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ドイツ(1)
-日本とドイツ-

目次

はじめに

トッドの人類学理論を学び、紹介・展開していく中で、いつも引っ掛かりを感じていたのがドイツのことだった。ドイツは直系家族だ。地域によって多少のバリエーションはあるにせよ国土全体を直系家族が占めている。日本と同じである。

ドイツと日本が同じシステムであることは、他のヨーロッパ諸国との比較ではそれなりに納得できる。地道で真面目な感じ、家族的価値観の強さ、遵法意識の強さとか。

しかし、両者がそっくりかと言われると、首を傾げてしまう。私は法学が専門だった関係でドイツとは比較的接点が多かったが、日本とドイツの間に、日本と韓国以上の違いがあることは否定できないと思う。

秩序志向であるという一致した傾向の中でも、ドイツの体系的でひたすら固く真面目なあの感じは何だ。分厚いコンメンタール(法律の注釈書です)、荘厳な音楽、カントにヘーゲルにマルクス‥‥

どれをとっても、とても生身の人間の仕事とは思えない体系性と壮大さが感じられるではないか。くらべると日本はどこか散漫でいい加減で、「本当に同じ家族システムなのか?」と言いたくなるほどの異質感がある。

それには人類学的な理由があるはずだが・・と思いつつ、ドイツの話にはあまり手を出さないようにしていたが、国家と「権威」の関係、ヨーロッパにおいてキリスト教が果たした役割を探究する過程で、ようやく「あっ!」という瞬間が訪れ、一つの仮説が誕生したので、ご紹介したい。

トッドによる「日本とドイツ」

最初に、トッドが日本とドイツの違いをどう見ているかを紹介しておこう。私の知る限り、彼は日本とドイツの違いをそれほど重く見てはいない。

日本社会とドイツ社会は、元来の家族構造も似ており、経済面でも非常に類似しています。産業力が逞しく、貿易収支が黒字だということですね。差異もあります。

日本の文化が他人を傷つけないようにする、遠慮するという願望に取り憑かれているのに対し、ドイツ文化はむき出しの率直さを価値づけます。

エマニュエル・トッド『「ドイツ帝国」が世界を破滅させる』(文春新書、2015年)157頁 (太字は筆者)(以下「ドイツ帝国」) 

太字の部分は基本的に感情表現に関する事柄であり、内婚と外婚の相違に対応させて日本と韓国の相違を説明した私の分析の範囲内である。

しかし、トッドも、ドイツが歴史上時折見せる激しさやパワーに特別なものを感じてはいるのだ。

以下の引用をお読みいただきたい。

人類は皆同じと決めてかかる態度は、われわれの不安を鎮めてくれるかもしれないが、ドイツの過去の、現在の、そして未来の歴史的発展についての理解を禁じてしまう。ドイツも他の国同様の一国にすぎないと独断的に宣言するのは、人類全体の識字化や、1550年から1650年にかけてのメンタリティの大変容において、ドイツが演じた決定的な役割を見ようとしないことである。1880年から1930年にかけて発揮された、経済と科学におけるドイツの伸張のパワーを忘れることである。二つの世界大戦の戦時中にドイツが示した軍事的な有能さーほとんど超人的な有能さーを見ようとしないことである。‥‥1943年~44年頃、イギリスとソ連と米国の連結したパワーに対する抵抗において示した新たなステージの超人的有能さに到っては、ひとつの社会的・精神的構造が生み出した病理と認定するに充分であろう。‥‥ドイツは武力によって鎮圧され、1945年に分割された。するとわれわれは、あのネイションとその文化の凄まじいまでのパワーを忘れようとした。そして今、そのツケを払わされる時が来ている。‥‥

『我々はどこから来て、今どこにいるのか?下』(文藝春秋、2022年)159-160頁
(太字は筆者)

と、ドイツについてここまで言っておきながら、トッドは、日本との相違という点については、次の程度でお茶を濁してしまうのである。

考えてみれば、日本もまた、歴史上のパフォーマンスにおいて並外れていたし、今日なお並外れている国である。非ヨーロッパ諸国のうちで先頭を切って、日本は19世紀に経済的に離陸し、今なお世界の最先進国の一つにとどまっている。特許取得数は、先述のように、世界全体の三分の一にも近い。‥‥しかも、この驚くべきネイションが擡頭したのは、地震に絶え間なく晒されている列島の上でなのだ。 

同上 160−161頁

おそらく、フランス人であるトッドには、ドイツと核家族地域の違いを説明できればそこそこ満足なのだと思う。それで、すべてを「直系家族のパワー」で片付けてしまうのだ。

しかし、「はじめに」で述べたように、日本とドイツはメンタリティにも違いがあるし、歴史的経験も大きく異なっている。

並外れたパフォーマンス? 日本は確かに識字化・人口増の時代には人並みに活躍し、暴れもしたが、その後は教育の頭打ち・人口減少という基層に従って順調に停滞している。

一方、ドイツは、本来なら停滞してもよさそうなそのときに、EUを主導し、トッドが「一人勝ち」(トッド・ドイツ帝国56-57頁)というほどの経済システムを構築したりしているのだ。

そういうわけで、日本人である私はこの違いに目を瞑ることができず、勝手に新たな仮説を立てたのである。

ドイツのメンタリティ:権威の過剰?

まずは、ドイツのメンタリティについて。単に直系家族であるというだけでは説明できない何かをドイツにもたらしているものは何なのか。

今となっては答えは簡単だ。
キリスト教である。

直系家族システムの権威+キリスト教の権威=ドイツのメンタリティ

この等式が私の仮説の全てである。

同じ直系家族でありながら、日本にはない体系性や生真面目さをドイツが持っているのは、ドイツが直系家族の権威に加えて、キリスト教の権威も合わせ持っているからなのだ。

キリスト教は一神教である。

一神教とはどのようなものであったか、思い出してみよう(参照:国家と宗教ー一神教と多神教)。

一神教は、もともと、家族システムが未発達で、メンタリティの中に「権威」を受け入れる素地を持たない原初的核家族の生み出した宗教である。

原初的核家族とは、関係性を律する規則を持たない「家族システム以前」の状態(あるいはそれに近い状態)を指し、彼らは内発的に国家を生み出すことはない。

それでも、近隣に都市国家やら帝国やらが林立してその勢力が迫ってくると、自身も国家を組織しなければアイデンティティを保つことができない状況に陥るであろう。しかし、彼らの家族システムは国家形成に必要な権威を欠いている。

窮地に陥った彼らは、天上にその権威を求める。

それが一神教の神である。

世俗の人々を導いてくれる強い神、全知全能で唯一絶対の神の姿を彼岸に描き、その支配を受け入れることで、世俗の権威に代替するのである。

国家と宗教ー一神教と多神教

一神教の神の権威は、原初的核家族をどうにかして国家にまとめるという目的のためにちょうどよい強度に作られている。

家族システムの中にすでに権威の軸を持っている人々が、それに加えて、さらに強大な一神教の権威を胸に抱いていたらどうなるか。

それがドイツの場合なのである。

日本史との共通点

これより、上記仮説の検証がてらドイツの歴史を概観していくが、もしお読みでない方は、「日本史概観」を先にお読みいただいた方が分かりがよいと思う。

なぜかというと、ドイツと日本は、同じく原初的核家族の時代に「舶来の」権威を借りて建国した国家として、そして同じく直系家族システムを育んだ国家として、よく似た構造の歴史を持っているからである。

①原初的核家族である間に「舶来の」権威によって建国

②直系家族が生成し、舶来の権威と地物の権威が綱引きを始める

③地殻変動期の内戦を経て「地物」直系家族の国家体制が確立する

④直系家族と「権威」の好相性ゆえに「舶来の権威」の方も保持され

ドイツと日本は、①-④のシークエンスを完全に共有している。

ドイツも日本も、遅くとも③の段階では、①で用いた「舶来の権威」は「なくても何とかなる」という状態になっているのだが、「権威」との好相性を誇る直系家族として(平等核家族のケースはこちら)、①で用いた権威を大切に持ち続けた点も同様である(④)。

両者の違いは、日本の「舶来」品が、中華帝国にインスパイアされて自己流で作った「天皇」であったのに対し、ドイツのそれが「キリスト教」であったという、その一点だけなのだ。

ドイツ史の激しさと複雑さ

しかし、パッと見たところ、ドイツ史と日本史は、だいぶ雰囲気が違う。ドイツ史はなんか複雑だし、激しいし‥‥

違いをもたらしているのは、「キリスト教」、というか、舶来の権威の性格である。

まず、「激しさ」は、「直系家族+キリスト教」のドイツのメンタリティの産物ということでよいだろう。

では複雑さをもたらすものは何か。二点にまとめよう。

(1)「舶来の権威」の主体は(皇帝+教会)の複合体

キリスト教は、単に権威ある宗教であったというだけでなく、ローマ帝国以来のガッチリした教会組織を持っていたので、建国以来、ドイツはその組織力の方も借り受けて、行政組織として活用した。

ドイツにおける「舶来の権威」の主体は、実質的には、「皇帝+教会」の複合体であり、そのせいで、綱引きの構図がやや複雑になるのである

日本では「天皇 VS 武士」であったものが、
ドイツでは「(皇帝+教会) VS 諸侯」となる。

したがって、直系家族のドイツは、自らの家族システムに即した国家を打ち立てるために、皇帝と教会の双方を打倒しなければならなかった。

その過程で皇帝と教会の間に勢力争いが起こることも構図の複雑化に一役買うが、それほどややこしくはないので、ここで押さえておこう。

皇帝と教会はその時々の都合で協力しあったり争ったりする。両者の協力関係は諸侯にとって脅威だが(宗教改革のときがそうだった)、いがみ合ってくれるとどちらかの勢力が落ちるので、諸侯にとってはありがたい。

ドイツ史で一番重要なのは、世界史でも習う「叙任権闘争」(詳しくは次回)で、これによって(譲歩した)皇帝側の権威が低下したことが、諸侯の優位に大きく貢献したのである。

(2)「皇帝」は「西方キリスト教世界の王」の称号だった

フランク(のちドイツ)の王がローマ教皇から授かった「皇帝」の称号は、ドイツの王というより、「西方キリスト教世界の王」としての称号であったので、皇帝がその権威を保つためには、西ヨーロッパ世界での支配権を保持している必要があった。

「ローマ皇帝」であった皇帝は、実際のところ、あまりドイツ国内にはいなくて、海外に遠征してばかりいるのである(ドイツ語を話せなかった人すらいる)。

頭に入れておいていただくとよいのは、ここでも諸侯勢力にとって「棚ぼた」的状況が発生するということである。皇帝は、領土を広げたり守ったりするのに忙しく、あまり国内にはいない。その間、国内では、留守番をしている諸侯たちの勢力が必然的に強まるのである。

・ ・ ・

こうした要素があるために、ドイツにおける「(皇帝+教会) VS 諸侯」の綱引きは、承久の乱のように両者が直接戦うという構図にはなかなかならず、概ね以下のような経過をたどる。

皇帝は、教会との争いや海外遠征によってその勢力をすり減らし、諸侯がじわじわと国内での勢力を拡大する。

「プレ近代化」状況で各階層の国民が(皇帝+教会)に対して反乱を起こし(宗教改革)、これを収める過程で諸侯の優位が確定する。

最終的に、宗教改革の終盤(およびその延長戦である三十年戦争)で両者の直接対決があり、勝利した諸侯が、直系家族システムに依拠した国家体制を確立するのである。

ドイツ国家史のシークエンス(予告編)

①ー④のシークエンスにこれらの要素を書き加えて、次回の予告編とさせていただこう。次回以降、だいたいこんな感じで話が進む、というだけなので「へー」と眺めていただければと思う。

①原初的核家族である間に「舶来の」権威(皇帝+教会)によって建国

②直系家族が生成し、舶来の権威(皇帝+教会)と地物の権威(諸侯)が綱引きを始める

②-1 皇帝は諸侯の勢力を抑えるために教会を保護する

②-2 力をつけた教会は皇帝と対立(叙任権闘争)。皇帝が権威を低下させ、相対的に諸侯の勢力が高まる

②-3 皇帝は海外に支配権を広げ「帝権の絶頂期」を迎えるが、国内では諸侯が勢力を固める

③地殻変動期の内戦(宗教改革・三十年戦争)を経て、「地物」直系家族の国家体制が確立する

③-1 識字率を高めた「地物」直系家族の国民が教会に反旗を翻す(宗教改革)

③-2 反乱を収めた諸侯が支配権を確立

③-3 「(皇帝+教会)VS 諸侯」の最終決戦となり、諸侯を中心とした領邦国家体制が確立する

④直系家族と「権威」の好相性ゆえに「舶来の権威」の方も保持される

④-1 皇帝の宗教的権威、教会の権威はともに失われるが、国民は宗教改革を通じて「自分たちの信仰」を練り上げる

④-2 領邦毎に選択された信仰(カトリック or ルター派 or カルヴァン派)が領邦君主の支配下で公式に生き残る

今日のまとめ

  • ドイツのメンタリティは、直系家族とキリスト教(一神教)が重なる権威の過剰によって生み出された。
  • 直系家族である日本とドイツは、①舶来の権威による建国、②舶来の権威と地物の権威の綱引き、③地物の権威の勝利、④舶来の権威を保持、というシークエンスを共有する。
  • ドイツ史の複雑さは、①当初の権力主体が「皇帝+教会」であったこと、②皇帝がドイツ王というより「西方キリスト教世界の王」であったことによる。
  • 「天皇 VS 武士」に相当する対立軸は「(皇帝+教会) VS 諸侯」
  • 直系家族の国家体制の確立のためには、皇帝と教会の両方から支配力を奪う必要があった。
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日本史概観(4・完)
-天皇の位置-

 

目次

はじめに

「日本史概観」最終回のテーマは「天皇」である。なぜか。
ご説明しよう。

前回も書いたように、戦国時代から後の日本の歴史は、ごく標準的な直系家族国家の歴史である。

まずは小国が並び立ち、覇権争いをする。

信長、秀吉を経て、最終的に勝利を収めた家康の徳川家が統一日本の覇権を確立する。

この間、騎馬民族が侵入してきて相互に影響を与え合うといった事情もなかったので、共同体家族への進化は起こらず、直系家族のまま近代化して現在に至る。

ただし、典型的な直系家族国家の日本には、一つ、非典型的なものが存在している。それこそが、何あろう、「天皇」なのだ。

直系家族がすっかり完成したのに、なぜ、どのような形で、「舶来の」権威である「天皇」が生き続けることになったのか。家族システムと国家の関係を探究しているこのシリーズとしては、最後にぜひとも解明しておきたい課題なのである。

まずはその準備として、前回からの積み残し、戦国時代に入る直前、応仁の乱を経て室町幕府が倒れたときに、同じ京都に存在していた天皇や貴族はどうなったのか、というところから話をはじめよう。

応仁の乱と「舶来の」権威

(1)室町幕府ー京都の武家政権

真面目に日本史の勉強をしたことがない人間(私だ)にとって、室町幕府はちょっと分かりにくい。

幕府なんだから武家の政権のはずだ。しかし、場所は京都だし、花の御所に住んでみたり、煌びやかな離宮を建ててみたり、貴族みたいな雰囲気も濃厚ではないか。

金閣寺(鹿苑寺) PennyによるPixabayからの画像

鎌倉幕府から戦国時代になって徳川幕府、というなら分かりやすいのだが、その間に室町幕府があるせいで、全体の流れが一気に掴みにくくなってしまうのだ。

しかし、今なら分かる。「ローマは一日にして成らず」というとおり、鎌倉幕府が武家政権を打ち立てたといっても、鎌倉が一夜にして京都になれるわけではない。

「京都の武家政権」室町幕府の存在は、人口や教育といった人的な成長のスピードと、蓄積が物をいう「場所」の成長スピードの違いがもたらしたものなのだ。

(2)室町幕府はなぜ京都に本拠を置いたのか?

室町幕府は鎌倉ではなく京都に本拠地を置いたのか。

それには、南北朝の動乱で敵対した後醍醐天皇の動きを封じる必要があったという当初の事情に加え、都市としての京都の力があったとされる。

‥‥〔幕府が京都に置かれた〕根本は、京都がいぜんとして政治・文化・宗教の中心であるばかりか、荘園領主が集住し、全国の富や人や情報が集まる経済・流通の中心都市で、幕府が真の意味で全国政権たらんとすれば、そこに政権を置かざるをえないという点にあった。

高橋正明『京都〈千年の都〉の歴史』(岩波新書、2014年)140頁

そう。繰り返しになるが、東国で武士が力をつけて政権を確保したとはいえ、鎌倉や関東がすぐに京都や畿内と同じ程度に発展できるというわけではない。

流通経済が発達し、農村中心の社会から都市間のネットワークが支える社会に移行しつつあったこの時期、武家政権が全国を統治するには、京都という歴史ある大都市に蓄積された各種資源を活用することが不可欠だったのだ。

(3)伝統的政治文化と一体化した室町幕府

鎌倉時代がそうであったように、室町時代もまた、直系家族の地物の権威がその基盤を強化し、朝廷の「舶来の」権威を凌駕していく(かなり一直線に近い)過程(↓下図)の一部であり、室町幕府が京都に政権を置いたからといってその点が揺らぐわけではない。

しかし、室町幕府が京都に拠点を置いたことで、幕府と朝廷という二つの権威の関係性には変化が生じた。

鎌倉時代、鎌倉の幕府と京都の朝廷は並び立ち、やがて前者が優位になったものの、朝廷は政治勢力として存在し続けた。

これに対し、京都の武家政権である室町幕府は、同地における天皇や貴族、寺社勢力の権力とその文化を吸収し、一体化していくのである。

少し具体的に見ていこう。

南北朝の動乱が収まった頃、すでに幕府の優位は明らかであり、天皇や貴族が統治に実質的に関与する世の中は終わっていた。

一方で、幕府は、朝廷や寺社に直接に影響力を行使し、その力を抑え込むために、それぞれに仕える公家衆や門徒を雇って使ったりもしている(高橋・147頁)。

つまり、京都の地で幕府が朝廷の上に立つということは、幕府の下で、天皇家や公家の政治文化と武家文化が融合し、一体となることでもあったのだ。 

室町幕府に貴族風のきらびやかな雰囲気が漂うのはそのためで、皇位簒奪疑惑もある足利義満は、公家から買い上げた「花の御所」に住み、のちに金閣寺となる絢爛豪華な建物を建てて別荘に用い、公家風の花押を用いた。京都に暮らすようになった有力武士たちもまた、貴族風の贅沢な暮らしを始め、財政を圧迫させたりしていたのである。

こっちは武家様の花押で
https://nanbokuchounikki.blog.fc2.com/blog-entry-1141.html
これが公家様の花押だそうです。https://twitter.com/toki_museum/status/1269498479216230400?lang=zh-Hant

室町幕府における貴族文化と武家文化の一体化の傾向は、北条氏の歴代得宗が官位に関心を示さず「とんでもなく低い地位に甘んじていた」のに対し、足利将軍が高い官位を求めたことにも見て取れる。

京都で権力を振るう以上、将軍は「官位の上でも他を圧する地位に立つ必要があった。」

この点で、足利氏は平氏と同じ地平に立つ。だからこそ、「清盛は従一位太政大臣に達したし、義満も従一位太政大臣に達した後に出家し、法皇と同等の礼遇を受け」たのである(以上につき、近藤成一『鎌倉幕府と朝廷』(岩波新書、2016年)253頁)。

(4)応仁の乱の効果ー「舶来の権威」の決定的凋落

応仁の乱による京都の荒廃そして室町幕府の崩壊は、幕府が京の地で伝統的権力と一体化していたことにより、幕府の滅亡以上の結果をもたらすことになった。

かつて京都で権力を振るった平清盛は、貴族の衣を纏って自爆することで、皇族・貴族政治の時代を終わらせ、武家が主役となる時代を導いた。

同様に、京都の町の荒廃と同時に起きた室町幕府の崩壊は、日本に残った皇族・貴族政治の「残像」をきれいさっぱり吹き飛ばし、正真正銘の武将の時代を現出させることになったのである。

〈図解〉日本史概観 

ここまで書いてきたことのまとめとして、日本の建国から徳川の覇権に至るまでの日本史の流れを、国家の軸である「権威」に着目して図解してみよう。

①日本の建国

家族システムは進化していなかったが(原初的核家族)、中国皇帝に並び立つ存在としての「天皇」の権威を軸に国家を形成した。 

②平安時代末期

天皇家・貴族の「舶来の権威」+原初的核家族という基本構造は変わらないが、地域で武士が力を付け始める。

③平氏政権

貴族と武士の中間的な存在である平氏が政権をとる。舶来の権威+原初的核家族という基本構造の中で、平氏が「舶来の権威」に成り代わり、天皇家を抱え込む形で権力を振るう。

そして、それゆえに、 平氏の滅亡は「舶来の権威」にも大きな打撃を与えることになった。 

④頼朝による鎌倉幕府

同じく貴族と武士の中間的な存在である源頼朝が鎌倉に幕府を開き、舶来の権威(京都・朝廷)と地物の権威(関東・武家)が並び立つ体制を作り出す。関東では直系家族の生成が近づく。

⑤北条氏による鎌倉幕府

北条氏の下で直系家族が成立。権威を安定させて勢力を強め、京都の朝廷に対する優位を確立する。

⑥京都の武家政権、室町幕府

足利尊氏は全国統治の必要から京都に幕府を開き、幕府の下で天皇・貴族文化と一体化。そのため、 室町幕府の崩壊は、天皇・貴族の権威の決定的凋落をもたらした。

なお、この間、京都は核家族が基本であった(と考えられる)一方、全国では着実に直系家族が拡大していく。

⑦徳川幕府の覇権 

もちろん濃淡はあるのだが、全国に直系家族が広がり、直系家族の権威の頂点に立つ徳川家の下で安定した国家体制が確立。

天皇の位置

(1)天皇の存在は「当然」ではない

室町幕府とともに天皇や貴族による政治の残像が吹っ飛び、戦国時代を経て、みごとな直系家族の国家体制が確立した、というのが(すぐ上の)図⑦である。

しかし、それで日本から「天皇」という権威が失われたかといえば、もちろんそんなことはない。

日本に天皇がいるのは、当たり前のことのように思えるかもしれない。だって建国のときにすでに天皇はいたのだし。しかし、家族システムの観点から見ると、全然、まったく当たり前ではないのである。

例えば、日本と同じく、原初的核家族の時代に「借り物」の権威を用いて建国を成し遂げたフランスの場合である。彼らはローマ帝国の遺産であるキリスト教の権威を借りたのだが、平等主義核家族の国家体制を確立するや、直ちに宗教を公領域から捨て去った。

日本の場合も、直系家族が成立した時点で、国家の軸としての「権威」は自前で持つようになったのだから、舶来品である天皇の権威を排除したって、おかしくはなかったのだ。

(2)直系家族と天皇の相性

それでも日本が「天皇」を持ち続けたのはなぜかというと、直系家族と天皇の権威とは相性がよかったからである。

建国から約1300年を経てフランスが確立した「地物」の国家体制の基礎にあったのは平等主義核家族で、この家族システムは宗教的権威とは決定的に相性がわるかった

「自由と平等」のフランス市民にとって、宗教は「権威と不平等」そのもの、彼らの価値観に真っ向から対立する不倶戴天の敵である。

彼らの意思が政治に反映されるようになった時点で、公共領域からの宗教の排除は必然であったのだ。

カトリックとライシテのフランスー建国の秘密(西欧編) https://www.satokotatsui.com/secret-founding-european-nations/

他方、直系家族(権威と不平等)の日本の民にとって、はるかな大陸の威光に照らされ、「万世一系」の物語のもと古式ゆかしい日本の伝統を体現する存在でもある天皇は、ごく自然な敬意の対象である。

共同体家族とは違い、直系家族は自ら「帝国」を統率するに足る強大な権威を生み出すことはできないのだが、よく似たものが予め存在しているとなれば、それを排除する理由はない。

そういうわけで、いってみれば、後から成立した家族システムとの「たまさかの相性」によって、日本は地物の権威が確立した後も、天皇という存在を戴き続けることになったのである。

(3)天皇の「政治的」機能

とはいえ、天皇が、共同体家族(例えば中国)の皇帝に相当する強大な権威を担う存在であったかといえば、それは違う。

日本は中国における皇帝の存在に感化されて「天皇」を戴くこととなったが、そのやり方は最初から自己流で、文物や人的交流を通じて「権威とはこんな感じかな?」と考えながらやってみた、当時核家族であった日本人による「大陸風」である。

その後、戦国時代に至る頃までには、天皇や貴族の界隈にも直系家族システムが伝播し定着していたと思われ、メンタリティにおいて本質的な相違はなくなっていたはずである。

しかし、その生い立ち(?)に由来する「別種の」権威としての立ち位置によって、「天皇」は、自ずと、直系家族システムに欠ける点を補うべく進化していったように思われる。

二つの実例を挙げたい。

①「天下統一」の夢

二つの動乱によるシステム改変を経て、直系家族国家に生まれ変わった日本は、大名の領国が並立し互いに勢力を争う戦国時代に突入した。

このとき各地に成立した独立性の高い「国」は、いずれも直系家族システムに立脚した小国であり、織田、豊臣、徳川のいずれも、共同体家族システムの「帝国」を発展させることはなかった。

この地点から、人類学の知見をもって、日本の「ありうべき将来」を展望してみると、このたくさんの領国たちが、ときには征服したりされたりして再編を繰り返しつつ、相互に独立した国家として長く存続し続ける、ということは十分に考えられる(ドイツがこれに近い状態だった)。「統一国家の形成には適しない」というのが、直系家族システムの特性なのだから。

しかし、実際には、信長は天下統一を目指して上洛し、その事業を引き継いだ秀吉は統一を成し遂げた。直系家族システムに依拠しながら、彼らはなぜ「統一」を目指すことができたのだろうか?

考えられる理由は一つしかないと私は思う。
「そこに京都があり、天皇がいたから」である。

歴史と伝統といってしまえばそれまでだが、日本に「天皇」があり、帝国に並び立つ国家のイメージを伝えていたからこそ、彼らは当然のように「統一」を目指した。

統一に際して、信長や秀吉が天皇の権威を利用したことはよく知られているが、それ以前に、彼らが「天下統一」を夢見ることができたのは、天皇の存在があったからこそなのである。

②非常用「権威」装置

他方、すでに統一された国家の中で、覇権を確立してしまった徳川幕府にとっては、天皇はどちらかといえば邪魔な存在だった。下手に尊んで政治に口出しをされても困るし、他の大名に利用されても困る。

そういうわけで、徳川政権は、最初こそ正統性の確保のために天皇の権威を利用したものの、その時期をすぎると天皇や貴族勢力の規制と監視に努め、天皇は、祭祀や儀式の再興に努め、(人によっては)学問や歌道に打ち込むだけの存在となっていった。

しかし、そのことによって、天皇の存在に(政治的に)意味がなくなったかといえば、そうではないと思われる。その何よりの証拠は、江戸末期、日本が「内憂外患」の危機におそわれたとき、各階層の人々の間から自然と天皇・朝廷の権威を求める動きが生じたことである(山川出版社『詳説日本史 改訂版』(2020年)242頁)。

この後、1868年から1945年までの77年間、天皇が果たした役割は、私の思うに、「非常用代替「権威」装置」としてのそれだ。

直系家族の安定した政治システムは、平時には、天皇のような大きな権威を必要としない。しかし、安定性が高いからこそ、時代の転換期に大きな困難を抱えるのも直系家族であり、「別種の」権威の存在は、このときに威力を発揮する。

19世紀後半から20世紀前半、日本が「移行期」を迎え、否応なしの政治的変革に導かれたとき、天皇は、若い新政権には望むべくもない「権威」を提供し、危機の日本を支えた。

この時期については、天皇が政治的権力を持ったから危機がもたらされたかのように言われることがある。しかし、順序はおそらく逆で、日本が非常事態にあったからこそ、天皇は、その「権威」を発動し、表舞台に立つことになったのである。

③〈図解〉天皇

普段は目立たないが確かに権威として存在している「天皇」。図解してみたのが下図である。

色は白ではなく透明だ。

直系家族日本の日の丸(⑦)には、つねに、天皇の権威が重ね合わさっている。

政治体制がどのような色合いのものに変わっても、政治的に無色の存在としてそこにあり、平時には目立たず国家の一体性を支え、危機に陥ったときにのみ、表に出てきて、政治的な権威として機能する。

何とありがたい存在であろうか、と私はしみじみと思ったが、いかがであろうか。

 

おわりに

日本はいま直系家族が生み出した二度目の長期安定政権のもとにある。

この政権は、第二次大戦後、アメリカと融和的な関係を切り結ぶことで安定を築いた政権なので、アメリカ中心の世界が変わるときが、政権交代のときとなると予想される。

その激動のとき、次の安定を見出すまでの一時期に、再び天皇が日本政治を支えるというようなことがあるのかもしれない。

そんなことを考えるようになるなんて自分でも驚きだが、「概観」を書き終えた今、それはかなり現実的な可能性であるように思える。

今日のまとめ

  • 京都の武家政権(室町幕府)の下で武家の文化と朝廷の文化が一体化したため、応仁の乱による幕府の崩壊+京都の荒廃は、同時に、天皇・貴族の決定的凋落をもたらした。
  • 直系家族の国家体制確立後も「天皇」が存在し続けたのは、直系家族と天皇の「権威」の相性がよかったからである。
  • 戦国時代以降、天皇の権威は、分裂しがちな直系家族の日本の統一を保つのに役立った。
  • 直系家族の安定政権の下では、天皇の権威は、政治的危機の際に発動される「非常用代替「権威」装置」として機能する。