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イエメンQ&A

ガザとイエメンー「フーシ派」は何と闘っているのかー」の内容を元にザックリ目に解説します。「本当か?」とお思いの方はぜひ同記事をご参照ください。

目次

Q イエメンのフーシ派はなぜハマスと連帯を掲げたり、紅海で船舶を拿捕したり、アメリカ・イギリスと戦ったりしているのですか?

フーシ派、というよりイエメンの人々は、ハマス、というよりパレスチナの人々に対し、同じ敵と戦う同志という意識を持っているからです。

イエメンは2014年からサウジアラビアと戦争状態にありました。2017年からはサウジ軍によって国境を全面的に封鎖され、「世界最悪の人道危機」と呼ばれる状況に陥りました。

イエメンに対するサウジアラビアの攻撃がアメリカの全面的な支援と支持を受けて行われた一方的な(正当性のない)攻撃であった点を含め、イエメンが置かれた状況は、2008年以来のガザの状況とよく似たものでした。

一方で、イエメンの場合、状況はわずかながら改善の方向に向かっていました。

ウクライナ戦争で忙しくなったバイデン政権がサウジへの軍事的支援を減少させたことで、サウジはイエメンとの和平を模索せざるを得なくなったからです。

2023年1月にはサウジとイエメンの直接交渉が始まり、年内には合意締結か、といわれるようになった頃、ガザ危機が始まったのです。

イエメンの人々は当事者です。ガザ危機が始まったとき、彼らは、これまで自分たちに向けられていた理不尽な力の矛先が、アメリカの差配によって、今度はガザに向けられたのだということをはっきり理解したと思います。

イエメン人とパレスチナ人は、同じアラブのムスリムです。どちらも、アメリカを初めとする「国際社会」の恣意的な行動によって、長い苦しみを味わってきました。その同胞に対して、同じ敵が、(彼らから見れば)邪悪な攻撃を仕掛けている。

となれば、若いイエメンの人々(年齢中央値19歳です)が、パレスチナとの連帯を掲げ、敵方(アメリカ、イギリス、イスラエル)の駆逐を誓うのは、ごく自然なことだと私は思います。

なお、日本ではまったく報道されませんが、「フーシ派」(西側に近いメディアが勝手にこう呼んでいるだけであり、正式名称は「アンサール・アッラー」です)の今回の行動は、イエメン国民から熱烈な支持を受けています。

アンサール・アッラー(フーシ派)の行動は、アメリカに代表される西側世界やイスラエルが行使する理不尽な力から、パレスチナ人の権利を守り、イエメンの自由と独立を守り抜くというイエメン国民の意思に支えられたものです。決して「反政府組織による暴挙」といった性格のものではありません。

民間人エリアへの無差別攻撃を含む戦闘行為、全面的な国境封鎖による物資の不足等により、多数の人々が死傷し、飢餓や感染症による生命の危険に晒され、劣悪な環境での暮らしを強いられている状況を指します。

国連開発計画(UNDP)の2021年12月の報告書によると、2015年から2021年12月末までの死者数は約37万7000人。死亡原因の約4割が戦闘関連、残りの約6割は飢餓や感染症によるものだそうです

国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)によると、2023年の時点で、国内避難民は約450万人、人口の約7割に当たる約2160万人が極度の貧困状態に置かれています。

このような事態は、2015年3月にサウジアラビアがイエメンへの攻撃を開始し、イエメンが戦場となったことによって発生しました(私は勝手に「第二次サウジ・イエメン戦争」と呼んでいます)。

なお、サウジによる国境封鎖は現在(2024年3月)も続いています。

Q 「世界最悪の人道危機」の原因は内戦だと思っていました。違うのですか?

いわゆる「国際社会」は「人道危機」の原因を内戦と言い張っていますが、事実は異なります。「内戦」と呼ばれているものの実態は、サウジアラビア VS イエメンの戦争です。

イエメンでは2014年に本物の民主化革命が始まり、2015年2月にアンサール・アッラー(フーシ派)が新政権の樹立を宣言しました(西側に近い国のメディアでは「クーデター」としか言われませんが、イエメン国民の大多数はこの政権を支持しています)。

サウジの攻撃はこの革命を阻止するためのものです。したがって、サウジ側から見れば干渉戦争、イエメンから見れば革命防衛戦争ということになるでしょう。

戦争に至る経緯を確認しましょう。

1️⃣アメリカ・サウジと蜜月にあり、外国資本頼みの経済運営を続けたサーレハ政権(任期1978-2012)の下、攘夷(反米・反イスラエル)を訴えるアンサール・アッラー(フーシ派)の運動が勃興

2️⃣アンサール・アッラー(フーシ派)を脅威に感じたサーレハは、彼らの拠点があるイエメン北部にサウジアラビア軍と合同で大規模軍事攻撃(イエメン焦土作戦・2009)を展開。国民の心は政府から離れ、アンサール・アッラーの支持拡大。

3️⃣イエメンに反米・反サウジ政権が誕生することを嫌った外国勢力は、アラブの春」(2012)を利用してサーレハに退任を迫り、従来通りの「売国」政策を引き継ぐ傀儡政権を樹立(ハーディ暫定政権)

4️⃣IMF/世界銀行経由の融資を使い果たした暫定政権は2014年1月に公務員の給与支払いを停止。追加融資を得るために緊縮策(イエメン国民の命綱である燃料補助金の削減)の条件を呑んで同7月にガソリン・軽油の大幅値上げ

5️⃣怒ったイエメン国民は暫定政権の退陣を求めて立ち上がる(2014年7月〜)革命の開始

6️⃣アンサール・アッラー(フーシ派)は2014年9月に首都サナアを掌握。暫定政府は辞意を表明し(2015年1月)、アンサール・アッラーが新政権樹立を宣言(2015年2月)

7️⃣2015年2月、暫定政府は辞意の撤回を宣言してサウジアラビアに逃亡。サウジの庇護下で亡命傀儡政府を樹立

8️⃣その直後、サウジはイエメンへの激しい空爆を開始(2015年3月)。第二次サウジ・イエメン戦争が始まり「世界最悪の人道危機」へ

西側に近い国のメディアが第二次サウジ・イエメン戦争を「内戦」と呼ぶのは、アメリカやサウジが代表する「国際社会」は、亡命傀儡政権こそが正統なイエメン政府であるという立場を崩していないからです。

しかし、傀儡のハーディ暫定政権は、もともと、イエメン国内には全く支持基盤を持たない「国際社会だけが支持するイエメン政府」でした。

そのやり口に怒ったイエメン国民が革命を起こして暫定政府を辞任させ、新たな政権を樹立した今、亡命したハーディ暫定政権を「正統イエメン政府」とするのは無理筋というほかありません。

そういうわけですので、この戦争は、決して、「正統なイエメン政府軍 VS 反政府軍」の内戦ではありません。「革命によって新政権を樹立したイエメン VS それが気に入らないサウジ(とアメリカ)」の戦争です。そして、この戦争におけるサウジ軍の攻撃こそが、「世界最悪の人道危機」を引き起こしたのです。

詳しくはこちらをご覧ください

Q フーシ派ってテロ組織ですよね。フーシ派が正統な新政権の担い手だなんて、ちょっと信じられないのですが・・

アンサール・アッラー(フーシ派)は、イエメン北部のイスラム教ザイド派地域から出た真面目な政治運動です。ザイド派を再興し、反米・反イスラエルに立つ新しいイエメンを作ろうとする運動で、暴力を厭わないところを含めて、「尊王攘夷」を謳って台頭した幕末の志士のようなものと考えればよいと思います。

彼らは、サーレハ政権(ハーディの前の大統領。親米・親サウジではあったが傀儡ではなかった)の時代から政府との武力衝突を繰り返していました。今の日本では、暴力で政権を取るなんてことは考えられないので、「そんな粗暴な勢力が正統な政府なんて・・」と思う気持ちはわかります。

しかし、初代内閣総理大臣を務め、昭和の千円札にまでなった伊藤博文だって、幕末には何人も人を斬り、英国公使館に火をつけたりしていたのです。

革命に暴力は付き物です。その上、アメリカ・サウジなどの大国が日常的に介入してくるのですから、相当高度な軍事力を駆使できなければ、革命はおろか国の独立すら維持できない。それが彼らの置かれた状況です。アンサール・アッラー(フーシ派)が高度に武装しているからといって、野蛮なテロ組織と見るのは的外れだと私は思います。

アンサール・アッラーのメンバー
長州奇兵隊(wiki)

新政権は、昨年の段階で全人口の70-80%の居住地域を支配下に収めたといわれていましたが、ガザ危機に対する新政権の決然とした行動は、国民からの幅広く熱烈な支持を集めているようです。イエメンには南部に自立を志向する分離派が存在しますので、彼らとの内戦が継続する可能性はありますが、新政権の基盤が根本的に揺らぐことはないように思えます。

なお、アンサール・アッラー(フーシ派)が「国際テロ組織」とされるのは、敵対しているアメリカが勝手に「国際テロ組織」に指定しているからであって、それ以上の意味はありません。 

Q サウジアラビアやアメリカはなぜそこまでしてイエメンの革命を阻止したいのですか?

民主化革命が波及してくると困るからです。

サウジアラビアや湾岸諸国は近代化(ここでは識字率上昇を指標とします)においてイエメンに先行していますが、本格的な民主化革命を経験していません。

イエメンでの革命が波及して彼らの政体(世襲による君主制)の打倒につながることを避けたいというのが、サウジや湾岸諸国がイエメンに介入したい根本的な理由です。

この点は、実はアメリカも同様です。アメリカは、西アジアの君主制国家と親密な関係を保つことで、石油などの天然資源開発やその利権の差配による利益を大いに得てきました。産油国との関係は、石油決済におけるドル使用の確保などを通じ、ドル覇権を支える重要な要素にもなっています。

西アジアで続々と革命が起こり、真に国民の利益を代表する政権が誕生した場合、新たな政府は、アメリカの利益や為政者の保身よりも、国民の利益を重視するようになるでしょう。

イラン革命(1979)後のイランがそうしたように、天然資源の国有化を目指し、軍事力を強化し、経済・外交における自立を確保しようとするでしょう。

とりわけ、西アジア最大の産油国であるサウジアラビアの忠誠が失われることは、アメリカにとって最大の脅威の一つであり、絶対に避けなければならない事態なのです。

すでにお気づきかと思いますが、アメリカがイランを徹底的に貶め、敵視しているのもそのためです。

イランがアメリカに嫌われるのは、決して、イランが「人権無視で非民主的な専制主義国家だから」ではありません。真の理由はその正反対で、イランが本物の民主化革命を成功させ、経済・外交政策において自立し、国民の利益のための国家運営を始めたからなのです。

1974年7月にニクソン大統領の命を受けて、ウイリアム・サイモン財務長官がサウジアラビアを訪問、「米国はサウジアラビアから石油を購入するとともに、サウジアラビアに対して軍事援助を行う。その見返りとしてサウジアラビアは石油収入を米国債に還流させ、米国の歳出をファイナンスする」仕組みを提案した。サウジアラビアのファイサル国王は、自らの米国債購入が間接的に米国によるイスラエル支援に向かうことを恐れ、米国債購入については極秘扱いすることを要請したという。サウジアラビアの要請に応じ、米財務省は通常の競争入札によらず、購入実績が開示されない特別な形式によってサウジアラビアが米国債を購入できるように便宜を図ったのである(いわゆるワシントン・リヤド密約)。今日まで続いている国際的な原油取引におけるドル建て決済の慣習はワシントン・リヤド密約に基づくものと考えられ、戦後のブレトンウッズ体制崩壊後もドルが基軸通貨としての地位を維持できたことの一因にこの密約があったとも言える。

長谷川克之「サウジアラビア通貨政策の現在・過去・未来」(2023)(太字は辰井)

Q イエメンの宗教はイランと同じシーア派で、フーシ派の背後にいるのはイランだと聞いたことがあります。そうなのですか?

アンサール・アッラー(フーシ派)とイランが良好な関係にあることは事実ですが、アンサール・アッラー(フーシ派)がイランの手先とか子分ということはありません

両者は意思決定主体として独立しており、経済力や発展度合いの相違はあるにせよ、基本的に対等な関係性を保っていると見られます。

また、イエメンとイランが良好な関係にあるのは、現下の国際情勢において、両者が共通の志を持ち、共通の利害を有するからであり、宗教は関係がありません

「関係がない」といいながら、一応確認をしておきますが、宗教においても、両者は「同じシーア派」というわけではありません。

イエメンのザイド派は、たしかに、大きな括りではシーア派に属します。イランの国教である12イマーム派も、大きな括りではシーア派です。

しかし、この「シーア派」という括りが曲者で‥‥何ていうのでしょうか、キリスト教における「プロテスタント」と同じようなもので、シーア派に属するとされる諸宗派は、「主流派(スンナ派)に対するアンチ」という立ち位置を共有するだけなのです。

ザイド派の成立は12イマーム派よりも早く、12イマーム派の影響下に成立したわけではないですし、ザイド派が12イマーム派に影響を与えたという事実もないようです。

そういうわけで、ザイド派と12イマーム派は、ほとんど共通点のない(相互に)独立した宗派といってよいと思います。

詳しくはこちらをご覧ください

Q ガザやイエメンをめぐる情勢が何かもっと大きな動きにつながることはありえますか?

近年起きている大きな事件は、すべて、アメリカを中心とする世界から、ユーラシア大陸の旧帝国地域(西アジア、中国、ロシア‥)を中核とする多元的な世界へ、という大きな動きの一部を形成していると私は見ています。

崩壊の過程にあるアメリカ帝国の「最後の悪あがき」が、ウクライナ戦争であり、ガザ危機です。アメリカには、もっと穏やかに衰退し、普通の国になるという選択肢も(理論的には)あったはずですが、もう無理だと思います。アメリカ帝国は、数年のうちに自滅していくでしょう。

その後、世界は、そして西アジアはどうなっていくのか、と考えたとき、ガザ・イエメン情勢が持つ意味が浮かび上がってきます。

西アジアの近未来を想像してみましょう。

  • アメリカの退場で不和の種は激減
  • 「国民国家」という仕組みの(地域への)不適合が顕在化し、紛争・混乱を経てアラブ統一国家の樹立に向かう可能性
  • イスラム諸国とイスラエルの関係が大問題に。中国等の仲介による和平or戦争を経て、新たな秩序の構築へ

民主化革命を成功させ、パレスチナ人のために敢然と戦うイエメンは、「アメリカ後」の世界で特別に重要な国(地域)となり、世界を動かしていく可能性があります。なぜか。

アラブ諸国の中で、軍事・外交・経済政策の面で、アメリカの影響力を完全に排除できている(自主独立を保持している)国は、じつは、革命後のイエメンしかありません。

治安・軍事面でアメリカに依存してきた国々の政府(多くは世襲の君主制です)が、本物の民主化革命に怯え、自国民との関係を構築し直さなければならないのに対し、政府と国民が一丸となって、サウジ、アメリカを駆逐し、イスラエルと戦ってきたイエメンは、貧しくても悠然としていられるでしょう。

パレスチナの大義のために、国家として正々堂々と戦ったイエメンは、アラブの人々の間で尊敬を受け、国際社会においても、名誉ある地位を得るでしょう。

国際社会からの支援を得て復興を遂げた後、イエメンは、アラブ圏の中心となり、発展途上にあるアフリカの国々の先頭に立って、次の世界を率いていくのではないでしょうか。

アメリカは倒れ、西側は弱体化し、中国やロシアが力技で新たな世界秩序の基礎を作った後、大々的に再編された西アジア・アフリカが新しい形の世界の進歩をもたらしていく

ガザ危機に接した各国の行動とイエメンの大活躍は、そのような明るい未来を見事に映し出している。私はそう感じています。

人口動態も私が明るい展望を抱く根拠の一つです
「アメリカが倒れ・・」のくだりが唐突に感じられた方はこちらの連載をご覧ください。

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ガザとイエメン
– 「フーシ派」は何と闘っているのか-

目次

1 革命のイエメン

イエメンはいま革命の只中にある。誰もそんなことを言う人はいないが、そうなのだ。CIAが仕組んだ「カラー革命」なんかとは違う、フランス革命と明治維新を足して2で割ったような本物の市民革命だ。

イエメンは西アジアの中でもっとも近代化が遅れた国で、20-24歳の男性の識字率が50%を超えたのは1980年である(↓)。彼らは、日本の150年前、フランスの250年前くらいの時期を迎えているわけなので、いまが市民革命の真っ只中というのは、人類史の過程として全く正常といえる。

イスラム諸国の近代化(トッド/クルバージュ『文明の接近』(藤原書店、2008年)31頁より)

世間では、イエメンはいま「世界最悪の人道危機」に陥っていて、その原因は内戦であるとされている。私の調査によれば、それは真実ではない。真実はこうだ。

イエメンに攻撃を加え、国境封鎖までして、「人道危機」を引き起こしているのは、イエメンの革命を阻止したい外国の勢力である。イエメンで起きているのは、革命のイエメンに対して外国(サウジ、アメリカほか「国際社会」)が仕掛けた干渉戦争なのである。

しかし、いったいなぜ、近代化において先行しているはずの諸外国は、そんなにまでしてイエメンの民主化を妨害しなければならないのであろうか。

イエメン情勢に深く関わる勢力は、サウジ、アメリカ、IMF/世界銀行。私にとっては「基軸通貨ドル」の総復習のような事例だった。

2 イエメンの旧体制(アンシャン・レジーム)

(1)イエメンの近代化

イエメン革命の中心地は北部、首都サナア周辺の山岳地帯である。この地域は、859年以来、ザイド派イマーム(宗教指導者)が王として統治していた。

Northern Yemen (Photo by aisha59, available at Flickr.)

しかし「歴史」でも書いたように、イマーム=国王が安定した中央集権を実現していたわけではないという点は重要である。イエメン北部には部族単位の地域共同体があって、その長が大きな力を持っている。国王は、彼らの協力を取り付けなければ、決して国をまとめることはできなかったのだ。

オスマン帝国の支配を受けた時代にも、北部地域はオスマン帝国への抵抗を続けた。ということは、その時期も、イマーム=国王がいて、部族長が治める地域共同体があるという国の基本構造が失われることはなかったということである。

イエメン史の中心にはいつもこの北部地域の部族社会がある。この地域を中心に、市民革命に至る近代化の歴史を描くと、その過程は以下のようにまとめることができる。

1️⃣イエメン王国の成立(1918):オスマン帝国からのザイド派イマーム王国の独立

2️⃣イエメン・アラブ共和国の誕生と確立(1962-68):イエメン革命(1962)によって共和国が成立。内戦を経てザイド派イマーム王朝が終焉を迎え、共和政体が確立

3️⃣強権的リーダーによる近代化(1968-2012):共和国の確立後も政権交代は主にクーデター、強権的なリーダーの力で近代化が進められた。ハムディ政権(1974-1978)の後に長期政権を確立したのがアリー・アブドッラー・サーレハ(Ali Abudullah Saleh 1978-2012)。

このサーレハの時代こそが、現在の革命にとっての旧体制(アンシャン・レジーム)である。

(2)サーレハ政権末期

サーレハは毀誉褒貶(というか毀と貶)の激しい人物だが、アメリカやサウジの意向で政権を追われた人物であるから、その全てを真に受けることはできない。彼の任期全体についての概観は現在の私の手には負えないので、政権末期の状況を中心に、要点を確認しよう。

2004年アメリカ国防総省でのサーレハ(wiki)

①サーレハと石油

1940年頃には石油生産を始めていたサウジなどと異なり、イエメンが産油国となったのは1980年代に入ってからである(おそらく1985年頃)。

サーレハ大統領は、長年続いた内戦からの国家再建のために石油・ガス開発に取り組み、石油開発を成功させて、経済を活性化させた。

そこまではよかったのだが、サーレハは、分裂含みのこの国をまとめていくにあたって、地域や勢力間の利害調整を行い、共通の基盤を形成するという根気のいる仕事に取り組む代わりに、北部の部族長やら、南部の分離派勢力、対立する議員を、石油利権で懐柔するという安直な方法に頼った。

国の経済についても、持続的な発展の基盤の上に、近代国家としての仕組みを成り立たせるのではなく、公務員の給与から施設の整備まで、すべてを石油収入に依存した。

サーレハは、石油利権や、1980年代に急増した外国からの開発資金をほしいままに分配することで、自らの権力を固めつつ、イエメンを石油(と外国からの資金)なしには成り立たない、不安定な国家に仕立てていった。

この記事を大いに参考にしました

②サーレハとアメリカ:湾岸戦争の経験

サーレハ政権は、就任当初から、外国からの開発資金を積極的に受け入れる政策を取った。石油開発もおそらくアメリカなどの資金であろう(調べていません)。

ただ、その頃のサーレハが「親米」であったかどうかはよくわからない。サーレハは湾岸戦争の際に中立の姿勢を保った(要するにアメリカ側に付かなかった)ことで知られている。このことから推察するに、当初のサーレハは、ごく普通に、国家建設や政権の安定に必要な限度で外国からの資金を受け入れるが、だからといって外国の言いなりにはならない、という気分でいたのではないだろうか。

しかし「是々非々」の常識は「国際社会」には通用しなかった。湾岸戦争でアメリカ率いる多国籍軍側につかなかったことで、イエメンは、アメリカをはじめとする「国際社会」や周辺のアラブ諸国から総スカンを喰らい、外国からの資金は激減、深刻な経済的困窮に陥ったのだ。

このときの経験が、おそらく、サーレハと、のちに革命を率いることになる若者たちの行く先を分けることになる。サーレハの方は、アメリカをはじめとする「国際社会」や湾岸諸国の資金なしに政権を維持するのが不可能であることを悟り、親米・親サウジの現実路線を選択した。他方、若者たちは、アメリカ、サウジの横暴に怒りを募らせ、これに迎合してイエメンの外国依存度をいっそう高めようとするサーレハ政権にも怒りを向けたのだ。

湾岸戦争後の経済的困窮の中、イエメン各地で頻発するようになった反米・反サウジの抗議運動は、政府への抗議運動と重なり、不安な政情の下に、革命の下地を形成していくのである。

③IMF/世界銀行への依存度の増大

イエメンは1990年に南北統一を果たしているが、サーレハ政権への南イエメン側の不信感は収まらず、1994年には内戦が勃発している。内戦はすぐに(2か月)終わったが、経済的困窮の度は増した。 

こうした中、サーレハ政権は、IMF/世銀からの多額の融資と構造調整プログラムの受け入れを決める。多額の開発資金という「毒饅頭」の受け入れは、サーレハの当座の権力基盤を強化し、同時に、GDP成長率を急激に押し上げた。

しかし、「ワシントン・コンセンサス」に忠実なプログラムー公務員数の削減、増税、補助金の削減、金融・資本自由化等ーが、イエメン経済の安定的な成長を阻み、経済の土台を不安定化するものであったことは疑いない。

開発資金の流入による目先の利益を求め、IMF/世界銀行(≒ アメリカ)への依存度を高めるサーレハ政権に、安定した生活基盤を求めるイエメン国民そして「憂国の志士たち」の不信感はいよいよ強まったはずである。

IMF/世界銀行のやり方の問題点についてはこちらをご覧ください。

この(記事の)先の理解のキーになるポイント3点を予め解説しておきます。必要を感じたら戻ってお読み下さい。

公務員:発展途上の国家としては当然のことだが、イエメンでは公務員の存在が極めて大きい。教師、医師、ソーシャルワーカー、建設労働者、各種技術者、警察官などのあらゆる仕事を公務員が担っており、彼らの雇用が維持され、給与がきちんと支払われるということが、イエメン社会にとって決定的な重要性を持っている。IMF/世界銀行の「民営化」方針によって公務員の数が削減されたり、その他の事情で給与の支払いが停止すれば、直ちに社会の緊張・不安が発生する。そういう構造の社会である。

燃料補助金:イエメンが石油によって上げる利益が国民に還元される主なルートは燃料補助金。補助金による安価なガソリン・軽油が多くの国民の生活を支えている(燃料補助金の恩恵を受けていたのは貧困ラインよりも上の人々だったとされている)。

社会福祉基金(the Social Welfare Fund):おそらく1995年以降の支援の過程で世界銀行が創設した基金で、イエメンにおける唯一の社会福祉プログラムだった。資金も全面的に世界銀行が拠出しており、石油が払底してからは燃料補助金(の一部?)もこの基金から支払われていた(公務員の給与もこの基金から出ていたという話もある)。設立当初(1996年)の10万人だった支援対象者は、2000年には100万人を超えていた。社会福祉を必要とする貧困世帯はイエメンの場合、国民の半数近くに及んでいる。つまり、IMF/世界銀行は、社会福祉基金への資金提供(→燃料補助金の維持と貧困世帯への支援)を通じて、イエメンの人々の生殺与奪の権を握る存在となっていたのだ。

④払底する石油

こうした中、外国からの援助(+出稼ぎ)以外の唯一の資金源であり、政治的安定の要でもあった石油の産出に翳りが見え始める。

1980年代にようやく石油産出国となったイエメンの石油生産高は、1990年代後半には早くも減少に転じるのである。

石油が底をついたことで、サーレハの求心力はあからさまに弱まり、権力失墜の過程が始まる。同時に、経済には暗雲が漂い、IMF/世界銀行への依存度はいっそう強まる。

「革命前夜」のイエメンである。

3 革命の端緒:イエメン焦土作戦

(1)アンサール・アッラー(フーシ派)の勃興

世間では一般に「フーシ派」と呼ばれるアンサール・アッラーが勃興したのもこの頃のことである。幕末の日本で「尊王攘夷」が盛り上がったのと全く同様に、北イエメンでは、ザイド派の再興を図り、反米・反イスラエルの機運を高めようとする運動が盛り上がった。ザイド派のウラマーを父に持つフセイン・バドルッディーン・フーシ(1959-2004)が1990年頃に立ち上げた青年信仰運動。それがアンサール・アッラーの起源である。

アンサール・アッラーは基本的に生真面目な若者たちの集まりであったと私は思うが、政権側から見て、アンサール・アッラーの勃興が「脅威」と感じられたことは疑いない。

イエメン史を通じて基幹的な政治的影響力を手放したことのない北部ザイド派地域から出た運動であること、サーレハの提供する各種利権に懐柔された部族長たちの不甲斐なさに不満を抱く若者たちの運動であること、加えて、イエメンは出生率が低下を始めたばかりの時期、つまり、若年人口極大化(ユースバルジ)の時期に当たっていたこと(↓)。

サーレハ政権にとっての脅威は、政権と蜜月の関係にあるサウジやアメリカにとっての脅威でもある。2004年にフセイン・バドルッディーン・フーシがイエメン当局に殺害されて以降、反対勢力には「フーシ派」と呼ばれるようになったアンサール・アッラーは、こうして、明確に、国際社会の「敵」と位置付けられるようになった。

これは2020年のピラミッドですが、35年分ずらして見ると、ユースバルジ(若年人口の団塊)が一層顕著であることがわかります。

(2)イエメン焦土作戦(Operation Scorched Earth 2009)

これもほとんどどこにも書いていないのだが、アンサール・アッラーが率いる現在の革命の端緒といえるのは、2009年にサーレハが実施したイエメン焦土作戦(Operation Scorched Earth 8月-2010年2月)である。

イエメン北部サーダ(Saada)で発生した政府への抗議運動を口実に、イエメン政府とサウジアラビアは北部ザイド派地域に対する合同軍事作戦を展開した。

イエメン軍の地上部隊は北部に散らばるアンサール・アッラーの拠点を、サウジ空軍は部族勢力の居住地域を執拗な空爆で攻撃。数ヶ月に渡る作戦で、北部住民を中心に8000人以上のイエメン人が死亡、50000人以上が強制退去させられたという。

サーレハがサウジと組んで行ったこの作戦は、当然のことながら、イエメン中の人々を激怒させた。貧しく若い国民にとって「敵」に近いのはどちらかといえばサーレハやサウジであって、アンサール・アッラーではない。イエメン政府でありながら、サウジと組んでの「焦土作戦」とは何事か。

こうして、人々の心は政府から離れた。長年サーレハを支えてきた部族勢力、ザイド派、そして南部の分離派運動の担い手までもが、サーレハの非道なやり方に怒り、アンサール・アッラーとの連帯を示し、反政府で団結した。

この作戦を機に、イエメン全土で、政府側と反政府側が散発的に交戦する内戦状態が始まった。北イエメンではアンサール・アッラーとサーレハ政府が、南イエメンでは分離派とAQAP(アラビア半島のアルカーイダ)が、1年近くに渡って戦闘を繰り広げた。

(3)「焦土作戦」の背景:世銀レポート

イエメン焦土作戦は、アンサール・アッラーの反政府運動を鎮圧するための軍事行動と説明されるのが一般的であるが、その真実性はかなり疑わしい。

この時期、イエメン政府とサウジアラビア、そしてIMF/世界銀行(≒ アメリカ)には、イエメン北部を「焦土」にしたい明確な理由があったからだ。

イエメンにおける石油の将来が暗いことを知った世界銀行は、新たな投資・開発の対象として、イエメンの鉱物資源とその開発状況に関する調査を行った。

世界銀行「イエメン 鉱物開発部門の調査報告(2009年6月)」(Yemen Mineral Sector Review, June 2009)の中で、執筆者は、イエメンがサバア王国(潤沢な金の産出で知られていたらしい)の地であることに触れ、「イエメン西部がそれらの金の産出源であることが明らかになっているにもかかわらず、近代以降、金の採掘がほとんど行われていないのは驚くべきことのように思われる」と述べる。

その同じレポートの中で、世界銀行は、イエメンの鉱物部門が投資先として非常に有望であることを示しつつ、投資および開発にとって脅威となりうる要素として以下の2点を挙げているのだ。

・イエメン北部の反乱は投資家の国に対する印象を悪化させる。
・部族の土地では資源へのアクセスが困難である可能性がある。

このレポートが公表された2ヶ月後、イエメン政府とサウジアラビアは「焦土作戦」を実施した。

彼らが、1️⃣鉱物資源へのアクセスを容易にし、2️⃣アンサール・アッラーを叩く、という一石二鳥を狙っていたのだとしたら、作戦は1️⃣については失敗、2️⃣については逆効果に終わったことになる。

甚大な被害を出したにも関わらず、政府は勝利を宣言することはできなかった(1️⃣は失敗)。それどころか、全国民を敵に回し、革命の導火線に火をともすことになったのだ。

4 前哨戦:イエメン尊厳革命(2011)

(1)イエメンに到達した「アラブの春」

https://en.wikipedia.org/wiki/Yemeni_Revolution#/media/File:Yemen_protest.jpg

2010年12月にチュニジア、2011年1月にエジプトに到達した「アラブの春」の波を受け、イエメンでも学生を中心とするデモが始まった。

学生の要求は当初は失業、経済、汚職に関するものだったというが、要求はエスカレートし、彼らはやがてサーレハ大統領の辞任を要求するようになった。

サーレハはいつも通りの強硬な対応を取り、軍の鎮圧によって2000人以上の市民が死亡、数百人以上が負傷した。

決定的な転機として知られるのは「変革広場(Change Square)の虐殺」である。サーレハは、学生たちがサナアの大モスクから金曜礼拝を終えて出てきたところを軍に実弾と毒ガス弾で狙い撃ちさせ、90人の学生のうち52人を死亡させたという(生存者の約4割は脳障害等の傷害を負った)。

この事件の後、軍のトップであり長年イエメンのナンバー2と目されてきたアリー・ムフセン・アブダッラー(Ali Mohsen Abdullah)が公式にサーレハ政権からの離反を表明し、サーレハの辞任は避けられない情勢となった。

・ ・ ・

というのが、一般に言われている筋書きなのだが、どうでしょう。私はこれをその通りに受け止めることができない。

学生がデモを始めたところまでは、自発的な動きかもしれない。しかし、その後、彼らがサーレハの辞任を要求するようになるまでの間に、外国勢力(アメリカが中心)の介入があったのではないだろうか。

2011年のデモについては、イギリスの監督による映画「気乗りのしない革命家」があって、学生たちがツイッターによるエジプトから指示を受けながらデモを実行する様子が映されているという(私は見ていない)。

さらに、このデモで負傷した息子を抱き抱える女性を撮影した写真が、2012年の世界報道写真大賞に選ばれている。

その上、「尊厳革命(the Yemen Revolutionary of Dignity)なんていう立派な名前を付けられて。

どう見ても怪しい、と私は思う。

(2)サーレハの辞任

約10ヶ月の抗議運動の後、2011年11月にサーレハ大統領は正式に辞任するのだが、これを「民衆の勝利」と評価してよいのかはわからない。

なぜかというと、サーレハが辞任を約束したのは、2011年6月に大統領官邸のモスクで謎の爆弾事件が起き、身体の40%の火傷、頭部負傷、内臓出血で死にかけて運ばれたサウジアラビアの病院で、当時のオバマ政権の国土安全保障・テロ対策大統領補佐官で後にCIA長官となったジョン・ブレナンと面会した後のことだからだ。

尊厳革命でサーレハをめぐる情勢が悪化して以来、サウジアラビアをはじめとするGCC(the Gulf Co-operation Council:湾岸協力理事会)諸国は、サーレハに対する早期退陣を説得していた。

サーレハは、GCCが仲介する権力の平和的移行のための協定への署名を繰り返し拒否していたが、爆破事件の2週間後、オバマ大統領からの書簡を携えてサーレハ大統領と面会したブレナンは、GCCが仲介する合意に署名し辞任するよう要求したという(以上アルジャジーラ)。

結局、サーレハは、サウジの事実上の国営メディアであるアル=アラビーヤが生中継する中、リヤドのアル・ヤママ宮殿で合意に調印(2011年11月23日)。身柄の保証や訴追免除等を条件とした権力の移譲に合意した(GCCイニシアチブ)。

https://www.cbc.ca/news/world/yemen-president-agrees-to-step-down-1.990428

(3)「国際的に承認された」新政府:傀儡政権の誕生

サーレハの後、代行を経て大統領に就任したのは、アブド・ラッボ・マンスール・ハーディである。

2013年のハーディ(これも場所はアメリカの国防総省)

彼は南イエメンの出身だが、同じく南部出身の副大統領(アル・サーレム・アル=ビード)が1994年の内戦で敗北した後、その後任として副大統領になった。以来、一貫して、サーレハの片腕であった人物である。

ハーディは、IMF/世界銀行への依存度を高める政策においても、サウジと組んでのイエメン焦土作戦の実施においても、サーレハの共犯者であった。したがって当然、抗議運動に参加したイエメンの民衆は彼の大統領就任を歓迎しなかった。

サーレハを辞任に追い込み、ハーディに跡を継がせるというこの一連のプロセスの筋書きを書いたのは国連所属の外交官でイエメン特使(2011-15)を務めたジャマル・ベノマール(Jamal Benomar)だとされている(本人が2021年のニューズウィーク誌に書いているという)。

それにしても、「尊厳革命」と(西側に)持て囃された反政府運動の末に辞任した大統領の跡を、長年連れ添った副大統領に継がせる、というのは一体どういう筋書きなのか。

「決まっている」と私は思う。

サーレハ政権末期、サウジやアメリカに代表される「国際社会」とサーレハ政権の利害は一致していた。「現実路線」を選択したサーレハは、外国からの資金を積極的に受け入れ、構造調整プログラムも大人しく実施したし、IMF/世界銀行(≒ アメリカ)やサウジ、UAEが推進したい鉱山開発のためには、自国民を犠牲にすることすら厭わなかった。

しかし、その「焦土作戦」は、予想外の反発ーアンサール・アッラー以外の勢力も一丸となって反対するというーを生み、事実上、サーレハの下で開発を進めることは不可能な状況に陥った。

そこで、アメリカ、サウジなどの「国際社会」は、すべての責任をサーレハに押し付け、何もかも承知しているハーディを後釜に据えた。

はっきりさせておこう。

ハーディの大統領就任によって、イエメン政府は本物の傀儡政権になった。曲がりなりにもイエメン共和国の正当な大統領であったサーレハと異なり、ハーディ、そして2022年4月にその後を継いだアリーミー(大統領職は廃止され、大統領指導評議会議長)が率いる「国際的に承認された」イエメン政府は、もはや、イエメン国内にはまったく支持基盤を持っていない。「国際社会」だけが支持する政権なのである。

5 革命本番へ(2014年7月〜)

(1)引き金を引いたIMF/世界銀行

本物の革命のスタートは2014年7月。イエメン社会にはすでにそのエネルギーが満ちていた。しかし、2014年に7月に革命が始まるよう仕向けたのはIMF/世界銀行である。

世界銀行を経由したイエメン政府への融資は、ハーディの着任以降急増していた。しかし、2014年1月、政府は融資に対する基本手数料の支払いができなくなり、(おそらく融資が中断されて)政府は資金難に陥った。公務員に対する給与の支払いは停止され(1月〜)、社会福祉基金の資金もなくなった(代替するセーフティーネットは存在しなかった)。他になすすべもなく、政府はIMFに手数料支払いのための援助を求めた。

2014年5月、IMFとイエメン政府は、政府が要請した5億6000万ドルの融資について協議した。IMFはイエメン政府に燃料補助金を削減し、燃料価格を引き上げて歳入を確保するよう要請した(債務の返済に充てるため)。ハーディは、融資の条件として2014年10月から段階的に燃料補助金の削減を行うことを約束したが、IMFは納得せず、より早期に燃料補助金の削減を行うよう圧力をかけた。

この時点で、IMF/世界銀行は、燃料補助金がイエメン社会にとって極めてクリティカルな事項であること、セーフティーネットの構築なしに燃料補助金の削減=燃料価格の引き上げを行えば、イエメンに大きな社会不安が発生することを十分に承知していた(世界銀行のプロジェクト評価文書に記載がある)。それにもかかわらず、IMFは、今すぐ、思い切った燃料補助金削減=燃料価格の引き上げを行うよう、ハーディに迫ったのである。

(2)「名なし」の抗議運動が勃発

2014年7月、いまだ公務員の給与が支払われない中、政府は燃料価格の引き上げを行った(ガソリン価格60%、軽油価格95%値上げ)。燃料価格の高騰でパンの輸送費は一晩で20%上昇、人口の60%を占める農業従事者は農機具を動かす燃料を賄えなくなり失業が蔓延、商品は不足し、市場は閑散とした。

案の定、2011年を超える規模の抗議運動がイエメン政府を襲った。首都サナアにおける学生主導の運動であった2011年の「尊厳革命」と異なり、今度は各種労働者、部族勢力、貧困層、学生など、あらゆる人々が、イエメン全土で立ち上がった。

それにもかかわらず、2014年に始まった抗議運動には「尊厳革命」のような名前がついていない。理由は明らかだと思われる。「国際社会」(アメリカ、サウジほか)にとって、彼ら自身の傀儡政権に対する抗議運動は(少なくとも建前上は)不都合なものである。美しい名前など付けて称賛している場合ではない。

しかし、将来、イエメンが自律的な秩序を回復した暁には、こちらの運動こそが、長く困難な革命の始まりを告げた事件として記憶されることになるだろう。

8月22日サナア アンサール・アッラーの支持者が傀儡政権の辞任を求めるデモの最中に祈りを捧げる様子(Reuter

(3)革命政権の樹立

抗議運動の中心にいたアンサール・アッラーは、2014年9月、首都サナアを掌握した。

ハーディの政府は一切抵抗せず(怪しいですね・・)、国連の仲介でアンサール・アッラーとの間で協定を結び(the Peace and National Partnarship Agreement)を結んでサナアを共同統治するという体裁を確保した。しかし、軍事力を伴う実際の統治権がアンサール・アッラーに移ったことは「誰の目にも明らかだった」。

アンサール・アッラーは2015年1月下旬に大統領府・官邸と主要軍事施設、メディアを掌握。ハーディ大統領と首相は辞任を表明し、2月6日、アンサール・アッラーが新政権の樹立を宣言した。

(4)「内戦」名下の干渉戦争ー第二次サウジ-イエメン戦争

これを受けて、2015年3月、サウジ率いる有志連合軍(the SLC:Saudi-Led Coalition)は(なんと!)イエメンへの空爆を開始する。第二次サウジーイエメン戦争の始まりである。この戦争を「第二次サウジーイエメン戦争」と呼ぶ人を私は今のところ見たことがないが、どう見てもそれが実情なので、そう呼ぶことにする。

サウジによるイエメンへの攻撃は、イエメンで起きている革命に対する純然たる干渉戦争である。それなのになぜ、世間はこれを「内戦」と呼ぶのかといえば、「国際社会」が、予め、これを「内戦」に見せかけるためのお膳立てをしておいたからである。

傀儡政権のハーディは、2015年1月に辞任を表明した後、2月末になってこれを撤回する意向を表明し、自分たちこそが正統なイエメン政府であると改めて主張した。直後に(3月)彼はサウジに逃亡し、サウジに庇護される形でリヤドに亡命政府を置いたのだ。

これによって、本当は「サウジ VS サナア政府(アンサール・アッラー) 率いるイエメン」(サウジ・イエメン戦争)である戦争の構図は、「国際的に承認されたイエメン亡命政府 VS サナア政府」の戦い(内戦)に書き換えられた。以後、サウジがイエメンに対して行う蛮行は、すべて「内戦」への介入(「正規の政府軍への支援」)と位置付けられることになったのである。

確認しておきたい。「国際的に承認された」政府のイエメン国内の支持基盤はゼロである。したがって、ハーディ傀儡政権 VS アンサール・アッラーの戦いはいかなる意味でも「内戦」ではない。実態は純粋なサウジ(ないし「国際社会」) VS イエメン の戦争なのだ。

(5)無差別爆撃と国境封鎖ー「史上最大の人道危機」へ

2015年3月、サウジはイエメンの空爆を始めた(Operation Decisive Storm:決意の嵐作戦)。彼らの攻撃は最初から無差別爆撃で、民間人の居住地域が破壊され、多くの犠牲者が出た。

サウジ連合軍は、当初から、国連の承認を取り付けて、ある程度の国境封鎖も行なっていたようだが、2017年11月4日、サウジアラビアの空港を狙ったイエメン国内からの弾道ミサイル発射が確認されると(サウジは「迎撃した」と発表)、国境封鎖の範囲をイエメン全土に拡大した。

国連はすぐに、サウジ連合軍による無差別爆撃と国境封鎖が、イエメンにどれほど破滅的な影響を及ぼすかに気付き、注意を喚起した。

国連の専門家パネルは、サウジが意図的にイエメンへの人道援助物資の搬入を妨害していることを指摘し、何百万の市民を飢餓に陥らせるおそれのある措置の合理性に疑問を呈していたし、国連の人道問題担当長官も、国境封鎖が続けば、何百万人が飢餓によって死亡し、世界が数十年来経験したことのないレベルの人道危機が発生すると指摘した

指摘はそのまま現実となった。2021年12月の国連開発計画の報告書によれば、2015年から2021年12月末までの死者は37万7000人に達する見込みであり、死因の4割は爆撃などの戦闘関連、残り6割は飢餓や感染症であるという。そして、これを書いている2024年2月、国境封鎖はまだ解除されていない。

こういうことである。

イエメンにおける「世界最悪の人道危機」は、内戦の激化によってひとりでにもたらされたものでは決してない。

サウジは、最初から、民間人の犠牲を全く厭わず、イエメンの国土を破壊することを意図して攻撃を開始し、それを全面的に支持・支援したアメリカは、犠牲が増え続ける中でも、軍事的支援の手を緩めることはなかった。

国連もまた(アメリカが支援している以上当然ではあるが)、サウジの攻撃を止めるための有効な手立てを講じることはなかった。

でも、なぜ?

サウジの方から行こう。

6 アンサール・アッラーとサウジの和平交渉

(1)サウジはなぜ戦争を起こしたのか

「決意の嵐作戦」を指揮したのは、ムハンマド・ビン・サルマーン王太子(当時国防大臣)とされている。サルマーンは、数日でサナアを奪還できるという見通しで作戦を始め、泥沼にはまった。

若きプリンス、ムハンマドはなぜイエメンに介入したかったのだろうか。

2つの理由があったと考えられる。1つはサウジ(というか湾岸諸国)固有のもので、もう一つはアメリカとの関係に関わるものだ。

サウジは1957年に男性識字率50%の時期を迎えているが、民主化革命を経験していない。

幕末日本に例えると、ムハンマドは徳川慶喜である。1985年生まれの彼は、民主化 ≒ 近代化の流れが不可避であることも、アメリカ頼みの国家経営が盤石でないことも理解しているであろう。とはいえ、せっかく王子に生まれ、王太子の地位を手に入れたのだから、その地位を生かして活躍したい。革命で倒される役回りなどまっぴらごめんだ。

そういうわけで、隣国イエメンで本格的な革命が始まった時、ムハンマドはまず、それを潰さなければならなかった。「遅れた」国であるはずのイエメンの革命は、サウジに波及し、彼の地位を危うくする可能性が大であるからだ。

加えて、イエメンへの介入は、アメリカとの軍事的・経済的な相互依存(ないし共存共栄)の関係を強化し、サウジの政権基盤の当面の安定にもつながるはずだった。

2009年以来、「国際社会」は、サウジやUAEを表に立てたイエメンでの鉱山開発に並々ならぬ意欲を示しており、イエメンが自立し、コントロールが効かなくなることをおそれている。サウジとアメリカの利害は完全に一致しているのだ。

アメリカの全面的な支持と支援が約束されている以上、イエメンでの勝利は容易であり、確実だ、とムハンマドは思ったであろう。革命勢力を潰し、傀儡政権を維持できれば、イエメンはサウジの属国同然となる。その華々しい成果は、サウジ王室への国民の支持をつなぎ止め、民主化への流れを抑えるのに役立つはずだ。

そう考えたムハンマドは、電撃的勝利を夢見て「決意の嵐」を吹かせたが、アンサール・アッラーはしぶとかった。そこで、ムハンマドは、イランに責任を転嫁し(「背後で支援している」と攻め立て)、国境を封鎖しあらゆる物資の供給をストップするという非情な手段まで動員した。それでも、サウジ連合軍はアンサール・アッラーの勢力拡大を抑えることができず、イエメン全人口の70-80%の居住地域がアンサール・アッラーの支配下に入る事態となった。

ここまで来ると、サウジとアメリカの利害は分かれる。アメリカにとってイエメンそのものは取り立てて重要な国ではない。イエメンの開発がうまくいかないなら他に行けばよいだけだ(他国が取りにくれば別)。しかし、サウジにとっては、イエメンは国境を接する隣国だ。激しい憎悪を掻き立てて、そのままにしておくわけにはいかない。

(2)単独・直接の和平交渉へ

バイデン政権が始まり(2021年)アメリカからの武器供与や後方支援が縮小すると、サウジは出口を探し始める。

停戦に向けた動きはいろいろあったようだが、大きく報道されたものとしては、国連の仲介による2022年4月の停戦合意があった。しかし、この合意は結局は機能しないまま終わった。

より重要なのは、2023年1月に、国連やその他の関与なしに、アンサール・アッラーとサウジの直接交渉が開始されたことである。

こちらを参照しました。

2022年12月、アンサール・アッラーは会談したオマーンの代表団にイエメン北部全域に設置されたミサイル発射基地の地図を見せ、彼らがサウジアラビア域内、具体的にはリヤド国際空港をいつでも攻撃できる態勢にあることを伝えるとともに、サウジ当局への伝達を依頼。オマーン代表団はアンサール・アッラーが攻撃可能な標的を示した地図を見せてサウジを説得し、サウジは直接交渉に臨むことを決める。

2023年1月の交渉の席では、アンサール・アッラーは同様の情報をサウジに直接伝えた上、サウジがイエメンの封鎖を解除しないなら、サウジの空港が封鎖されることになると述べたという。サウジは和平の必要を認め、封鎖の解除・公務員への給与支払を条件に含めた和平の実現に前向きな姿勢を示した。

2023年1月 サナア サウジ連合軍の国境封鎖に対する抗議デモ
スローガンは「Blockade is War!(国境封鎖は戦争だ)」

https://twitter.com/syribelle/status/1611468741128212501?s=21&t=nkoK3iQUHJ20Ik_BJLG4oQ (デモの動画が見れます)

この直後、西アジア情勢に大きな動きがあった。サウジとイランの外交関係正常化である(2023年3月・仲介は中国)。当時の私には考えが及ばなかったが、今思えば、サウジをイランとの関係改善に向かわせた要因の一つは、イエメンであったかもしれない。

アンサール・アッラーを裏で操っているのがイランだというのは嘘である。しかし、両者が良好な関係にあることは事実なので、サウジが、イランを間にはさんで、イエメンと安定した関係を構築することを考えたということは十分にありうる。

ともかく、サウジとイランの関係正常化は大事件だった。これを契機に、サウジとイエメン、サウジとシリアの関係が改善に向かう可能性があったし、立役者であった中国はパレスチナーイスラエルの和平の仲介にも積極的な意向を示していた。

ひょっとして、西アジアについに平和が訪れるのか、という明るい展望が開けたそのとき、ガザ危機が起きたのだ。

5 ガザとイエメン

(1)ガザ危機とアメリカ

ガザ危機へのアメリカの関与は、基本的に、サウジによる「決意の嵐」作戦への関与と類似のものだと私は思う。

つまり、サウジにはサウジ固有の動機があり、イスラエルにはイスラエル固有の動機がある。アメリカはそれを後押しするだけだ。

しかし、アメリカという覇権国家の全面的な支持と支援は、イスラエルやサウジといった普通の国家が本来なら成し得ないことを可能にしてしまう。加えて、アメリカは、自らの許可を得てから実行するよう含めておくことで、実行のタイミングをほぼ完全にコントロールできるのだ。

サウジがイエメンに「決意の嵐」を吹かせ、イスラエルが(念願の!)パレスチナ人の駆逐に乗り出したのは、アメリカがゴーサインを出したからである。彼らの攻撃の規模とタイミングを決めたのはやはりアメリカだと私は思う。

では、なぜ、アメリカはこのタイミングで、イスラエルに「Go!」のサインを出したのか。

第二次サウジ・イエメン戦争と同様、背景として資源の問題があったことは間違いないと思うが(イエメンは鉱物(金とか)、ガザはガス田)、タイミングを決めたのは、もしかしたら、西アジアの和平の動きであったかもしれない。

軍事的支援によって西アジアの「友好国」との関係をつなぎ止めているアメリカは、そのプレゼンス(というか支配力)の維持のため、地域の軍事的緊張をつねに一定以上に高めておくよう腐心している。平和になって、居場所がなくなっては困るのだ。

そのための火種なら、ガザに用意されている。いつ、どんなときでも使えるように。

(2)イエメンの決意

こうして(多分)起きたガザ危機に、イエメンの人々が即座に強い反応を示したのは当然といえる。

2014年以来サウジの無差別爆撃を受け続け、2017年からはほぼ完全に国境を封鎖されたイエメンの状況は、長年狭い場所に押し込められてイスラエルからの度重なる攻撃を受け、2008年からは国境封鎖の強化で基本物資もロクに手に入らなくなっていたガザとうり二つだった。

10年前にイエメンを襲い、アンラール・アッラーが長く激しい戦いを経てようやく撃退しようとしている「決意の嵐」が、同じ敵(アメリカ)の手によって、今度は、同じアラブ・イスラム地域の仲間であり、同じ苦境を戦ってきた同志であるガザのパレスチナ人に襲い掛かり、彼らを殲滅しようとすらしている。年齢中央値19歳、革命の只中にあるイエメンが行動しないはずがない。

彼らにとって、紅海におけるアメリカ・イギリスとの戦いは、もちろん、パレスチナの解放のための戦いであり、イエメンの自由と独立のための戦いである。しかし、それだけではない。

欧米諸国が西アジアの歴史の中で果たしてきた邪悪な役割を知らない人は(西アジアには)いない。しかし、第二次大戦後、覇権国アメリカと結ぶことで利益を得てきた諸国は、それを殊更には言い立てないようにしてきたし、いま現在、アメリカが行なっている各種策謀も見ないことにしている。

アメリカに敵視され、蹂躙されている国の人々には、現在の世界においてアメリカが果たしている邪悪な役割が、これ以上ないほど鮮明に見えているだろう。

同時に、アメリカに従属することで利益を得てきた国々の狡さ、醜さ、不甲斐なさも、正すべき不正と見えているに違いない。

彼らにとって、アメリカ・イギリス・イスラエルとの戦いは、決して、パレスチナやイエメンだけのための戦いではあり得ない。世界をアメリカから解放し、道理の通った新しい世界を作るための戦いなのだ。

おわりに

これを書いている2024年2月下旬、アンサール・アッラーとアメリカ・イギリス・イスラエルの戦いはますます本格化している。

しかし、アンサール・アッラーはまったく怯んでいないし、彼らの決然とした行動により、サナア政府へのイエメン国民の支持は拡大しているという

パレスチナとの連帯を示すデモ(2024年2月23日)https://www.ansarollah.com/archives/657639

こちらでデモの動画が見られます。

われわれは、神を礼賛するーーわれわれに、イスラエルやアメリカと直接対峙するという偉大なる祝福、偉大なる名誉を与えて下さったことに。

Abdul-Malik al-Houthi(出典

攻撃をエスカレートさせる道を選んだアメリカは、すぐに後悔することになるだろう

Hussein al-Ezzi(出典

強がりと見る向きもあろうが、私はそうは思わない。2014年以来の過酷な状況に耐え、革命を実現させた彼らが、あと数年の戦いを持ちこたえられない理由がないからだ。

1、2年がまんすればアメリカは勝手に潰れる(要するに彼らが勝つ)。今回の戦争では、大義は明らかにアンサール・アッラーの側にある。「アメリカ後」の世界を担う次代の「国際社会」は、彼らの政府を正統と認め、惜しみない支援を与えるだろう。

当面の苦境を乗り切り、人口を増やしたイエメンは、数十年後、世界の中心に返り咲いているのかもしれない。

(おわり)

カテゴリー
世界を学ぶ

イエメンの大まかな歴史

目次

はじめに

イエメン情勢について学んでいると、南北の対立とか、そのときどきの為政者と部族勢力の対立といった要素が繰り返し出てきて「なんか複雑でよくわからない」という印象を持ちやすい。

しかし、背景を知ればそれほど複雑な話でもないので、大まかな流れを追いつつ、要点を説明していきたい。

下の図表のうち、1990年頃から後(革命期)は次回に回し、この記事ではそれ以前の部分を扱う。

○ イエメン国の歴史(図表) 

 

1 古代からイスラム化まで

サバア王国、ヒムヤル王朝などの古代王朝が栄えた後、7世紀(ムハンマド存命中)にイスラム化。紅海沿岸の平野部がスンナ派、北部の高地一帯がザイド派の地盤として確立していく。

前回書いたように、ザイド派という「非主流」は、ウマイヤ朝、アッバース朝などの中央のイスラム王朝に対抗して生まれたものである。

したがって、イスラム化の後、「平野部がスンナ派、北部がザイド派」で固まったという記述の要点は、ウマイヤ朝やアッバース朝の成立でスンナ派が普及していくアラビア半島の中に、それとは異質の「ザイド派地域」が誕生したという点にある。

ザイド派地域が生まれたことのイエメン史における重要性はいくら強調しても足りない気がする。

何がそんなに重要かというと、ザイド派地域の成立は、ここにイエメンという独立国家の形成を可能にする核が誕生したことを意味するからである。

この後の歴史を通じて、ザイド派の地域は、アラブ地域を席巻するウマイヤ朝、アッバース朝、そしてオスマン朝という正統イスラム王朝に馴染まない、独自のアイデンティティを持つ共同体であり続ける。

だからこそ、イエメンは、1918年という比較的早い時期に独立国家を再建することができたのだし(イエメン王国(1918-))、サウジに呑み込まれることもなかった。

そういうわけで、イエメン史においては、つねにこの北部ザイド派地域が強い存在感を発揮していく。

そして、イエメンの場合、南北対立の根っこにあるのも、北部の存在感の強さに他ならない(→それ以上に複雑なものではない)ように思える。より大きな枠組み(オスマン帝国とか)の中にいる分にはよいのだが、イエメンとして統一国家を形成しようとすると、どうしても、態度がデカく圧の強い北部が支配的となり、それに対して南が反発するという構図が生まれてしまうのだ。

2 ザイド派王朝の成立(859年)

ムハンマドの死後、ウマイヤ朝、アッバース朝の領域に入るが、9世紀、北部にザイド派の王朝が誕生。 

ザイド派のイマーム、ヤヒヤ・アリ・ハーディ(Al-Hadi ila’l-Hagg Yahya)(859―911)が王朝を創設。これが1970年まで継続するザイド派イマーム王朝である。

一般的な地図を見るとこの地域はウマイヤ朝、アッバース朝の版図内であるが、おそらく、その間も、地域勢力として維持されていたということなのだろう。

○ イエメンの権力構造 ー 部族勢力とは何か?

ここで、イエメン史の理解に欠かせないキーワード「部族勢力」について説明しておこう。

ザイド派イマーム王国が誕生し、一応イマームが王として君臨することにはなったが、これによって、ザイド派イマームを中心とする安定した中央集権体制が確立したというわけでは全くない

むしろ、一定の自律性を保った部族単位の地域共同体があって、イマーム=国王はそのリーダーたちをどうにか手懐けて国をまとめる、という感じであったようだ。「部族勢力」とか「部族長」という言葉は、この人たち(およびその共同体)のことを指している。

この「部族勢力」「部族長」は、日本史でいう大名(↓)に近いものと考えると分かりやすい(と思う)。血縁・地縁に基づく共同体の長であり、長い歴史を通じて形を変えながら、そのときどきの為政者の下で、つねに影響力を発揮してきた勢力、という感じだ。

大名とは、本来私田の一種である名田の所有者をいい、名田の大小によって大名・小名に区別された。すでに平安末期からその名がみえ、鎌倉時代には、大きな所領をもち多数の家子・郎党を従えた有力な武士を大名と称した。南北朝から室町時代にかけて、守護が領国を拡大して大名領を形成したところから守護大名と呼ばれたが、守護にかわって新しく台頭し、在地土豪の掌握を通じて一円地行化しを推進した戦国時代の大名は戦国大名とよばれた。こうして形成された大名は、江戸時代に入って近世大名となり、大名領を完成、幕府を頂点とする幕藩体制を完成した。‥‥

日本大百科全書(ニッポニカ)[藤野保]

この部族勢力の政治力・軍事力はなかなかのもので、彼らはつねにイエメン史の動きに大きな影響を与えている。

イエメン内戦でエジプトのナセル大統領を「ベトナム」の泥沼に引きずり込んだのも彼らなら、国王支持から共和制に鞍替えして連立政権に参画し、内戦を終わらせたのも彼らである。そして、いま現在、革命を率いている「フーシ派」も、部族勢力の若者たちなのだ。

https://www.theguardian.com/travel/2009/may/23/yemen-travel-middle-east

3 ポルトガルのアデン支配

1538年にオスマン帝国がポルトガルを攻撃する拠点としてアデン(↓)を一時占領したが、アデンの人々はオスマン人を撃退。敵方のポルトガルを招き入れ、アデンはこの後しばらくの間ポルトガルの海洋貿易ネットワークの拠点として大いに栄えた。

https://www.aljazeera.com/news/2019/9/20/who-are-south-yemens-separatists

4 オスマン帝国の支配ー南北対立の原点

1551年、オスマン帝国が再びやってきてアデンを占領。イエメン全土の支配を狙うが、ザイド派の地盤である北イエメンの人々は抵抗を継続。オスマン帝国に抵抗する北イエメンと帰順した南イエメンの間に亀裂が生じ、緊張関係が顕在化する。

オスマン帝国が侵入し、北部ザイド派地域(北イエメン)以外の人々はオスマン帝国に帰順したが、スンナ派のオスマン帝国を侮蔑し自らの王朝を維持していた北イエメンの人々は決して抵抗を止めなかった。

https://europa-japan.com/states/ottoman-empire/entry1788.html

その結果、国は二分され、発展も阻害され、1880年代後半に大英帝国がやってきた頃には、「寂れた伝説の港湾都市の周囲にある弱体で分裂した国家」に成り下がっていたという。

しかし、自立した国家としてのアイデンティティが保たれたことで、北イエメンは早期に独立国家を形成していくのである。

5 イギリスの支配下に入る南イエメン

◉1839年、イギリスがインド貿易の中継地としてアデン湾を占領。南イエメンは保護領としてイギリスの支配下に入った。

◉1869年のスエズ運河開通やペルシャ湾岸の原油発見でアデンの経済的・軍事的重要性が高まり、1937年にはアデンがイギリスの直轄植民地に格上げ。第二次大戦後にはアデン植民地と保護領を併合して南アラビア連邦を結成させた。事実上のイギリス支配は1967年まで継続。

◉独立した南イエメンはマルクス・レーニン主義の国家(南イエメン人民共和国)となり、1970年にはイエメン人民民主共和国に改称した。

現代のアデン

6 北イエメンの独立:イエメン王国(1918年)

北イエメンでは、オスマン帝国のWW1敗戦が決まった1918年10月30日にザイド派王朝のムタワッキライト王国(通称イエメン王国)が独立を宣言。

ザイド派のイマームで国王のアル=ムワッタキル=ヤヒヤ=ムハンマド=ハミードゥッディーンがムタワッキライト王国(Hashemite Mutawakkilite Kingdom)の独立を宣言。西アジア初の独立アラブ国家の成立となった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/ヤヒヤー・ムハンマド・ハミードゥッディーン#/media/ファイル:Yahya_Muhammad_Hamid_ed-Din.jpg

この国王ヤヒヤは、外国からの干渉を怖れ、極端に孤立主義的な国家運営を行ったことで知られている。ヤヒヤ自身イエメンを出たことはなく、サナア高地を出て紅海を見たことすらないと言われる

ヤヒヤ・ムハンマド・ハミードゥッディーン

その結果、第一次世界大戦後、世界中が近代化を進めていく中で、イエメンだけは発展から取り残され、「前近代」状態が維持された。

そんなヤヒヤだが、1940年代後半には、統治技術や軍事戦略の勉強のために士官学校の学生を海外留学に送り出している(名誉ある40人(the Famous Forty))。行き先はイラク、アメリカ、エジプト。

タイムマシーンで運ばれたかのように前近代から現代に送り込まれた彼らは、世界の現実を見て大きな衝撃を受ける。彼らは、当時の西アジアを席巻していた(エジプト・ナセル大統領が主導した)アラブ民族主義の洗礼を受け、のちのイエメン革命を率いることになるのだ。

https://pt.slideshare.net/MahfujAlam16/crisis-in-yemen-presentationppt

○サウジ・イエメン戦争(1933-1934)

アラビア半島南部では、1918年にイエメン王国が独立した頃(1918年)からサウード家が勢力を拡大、いくつかの領域を統合してサウジアラビア王国を成立させた(1932)。こうした動きに伴い、サウジとイエメンの間でも国境画定をめぐる紛争が起き、ごく短期間の戦闘を経て、サウジが勝利。イエメンはサウジにジーザーン(Jizan)、ナジュラーン(Najran)、アスィール(Asir)等(↓地図の黄色部分)の正式領有を許すことになった。

この戦争は、国王ヤヒヤ、そして国民(とくに北部部族勢力)の双方に大きな影響を与えた。

まず、国王ヤヒヤは、部族勢力があっけなくサウジ軍との戦闘に敗れたのを見て強い危機感を覚え、正式な軍隊の創設、そして国家体制や軍の近代化に動いた(「名誉ある40人」もその一環であろう)。

他方、国民とりわけ北部の部族勢力は、国境エリアの山岳地帯(ヤヒヤや部族勢力の先祖の地であるようだ)をサウジに譲り渡してしまったヤヒヤに不信感を抱いた。

自分たちこそがイエメンの伝統の担い手であると自負する彼らは、数十年ののちに国王を見限る。一部の者(エリートの青年たちだ)は革命を率い、その他の者は、しばらく逡巡した後、共和国政府を支持・参画していくのである。

 

7 イエメン革命:イエメン・アラブ共和国の誕生(1962)

・青年将校の連合軍が蜂起。王宮を襲撃し、王制(イマーム制)の終焉とイエメン・アラブ共和国の誕生を宣言。アブドッラー・アッ・サラール(Abdullah al-Sallal)が大統領に就任。

・国王ムハンマド・アル=バドルは生き残り、彼の下に結集した国王派と共和国派(新政府)との内戦が始まる。

エジプトは新政府を支援しエジプト軍を派遣。これを脅威と見たサウジアラビアは王党派を支援した。

・イエメン内戦は、エジプトのナセルに「私のベトナム」と言わせる長く困難な闘いとなり、第3次中東戦争後にエジプトが撤退した直後の1968年には国王派のクーデターが成功。アッ・サラールの革命政府は倒れ、一時的に王政復古が実現。

・しかし、クーデター後、共和国の第2代大統領に就任したイリアーニは(経緯は不明)、国王側を支持していた部族勢力と共和派の融和を基礎とする新たな連立政権の構築に成功。内戦を終結させ、共和国の基盤を固める。

・国王アル=バドルは敗北を認め「イエメンを救うため」と演説して亡命(1970年)。869年以来のザイド派イマーム王朝が終了した。

北イエメンは、1962年9月26日の革命で、王制が倒れ、共和国に生まれ変わる。民主化革命には違いないが、男性識字率50%超え(1980年)よりもだいぶ前なので、エリートの革命と考えた方がよいだろう。

革命時の国王はヤヒヤを初代と数えると3代目。父でありヤヒヤの息子である2代目が亡くなり3代目のアル=バドルが国王・イマームに就任した直後の出来事だった。 

内戦期のアル=バドル

革命を率いて新政府を樹立した将校たちの多くは「名誉ある40人」などの海外帰国組で、ナセルのアラブ民族主義の影響を強く受けていた。ナセル側も、新生イエメンを重要なパートナーと見て、共和国軍(新政府)を大いに支援した。しかし、この時期はまだ国王に付いていた北部の部族勢力は不屈で、ナセルは、北部の部族勢力の軍事力と、それを支持するサウジのオイルマネーによって「ベトナム」的泥沼に引きずり込まれることになる。

しかし、1967年、第3次中東戦争であっけなくイスラエルに敗北したエジプトは(6日戦争といわれる)、イエメンからの撤退を余儀なくされる。

エジプトの撤退で共和国軍(革命軍)は弱体となり、短期間の王政復古を招いたが、その間に、イリアーニは、ナセル流のアラブ民族主義や社会主義を捨てイスラムに立脚した政府を作ると約束し、1️⃣サウジアラビアにアル=バドルへの資金援助を停止させ、2️⃣北部の部族勢力の支持を取り付けることに成功。

こうして、6年間続いた内戦はついに終了し、イエメンは近代化への道を歩み始めたのである。

なお、ナセル大統領は南イエメンの反英闘争も支援している。南イエメンは反植民地武装組織「イエメンの赤い狼(the Red Wolves in Yemen)が率いた闘争の結果、1967年に独立を勝ち取った(南イエメン人民共和国。1970年にイエメン民主人民共和国に名称変更)。

8 強権的な指導者の下での近代化:サーレハ政権の成立(1978-2012)

その後、北イエメンは、イリアーニ政権(1968-1974)、無血クーデターで政権を掌握したハムディ政権(1974-1977)の下で一定の近代化を果たす。

しかし、ハムディは1977年に暗殺され、その後継者も1年後にブリーフケース爆弾で暗殺。その3日後には南イエメンの大統領も暗殺された。

その混乱の中から、1978年にイエメン・アラブ共和国大統領に就任したのが、「のちにイエメン史上もっとも悪名高い政治家となる」アリー・アブドッラー・サーレハ(Ali Abudullah Saleh)である。 

来日して小泉首相に短剣を贈るサーレハ(2005)http://www.asahi.com/special/07-08/reuters/TKY200711140296.html

サーレハについては、まだあまり詳しいことは書けない。私がイエメンについて調べるときの情報ソースの一人はJoziah Thayerというフリーランスの研究者で、歴史についてもこの人の「History of Yemen Part1」という記事を大いに参考にした(サーレハについての「もっとも悪名高い」の下りもこの記事からです)。

ところが、「Part1」の彼の記述はサーレハ就任のところで終わっていて、続きの「Part2」はまだ出ていないのである。

サーレハは、次回扱う現代史の主要登場人物の一人でもあるので、その部分に関しては信頼できる情報がある(次回書く)。しかし初期のことは何を信じていいか分からないので、「Part2」が出たら補充することを前提に、その他の文献から得た情報で骨格だけを埋めておく(サーレハについてはwikiがかなり詳しい)。

・サーレハ政権は事実上の一党独裁

・南イエメンが(崩壊の過程に入ったソ連からの支援が途絶えて)困難に陥ったことから協議が進み、1990年に南北イエメン統合が実現。国号はイエメン共和国。サーレハはその初代大統領に就任。副大統領は南イエメンのアル=ベイド。

・1993年に総選挙が行われ(投票率95%!)連立内閣が成立したが、政策の不一致から内戦に突入(1994年5月-7月)。

・事実上、北イエメン VS 南イエメンの戦いであった内戦は、スカッドミサイルの飛び交う激しい戦闘の末、北側が勝利。

・その後も国民直接投票による大統領選挙や憲法改正国民投票、第一回地方議員選挙など、いろいろありつつサーレハ政権が継続するが、「内戦終結後も都市部では政治家の暗殺やデモ隊と警察の衝突、地方においても部族間抗争や外国人の誘拐が頻発しており、内政はいまだ不安定」(日本大百科全書 ニッポニカ)という状態が続いた。

おわりに

しかし、こうやってまとめてみると、サーレハ政権の時代は、まったくもって、「幕末から明治ー昭和初期の日本」という雰囲気である。

それもそのはず、この時期のイエメンは、識字率の上昇を基礎とする近代化の真っ最中なのだ。

その意味で、近代化の正常な過程をたどっていたといえなくもないイエメン。彼らは引き続き正常な軌道の上を進み、正真正銘の民主化革命を実現していく。ところが現在、イエメンは「史上最悪の人道危機」の渦中にあるという。いったい、何がどうして、どうなってしまったのだろうか。

(次回に続きます)

イエメンの人口動態についてはこちらをご覧ください。
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イエメンのなりたちと宗教
(付/シーア派とは何か)

先日までの私と同じく「イエメンについての知識はゼロだが言われてみると興味はある」という方に向けて、イエメンを知るために「多分、この辺が重要じゃないか?」と思うところを見繕ってお送りします。

1 イエメンの場所:人類史のど真ん中

まずは地図でイエメンの場所を確認していただきたい(↑)。「世界の果て」という感じがしてしまうのは単なる無知で(私です)、ここは人類史のど真ん中である。

紅海の入り口のところの海峡(バブ・エル・マンデブ海峡という)の現在の幅は約30km。ドーバー海峡と変わらないので人によっては泳げる距離だが、この海峡の幅は、現生人類がアフリカを出たとされる約70000年前には約11kmであったという。そして、イエメンからオマーンにかけての海岸沿いには約70000年前頃から人類が住んでいた痕跡がある(いずれもwiki。出典は不明)。

そういうわけで、有力な仮説は、アフリカを出た人類が最初に到達した土地はイエメンであるとする(↓)。当時湿潤な気候であったアラビア半島は約24000年前に乾燥化が始まり、約15000年前に砂漠となったとされるが、この地域にはつねに人間が住み続けたと考えてよいだろう。

現生人類の母系のミトコンドリアDNAハプログループ(wiki

*7万年前という時期の重要性についてはこちらをご覧ださい。https://www.emmanueltoddstudy.com/before-civilization2/

2 イエメンの中核は北部 

歴史を通じて豊かに栄えたのは北部。現在の首都サナアを含む一帯だ。

サナアは世界最古の都市の一つとされており、おそらくラクダによる隊商貿易が始まった頃から貿易の拠点だった。アラビア半島で史料に残る最古の国家とされるサバア王国(紀元前800-紀元後275)が興ったのもこのエリアである(首都はMarib)。

230年頃の勢力図(wiki)

サナアを含む北西部は、標高の高い高原地帯で、アラビア半島で最も気候に恵まれた地方だという(吉田雄介・日本大百科全書ニッポニカ)。「夏は涼しく、年降水量は400-1000ミリメートルに達し、森林が多く農業に適する」のだ。

古代ギリシャ・ローマの人々はイエメンを「幸福のアラビア(Arabia Felix)」と呼んだ。豊かな香料のためだといわれるが、その源は豊かで住みやすいこの土地にある。

歴史の長いこの地域では、港湾都市アデンも栄えたし、今では廃れてしまったモカ(コーヒーの積地)も有名だ。しかし、今も昔も、イエメンという国家の核を形成しているのは北部である。

北部・北西部・山岳地帯・高原地帯・・ ところで、イエメンに関する文章を読んでいると(書き手によって)「北西部」「北部」「山岳地帯」「高地」「高原地帯」などの様々な語が出てくる。おそらく、すべてはこの地域一帯を指していると思われる。下の地図を見てもらうとわかるが、北部の中央から東はすべて砂漠(ルブアルハリ砂漠)なので、「北部」と「北西部」は事実上イコールだし、山でもあり高原でもある標高2300m(サナア)の土地を山岳地帯というか高原地帯というかは難しい問題である。私もいちいち迷うので、以下、この文章では「北部」と「高地」で(なるべく)統一する。 

3 イエメンのイスラム教

(1)イスラム化第一世代

イエメンは、イスラム圏としての歴史も非常に古い。ムハンマドがメッカ郊外の洞窟で大天使ガブリエルの啓示を受けたとされるのは610年、イスラム共同体(ウンマ)を結成し、アラビア半島内で勢力を拡大していくのはメディナへの移住(ヒジュラ・622年)以降であるが、イエメンは、この622年からムハンマドが亡くなる632年までの間にイスラム化された地域に含まれている。

このカーキ色の部分が632年までにイスラム化された地域(ビジュアルマップ大図鑑世界史(東京書籍))

「イエメン」という地域の呼称も、メッカ、メディナへの巡礼と関わりがあるようだ(ムハンマドは625年にイスラム教徒は一生に一度メッカに巡礼する義務がある旨の啓示を受けている)。

イエメンはアラビア語「yamin(右側)」に由来するとされている。私が読んだ文献は、メッカ・メディナに対して「右」と解釈していたが(何から見て「右」かについて、もっともらしい説明として「太陽が昇る方向に向かって右」というのがある)、巡礼のルートにはオマーンからアラビア海沿岸を通ってイエメンに入るルートもあったらしいので、その海路から見てイエメンが「右」という解釈もありそうに思える。

(2)イエメンの核、ザイド派

以来、イエメンは一貫してイスラム圏である。主流に当たるスンナ派が人数では多いが、重要なのはザイド派の存在だ(人口の三分の一程度といわれる)。

ザイド派の地盤は首都サナアを含む北部の高地一帯。先ほど、この地域がイエメンの中核であると書いたが、それは主としてザイド派の存在によるものといえる。いわゆるフーシ派(正式名称はアンサール・アッラー)もザイド派の組織である。

この地域は、長らく、ザイド派のイマームを王とする王国を営んでいた。この「長らく」は半端ではなく、建国が859年、滅亡は1968年である。この間、オスマン帝国など他国の支配下に置かれることはあったが(次回)、ザイド派の人々が従属的な地位を甘んじてを受け入れることは決してなく、彼らはつねに反乱を企て、抵抗を続けて、1918年にはいち早くイエメン王国として独立を成し遂げた。

歴史的に、諸外国に対する抵抗の核であり、イエメンとしての強い誇りとアイデンティティを持ち続けているのが、この北部ザイド派地域なのである。

(3)ザイド派とは何か

①ザイド派はイランのシーア派の子分ではない

ではそのザイド派とは一体何か。

ザイド派は「シーア派の分派」とされることが多い。誤りとはいえないが、非常に誤解を招きやすい表現だ。

一般人の常識では、シーア派はイランの国教として認識されているため、「シーア派の分派」というと、イランのシーア派の子分のように聞こえてしまう。しかし、事実はそうではない。

イランの国教であるシーア派は、シーア派の中の12イマーム派である。12イマーム派の枠組が成立したのは10世紀中頃とされる。しかし、ザイド派はそれよりも早く、8-9世紀頃には成立しているのである。

したがって、当然のことながら、ザイド派は12イマーム派が作り上げた様々な教義を共有していない。実際、ザイド派は、教義の点ではスンナ派に近いと言われている。

②なぜ「シーア派」か

そもそも、ザイド派はなぜ「シーア派の分派」とされているのか。

一般に、シーア派は、「ムハンマドの後継者たるイスラム共同体指導者はアリー(第4代カリフ・ムハンマドのイトコかつ娘婿)の子孫でなければならない」とする立場をとる宗派と定義されている。

イエメンのザイド派は、アリーの子孫であるザイドに忠誠を誓い、アリーの子孫からイマームを輩出するということに(少なくとも建前上は)なっているので、「シーア派」に分類されるのだ。

ところで、シーア派が「アリーの子孫」を奉じるのは、基本的には、アリーがムハンマドの血統だからである。それなら「ムハンマドの子孫」といった方がわかりやすいと思うのだが‥‥

しかし、調べてみると、シーア派が「アリーの子孫」という言い方にこだわることには理由があった。そして、そこにこそ、「シーア派とは何か」を理解する鍵が隠されていたのだ。

説明しよう。

③シーア派とは何か

◼️アリーとムアーウィアの後継者争い

アリーは、ムハンマドの死後その後継者として選出された初代カリフ(アブ=バクル)から数えて4代目のカリフである。下に記載した5人のカリフはみなムハンマドと同じクライシュ族の出身であるが、同じ家の出身はアリーだけである。

アリーは、ウスマーン(3代カリフ)が暗殺された後、次のカリフに選出されたが、アリーのカリフ就任に反対する勢力(ムハンマドの妻アーイシャやウマイヤ家のムアーウィア)もあり、内戦に発展した。

争いは最終的にアリーと自らもカリフを名乗ったムアーウィアの一騎打ちとなったが、勝負は決まらず、指名された裁定者がアリーとムアーウィアのどちらが「正しいカリフ」かを判定することになった。ところが、この判定方法自体に反対する一派が現れ(ハワーリジュ派)、彼らはアリーとムアーウィア双方の暗殺を試みた。その結果、アリーだけが死んでしまったのである。

生き残ったムアーウィアは単独のカリフとなり、人々もこれに従ったが、彼の死後、再び後継者争いが起こった。

ムアーウィアは生前に息子の一人ヤズィードを次期カリフに指名していたが、人々は必ずしもこれに納得していなかった。

そもそも、ムアーウィアが単独で第5代カリフに就任することになったのは、単に、アリーが暗殺に遭って死んでしまったからである。ムアーウィアは、アリーと戦って勝ったわけでもなければ、裁定者に「正しいカリフ」と認められたわけでもない。アリーに対してムアーウィアの血統を「正統」とする根拠は何もないのである。

したがって、もともとアリーを支持していた人々から見れば、ムアーウィアがカリフになったところまでは仕方がないとしても、以後のカリフをムアーウィアの子孫(ウマイヤ家)から出すのは筋が通らない。

そこで、アリー支持派を中心に、アリーの息子フセインをカリフに推挙する動きが巻き起こり、再び、内戦が必至の情勢となった。

◼️フセインとヤズィードの争い:カルバラーの悲劇(680年10月10日)

しかし、フセイン勝利の芽は、戦いが始まる前に摘み取られてしまう。フセインとその一族は、支持派の招きを受けてメディナからクーファに向かう途中のカルバラーの地で、ヤズィードが派遣した軍に包囲され、惨殺されてしまうのだ。

この事件が、今もシーア派の間で語り継がれる「カルバラーの悲劇」である。

地図はこちらのサイトからお借りしました。この前後の歴史についても大変詳しいです。

◼️ウマイヤ朝+スンニー派の確立

この事件の後、第6代カリフにはヤズィード、第7代にはその息子が就任。その後もいろいろとあったものの、しばらくはムアーウィアに始まるウマイヤ朝の時代が続く(661-750)。

そしてウマイヤ朝においては(シーア派との対立を経て)正統イスラム教としてのスンナ派が成立し、以後、中心的なイスラム王朝の奉じる立場して確立していく。

しかし、ヤズィード、ウマイヤ朝、そして歴代スンナ派王朝は、カルバラーの悲劇のために、由緒正しいムハンマドの一族を殺害することでカリフの地位を簒奪した者という、消すことのできない汚名を着ることになったのだ。

◼️「抵抗」の象徴としての「アリーの子孫」

そういうわけで、以後、ウマイヤ朝や歴代スンナ派王朝に反発し、ときに反旗を翻すムスリムは、こぞって「アリーの子孫」を奉じることになった。

「アリーの子孫」ということによって、ムハンマドの血統であることを主張し、同時に、アリーの子フセインが虐殺された悲劇の記憶を喚起し、主流派の不正性をアピールすることができるからだ。

「シーア」とは「党派」の意味であり、アリーとムアーウィアが争っていた時代にできた「シーア・アリー」(アリー派)の語が省略されて定着した言葉だという。したがって、主流に対して反発し、「アリーの子孫」を奉じる人々は、定義上、みな「シーア」(シーア派)に分類されることになる。

しかし、「アリーの子孫」という観念の共有は、彼らが何か共通の思想信条を持っていることを意味しない。シーア派が共有しているのは、おそらく、本流や主流に対する「抵抗」の立ち位置のみなのである。

(4)イエメン北部はなぜザイド派の地となったのか

イエメンは、由緒正しい第一世代のイスラム圏であり、メッカやメディナにも近い。そのイエメンがでは、なぜ「抵抗」のシーア派(ザイド派)の拠点となったのであろうか。

次のように考えることはできるだろう。

ザイド派の成立は8-9世紀。ウマイヤ朝からアッバース朝にかけての時期である(↓)。

ムハンマドの生前、宗教上の聖地はメッカであり、政治の中心はメディナにあった。イエメンの都市サナアは、メッカに近い主要都市として繁栄していたことだろう。

しかし、ムアーウィアがカリフとなると(ウマイヤ朝開始)、首都はダマスカスに移され、アッバース朝も、現在のイラクの領域(クーファやバグダード)に首都を置いた。政治の中心が北に移動することで、イスラム世界の重心がイエメンから遠ざかっていったのだ。

イスラム第一世代のイエメンの人々が、ときのイスラム王朝のやり方に不満を抱いたとき、彼らの運動はごく自然に「アリーの子孫」を奉じるという形を取ったはずである。

ちょうどそのとき、そこにザイド・ブン・アリーがいた。あるいは、その記憶があったのだ。

ザイド派は、イスラム世界で数限りなく起こったであろう反主流派運動の最初期のものの一つである。その多くが時と共に消滅したのに対し、イエメンのザイド派は1000年以上の時を生き抜いた。

そして、このザイド派が担う誇り高い抵抗のメンタリティが、イエメンの近・現代史において大きな役割を果たしていくことになるのである。

今日のまとめ

  • イエメンの歴史は古い。
  • イエメン国家の中核は北部のザイド派地域であり、フーシ派(アンサール・アッラー)拠点もここである。
  • イエメンは預言者ムハンマドの時代にイスラム圏となったイスラム化第一世代である。
  • シーア派の共通項は「反主流」「抵抗」の立ち位置であり、必ずしも思想信条を共有するわけではない。
  • ザイド派はシーア派の分派とされるが、イランのシーア派とは無関係である。
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イエメンを知ろう(付/イエメンの人口動態)

 

はじめに

現在、ガザ危機を終わらせるための行動をもっとも激しくかつ直接的に展開しているのはイエメンの人々である。

イエメンの人々は、10・7の直後からイスラエルに対するミサイル・ドローン攻撃を開始し、紅海を通行するイスラエル関連船舶を拿捕し、今ではアメリカ・イギリスと戦っている

イエメンは西アジアのアラブ諸国の中では圧倒的に「遅れた」国だ。例えば、トルコの男性識字化(20-24歳の50%)は1932年、シリアは1946年だが、イエメンは1980年。女性に至っては2006年である。 

イスラム諸国の近代化(トッド/クルバージュ『文明の接近』(藤原書店、2008年)31頁より)

しかしその「遅れ」のために、イエメンはいま現在、最も若く活力のある時期を迎えているのである。

*イエメンの年齢中央値は19歳(2024年)。イラクやパレスチナと並んで最も若い一群だ(wikiの表を並べ替えてご覧ください)。 https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_countries_by_median_age

19世紀後半から20世紀初頭の日本人のような血気盛んな若者たちの前に、同じアラブの人々を襲うガザ危機があったら、「そりゃあ、やるよなー」と、私はまず思った。

それで興味を持ったのだが、軽い気持ちで調査を始めてみると、イエメンが現在置かれている状況はかなり非道なものだった。

しかし、さらに奥地に入り、調査を進めてみると、何か輝かしいものも見えてきたのである。

「これ、本物の民主化革命じゃないか‥‥」

そう。イエメンは今、フランス革命も真っ青(?)の本物の革命の只中にあったのだ。

「人道危機」の原因は内戦ではない

現在のイエメンは「世界最悪の人道危機」の当事国としてよく知られている。一般的な説明では、「危機」の原因は「2015年に始まった内戦」とされている。 

NHK「キャッチ!世界のトップニュース」
NHK「キャッチ!世界のトップニュース」

この説明は、根本的な原因はイエメンにある、という印象を与える(ための)説明といえる。イエメンという国はそもそも国家の体をなしていない破綻国家であり、反政府勢力が蔓延り、悪者のイランにつけ入る隙を与えている。だから、それらを撃退し、秩序を回復するために、外国が介入しているのだ、と。

ガザ危機が「イスラエル VS イスラム過激派ハマス」の構図で描かれ、前者の介入にも一定の理がある、とされているのと全く同じである。

しかし、調査してみて分かった。この説明は意図的に流布されている「ウソ」である。

イエメンという国に問題がないというわけではない。北部と南部は当初から分裂していたし、1963-70年には北イエメンの内部でも内戦があった。南北イエメンは1990年に統一されたが、1994年には南北の間で内戦が起き、その後も政治の安定には程遠い状態が続いた。

しかし、2015年からの内戦は、その延長線上に起きたものではない。後で詳しく説明するが、イエメンのもともとの政情不安定と「世界最悪の人道危機」は、基本的には関係がないのである。

人口動態から見るイエメン

私は勝手に、イエメンという国は、この先の激動において大きな役割を担っていく可能性がある、と感じている(根拠はない)。

イエメンの人口動態に関するデータをいくつかご覧いただこう。

男性識字率50%越の時期は1980年、女性は2006年だが、その前の1995年にすでに出生率の低下が始まっている。近代化の過程をくぐり抜けている真っ最中である(上記の図を参照)。

年齢中央値は19歳、人口ピラミッドは下のような感じで、とにかく若い。 

https://www.worldometers.info/demographics/yemen-demographics/#
https://en.wikipedia.org/wiki/Demographics_of_Yemen#/media/File:Yemen_single_age_population_pyramid_2020.png

そして現在の人口は約3500万人。日本の場合、1870年代の人口が3500万人くらいだった。その時期の年齢中央値のデータはないが1940年が22歳なので、1870年代に20歳前後だったとしてもおかしくないだろう。当時の日本と同様、イエメンもまだ出生率は下がり切っていないので、この先国情が安定すれば、人口は大きく増えていくと見込まれる。

乳幼児死亡率はまだまだ高い(2022年で42,245人(/1000人)*)。とくに「世界最悪の人道危機」が始まった2015年頃からは足踏み状態が続いているが、長期の傾向は明らかに低下に向かっている。近代化は着実に進んでいるのだ。

https://data.worldbank.org/indicator/SP.DYN.IMRT.IN?end=2021&locations=1W-YE&start=1963&view=chart

次回の予告(おわりに)

そういうわけで、イエメンは現在、近代化を始めた当初(約150年前)の日本と同じような時期を迎えている。

民主化革命のさ中にあるその国は、(アメリカが支援する)サウジアラビアの攻撃によって大変な目に遭いながら(詳しくは次回以降)、80年前の日本よりもはるかに積極的かつ断固した姿勢で、アメリカと対決しようとしている。

次の地図をご覧いただきたい。西アジアではイランを除くすべての国に米軍基地があり、多数の兵士を駐留させている。しかし、イエメンには一つもないのである。 

どうしてこんなことが可能になったのだろうか?

*ちなみに日本は約54000人、基地は数え方がよく分からないが大きめの単位で数えると約15。人員・基地のそれぞれ約半数は沖縄。
https://www.usfj.mil/About-USFJ/
https://en.wikipedia.org/wiki/United_States_Forces_Japan#/media/File:Military_facilities_of_the_United_States_in_Japan,_2016.gif

興味、ありますよね?

「イエメンを知ろう!」ということで、今回を含めて数回をイエメン特集とさせていただきます。

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民主化の果て
ーリビアの場合ー

 

以下は、ムスタファ・フェトゥーリ「リビアはカダフィとともに消えた:「解放」されたリビア人はなぜ占領下にあると感じているのか」の翻訳です。

エジプトの西隣、地中海沿岸にあるリビア。文化圏としては西アジア(中東)の一部です。近現代史の骨格だけを拾うと、以下の通り。

  • 16世紀以降オスマン帝国の版図
  • 1911年 イタリアの侵攻を受ける。イタリアとオスマン帝国の戦争(伊土戦争)を経てイタリア植民地
  • 各地域で激しい抵抗運動が続くが1932年に完全平定。イタリア領リビア
  • イタリアのWW2敗戦で英仏の共同統治領となった後、国連決議により独立(1951年)。リビア連合王国となり、東部地域の君主であったムハンマド・イドリースが国王(イドリース1世)に就任
  • イドリース国王の下、国際石油資本による開発を受け入れたリビアは産油国として一定の経済成長を遂げるが、多くの国民は貧しいまま。エジプト・ナセル大統領が主導する汎アラブ主義の影響もあり、王政および親欧米政策への不満高まる
  • 1969年 青年将校によるクーデター(リビア革命)。イドリース国王は退位し、カダフィを指導者とするリビア・アラブ共和国が成立。
  • カダフィ政権下の事象は真偽が不明なことが多く調査できていないので省略。ともかくカダフィ政権は英米と敵対し、テロ支援国家に指定されたり、命を狙われたりする。1992-1999は国連の経済制裁 
  • イラク戦争(2003年)後、カダフィの姿勢が軟化したとされ、テロ支援国家指定解除。2006年アメリカとの国交正常化
  • 2011年「アラブの春」の一部として起きた反政府運動の後、内戦に突入。欧米(米英仏)の軍事介入を経て、反政府勢力が政権を樹立。カダフィは射殺されて死亡。国名「リビア」に

この記事は、リビア国民の視点から、2011年以後、西側諸国の主導によって行われた「民主化」とは何だったのかを問うものです。

リビア国民の多くは今、「民主化」とは、結局、西側の言いなりになる政権が樹立され、リビアの国土と資源が体よく利用されただけであり、新たな形態の植民地支配にほかならないと考えているようです。

リビア国民の経験は、おそらく、イラク国民の経験とほぼ重なります。そして、同様の事態に陥ることを避けるために必死の抵抗を続け、ついに勝利しつつあるのがシリアだと思います。

ところで、1945年以後、つまり、アメリカが君臨する世界における「民主化」成功事例の第1号は、日本です。短い記事ですが、彼らの経験は、日本に住むわれわれが、現代の世界を理解し、20世紀以降の自分たちの歴史を振り返り、「アメリカ後」の世界を展望するのに役立つと思い、紹介させていただきます。

(前書き終わり・以下本編)

リビアはカダフィとともに消えた:「解放」されたリビア人はなぜ占領下にあると感じているのか(Mustafa Fetouri)

12年前、リビアに到来し、ムアンマル・カダフィの政権を終わらせた「アラブの春」は、リビアをカオスに陥れ、国家は部族や地域によって分断された。カダフィ本人は、西側の支援を受けた民間の軍事組織によって殺害された。

https://www.azernews.az/region/212351.html

https://www.cbsnews.com/news/clinton-on-qaddafi-we-came-we-saw-he-died/

https://www.youtube.com/watch?v=6DXDU48RHLU

NATOによる軍事侵攻

2011年2月、リビア東部で発生したカダフィ政権への小規模かつ限定的な市民運動は、やがて西側が支援する政権転覆の試みに変貌し、NATOは「民間人保護」の名目でリビアに軍事介入を行なった。

アメリカ、イギリス、フランスの主導によって採択された国連安保理決議1973が、リビアに対する武力行使の道を開いた。軍事侵攻は、西側諸国がカダフィを政権から追放したいというだけの理由で行われたものであり、それ自体、あからさまな安保理決議違反だった。これ以降に何が起きたかはよく知られている通りである。

混乱の中、リビアの人々は、民主主義と繁栄、自由はすぐそこだと聞かされていた。ところが、彼らはまもなく気づくことになる。カダフィはいなくなった。しかし、ある意味で、カダフィと共に、リビアそのものが失われてしまったのだと。

何年経っても、リビアは停滞したままで、自由も安定も勝ち得ていない。主権に関わる事項のほとんどは他国によって決定され、外国の手先となった武装勢力が国を支配している。

「占領下」のリビア

現在、ほとんどのリビア人は、リビアは独立を失い、新たな形態の占領状態にあると感じている。政治家は外国の意見を聞かなければ何も決められない。そして、10数年前にリビアを混沌に陥れた同じ国々が、現在もリビアの発展を妨害しているのだ。

国家主権、そして自律的な内政・外交政策は、カダフィ政権の中核だった。石油資源に恵まれた北アフリカ国家の指導者として君臨した40年間、カダフィはこの2つをリビア人の国民的アイデンティティに組み込むことに成功した。その結果、リビア国民は、あらゆる外国からの干渉を警戒し、西側、とりわけイタリア、アメリカ、イギリス、フランスから来るすべてを疑ってかかるようになった。この4カ国がリビアの歴史上果たした邪悪な役割は深く記憶に刻まれている。いずれも、リビアの主権を侵害した責任が問われている。

西側主導の政権交代と内戦が起きた2011年以前、リビアは毎年4つの祝日を祝っていた。それぞれの祝日は、リビアが誇る歴史の転換点を祝い、若い世代に独立した主権国家であることの重要性を思い出させるものだった。各祝日の行事には、外国の要人、時には国家元首も参列し、その重要性を印象付けていた。

誇り高いかつてのリビア

例えば、3月28日はリビア東部のトブルクの戦略軍事基地を占領していたイギリス軍の追放記念日である。1970年3月、革命によって政権を掌握して6ヶ月のカダフィは、すべての外国軍に国外退去を命じた。その年の6月11日には、アメリカ軍がトリポリ郊外の巨大軍事基地から撤退した。ウィールス空軍基地は、ピーク時約50㎢の敷地にアメリカ国外で最大の軍病院や大型映画館(シネコン)、ボーリング場、高校を備え(リビア人は立ち入り禁止!)、その規模と提供されるサービスから「リトル・アメリカ」と呼ばれた。約15,000人の軍人とその家族が暮らし、空軍のパイロットは近隣のアルウィティア(リビア砂漠付近)にある5ヶ所の射撃訓練場も利用していた。ウィールスは現在ミティアガ空港となっている。

10月7日は、1970年に20,000人に及んだイタリア人入植者を追放した記念日である。彼らは1911年9月に始まったイタリアのリビア占領の際にやってきた民間人で、一時期は主要商品の貿易や修理サービス、小規模工場等のほぼ全てが彼らの所有ないし支配下にあった。リビア東部では、イタリア人入植者がもっとも肥沃な土地を所有し、リビア人は安い労働力として使われた。リビア人労働者への対価は多くは(賃金ではなく)食料や住居であり、手工業の工房で働くリビア人技術者に与えられた賃金もごくわずかだった。

外国勢力の排除は、銀行部門と石油部門でも行われた。1969年のカダフィ革命以前、銀行部門はイタリア人とイギリス人が独占していたが、1970年12月、同年に成立した法律153号によってすべての銀行が国有化された。石油部門も同様である。国内のすべての石油会社をアラビア語の名称に変える措置が取られた後、1973年に成立した新石油法によって石油の探査・生産・輸出のほぼ全てが国営となった。

カダフィ政権は、リビアを侵略した列強、とくにイタリアの植民地支配と戦った歴史をリビア人の誇りとして刻むことに使命感を抱いていた。イタリアは、1911-43の間に、レジスタンスの指導者オマール・ムフタール(1931年に拘束され絞首刑)を含む50万人近いリビア人を殺害している。

実際、何年にもわたる圧力と交渉の末、リビアは他のどの国もなし得なかったことを成し遂げたといえる。リビアは、イタリアに植民地時代の暴虐を謝罪させ、賠償金を支払わせたのだ。2008年、リビア政府とイタリア政府は、植民地支配に起因する問題の解決と反植民地主義を宣言する友好・協力・パートナーシップ協定に調印した。同協定では、イタリア側が、リビアへの賠償として、道路、病院、鉄道網の整備やリビア人学生への奨学金、盗まれた工芸品の返還といった開発協力プロジェクトの形で、25年間に渡り5億ドルを支払うことが取り決められた。

誇りを失った新生リビア

トリポリ在住のある歴史学者(匿名を希望)は次のように指摘する。新生リビアは、歴史を祝おうとしないどころか、思い出そうともしない。「遠い歴史も、最近の歴史も」。彼は言う。歴史とは、国家が経験した過去を若い者に教え、老いた者には思い出させることで、時間をかけて「国の性格(国柄)の不可欠な一部」となっていくものだ。

彼の同僚であるミラド(彼も報復への懸念から姓の公表を恐れている)もこれに賛同し、次のように付け加えた。「カダフィ時代の最大の遺産の一つは、国家の過去の事蹟を讃えることで、リビア国民に誇りを持たせたことだと思う」。

2011年10月以後、リビアでは国家的な記念式典や祝賀行事は一度も行われていない。それどころか、リビアの政治は、選挙や経済を含む全てが、外国政府かその手先である勢力によって牛耳られているのだ。

現在、リビアには外国の軍人、傭兵、武装集団が20,000人以上在住し、権勢を争う様々な地域勢力を支援している。この状況は多くのリビア国民にとって「信じがたいこと」だと、トリポリ大学のアリ・マフムードは言う。「何十年も前に外国軍を追放したリビアに、再び外国軍が駐留するなんてことが、いったいなぜ起きたのだろうか?」

リビア国民の大多数は、ミスラータ、ベンガジ、アル・ワティア、トリポリ南西部その他の地域のリビア軍基地に外国軍が駐留している事態を、外国による占領の一種とみなし、快く思っていない。

隠微な「占領」

普通のリビア国民は、リビアは「軍事的にも政治的にも」間接的な占領状態にあると見ている。こう指摘するのは、ベンガジ在住の弁護士、サミア・アル・フサイン(仮名)である。2021年に予定されていた選挙は、無期限に延期された。アメリカおよびイギリスの大使が、サイフ・アルイスラム・カダフィームアンマルの息子であるーが最有力候補である状況での選挙の実施を嫌ったからだ。

カダフィ・ジュニアは、リビア国内で広く支持を集めている。彼は大統領選への出馬禁止措置を受けていたが、裁判所は2021年にこれを解除した。予定通り2021年に大統領選挙が行われていれば、間違いなくカダフィが勝利したはずである。それを避けるため、前イギリス大使キャロリン・ハーンダルとアメリカ大使リチャード・ノーランドは、カダフィの候補者指名に公式に反対した。

国民の怒りに直面した議会は、外務省とは異なり*、選挙についてのコメントを理由にハーンダルを「ペルソナ・ノン・グラータ」に指定せざるを得なかった。しかし、任期が終了した昨年10月まで、彼女が国を出ることはなかった。これもまたリビアが占領状態に置かれていることを示す証拠の一つといえる。ノーランドに至っては、リビア外務省から非難を受けることすらなかった。なぜか。アメリカ大使だからだ。

アル・フサインは政治的には反カダフィだが、それでも、最近明るみに出た今年8月の前外務大臣ナジュラ・アルマングーシュとイスラエルの外務大臣の会談(@ローマ)について、以下のように指摘する。「リビアにとってイスラエルとの関係正常化にどんな利益があるというのでしょうか。外部からの命令なしに、リビアの高官がシオニスト国家の代表と会うはずがありません」。アル・フサインによれば、リビアは国家の歴史上一貫してパレスチナ人を支援してきたことに「大変な誇りを持っている」。1948年の第一次パレスチナ戦争では何百人ものリビア人が志願してパレスチナのために戦った。アル・フサイン自身もまた、ガザ戦争に対するリビアの反応は、パレスチナ国家の樹立を神聖な大義と認める国家として「期待に答えるものではない」と感じている。政府はガザへの支援のために5000万ドルを拠出したが、ほとんどのリビア国民は、リビアはガザのためにもっと多くをなすべだと考えている。

カダフィの地盤であるバニ・ワリドで法律を学んでいるムスバ・アドカリは、リビアの指導者たちは外国から命令を受け、国民の意思に反する行動をとっていると考えている。アドカリは、2022年12月にリビア人アブ・アギラ・マスードが33年前のパンナム機爆破事件に関与した容疑で拘束されアメリカで裁判にかけられた件を挙げ、次のように述べた。「アメリカの命令で行われたことだと思う。そうでなければ、あんなことが起きるはずはない。」「これが占領でないというなら、占領とはいったい何なのだろうか?」

(本編終わり) 

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コペル君の志

 

目次

コペル君の人生

『君たちはどう生きるか』の主人公、コペル君のプロファイリングをしたことがあります。概要はこんな感じ(↓)。

コペル君(プロフィール) 

  • 本名:本田潤一
  • 生年:1923年生
  • 出身:東京都 
  • 家庭:父親は大手銀行の重役。召使が何人もいるような裕福な家庭に育つ。11歳のときに父が病気で死去。母一人子一人となり、郊外に転居(ばあやと女中1名が同居)。叔父さん(法学部卒のインテリ)と仲良し
  • 人生:旧制中学卒業後、17歳で東京帝国大学法学部に進学(1940年)。1943年、20歳で学徒出陣。特攻等で戦死、または生還して復学し、エリートとして戦後復興を支える

 

○生年

コペル君(本名:本田潤一)は、本の中では、中学2年生です。

「15歳」と書かれていますが、当時は数え年なので、満年齢に直すと13歳だと思います。作者の吉野源三郎さんが本の執筆を始めたのは1936年(出版は1937年)なので、その時点で13歳だったと仮定すると、コペル君の誕生年は1923年になります。

生きていれば昨年でちょうど100歳ですね。日本人だと、佐藤愛子さん、三國連太郎さん(俳優。佐藤浩一のお父さん)、司馬遼太郎さんなんかが同じ年です。

○出身・家庭

出身地は東京都の東京市。かつての15区内(↓)だと思います。だから、郊外に転居といっても、世田谷とか杉並かもしれません。

お父さんは大手銀行の重役です。五大銀行のどれかでしょう。お父さんはコペル君が11歳のときに亡くなっていますが、その後も本田家の暮らし向きは比較的裕福であることが感じ取れます。 

 1878年(明治11年)の郡区町村編制法によって設置された東京15区(Beagle at ja.wikipedia

○人生

コペル君と仲良しの叔父さんは、法学部卒のインテリです。こうした家庭環境や性格、本の中で、学問を修めて人類の進歩に役立つ立派な人間になろうと決意しているところなどから見て、コペル君は、旧制中学校を卒業した後、東京帝国大学法学部に進学した可能性が高いと思われます。

1940年に17歳で帝国大学に進学した若者がその後どうなったか。

1940年当時、高等教育機関(大学・高等学校・専門学校)に在籍中の学生は徴兵が猶予されていました。しかし、1943年にこれが一部解除され、いわゆる学徒動員(学徒出陣)が始まります。コペル君が文科系の学生であったなら、20歳になる頃、戦地に赴いたはずです。

帝大を含め、学徒出陣で戦地に送られた学生の多くが、特攻隊員となって命を落としています。コペル君がその一人であった可能性は決して小さくありません。

いずれにせよ、コペル君は、出征して戦死したか、生還して復学し、中央官庁・企業などでエリートとして戦後日本の復興・発展を支えたか、そのどちらかの人生を送った可能性が高いと思われます。

『君たちはどう生きるか』について

2017年に漫画版が出て以来、コペル君を主人公とするこの本が再び人気です。宮崎駿監督は同タイトルの映画を作り(本も出演していました)、そのせいもあってまた売れているようです。

確かによい本だと思います。感動する気持ちも分かる。子どもさんや若い人が読んだら、何かよいものを受け取るでしょう。

でも、この本を、これからを生きる人たちに薦めたいか、と言われると、社会系の研究者としては、微妙な気持ちを拭えません。

なぜか。

『君たちはどう生きるか』は、単なる「生き方」(倫理)の本ではありません。人間の理性を信奉し、人類の進歩を礼賛する近代主義(西欧中心的な進歩主義)の立場から、少年を社会科学の世界に誘うことをはっきり意図して書かれた本です。

シリーズ(日本少国民文庫)を企画した山本有三や著者の吉野源三郎は、軍国主義の風潮が高まり、言論・出版の自由は制限され、労働運動や社会運動が激しい弾圧を受けていた日本で、次代を担う子どもたちだけは、時代の「悪い影響」から守らなければならないと考えたといいます。山本や吉野は、西欧文化に親しんだ知識人として、自分を捨てて国家に尽くすことを求める偏狭な国粋主義とは異なる「自由で豊かな文化」が存在することを伝え、人間の自由な精神こそが進歩の原動力なのだという信念をかき立てることで、彼らの信じる進歩を、子どもたちに託そうとしたのです(岩波文庫版巻末・吉野源三郎「作品について」参照)。

だから、叔父さんは、コペル君に、立派な人になるには、世の中の規範にただ従うのではなく、自分が本当に感じたことや、心を動かされたことと深く向き合って、本当の自分自身の思想を持つ人間になることが大事なんだと熱く語ります。

そして、当時の日本においては最先端の思想であったマルクス主義の知見を紹介し、人類の過去の叡智をまとめ上げたものが学問である以上、まずは「今日の学問の頂上にのぼりきってしまう」ことが必要であり、その先にこそさらなる進歩があるのだと力説するのです。

実際、コペル君は、このシリーズの第1巻・第2巻である『人間はどれだけの事をして来たか(一)(二)』(人類の発展の歴史を描いたもの。国立国会図書館のウェブサイトで読めます)をしっかり読んで勉強したという設定になっています。『君たちはどう生きるか』は、読者である少年少女に、近代主義の流れに棹さし、自由で民主的な「よい」世の中を作るために、一人一人の人間はどう生きていくべきなのかを、自分の問題として考えることを求め、導くための書物にほかなりません。

対米戦争が始まった頃には刊行できなくなったこの本が、戦後の日本で大いに評価されたのは、この本の基本思想が、アメリカへの敗戦で義務化された「民主化」路線にピッタリとはまったからです。

しかし、そうしたこととは別に、この本に、現在も読者を感動させる力があるとすれば、それは、作者である吉野源三郎さんが、人間精神の偉大なる可能性、そして、人類の集合的叡智たる学問を基礎に置くことで、自由で豊かで平和な社会が実現できるという希望を、本気で胸に抱いていたからでしょう。心から信じることを若い世代に託す。その真率な気持ちが、読み手に伝わるのです。

2024年を生きる私たちはどうでしょう。私たちは、吉野さんの抱いた理想が、実現しなかったことを知っています。コペル君の生誕から100年、世界は、近代以降の人類の活動に起因するとされる自然災害、戦争や殺戮に溢れ、貧困や経済的不平等すら克服される気配はない。もっとも豊かな国の豊かな階層にとってすら、未来は不確実になりました。

このような時期に生まれてきた年若い人々に、100年前と同じ理想を語るこの本を薦めることができるでしょうか。

その中には、もしかして、特攻で戦死し、生まれ変わったコペル君が混じっているかもしれない。

この世に戻ってきたコペル君や仲間の子どもたちに『君たちはどう生きるか』を託す大人は、いったい、どんな言葉をかけるのでしょう。

「率直に言って、あの後、世界が良くなったとは言えないかもしれない。

でも、理想が間違っていたわけではないんだ。だって、本当に良い人間になって、良い世界を作る。そんな普遍的な理想が、間違ってるなんてこと、あるわけないだろう?

だから、君ならできる。君たちならできるよ。絶対。人間に不可能なんてないんだから。

今度こそ、がんばって勉強して、立派な人になって、持続可能な、よい世界を作ってね。期待してるよ!」

それはちょっと、無責任、というか、非道ではないか、と私は思うのですが・・

おわりに

そういうわけで、私は、ある時期から、現代・近未来版の『君たちはどう生きるか』を書いてみたい、と考えるようになりました。

2003年に出た池田晶子さんの『14歳からの哲学  考えるための教科書』は、たしか、その趣旨だったと思います(ご本人がどこかで書いていました)。池田晶子さんの書くものは好きでよく読んでいましたが、この本は、私にはピンと来なかった。形而上学に寄り過ぎていると感じたのだと思います(手元にないので勘と記憶ですが)。

僕は、すべての人がおたがいによい友だちであるような、そういう世の中が来なければいけないと思います。人類は今まで進歩して来たのですから、きっと今にそういう世の中に行きつくだろうと思います。そして僕は、それに役立つような人間になりたいと思います。

岩波文庫版(1982年)・298頁

ノートにこう書きつけたコペル君の志を、子どもっぽい理想と笑うことはできません。大体、社会の研究者などというものは、全員、コペル君なのですから。

100年経っても、全く「そういう世の中」に近づいていないことを知って、ショックを受けるコペル君(本当に私ですね)。

彼と彼らに必要なものは、夢や希望、理想や「世界観」ではなく、人間と社会に関する端的な真実であると私は思います。まあ、真実というのは分かりませんので、自分で拾いにいくしかないのですが。

だから、私なら、彼らを探検の旅に連れ出したい。方位磁石やピッケル、鍬、探検仲間が残してくれた怪しい地図なんかを手に、素朴な「なぜ」を手掛かりに、真実を掘り当てるのです。

この世界の有り様に納得できれば、彼らの生命力は、勝手に希望を見出して、楽しく生きていってくれるでしょう。

そう思って、時期が来るのを待っていました。ようやく「今ならできるな」と思えるようになりましたので、今年、この取り組みを始めたいと思います(他のこともします)。どうぞ、お楽しみに。

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基軸通貨ドル

基軸通貨ドル:私たちはどんな世界に暮らしてきたのか ④ ドル覇権の現在

目次

はじめに

ドル覇権は今、崩壊の道を歩んでいる。毎分、毎秒、崩壊に近づいている。多分そうだと私は思っている。

過去にも、ポンド覇権の崩壊、覇権国の交代、バブルがはじけたとか、大不況とか、そういった事象が発生したことはある。しかし、ドル覇権の崩壊は、少なくともある程度の長いスパンで測定する限り、そうした事象とは比較にならない、重大な事件になると思う。

まず、類例のないほど巨大化した金融システムがクラッシュすることで、経済が大混乱することが予想されるが、それだけではない。

ドル覇権の崩壊は、短く見積もって200年、長く見積もれば400年近く続いた西洋中心の秩序が崩れ、おそらくは多極化した、別種の世界の誕生を祝う事件となる。

それは、自然現象にたとえれば、超新星爆発とか(?)、そのくらいには、珍しい事象といえる。

せっかく、この稀有な現場に居合わせるのなら、よく見て、感じて、存分に味わいたい。・・そう思いませんか?

この連載は(①-④)、何より自分自身が事情を知りたくて書いたのだが、同時代を生きる人たちが、変化をおそれず、これからの激動を「ワクワク」気味に迎えるためのガイドにもなっていると思う。

ぜひ、知っておいていただきたいことは、2つ。

まず第一に、「不正な秩序」に堕してしまったこのシステムの崩壊は、世界中のほぼ全ての人々にとって、ある種の隷属状態からの解放であること。

一方で、第二に、このシステムの誕生から崩壊に至る一連の過程を駆動したのは、決して「巨悪の策謀」などではなく、結構つまらない・・経済力を通じて世界の中心に立った一群の人々が、ひたすら目先の自己利益だけを考え、おかねをその道具として利用した。周囲は周囲で、ちょっとおかしいと思いつつ、なすすべもなく巻き込まれていった。そんなふうにしてもたらされたものらしい、ということ。

難儀なことはいろいろ起きると思う。でも、覚えておいていただきたい。新しい何かが生まれ出るためには、古い何かが壊れ、滅びてゆかなければならない。それだけのことなのだ。

今回が最終回。ここまでの流れを整理した上で、現在起きていることについて若干の分析と感想を述べ、まとめとさせていただきたい。

ここまでの流れ

【ドル覇権の成立】

  • アメリカはWW2に参戦し念願の通貨覇権を手に入れた。
  • 基軸通貨特権(通貨発行特権)を得て調子に乗ったアメリカはドルをバラまきすぎて通貨システム(金=ドル本位制・固定相場制)を崩壊させた。
  • ところがなんと、金兌換義務を放棄したことで、通貨発行特権は量的制限のない「スーパー通貨発行特権」にバージョンアップしていた。
  • アメリカの支出は増加の一途をたどり、巨額の経常赤字が常態化、ドルの信用は低下した。

【ドル覇権に組み込まれる西側諸国】

  • 世界経済が混乱に陥るのをおそれた西側諸国(ヨーロッパ主要国と日本。以下同じ)は、アメリカの経常赤字のファイナンス(補填)に協力するとともに、率先してドル安定化のための協調体制を築き、「ドル覇権」の一角を担うようになった。

【おかねの増えすぎと金融化】

  • アメリカの「バラまき」や後始末のための為替介入によって世界に流通するおかねの総量は増えに増え、低成長期に入った西側諸国にスタグフレーション(物価高+不況)をもたらしたが、西側諸国は「おかねをぐるぐる回す」(金融)ことでこれに対処した。
  • 経済における金融部門の極大化でおかねの総量はさらに増え、①国内における著しい経済格差(格差社会)、②気まぐれな投資を通じた途上国の搾取(成長阻害)と環境破壊をもたらした。
  • ②によりグローバル・サウス+BRICSのドル覇権(+IMF)への反感は高まり、信頼は低下した。

【グローバル・サウス+BRICSの反感】

  • 気まぐれな投資による債務危機IMFの構造調整プログラムによって緊縮を強いられ、社会・経済を混乱させられたグローバル・サウス+BRICS諸国の間では、ドル覇権への反感が高まった。
  • アメリカによる恣意的な経済制裁の多用も、ドル覇権への反感を増幅した。

【ドル覇権を守るための戦争】

  • アメリカ経済が金融に活路を見出したことで、アメリカにとってドル覇権の確保が死活的に重要になった。
  • 以後、アメリカは、ドル覇権を「利用して」ではなく、ドル覇権を「守るため」戦争を行うようになった。

【グローバル・サウス VS ドル覇権】

  • 2008年の金融危機後、西側諸国の結束は強化され、ウクライナ戦争を通じて「グローバル・サウス VS ドル覇権(西側諸国)」の対立が顕在化した。

ガザ危機ー深まる対立

ウクライナ戦争について、西側が「反ロシア」で直ちに結束したのに対し、グローバル・サウスが比較的冷めた見方をしていたことはご存じだろう。「なんで?」と思った人もいるかもしれない。

NHKなんかでは最近急に発生した現象のように扱われているが、この対立の根は深い。「冷めていた」のは、彼らが根本的に、アメリカと西側諸国をそれほど信用していないことの表れなのだから。

西側に属するわれわれは、習慣的に、アメリカは原則として善の側に立っていると考える。われわれは、アメリカと対立している国ならばいとも簡単に「悪」と決めつけ、アメリカが行なっていると見れば、明らかに不当な行為でも目を瞑る。それが習い性になっている。

しかし、グローバル・サウスの国々はそうではない。西側の眼鏡をつけていない彼らにとって、ロシアは善でも悪でもない普通の国だ。他方、アメリカについては、われわれが見ないふりをしてきた数々の行為ーNATOによるユーゴスラビア空爆、イラク戦争、シリアへの不当な介入、CIAによる「民主化革命」の扇動など多数ーを、彼らはしっかりと見て、記憶に留めている。

ウクライナ戦争が勃発したとき、われわれの多くは西側メディアのいうことを鵜呑みにしたが、彼らは違っていただろう。

それでも、ウクライナ戦争では、西側が一方的にロシアを非難する態度を取ったことが、グローバル・サウスのはっきりとした反感を呼び起こすことはなかった。それは、単純に、近年のウクライナで何が起きていたのかを知っている国が少なかったからだ。

しかし、パレスチナとイスラエルの問題は違う。イスラム教国を筆頭に、グローバル・サウスの国々は、近年のイスラエルがパレスチナの人々に何をしてきたかを知っている。パレスチナ自治区にイスラエル人を入植させてパレスチナ人を迫害したり、自治区に対して爆撃や軍事侵攻を繰り返してきたことを知っている。

▷特定非営利法人 パレスチナ 子どものキャンペーン さんのサイト。とてもよくまとまっていて勉強になります。
https://ccp-ngo.jp/palestine/palestine-information/

西側諸国以外の国々はハマスをテロ組織と見てはいないようです。

彼らは、いま、イスラエルがガザや西岸の自治区で行っていることを、9・11や東日本大震災のときにわれわれがそうしたように、息を呑み、涙を流して見つめているのだ。

今回のガザ危機で、ハマスの非難なんてどうでもいいことにこだわり、戦闘の一時停止・休戦要求でお茶を濁し、一致して即時停戦を求めることすらできない西側諸国を見て、彼らは心底幻滅しているだろう。

同時に、彼らの中に「疑念」としてあったもののいくつかは、確信に変わっているかもしれない。アメリカが、自由と民主主義のためではなく、覇権の維持のために行動していること。それを支持する西側諸国が、覇権に連なる優越的な立場の維持のために汲々としていること。

そして、その目的に資する限り、非西側諸国の人間が何人死のうが、プロパガンダとレトリックの限りを尽くして正当化されること。

彼らの目に、G7の席上で微笑む首脳たちは「新・悪の枢軸」に見えているに違いない。

「最後のG7」(2021)https://www.reddit.com/r/ModernPropaganda/comments/nysner/the_last_g7weibo_artist_lao_ah_tang/?rdt=34701

2003年と2023年の間

(1)2つの変化

どうしてこんなことになってしまったのだろうか。いや、この連載を通じて、すでに「グローバル・サウスの国々が離反を誓うのは当然」という地点に達してはいた。しかし、それにしても、このところの展開はあまりに急なのだ。

‥‥アメリカは世界なしではやって行けなくなっている。その貿易収支の赤字は、本書の刊行以来さらに増大した。外国から流入する資金フローへの依存もさらに深刻化している。アメリカがじたばたと足掻き、ユーラシアの真ん中で象徴的戦争活動を演出しているのは、世界の資金の流れの中心としての地位を維持するためなのである。

エマニュエル・トッド(石崎晴己 訳)『帝国以後』(藤原書店、2003年)2頁

トッドが『帝国以後』の日本語版序文でこう書いたのは2003年、イラク戦争の最中のことだった(原著は2002年発行)。

2003年と2023年。この両時点で、変わらないのは、アメリカが「世界の資金の流れの中心としての地位を維持するため」に、「じたばたと足掻いている」という点である。

しかし、大きく変わった点が2つある。

1つは、アメリカの戦争活動が、トッドのいう「演劇的小規模軍事行動主義」に止まらなくなっている点である。2000年代初頭のアメリカは、イラクに侵攻し、イランや北朝鮮を挑発して満足していた。

最近のアメリカは大胆だ。ウクライナ戦争(仕込みは遅くとも2014年に始まっている)、中国に対する執拗な挑発、ガザ危機への対応。どれを取っても、世界を大戦争に巻き込みかねないものばかりである。

そして、もう一つの変化は、これに対する西側諸国の態度である。2003年、ドイツとフランスは米英の提案によるイラクへの武力行使(開戦)に明確に反対の意思を示していた

しかし、2022-23年の西側諸国は、アメリカを諌めるどころか、ほとんど躊躇する様子も見せず、がっちり一枚岩の対応をとっているのである。

いったい、何が起きたのだろうか。

(2)金融危機とシェール革命ー凶暴化するアメリカ

おそらく、アメリカを軍事的冒険主義に駆り立て、ドル覇権に対するヨーロッパや日本の忠誠を強化させた理由の一つは、2008年の金融危機である。ドル覇権の終わりを眼前にしたアメリカは、直ちに取り繕ったけれども、覇権を少しでも長持ちさせるためのさらなる行動を誓い、西側諸国は忠誠を尽くすべく腹を決めた。ありうる話だと思う。

もう一つの副次的な理由は、2008-10年ごろのシェール革命ではないか、と私はにらんでいる。

ちょうど金融危機の直後、シェール層(岩石の一種)からのガス・石油抽出技術の実用化によって、アメリカは、突如石油とガスの一大産出国となっている。

原油の輸入量
原油の生産量
天然ガスの生産量

イラク戦争の頃のアメリカは、イラクを含む西アジアの石油をめぐりEUとライバル関係にあった。EUには、自分たちのエネルギー資源の確保のためにアメリカと対立する理由があったし、アメリカの方にも、各地の情勢に介入する際に、一定の抑制を要する理由があったのだ。

しかし、石油産出国の「ビッグスリー」(アメリカ、ロシア、サウジアラビア)の一角となったアメリカに、もはや、怖いものは何もない。

アメリカにとって、エネルギーはつねに「友好国や同盟国」の忠誠をつなぎ止める手段だった。

「ビッグスリー」となったアメリカは、「しめしめ」とばかりに、危機に瀕するドル覇権の維持に絶対不可欠な西側諸国の忠誠を、アメリカのエネルギー(への依存)によって勝ち取ることを企図した、というのが私の推理である。

ウクライナ、ガザでの粗暴で大胆なふるまいは、エネルギー網の切断によってヨーロッパとロシアの絆を断ち切り、ユーラシア大陸のエネルギーをできる限り支配下に置くことで、西側諸国の忠誠心を永続させようと狙ったもの、と考えると、「なるほど・・」(ため息)と思えるのである。

(3)ドル覇権の終焉が早まった

しかし、実際には、アメリカのあまりに粗暴で理不尽なふるまい、そして、それでもなお西側諸国が忠誠を尽くす様子は、ドル覇権に対する世界の信用を決定的に損ねる結果となるだろう。

以前、どこかに「ドル覇権はもうすぐ終わる(5年後か数十年後かはわからない)」という趣旨のことを書いた記憶があるが、アメリカの凶暴化によって、その時期はずいぶん早まった、と感じる。

しかし、この連載をお読みいただいた方には、それが起こるべくして起こることであり、世界にとって決してわるいことではない、と感じていただけるのではないだろうか。

おわりに

この記事(①-④)と、同タイトルの連載は、これで完結である。「そうだったのか・・」と思ってくれた方がいたらとても嬉しいし、そうでない方にも、何らかの刺激を楽しんでもらえたら、とても嬉しい。

「あの・・」

あ、はい。

「事情は大体分かりました。でも、それで、私たちはどうしたらいいんでしょうか?」

・・ご質問、感謝します。

いま、例えば、アメリカの凶暴化を止めるために、ドル覇権の崩壊を遅らせるために、グローバル・サウス+BRICSと西側世界との和解のために、何か具体的にできることがあるかというと、ない、と私は思う。

アメリカはアメリカで事情があって凶暴化しているのだし、1980年に戻って縮小均衡からやり直すということもできないし、グローバル・サウス+BRICSの西側世界に対する当然の不信感に対して取り繕う言葉も、私には見あたらない。

でも、これだけのことを知れば、自分自身の生き方は変わるのではないだろうか。

おかねについて、仕事について、世間で「普通」とか「正しい」とされている物の見方や考え方について。

「なんかちょっと、変じゃない?」と思っていたことのすべてが、もしかして、増えすぎたおかねに押し流されて、仕方なくそうなっていることだとしたら。

その上、そのおかしな世界の基礎を作ったドル覇権は、もうすぐ終わるのだとしたら。

「なーんだ」

石ころでも蹴とばしたら、いろいろな謎の重荷を置いて、足の向くまま、スタスタ歩き出したくなるのではないだろうか。

何かできること。
あるとしたら、それだと思います。

主な参考文献はこちら(写真はケインズ)
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基軸通貨ドル

基軸通貨ドル:私たちはどんな世界に暮らしてきたのか ③グローバル・サウス+BRICS

 

目次

はじめに:なぜドル覇権と距離を置くのか

南米、東南アジア、アフリカなどを含むグローバル・サウス。そして、ブラジル、ロシア、インド、中国、南アフリカを中核とするBRICS(以下まとめて「グローバル・サウス」と呼ぶ)。 

これらの国々は、なぜドル覇権から距離を取り、独自の立場で存在感を高めようとしているのか。

それが今回のテーマである。

債務危機の構造

実際のところ、答えは非常に単純である。彼らは、アメリカに、そして、ドル覇権を擁護する西側諸国に、食い物にされ、成長を阻まれたと感じているのだ。

ラテンアメリカを筆頭に、アジア(タイ、インドネシア、韓国など)、ロシアはいずれも1980−90年代に債務危機を経験し、その後数年から十数年にわたって経済的苦境に陥った。

「危機」の構造は概ね共通している。

①発展途上の彼らは、成長率低下と「増えすぎたおかね」を持て余し金融に活路を見出した先進国に目を付けられ、民間資本から気まぐれに大量の資金を貸し付けられた後、気まぐれな「高金利」や気まぐれな資金の引き上げに遭い、債務危機に陥った。

②危機に陥った彼らに手を差し伸べるフリをして近づいたIMF(国際通貨基金)は、彼らの真の経済成長よりも、西側諸国の貸し手の利益と投資市場としての保全を重視し、デフォルト(債務不履行)を防ぐための大規模融資を行った上で、融資条件として構造調整プログラムを義務付けた。

  1. 緊縮政策(財政支出(国民・国内事業者向け補助金など)の削減と金融引締め(通貨供給量減)による収支の改善)
  2. 貿易の自由化
  3. 金融・資本の自由化
  4. 公的部門の民営化
  5. 規制緩和

③「ワシントン・コンセンサス」と呼ばれるこの政策パッケージは、それを受け入れたほぼ全ての国で、社会・経済の混乱に拍車をかけ、外国資本への依存度を高めた。

*その他、2000年代に通貨・金融危機を経験したアルゼンチン、トルコ、ラトビア、ウクライナといった国々もIMFの不適切な勧告によって苦難に陥り、世界銀行の支援を受けた多くの国々も、「ワシントン・コンセンサス」型の構造改革を実行するよう「助言」された結果、同様の問題を経験しているという。

驚くべきことだと思うが、上記の国々が安定的な成長軌道に乗ったのは、IMFと手を切り、当時の経験を反面教師とした独自の経済政策が取れるようになってからのことなのである。

IMF(国際通貨基金)の真実

(1)IMFの仕事

「えっ、でもIMFってちゃんとした国際機関でしょ?」と思った方のために、この機関の成り立ちを説明しよう。

IMF(International Monetary Fund 国際通貨基金)は、1944年のブレトン・ウッズ会議で締結された協定に基づいて作られた国際機関である。

あまり(一般には)知られていないことだと思うが、実は、協定そのものは、ドルを基軸通貨とする「一極」体制ではなく、すべての通貨を平等に扱う多角的な通貨システムを想定していたという(山本栄治『国際通貨システム』82-86頁)。IMFはそのシステムの下で、固定相場の安定維持および通貨政策に関する標準的なルールの設定を促すための機構として設置された。

しかし、現実は協定のシナリオから大きく外れた。そのため、IMFは当初から限定的な機能しか持ち得なかったが、(1971-73を経て) 固定相場制が放棄されたことで、IMFはいよいよやることがなくなった。

そんなIMFに新たな活躍の機会を提供したのが、1970年代末から相次いだ債務危機である。このとき、IMFは、危機に陥った新興国・途上国に融資を行った。加えて、融資条件(コンディショナリティ)として「ワシントン・コンセンサス」型の構造調整プログラムを実施させ、以後、この一連の仕事が、IMFの主要な役割となった。

*現在のIMFの概要は財務省の説明が分かりやすい。

直裁にいえば、IMFは、融資を与える債権者としての地位を利用して、新興国・途上国の経済を、先進国(とくに米英)の「金融に特化した新自由主義経済」と親和性が高いシステムに作り変えることを、主な仕事とするようになったのである。

*「金融に特化した新自由主義」と親和性が高いということは、有り体にいえば、「草刈場として利用しやすい」という意味だ。

ただし、これは私の考えだが、この一連の推移(①協定に反するドル一極体制の成立、②アメリカの都合による固定相場制の放棄、③新自由主義推進機関としてのIMF)は、決して、偶然の結果ではないと思われる。

IMFの設立の根拠であるブレトン・ウッズ協定は、WW2後の通貨システムに関するアメリカとイギリス(イギリス案はケインズが作った)の激しいバトルの末に成立したものである。当時の力関係を反映し、協定はアメリカ案をより多く取り入れたものとなったが、アメリカ案そのものではなかった。この段階では、アメリカも、一定の妥協を示していたのである。

しかし、すでに述べたように、ブレトン・ウッズ協定の想定した通貨システムは実現せず、現実は「ドル一極体制」に落ち着いた。

たぶん、アメリカは、もともと、意に沿わない協定に従うつもりなどなかったのではないかと思う。アメリカは、協定の成立には協力したが、その実現には力を入れなかった。そうして、望み通りの通貨システムを手に入れ、IMFを自らの手足として、各国経済をアメリカの利益に合致するように作り変えていったのだ。

(2)IMFの意思決定

なぜ、アメリカに、IMFを手足として利用するなどということができたのか。秘密はIMFの意思決定システムの中に隠されている。

IMFは「自由・無差別・多角主義」に基づく国際機関ということになっており、意思決定は加盟国の合議と投票による。

通常の議決は過半数、重要事項は事項によって70%ないし85%の超多数決である。

しかし、IMFの投票権は、一国一票ではない。出資金の分担額(出資割当額:クオータ)が多いほど多く割り当てられるのだ。

割当額の1位は一貫してアメリカで、概ね17%前後。ほかに15%以上のシェアを持つ国はないので、85%事項に関してはアメリカ1国だけが事実上の拒否権を持つ格好である。

現在(2018年改定後)は2位は日本で約4.6%。旧G5諸国の合計が37.9%なので、G5が揃えばもちろん、アメリカ+3カ国で70%事項は問題なくクリアできる。

通常の過半数の議決についても、西側諸国だけで優に50%を確保しているので、非西側諸国のすべてが結束しても、西側諸国の一致した意向に反する議決を行うことはできない。

そして、この割当額の変更は85%の超多数決事項なのである。

IMFの意思決定システムは、公平中立な国際組織のシステムとしては異常である。しかし「公平中立ではない」と考えれば納得できる。

IMFは、もともと、アメリカの意向に沿って行動する「国際機関」として設計されている。IMFによる支援が、支援対象国よりも、アメリカ(と西側諸国)の利益を主に考慮しているように見えるのは、単純にその結果なのである。

IMF Headquarters, Washington, DC.

「危機」の具体例

(1)ラテンアメリカの場合

具体例の代表的なものをいくつか見ていこう。

債務危機をいち早く経験したのはラテンアメリカだ。合衆国の「裏庭」として、早くから資本流入と金融・資本自由化が進んでいたからである。

〈前提としての金融・資本自由化〉

WW2の後、アメリカはラテンアメリカ諸国の共産主義化を恐れて、親米右派政権(しばしば軍事政権)を支援した。

*チリのピノチェト政権のようにCIAがクーデターを支援したケースもある。

アメリカが「親共産主義」とみなす政権が一般に、農業の振興や輸入代替工業の発展を重視し、輸入に依存しない経済の下での国民生活の向上を目指したのに対し、アメリカが支援した親米右派政権は、アメリカの意向に沿って、外国資本に依存した輸出志向の工業化を目指した。

*有り体にいうと、外資の下で安い賃金で国民を働かせて外国に売れる製品を作り、儲けたドルでアメリカ製品を買う(余剰農産物と軍需品)という仕組み。

*そしてアメリカはどこの国に援助(通常は融資)をするときにも、アメリカ製品の購入と資本自由化(海外資本の受け入れ)を条件として課した。

アメリカの支援を受けたラテンアメリカ諸国では、1970年代までに、貿易自由化に加え、金融・資本自由化が実現していたのである。

〈スタグフレーション・マネーの流入〉

変動相場制に移行し、基軸通貨国アメリカからますます大量のドルが供給された1970年代、「低成長+おかねの増えすぎ」によるスタグフレーションに苦しんでいた先進国は、増えすぎたおかねの使い道を探した。

金融に活路を見出した彼らが、有望な投資先として目をつけたのが(当時の)発展途上国だ。

スタグフレーションのために先進資本主義国の生産資本の蓄積が停滞した結果として、74-84年累計で1793億ドルにおよぶ「過剰貨幣資本」が国際金融市場に間歇的に放出されて「過剰貸付資本」が形成され、この「スタグフレーション・マネー」が「オイル・マネー」とともに発展途上国累積債務の実体を形成した

森田桐郎「ラテン・アメリカにおける「開発」と債務」石見徹・伊藤元重編『国際資本移動と累積債務』(東京大学出版会、1990年)203頁

1970年代後半、余剰ドルを手にした先進国に押し付けられる形で借入を増やしたラテンアメリカの国々を待ち受けていたのは、1980年代のアメリカのドル高・高金利政策である。借入はドル建であるから、金利も返済額も大幅に上がる。これに、世界的な不況による輸出収入の減少、石油価格の上昇が重なって、彼らは続々と債務返済不能に陥っていったのである。

〈IMF融資と融資条件〉

債務危機に陥ったラテンアメリカに、IMFは大規模な融資を提供した。融資条件としての「ワシントン・コンセンサス」はこの時期に確立されたものだというが、ラテンアメリカの場合、2-5はすでに実現していたので、もっぱら1の緊縮政策が厳しく求められることになった。

過剰貸付を受け、外部的な要因によってその支払いが困難になり、経済的に苦境に陥った国に必要なものは何か、考えてみてほしい。まずは、債務の減免か(最低でも)猶予、そして、経済を元の軌道に戻すための財政支出こそが、必要なものではないだろうか。

IMFはラテンアメリカに多額のドルを貸し付けたが、債務には一切手を付けず、コストカットによる収支の改善だけを義務付けた。これでは、融資の目的が、もっぱら債権者の利益の確保(貸付により利子の支払いを可能にし、国家財政の破綻による貸し倒れを防ぐ)にあったと言われても仕方がないだろう。

1980年代のラテンアメリカは、IMFの「救済」によってデフォルト(債務不履行)こそ免れたものの、その経済は改善せず、借金返済(利子の支払)のために新たな借金を強いられる「債務のわな」(debt trap)状態に陥った。

結果、ラテンアメリカは、この「失われた10年」ののち、再び「危機」を迎えることになる(メキシコ通貨危機アルゼンチン通貨危機、ブラジル通貨危機等)。

*後者の「危機」はアジア通貨危機と同じ構造なので、説明は事項に譲ろう。

(2)アジアの場合

先進国が「目を付けた」投資先には、もちろん、アジアの国々(タイ、インドネシア、韓国など)が含まれていた。

〈投資マネーの流入・タイの金融危機〉

アメリカやIMF(ほぼ同義だ)の影響で1990年代に資本自由化を推進したこれらの国々は、特に91年の日本におけるバブル崩壊以後、日本を含む先進国から多額の民間資本が流入した。

*日本に投資先がなくなったから。なお、資本とは「おかね」という意味です。

20世紀後半の投資マネーは短期に確実な利益を出すことを求めている。彼らは気まぐれにやってきて、「危うい」と見るや、さっさと消えていくのだ。

*19世紀との大きな違いである。ポンド覇権時代の対外投資は公共事業等に対する長期投資が中心だった(日本もイギリスの資金で鉄道を建設したりした)。

1997年、タイの経済指標の悪化(経常収支赤字など)を嫌った投機筋がバーツ(タイの通貨)を売り、バーツの価値が大幅に下落(2-3ヶ月で半分)。タイの銀行・企業の財務状況は悪化し、タイは金融危機と不況に陥った。

〈資金引上げによる危機の伝播〉

タイの金融危機は、インドネシア、マレーシア、韓国といった比較的良好な経済状況を保っていた国にも波及した。「アジアは危ない」と見た投資家が、資金を引き上げたからだ。

こうして、投機筋の売りによるタイの通貨下落が引き金となって、「アジア通貨危機」と呼ばれる経済危機に発展したのである。

〈IMF融資と構造改革〉

IMFはマレーシアを除く3カ国に融資を行い、融資条件として、「ワシントン・コンセンサス」的構造調整プログラムを実施した。

ここでも、とくに、経済運営が順調だったインドネシア、韓国の2国について、どんな対策が必要だったかを考えてみよう。

彼らの「危機」は、短期資本の引き上げによる資金繰りの悪化がもたらしたものだった。したがって、短期的には、資金不足を補うための融資に加え、一時的に悪化した経済状況を乗り切るための財政支出と金融緩和が必要であり、かつ、それで十分だったと思われる。そして、長期的には、むしろ、外部の資金に過度に依存しない経済システムの構築が必要だったはずだ。

ところが、IMFは、緊縮政策(財政支出の削減・金融引締め)に加え、金融機関の整理統合、国営企業の民営化、財閥解体、金融・資本規制の撤廃、労働市場の自由化といった広範な構造改革の実施を義務付けた。

単なる一時的な資金不足に構造改革で対応したことで、社会は混乱し、景気後退も深刻化したのである。

IMFのしたことは、一時的な資金不足に乗じて、有望な経済圏をドル運用の好適地に作り替えること以外の何物でもなかった。そう言わなければならないと思う。

ところで、タイ、インドネシア、韓国は、いずれも、2008年の金融危機を比較的うまく乗り切った国として知られている。彼らは、金融を緩和し、財政支出を拡大して、危機を乗り超えた。そう、彼らが採用したのは、IMFと正反対の経済政策だったのだ。

IMFを反面教師とした国こそが、金融危機によく耐えた。IMFの経済政策の問題性をこれほどよく示す事例もないだろう。

◾️アジア危機への日本の対応◾️

1980年代に本格化したIMFや世界銀行の新自由主義・市場原理主義的な融資条件(ワシントン・コンセンサス)に対し、日本政府がかなり明確に批判的な立場を取っていたことは特筆しておきたい。

1991年10月のIMF・世銀総会で、当時の三重野日銀総裁は、「真の経済開発のためには,・・民間部門を育成し,起業家精神の醸成や生産性の 改善に努めることが不可欠であります。同時に,政府が市場メカニズムを補完し,市場メカニ ズムが有効に機能するような環境の整備を図ることが重要」と指摘し、アジア諸国はその成功例であると述べていた。

アジア危機が起きた1997年の総会では、日本政府はアジア版IMFとなる「アジア通貨基金(AMF)」の設立を(非公式に)提案し(アメリカと中国の反対で頓挫)、1998年の総会で、宮澤喜一蔵相は、急激な資本引き上げによる外貨不足から生じた危機に対して過度の構造改革を義務付けたIMFのやり方を批判した。

少なくともこの時期まで、日本政府は、新自由主義への警戒感やIMF=アメリカに対して物を言う姿勢を持ち続けていたのだ。

*ここからはあまり根拠のない憶測だが、私の感じでは、日本政府が、これからの日本は、「ドル覇権を支える役人の地位を堅持し、金融で経済を「成長している風」に見せていくしかない」と本当に腹を括ったのは、2008年の金融危機の後、2012年に自民党が政権に復帰したとき(第二次安倍政権)だったのではないかと思う。安倍元首相が何をどのくらい理解していたのかは見当がつかないが、2013年以後10年間日銀総裁を務めた黒田東彦さんは全て承知の上だっただろうと思うし(批判しているわけではない。この時期に一役人として他にできることがあったとも思えないし)、後任で現職の植田和男さんも全て承知の上だと思う(これも批判しているわけではない。むしろ、任期中に大変な危機に見舞われる可能性が高いこの時期に日銀総裁を引き受けるなんて立派な人に違いないと思っている)。

(3)ロシア

後任のプーチンに大統領エンブレムを付けるエリツィン(1999)

ソ連崩壊後のロシアへの「支援」も悪名高い。

エリツィン大統領の下、長年の共産主義を捨て市場経済に移行しようとしていたロシアで、IMFは、短期間で一挙に市場経済化を進める「ショック療法」を強力に推進した。

価格が自由化されるとハイパー・インフレーションが発生し、その抑制のために厳しい緊縮政策が適用された。緊縮により、インフレは収まったが、生産部門は壊滅、国民総生産も半減し、外国資本への依存が進んだ。

*自由化・民営化で、元国有企業の多くが外国資本に不当な安値で買い叩かれている。

一旦は緩和された緊縮政策は、景気後退に歯止めがかかると見えた途端に再開され(1996-97)、金融引締めにより金利が上昇、IMFのプログラムに沿って大量発行した国債を内外の金融機関がこぞって購入した。

こうした一連のIMF療法の結果、この時点で、ロシアは外国資本への依存度が極めて高い経済になっていた。

ちょうどそのとき、アジア危機の余波が訪れた。新興国市場全般を「危険」とみなした投資家は、ロシアからも資本を引き上げ、ロシアの外貨準備は急速に減少した。資本流出は止まらず、ロシアは事実上のデフォルト(債務不履行)に陥った(1998年)。

*ロシア危機では(デフォルトで)アメリカ、イギリス、日本などの投資家が大損した。逃げきれば損はしないが、逃げきれずにデフォルトとなると大損害が発生する。だからIMFは「緊縮」を求めるのだ。

しかし、この危機による外国資本の引き上げとルーブル安(デフォルトと同時に通貨切下げも行った)は、長期的には、ロシア経済にプラスとなった。外国依存が絶たれ、国内の輸入代替生産が増加したからだ。

ロシアは2004年までにIMFへの返済を完了し、経済政策の自由を回復。経済はようやく安定した成長軌道に乗ったのだ。

*エリツィンは1999年末に退任、2000年からプーチン政権になっている。

世界経済のネタ帳」より

おわりに:「不正な秩序」再び

本文の中で、IMFの「ワシントン・コンセンサス」的プログラムは、「それを受け入れたほぼ全ての国で、社会・経済の混乱に拍車をかけ」た、と書いた。その実情を、専門家に証言していただこう。

IMFのプログラムでは、必ずといっていいほど財政支出削減を伴う緊縮政策が求められ、そのために公企業の民営化やリストラのみならず、公的支出を大幅に削減される。途上国・新興国に対する・・「構造改革」の規模は、当該国としては非常に大規模で、通常先進国で考えられるような穏和なものではなく、それと比較にならないほど短期間に急激な財政支出削減が求められる。このため、IMFプログラムを実施すれば、しばしば当該国政府の政権は交代する結果となる。2008年秋以降、アイスランド、ハンガリー、ラトビア、ルーマニアなどではいずれも国民の不満が高まり、政権が崩壊ないし交代した。アジア危機時にインドネシアでスハルト政権が崩壊したのもIMFプログラム実施がきっかけであった。

大田英明『IMF(国際通貨基金) 使命と誤算』(中公新書、2009年)ⅲ頁

途上国・新興国は多くの場合、ドル建てで提供された資本の気まぐれな引上げに遭うなどした結果、ドル不足で債務危機に陥る。

ここで、彼らがデフォルト(債務不履行)に陥ったとしよう。国の経済的信用は破綻する。しかし、大きな損失を被るのは彼らではない。資本を投下した先進国の側(機関投資家など)である。

だからこそ、彼らはデフォルトを許されない。IMFは、融資を提供してデフォルトを回避させ、緊縮政策を強いる。結果、国民の生活は困窮し、決して少なくない頻度で、政権の崩壊・交代にまで至るのだ。

「借りたものは返す。それが常識でしょう、奥さん?」。

そう言って、財産の最後の一片まで奪って去っていく。
あの高利貸しの声が聞こえてくるようではないか。

しかも、現在のアメリカは、工業生産力で世界の頂点に立ち、貿易黒字を誇ったあのアメリカではない。

膨大な経常赤字を出し続け、世界最大の債務国となったにもかかわらず、一切の緊縮策を拒み、他国にありとあらゆる圧力をかけて浪費を続けている、そのアメリカなのだ。

グローバル・サウスの国々が離反を誓うのは、当然ではなかろうか。

「不正な秩序」について書いています(この記事の予告編にもなっていました)
現在もまったく同じ問題が。配信もあるようです。
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基軸通貨ドル:私たちはどんな世界に暮らしてきたのか ②ヨーロッパと日本

 

 

目次

はじめに:なぜドル覇権を支えるのか?

前回述べたように、ドル覇権は、実質的に、アメリカと西側諸国(ヨーロッパと日本)の協力関係を基礎とするシステムである。

ヨーロッパと日本は、最近、以前にも増して従順にアメリカに付き従うようになっているが、その根底にあるのも、ドル覇権に対するある種の連帯責任なのである。

いったいなぜそんなことになったのか。今回は、「最近」に至る一歩手前、20世紀末までの経緯を確認しよう。

復興援助の記憶 ー「善なるアメリカ」

ヨーロッパと日本が、1971-3年以後の「ドル覇権」を容認した背景に「第二次世界大戦直後から復興までの恩義」があったことは疑いない。

終戦時、戦場となったヨーロッパと日本は(勝ち負けに関わらず)ボロボロで、おかねもなければ生産設備もなかったが、アメリカだけは無傷だった。

*戦争特需(軍需品受注額は1830億ドルと言われる)もあり、終戦時には世界中の(貨幣用)金の3分の2がアメリカに集まっていた。

そのため、ヨーロッパと日本は、復興資金のほぼ全てを、アメリカから受け取ることになったのだ。

アメリカは、1947年の緊急援助、48年から52年のマーシャル・プラン(116億ドルの贈与・18億ドルの借款)を含む総額330億ドル相当の援助をヨーロッパに提供した。日本にも、ガリオア・エロア基金として15億ドルの贈与・5億ドルの借款を与えた。

さらに、アメリカは(WW1後とは異なり)、製品の輸入も積極的に行い、ヨーロッパの復興に貢献した。1947年、アメリカは101億ドルの貿易黒字を計上していたが(ヨーロッパの貿易赤字がほぼ同額(90億ドル))、1952年には26億ドルに減少している。アメリカは貿易を通じて、ヨーロッパにドルを供給していたのである。

もちろん、アメリカは、単なる善意で支援を行ったわけではない。アメリカは、イギリス帝国に残された特権を最後の一片まで剥ぎ取るべく手を尽くしたし、敗戦国(ドイツと日本)をとくに手厚く支援したのは、彼らを衛星国に仕立てて、アメリカの繁栄に尽くさせるためだったと考えられる。

それでも、アメリカの支えがあってはじめて、飢えから救われ、復興を成し遂げた人々にとって、アメリカは「善きもの」以外のなにものでもなかった。その印象は、戦後の西側世界の人々のアメリカ観を深く規定したはずである。

爆撃で破壊されたドイツの町(Altenkirchen)を走るアメリカ軍(1945年3月)
再建中のベルリン。ビルの壁にはマーシャルプラン援助のポスター(1948年6月)

金=ドル本位制崩壊 ー 共犯関係の成立

(1)ドル過剰ー支出が止まらないアメリカ

ヨーロッパ・日本の復興が軌道に乗った後も、アメリカの「赤字」を通じたドル供給は続いた。

*アメリカの主な赤字の源は、軍事支出と企業買収(ヨーロッパの優良企業の乗っ取り・買収)だったとされる。文献には「アメリカの国際収支は1950年から赤字に転じた」、額については「58年が29億ドル、59年で22億ドルの赤字」(上川孝夫・矢後和彦編『国際金融史』(有斐閣、2007年)117頁[牧野裕執筆部分])とあり(同様にこの時期のアメリカの「国際収支」が赤字だったとするものに、石見徹『国際通貨・金融システムの歴史』(有斐閣、1995年))、ここでの記載はそれらに依拠している。

しかし、国際収支は「経常収支+資本移転等収支+誤差脱漏=金融収支」という等式で示されるものなので(こちらも)「「国際収支全体で黒字や赤字がある」という言い方は不適切である」ということであり( 奥田宏・代田純・櫻井公人『深く学べる国際金融』(法律文化社、2020年)2頁[星野智樹執筆部分]等)、私はそのように理解した。そこで「じゃあ「国際収支の赤字」は「経常収支の赤字」のことかな」と思って調べると、その時期のアメリカの経常収支は赤字ではないようなのである(谷口明丈・須藤功編『現代アメリカ経済史』(有斐閣、2017年)500頁掲載の表を参照)。専門家が揃って「赤字だった」と言っているのだから赤字だったのだと思うのだが、何が赤字だったのか分からなくて困っており(貿易赤字ではない)、もし知っている方がいたら教えてほしい。

その背景には、大量の金を独占していたアメリカに「支出過剰」などあり得ないという当時の「常識」があったのだが、実感として、アメリカの支出は明らかに過剰だった。

そのため、ヨーロッパや日本では、戦後の「ドル不足」を脱した途端、「ドル過剰」が問題視されるようになったのである。

(2)金=ドル本位制の崩壊

「過剰ドル」を蓄積した国々はドルに不信感を抱き、保有するドルの金兌換を進めた。その結果、アメリカの金保有量は1958年から減少局面に入る。

最初のゴールド・ラッシュ(金価格の上昇を予想した金投機→ドル不信の現れ)が1960年に起こり、ヨーロッパを中心に金=ドル本位制を支えるための努力が始まったが(金プールの設立(1961年)や各種国際通貨協力、国際決済専用通貨の創出(IMFの特別引出権(SDR))など)、その間も、アメリカの収支は一向に改善しなかった。

ベトナム戦争の戦況悪化(テト攻勢)(1968年)が最後の一撃となり、ドルへの信認は極端に悪化。金の流出に拍車がかかり、いろいろとあった末、1971年8月15日、アメリカは、金=ドル交換の停止を宣言(ニクソン・ショックといわれる)。金=ドル本位制は崩壊したのである。

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FNL(南ベトナム解放民族戦線)に一時占拠されたサイゴンのアメリカ大使館(wiki)

G5ー共犯関係の成立

金=ドル本位制崩壊で、ドルの信用は失墜したが、基軸通貨の地位は維持された。他に代わりになりうるものがなかったからである。

復興を終えようやく豊かさを楽しもうかという段階に入ったヨーロッパ・日本にとって、今、ここで、世界経済の基盤が崩れるなどということは、決してあってはならないことだった。

今、やるべきことは、ドルを支え、世界経済を安定させることである。ということで、金=ドル本位制・固定相場制の崩壊で乱高下するドルを、西側諸国は協調して買い支えた。

*やや詳しい説明はこちら

主要国首脳会議(サミット)の第1回が開催され、G5(主要5カ国財務大臣・中央銀行総裁会議)が組織されたのは1975年にことである。

ヨーロッパ・日本は、国際通貨システムの安定を求め、率先して、ドル覇権を支える立場に立った。こうして、アメリカとヨーロッパ・日本の間に共犯関係が成立し、ヨーロッパ(イギリス以外↓)と日本は、やがて思いもかけない深みに引きずり込まれていくことになるのである。

初めてサミットが開催されたフランス・ランブイエ城

ユーロダラー:イギリスの役割

1980年代、アメリカはレーガノミクスの下で金融肥大化への道をひた走る(詳しくはこちら)。しかし、経済の「金融化」(+金融のバクチ化)の責任は、アメリカだけにあるわけではない。

ここまで「ドル金融市場」という言葉を使ってきたが、この世界最大の金融投資市場の生みの親は、実はアメリカではない。イギリスなのだ。

WW2の後、イギリス政府の為替管理によってポンド取引を規制されたイギリスのマーチャント・バンカーは、アメリカの金融界が広範な国際金融ネットワークを構築する前に、ドルを用いた国際金融業務を開始した。

*直接のきっかけは1957年のポンド危機だったという(第三国間の貿易決済へのポンド利用が禁止された)。

1950年代末のロンドンに成立したドル金融市場は「ユーロダラー市場」と呼ばれ、1960年代にはニューヨークを凌ぐ主要な国際金融市場となった。

ユーロダラー市場には、アメリカの金融当局による規制が及ばず、イギリス政府もこれを規制しようとしなかった。

イギリス当局は・・ユーロダラーの発達を抑止しようと思えばそれができたはずである。しかし当局がそのような挙に出なかったのは、疑いもなくロンドンをユーロダラーの中心市場に発展させることの利益を理解していたからであった。

著名な金融評論家Einzigの言葉(上川孝夫・矢後和彦『国際金融史』(有斐閣、2007年)303頁[鈴木俊夫執筆部分]

1960年代にアメリカが(ドル防衛策として)国内の金融規制を強化すると、アメリカの金融機関もこぞってユーロダラー市場に出店した(もちろんヨーロッパ、日本の金融機関も)。シティは再び国際金融の表舞台に立つとともに、シティのユーロダラー市場こそが、アメリカの金融機関による国際金融業務の核を構築することになったのだ。

アメリカ金融界は規制に縛られた内部ドル市場の国際化の道を放棄し、外部ドル市場であるユーロ・ダラー市場を核にした「統合ドル市場」としての国際的信用制度を構築する道を選んだのである。

山本栄治『国際通貨システム』(岩波書店、1997年)97頁

*正式の統計は存在しないが、取引規模は、1985年には1668兆ドル、2016年には13833兆ドルに達したと推計されている(wiki英語版)。

以後、アメリカとイギリスは、競って金融自由化を推し進め、世界をグローバリゼーションと格差の渦に巻き込んでいく(↓)。

トップ1%の取り分。アメリカとイギリスの1980年から2000年の変化がとくに大きいことに注目。(Todd, Lineages of Modernity, p225)

増え続けるドルを「カジノ・チップ」に見立てた経済の金融化・カジノ化について、イギリスの果たした役割は大きい。そして、おそらく、イギリスが仲介者となることで、アメリカ発の動きは、ヨーロッパ、次いで世界に、容易に拡大していくことになったのである。

*アメリカの金融自由化についてはこちら。これに倣ったイギリスの「金融ビッグバン」は1986年。 

銀行革命はアメリカでスタートしたが、それだけで終わらなかった。証券会社が国内で行なって利益のあがった業務は、すぐにまずロンドンで、次いで海外の別の場所でも行われた。また証券会社が〔アメリカ〕国内で行うことを許されなかった業務もロンドンのシティで自由に行われ、その後他国でも行われることになった。利益を求めてやまない米銀が、国内の金融サービス市場における米銀間ならびに新規参入者との間の競争圧力を容易に回避できるルートとして、シティが果たした役割は物語の重要な部分である。‥‥ もしロンドンが玄関先に「ようこそ」という看板を掲げてドアを開放していなかったら、国際ビジネスを拡張するために、米銀はいったいどこに行っただろう。

スーザン・ストレンジ『マッド・マネー』(岩波現代文庫、2009年)80-81頁
President Reagan meeting with Prime Minister Margaret Thatcher of the United Kingdom in the Oval Office.

日本ープラザ合意からバブル崩壊まで

(1)1980-90年:抵抗のラストチャンス

その後、ヨーロッパや日本に「ドル覇権」に異を唱えるチャンスはなかったのであろうか。

あったとすれば、1980-90年代がそのときだったかもしれない。次の引用をお読みいただきたい。

仮定だが、1980年代から1990年代に日本と大陸ヨーロッパがアメリカに対して何千億ドルもの債権を築き上げたとき、1920年代に債権者アメリカがイギリス等のWW1同盟国に対して取ったのと同じ態度をとっていたらどうなったであろうか。日本とヨーロッパは、アメリカに、主要企業から美術館の所蔵品まで、すべてを不当に安い価格で投げ売りするよう迫っていただろう。それこそは、アメリカがイギリスに求めたことだった。

‥‥しかし、日本も(フランスを除く)ヨーロッパも、この債権者カードを使わなかった。日本はまるで債務国であるかのように振る舞い、1984年と1986年にはアメリカの要求に応じて金利引下げを行なった。アメリカの大統領選挙と議会選挙に貢献するためだ。その結果、日本経済は過剰債務に陥り、金融バブルが弾けて、ついには経済の重要部門をアメリカ人に売り渡す羽目になった。アメリカ自身、日本にとって債務者であったのに。

Michael Hudson, Super Imperialism, 30-31頁

*金利引下げの意味についてはこちら(9段落目)。
*「ドル過剰」時代、他のヨーロッパ諸国がドル防衛策に協力したのに対し、フランス・ドゴール大統領は「金こそが本位通貨」という立場を譲らず、アメリカに対し繰り返し(フランスが持つ)ドルの金兌換を求めた。時期は違うが多分このことを言っているのだと思う。
*バブル期に日本企業はアメリカ企業をバンバン買収したように思われているが、よく見ると大した買い物はしていない。ゴールドマンサックスなどの主要銀行を買ったわけでもないし、ウォルト・ディズニー、IBM、ボーイング、GMやフォードを買ったわけでもないのだ。

(2)80年代の開幕:巨大赤字とドル高・高金利

1980年代に起きたことを概観しよう。

レーガノミクスの下、アメリカは巨大な経常赤字を継続させ、世界最大の債務国に転落(1985年)。前回書いたように、巨額の赤字はヨーロッパと日本の対米投資によって補填された。

*なお、この時期の対米投資がもっとも多かったのは、大幅な対米黒字を記録していた日本やドイツではなく、わずかな黒字しか持たないイギリス(5年間で1745億ドル)である。イギリスはユーロダラー市場として浮上したシティに流れ込む資金に支えられて巨額の対米投資を行っていたのだ。経済の金融化をもたらしたのは「低成長の経済に注ぎ込まれた構造的過剰資金(おかねの増えすぎ)」であるが、具体的には、ユーロダラー市場を中心とするドル金融市場がアメリカの巨額赤字を補填(ファイナンス)する過程で、先進国の証券市場が統合され、金融・資本規制が(米英の主導で)緩和され、金融のグローバリゼーションが進行していったようだ。

1970年代末からの(スタグフレーション対策としての)強力な通貨引締め政策(高金利政策)の影響で、非常な高金利・ドル高となったが、レーガン政権はこれを放置した

*「ビナイン・ネグレクト(優雅なる黙認)」方針は、新自由主義的思想(小さな政府・規制緩和・民営化・・)の表現でもあったが、高金利・ドル高による海外からの資金流入が好都合だったという一面もあったと思われる。

しかし、ドル高で自動車産業などの競争力は非常に低下したので、アメリカ国民の不満は高まり、黒字国(日本やドイツ)に対する制裁や保護主義を求める動きが活発化した。

アメリカ政府は、国民の不満を逸らすため、アメリカの貿易赤字の責任を日本になすりつけ(これはほぼ言いがかり↓)、日本は通商上の各種要請事項の大半を受け容れた。

*自動車輸出の自主規制、アメリカ産の部品・完成車の輸入の拡大(数値目標)など(外務省の整理が一覧性があって便利)。

*当時の対日貿易赤字拡大の主な原因は、レーガノミクスによる消費刺激策にあり、「日本のせい」というのが言いがかりであることは一般に認められている。国内産業の競争力低下を放置して消費のみを刺激したため、そのほとんどが輸入品に向かったのだ(佐々木隆雄『アメリカの通商政策』(岩波新書、1997年)128頁等)。実際、アメリカの貿易赤字は、対日赤字が減少した後も、相手国を(中国に)変えて延々と続いた。

一方、世界を見回すと、ヨーロッパも不況でドル高・高金利はその原因の一つと考えられていた(本当かどうか私にはわからない)。アメリカから融資を受けていた途上国は金利負担が大きくなりすぎて困っていたし(→次回③)、日本は対米貿易黒字が大きくなりすぎて困っていた。

1980年代の中頃、世界中で、アメリカのドル高・高金利に対し「何とかしろ」というムードが高まっていた。

日本車を打ち壊すアメリカの人たち

(3)プラザ合意:後始末に奔走するG5

金融政策担当者が変わった二期目のレーガン政権は(1985年-)「ドル高是正やむなし」の姿勢に変わり、ヨーロッパ(とくにドイツ)とのドル売り協調介入などを始めていた。

この動きを捉え、「私とも一緒にやりましょう」とアメリカに持ちかけたのが日本だ。

*日本は「対米輸出減・輸入拡大」というアメリカの要求に基本的に応じていたが、ドル高が収まり貿易摩擦が和らげばそれに越したことはない。持ちかけたのは当時大蔵大臣だった竹下登。

日米間の交渉は独・英・仏を巻き込むG5の国際協調に拡大。G5は会議を開催し、共同声明で「ドルはもう少し安い方がよいと思うので、ドル買い協調介入を行います」と宣言した。これがプラザ合意である(1985年9月)。

*実際の声明はもっと婉曲的で「ある程度のドル安(+その他の通貨高)に向けてG5各国が密接に協調する用意がある」。

裏で交わされていた詳細な合意の内容は以下の通り。

  • 目標は10%から12%のドル下方修正(1ドル240円→218-214円)
  • 6週間程度・180億ドル目途の協調介入
  • 介入資金の負担は米・日がそれぞれ30%、独25%、仏10%、英5%

*なお、日本は同時に、国内市場の一層の開放規制緩和金融緩和(低金利)金融・資本市場の自由化消費者金融・住宅金融拡大による民間消費・投資の増大を通じた内需拡大の努力なども約束させられた(ドイツも似たような約束をさせられた)。

G5全体にある程度言えることだが、ここでは日本の資金負担の大きさに注目しよう。

日本は、1970年代と同様、アメリカの失敗の後始末のために力を尽くした。それも、日本が自ら申し出て、気の進まないアメリカを宥めすかして、実現に漕ぎつけたのである。

https://marketbusinessnews.com/plaza-accord-definition-meaning/

(4)利下げ要求に屈し、バブルに向かう日本

これを機にドルは暴落した。そこまで下がるとは誰も思っていなかったようなのだが、実際には大暴落し、みんな(とくにアメリカ)に衝撃を与えた。70年代末からのドル高が「ドルの強さ(=信認)」とは無関係の投機的バブルに過ぎなかったことがあからさまになったからだ。

*ドルは協調介入を待たずに下落を始め、予定より少ない102億程度の介入で目標値に達した。下落は続き、日独のドル買い介入にもかかわらず、86年7月には1ドル150円まで下がった。87年2月にはG7が再び協調介入する用意があることを宣言して市場のドル売りを牽制したが(ルーブル合意)、5週間後には再び下落が始まった。

実は、1980年代前半のドル高を支えていたのは、海外民間資本の対米投資とりわけ「ジャパン・マネー」と呼ばれた日本の機関投資家(とくに生保、証券会社の投資信託など)だったという。そして、彼らは、ドルの暴落で大損をして、急速にアメリカへの投資意欲を失った。

*生命保険7社は86年6月の決算で1兆7000億円の為替差損を計上したという。

そうなると、困るのはアメリカである。日本からの投資は、アメリカの赤字ファイナンスに欠かせないものでもあるからだ。

ドル安の状況下で日本の投資マネーを呼び込むには、アメリカの金利を為替差損を補うにあまりあるレベルにまで上げるしかない。しかしアメリカは金利を上げたくなかった。利上げ(=通貨供給量減)は回復基調にあった景気に水を差す可能性が高かったからだ。

そこでアメリカが何をしたかというと、日本(とドイツ)に圧力をかけ、利下げを要求したのである。

*アメリカが金利を上げなくても(あるいは下げても)日独が十分に(アメリカ以上に)金利を下げれば金利差により日独の投資マネーはアメリカに誘導される。

*利下げは日独にとってはいわゆる「金融緩和」(市場に流通するおかねを増やす)政策なので、アメリカとしては、投資マネーの誘導と、両国での内需拡大による対米貿易黒字の減少の両方を狙った形である。

日本(とくに日銀)は(少しは)抵抗した。しかし、結局、1986年1月から87年2月にかけて、5回の利下げ(公定歩合引下げ)を行ったのだ。

5回のうち最初の2回については、日本の景気対策として意味があったと解釈することが不可能ではない。プラザ合意後の急激なドル高の影響で、日本経済は景気後退局面に入っていたからだ。

しかし、86年11月以降の3回に関しては、日本にとっては有害無益であったことが明らかである。日本経済は1986年中頃からは「内需主導型の景気拡大」局面に入ったとされており、そこでさらに利下げ(金融緩和)を行えば、景気の過熱を招くおそれが強かったからである。

それでも日銀が3回の利下げに応じたのは、「国際協調」。つまり、その時々の事情(選挙など)に応じたアメリカの強い要請か、アメリカの機嫌を取りたい日本政府の要請に押されてのことである。

一連の利下げが日本国内でどう受け止められていたのか。3回目の利下げ直後の日本経済新聞、朝日新聞の記事から引用しよう。

日銀が利下げをためらってきた理由の1つとしては、カネ余りの中でそれが経済の一部をさらに投機化させるという心配があげられていた。だが、その原因は「余ったカネ」に見合うだけの国内の投資先が不足しているところにある。金融政策内部だけでの解決はもともと無理だったとみるべきだろう

日本経済新聞(1986年11月1日)

日銀が利下げをためらってきたのは、このため〔貯蓄で生活する人への配慮〕ばかりではない。通貨供給量の伸びが大きく、だぶついたカネが有利な運用先を求め、動いている。地価の高騰は東京の都心や高級住宅地から周辺部や地方の主要都市に広がり出した。日銀は、土地転がしのための融資を抑えるよう呼び掛けているが、金融機関の側も社会的責任を自覚してもらいたい。また住宅づくりを促す税制上の優遇措置が投機をあおっている面もあるので、土地譲渡の利益への課税強化なども必要だろう

朝日新聞(1986年11月1日)

(5)バブルが弾けて

1980年代、巨額の対米黒字を抱えた日本は、アメリカの顔色を窺いつつ、「国際協調」の枠内で、国際社会における地位を高めようと努力した。プラザ合意を積極的に主導したのもそのためだったといえる。

1980年代末になると、経済成長によって自信を付けた日本は、アメリカに「物申す」姿勢を見せはじめる(↓)。この時期の景気拡大は、高度成長期以来の高い設備投資の伸びに牽引された、実体のあるものだった。当時、日本人が感じた自負心には、相応の根拠があったのだ。 

*盛田昭夫・石原慎太郎『「NO」と言える日本』の出版は1989年。

しかし、度重なる利下げと(アメリカの要請による)金融・資本自由化の進展は、実体経済の成長をバブルに変えてしまった。

バブルがはじけ、低成長が10年も続いた後には、「物申す」気概も実力もなくなり、日本は「ドル覇権」を支える末端の役人のようなポジションに追いやられていたのである。

*ただし、私の理解では、アメリカは覇権を取るためにWW2を戦ったわけなので、もし仮に日本が順調に力を付けてアメリカに対抗する姿勢を示していたとしたら、適当な理由を付けて軍事的または経済的に攻撃され、結局は屈服を強いられていたに違いないと思う。

ヨーロッパ・日本の立ち位置

「ドル覇権」における(当時から現在に至る)旧G5の立ち位置は、以下のようにまとめることができる。

イギリスは首謀者だから仕方がない。しかし、残りの3国は悲しい。

フランス、ドイツ、日本は、以後、ドル覇権を支える役人として、アメリカの側に立って行動していく。それによって、次第に、発展途上国や新興国に対する「加害者」としての性格を強めていくのである。

(続く)

(2)変動相場制下の為替介入 ー 後始末をするG5」の部分が、本記事と深く関わります。