束は見込めない。

そういうわけで、南北朝の動乱が収まった後に迎えた15世紀もまた、波乱と紛争の世紀となるのである。

①幕府内部のお家騒動 

まず、15世紀前半には、家内の緊張から来る争乱が室町幕府の内部を襲った。

1416年、幕府の関東の拠点である鎌倉府で、関東管領上杉禅秀が鎌倉公方足利持氏に反乱を起こす。詳細は省くが、背景にあったのは上杉一門の中の犬懸家と山内家の争いとされる(永原慶二『日本の歴史10 下克上の時代』(中公文庫、2005年)24頁)。

「世はすでに血縁による同族の絆が弱まり、諸家それぞれに武力をととのえ、互いに自立して力を争う時代になっていたのである。」(同上25頁)と説明されているから、基本的には、先ほどの惣領制の解体という状況に対応して生じた争いと見ることができるだろう。

1438年には、鎌倉公方足利持氏が幕府に背く行動を重ねて将軍足利義教と対立する(こちらの系図が見やすいです)。将軍義教は持氏を討伐したが(永享の乱)、1441年には、その義教が守護の赤松満祐に殺害されるという衝撃的な事件が起きる(嘉吉の変)。

騒動自体が将軍家の統率力の低下を表すものだが、立て続けに起こる事件で足利将軍の社会的権威は大いに低下することになった。

②土一揆の多発

同じ頃に土一揆が多発していたことも見逃せない。

農民たちは困窮した武士や都市の民とともに代官の免職や年貢の減免、債務の免除などを求めて蜂起した。背景には天候の異変による飢饉があったが、農民の中に自立的なアクターとなりうる層が育っていたことが大前提である。

14世紀には「国人」と呼ばれる在地の武士が団結し、自律的な地域権力を営んでいたことが知られる。農民もまた自ら惣・惣村という自治的な村を生み出していた。こうして主体性(≒識字能力)拡大の波は農民層にも及び、土一揆の15世紀を迎えたと考えられる。

数万人が京都を占拠した嘉吉の徳政一揆(1441年)で、ついに土一揆の要求を受け入れて徳政令を発布して以後、幕府は土一揆に応じて徳政令を乱発するようになる。

下克上のさきがけとなる民からの突き上げで、幕府の力はいっそう弱まった。

③応仁の乱(1467-1477)

こうした状況の下でいよいよ始まる応仁の乱。
これもきっかけは家督争いだった。

将軍の権力が弱体化したことも関係し、将軍家の周辺で家督争いが相次ぐ。畠山家、斯波家、そして将軍家本体。

これらの争いに、幕府内でその勢力を争っていた山名(西軍)と細川(東軍)が介入したことで、応仁の乱は始まった。

幕府内の二大勢力である山名と細川が争えば、幕政に関わっていた有力大名たちは必然的にこれに巻き込まれ、それぞれどちらかの陣営について戦わざるを得なくなる。そういうわけで、戦いは京都を中心に、日本の中央部分(≒ 東北、関東、九州以外)全体に広がり、中央を二分する争乱に発展したのである。

戦国時代の始まりー直系家族の日本へ

南北朝の乱、応仁の乱の二つの動乱を経て、システム改変を終えた日本は、どのような社会に生まれ変わったのだろうか(乱の詳細は全部省略します!)。

応仁の乱の後、日本は戦国時代に突入する。室町幕府の政治が崩壊し、群雄割拠の時代が始まるのである。

小規模な国家が濫立し互いに勢力を争うという状況は、まさしく直系家族システムのものであり、メソポタミア、中国では、直系家族の誕生=国家の誕生と同時に、類似の状況が訪れていた。

日本の場合、直系家族システムを素直に反映させたこの「戦国」状況を現出させるために、システムの大変革が必要であったのだが、具体的に、何がどう変わることで、「群雄割拠」が可能になったのかを見ていこう。

一般に指摘されるのは、以下の2点である。

(1)地域の独立

まず、室町幕府の崩壊によって、地域が中央の縛りから解放されたということがある。

鎌倉以後、力を付けた武士は大名として地域の支配に関わったが、その地位は幕府の守護職への任命に基づいていた。「守護大名」と呼ばれる彼らは、幕府の行政官だったのである。

応仁の乱を経て幕府による政治が崩壊すると、地域と中央を結びつけるものがなくなり、領国とか分国とか呼ばれた地方の行政区画が独立国家の様相を呈していく。これが、「群雄割拠」の一つの前提である。

(2)支配層の変化ー誰が戦国大名になったのか?

従来の社会秩序の中では低い地位にあった者が実力でのし上がり、「群雄」つまり戦国大名になっていく、というのがもう一つの変化であるが、この「下克上」には主に2つのルートがある(ようである)。

①辺境の守護大名の下克上(地域的な下克上)

第一は、辺境の守護大名による「下克上」である。

室町幕府の下で、有力だった守護大名はみな応仁の乱に巻き込まれてその勢力を大きく削がれたが、幕政に関わることの少なかった関東以北や九州の守護大名は、乱に参加せずに済んだので、力を温存することができたわけである。

のちに戦国大名として名を上げる何人かはこうした「辺境の」守護大名で、駿河の今川義元、薩摩の島津貴久、甲斐の武田信玄などがこれに当たる。

②守護代、国人の下克上(社会的地位の下克上)

では、守護大名が乱に参加した地域はどうなったかというと、彼らの留守中に領地を守り、地域版の乱を戦った守護代や国人が実権を握ることになり、そのうちの実力者が戦国大名にのし上がることになった。

有名な戦国大名のうち、上杉謙信、織田信長は守護代、長宗我部元親、徳川家康、伊達稙宗(政宗の曽祖父)、毛利元就は国人上がりである。

*以上につき、武光誠・大石学・小林英夫監修『地図・年表・図解で見る 日本の歴史(上)』(小学館 2012年)123頁)参照。この本はとてもおすすめです。

と、以上のようなわけで、応仁の乱は、幕府の縛りから地域を解放し、「下克上」を導くことで、群雄割拠の戦国時代を到来させたのである。・・

というのが教科書的な説明で、これはこれでこの通りなのだと思うが、「舶来の権威から地物の権威へ」の移行過程を追っているわれわれとしては、これだけではちょっと物足りない。

室町幕府が倒れたのはよいとして、同じ京都に存在していたはずの「舶来の」権威たち、つまり、天皇や貴族はいったいどうなったのだろうか。(次回に続きます)

今日のまとめ

  • 頼朝は関東に武家政権を打ち立て、天皇家(朝廷)と武家(幕府)が並び立つ時代を現出させた。
  • 直系家族の誕生に立ち会った北条氏の下で、朝廷(舶来)に対する幕府(地物)の優位が確立された。
  • 借り物の権威によって建国した国で独自の家族システムが生成するとシステム改変が必要となる。それが中世の動乱(西欧、日本)である。
  • 南北朝の動乱応仁の乱は、家族システムの進化、若年人口の肥大、識字率の上昇が重なる時期に起きた。
  • 小国が濫立する戦国時代は素直な直系家族システムの表れであり、日本が直系家族国家として生まれ変わったことを意味している。
  • 応仁の乱は、地域を中央から解き放ち、下克上の世を導くことで、群雄割拠の戦国時代を可能にした。