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社会のしくみ

イギリスのすべて ③革命とその後

目次

革命期のアイルランド

(1)イギリスとスコットランド

イギリスがアイルランドを制圧していったん落ち着きを見せたアイルランド情勢は、17世紀中盤に次なる高揚期を迎える。

アイルランドが、ブリテン島におけるイギリス、スコットランド双方の「地殻変動+民主化革命」期の煽りを受けたこの時期。連合王国の統合のためにアイルランドが果たした役割を理解するためには、スコットランドおよびイギリスの状況に目を向けておく必要がある。

ここでは、それぞれに「地殻変動+民主化革命」期を迎えていたイギリスとスコットランドが、ぶつかり、妥協し、連合王国として統合されていくまでの過程をざっくり説明しよう。

①スコットランドのこだわり:長老派教会

独立王国であることに誇りを持つ直系家族のスコットランドは、イギリスとは異なり、どの時点においても、「国王を倒したい」という願望を持つことはなかった。

この時期の彼らにとって、もっとも重要な課題は、宗教改革によって作り上げた自分たちの信仰を守ることであり、国王やその他の政治勢力との関係性は、この一点によって左右されていく。

イギリスとの関係で、彼らの信仰におけるアイデンティティは、何より、長老派の教会制度に置かれることになった。

②チャールズ1世との対立:主教戦争に勝利!

ピューリタン革命で倒される運命のチャールズ1世(ジェームズ1世の息子)とスコットランドが対立することになったのは、カトリックに傾倒気味だったチャールズが、国教会の共通祈祷書(1559年版:聖職者の式服着用を奨励するなどややカトリックに寄せたもの)をスコットランドの教会にも強要したためである。

スコットランドは、カトリックを毛嫌いしているわけではないし、国王に恨みがあるわけでもない。しかし、彼らのアイデンティティである長老制教会を否定されることには我慢ができなかった。

スコットランド各地で民衆の暴動が起こる。暴動はついには国王軍との間の戦争に発展(主教戦争 1639-1640)。そして、スコットランドはなんと(?)これに勝利する。

国王に勝利して、長老派教会を守り抜いたスコットランドは勢いに乗り、イングランドの内戦に積極的に関わっていくのだ。

共通祈祷書に反対する民衆の反乱の様子(wiki

③ピューリタン革命の開始(1642-)

一方、敗北したチャールズ2世は、今度はイギリス国内のピューリタン(改革派プロテスタントの総称として用います)の突き上げに遭う。

スコットランドへの賠償の支払いのために国王がやむなく召集した議会(いわゆる長期議会 1640年11月-)で、国王派と対立する議会派(革命側です)は、星室庁(国王大権に基づく裁判所)の廃止、枢密顧問官の更迭、大主教の弾劾、国王の忠臣を大逆罪で処刑するなどの「革命」的な急進策を次々と実現。ピューリタン革命のはじまりだ。

近頃、ピューリタン革命は単なる内戦でありいわゆる「革命」ではなかったという言説に接することが少なくないが、やはり、革命というにふさわしい事態ではあったらしい。近藤和彦さんの話を聞こう。

情況をこのように急展開させたのは、スコットランド進駐軍の圧力、これと通じた長老派議員、紙の戦い、ロンドン群衆であった。群衆は議会や宮廷を包囲して要求を叫び、ピム議員は院外の圧力を背景に急進策を実現していった。ほとんど150年後のフランス革命における、言論とサンキュロットの蜂起を背景にした革命派議員を想わせる事態である。

近藤和彦『イギリス史10講』125頁

このとき、スコットランドは、イングランドの議会派と同盟を結んで、国王派と戦っていた。

スコットランドが議会派の側についたのは、議会派が長老派教会の存続を保証し、イギリスでのさらなる(教会制度の)改革を約束したからである。

スコットランドは、自らの影響力を強め、あわよくばブリテン諸島を「長老派教会化」することまで狙っていた。

④議会派との決裂→国王派への回帰→敗北→王政復古

識字率上昇期にあるイギリス・スコットランドの革命連合軍は強かった。

‥‥後半の重要な戦いに勝ち続けたのは議会軍だった。スコットランド貴族の子サー・トマス・フェアファクス大将(1612-71)とケインブリッジ選出議員オリヴァ・クロムウェル中将(1599-1658)の指揮する「ニューモデル軍」の士気、規律、兵站がまさったのである。経済・金融の中心ロンドン市〔シティ・オブ・ロンドン〕を掌握していたのも決定的だった。

近藤・127頁

そういうわけで、議会派は国王軍に勝利。しかし、往生際の悪い国王が再び挙兵したために起きた第二次内戦(1648年:これも議会派が勝利)の後、スコットランドの反対にもかかわらず、チャールズ1世が処刑されるに及んで、スコットランドと議会派は決裂する。

スコットランドは、チャールズ2世(1世の息子)を国王として迎え入れ、戴冠式を執り行うのだ(1651年1月)。

共和国の指導者となったオリバー・クロムウェルは、このスコットランドの動きを共和国への反逆と見て、スコットランドに進軍。

スコットランドは戦いに負けてイングランド共和国に吸収され、独自の教会、議会、法制度とすべてを失うことになるのだが、クロムウェルが死去すると共和国はあっけなく崩れ、王政復古でスコットランドの独立は回復(チャールズ2世が復権)(1660年)。

しかし、王政復古とともに国教会の教会制度(長老制ではなく司教制)が復活したため、スコットランド国民の不満は高まった

スコットランド国民の多くは、正規の教会を無視して、屋外で集会を開いて彼らの信仰を実践したが、国王(チャールズ2世と次のジェームズ2世)はこの集会への参加を禁じ、迫害した。スコットランドは「the Killing Time殺戮時代)」(概ね1679-1688)と呼ばれる陰惨な時代を迎え、宗教弾圧、処刑、反乱とその鎮圧のための戦いによって多くの人命が失われる。

ウィリアムとメアリを新国王に担いだクーデターがイングランドで起きたとき、スコットランドが直ちにこれに乗ったのはそのためである。

⑤名誉革命(1688-89)

ジェームズ2世は、「カトリックと絶対王政の復活を目指した時代錯誤な専制主義者」で、「だから名誉革命で倒された」というのが古典的な筋書きだが、話はそれほど単純ではないようだ。

ジェームズ2世がカトリックの復権を目指したことはたしかである。しかし、当時のイギリスが実施していたカトリック差別は明らかに不当なものだったし、プロテスタントが圧倒的な勢力を誇っていたイギリスで、ジェームズ2世が求めたのはさしあたり「カトリックへの寛容」にすぎないのだから、これを「時代錯誤」と評価することはできない。

ジェームズ2世が、絶対君主政に憧れていたことも事実のようだが、当時はヨーロッパ最大の大国フランスがルイ14世の下で繁栄を謳歌していた時代なのだから、後進国の王としてそれを目指すのが不合理とはいえない。

しかし、もちろん、ジェームズ2世が、ブリテン諸島の「近代」からはじき出されたことには理由があった。

ピューリタン革命で処刑されたチャールズ1世の息子である彼は、宗教うんぬんとはほぼ関係なく、長老派とピューリタンを許すことができなかったのだ。

地殻変動+民主化革命期のブリテン島で、長老派はスコットランド国民のアイデンティティであり、ピューリタン(非国教徒)はイギリスが目指すべきさらなる宗教的・政治的自由の象徴だった。このどちらとも相容れない以上、ブリテン島の将来にジェームズの居場所はない。

ジェームズ2世が、イギリス、スコットランドの両方で王位を追われることになるのは、必然的なことだったと思われる。

⑥名誉革命体制:不安定な統合

しかし、本来、長老派のスコットランドとイングランドのピューリタンは、決して一枚岩ではない

スコットランドの方は、長老派教会さえ存続できればよいのであって、国王にもカトリックにも恨みはない。ひたすら自由を求めて分裂し、政治的にも過激化しがちなピューリタンとの相性は決してよくないのだ。

長老派を主流とするスコットランドと、活性化するピューリタンを抱え込んでいたイングランドが、名誉革命を機に一つにまとまることができたのは、双方がともにジェームズ2世に嫌われ、対立していたからにすぎない。

単に「敵の敵は味方」の論理で糾合しただけのイギリスとスコットランドに、永続的な統合をもたらすには、ジェームズ2世にかわる永続的な「敵」が必要だった。

その役目を務めたものこそ、カトリックであり、アイルランド。もっといえば、「カトリックのアイルランド」だったのだ。

(2)アイルランド

①アイルランドを視界に入れる

ここでは、イングランド、スコットランドがそれぞれ地殻変動(+民主化革命)を起こし、一応の統合を成し遂げるまでの間、人身御供となる運命のアイルランドがどんな経験をしたのかを見ていきたい。

一般に、イギリス革命(ピューリタン革命と名誉革命)は、アメリカ独立戦争(独立革命)やフランス革命、ロシア革命と比べて暴力の程度が低く、人身被害も小さかったと捉えられている。

しかし、それは端的に誤りである。イギリス革命の暴力性が低かったといえるのは、単にアイルランドを視界から外しているからである。アイルランドの被害を計算に入れるなら、イギリス革命は、他の諸革命にまったく引けを取らない、立派な暴力革命なのだ。

②17世紀前半のアイルランド

17世紀中盤、アイルランドの(潜在的)緊張は高まっていた。16世紀後半に「カトリック化」していたアイルランドに、イギリスの植民事業によって大量のプロテスタントが送り込まれたからである。

ただし、暴発に向かうエネルギーの大きさにおいて、カトリックのアイルランドと、イギリス・スコットランドのプロテスタントが対等でなかったことは抑えておく必要がある。イギリス・スコットランドは急速な大衆識字化の真っ最中であったのに対し、アイルランドの方では、まだその過程は始まってもいなかったからだ。

アイルランドが置かれていた緊張状態は、その意味では、受動的なものだった。そんなとき、対岸のブリテン島で、革命が始まるのだ。

③ピューリタン革命とアイルランド

イギリス、スコットランドの双方で、民衆が活性化する。イギリスのピューリタンは「反国王=反カトリック」、スコットランドは長老派(プロテスタント)で行きがかり上「反ジェームズ」だ。

ブリテン島出身のプロテスタントとの関係で、受動的緊張状態にあるアイルランドにとって、この動きは脅威以外の何物でもない。

というところで、アイルランドのカトリックは、先手必勝とばかりに、反乱を起こすのだ(the Irish Rebellion of 1641)。

1641年冬ー42年始め、‥‥ロンドンに届いたのは、アイルランドにおけるカトリック反乱の報である。ピューリタン入植者は復讐的なテロル/ポグロムを威嚇していたが、危機感をもったカトリック住民が予防的に反撃して数千人を殺した。この宗派的対抗テロルが「信仰正しき者数十万人の大虐殺」と報道され、パニックを背景に、ウェストミンスタの議会は鎮圧軍の指揮権を獲得した。

近藤和彦『イギリス史10講』126頁

アイルランドのカトリックによるプロテスタントの虐殺はあった。しかし、歴史の年表に特筆されているのが、アイルランドにおける「虐殺」の事実ではなく、イギリスにおける「大虐殺報道」であることには注意が必要である(近藤和彦『イギリス史10講』114頁の年表)。

基層に溜まるマグマの量の少なさゆえに、アイルランド・カトリックの反乱が、想定される反撃よりも大きくなることは決してない。他方、大量のマグマが沸騰中のブリテン島では、アイルランドの事件は、事実の何倍も何十倍も大きく、誇張して伝えられ、壮大な反作用を生み出していく。

「女性や子供を手にかけている」として残虐性をアピールする当時のプロパガンダ

イギリスのピューリタンは、アイルランドの「先制攻撃」に過剰に反応しーーというより、半ば口実にしてーー反乱鎮圧の名目で軍の統帥権を奪い、国王を倒し、共和国を建設する(ピューリタン革命:共和国成立は1649年)。実権を握ったクロムウェルは、その足で、颯爽とアイルランドの征服(カトリック殲滅)に向かうのである。

被支配者側の先制攻撃を口実とした、支配側による殲滅戦。大変既視感のあるこの戦いが、近代の幕開けを告げる戦いであったことは趣深い。

近代とは何かを知る鍵となるこの戦争は、一般にはほとんど知られていないと思うので、実際の戦いの概要を少し詳しめにご紹介したい。

  • 1649年8月、クロムウェル自身が指揮官として上陸
  • 1649年9月 ドロヘダの戦い(Siege of Drogheda)(「ドロヘダの虐殺」とも)カトリック同盟側駐留軍約3000人とカトリックの聖職者および民間人700-800人が殺害された。
  • 1649年10月 ウェクスフォードの戦い(Siege of Wexford)(「ウェクスフォードの略奪(Sack)」とも)議会軍は降伏交渉の継続中に町を襲い、約2000人の兵士と1500人の民間人を殺害。略奪後、町の大部分に火が放たれた。
  • 以上の2つの事件は、イギリス軍の残虐さを示す事件としてアイルランドの人々の記憶に深く刻まれている。
  • 初期の戦いにおける無慈悲なやり方のために、カトリック同盟側が降伏交渉に応じる可能性が失われ、抵抗が激化・長期化したことが指摘されている。
  • 戦争末期、議会軍は、食糧庫の破壊、銃後で支援していると見られる民間人の強制移住、(勝手に指定した)「戦闘禁止地域(free-fire zone)」で発見された者はすべて敵と見なして生命・財産を奪うといった戦略を取り、民間人に多大な犠牲を出した。
  • 1651-52年(ゴールウェイ陥落が52年)にはほぼ決着するも、ゲリラ戦が続き、イングランド議会が反乱鎮圧を宣言した1653年9月27日をもって終了とされる(その後も散発的な抵抗は長く続いた模様)。
  • 軍医として従軍したWilliam Pettyの試算によると、戦闘、飢餓、疫病等によるアイルランド側の死者は1641年以降で618000人(人口の約40%)。うち40万人はカトリックで16万7000人が戦闘ないし飢餓、残りは疾患で死亡したとする。
  • 現代の歴史家は上の数字には修正が必要と考えているようだが、少なくとも20万以上が死亡したことは確実とされる。
  • 1641年の反乱に関与した者、王党派の指導者、カトリックの聖職者が全員処刑されたほか、約50000人のアイルランド人(戦争犯罪人とされた者を含む)が年季奉公労働者(indentured labourers)(「白人奴隷」とも呼ばれる)として北米や西インド諸島の植民地に移送された。

通常、ピューリタン革命(イングランド内戦)の死者数に、アイルランド同盟戦争(クロムウェルの征服戦争含む)の死者は含まれていない。

アイルランドのアニメ映画「ウルフウォーカー」に出てくるLord Protector(クロムウェルがモデル)。クロムウェルの征服時、狼の絶滅を図ったのも史実のようです

⑤戦後処理:アイルランド近代の基礎

征服後のクロムウェルが行った処分は、イギリスの近代アイルランド政策の基礎となった、といえる。

  • 1️⃣カトリックの体系的差別
  • 2️⃣カトリックからの土地の没収

という骨格は、クロムウェルの死後まもなく王政復古がなり(1660年)、名誉革命を経てイギリスが近代国家に生まれ変わった後も、ジェームズ2世の治世における一時期を除き、基本的に維持されることになったからである。

1️⃣については後に回し、ここでは主にクロムウェル政権下で行われた土地処分を見ておきたい。

  • イングランド議会は、1652年8月にアイルランド処分に関する法律(Act for the Settlement of Ireland 1652)を制定
  • 上述の死刑対象者(1641年反乱の指導者、王党派の指導者、カトリック聖職者)の土地はすべて没収、それ以外の軍の指導者の土地も大部分が没収された
  • 「共和国の利益に常に忠実だった者」以外(要するにプロテスタントの議会派以外→全カトリック)は戦争不参加でもすべて反徒とみなされ、所有する土地の4分の3を没収された
  • 当局には、(死刑対象者以外で)土地の没収処分を受けた者に共和国政府の指定する代替地を与える権限が付与された
  • 実際に代替地に指定されたのはコナハト地方(↓緑の部分)。要するに、カトリックをすべてシャノン川以西のコナハトに閉じ込め、それ以外をプロテスタントの入植地とする政策だ(1653年の法律でカトリックはすべてここに強制移住させられることになった)
  • 以上により、カトリックの保有地の比率は、60%から8%に低下した
  • この比率は、王政復古で20%に上昇(カトリックの王党派が補償を受けたため)したが、名誉革命後には再び10%に低下した

⑥名誉革命戦争ーウィリアマイト戦争

カトリックのジェームズ2世を廃してプロテスタントのウィリアム3世・メアリ2世を王位につけたクーデター事件が「名誉革命」と呼ばれるのは、イギリス(イングランド)では(ほぼ)無血革命だったからである。

しかし、ウィリアム3世とジェームズ2世は、アイルランドの地ではしっかり剣を交えている(ウィリアマイト戦争 1689-1691)。

しかも、その戦争では、ジェームズ2世側で参戦した兵士約15000人、民間人を含めると約10万ともいわれる生命が犠牲となっているのである(wiki)。

アイルランドの近代

ここまで見てきたように、イギリスの近代は、アイルランドの多大な犠牲の上に成立した。

では、イギリスが安定した国家体制を確立し、経済的飛躍を遂げた後には、イギリスとアイルランドの関係は正常化したのかというと、決してそうではなかった、というのが重要な点だと思う。

実際のところ、私たちがお手本としてきた近代イギリスは、その覇権の終盤まで、一貫して、アイルランド差別・排除政策を、体制の中に組み込んでいたのである。

①名誉革命体制

名誉革命は、政治面では制限君主制を確立し、宗教面では、厳格な国教会体制(ピューリタン革命以前)とも、過激なピューリタン体制(革命政権)とも異なる、寛容なプロテスタント体制を確立した事件として知られる。

議会が、権利の章典(1688)とともに、寛容法(1689)を制定したことは、教科書にも書かれているほどだ。

教科書の記載を続けると、1707にはイングランドとスコットランドは合同して大ブリテン王国(Great Britain)となり、ウォルポール(在任1721-42)が首相となる頃には責任内閣制が形成される。その間には、イングランド銀行の創設(1694)、国債制度の整備もあり、近代国家イギリスは、この時期、覇権への道をまっしぐらに進んでいる。

しかし、そもそも、名誉革命が、宗教上の寛容を実現したというのは事実ではない。寛容法は、非国教徒のプロテスタントには信仰の自由(独自の信仰集会の開催など)を認めたが、カトリックはその対象外だったのだ。

それもそのはずで、イギリスは、教科書記載の(覇権への)道のりを歩んでいるその裏で、アイルランド統治においては、クロムウェルの征服で強化されたカトリック差別政策を基本的に踏襲した「刑罰法」(英語では単にPenal Laws)体系を整備していくのである。

近代国家イギリスの確立と同時に、アイルランド・カトリック差別の体系化が進行したという事実は、示唆的だと思う。

アメリカにおいて、排除された先住民と黒人奴隷の存在こそが、「われら人民(We the people)」の統合を可能にしたように、イギリスでは、おそらく、差別され否定された「カトリックのアイルランド」の存在こそが、グレート・ブリテン王国の統合を可能にし、選挙権すら与えられなかったた多くのイギリス人(スコットランド人含む)に「帝国の臣民」としての意識を付与したのである。

②アイルランドのアパルトヘイト体制

刑罰法の下でのアイルランド統治は、一種のアパルトヘイト体制といえる。「プロテスタントの優位(Protestant Ascendancy)」と呼ばれるこの体制の下では、アイルランド国民は以下の3種に分類される。

  • プロテスタント(国教徒)支配層
  • プロテスタント(非国教徒):具体的にはピューリタン(イングランド出身)と長老派(スコットランド出身)。刑罰法の下で一定の差別を受ける。(両者の間にも差異があったかもしれないが詳細は(私には)不明)
  • カトリック:最下層 刑罰法の下で基本的人権を否定され全面的な差別を受ける。

刑罰法の下でカトリックがどのような扱いを受けていたのか。まずは井野瀬久美恵先生に概要をご説明いただこう。

1695年から施行されたこれら一連の法律は、カトリックを、陸海軍や法曹界、商業上の活動などから締め出し、彼らの選挙権を与えず、行政上の公職に就くことも許さず、土地の購入も禁じた。カトリックの地主には均等相続が強制され、彼らの保有する農地がどんどん細分化される一方、プロテスタントの地主には、イングランド同様、長子一括相続によって土地保有の温存が図られた。けっきょく、アイルランドの大半の土地が没収され、プロテスタントのイングランド人入植者に分配される。カトリックのアイルランド人を全面的に否定することによって、連合王国は、プロテスタントという自らのアイデンティティを構築していった

井野瀬久美恵『大英帝国という経験』(講談社学術文庫 2017年)103-104頁

私の調査では、差別は以下の項目に及ぶ。

  • 公民権(公職就任権、公職選挙権・被選挙権)の否定
  • 銃器の所持、軍務、5ポンド以上の馬の所持の禁止
  • プロテスタント(国教徒?)との婚姻禁止
  • 教育の制限(カトリックの学校設立・運営の禁止、カトリックが若年者に教育を行うことは学校でも家でも禁止、国外で教育を受けることも禁止)
  • 大学進学の禁止
  • 土地の購入・保有の制限
  • 遺産(土地)相続に関する特別ルールの適用

全て網羅したものではないが、おおよそ上記のような差別を受けたので、大前提として、アイルランドの民衆の社会的上昇はあり得なかった

その上で、農業で生計を立てていく以外にない彼らにとって、実際上、もっとも深刻であったのは、土地相続の問題である。

イギリス法(コモン・ロー)の基本は、男子優先の長子相続制である。アイルランドでもプロテスタント(国教徒?)はこれに従うので、地主の土地は(分割されることなく)そのままの形で子孫に継承される。

しかし、アイルランドのカトリックには、すべての子供の間での均等相続が強要された。元は自作農が中心であったアイルランドの農民は、改宗するか、さもなければ、土地の細分化に甘んじて(事実上土地を失い)、小作人となるしかなかったのである。

一連の差別は、18世紀末(1770年代以降)の「カトリック救済法」と呼ばれる一連の立法により、法的には緩和に向かった。最終的に、カトリックの公職就任権が認められたのは1829年、ダブリン大学(トリニティ・カレッジ)での学位取得に関する制限が取り除かれたのは1873年である(脱宗教化の頃だ)。

それでも、イギリスの植民地として、アイルランド人が虐げられる状況は変わらなかった。最終的に、アイルランドの人々が「二級市民」を脱するには、イギリスと戦い、独立を勝ち取る以外になかったのである。

③グレート・ブリテン王国への編入(1801)

ここで、アイルランドの法的な位置付けを整理しておこう。

1541年以降、アイルランドは、イギリスの王を国王とする「アイルランド王国」として存在していた。

1707年には、イギリスと(本物の独立王国だった)スコットランドが合併し、グレート・ブリテン王国(Kingdom of Great Britain)を形成したが、アイルランドはこの動きには無関係で、「アイルランド王国」のままだった。

それが、1801年になって、おもむろに、アイルランドはグレート・ブリテン王国に編入されるのだ(Kingdom of Great Britain and Ireland)。

これはいったいどういうことなのか。

連合王国の一員になったというと聞こえはよいのだが、この措置は、インド大反乱にショックを受けたイギリスが、インドを帝国に編入して直接統治下に置いたのと同質のものといえる。

併合により、アイルランド議会(1782年に立法権の独立を獲得していた)は閉鎖され、アイルランド選出議員は代わりに連合王国議会に議席を得た。では、連合王国の政府がアイルランド統治の責任を担うのかといえばそうではなく、引き続き、アイルランド総督が担ったのだ。

連合王国への編入は、1798年に起きた大規模な反乱(ユナイテッド・アイリッシュメンの反乱)を鎮圧した直後のことであり、その目的は、直接統治による支配の安定化、そして、対仏戦争のための兵力の確保にあったと見られている。

④ジャガイモ飢饉

兵力確保の準備としてイギリスが行った国勢調査のおかげで、1801年以降のアイルランドの人口は正確に記録されている。

人口の推移を見ると、連合王国への編入が、アイルランドに何をもたらしたか(あるいは「もたらさなかったか」)が如実にわかる。

1806年の人口は約560万人
1841年には、約817万人のピークに達するが、
1851年には約655万人に落ち込む。
1901年には約446万人と、ピーク時の約817万人から60年間で半減。

以後、第二次世界大戦の終了まで、アイルランドの人口はほぼ減少の一途をたどり、現在に至るまで、1841年の人口を回復できていないのである(2023年で約530万人)。

1841年までの人口増と1851年の人口減の原因は同じ。ジャガイモである。

イギリス本国に対する食糧供給地として、生産した穀物(小麦等)をすべてイギリスに送っていたアイルランドでは、ヨーロッパの他地域に先駆けて、18世紀にはジャガイモを食べていた。

19世紀前半の数十年は、フランスとの戦争のために海外からイギリスへの食糧供給が滞った時期で、この時期にアイルランド農業は大いに発展を遂げた。ついでにジャガイモもたくさん採れて、人口が増えたのだ。

ところが、1845年、46年と連続でジャガイモが不作に陥る。それで人口が激減したのである。

飢饉と栄養失調に発疹チフスや赤痢といった疫病の発生、街にあふれる物乞いの群れ。政府が雇用対策として行った公共事業では、日当めあてに道路工事の作業に集まった人たちが、飢えのために次々と亡くなった。埋葬費が貯まるまで死体は埋められず、腐敗するにまかされたため、疫病被害はさらに拡大した。飢饉が収束し始めるのは1851年頃だが、同年の国勢調査では、10年間に162万人の人口減少が確認されている。

井野瀬・99-100頁

地獄絵図である。
でもジャガイモの不作なら仕方ない。
そう思われるでしょうか。

実は、大飢饉の時代、凶作だったのはじゃがいもだけであり、イギリスに輸出された穀物で、当時のアイルランドの人口の2倍を養えたと算定されている。また、イギリス市場の需要の変化に呼応して耕地から放牧地への転換が進行中だったことから、畜産物の生産も増大傾向にあった。飢饉は人災ーー。しかも、放牧地確保のため、借地料を払えなくなった人たちは即刻、強制的に土地を追われた。だが、アイルランドには、彼らを吸収する産業などなかったのである。

井野瀬久美恵『大英帝国という経験』108頁
ダブリンにある飢饉追悼碑


以後、アイルランドからの人口流出は加速する。それ以前からあったブリテン島や北米への移民がこれを機に激増し、その流れが止まらなくなるのである。

しかし、イギリスはこれを止めようとはしなかった。実はこの時期、イギリスの農村でも人口圧が高まり、まずは都市へ、次いで海外へ、という流れによる人口流出が急増していたが、イギリスはこれも意に介さなかった。

移民という安全弁がなければ、1840-50年代のイギリスとアイルランドの社会がどうなっていたか、想像することさえ難しい

エイザ・ブリッグズ『改良の時代 1783-1867』(1959)(井野瀬・120頁から孫引き)

そう。イギリスにとって、移民は、つねに「イギリス社会にとって好ましくない人たちを排除する手段」(井野瀬・121頁)であり、問題解決の方法だった。

イギリスは、1660年代以降は北米に、アメリカが独立した後はオーストラリアに囚人を送った。

社会不安による窃盗の横行、人口過剰による食糧不足、抑圧された人々による反乱。近代イギリスは、こうした問題を政治的に解決する代わりに、一貫して「輸出」することで対処した。「イギリスは断じて帝国ではない」と私が考える所以である。

⑤アイルランドのその後と北アイルランド紛争

アイルランドは、独立戦争、内戦を経て、1922年にアイルランド自由国(完全な独立国ではなくイギリス連邦内の自治領(Dominion))として独立。1949年には、イギリス連邦を離脱した。

独立によって、アイルランドのカトリックがみな解放されたかというと、そうではない。北アイルランドが分離したからだ。

アイルランドが自由国として独立した1922年、北アイルランドは自由国から離脱し、グレート・ブリテン王国の自治領の地位を得た。

前回書いたように、北アイルランド(アルスター)の人口構成は、他の地域と違っていた。「イギリス化」のための大規模な植民事業が行われた結果、支配層(地主階級)だけでなく、庶民の間でも、イギリス出身者(プロテスタント)の割合が高くなっていたのだ。

だからこそ、彼らはアイルランド自由国から離脱することを選んだ。それはよくわかる。問題なのは、しかし、北アイルランドにも、アイリッシュのアイデンティティを持つカトリックが多数住んでいる、ということなのだ。

有権者の多数を占めるイギリス系プロテスタント(ユニオニスト)は権力を独占し、プロテスタントの支配を維持するべく、政治的・経済的にカトリック住民を差別する政策を取り続けた

‥‥北アイルランドは1921年に自治国家として成立した。しかし、その社会は、多数とはいえ3分の2、あるいは地域によっては少数派であるプロテスタントのユニオニスト(イギリスとの連合派)がカトリックを強権的に支配する構造であった。それを支えたのが、

(1)普通警察や武装警察に加えて、独立戦争中に編成された特別警察(なかでもBスペシャルとよばれたパートタイムの武装警察がもっとも凶暴であった)と容疑者を無期限に拘留するインターンメント(予防拘禁)などによる治安体制

(2)比例代表制の廃止、複数選挙権制(普通選挙権に加えて、資産家に認める企業家特権などー公民権運動が始まると廃止)やゲリマンダー(特定政党が有利になる不自然な選挙区割)などによる各地方議会のプロテスタント独占

であった。それによってカトリックの失業率がプロテスタントのつねに2倍以上という職業差別など、従来からあったカトリック差別の社会構造がいっそう極端に固定されてしまった。その基盤にはカトリック住民とプロテスタント住民の宗派対立意識があるが、それがいっそう拡大、固定されたのである。

日本大百科全書(ニッポニカ)「北アイルランド紛争」[堀越智] より一部抜粋

つまり、アイルランドが独立し、イギリスのくびきから(ほぼ)解放された後も、北アイルランドには「プロテスタントの優位」に基づく「アイルランド版アパルトヘイト」が残った(そしてイギリスはこれを放置した)、ということである。

北アイルランド紛争とは、基本的に、この「アパルトヘイト」をめぐる闘争なのだ。

そういうわけなので、北アイルランド紛争は、決して、「北アイルランドにおける宗教対立」の問題などではない。

北アイルランド紛争は、単純に、イギリスのアイルランド支配(アパルトヘイト政策)の問題であり、自らが引き起こしたその問題を「自治」に任せて放置したゆえの問題なのだ。

The front page of the Irish Independent, 31st January, 1972. (血の日曜日事件の新聞記事)

おわりに

いかがでしょうか。

私は、知っているようで知らないことが多く、調査の間、いちいち「ええっ!」とか「きゃー」とか、ジェットコースターに乗っているような気分でした。

フランスと戦って島国となってもまだ権威の軸を持たなかったイギリスは、アイルランドに敵役を押し付けてグレート・ブリテン王国を築き、大量のアイルランド人の血の上に近代化を達成し、アイルランド・カトリックの隔離と差別を国家統合の基礎として、世界に冠たる植民地「帝国」を築きました。

そのイギリスは、現在、後継者たるアメリカ「帝国」の崩壊を前に、ウクライナを表に立てて対ロシア戦争を仕掛け、イスラエルによるガザ・レバノン侵攻を猛烈に支援し、反イスラエル闘争を固い決心の下に遂行するイエメンと戦争をしているわけですが、この顛末は、いかなる意味でも、偶然とはいえない、と私は思います。

いま世界で起きていることは、イギリス・アメリカに率いられて私たちが歩いてきた近代の道のりの、かなり必然に近い帰結であるに違いないのです。

・  ・  ・

「でも、ねえ‥‥」

ため息をついたところで、話は本編の方に戻ります。

しかし、彼らだって、決して、好きで「抗争と掠奪」に明け暮れているわけではないはずです。そのことは、150年間、西欧人になろうと努力し続けた私たちが一番よく知っている。私たちがなんか知らないけどつい長いものに巻かれて周囲と同じように行動してしまうように、彼らは彼らで、なんか知らないけど、自由を叫び、争い、奪ってしまうのです。

「トッド後」の近代史3ー③

どうして、核家族が先頭を走ると、世界はこんなふうになってしまうのか。元の道に戻って、探究を続けましょう。

主な参考文献

  • 近藤和彦『イギリス史10講』(岩波新書、2013年)
  • 木畑洋一・秋田茂編『近代イギリスの歴史』(ミネルヴァ書房、2011年)
  • 川北稔・木畑洋一編『イギリスの歴史』(有斐閣アルマ、2000年)
  • 井野瀬久美恵『大英帝国という経験』(講談社学術文庫、2017年)
  • 山本正『図説 アイルランドの歴史』(河出書房新社、2017年)
  • 佐藤賢一『英仏百年戦争』(集英社新書、2003年)
  • エマニュエル・トッド『我々はどこから来て、今どこにいるのか? 上』(文藝春秋、2022年)
  • エマニュエル・トッド『家族システムの起源Ⅰ ユーラシア 下』(藤原書店、2016年)
  • エマニュエル・トッド『新ヨーロッパ大全Ⅱ』(藤原書店、1993年)

カテゴリー
社会のしくみ

イギリスのすべて ②イギリスとアイルランド

目次

はじめにーイギリス史の根本問題

「トッド後」の視点でイギリス国家史を見る場合、根本的な問題は、「イギリスには、結局、権威の軸が生まれなかった」ということである。

ヨーロッパの国家の多くは、原初的核家族であった時代に建国しているが、建国後には家族システムの進化が起こり、部分的にであっても、直系家族の地域が生まれている。中には、イタリアやポルトガルのように、ローマないしイスラムの遺産として共同体家族を備えている国もある。

フランス、ドイツ、ついでに日本の場合、歴史の基本構造はこうである。

外部から権威を借り受けて建国:ヨーロッパの場合はローマ帝国の遺産であるキリスト教(一神教の教えと教会制度)、日本は中国の影響(中華帝国皇帝と並び立つ者としての天皇の権威)のおかげで建国を成し遂げる。

直系家族が生成:直系家族の生成とともに国内に自前の権威が生成してくると、しばし、借り物の権威と地物の権威の綱引きが続く。

地物の権威が勝利し、その国の国柄にあった国家が完成:ドイツと日本の場合は直系家族の国家が、フランスの場合は国内の直系家族と平等主義核家族の間の争いを経て平等主義核家族の国家が成立。

イギリスの場合はどうか。

イギリスも、建国に際してキリスト教の権威を借り受けている点は同じである(5️⃣6️⃣)。

フランス、ドイツ、日本では、この後、国内で(内発的に)直系家族が生成したが、イギリスの場合、直系家族の権威もまた、国の外から、「征服」を通じてもたらされた(ノルマン・コンクエスト6️⃣)。

フランス貴族のノルマン人が持ち込んだ萌芽的な直系家族はイギリスには定着せず、上からの押しつけに対する反動で、自由(権威なし)にこだわる頑なな核家族(絶対核家族)を生成する。

結局、最後まで、イギリス国内に権威の軸が生まれることはなかったのだ。

したがって、家族システムから見る限り、イギリスはアメリカとまったく同じ。同じメンタリティである。

ところが、アメリカとは異なり、イギリスには、建国から数えれば1000年、テューダー朝の成立から数えても500年の歴史がある。

そう。ここがいちばんの謎なのだ。

いったい、彼らは、この500年間、どうやって権威の軸もなしに、王国をまとめ、連合王国に発展させ、イギリス「帝国」を築き上げ、そして‥‥ 成熟したヨーロッパの大国として一定の存在感を維持するなどという偉業を成し遂げてきたのだろうか。

イギリスの地殻変動ー民主化革命と一体化

家族システムが未発達の時代に「借り物の権威」によって建国した国は、国の内部で家族システムの進化が起き、かつ、識字化による(一定の)民度の上昇を見たとき、システム改変のための地殻変動期を迎える、というのが私の依拠する仮説である。

日本の場合には、南北朝の動乱(1336-1392)と応仁の乱(1467-1477)の辺り、ドイツの場合には宗教改革(1517-)から三十年戦争(1618-1648)の辺りがそれに当たると私は見ているが、イギリスの場合はどうだろう。

イギリスにおける絶対核家族の生成時期を、トッドは1550-1650年の100年間に求めている(『我々はどこから来て、今どこにいるのか』上・318頁)。

イギリスにおけるこの100年間は、イギリスで識字率が急上昇し、成人男性の50%を超えていく時期でもある。つまり、イギリスの場合、家族システムの生成に伴う地殻変動の時期と、近代化(識字率上昇による民主化)の時期が、ほぼ同時にやってくるのだ。

多くの国が二度経験した激動を、彼らはいっぺんに経験する。宗教改革と近代化革命が連続してあるいはほぼ一体化した形で発生するのもそのためだ。

しかしともかく、彼らはこの100年の地殻変動と革命を通じて、近代イギリスの基礎を確立することになる。

イギリスの宗教改革ー国教会とは何か

Hans Holbein the Younger – Portrait of Henry VIII 1537

絶対核家族が生成しても、識字率が上がっても、それでもイギリスに権威の軸は存在しない。この点を頭に入れておくとよくわかるのが、イギリスの宗教改革である。

国教会を設立するのはヘンリー8世だが、当時のイギリス国家の課題を理解するため、バラ戦争に勝ち抜いて王位に就いた先代ヘンリー7世から話を始めよう。

テューダー朝の創始者、ヘンリー7世(在位1485-1509)の時代には、王権の基礎固めこそが最重要課題だった。それには、国内での権力基盤の強化のほかに、国際的承認を得て王朝の権威を高め、ヨーロッパの一君主としての地位を確立することが欠かせない。ヘンリー7世は外交に奔走し、近隣の国々との友好関係の樹立に努めた。

次のヘンリー8世(在位1509-1547)の時代になると、目標が一段階上がる。自らを「ヨーロッパの隅に位置する王国の小さな君主」と述べた彼は、その「小さな君主」を脱し、大国の君主と並び立つことを目指した(木畑洋一・秋田茂『近代イギリスの歴史』(ミネルヴァ書房、2011年)西川杉子]32頁)。

大国と同盟を組んで喜んでいる場合ではない。ローマ教皇や諸外国から自立して、世界の中心に立たなければ。

ヘンリー8世は、イギリスの宗教改革を「上訴禁止法」の制定(1533年)からスタートした。この法律は、国内の「契約や婚姻などをめぐる係争、訴訟」について、ローマ教皇やその他の国外の法廷に上訴することを禁じる法律で、直接的な目的は、ヘンリー8世の最初の妻キャサリンとの離婚および愛人アン・ブーリンとの再婚について、ローマ教皇の介入(による妨害)を防ぐことにあった。

しかし、離婚問題がなかったとしても、やがて地殻変動期を迎え、絶対核家族に相応しい国家の建設に向かうイギリスにとって、ローマ教会からの独立は、いずれは達成しなければならない課題であったはずだ。

その〔上訴禁止のー辰井注〕根拠として、イングランドを「至上の長にして国王」によって統治された「インパイア」とする法文には、イングランドにおける聖俗両面にわたる最高の主権は国王にあることを承認させ、ローマ教皇や神聖ローマ帝国皇帝といった国外の権威を拒絶する強固な意志が表れている。つまりこの議会制定法は、ローマ教皇を地上における「神の代理人」とする超国家的なキリスト教共同体からの、主権国家イングランドの独立宣言とみなすことができるだろう。翌年には改めて、国王を「イングランド教会の地上における唯一最高の長」とする議会制定法、すなわち「国王至上法」が成立し、イングランドの教会のローマ教皇からの独立が確定した。

木畑洋一・秋田茂『近代イギリスの歴史』(ミネルヴァ書房、2011年) 33頁[西川杉子]

しかし、イギリスには問題があった。

イギリスらしい国家に生まれ変わるため、「借り物の権威」は脱ぎ捨てなければならない。しかし、フランスやドイツと異なり、イギリスには、その代わりとなるはずの「自前の権威」は育っていないのだ。

イギリスの宗教改革では、国王を首長とするとするイギリス国教会という制度が作られ、約500年の長きにわたって生き続けることになった。

イギリス国教会の組織構造や典礼は基本的にローマ教会と同じで、その実態は「名称と責任者を変更しただけのローマ・カトリック教会」である。

「自由のみ」(権威なし・平等なし)の絶対核家族が成立し、それに合わせた国家体制の変革が完了してもなお、権威的な教会制度が生き残ったのはなぜか。

答えははっきりしていると思う。ローマ・カトリック教会が構築してくれた縦型のヒエラルキーに基づく行政機構、そしてそれを支える「疑似権威」なしに、国家は立ち行かなかったからだ。

テューダー朝とステュアート朝のイギリスについて、トッドは次のように指摘している。

‥‥テューダー朝とステュアート朝の国家は「強い国家」であった。「強い国家」の社会保障システムが、絶対核家族の機能を下支えしていたのだ。ただし、その国家には官僚機構が欠けていた。ヨーロッパでいち早く機能した国家ではあったが、実際には大概、議会を通して中央集権的に国法を発布するだけに甘んじ、それらの法を各地域に強制する手段は持っていなかった。救貧法が教区ごとに具体化されたのは、地元のほぼ自主的な意志を基礎にしてのことだったのであり、その管理運営に当たったのも地域の上層農民であった。

302-303頁

トッドは「地域の上層農民」のみに言及しているが、救貧法の運用にあたって教区教会が大きな役割を果たしたことは疑いない(こちらに関連する記述がある)。実際、教区の司祭は、住民の洗礼、結婚、埋葬を記録する、一種の行政官でもあったのだ(近藤・101頁)。

直系家族が定着したドイツやスコットランドでは、システムの再編にあたって、ローマ・カトリック教会に由来する行政秩序(教会組織)をいったん放逐し、新たな(自前の)秩序に置き換える必要があった。

反対に、直系家族が定着せず、生成もしなかったイギリスは、近代国家に生まれ変わるその時にも、ローマ・カトリック教会由来の権威構造にしがみつくしかなかったのだ。

絶対核家族の100年

国教会の樹立によって、イギリスはローマ・カトリック教会からの独立を果たしたが、これは「彼ららしい国づくり」の第一歩にすぎない。

絶対核家族(自由のみ)生成中のイギリス、宗教的情熱と社会参加への欲求が渾然一体となったマグマが煮えたぎる基層の上で、権威主義的な教会制度とそれに支えられた政体を、そのままの形で維持することができるはずはないのだ。

というわけで、以後の100年間、イギリスは本物の革命期を迎え、2つの事項を成し遂げる。

  • 1️⃣近代的な政治・宗教体制の確立(立憲君主制・プロテスタントの信仰の自由(寛容))
  • 2️⃣グレートブリテン島の統一(Kingdom of Great Britainの樹立 イングランドとスコットランドの合併)

しかし、この2つの事業は、いずれも、絶対核家族のイギリスには決して容易ではなかったはずのものである。順番に確認していこう。

(1)政治・宗教の近代化

いわゆるピューリタン革命(1642-1660)で、革命勢力は、チャールズ2世を処刑して共和政を樹立し、国教会を廃止する。

君主制および(主教制の)国教会制度は、王政復古(1660)により復活するが、名誉革命(1688)に際して、国王は「権利の宣言」を承認することで議会の権限および王権の制限を認め(立憲君主制)、国教徒以外のプロテスタントの信仰の自由も認められた(寛容法)。

この時点で、穏健な君主制寛容な教会制度が成立。やがて君主は「君臨すれども統治せず」となって議会主権が確立し、脱宗教化とともに宗教は問題でなくなって一件落着(近代化の完了)、というのが教科書的な筋書きである。

イギリスは、国王と国教会という「疑似権威」の存在感を低下させることで近代国家を作ったわけだが、ここに謎が潜んでいることはすでにお気づきと思う。

既存の権威を否定するのはよいが、イギリスに、新たな権威は生まれていない。その状況で、どうやって、新たな行政機構を構築し、また、近代国家に生まれ変わるための求心力を得たのだろうか。

(2)グレート・ブリテン島の統一

現在のイギリスの正式名称は、グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国(United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland)。イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドという4つの国(country)が同じ一人の王の下に統合された連合王国という建付である。

この基礎となったのが、1707年のブリテン島統一Kingdom of Great Britainの成立(イギリスとスコットランドの合併))だ。

私は、イギリスがブリテン島を統一できたこと自体は、「謎」とは思っていない。

イギリス、ウェールズ、スコットランド(の主要部分)は、いずれもローマ帝国の属州であった地域であり、ローマ由来の土地制度、ローマ・カトリック教会由来の教会制度(=行政機構)を共有している。

ローマの遺産を足がかりに成立させた国家で、新たな秩序体系の基盤となりうる「地物の権威」も発生していないのならば、これらの地域が一つにまとまるのは、ごく自然なことなのだ。

©️Shogakukan

ただし、難所はあったと思う。それが、(とくにこの時期の)スコットランドだ。

前回書いたように、この時期か、あるいは少し前に、スコットランドの西部には、直系家族が生成していた。

しかも、スコットランドは、やはりイギリスと同時期(か少し早め)に、識字率急上昇の時期を迎えている。

イギリスの「地殻変動+民主化革命」期は、同時に、スコットランドの「地殻変動+民主化革命」期でもあったのだ

ブリテン島の中央部で、異なる家族システムに立つ若者たちの自己主張が衝突する。この時期、宗教的・政治的に独自の存在感を放っていたスコットランドの統合は、イギリスにとって、決して簡単ではなかったはずなのだ。

・  ・  ・

「これらの謎を解く鍵は、アイルランドにある。」というのが、私の提示する仮説である。

全体像を把握するため、少し遡って、イギリスとアイルランドの関係を確認していこう。

イギリスのアイルランド支配

(1)中世

①ローマ教皇の勅書が発端に(1154年)

イギリスのアイルランド支配の発端は、1154年にローマ教皇がイングランド王にアイルランド領有を認めたことにある(教皇勅書)。しかし、このとき、アイルランドに対して野心を持っていたのは、イギリスではなく、ローマ教皇であったようだ。

この時期は、ヨーロッパにおけるローマ=カトリック教会の権威が最高潮に達しようとしていた時期である。

ローマ教会の影響はアイルランドにも及び、12世紀前半にはちょうどアイルランドが教皇の許可の下で教会組織を整備したところだったのだが、その教会改革が完成した直後に、教皇はイングランド王にアイルランド領有を認める勅書を出したのだ。 

明確な理由は不明のようだが、この改革を通じてアイルランドの教会が独自の発展を遂げている事実を知り、ローマ=カトリック教会の支配を強めるためにイングランド王の助けを借りようとした、というのが考えられる筋書きの一つである。

しかし、ヘンリー2世の方は、この件には関心を持たなかったようで、彼は教皇からの勅書を放置した。20年後に、彼は自ら兵を率いてアイルランドに赴くが、それは、ヘンリーの政敵がアイルランドに拠点を築いていたからであって、教皇とはまったく関係がない。

②適当なアイルランド支配

ただし、この時期のイギリス国王はやる気がなかった(百年戦争やバラ戦争でそれどころではなかった)。イギリス国王は名目上アイルランド太守(Lord of Ireland)を兼ね、イギリスからの植民もそれなりに行われた。しかし、‥

イングランドからの渡来勢力がアイルランド全島を支配下に置くことはついになかった。追い込まれたゲール氏族勢力も、しだいにアングロ=ノルマンの軍事技術を習得、スコットランドから流入してきた傭兵集団をかかえて軍閥化し、徐々に奪われた土地を奪回していった。中世末期には、アングロ=ノルマンの子孫で自らのイングランド系であることを自覚する領主が支配する地域(「イングリッシュ・アイルランド」)‥ゲール氏有力氏族ーアングロ=ノルマンの子孫でありながらほとんどゲール化していた領主も含むーが支配する地域(ゲーリック・アイルランド」の面積は、ほぼ半々になっていた。なお、前者が優勢だったのはレンスタとマンスタ、後者が優勢だったのはアルスタとコナハトである。

川北稔・木畑洋一編『イギリスの歴史』(有斐閣アルマ、2000年)40頁[山本正]

1450年の時点で、イギリス系の領主が支配した土地は、アイルランド島のせいぜい半分(↑)。

そのイギリス系領主たちも王権から自立した勢力となっており、王権による支配が及んだのは「The Pale」と呼ばれるわずかなエリアだけだった。しかも、国王はその支配を総督(イギリスの大貴族が務めた)に丸投げしていたので、イギリス国王の支配は及んでいないようなものだったのだ。

(2)テューダー朝(1485-1603)

①アイルランドはなぜカトリックになったか

イギリスがアイルランド支配に本腰を入れて取り組むのは、ヘンリー8世(テューダー朝2代目)以降である。

国内における集権化の推進と並行して、イギリスはアイルランド支配の実質化に向けて改革を進める。これに、元々の支配層や、元々の支配層の下で暮らしていた人々が反発し、16世紀のアイルランドは「反乱の世紀」といった趣になっていくのだ。

しかし、イギリスとアイルランドは、なぜ、そんなに激しくぶつからなければならなかったのだろうか。

その答えは、一般的には、宗教の違いに求められているように思う。こんな感じで(↓)。

全ヨーロッパでプロテスタント(宗教改革勢力)VS カトリック(対抗宗教改革勢力)の抗争が過熱する中、宗教改革の只中にあり、国教会体制を堅持しなければならないイギリスは、国内のカトリック勢力に対しても強行路線を取らざるを得なくなる。アイルランドがカトリックの地盤であり、対抗宗教改革側に肩入れする以上、アイルランドがイギリスの「敵」となり、制圧の対象となっていくのは、やむを得ないことだった。

しかし、アイルランドは、本当に、最初から「カトリック」(対抗宗教改革勢力としての)だったのだろうか。調べてみると、この点には、大いに疑問の余地がある。

アイルランドは5世紀以来のキリスト教地域で、独自のケルト教会を発達させていたことで知られる。12世紀の教会改革で司教区が整備され、修道院も独自のものから大陸由来の新たな修道院(シトー会)に代えられていたが、彼らが抱いていた信仰が、宗教改革以前の素朴なカトリックであったことは疑いない。

しかし、素朴なカトリックと「対抗宗教改革勢力としてのカトリック」は異なる。イギリスが踏み込んでくる前のアイルランドに、宗教改革の影響は及んでおらず、彼らが「対抗宗教改革勢力」となる機縁はなかった。

彼らがヨーロッパの対抗宗教改革勢力と結託し「プロテスタントの敵」に育っていくのは、16世紀後半なのだ(↓)。

1540年代にアルスター地方ティローンのオニール族のもとを訪れたイエズス会士はまったく冷淡な対応しか得られなかったという。こうした地域で対抗宗教改革派が地歩を築くようになるのは、統治改革に対する既存勢力の抵抗が激化する世紀後半になってからであった。カトリックの対抗宗教改革が、こうした改革抵抗勢力に、王権=プロテスタントに対する反抗の正当性を付与したのである。

山本正『図説 アイルランドの歴史』(河出書房新社、2017年)40-41頁

なるほど‥
つまり、こういうことだな?

アイルランドがカトリックであるのは、イギリスがアイルランドを同化・統合できなかったことの結果であり、その原因ではない、と。

イギリスは、アイルランドを同化・統合するのに失敗し、その結果、アイルランドは強固なカトリックに育っていった。

近代化の開始からその覇権が終盤に差しかかるまでの約300年間、イギリスの支配下で、カトリックのアイルランドは制圧され、差別され、とんでもない冷遇を受けていくのだが、忘れないようにしよう。

アイルランドを「カトリック=敵」に仕立て上げたのはイギリスである。その上で、イギリスは、アイルランドを差別・排除し続けて、連合王国の統合の礎としたのである。

②アイルランド王国の樹立:キルデア伯の反乱

1541年、イギリスでは「イギリス王をアイルランドの王と定める法律」が制定された。

わかりにくいが、要するに、以下の2点を定める法律だ。

  • 1️⃣アイルランドを王国にする
  • 2️⃣イギリス王がアイルランド王を兼ねる

イギリスは、それまでイギリス王を宗主(Lord)とする一種の植民地でしかなかったアイルランドを、「アイルランド王国」に格上げしたのである。

王国への「格上げ」の契機となったのは、イギリス王権による支配の強化に反発するゲール系旧支配層の反乱だった(キルデア伯の反乱:Kildare Rebellion 1534)。

反乱の鎮圧後、アイルランドを「王国」に格上げしたのは、一つには、アイルランドとイギリスをともに一人の国王を頂く同君王国とすることで、ゲール系を含むアイルランドを、敵ではなく、仲間として受容することを企図したからである。

したがって、もし、彼らの企図が成功し、真に仲間として受容・統合できていたなら、アイルランドは「カトリック」に転じることもなく、現代に至るまで、グレートブリテン連合王国の一員であり続けていただろう。

しかし、イギリスはその試みに失敗する。彼らの「改革」は、地域を混乱させ、不信感を招き、反乱を誘発。結局は、軍事侵攻という方法で、アイルランドを制圧するしかなくなってしまうのだ。

キルデア伯の側について戦ったのはこんな感じの人たちだったそうです(wiki)

③デズモンド伯の反乱と九年戦争

旧領主層による反乱のうちの最後かつ最大級の2つを(主に被害に着目して)紹介しよう。

【反乱の背景】

キルデア伯家の取り潰しの後、イギリスから派遣された歴代総督の下で行われた改革の基本は、「降伏と再授封(surrender and regrand)」。要するに、領主に領土を差し出させ、国王への服従を誓った者には改めて封土として授与する。これによって、独立勢力であった領主たちを、王の直臣に変身させるという政策だった。

もう一つの重要政策は彼らの武装解除である。自立した政治勢力であった彼らは、それぞれ兵力(私兵団)を有する軍閥だった。彼らの兵力を奪うため、新設の地方長官職に兵力と警察権(法と秩序の維持)を集中させ、領主らには(私兵の保持を禁止した上で)その補助者の役目を与える策が取られた。

ゲール系の領主たちは、こうした施策に頭から反対したわけではなく、か強固なゲール系の地盤であったアルスター地方やコナハト地方でも、有力氏族が「降伏と再授封」の申し出に応じ、地域の伯に任じられる例は少なくなかったという。

しかし、こうした改革が挫折し、結局は「反乱→鎮圧」つまり「征服」に終わったのは、改革によって既得権や名誉ある地位を奪われることになる層への配慮が乏しかったことに加え、歴代総督の改革方針が場当たり的で守備一貫せず、改革に応じた領主たちとの間にさえ、信頼関係を築くことができなかったためである

そんなイギリスの「改革」が、アイルランド社会をいかに動揺させ、イギリスがそれをいかに粗暴なやり方で抑えつけようとしたかは、反乱の鎮圧のために用いられた暴力の激しさと、その死者数でわかる。

1570年のアイルランド

【デズモンド伯の反乱】

一つ目はデズモンド伯の反乱(1579-83)。アイルランド南西部のマンスター地方で起きた反乱だ。

反乱鎮圧のために派遣されたイギリス軍は反乱軍を虐殺し、わざと、武器を持たない市民や女性、子供を攻撃し(恐怖に陥れるための意図的な作戦)、一帯の畑を焼き払った

スマーウィック(Smerwick)の戦い(1580)で虐殺された約600人を悼むモニュメント(1980年)

三年間に渡る焦土作戦の影響で約30000人が餓死(1581年11月-翌4月の推計)。戦争終結後も継続した飢餓・疫病によって、1589年までにマンスターの人口の約3分の1が死亡したと推定されている(wiki)。

【九年戦争(ティロン伯の反乱)】

続いて、今度は北部アルスター地方の反乱(ティロン伯の反乱)から始まり、アイルランド全土に拡大した九年戦争(1594-1603)では、10万人のアイルランド人が死亡した(wiki 兵士と民間人の合計。民間人のほとんどは飢餓によるものとされる)。

④征服完了と植民事業

デズモンド伯の反乱、九年戦争の鎮圧によって、イギリスは、アイルランドの征服を完了した。反乱に関与した領主の領土はすべて接収され、国王の直接支配下に置かれたからだ(↓)。

濃いサーモンの部分が1450年までのイギリス系支配部分、薄いサーモンが1603年です。九年戦争終了時(1603年)までに全土がイギリスの支配下に入っていることがわかります。(緑のストライプ部分の話は後で出てきます。なお、ストライプ部分の説明に「Catholic Land Ownership by the Act of 1552」とありますが「1652」の誤りです(the Act for the Settlement of Ireland))

国王は、接収した土地を、ブリテン島からの植民事業にあてた(↓左の地図の方が正確らしいが右の図の方が興味深いので併せてご覧ください(wiki))。

いわゆる北アイルランド問題もまた、この時期の植民事業が遠因を作ったといえる。

現在、9県のうちの6県がイギリス(連合王国)に、3県がアイルランド共和国に属しているアルスター地方は、元々は、強固なゲール系の地盤だった。だからこそ、イギリスは「イギリス化」を推し進めるべく、この地域で大規模な植民事業を実施した(アルスター植民)。

ピンクの部分が北アイルランド(連合王国の一部)、緑の部分がアイルランド共和国

アルスターには、まずは「植民請負人(Undertakers)」として選抜された者(主に資力のある中産階級)が土地の分与を受け、地主として入植し、のちに彼らの土地で働く農民(借地農)が入植した。アルスターに特異的なのは、この、借地農の入植者の存在である。

アルスター以外の地域の人口は、ごく少数の支配層(=イギリス系(国教徒))と圧倒的多数の被支配層(=アイルランド系(カトリック))によって構成されていた。支配層の地主と被支配層の借地農の間にはもちろん分断があったが、被支配層の庶民は同じアイルランド系のカトリックだったのである。

これに対し、アルスターには、ブリテン島(とくにスコットランド)から大量の借地農が入植したため、被支配層の中に、イギリス系(国教徒・非国教徒のプロテスタント)とアイルランド系(カトリック)が混じり合うことになる。この庶民の間の分断が、(のちの)激しい紛争の土壌となるのである。

ゲール系貴族の亡命---伯の逃亡(Flight of the Earls:1607)

九年戦争の終結からゲール系貴族の領土接収までには実は少し時間が空いている。九年戦争の終了は1603年3月30日(降伏)、ちょうどその直前の24日にエリザベス1世が死亡していた(エリザベスの死を、国王軍はまもなく知ったが、反乱軍のゲール系貴族らはまだ知らない)。国王の死という非常事態、国王軍の司令官を務めていた貴族(マウントジョイ卿)はすぐにでもロンドンに駆けつけたかった。そのために、とりあえず比較的寛容な条件を提示して、早期の降伏を促したのだ。

しかし、この「とりあえずの寛容策」はその場限りの効果しかもたらさない。結局、イギリス王室とゲール系貴族の間に融和は得られず、双方の疑心暗鬼が続き、4年後、貴族らの反乱を疑った国王は彼らをロンドンに召喚。貴族たちはロンドンに行く代わりに大陸ヨーロッパに亡命する(1607年:亡命の理由については諸説あるようだ。この筋書きは英語版wiki)。これが「伯の逃亡」(伯爵の逃亡とも)と呼ばれる事件で、実際に領土が接収されたのはこの後のことだった。

この「伯の逃亡」と翌年のオドハティの反乱(ゲール系の族長オドハティは九年戦争で一貫して王権側に立っていたにもかかわらず伯の逃亡後に不当な扱いを受けるようになったことに耐えられず蜂起)を機に、ジェイムズ1世の姿勢が硬化。大規模な植民事業(アルスター植民)によるアイルランドのイギリス化が目指されることになる。

といったことから、「伯の逃亡」は、ゲール系の旧秩序の終焉と完全なイギリス植民地時代の始まりを告げるアイルランド史上の最重要事件の一つと捉えられているようです。

⑤アメリカ植民へ

16世紀後半に活躍した有名人(イギリス人)に、ウォルター・ローリー(1554-1618)という人がいる。

こんな絵が描かれるほどの有名人。
The Boyhood of Raleigh(ローリーの少年時代)By John Everett Millais(1870)

彼は、デズモンド伯の反乱を鎮圧した功績によりマンスター地方の土地を与えられ、故郷(デヴォン)の人々を植民させる試みを行った。

エリザベス1世の寵臣として出世を果たしたローリーは、女王に北米植民を進言し、女王の勅許を得て、自ら出資者となって今度は北米にデヴォンの人々を入植させる計画を実行する(1586年)。

彼が開拓した地につけた名前が、ヴァージニア。

アイルランドの統合に失敗し、統合をあきらめ、植民地支配の対象としたイギリス。イギリスは、その延長線上で、そのメンタリティのまま、世界に進出していった。

「イギリスのすべて」を知るために、アイルランドがいかに重要か、ご納得いただけるだろうか。

‥‥イギリス帝国の起源と海外への膨張の契機は、ブリテン島の西に隣接するアイルランド・アルスター地域(現在の北アイルランド)に対する、イングランドとスコットランドからの入植・定住が本格化した17世紀前半に求めるのが妥当だろう。天候不順、不作、食糧不足などによる「17世紀の全般的危機」の不況下で、新たな活路と土地を求めて、アイリッシュ海によってブリテン島と隔てられたアルスターには、1641年までに約3万人がスコットランドから入植した。彼らスコットランド人入植者たちは、中世末期以来、現地において支配的な地位を占めていたイングランドからの入植者との共存をめざした。彼ら入植者の間では、現地のカトリック勢力に対抗して「ブリティッシュ」(the British)という共通の意識とアイデンティティが育まれた。

こうしたブリテン島からアイルランドを経由した西方への勢力拡張は、大西洋世界のアメリカ大陸、西インド諸島への進出につながった。‥‥ アイルランド島への植民活動は、のちの大西洋をまたいだ海外進出の先駆けとなり、アイルランドはブリテン島から海外に出ていく諸活動の実験場になったのである。

秋田茂『イギリス帝国の歴史』(中公新書、2012年)24頁

(次回に続きます)

 新大陸でのイギリスについては、こちらをご覧ください
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イギリスのすべて① 前史と家族システム

目次

はじめに

この記事は、エマニュエル・トッド入門講座で連載中の「トッド後の近代史」のスピンオフである。事情を説明させていただこう。

同連載をやってみて分かったのは、近代以降のイギリスの行動は基本的に現代のアメリカと同じであるということだった。

イギリスとアメリカは(大体)同じ家族システムだ。だから、彼らの行動が似たり寄ったりでもおかしくはない。とはいえ、やはり少し釈然としない。

アメリカの歴史が250年として、イギリスは1000年の歴史を持つ「歴史と伝統の国」である。大陸との長い交流もあるし、ローマ帝国の遺産も、ノルマン貴族から受け継いだ直系家族の伝統もある。それで、何となくうまくやってきたんだと、トッドも言っていたではないか。

「いまさら、実はアメリカと同じでしたなんていわれても、ねえ‥‥」

‥‥とは思ったが、だからといってすぐに「イギリスのすべて」に取り組もうなどと考えたわけではなかった。先にやりたいこともあるし、イギリス史なんか始めたら、大変なことになるのは目に見えている。

それでも書かずにすまなくなったのは、重大な秘密を発見してしまったからである。

ちょっと、地図をご覧ください。

世界史の窓」からお借りしました

地球の片隅に、ブリテン諸島(ブリテン島とアイルランド島)がある。イギリスはかつてブリテン諸島全土を「連合王国」の領土として支配していたが、アイルランド島の大部分は現在は別の国(アイルランド共和国)になっている。

おかしいと思いませんか。かつて帝国(British Empire)といわれる広大な領土を支配したイギリス。しかし、そのイギリスは、実際には、このちっぽけな島を(真に)一つに統合することすらできなかったのだ。

「そんな国は、「帝国」の名に値しないよなあ‥‥」

そう思って、イギリスとアイルランドの歴史を調べ始めた。私は、イギリスがアイルランドにしてきたことを何となくは知っていた。しかし、改めて調べてみると、その「ひどさ」加減は、私の想定をはるかに超えていた。

それで、気がついたのだ。

そう気がついて、改めてイギリス史を眺めると、あの事件にこの事件、私にとって何となく謎だったことのすべてが、きれいに理解できてしまったのである。

現代のこの世界の基礎を作ったのは間違いなくイギリスである。議会制民主主義や産業革命の祖として大いに美化されているその国は、本当はどういう成り立ちの国だったのか。

ぜひぜひ、共有させてください。

アメリカの統合およびデモクラシーにとっての先住民・黒人奴隷の意味については、こちらをご覧ください。

前史

イギリスのすべてを理解するには、ブリテン諸島の最初の方の歴史を知っていることが割と大切である。

最初の方の歴史のあり方が、各国の地域的区分、家族システムの配置、宗教の浸透などの基本的条件を決めているからだ。

しかし、この最初の方こそはあまり知られていない部分だと思うので、紀元前10000年から概略を追っていきたい。

1️⃣ブリテン諸島の形成(紀元前9000-8000)

氷期の終了(約1万年前)による海水面の上昇でブリテン諸島が形成される(それ以前はスカンジナビアと連続する半島だった)。

この頃から住んでいた先住の人々をのちのギリシャ人・ローマ人がケルト人と呼んだ(ケルトイ・ケルタエ・ガリなど)。

彼らの家族システムはもちろん原初的核家族である。

2️⃣ローマの侵攻(紀元前後)

紀元前55年に一度カエサルが攻め込んできた後、紀元43年に本格的な侵攻が始まる。

下の地図の白っぽい部分(スコットランド南部、イングランド、ウェールズ)が属州としてローマ帝国の統治下に入った。一応409年にローマ軍団の撤退とともに属州時代が終わったとされる(詳細は不明らしい)が、それ以前の4世紀頃からローマ帝国の支配力は薄らいでいた模様。

なお、この時期はゲルマン人の流入以前なので、ローマ属州(ブリタニア)に暮らしていたのは先住の人々(「ケルト人」)である。

https://www.atpress.ne.jp/news/244875

属州の支配を通じて、ローマ帝国の家族システムがブリテン島にもたらされた可能性はある。しかし、住民であったケルト人はゲルマン人に駆逐されたので(5️⃣)、その影響が残っているとは考えられない(後述)。

ハドリアヌスの長城

3️⃣ゲルマン人の流入(5世紀)

ゲルマン民族大移動で、ブリテン諸島にはアングロ・サクソン人(アングル族、サクソン族、ジュート族などの総称)がやってきて、先住ケルト人の民族・文化を駆逐した。

いうまでもないかもしれないが、アングロ・サクソン人の家族システムも、原初的核家族だ。

4️⃣キリスト教の浸透(5-6世紀)

ブリテン諸島でキリスト教の布教が始まるのはローマが撤退した後。ブリテン島より、アイルランド島への浸透の方が早かった。

Gallarus Oratory(初期キリスト教の礼拝堂)

アイルランドには5世紀にまずパラディウス、その後継者として後に聖人となるパトリックがやってきて本格的に布教した。

イングランドには597年にアウグスティヌスが50名の伝道団を率いてやってきて、当時ケント王国の都であったカンタベリーに教会を築いた(聖アウグスティヌスは初代カンタベリー大司教である)。

5️⃣キリスト教の権威を借りた国家統一:エドガー王の戴冠(973年)

7つの部族国家(七王国)にわかれていたアングロ・サクソン諸部族は、歴代のウェセックス王国の王によって次第に統一されていった。

特に功労者というわけではないようだが、情勢に恵まれ、イングランド統一を完成させることになったのがエドガー王(在位959-975)だ。

エドガー(Detail of miniature from the New Minster Charter, 966)

エドガー王は、バースで行われた戴冠式(973年)で、聖別の儀式として、カンタベリー大司教による塗油の礼を受けている。

フランクの王クローヴィスがキリスト教の権威を借りて統一国家を形成し(481年)、分裂後の東フランクではオットー1世がローマ皇帝の戴冠を受けて神聖ローマ帝国を始め(962年)、西フランク(フランス)ではユーグ・カペーがやはり塗油の儀式とともに戴冠してフランスを誕生させたように(987年)、エドガーもキリスト教の権威を借り受けることでイングランド統一を完成させたのだ。

クローヴィスやカペー朝についてはこちらをご覧ください

6️⃣ヨーロッパのイングランド王国へ:ノルマン・コンクエスト(1066年)

しかし、このウェセックス王朝は安定しない。息子(エゼルレッド2世)の代には再びノルマン人(の中のデーン人)の襲来を受けて、デンマーク王の血統を王位に招き入れ(カヌート王:1016-35)、ウェセックス家の血統に復帰しても(エドワード証聖王1042-66)、その死後には王位継承をめぐって争いが起きる(エドワードの父方のウェセックス家 VS 母方のノルマンディ公一族)。

結局、この最後の王位継承争いを武力で制したノルマンディー公のギヨームが、イングランド国王ウィリアム1世となり、現在に連なるイングランド王国が誕生するのである。

ところで、このノルマンディー公ギヨームなる人物は一体誰かというと、フランスのノルマンディー地方を治める貴族である。

彼はフランス生まれのフランス育ち、フランス語を話すフランス人で、有力なフランス貴族なのだ。

この人がギヨーム(ウィリアム1世)(バイユーのタペストリーより)

ノルマン・コンクエストについては、日本における大化の改新みたいなものと考えると、その重要性がわかりやすい。

大化の改新では、古くからの有力氏族である蘇我氏が倒され、律令制に代表される新たな国家体制への道が開かれた。

ノルマン・コンクエストでは、アングロ・サクソンの王が倒され、フランス貴族のノルマン人が王位につくことで、イギリスは、当時の先進地域であった大陸文化に接近。ヨーロッパの一角を占める国となったのだ。

以後、イギリスの国王は、このノルマン朝を起点として1世、2世と数える慣行である(近藤・43頁)

先日のチャールズ3世に至るまで、戴冠式も、ウィリアム1世のときのやり方を基本的に踏襲している。

ノルマン朝の成立こそが、新生イングランド王国の誕生といえるゆえんである。

7️⃣ノルマン・コンクエスト後のブリテン諸島地図

以下はノルマン・コンクエストの地図である。

ウィリアム率いるノルマン軍は、フランスのノルマンディーからやってきて、オックスフォードの辺りを拠点として進軍し、最終的には緑色の部分を除く全てのエリアを支配下に収める。

ノルマンディーとイングランドが同じ支配者を戴く一方で、この時点では、スコットランド、ウェールズの一部、アイルランドには支配は及んでいない。

なお、ノルマン・コンクエストの時点で、すでにフランス貴族の間では直系家族の生成が始まっていた(後述)。萌芽的な段階の直系家族の混入が、イギリスの家族システムをどのように変えていくのかは、後でじっくり検討しよう。

こちらからお借りしました

8️⃣百年戦争で島国に(1339-1453)

トッドはイギリスについて「島国だから」ということをよく言う。国民意識の強さなどについては、日本になぞらえたりすることもよくある。

しかし、住民のほぼ全員が原初的核家族であり、内在的な権威が発生していない段階では、島だからといって国家意識が強化されることはないと思われる。まったくの狩猟採集民にとっては、島も大陸も同じことではないだろうか。

この時代、まだほぼ狩猟採集民(のメンタリティ)であったイギリス人に、「島国」の意識を与える契機となったのは、百年戦争(1339-1453)である。

話の出発点はやはりノルマン・コンクエスト。すでに述べたように、イギリス王となったウィリアム1世は有力なフランス貴族だった。

ギヨームは、イングランドの国王ウィリアムとなった後も、フランス語を話し、イングランドに特別な用事(「反乱の鎮圧」だ)がない限りフランスで生活した。彼らは、イングランド国王である前に、フランス貴族だったのだ。

有力なフランス貴族であるとはどういうことか。それは、彼らが、フランス国王を含むフランス諸侯たちと勢力を争う立場にあったということ、そして、その勢力争いこそが、彼らの主要な関心事であったということである。

国王にフランス貴族を戴いたおかげで、イギリスは、フランスの戦国時代に巻き込まれていく。

当時、フランス国王(カペー朝)の権力基盤は弱体で、直接の支配権が及んでいたのはパリ周辺のごく狭い領域だけだった(↓上図の青い部分)。カペー朝は勢力の拡大に努めるが、それでも、全土の支配には遠く及ばなかった。

他方、イングランド国王(プランタジネット朝)の方は、相続や婚姻を通じて、一時は「アンジュー帝国」と呼ばれるほどの広大の領域を我が物とした(ヘンリー2世の時代(1154ー89)↓下図の赤系の部分)。

歴代フランス国王とイングランド国王は、フランス貴族同士として、どこかで雌雄を決しなければならない。そういう状況だったのだ。

百年戦争には「第一次百年戦争」ともいわれる前史がある。ヘンリー2世の生前に始まった「アンジュー帝国」の相続をめぐる争いで、ヘンリー2世本人、その息子たち、「帝国」の領地を狙うフランス国王を中心に、すったもんだがあって、イングランド王国のプランタジネット家は、南アキテーヌ(ガスコーニュ伯領↑南西の端っこ)以外のフランスの領土をほぼ全て奪われることになった(パリ条約(1259))。

この後、フランスでの栄華を諦めきれないプランタジネット家のイングランド王が、フランスの王位継承権を主張したことで起きたのが、本体の百年戦争だ。

仔細はすべて省略するが、いろいろあった末、最終的に勝利したのはフランス国王である。その結果、イングランド国王(敗戦時はヘンリー6世)は、フランス貴族の地位を追われ、「イングランド王国の王」を本業としていくしかなくなるのである。

この百年戦争こそが、統一国家としてのイギリス、そしてフランスを作った、というのが歴史学者の間の通説である。

イングランドのアンジュ朝〔プランタジネット朝〕とフランス(カペー朝、ヴァロア朝)、また各領邦、フランドル、ブルゴーニュ、スコットランド、スペイン、そして教皇庁などが合従連衡し、からみあっていた。城戸毅は「シャム双生児」のように、もつれあいからみあった複数の政体を「いわば一刀両断に切り離す外科的大手術の働きをしたのが百年戦争だった」という。双生児よりも、五つ子、六つ子がからみあう紛争といったほうがイメージしやすいかもしれない。何人かの子はまもなく政体としての生命を失い、やがてイングランドでもフランスでも、政治社会は近世的でナショナルな秩序へと移行するのである。

近藤・62-63頁

純然たる原初的核家族のイギリス、そして一部に直系家族が育まれていたものの、平等主義核家族をアイデンティティの中核としていくフランスは、双子のきょうだいとの激しい争いと別れを経験することで初めて、国家と国民意識を形成することができたのである。

9️⃣バラ戦争:テューダー朝の成立(1485)

百年戦争後の王位継承がうまくいくかどうかは、この時期のイギリス王室における直系家族の確立度合いを測るリトマス試験紙のようなものである。

百年戦争に敗北したときの国王はヘンリー6世。彼は健康上の問題を抱えていたが(遺伝性の精神疾患。断続的に発病したらしい)、ちょうど1453年に生まれた王太子がいた。

戦乱の世が終わり、今こそ、国をしっかり建て直すべきときである。幸いにも、王と王妃の間には男子が生まれ、その血統に問題はない。国王が錯乱するなら摂政でも立てて、王太子が成人するまで待てばよいではないか。

もし、イングランドの王侯貴族の間に本物の直系家族システムが成立していたなら、彼らは必ずそう考えるはずである。

しかし、実際には、イングランド王族の間ではそれまでも王位継承争いが絶えなかったし、今回も、血統でも実力でも引けを取らないと考える勢力が黙っていなかった。

ともに、百年戦争を始めたエドワード3世の血を引く、プランタジネット家傍流のランカスター家とヨーク家の人々は、王位をめぐって、30年もの間、戦闘を繰り広げたのだ(バラ戦争 1455-1485)。

王位をめぐって当然のように武力闘争が始まり、30年も争って、双方ヘトヘトにならなければ王朝が定まらなかったということほど、彼らの「直系家族」の実態を示すものはない、と私は思う。

後でまとめて検討するが、ノルマン・コンクエスト(1066年)で持ち込まれた直系家族の萌芽は、400年を経ても、定着し、安定した秩序の形成に貢献したわけではなかったのだ。 

ヘンリー7世
テューダー・ローズ

30年の間、王位が両家を行き来した後、最後の戦いを制したのは、ランカスター家のヘンリー・テューダー(ヘンリー7世)。

ヘンリー7世は、王位を安定させるべく、敵方のヨーク家から妃を取り(エリザベス・オブ・ヨーク)、ランカスターの赤いバラとヨークの白いバラを組み合わせたテューダー・ローズを家紋に採用したことで知られる。

彼はまた、戴冠後もしばらくは続いた王位僭称者による反乱を粛々と処理し、争いの種を除去することに努めた。

イギリスは、このテューダー朝の下で、近代国家の確立に向かう歩みを開始する。しかし、紅白のバラを掲げ、敵を皆殺しにしても、それで権威の軸が発生するわけではなく、この時期に至ってもまだ、イギリスは原初的核家族のままなのだ。

「権威なし」「平等なし」のままで、近代に立ち向かうイギリス。ここからが、本編の対象である(次回)。

ブリテン諸島の家族システム

百年戦争で大陸から切り離されたテューダー朝のイギリスは、ヨーロッパの中のイギリスとしてデビューを果たすとともに、ブリテン諸島内部での活動も活発化させる。スコットランドやアイルランドとの接点が大きくなるのも、ここからである。

イギリスの近代を隈なく理解するため、イギリスを含むブリテン諸島各地の家族システムを確認しておこう。

(1)イギリス(イングランド)

世界中のすべての地域と同じく、ブリテン諸島の家族システムも原初的核家族から出発する。

①ローマ属州時代の痕跡はゼロ

ブリテン島は紀元前後から400年程度に渡りローマ帝国の属州となるが、イギリスの家族システムにこの時代の痕跡は残っていない

トッドは2つの点に言及している。

・帝国時代のローマ(とくに西部)は版図となったヨーロッパの未分化性の影響で家族システムを退化させ(=父系制的・共同体家族的な色彩を失い)、ある種の核家族(平等主義核家族)となっていた(この点についてはこちら)。

・属州時代にブリテン島に居住していた「ケルト人」は、アングロ・サクソン人の侵略の際に駆逐されていること(3️⃣)。

そういうわけで、イギリスの家族システムには、ローマに由来する父系制・共同体性はもちろん、平等主義的な色彩すら、少しも残っていないということになる。

②ノルマン貴族への反動→絶対核家族へ

他方、ノルマン人が支配者となったことは(6️⃣)、イギリスの家族システムに本質的な変化をもたらした。

トッドによると、ヨーロッパにおける直系家族の発祥は、北フランスの貴族階級(↓)。ノルマンディーを領有するフランス貴族のノルマン人はそのど真ん中の人たちだ。

フランク王国の歴史をたどるなら、長子相続という概念の出現の年代を、現実的正確さをもって決定すること‥‥ができる。メロヴィング朝からカロリング朝へと時代が変わっても、留意することができるのは、フランク人の相続と親族のシステムの連続性にほかならない。‥ クローヴィスの子孫にとっても、シャルルマーニュの子孫にとっても、王国を分割するというのが規範に適ったことである。長子への遺産相続の規則が出現し、盛行するするようになるのは、10世紀末になってからにすぎない。‥‥ 西フランクにおいては、男子長子相続の出現は、新たな王朝、カペー朝の出現、そしてとりわけ、フランス王国の安定的形態の出現に対応している。‥‥ ユーグ・カペー〔フランス・カペー朝の創始者〕の国王選出ならびにそのあとを継いだ彼の子孫の王位継承の仕方が、フランスにおける長子相続原則の定着の画期をなしたと考えても、単純化しすぎたことにはなるまい。

さてそこで、長子相続はヨーロッパの社会的再編の歯車になって行く。カロリング帝国の崩壊とともに、全般的な階層序列的社会形成が進行した。宗主としての支配と封臣としての従属という概念は、上から下へと連なる従属関係、貴族社会の縦型で不平等主義的な形式化を確立していくのである。

下 597頁

したがって、「イングランドでは、長子相続原則の起源がノルマン人、すなわちフランス人であるとすることにはほとんど問題がない」(下 606頁)。

しかし、彼らがイングランドの支配者になって、イングランドに直系家族が根付いたかといえば、そうではない。

パリ周辺のフランスと同様、イングランドでは、早くから大規模農業経営が発達していた(ローマの遺産である)。

こうした地域、こうした農地制度の中に、直系家族は定着することができなかった。直系家族には機能上の正当化の根拠がなかったからである。‥‥土地を耕す労働者‥‥の小さな家と庭は、その相続に関して、不分割の規則が確立されるほどの十分な争奪の的となるには、小さすぎたのである。

家族システムの起源I 下 615頁

そういうわけで、ノルマン貴族(彼らがイギリスの貴族になる)が持ち込んだ長子相続の慣習は、土地持ちの富農(独立自営農民だ)の間にのみ広がる。しかし、彼らはやがて消滅する運命だ。

貴族以外のイギリス人は、逆に、上から押し付けられた直系家族的観念に反発し、「権威なし・平等なし(自由・非平等)」の絶対核家族システムを生み出していくのだ。

イギリスにおける絶対核家族の生成を、トッドは「遺言の自由」が確立される過程に見出している。

‥‥中世の終わり頃には、家族というものが己の法的自由を回復しようと努力していたことが感知される。ヘンリー8世(在位1509-1547年)から、遺言の自由が肯定されるようになる。1540年には‥‥[封土の]三分の二とそれ以外の土地全部を自由に処分することが可能となる。革命下にあって、‥‥[封土の観念は]明らかに時代遅れのものとなり、長期議会は1645年に遺言の完全な自由を確立する。1645年はクロムウェルが国王軍を粉砕するために新型軍(New Model Army)を創設した年である。したがって、遺言の自由は、比較的近年の歴史の産物なのである。

下 619頁

なお、法的に遺言の自由が確立しても、社会の上層階級は、限嗣相続(entails:相続方法を限定する制度)を慣行として確立し、長子相続の規則を存続させていた。トッドはつぎのようにいう。

パリ盆地のフランスの特徴をなす民衆と貴族の家族形態の対立が、より目立たない形で、イングランドにも見出されるわけである。この二つのケースには、分離的反動の観念が関与的である。

イングランドの核家族における個人主義的急進性は、まさしく世代を分離することに固執するが、ここに、貴族が担ってきた直系家族の観念に対する反動を認めることは、法外に大胆すぎることとは思われない。

下 620頁

ともかく、このようにして、イングランドには絶対核家族が誕生する。その生成期は、トッドの見立てによれば、1550-1650年の100年間である(『我々はどこから来て、今どこにいるのか』上・318頁)。

③王侯貴族の直系家族ー内実は?

ところで、トッドは、「貴族の長子相続制は、イングランドにおいては少なくとも19世紀末まで生き延びたことを忘れてはならない」として、イングランド社会の上層部(王侯貴族)の家族システムが直系家族であることを示唆する。

国王が分割相続を履行していては国はすぐにバラバラになってしまう。現にそうなっていない以上、彼らの間で、土地の不分割(一括相続)が規範となっていることには、疑問の余地はないといえる。

しかし、それは本当に、われわれの知る「直系家族」と同じものなのだろうか。

ノルマン・コンクエスト後のイギリス王室の歴史を見ても、王位(や当初は領土)の継承が安定しているようにはとても見えない。

ウィリアム1世の後、ノルマンディー公領とイングランド王国は別々に相続される(長子のロベール2世がノルマンディー、次男のウィリアム2世がイングランド王国)。ウィリアム2世の死後はその弟のヘンリー1世が跡を継ぎ、王位継承を主張するロベール2世(フランス王)との争いを制してノルマンディーも手にいれる。

ヘンリーが亡くなると王位継承をめぐって内戦となり、ノルマン朝は終焉。内戦を勝ち抜いたマティルダ(ヘンリー1世の娘で神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世の妃。ハインリヒと死別後フランス・アンジュー伯(プランタジネット家)と再婚)の息子、ヘンリ2世がプランタジネット朝(アンジュー朝ともいう)を開く。

ヘンリー2世は、そういうわけで、イングランド王国とアンジュー伯領と自身の妃が持ってきたアキテーヌ公領を継承するが、妃と不仲になったせいで妃や息子たちに反乱を起こされ、フランス王の介入もあってフランスの領土を失う。

もうこの辺でいいかなと思うが、ヘンリー2世の死後もリチャード1世(在位1189-1199)と弟のジョン(在位1199-1216)が争い、その争いに乗じてフランス王がノルマンディーを奪い、などいろいろあって、シェイクスピアの世界に突入。百年戦争(1337-1443)からバラ戦争に続くのだ。

百年戦争の後のバラ戦争を経てテューダー朝が始まった後の歴代国王の動きも不審である。

ヘンリー8世は、ローマ・カトリック教会から自立してイギリス国教会を開くが、跡を継いだ息子のエドワード6世が未婚のまま早逝したのでメアリ(ヘンリー8世の娘でエドワード6世の異母姉)が継ぐ。そこまではよいとしても、彼女はバリバリのカトリックで、国教会体制を大混乱に陥れるのだ。

これ以上は書かないが(本編で部分的に扱う)、この後も、王位継承そのものはそれなりのルールに従ってなされるものの、王位継承者(つまり歴代国王)の間の信仰は一貫しない。プロテスタント(国教徒)だったり、一応国王なので国教徒として振る舞うものの、本心はカトリックだったり。そして、彼らの信仰および宗教政策に対する疑心暗鬼が、この時期の波乱を増幅する大きな要素となっていくのだ。

「こんなの直系家族じゃない!」

そう思いますよね?

直系家族の縦型のつながりは、土地の分割を防ぐためだけのものではない。家系の永続のため、親は家督を継ぐ長子に、土地とともに、家長であるに相応しい資質を与えようと努める。読み書きや武術、必要な教育を授けるとともに、家訓やら、家長の務めやらの規範を教え込み、代々に蓄積した知恵を確実に伝えて、後代の繁栄を期するのだ。そしてもちろん、次子以下に、長子と協力して一家の繁栄に努めるべく含ませることも忘れてはならない。

それなのに、彼らときたら‥‥

彼らは、王の直系の子供を確実に得るための方策を取ろうともせず(養子も取りません)、王位を兄弟姉妹の間で受け継いだり、遠縁の親戚筋に移行させたりする。そしてもちろん、家系をまもるための教育は行き届いていない。そんなことだから、争いも絶えないし、歴代の王の価値観だってバラバラだ。王室は、安定の礎どころか、混乱の発火点なのである。

結局、こういうことではないだろうか。

ウィリアム1世率いるノルマン貴族は、確かに、イングランドに直系家族を持ち込んだ(1066年)。しかし、それはカペー朝(987-1328)のごく初期、生まれたばかりの萌芽的なものだった。

その萌芽は、大陸では、ドイツやフランス南西部に定着して庶民まで行き渡り、確固たる直系家族システムに成長していった。

しかし、イングランドでは、その「萌芽」にすぎない直系家族が、「暴力的に、しかも時期尚早で導入された結果、それは挫折することになり、その挫折が絶対核家族の発明へとつながっていく」(家族システムの起源・下 601頁)。

そして、貴族の間に一応保持された直系家族の方も、萌芽的な形態のまま推移したか、あるいは、土地の価値観に従って、どちらかといえば退化に向かった。

いずれにせよ、それは、ドイツやスウェーデン、日本に見られる、完成された、規律正しい直系家族とは似て非なるものと思われる。

(2)ウェールズ

トッドは、ウェールズを『新ヨーロッパ大全』(I 64頁)では直系家族に分類していたが、『家族システムの起源 I』(下 546頁)で修正している。

下の地図は、複合世帯(夫婦とその子供たちのセット以上のものを含む世帯)の割合が相対的に高い地域を表した地図である。ブリテン諸島では、スコットランド北部からウェールズ、コーンウォールに至るブリテン島の西側周縁部、アイルランドの周縁部にその地域がある。

 

新ヨーロッパ大全I 54頁

当初のトッドは、このデータによって「直系家族」と判定したのだが、家族システムの変遷に関する研究を経て修正され、ウェールズ核家族(絶対核家族以前の原初的核家族に近い形態)と判断するに至った。彼の言を引用しておこう。

当時まだル・プレイの聖三位一体の虜となっていた私は『新ヨーロッパ大全』の中で、それは直系家族の痕跡であると断言したが、それは誤りであり、そのように断言すべきではない。一時的同居の概念と末子による家の受け継ぎの概念を援用するなら、これはやや漠然とした核家族システムであって、発展サイクルのいくつかの局面の中でいくつかの複合世帯が出現することになるのだ、と考えることができるのである。ウェールズの家族はそのように考える必要がある‥(略)‥。

下 546頁

(3)スコットランド

ところで、ウェールズに関する上記引用の「‥(略)‥」の部分には、次のように書かれている。 

が、西スコットランドの家族はおそらくこのように考えてはいけない。

下 546頁

スコットランドについては、納得のいく(十分に質の高い)データがないらしい。それを認めた上で、トッドは、スコットランド西部を直系家族に分類している。

スコットランドの文化の「スタイル」は宗教の領域においてイングランドの文化より権威的であり、より教育にこだわるところから、まさに潜在的な直系家族を喚起している。

下 546頁

宗教改革の時点では、すでに明確に直系家族の「スタイル」が現れているので、スコットランドの場合も、イギリスと同じ頃(1550-1650)か、もしかするとそれより少し先行して直系家族の生成時期を迎えていたのではないかと思う。

(4)アイルランド

現在のアイルランド島については、その半分程度が直系家族であるということで問題はない。

しかし、『家族システムの起源 I』は、これに非常に重要な情報を追加している。アイルランドの半分程度が直系家族であるというのは事実だが、アイルランドに直系家族が出現したのはごく最近(19世紀後半)のことなのだ。

それ以前の家族システムは、私が「原初的核家族」と呼んでいるものそのものである。

大飢饉以前の1837年前後には、この直系家族はまだ存在していなかった。土地の再分割が規則となっており、地域によって微妙な差異があり、たいていの場合は息子を優遇するが、娘を優遇する場合もあった。世帯の単純性、末子の役割、核家族を取り囲む親族関係の重要性といった、標準的な古代的(アルカイック)システムのあらゆる特徴が、当時のイギリス議会の報告書の中に言及されていた。

下 540頁

加えて、近年の直系家族にも、典型的な形態とは異なる特徴がいろいろ確認されているらしい。長男の特権的地位がそれほど明確でないとか、母親の影響力が強いとか、直系家族としては世代間の同居率が低いとか。

トッドの見立てによると、これらの非典型的要素の存在は、アイルランドの直系家族がごく新しいものであることと関連する。また、同居率の低さは、独身者が多く、結婚が遅いことの結果と見られる。

(5)まとめ

以上をまとめるとこうなる。

1️⃣1066年以前、ブリテン諸島全土は、未分化な家族システム(原初的核家族)で覆われていた。

2️⃣1066年にフランス貴族のノルマン人がやってきて萌芽的な直系家族をイングランドに持ち込み、オックスフォード周辺を拠点に「上からの押し付け」を行う構図となった。直系家族は根付かず、反動として絶対核家族を生んだ。

3️⃣絶対核家族は、イングランドの支配的な家族システムとなり、辺境地域に残る原初的核家族と併せて、核家族ブリテン諸島を支配した。

4️⃣例外的に3箇所の直系家族(的)領域がある。

  1. イングランドおよび連合王国の王侯貴族にはノルマン貴族由来の直系家族が残る。ただし萌芽的ないし退化したバージョンで、社会に規律を与える力は弱い。
  2. 11世紀から16世紀の間のどこかで、スコットランド西部に直系家族が生成している。詳細は不明だが、本物の直系家族と見られる。
  3. 19世紀後半の危機の中で、アイルランドに一種の直系家族が成立している。複合世帯の増加はおそらく危機的状況への対処であり、新しいものであるため、家族内の権威関係には典型的な直系家族とは異なる点がある。

(次回に続きます)

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イエメンQ&A

ガザとイエメンー「フーシ派」は何と闘っているのかー」の内容を元にザックリ目に解説します。「本当か?」とお思いの方はぜひ同記事をご参照ください。

目次

Q イエメンのフーシ派はなぜハマスと連帯を掲げたり、紅海で船舶を拿捕したり、アメリカ・イギリスと戦ったりしているのですか?

フーシ派、というよりイエメンの人々は、ハマス、というよりパレスチナの人々に対し、同じ敵と戦う同志という意識を持っているからです。

イエメンは2014年からサウジアラビアと戦争状態にありました。2017年からはサウジ軍によって国境を全面的に封鎖され、「世界最悪の人道危機」と呼ばれる状況に陥りました。

イエメンに対するサウジアラビアの攻撃がアメリカの全面的な支援と支持を受けて行われた一方的な(正当性のない)攻撃であった点を含め、イエメンが置かれた状況は、2008年以来のガザの状況とよく似たものでした。

一方で、イエメンの場合、状況はわずかながら改善の方向に向かっていました。

ウクライナ戦争で忙しくなったバイデン政権がサウジへの軍事的支援を減少させたことで、サウジはイエメンとの和平を模索せざるを得なくなったからです。

2023年1月にはサウジとイエメンの直接交渉が始まり、年内には合意締結か、といわれるようになった頃、ガザ危機が始まったのです。

イエメンの人々は当事者です。ガザ危機が始まったとき、彼らは、これまで自分たちに向けられていた理不尽な力の矛先が、アメリカの差配によって、今度はガザに向けられたのだということをはっきり理解したと思います。

イエメン人とパレスチナ人は、同じアラブのムスリムです。どちらも、アメリカを初めとする「国際社会」の恣意的な行動によって、長い苦しみを味わってきました。その同胞に対して、同じ敵が、(彼らから見れば)邪悪な攻撃を仕掛けている。

となれば、若いイエメンの人々(年齢中央値19歳です)が、パレスチナとの連帯を掲げ、敵方(アメリカ、イギリス、イスラエル)の駆逐を誓うのは、ごく自然なことだと私は思います。

なお、日本ではまったく報道されませんが、「フーシ派」(西側に近いメディアが勝手にこう呼んでいるだけであり、正式名称は「アンサール・アッラー」です)の今回の行動は、イエメン国民から熱烈な支持を受けています。

アンサール・アッラー(フーシ派)の行動は、アメリカに代表される西側世界やイスラエルが行使する理不尽な力から、パレスチナ人の権利を守り、イエメンの自由と独立を守り抜くというイエメン国民の意思に支えられたものです。決して「反政府組織による暴挙」といった性格のものではありません。

民間人エリアへの無差別攻撃を含む戦闘行為、全面的な国境封鎖による物資の不足等により、多数の人々が死傷し、飢餓や感染症による生命の危険に晒され、劣悪な環境での暮らしを強いられている状況を指します。

国連開発計画(UNDP)の2021年12月の報告書によると、2015年から2021年12月末までの死者数は約37万7000人。死亡原因の約4割が戦闘関連、残りの約6割は飢餓や感染症によるものだそうです

国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)によると、2023年の時点で、国内避難民は約450万人、人口の約7割に当たる約2160万人が極度の貧困状態に置かれています。

このような事態は、2015年3月にサウジアラビアがイエメンへの攻撃を開始し、イエメンが戦場となったことによって発生しました(私は勝手に「第二次サウジ・イエメン戦争」と呼んでいます)。

なお、サウジによる国境封鎖は現在(2024年3月)も続いています。

Q 「世界最悪の人道危機」の原因は内戦だと思っていました。違うのですか?

いわゆる「国際社会」は「人道危機」の原因を内戦と言い張っていますが、事実は異なります。「内戦」と呼ばれているものの実態は、サウジアラビア VS イエメンの戦争です。

イエメンでは2014年に本物の民主化革命が始まり、2015年2月にアンサール・アッラー(フーシ派)が新政権の樹立を宣言しました(西側に近い国のメディアでは「クーデター」としか言われませんが、イエメン国民の大多数はこの政権を支持しています)。

サウジの攻撃はこの革命を阻止するためのものです。したがって、サウジ側から見れば干渉戦争、イエメンから見れば革命防衛戦争ということになるでしょう。

戦争に至る経緯を確認しましょう。

1️⃣アメリカ・サウジと蜜月にあり、外国資本頼みの経済運営を続けたサーレハ政権(任期1978-2012)の下、攘夷(反米・反イスラエル)を訴えるアンサール・アッラー(フーシ派)の運動が勃興

2️⃣アンサール・アッラー(フーシ派)を脅威に感じたサーレハは、彼らの拠点があるイエメン北部にサウジアラビア軍と合同で大規模軍事攻撃(イエメン焦土作戦・2009)を展開。国民の心は政府から離れ、アンサール・アッラーの支持拡大。

3️⃣イエメンに反米・反サウジ政権が誕生することを嫌った外国勢力は、アラブの春」(2012)を利用してサーレハに退任を迫り、従来通りの「売国」政策を引き継ぐ傀儡政権を樹立(ハーディ暫定政権)

4️⃣IMF/世界銀行経由の融資を使い果たした暫定政権は2014年1月に公務員の給与支払いを停止。追加融資を得るために緊縮策(イエメン国民の命綱である燃料補助金の削減)の条件を呑んで同7月にガソリン・軽油の大幅値上げ

5️⃣怒ったイエメン国民は暫定政権の退陣を求めて立ち上がる(2014年7月〜)革命の開始

6️⃣アンサール・アッラー(フーシ派)は2014年9月に首都サナアを掌握。暫定政府は辞意を表明し(2015年1月)、アンサール・アッラーが新政権樹立を宣言(2015年2月)

7️⃣2015年2月、暫定政府は辞意の撤回を宣言してサウジアラビアに逃亡。サウジの庇護下で亡命傀儡政府を樹立

8️⃣その直後、サウジはイエメンへの激しい空爆を開始(2015年3月)。第二次サウジ・イエメン戦争が始まり「世界最悪の人道危機」へ

西側に近い国のメディアが第二次サウジ・イエメン戦争を「内戦」と呼ぶのは、アメリカやサウジが代表する「国際社会」は、亡命傀儡政権こそが正統なイエメン政府であるという立場を崩していないからです。

しかし、傀儡のハーディ暫定政権は、もともと、イエメン国内には全く支持基盤を持たない「国際社会だけが支持するイエメン政府」でした。

そのやり口に怒ったイエメン国民が革命を起こして暫定政府を辞任させ、新たな政権を樹立した今、亡命したハーディ暫定政権を「正統イエメン政府」とするのは無理筋というほかありません。

そういうわけですので、この戦争は、決して、「正統なイエメン政府軍 VS 反政府軍」の内戦ではありません。「革命によって新政権を樹立したイエメン VS それが気に入らないサウジ(とアメリカ)」の戦争です。そして、この戦争におけるサウジ軍の攻撃こそが、「世界最悪の人道危機」を引き起こしたのです。

詳しくはこちらをご覧ください

Q フーシ派ってテロ組織ですよね。フーシ派が正統な新政権の担い手だなんて、ちょっと信じられないのですが・・

アンサール・アッラー(フーシ派)は、イエメン北部のイスラム教ザイド派地域から出た真面目な政治運動です。ザイド派を再興し、反米・反イスラエルに立つ新しいイエメンを作ろうとする運動で、暴力を厭わないところを含めて、「尊王攘夷」を謳って台頭した幕末の志士のようなものと考えればよいと思います。

彼らは、サーレハ政権(ハーディの前の大統領。親米・親サウジではあったが傀儡ではなかった)の時代から政府との武力衝突を繰り返していました。今の日本では、暴力で政権を取るなんてことは考えられないので、「そんな粗暴な勢力が正統な政府なんて・・」と思う気持ちはわかります。

しかし、初代内閣総理大臣を務め、昭和の千円札にまでなった伊藤博文だって、幕末には何人も人を斬り、英国公使館に火をつけたりしていたのです。

革命に暴力は付き物です。その上、アメリカ・サウジなどの大国が日常的に介入してくるのですから、相当高度な軍事力を駆使できなければ、革命はおろか国の独立すら維持できない。それが彼らの置かれた状況です。アンサール・アッラー(フーシ派)が高度に武装しているからといって、野蛮なテロ組織と見るのは的外れだと私は思います。

アンサール・アッラーのメンバー
長州奇兵隊(wiki)

新政権は、昨年の段階で全人口の70-80%の居住地域を支配下に収めたといわれていましたが、ガザ危機に対する新政権の決然とした行動は、国民からの幅広く熱烈な支持を集めているようです。イエメンには南部に自立を志向する分離派が存在しますので、彼らとの内戦が継続する可能性はありますが、新政権の基盤が根本的に揺らぐことはないように思えます。

なお、アンサール・アッラー(フーシ派)が「国際テロ組織」とされるのは、敵対しているアメリカが勝手に「国際テロ組織」に指定しているからであって、それ以上の意味はありません。 

Q サウジアラビアやアメリカはなぜそこまでしてイエメンの革命を阻止したいのですか?

民主化革命が波及してくると困るからです。

サウジアラビアや湾岸諸国は近代化(ここでは識字率上昇を指標とします)においてイエメンに先行していますが、本格的な民主化革命を経験していません。

イエメンでの革命が波及して彼らの政体(世襲による君主制)の打倒につながることを避けたいというのが、サウジや湾岸諸国がイエメンに介入したい根本的な理由です。

この点は、実はアメリカも同様です。アメリカは、西アジアの君主制国家と親密な関係を保つことで、石油などの天然資源開発やその利権の差配による利益を大いに得てきました。産油国との関係は、石油決済におけるドル使用の確保などを通じ、ドル覇権を支える重要な要素にもなっています。

西アジアで続々と革命が起こり、真に国民の利益を代表する政権が誕生した場合、新たな政府は、アメリカの利益や為政者の保身よりも、国民の利益を重視するようになるでしょう。

イラン革命(1979)後のイランがそうしたように、天然資源の国有化を目指し、軍事力を強化し、経済・外交における自立を確保しようとするでしょう。

とりわけ、西アジア最大の産油国であるサウジアラビアの忠誠が失われることは、アメリカにとって最大の脅威の一つであり、絶対に避けなければならない事態なのです。

すでにお気づきかと思いますが、アメリカがイランを徹底的に貶め、敵視しているのもそのためです。

イランがアメリカに嫌われるのは、決して、イランが「人権無視で非民主的な専制主義国家だから」ではありません。真の理由はその正反対で、イランが本物の民主化革命を成功させ、経済・外交政策において自立し、国民の利益のための国家運営を始めたからなのです。

1974年7月にニクソン大統領の命を受けて、ウイリアム・サイモン財務長官がサウジアラビアを訪問、「米国はサウジアラビアから石油を購入するとともに、サウジアラビアに対して軍事援助を行う。その見返りとしてサウジアラビアは石油収入を米国債に還流させ、米国の歳出をファイナンスする」仕組みを提案した。サウジアラビアのファイサル国王は、自らの米国債購入が間接的に米国によるイスラエル支援に向かうことを恐れ、米国債購入については極秘扱いすることを要請したという。サウジアラビアの要請に応じ、米財務省は通常の競争入札によらず、購入実績が開示されない特別な形式によってサウジアラビアが米国債を購入できるように便宜を図ったのである(いわゆるワシントン・リヤド密約)。今日まで続いている国際的な原油取引におけるドル建て決済の慣習はワシントン・リヤド密約に基づくものと考えられ、戦後のブレトンウッズ体制崩壊後もドルが基軸通貨としての地位を維持できたことの一因にこの密約があったとも言える。

長谷川克之「サウジアラビア通貨政策の現在・過去・未来」(2023)(太字は辰井)

Q イエメンの宗教はイランと同じシーア派で、フーシ派の背後にいるのはイランだと聞いたことがあります。そうなのですか?

アンサール・アッラー(フーシ派)とイランが良好な関係にあることは事実ですが、アンサール・アッラー(フーシ派)がイランの手先とか子分ということはありません

両者は意思決定主体として独立しており、経済力や発展度合いの相違はあるにせよ、基本的に対等な関係性を保っていると見られます。

また、イエメンとイランが良好な関係にあるのは、現下の国際情勢において、両者が共通の志を持ち、共通の利害を有するからであり、宗教は関係がありません

「関係がない」といいながら、一応確認をしておきますが、宗教においても、両者は「同じシーア派」というわけではありません。

イエメンのザイド派は、たしかに、大きな括りではシーア派に属します。イランの国教である12イマーム派も、大きな括りではシーア派です。

しかし、この「シーア派」という括りが曲者で‥‥何ていうのでしょうか、キリスト教における「プロテスタント」と同じようなもので、シーア派に属するとされる諸宗派は、「主流派(スンナ派)に対するアンチ」という立ち位置を共有するだけなのです。

ザイド派の成立は12イマーム派よりも早く、12イマーム派の影響下に成立したわけではないですし、ザイド派が12イマーム派に影響を与えたという事実もないようです。

そういうわけで、ザイド派と12イマーム派は、ほとんど共通点のない(相互に)独立した宗派といってよいと思います。

詳しくはこちらをご覧ください

Q ガザやイエメンをめぐる情勢が何かもっと大きな動きにつながることはありえますか?

近年起きている大きな事件は、すべて、アメリカを中心とする世界から、ユーラシア大陸の旧帝国地域(西アジア、中国、ロシア‥)を中核とする多元的な世界へ、という大きな動きの一部を形成していると私は見ています。

崩壊の過程にあるアメリカ帝国の「最後の悪あがき」が、ウクライナ戦争であり、ガザ危機です。アメリカには、もっと穏やかに衰退し、普通の国になるという選択肢も(理論的には)あったはずですが、もう無理だと思います。アメリカ帝国は、数年のうちに自滅していくでしょう。

その後、世界は、そして西アジアはどうなっていくのか、と考えたとき、ガザ・イエメン情勢が持つ意味が浮かび上がってきます。

西アジアの近未来を想像してみましょう。

  • アメリカの退場で不和の種は激減
  • 「国民国家」という仕組みの(地域への)不適合が顕在化し、紛争・混乱を経てアラブ統一国家の樹立に向かう可能性
  • イスラム諸国とイスラエルの関係が大問題に。中国等の仲介による和平or戦争を経て、新たな秩序の構築へ

民主化革命を成功させ、パレスチナ人のために敢然と戦うイエメンは、「アメリカ後」の世界で特別に重要な国(地域)となり、世界を動かしていく可能性があります。なぜか。

アラブ諸国の中で、軍事・外交・経済政策の面で、アメリカの影響力を完全に排除できている(自主独立を保持している)国は、じつは、革命後のイエメンしかありません。

治安・軍事面でアメリカに依存してきた国々の政府(多くは世襲の君主制です)が、本物の民主化革命に怯え、自国民との関係を構築し直さなければならないのに対し、政府と国民が一丸となって、サウジ、アメリカを駆逐し、イスラエルと戦ってきたイエメンは、貧しくても悠然としていられるでしょう。

パレスチナの大義のために、国家として正々堂々と戦ったイエメンは、アラブの人々の間で尊敬を受け、国際社会においても、名誉ある地位を得るでしょう。

国際社会からの支援を得て復興を遂げた後、イエメンは、アラブ圏の中心となり、発展途上にあるアフリカの国々の先頭に立って、次の世界を率いていくのではないでしょうか。

アメリカは倒れ、西側は弱体化し、中国やロシアが力技で新たな世界秩序の基礎を作った後、大々的に再編された西アジア・アフリカが新しい形の世界の進歩をもたらしていく

ガザ危機に接した各国の行動とイエメンの大活躍は、そのような明るい未来を見事に映し出している。私はそう感じています。

人口動態も私が明るい展望を抱く根拠の一つです
「アメリカが倒れ・・」のくだりが唐突に感じられた方はこちらの連載をご覧ください。

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ガザとイエメン
– 「フーシ派」は何と闘っているのか-

目次

1 革命のイエメン

イエメンはいま革命の只中にある。誰もそんなことを言う人はいないが、そうなのだ。CIAが仕組んだ「カラー革命」なんかとは違う、フランス革命と明治維新を足して2で割ったような本物の市民革命だ。

イエメンは西アジアの中でもっとも近代化が遅れた国で、20-24歳の男性の識字率が50%を超えたのは1980年である(↓)。彼らは、日本の150年前、フランスの250年前くらいの時期を迎えているわけなので、いまが市民革命の真っ只中というのは、人類史の過程として全く正常といえる。

イスラム諸国の近代化(トッド/クルバージュ『文明の接近』(藤原書店、2008年)31頁より)

世間では、イエメンはいま「世界最悪の人道危機」に陥っていて、その原因は内戦であるとされている。私の調査によれば、それは真実ではない。真実はこうだ。

イエメンに攻撃を加え、国境封鎖までして、「人道危機」を引き起こしているのは、イエメンの革命を阻止したい外国の勢力である。イエメンで起きているのは、革命のイエメンに対して外国(サウジ、アメリカほか「国際社会」)が仕掛けた干渉戦争なのである。

しかし、いったいなぜ、近代化において先行しているはずの諸外国は、そんなにまでしてイエメンの民主化を妨害しなければならないのであろうか。

イエメン情勢に深く関わる勢力は、サウジ、アメリカ、IMF/世界銀行。私にとっては「基軸通貨ドル」の総復習のような事例だった。

2 イエメンの旧体制(アンシャン・レジーム)

(1)イエメンの近代化

イエメン革命の中心地は北部、首都サナア周辺の山岳地帯である。この地域は、859年以来、ザイド派イマーム(宗教指導者)が王として統治していた。

Northern Yemen (Photo by aisha59, available at Flickr.)

しかし「歴史」でも書いたように、イマーム=国王が安定した中央集権を実現していたわけではないという点は重要である。イエメン北部には部族単位の地域共同体があって、その長が大きな力を持っている。国王は、彼らの協力を取り付けなければ、決して国をまとめることはできなかったのだ。

オスマン帝国の支配を受けた時代にも、北部地域はオスマン帝国への抵抗を続けた。ということは、その時期も、イマーム=国王がいて、部族長が治める地域共同体があるという国の基本構造が失われることはなかったということである。

イエメン史の中心にはいつもこの北部地域の部族社会がある。この地域を中心に、市民革命に至る近代化の歴史を描くと、その過程は以下のようにまとめることができる。

1️⃣イエメン王国の成立(1918):オスマン帝国からのザイド派イマーム王国の独立

2️⃣イエメン・アラブ共和国の誕生と確立(1962-68):イエメン革命(1962)によって共和国が成立。内戦を経てザイド派イマーム王朝が終焉を迎え、共和政体が確立

3️⃣強権的リーダーによる近代化(1968-2012):共和国の確立後も政権交代は主にクーデター、強権的なリーダーの力で近代化が進められた。ハムディ政権(1974-1978)の後に長期政権を確立したのがアリー・アブドッラー・サーレハ(Ali Abudullah Saleh 1978-2012)。

このサーレハの時代こそが、現在の革命にとっての旧体制(アンシャン・レジーム)である。

(2)サーレハ政権末期

サーレハは毀誉褒貶(というか毀と貶)の激しい人物だが、アメリカやサウジの意向で政権を追われた人物であるから、その全てを真に受けることはできない。彼の任期全体についての概観は現在の私の手には負えないので、政権末期の状況を中心に、要点を確認しよう。

2004年アメリカ国防総省でのサーレハ(wiki)

①サーレハと石油

1940年頃には石油生産を始めていたサウジなどと異なり、イエメンが産油国となったのは1980年代に入ってからである(おそらく1985年頃)。

サーレハ大統領は、長年続いた内戦からの国家再建のために石油・ガス開発に取り組み、石油開発を成功させて、経済を活性化させた。

そこまではよかったのだが、サーレハは、分裂含みのこの国をまとめていくにあたって、地域や勢力間の利害調整を行い、共通の基盤を形成するという根気のいる仕事に取り組む代わりに、北部の部族長やら、南部の分離派勢力、対立する議員を、石油利権で懐柔するという安直な方法に頼った。

国の経済についても、持続的な発展の基盤の上に、近代国家としての仕組みを成り立たせるのではなく、公務員の給与から施設の整備まで、すべてを石油収入に依存した。

サーレハは、石油利権や、1980年代に急増した外国からの開発資金をほしいままに分配することで、自らの権力を固めつつ、イエメンを石油(と外国からの資金)なしには成り立たない、不安定な国家に仕立てていった。

この記事を大いに参考にしました

②サーレハとアメリカ:湾岸戦争の経験

サーレハ政権は、就任当初から、外国からの開発資金を積極的に受け入れる政策を取った。石油開発もおそらくアメリカなどの資金であろう(調べていません)。

ただ、その頃のサーレハが「親米」であったかどうかはよくわからない。サーレハは湾岸戦争の際に中立の姿勢を保った(要するにアメリカ側に付かなかった)ことで知られている。このことから推察するに、当初のサーレハは、ごく普通に、国家建設や政権の安定に必要な限度で外国からの資金を受け入れるが、だからといって外国の言いなりにはならない、という気分でいたのではないだろうか。

しかし「是々非々」の常識は「国際社会」には通用しなかった。湾岸戦争でアメリカ率いる多国籍軍側につかなかったことで、イエメンは、アメリカをはじめとする「国際社会」や周辺のアラブ諸国から総スカンを喰らい、外国からの資金は激減、深刻な経済的困窮に陥ったのだ。

このときの経験が、おそらく、サーレハと、のちに革命を率いることになる若者たちの行く先を分けることになる。サーレハの方は、アメリカをはじめとする「国際社会」や湾岸諸国の資金なしに政権を維持するのが不可能であることを悟り、親米・親サウジの現実路線を選択した。他方、若者たちは、アメリカ、サウジの横暴に怒りを募らせ、これに迎合してイエメンの外国依存度をいっそう高めようとするサーレハ政権にも怒りを向けたのだ。

湾岸戦争後の経済的困窮の中、イエメン各地で頻発するようになった反米・反サウジの抗議運動は、政府への抗議運動と重なり、不安な政情の下に、革命の下地を形成していくのである。

③IMF/世界銀行への依存度の増大

イエメンは1990年に南北統一を果たしているが、サーレハ政権への南イエメン側の不信感は収まらず、1994年には内戦が勃発している。内戦はすぐに(2か月)終わったが、経済的困窮の度は増した。 

こうした中、サーレハ政権は、IMF/世銀からの多額の融資と構造調整プログラムの受け入れを決める。多額の開発資金という「毒饅頭」の受け入れは、サーレハの当座の権力基盤を強化し、同時に、GDP成長率を急激に押し上げた。

しかし、「ワシントン・コンセンサス」に忠実なプログラムー公務員数の削減、増税、補助金の削減、金融・資本自由化等ーが、イエメン経済の安定的な成長を阻み、経済の土台を不安定化するものであったことは疑いない。

開発資金の流入による目先の利益を求め、IMF/世界銀行(≒ アメリカ)への依存度を高めるサーレハ政権に、安定した生活基盤を求めるイエメン国民そして「憂国の志士たち」の不信感はいよいよ強まったはずである。

IMF/世界銀行のやり方の問題点についてはこちらをご覧ください。

この(記事の)先の理解のキーになるポイント3点を予め解説しておきます。必要を感じたら戻ってお読み下さい。

公務員:発展途上の国家としては当然のことだが、イエメンでは公務員の存在が極めて大きい。教師、医師、ソーシャルワーカー、建設労働者、各種技術者、警察官などのあらゆる仕事を公務員が担っており、彼らの雇用が維持され、給与がきちんと支払われるということが、イエメン社会にとって決定的な重要性を持っている。IMF/世界銀行の「民営化」方針によって公務員の数が削減されたり、その他の事情で給与の支払いが停止すれば、直ちに社会の緊張・不安が発生する。そういう構造の社会である。

燃料補助金:イエメンが石油によって上げる利益が国民に還元される主なルートは燃料補助金。補助金による安価なガソリン・軽油が多くの国民の生活を支えている(燃料補助金の恩恵を受けていたのは貧困ラインよりも上の人々だったとされている)。

社会福祉基金(the Social Welfare Fund):おそらく1995年以降の支援の過程で世界銀行が創設した基金で、イエメンにおける唯一の社会福祉プログラムだった。資金も全面的に世界銀行が拠出しており、石油が払底してからは燃料補助金(の一部?)もこの基金から支払われていた(公務員の給与もこの基金から出ていたという話もある)。設立当初(1996年)の10万人だった支援対象者は、2000年には100万人を超えていた。社会福祉を必要とする貧困世帯はイエメンの場合、国民の半数近くに及んでいる。つまり、IMF/世界銀行は、社会福祉基金への資金提供(→燃料補助金の維持と貧困世帯への支援)を通じて、イエメンの人々の生殺与奪の権を握る存在となっていたのだ。

④払底する石油

こうした中、外国からの援助(+出稼ぎ)以外の唯一の資金源であり、政治的安定の要でもあった石油の産出に翳りが見え始める。

1980年代にようやく石油産出国となったイエメンの石油生産高は、1990年代後半には早くも減少に転じるのである。

石油が底をついたことで、サーレハの求心力はあからさまに弱まり、権力失墜の過程が始まる。同時に、経済には暗雲が漂い、IMF/世界銀行への依存度はいっそう強まる。

「革命前夜」のイエメンである。

3 革命の端緒:イエメン焦土作戦

(1)アンサール・アッラー(フーシ派)の勃興

世間では一般に「フーシ派」と呼ばれるアンサール・アッラーが勃興したのもこの頃のことである。幕末の日本で「尊王攘夷」が盛り上がったのと全く同様に、北イエメンでは、ザイド派の再興を図り、反米・反イスラエルの機運を高めようとする運動が盛り上がった。ザイド派のウラマーを父に持つフセイン・バドルッディーン・フーシ(1959-2004)が1990年頃に立ち上げた青年信仰運動。それがアンサール・アッラーの起源である。

アンサール・アッラーは基本的に生真面目な若者たちの集まりであったと私は思うが、政権側から見て、アンサール・アッラーの勃興が「脅威」と感じられたことは疑いない。

イエメン史を通じて基幹的な政治的影響力を手放したことのない北部ザイド派地域から出た運動であること、サーレハの提供する各種利権に懐柔された部族長たちの不甲斐なさに不満を抱く若者たちの運動であること、加えて、イエメンは出生率が低下を始めたばかりの時期、つまり、若年人口極大化(ユースバルジ)の時期に当たっていたこと(↓)。

サーレハ政権にとっての脅威は、政権と蜜月の関係にあるサウジやアメリカにとっての脅威でもある。2004年にフセイン・バドルッディーン・フーシがイエメン当局に殺害されて以降、反対勢力には「フーシ派」と呼ばれるようになったアンサール・アッラーは、こうして、明確に、国際社会の「敵」と位置付けられるようになった。

これは2020年のピラミッドですが、35年分ずらして見ると、ユースバルジ(若年人口の団塊)が一層顕著であることがわかります。

(2)イエメン焦土作戦(Operation Scorched Earth 2009)

これもほとんどどこにも書いていないのだが、アンサール・アッラーが率いる現在の革命の端緒といえるのは、2009年にサーレハが実施したイエメン焦土作戦(Operation Scorched Earth 8月-2010年2月)である。

イエメン北部サーダ(Saada)で発生した政府への抗議運動を口実に、イエメン政府とサウジアラビアは北部ザイド派地域に対する合同軍事作戦を展開した。

イエメン軍の地上部隊は北部に散らばるアンサール・アッラーの拠点を、サウジ空軍は部族勢力の居住地域を執拗な空爆で攻撃。数ヶ月に渡る作戦で、北部住民を中心に8000人以上のイエメン人が死亡、50000人以上が強制退去させられたという。

サーレハがサウジと組んで行ったこの作戦は、当然のことながら、イエメン中の人々を激怒させた。貧しく若い国民にとって「敵」に近いのはどちらかといえばサーレハやサウジであって、アンサール・アッラーではない。イエメン政府でありながら、サウジと組んでの「焦土作戦」とは何事か。

こうして、人々の心は政府から離れた。長年サーレハを支えてきた部族勢力、ザイド派、そして南部の分離派運動の担い手までもが、サーレハの非道なやり方に怒り、アンサール・アッラーとの連帯を示し、反政府で団結した。

この作戦を機に、イエメン全土で、政府側と反政府側が散発的に交戦する内戦状態が始まった。北イエメンではアンサール・アッラーとサーレハ政府が、南イエメンでは分離派とAQAP(アラビア半島のアルカーイダ)が、1年近くに渡って戦闘を繰り広げた。

(3)「焦土作戦」の背景:世銀レポート

イエメン焦土作戦は、アンサール・アッラーの反政府運動を鎮圧するための軍事行動と説明されるのが一般的であるが、その真実性はかなり疑わしい。

この時期、イエメン政府とサウジアラビア、そしてIMF/世界銀行(≒ アメリカ)には、イエメン北部を「焦土」にしたい明確な理由があったからだ。

イエメンにおける石油の将来が暗いことを知った世界銀行は、新たな投資・開発の対象として、イエメンの鉱物資源とその開発状況に関する調査を行った。

世界銀行「イエメン 鉱物開発部門の調査報告(2009年6月)」(Yemen Mineral Sector Review, June 2009)の中で、執筆者は、イエメンがサバア王国(潤沢な金の産出で知られていたらしい)の地であることに触れ、「イエメン西部がそれらの金の産出源であることが明らかになっているにもかかわらず、近代以降、金の採掘がほとんど行われていないのは驚くべきことのように思われる」と述べる。

その同じレポートの中で、世界銀行は、イエメンの鉱物部門が投資先として非常に有望であることを示しつつ、投資および開発にとって脅威となりうる要素として以下の2点を挙げているのだ。

・イエメン北部の反乱は投資家の国に対する印象を悪化させる。
・部族の土地では資源へのアクセスが困難である可能性がある。

このレポートが公表された2ヶ月後、イエメン政府とサウジアラビアは「焦土作戦」を実施した。

彼らが、1️⃣鉱物資源へのアクセスを容易にし、2️⃣アンサール・アッラーを叩く、という一石二鳥を狙っていたのだとしたら、作戦は1️⃣については失敗、2️⃣については逆効果に終わったことになる。

甚大な被害を出したにも関わらず、政府は勝利を宣言することはできなかった(1️⃣は失敗)。それどころか、全国民を敵に回し、革命の導火線に火をともすことになったのだ。

4 前哨戦:イエメン尊厳革命(2011)

(1)イエメンに到達した「アラブの春」

https://en.wikipedia.org/wiki/Yemeni_Revolution#/media/File:Yemen_protest.jpg

2010年12月にチュニジア、2011年1月にエジプトに到達した「アラブの春」の波を受け、イエメンでも学生を中心とするデモが始まった。

学生の要求は当初は失業、経済、汚職に関するものだったというが、要求はエスカレートし、彼らはやがてサーレハ大統領の辞任を要求するようになった。

サーレハはいつも通りの強硬な対応を取り、軍の鎮圧によって2000人以上の市民が死亡、数百人以上が負傷した。

決定的な転機として知られるのは「変革広場(Change Square)の虐殺」である。サーレハは、学生たちがサナアの大モスクから金曜礼拝を終えて出てきたところを軍に実弾と毒ガス弾で狙い撃ちさせ、90人の学生のうち52人を死亡させたという(生存者の約4割は脳障害等の傷害を負った)。

この事件の後、軍のトップであり長年イエメンのナンバー2と目されてきたアリー・ムフセン・アブダッラー(Ali Mohsen Abdullah)が公式にサーレハ政権からの離反を表明し、サーレハの辞任は避けられない情勢となった。

・ ・ ・

というのが、一般に言われている筋書きなのだが、どうでしょう。私はこれをその通りに受け止めることができない。

学生がデモを始めたところまでは、自発的な動きかもしれない。しかし、その後、彼らがサーレハの辞任を要求するようになるまでの間に、外国勢力(アメリカが中心)の介入があったのではないだろうか。

2011年のデモについては、イギリスの監督による映画「気乗りのしない革命家」があって、学生たちがツイッターによるエジプトから指示を受けながらデモを実行する様子が映されているという(私は見ていない)。

さらに、このデモで負傷した息子を抱き抱える女性を撮影した写真が、2012年の世界報道写真大賞に選ばれている。

その上、「尊厳革命(the Yemen Revolutionary of Dignity)なんていう立派な名前を付けられて。

どう見ても怪しい、と私は思う。

(2)サーレハの辞任

約10ヶ月の抗議運動の後、2011年11月にサーレハ大統領は正式に辞任するのだが、これを「民衆の勝利」と評価してよいのかはわからない。

なぜかというと、サーレハが辞任を約束したのは、2011年6月に大統領官邸のモスクで謎の爆弾事件が起き、身体の40%の火傷、頭部負傷、内臓出血で死にかけて運ばれたサウジアラビアの病院で、当時のオバマ政権の国土安全保障・テロ対策大統領補佐官で後にCIA長官となったジョン・ブレナンと面会した後のことだからだ。

尊厳革命でサーレハをめぐる情勢が悪化して以来、サウジアラビアをはじめとするGCC(the Gulf Co-operation Council:湾岸協力理事会)諸国は、サーレハに対する早期退陣を説得していた。

サーレハは、GCCが仲介する権力の平和的移行のための協定への署名を繰り返し拒否していたが、爆破事件の2週間後、オバマ大統領からの書簡を携えてサーレハ大統領と面会したブレナンは、GCCが仲介する合意に署名し辞任するよう要求したという(以上アルジャジーラ)。

結局、サーレハは、サウジの事実上の国営メディアであるアル=アラビーヤが生中継する中、リヤドのアル・ヤママ宮殿で合意に調印(2011年11月23日)。身柄の保証や訴追免除等を条件とした権力の移譲に合意した(GCCイニシアチブ)。

https://www.cbc.ca/news/world/yemen-president-agrees-to-step-down-1.990428

(3)「国際的に承認された」新政府:傀儡政権の誕生

サーレハの後、代行を経て大統領に就任したのは、アブド・ラッボ・マンスール・ハーディである。

2013年のハーディ(これも場所はアメリカの国防総省)

彼は南イエメンの出身だが、同じく南部出身の副大統領(アル・サーレム・アル=ビード)が1994年の内戦で敗北した後、その後任として副大統領になった。以来、一貫して、サーレハの片腕であった人物である。

ハーディは、IMF/世界銀行への依存度を高める政策においても、サウジと組んでのイエメン焦土作戦の実施においても、サーレハの共犯者であった。したがって当然、抗議運動に参加したイエメンの民衆は彼の大統領就任を歓迎しなかった。

サーレハを辞任に追い込み、ハーディに跡を継がせるというこの一連のプロセスの筋書きを書いたのは国連所属の外交官でイエメン特使(2011-15)を務めたジャマル・ベノマール(Jamal Benomar)だとされている(本人が2021年のニューズウィーク誌に書いているという)。

それにしても、「尊厳革命」と(西側に)持て囃された反政府運動の末に辞任した大統領の跡を、長年連れ添った副大統領に継がせる、というのは一体どういう筋書きなのか。

「決まっている」と私は思う。

サーレハ政権末期、サウジやアメリカに代表される「国際社会」とサーレハ政権の利害は一致していた。「現実路線」を選択したサーレハは、外国からの資金を積極的に受け入れ、構造調整プログラムも大人しく実施したし、IMF/世界銀行(≒ アメリカ)やサウジ、UAEが推進したい鉱山開発のためには、自国民を犠牲にすることすら厭わなかった。

しかし、その「焦土作戦」は、予想外の反発ーアンサール・アッラー以外の勢力も一丸となって反対するというーを生み、事実上、サーレハの下で開発を進めることは不可能な状況に陥った。

そこで、アメリカ、サウジなどの「国際社会」は、すべての責任をサーレハに押し付け、何もかも承知しているハーディを後釜に据えた。

はっきりさせておこう。

ハーディの大統領就任によって、イエメン政府は本物の傀儡政権になった。曲がりなりにもイエメン共和国の正当な大統領であったサーレハと異なり、ハーディ、そして2022年4月にその後を継いだアリーミー(大統領職は廃止され、大統領指導評議会議長)が率いる「国際的に承認された」イエメン政府は、もはや、イエメン国内にはまったく支持基盤を持っていない。「国際社会」だけが支持する政権なのである。

5 革命本番へ(2014年7月〜)

(1)引き金を引いたIMF/世界銀行

本物の革命のスタートは2014年7月。イエメン社会にはすでにそのエネルギーが満ちていた。しかし、2014年に7月に革命が始まるよう仕向けたのはIMF/世界銀行である。

世界銀行を経由したイエメン政府への融資は、ハーディの着任以降急増していた。しかし、2014年1月、政府は融資に対する基本手数料の支払いができなくなり、(おそらく融資が中断されて)政府は資金難に陥った。公務員に対する給与の支払いは停止され(1月〜)、社会福祉基金の資金もなくなった(代替するセーフティーネットは存在しなかった)。他になすすべもなく、政府はIMFに手数料支払いのための援助を求めた。

2014年5月、IMFとイエメン政府は、政府が要請した5億6000万ドルの融資について協議した。IMFはイエメン政府に燃料補助金を削減し、燃料価格を引き上げて歳入を確保するよう要請した(債務の返済に充てるため)。ハーディは、融資の条件として2014年10月から段階的に燃料補助金の削減を行うことを約束したが、IMFは納得せず、より早期に燃料補助金の削減を行うよう圧力をかけた。

この時点で、IMF/世界銀行は、燃料補助金がイエメン社会にとって極めてクリティカルな事項であること、セーフティーネットの構築なしに燃料補助金の削減=燃料価格の引き上げを行えば、イエメンに大きな社会不安が発生することを十分に承知していた(世界銀行のプロジェクト評価文書に記載がある)。それにもかかわらず、IMFは、今すぐ、思い切った燃料補助金削減=燃料価格の引き上げを行うよう、ハーディに迫ったのである。

(2)「名なし」の抗議運動が勃発

2014年7月、いまだ公務員の給与が支払われない中、政府は燃料価格の引き上げを行った(ガソリン価格60%、軽油価格95%値上げ)。燃料価格の高騰でパンの輸送費は一晩で20%上昇、人口の60%を占める農業従事者は農機具を動かす燃料を賄えなくなり失業が蔓延、商品は不足し、市場は閑散とした。

案の定、2011年を超える規模の抗議運動がイエメン政府を襲った。首都サナアにおける学生主導の運動であった2011年の「尊厳革命」と異なり、今度は各種労働者、部族勢力、貧困層、学生など、あらゆる人々が、イエメン全土で立ち上がった。

それにもかかわらず、2014年に始まった抗議運動には「尊厳革命」のような名前がついていない。理由は明らかだと思われる。「国際社会」(アメリカ、サウジほか)にとって、彼ら自身の傀儡政権に対する抗議運動は(少なくとも建前上は)不都合なものである。美しい名前など付けて称賛している場合ではない。

しかし、将来、イエメンが自律的な秩序を回復した暁には、こちらの運動こそが、長く困難な革命の始まりを告げた事件として記憶されることになるだろう。

8月22日サナア アンサール・アッラーの支持者が傀儡政権の辞任を求めるデモの最中に祈りを捧げる様子(Reuter

(3)革命政権の樹立

抗議運動の中心にいたアンサール・アッラーは、2014年9月、首都サナアを掌握した。

ハーディの政府は一切抵抗せず(怪しいですね・・)、国連の仲介でアンサール・アッラーとの間で協定を結び(the Peace and National Partnarship Agreement)を結んでサナアを共同統治するという体裁を確保した。しかし、軍事力を伴う実際の統治権がアンサール・アッラーに移ったことは「誰の目にも明らかだった」。

アンサール・アッラーは2015年1月下旬に大統領府・官邸と主要軍事施設、メディアを掌握。ハーディ大統領と首相は辞任を表明し、2月6日、アンサール・アッラーが新政権の樹立を宣言した。

(4)「内戦」名下の干渉戦争ー第二次サウジ-イエメン戦争

これを受けて、2015年3月、サウジ率いる有志連合軍(the SLC:Saudi-Led Coalition)は(なんと!)イエメンへの空爆を開始する。第二次サウジーイエメン戦争の始まりである。この戦争を「第二次サウジーイエメン戦争」と呼ぶ人を私は今のところ見たことがないが、どう見てもそれが実情なので、そう呼ぶことにする。

サウジによるイエメンへの攻撃は、イエメンで起きている革命に対する純然たる干渉戦争である。それなのになぜ、世間はこれを「内戦」と呼ぶのかといえば、「国際社会」が、予め、これを「内戦」に見せかけるためのお膳立てをしておいたからである。

傀儡政権のハーディは、2015年1月に辞任を表明した後、2月末になってこれを撤回する意向を表明し、自分たちこそが正統なイエメン政府であると改めて主張した。直後に(3月)彼はサウジに逃亡し、サウジに庇護される形でリヤドに亡命政府を置いたのだ。

これによって、本当は「サウジ VS サナア政府(アンサール・アッラー) 率いるイエメン」(サウジ・イエメン戦争)である戦争の構図は、「国際的に承認されたイエメン亡命政府 VS サナア政府」の戦い(内戦)に書き換えられた。以後、サウジがイエメンに対して行う蛮行は、すべて「内戦」への介入(「正規の政府軍への支援」)と位置付けられることになったのである。

確認しておきたい。「国際的に承認された」政府のイエメン国内の支持基盤はゼロである。したがって、ハーディ傀儡政権 VS アンサール・アッラーの戦いはいかなる意味でも「内戦」ではない。実態は純粋なサウジ(ないし「国際社会」) VS イエメン の戦争なのだ。

(5)無差別爆撃と国境封鎖ー「史上最大の人道危機」へ

2015年3月、サウジはイエメンの空爆を始めた(Operation Decisive Storm:決意の嵐作戦)。彼らの攻撃は最初から無差別爆撃で、民間人の居住地域が破壊され、多くの犠牲者が出た。

サウジ連合軍は、当初から、国連の承認を取り付けて、ある程度の国境封鎖も行なっていたようだが、2017年11月4日、サウジアラビアの空港を狙ったイエメン国内からの弾道ミサイル発射が確認されると(サウジは「迎撃した」と発表)、国境封鎖の範囲をイエメン全土に拡大した。

国連はすぐに、サウジ連合軍による無差別爆撃と国境封鎖が、イエメンにどれほど破滅的な影響を及ぼすかに気付き、注意を喚起した。

国連の専門家パネルは、サウジが意図的にイエメンへの人道援助物資の搬入を妨害していることを指摘し、何百万の市民を飢餓に陥らせるおそれのある措置の合理性に疑問を呈していたし、国連の人道問題担当長官も、国境封鎖が続けば、何百万人が飢餓によって死亡し、世界が数十年来経験したことのないレベルの人道危機が発生すると指摘した

指摘はそのまま現実となった。2021年12月の国連開発計画の報告書によれば、2015年から2021年12月末までの死者は37万7000人に達する見込みであり、死因の4割は爆撃などの戦闘関連、残り6割は飢餓や感染症であるという。そして、これを書いている2024年2月、国境封鎖はまだ解除されていない。

こういうことである。

イエメンにおける「世界最悪の人道危機」は、内戦の激化によってひとりでにもたらされたものでは決してない。

サウジは、最初から、民間人の犠牲を全く厭わず、イエメンの国土を破壊することを意図して攻撃を開始し、それを全面的に支持・支援したアメリカは、犠牲が増え続ける中でも、軍事的支援の手を緩めることはなかった。

国連もまた(アメリカが支援している以上当然ではあるが)、サウジの攻撃を止めるための有効な手立てを講じることはなかった。

でも、なぜ?

サウジの方から行こう。

6 アンサール・アッラーとサウジの和平交渉

(1)サウジはなぜ戦争を起こしたのか

「決意の嵐作戦」を指揮したのは、ムハンマド・ビン・サルマーン王太子(当時国防大臣)とされている。サルマーンは、数日でサナアを奪還できるという見通しで作戦を始め、泥沼にはまった。

若きプリンス、ムハンマドはなぜイエメンに介入したかったのだろうか。

2つの理由があったと考えられる。1つはサウジ(というか湾岸諸国)固有のもので、もう一つはアメリカとの関係に関わるものだ。

サウジは1957年に男性識字率50%の時期を迎えているが、民主化革命を経験していない。

幕末日本に例えると、ムハンマドは徳川慶喜である。1985年生まれの彼は、民主化 ≒ 近代化の流れが不可避であることも、アメリカ頼みの国家経営が盤石でないことも理解しているであろう。とはいえ、せっかく王子に生まれ、王太子の地位を手に入れたのだから、その地位を生かして活躍したい。革命で倒される役回りなどまっぴらごめんだ。

そういうわけで、隣国イエメンで本格的な革命が始まった時、ムハンマドはまず、それを潰さなければならなかった。「遅れた」国であるはずのイエメンの革命は、サウジに波及し、彼の地位を危うくする可能性が大であるからだ。

加えて、イエメンへの介入は、アメリカとの軍事的・経済的な相互依存(ないし共存共栄)の関係を強化し、サウジの政権基盤の当面の安定にもつながるはずだった。

2009年以来、「国際社会」は、サウジやUAEを表に立てたイエメンでの鉱山開発に並々ならぬ意欲を示しており、イエメンが自立し、コントロールが効かなくなることをおそれている。サウジとアメリカの利害は完全に一致しているのだ。

アメリカの全面的な支持と支援が約束されている以上、イエメンでの勝利は容易であり、確実だ、とムハンマドは思ったであろう。革命勢力を潰し、傀儡政権を維持できれば、イエメンはサウジの属国同然となる。その華々しい成果は、サウジ王室への国民の支持をつなぎ止め、民主化への流れを抑えるのに役立つはずだ。

そう考えたムハンマドは、電撃的勝利を夢見て「決意の嵐」を吹かせたが、アンサール・アッラーはしぶとかった。そこで、ムハンマドは、イランに責任を転嫁し(「背後で支援している」と攻め立て)、国境を封鎖しあらゆる物資の供給をストップするという非情な手段まで動員した。それでも、サウジ連合軍はアンサール・アッラーの勢力拡大を抑えることができず、イエメン全人口の70-80%の居住地域がアンサール・アッラーの支配下に入る事態となった。

ここまで来ると、サウジとアメリカの利害は分かれる。アメリカにとってイエメンそのものは取り立てて重要な国ではない。イエメンの開発がうまくいかないなら他に行けばよいだけだ(他国が取りにくれば別)。しかし、サウジにとっては、イエメンは国境を接する隣国だ。激しい憎悪を掻き立てて、そのままにしておくわけにはいかない。

(2)単独・直接の和平交渉へ

バイデン政権が始まり(2021年)アメリカからの武器供与や後方支援が縮小すると、サウジは出口を探し始める。

停戦に向けた動きはいろいろあったようだが、大きく報道されたものとしては、国連の仲介による2022年4月の停戦合意があった。しかし、この合意は結局は機能しないまま終わった。

より重要なのは、2023年1月に、国連やその他の関与なしに、アンサール・アッラーとサウジの直接交渉が開始されたことである。

こちらを参照しました。

2022年12月、アンサール・アッラーは会談したオマーンの代表団にイエメン北部全域に設置されたミサイル発射基地の地図を見せ、彼らがサウジアラビア域内、具体的にはリヤド国際空港をいつでも攻撃できる態勢にあることを伝えるとともに、サウジ当局への伝達を依頼。オマーン代表団はアンサール・アッラーが攻撃可能な標的を示した地図を見せてサウジを説得し、サウジは直接交渉に臨むことを決める。

2023年1月の交渉の席では、アンサール・アッラーは同様の情報をサウジに直接伝えた上、サウジがイエメンの封鎖を解除しないなら、サウジの空港が封鎖されることになると述べたという。サウジは和平の必要を認め、封鎖の解除・公務員への給与支払を条件に含めた和平の実現に前向きな姿勢を示した。

2023年1月 サナア サウジ連合軍の国境封鎖に対する抗議デモ
スローガンは「Blockade is War!(国境封鎖は戦争だ)」

https://twitter.com/syribelle/status/1611468741128212501?s=21&t=nkoK3iQUHJ20Ik_BJLG4oQ (デモの動画が見れます)

この直後、西アジア情勢に大きな動きがあった。サウジとイランの外交関係正常化である(2023年3月・仲介は中国)。当時の私には考えが及ばなかったが、今思えば、サウジをイランとの関係改善に向かわせた要因の一つは、イエメンであったかもしれない。

アンサール・アッラーを裏で操っているのがイランだというのは嘘である。しかし、両者が良好な関係にあることは事実なので、サウジが、イランを間にはさんで、イエメンと安定した関係を構築することを考えたということは十分にありうる。

ともかく、サウジとイランの関係正常化は大事件だった。これを契機に、サウジとイエメン、サウジとシリアの関係が改善に向かう可能性があったし、立役者であった中国はパレスチナーイスラエルの和平の仲介にも積極的な意向を示していた。

ひょっとして、西アジアについに平和が訪れるのか、という明るい展望が開けたそのとき、ガザ危機が起きたのだ。

5 ガザとイエメン

(1)ガザ危機とアメリカ

ガザ危機へのアメリカの関与は、基本的に、サウジによる「決意の嵐」作戦への関与と類似のものだと私は思う。

つまり、サウジにはサウジ固有の動機があり、イスラエルにはイスラエル固有の動機がある。アメリカはそれを後押しするだけだ。

しかし、アメリカという覇権国家の全面的な支持と支援は、イスラエルやサウジといった普通の国家が本来なら成し得ないことを可能にしてしまう。加えて、アメリカは、自らの許可を得てから実行するよう含めておくことで、実行のタイミングをほぼ完全にコントロールできるのだ。

サウジがイエメンに「決意の嵐」を吹かせ、イスラエルが(念願の!)パレスチナ人の駆逐に乗り出したのは、アメリカがゴーサインを出したからである。彼らの攻撃の規模とタイミングを決めたのはやはりアメリカだと私は思う。

では、なぜ、アメリカはこのタイミングで、イスラエルに「Go!」のサインを出したのか。

第二次サウジ・イエメン戦争と同様、背景として資源の問題があったことは間違いないと思うが(イエメンは鉱物(金とか)、ガザはガス田)、タイミングを決めたのは、もしかしたら、西アジアの和平の動きであったかもしれない。

軍事的支援によって西アジアの「友好国」との関係をつなぎ止めているアメリカは、そのプレゼンス(というか支配力)の維持のため、地域の軍事的緊張をつねに一定以上に高めておくよう腐心している。平和になって、居場所がなくなっては困るのだ。

そのための火種なら、ガザに用意されている。いつ、どんなときでも使えるように。

(2)イエメンの決意

こうして(多分)起きたガザ危機に、イエメンの人々が即座に強い反応を示したのは当然といえる。

2014年以来サウジの無差別爆撃を受け続け、2017年からはほぼ完全に国境を封鎖されたイエメンの状況は、長年狭い場所に押し込められてイスラエルからの度重なる攻撃を受け、2008年からは国境封鎖の強化で基本物資もロクに手に入らなくなっていたガザとうり二つだった。

10年前にイエメンを襲い、アンラール・アッラーが長く激しい戦いを経てようやく撃退しようとしている「決意の嵐」が、同じ敵(アメリカ)の手によって、今度は、同じアラブ・イスラム地域の仲間であり、同じ苦境を戦ってきた同志であるガザのパレスチナ人に襲い掛かり、彼らを殲滅しようとすらしている。年齢中央値19歳、革命の只中にあるイエメンが行動しないはずがない。

彼らにとって、紅海におけるアメリカ・イギリスとの戦いは、もちろん、パレスチナの解放のための戦いであり、イエメンの自由と独立のための戦いである。しかし、それだけではない。

欧米諸国が西アジアの歴史の中で果たしてきた邪悪な役割を知らない人は(西アジアには)いない。しかし、第二次大戦後、覇権国アメリカと結ぶことで利益を得てきた諸国は、それを殊更には言い立てないようにしてきたし、いま現在、アメリカが行なっている各種策謀も見ないことにしている。

アメリカに敵視され、蹂躙されている国の人々には、現在の世界においてアメリカが果たしている邪悪な役割が、これ以上ないほど鮮明に見えているだろう。

同時に、アメリカに従属することで利益を得てきた国々の狡さ、醜さ、不甲斐なさも、正すべき不正と見えているに違いない。

彼らにとって、アメリカ・イギリス・イスラエルとの戦いは、決して、パレスチナやイエメンだけのための戦いではあり得ない。世界をアメリカから解放し、道理の通った新しい世界を作るための戦いなのだ。

おわりに

これを書いている2024年2月下旬、アンサール・アッラーとアメリカ・イギリス・イスラエルの戦いはますます本格化している。

しかし、アンサール・アッラーはまったく怯んでいないし、彼らの決然とした行動により、サナア政府へのイエメン国民の支持は拡大しているという

パレスチナとの連帯を示すデモ(2024年2月23日)https://www.ansarollah.com/archives/657639

こちらでデモの動画が見られます。

われわれは、神を礼賛するーーわれわれに、イスラエルやアメリカと直接対峙するという偉大なる祝福、偉大なる名誉を与えて下さったことに。

Abdul-Malik al-Houthi(出典

攻撃をエスカレートさせる道を選んだアメリカは、すぐに後悔することになるだろう

Hussein al-Ezzi(出典

強がりと見る向きもあろうが、私はそうは思わない。2014年以来の過酷な状況に耐え、革命を実現させた彼らが、あと数年の戦いを持ちこたえられない理由がないからだ。

1、2年がまんすればアメリカは勝手に潰れる(要するに彼らが勝つ)。今回の戦争では、大義は明らかにアンサール・アッラーの側にある。「アメリカ後」の世界を担う次代の「国際社会」は、彼らの政府を正統と認め、惜しみない支援を与えるだろう。

当面の苦境を乗り切り、人口を増やしたイエメンは、数十年後、世界の中心に返り咲いているのかもしれない。

(おわり)

カテゴリー
世界を学ぶ

イエメンの大まかな歴史

目次

はじめに

イエメン情勢について学んでいると、南北の対立とか、そのときどきの為政者と部族勢力の対立といった要素が繰り返し出てきて「なんか複雑でよくわからない」という印象を持ちやすい。

しかし、背景を知ればそれほど複雑な話でもないので、大まかな流れを追いつつ、要点を説明していきたい。

下の図表のうち、1990年頃から後(革命期)は次回に回し、この記事ではそれ以前の部分を扱う。

○ イエメン国の歴史(図表) 

 

1 古代からイスラム化まで

サバア王国、ヒムヤル王朝などの古代王朝が栄えた後、7世紀(ムハンマド存命中)にイスラム化。紅海沿岸の平野部がスンナ派、北部の高地一帯がザイド派の地盤として確立していく。

前回書いたように、ザイド派という「非主流」は、ウマイヤ朝、アッバース朝などの中央のイスラム王朝に対抗して生まれたものである。

したがって、イスラム化の後、「平野部がスンナ派、北部がザイド派」で固まったという記述の要点は、ウマイヤ朝やアッバース朝の成立でスンナ派が普及していくアラビア半島の中に、それとは異質の「ザイド派地域」が誕生したという点にある。

ザイド派地域が生まれたことのイエメン史における重要性はいくら強調しても足りない気がする。

何がそんなに重要かというと、ザイド派地域の成立は、ここにイエメンという独立国家の形成を可能にする核が誕生したことを意味するからである。

この後の歴史を通じて、ザイド派の地域は、アラブ地域を席巻するウマイヤ朝、アッバース朝、そしてオスマン朝という正統イスラム王朝に馴染まない、独自のアイデンティティを持つ共同体であり続ける。

だからこそ、イエメンは、1918年という比較的早い時期に独立国家を再建することができたのだし(イエメン王国(1918-))、サウジに呑み込まれることもなかった。

そういうわけで、イエメン史においては、つねにこの北部ザイド派地域が強い存在感を発揮していく。

そして、イエメンの場合、南北対立の根っこにあるのも、北部の存在感の強さに他ならない(→それ以上に複雑なものではない)ように思える。より大きな枠組み(オスマン帝国とか)の中にいる分にはよいのだが、イエメンとして統一国家を形成しようとすると、どうしても、態度がデカく圧の強い北部が支配的となり、それに対して南が反発するという構図が生まれてしまうのだ。

2 ザイド派王朝の成立(859年)

ムハンマドの死後、ウマイヤ朝、アッバース朝の領域に入るが、9世紀、北部にザイド派の王朝が誕生。 

ザイド派のイマーム、ヤヒヤ・アリ・ハーディ(Al-Hadi ila’l-Hagg Yahya)(859―911)が王朝を創設。これが1970年まで継続するザイド派イマーム王朝である。

一般的な地図を見るとこの地域はウマイヤ朝、アッバース朝の版図内であるが、おそらく、その間も、地域勢力として維持されていたということなのだろう。

○ イエメンの権力構造 ー 部族勢力とは何か?

ここで、イエメン史の理解に欠かせないキーワード「部族勢力」について説明しておこう。

ザイド派イマーム王国が誕生し、一応イマームが王として君臨することにはなったが、これによって、ザイド派イマームを中心とする安定した中央集権体制が確立したというわけでは全くない

むしろ、一定の自律性を保った部族単位の地域共同体があって、イマーム=国王はそのリーダーたちをどうにか手懐けて国をまとめる、という感じであったようだ。「部族勢力」とか「部族長」という言葉は、この人たち(およびその共同体)のことを指している。

この「部族勢力」「部族長」は、日本史でいう大名(↓)に近いものと考えると分かりやすい(と思う)。血縁・地縁に基づく共同体の長であり、長い歴史を通じて形を変えながら、そのときどきの為政者の下で、つねに影響力を発揮してきた勢力、という感じだ。

大名とは、本来私田の一種である名田の所有者をいい、名田の大小によって大名・小名に区別された。すでに平安末期からその名がみえ、鎌倉時代には、大きな所領をもち多数の家子・郎党を従えた有力な武士を大名と称した。南北朝から室町時代にかけて、守護が領国を拡大して大名領を形成したところから守護大名と呼ばれたが、守護にかわって新しく台頭し、在地土豪の掌握を通じて一円地行化しを推進した戦国時代の大名は戦国大名とよばれた。こうして形成された大名は、江戸時代に入って近世大名となり、大名領を完成、幕府を頂点とする幕藩体制を完成した。‥‥

日本大百科全書(ニッポニカ)[藤野保]

この部族勢力の政治力・軍事力はなかなかのもので、彼らはつねにイエメン史の動きに大きな影響を与えている。

イエメン内戦でエジプトのナセル大統領を「ベトナム」の泥沼に引きずり込んだのも彼らなら、国王支持から共和制に鞍替えして連立政権に参画し、内戦を終わらせたのも彼らである。そして、いま現在、革命を率いている「フーシ派」も、部族勢力の若者たちなのだ。

https://www.theguardian.com/travel/2009/may/23/yemen-travel-middle-east

3 ポルトガルのアデン支配

1538年にオスマン帝国がポルトガルを攻撃する拠点としてアデン(↓)を一時占領したが、アデンの人々はオスマン人を撃退。敵方のポルトガルを招き入れ、アデンはこの後しばらくの間ポルトガルの海洋貿易ネットワークの拠点として大いに栄えた。

https://www.aljazeera.com/news/2019/9/20/who-are-south-yemens-separatists

4 オスマン帝国の支配ー南北対立の原点

1551年、オスマン帝国が再びやってきてアデンを占領。イエメン全土の支配を狙うが、ザイド派の地盤である北イエメンの人々は抵抗を継続。オスマン帝国に抵抗する北イエメンと帰順した南イエメンの間に亀裂が生じ、緊張関係が顕在化する。

オスマン帝国が侵入し、北部ザイド派地域(北イエメン)以外の人々はオスマン帝国に帰順したが、スンナ派のオスマン帝国を侮蔑し自らの王朝を維持していた北イエメンの人々は決して抵抗を止めなかった。

https://europa-japan.com/states/ottoman-empire/entry1788.html

その結果、国は二分され、発展も阻害され、1880年代後半に大英帝国がやってきた頃には、「寂れた伝説の港湾都市の周囲にある弱体で分裂した国家」に成り下がっていたという。

しかし、自立した国家としてのアイデンティティが保たれたことで、北イエメンは早期に独立国家を形成していくのである。

5 イギリスの支配下に入る南イエメン

◉1839年、イギリスがインド貿易の中継地としてアデン湾を占領。南イエメンは保護領としてイギリスの支配下に入った。

◉1869年のスエズ運河開通やペルシャ湾岸の原油発見でアデンの経済的・軍事的重要性が高まり、1937年にはアデンがイギリスの直轄植民地に格上げ。第二次大戦後にはアデン植民地と保護領を併合して南アラビア連邦を結成させた。事実上のイギリス支配は1967年まで継続。

◉独立した南イエメンはマルクス・レーニン主義の国家(南イエメン人民共和国)となり、1970年にはイエメン人民民主共和国に改称した。

現代のアデン

6 北イエメンの独立:イエメン王国(1918年)

北イエメンでは、オスマン帝国のWW1敗戦が決まった1918年10月30日にザイド派王朝のムタワッキライト王国(通称イエメン王国)が独立を宣言。

ザイド派のイマームで国王のアル=ムワッタキル=ヤヒヤ=ムハンマド=ハミードゥッディーンがムタワッキライト王国(Hashemite Mutawakkilite Kingdom)の独立を宣言。西アジア初の独立アラブ国家の成立となった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/ヤヒヤー・ムハンマド・ハミードゥッディーン#/media/ファイル:Yahya_Muhammad_Hamid_ed-Din.jpg

この国王ヤヒヤは、外国からの干渉を怖れ、極端に孤立主義的な国家運営を行ったことで知られている。ヤヒヤ自身イエメンを出たことはなく、サナア高地を出て紅海を見たことすらないと言われる

ヤヒヤ・ムハンマド・ハミードゥッディーン

その結果、第一次世界大戦後、世界中が近代化を進めていく中で、イエメンだけは発展から取り残され、「前近代」状態が維持された。

そんなヤヒヤだが、1940年代後半には、統治技術や軍事戦略の勉強のために士官学校の学生を海外留学に送り出している(名誉ある40人(the Famous Forty))。行き先はイラク、アメリカ、エジプト。

タイムマシーンで運ばれたかのように前近代から現代に送り込まれた彼らは、世界の現実を見て大きな衝撃を受ける。彼らは、当時の西アジアを席巻していた(エジプト・ナセル大統領が主導した)アラブ民族主義の洗礼を受け、のちのイエメン革命を率いることになるのだ。

https://pt.slideshare.net/MahfujAlam16/crisis-in-yemen-presentationppt

○サウジ・イエメン戦争(1933-1934)

アラビア半島南部では、1918年にイエメン王国が独立した頃(1918年)からサウード家が勢力を拡大、いくつかの領域を統合してサウジアラビア王国を成立させた(1932)。こうした動きに伴い、サウジとイエメンの間でも国境画定をめぐる紛争が起き、ごく短期間の戦闘を経て、サウジが勝利。イエメンはサウジにジーザーン(Jizan)、ナジュラーン(Najran)、アスィール(Asir)等(↓地図の黄色部分)の正式領有を許すことになった。

この戦争は、国王ヤヒヤ、そして国民(とくに北部部族勢力)の双方に大きな影響を与えた。

まず、国王ヤヒヤは、部族勢力があっけなくサウジ軍との戦闘に敗れたのを見て強い危機感を覚え、正式な軍隊の創設、そして国家体制や軍の近代化に動いた(「名誉ある40人」もその一環であろう)。

他方、国民とりわけ北部の部族勢力は、国境エリアの山岳地帯(ヤヒヤや部族勢力の先祖の地であるようだ)をサウジに譲り渡してしまったヤヒヤに不信感を抱いた。

自分たちこそがイエメンの伝統の担い手であると自負する彼らは、数十年ののちに国王を見限る。一部の者(エリートの青年たちだ)は革命を率い、その他の者は、しばらく逡巡した後、共和国政府を支持・参画していくのである。

 

7 イエメン革命:イエメン・アラブ共和国の誕生(1962)

・青年将校の連合軍が蜂起。王宮を襲撃し、王制(イマーム制)の終焉とイエメン・アラブ共和国の誕生を宣言。アブドッラー・アッ・サラール(Abdullah al-Sallal)が大統領に就任。

・国王ムハンマド・アル=バドルは生き残り、彼の下に結集した国王派と共和国派(新政府)との内戦が始まる。

エジプトは新政府を支援しエジプト軍を派遣。これを脅威と見たサウジアラビアは王党派を支援した。

・イエメン内戦は、エジプトのナセルに「私のベトナム」と言わせる長く困難な闘いとなり、第3次中東戦争後にエジプトが撤退した直後の1968年には国王派のクーデターが成功。アッ・サラールの革命政府は倒れ、一時的に王政復古が実現。

・しかし、クーデター後、共和国の第2代大統領に就任したイリアーニは(経緯は不明)、国王側を支持していた部族勢力と共和派の融和を基礎とする新たな連立政権の構築に成功。内戦を終結させ、共和国の基盤を固める。

・国王アル=バドルは敗北を認め「イエメンを救うため」と演説して亡命(1970年)。869年以来のザイド派イマーム王朝が終了した。

北イエメンは、1962年9月26日の革命で、王制が倒れ、共和国に生まれ変わる。民主化革命には違いないが、男性識字率50%超え(1980年)よりもだいぶ前なので、エリートの革命と考えた方がよいだろう。

革命時の国王はヤヒヤを初代と数えると3代目。父でありヤヒヤの息子である2代目が亡くなり3代目のアル=バドルが国王・イマームに就任した直後の出来事だった。 

内戦期のアル=バドル

革命を率いて新政府を樹立した将校たちの多くは「名誉ある40人」などの海外帰国組で、ナセルのアラブ民族主義の影響を強く受けていた。ナセル側も、新生イエメンを重要なパートナーと見て、共和国軍(新政府)を大いに支援した。しかし、この時期はまだ国王に付いていた北部の部族勢力は不屈で、ナセルは、北部の部族勢力の軍事力と、それを支持するサウジのオイルマネーによって「ベトナム」的泥沼に引きずり込まれることになる。

しかし、1967年、第3次中東戦争であっけなくイスラエルに敗北したエジプトは(6日戦争といわれる)、イエメンからの撤退を余儀なくされる。

エジプトの撤退で共和国軍(革命軍)は弱体となり、短期間の王政復古を招いたが、その間に、イリアーニは、ナセル流のアラブ民族主義や社会主義を捨てイスラムに立脚した政府を作ると約束し、1️⃣サウジアラビアにアル=バドルへの資金援助を停止させ、2️⃣北部の部族勢力の支持を取り付けることに成功。

こうして、6年間続いた内戦はついに終了し、イエメンは近代化への道を歩み始めたのである。

なお、ナセル大統領は南イエメンの反英闘争も支援している。南イエメンは反植民地武装組織「イエメンの赤い狼(the Red Wolves in Yemen)が率いた闘争の結果、1967年に独立を勝ち取った(南イエメン人民共和国。1970年にイエメン民主人民共和国に名称変更)。

8 強権的な指導者の下での近代化:サーレハ政権の成立(1978-2012)

その後、北イエメンは、イリアーニ政権(1968-1974)、無血クーデターで政権を掌握したハムディ政権(1974-1977)の下で一定の近代化を果たす。

しかし、ハムディは1977年に暗殺され、その後継者も1年後にブリーフケース爆弾で暗殺。その3日後には南イエメンの大統領も暗殺された。

その混乱の中から、1978年にイエメン・アラブ共和国大統領に就任したのが、「のちにイエメン史上もっとも悪名高い政治家となる」アリー・アブドッラー・サーレハ(Ali Abudullah Saleh)である。 

来日して小泉首相に短剣を贈るサーレハ(2005)http://www.asahi.com/special/07-08/reuters/TKY200711140296.html

サーレハについては、まだあまり詳しいことは書けない。私がイエメンについて調べるときの情報ソースの一人はJoziah Thayerというフリーランスの研究者で、歴史についてもこの人の「History of Yemen Part1」という記事を大いに参考にした(サーレハについての「もっとも悪名高い」の下りもこの記事からです)。

ところが、「Part1」の彼の記述はサーレハ就任のところで終わっていて、続きの「Part2」はまだ出ていないのである。

サーレハは、次回扱う現代史の主要登場人物の一人でもあるので、その部分に関しては信頼できる情報がある(次回書く)。しかし初期のことは何を信じていいか分からないので、「Part2」が出たら補充することを前提に、その他の文献から得た情報で骨格だけを埋めておく(サーレハについてはwikiがかなり詳しい)。

・サーレハ政権は事実上の一党独裁

・南イエメンが(崩壊の過程に入ったソ連からの支援が途絶えて)困難に陥ったことから協議が進み、1990年に南北イエメン統合が実現。国号はイエメン共和国。サーレハはその初代大統領に就任。副大統領は南イエメンのアル=ベイド。

・1993年に総選挙が行われ(投票率95%!)連立内閣が成立したが、政策の不一致から内戦に突入(1994年5月-7月)。

・事実上、北イエメン VS 南イエメンの戦いであった内戦は、スカッドミサイルの飛び交う激しい戦闘の末、北側が勝利。

・その後も国民直接投票による大統領選挙や憲法改正国民投票、第一回地方議員選挙など、いろいろありつつサーレハ政権が継続するが、「内戦終結後も都市部では政治家の暗殺やデモ隊と警察の衝突、地方においても部族間抗争や外国人の誘拐が頻発しており、内政はいまだ不安定」(日本大百科全書 ニッポニカ)という状態が続いた。

おわりに

しかし、こうやってまとめてみると、サーレハ政権の時代は、まったくもって、「幕末から明治ー昭和初期の日本」という雰囲気である。

それもそのはず、この時期のイエメンは、識字率の上昇を基礎とする近代化の真っ最中なのだ。

その意味で、近代化の正常な過程をたどっていたといえなくもないイエメン。彼らは引き続き正常な軌道の上を進み、正真正銘の民主化革命を実現していく。ところが現在、イエメンは「史上最悪の人道危機」の渦中にあるという。いったい、何がどうして、どうなってしまったのだろうか。

(次回に続きます)

イエメンの人口動態についてはこちらをご覧ください。
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イエメンのなりたちと宗教
(付/シーア派とは何か)

先日までの私と同じく「イエメンについての知識はゼロだが言われてみると興味はある」という方に向けて、イエメンを知るために「多分、この辺が重要じゃないか?」と思うところを見繕ってお送りします。

1 イエメンの場所:人類史のど真ん中

まずは地図でイエメンの場所を確認していただきたい(↑)。「世界の果て」という感じがしてしまうのは単なる無知で(私です)、ここは人類史のど真ん中である。

紅海の入り口のところの海峡(バブ・エル・マンデブ海峡という)の現在の幅は約30km。ドーバー海峡と変わらないので人によっては泳げる距離だが、この海峡の幅は、現生人類がアフリカを出たとされる約70000年前には約11kmであったという。そして、イエメンからオマーンにかけての海岸沿いには約70000年前頃から人類が住んでいた痕跡がある(いずれもwiki。出典は不明)。

そういうわけで、有力な仮説は、アフリカを出た人類が最初に到達した土地はイエメンであるとする(↓)。当時湿潤な気候であったアラビア半島は約24000年前に乾燥化が始まり、約15000年前に砂漠となったとされるが、この地域にはつねに人間が住み続けたと考えてよいだろう。

現生人類の母系のミトコンドリアDNAハプログループ(wiki

*7万年前という時期の重要性についてはこちらをご覧ださい。https://www.emmanueltoddstudy.com/before-civilization2/

2 イエメンの中核は北部 

歴史を通じて豊かに栄えたのは北部。現在の首都サナアを含む一帯だ。

サナアは世界最古の都市の一つとされており、おそらくラクダによる隊商貿易が始まった頃から貿易の拠点だった。アラビア半島で史料に残る最古の国家とされるサバア王国(紀元前800-紀元後275)が興ったのもこのエリアである(首都はMarib)。

230年頃の勢力図(wiki)

サナアを含む北西部は、標高の高い高原地帯で、アラビア半島で最も気候に恵まれた地方だという(吉田雄介・日本大百科全書ニッポニカ)。「夏は涼しく、年降水量は400-1000ミリメートルに達し、森林が多く農業に適する」のだ。

古代ギリシャ・ローマの人々はイエメンを「幸福のアラビア(Arabia Felix)」と呼んだ。豊かな香料のためだといわれるが、その源は豊かで住みやすいこの土地にある。

歴史の長いこの地域では、港湾都市アデンも栄えたし、今では廃れてしまったモカ(コーヒーの積地)も有名だ。しかし、今も昔も、イエメンという国家の核を形成しているのは北部である。

北部・北西部・山岳地帯・高原地帯・・ ところで、イエメンに関する文章を読んでいると(書き手によって)「北西部」「北部」「山岳地帯」「高地」「高原地帯」などの様々な語が出てくる。おそらく、すべてはこの地域一帯を指していると思われる。下の地図を見てもらうとわかるが、北部の中央から東はすべて砂漠(ルブアルハリ砂漠)なので、「北部」と「北西部」は事実上イコールだし、山でもあり高原でもある標高2300m(サナア)の土地を山岳地帯というか高原地帯というかは難しい問題である。私もいちいち迷うので、以下、この文章では「北部」と「高地」で(なるべく)統一する。 

3 イエメンのイスラム教

(1)イスラム化第一世代

イエメンは、イスラム圏としての歴史も非常に古い。ムハンマドがメッカ郊外の洞窟で大天使ガブリエルの啓示を受けたとされるのは610年、イスラム共同体(ウンマ)を結成し、アラビア半島内で勢力を拡大していくのはメディナへの移住(ヒジュラ・622年)以降であるが、イエメンは、この622年からムハンマドが亡くなる632年までの間にイスラム化された地域に含まれている。

このカーキ色の部分が632年までにイスラム化された地域(ビジュアルマップ大図鑑世界史(東京書籍))

「イエメン」という地域の呼称も、メッカ、メディナへの巡礼と関わりがあるようだ(ムハンマドは625年にイスラム教徒は一生に一度メッカに巡礼する義務がある旨の啓示を受けている)。

イエメンはアラビア語「yamin(右側)」に由来するとされている。私が読んだ文献は、メッカ・メディナに対して「右」と解釈していたが(何から見て「右」かについて、もっともらしい説明として「太陽が昇る方向に向かって右」というのがある)、巡礼のルートにはオマーンからアラビア海沿岸を通ってイエメンに入るルートもあったらしいので、その海路から見てイエメンが「右」という解釈もありそうに思える。

(2)イエメンの核、ザイド派

以来、イエメンは一貫してイスラム圏である。主流に当たるスンナ派が人数では多いが、重要なのはザイド派の存在だ(人口の三分の一程度といわれる)。

ザイド派の地盤は首都サナアを含む北部の高地一帯。先ほど、この地域がイエメンの中核であると書いたが、それは主としてザイド派の存在によるものといえる。いわゆるフーシ派(正式名称はアンサール・アッラー)もザイド派の組織である。

この地域は、長らく、ザイド派のイマームを王とする王国を営んでいた。この「長らく」は半端ではなく、建国が859年、滅亡は1968年である。この間、オスマン帝国など他国の支配下に置かれることはあったが(次回)、ザイド派の人々が従属的な地位を甘んじてを受け入れることは決してなく、彼らはつねに反乱を企て、抵抗を続けて、1918年にはいち早くイエメン王国として独立を成し遂げた。

歴史的に、諸外国に対する抵抗の核であり、イエメンとしての強い誇りとアイデンティティを持ち続けているのが、この北部ザイド派地域なのである。

(3)ザイド派とは何か

①ザイド派はイランのシーア派の子分ではない

ではそのザイド派とは一体何か。

ザイド派は「シーア派の分派」とされることが多い。誤りとはいえないが、非常に誤解を招きやすい表現だ。

一般人の常識では、シーア派はイランの国教として認識されているため、「シーア派の分派」というと、イランのシーア派の子分のように聞こえてしまう。しかし、事実はそうではない。

イランの国教であるシーア派は、シーア派の中の12イマーム派である。12イマーム派の枠組が成立したのは10世紀中頃とされる。しかし、ザイド派はそれよりも早く、8-9世紀頃には成立しているのである。

したがって、当然のことながら、ザイド派は12イマーム派が作り上げた様々な教義を共有していない。実際、ザイド派は、教義の点ではスンナ派に近いと言われている。

②なぜ「シーア派」か

そもそも、ザイド派はなぜ「シーア派の分派」とされているのか。

一般に、シーア派は、「ムハンマドの後継者たるイスラム共同体指導者はアリー(第4代カリフ・ムハンマドのイトコかつ娘婿)の子孫でなければならない」とする立場をとる宗派と定義されている。

イエメンのザイド派は、アリーの子孫であるザイドに忠誠を誓い、アリーの子孫からイマームを輩出するということに(少なくとも建前上は)なっているので、「シーア派」に分類されるのだ。

ところで、シーア派が「アリーの子孫」を奉じるのは、基本的には、アリーがムハンマドの血統だからである。それなら「ムハンマドの子孫」といった方がわかりやすいと思うのだが‥‥

しかし、調べてみると、シーア派が「アリーの子孫」という言い方にこだわることには理由があった。そして、そこにこそ、「シーア派とは何か」を理解する鍵が隠されていたのだ。

説明しよう。

③シーア派とは何か

◼️アリーとムアーウィアの後継者争い

アリーは、ムハンマドの死後その後継者として選出された初代カリフ(アブ=バクル)から数えて4代目のカリフである。下に記載した5人のカリフはみなムハンマドと同じクライシュ族の出身であるが、同じ家の出身はアリーだけである。

アリーは、ウスマーン(3代カリフ)が暗殺された後、次のカリフに選出されたが、アリーのカリフ就任に反対する勢力(ムハンマドの妻アーイシャやウマイヤ家のムアーウィア)もあり、内戦に発展した。

争いは最終的にアリーと自らもカリフを名乗ったムアーウィアの一騎打ちとなったが、勝負は決まらず、指名された裁定者がアリーとムアーウィアのどちらが「正しいカリフ」かを判定することになった。ところが、この判定方法自体に反対する一派が現れ(ハワーリジュ派)、彼らはアリーとムアーウィア双方の暗殺を試みた。その結果、アリーだけが死んでしまったのである。

生き残ったムアーウィアは単独のカリフとなり、人々もこれに従ったが、彼の死後、再び後継者争いが起こった。

ムアーウィアは生前に息子の一人ヤズィードを次期カリフに指名していたが、人々は必ずしもこれに納得していなかった。

そもそも、ムアーウィアが単独で第5代カリフに就任することになったのは、単に、アリーが暗殺に遭って死んでしまったからである。ムアーウィアは、アリーと戦って勝ったわけでもなければ、裁定者に「正しいカリフ」と認められたわけでもない。アリーに対してムアーウィアの血統を「正統」とする根拠は何もないのである。

したがって、もともとアリーを支持していた人々から見れば、ムアーウィアがカリフになったところまでは仕方がないとしても、以後のカリフをムアーウィアの子孫(ウマイヤ家)から出すのは筋が通らない。

そこで、アリー支持派を中心に、アリーの息子フセインをカリフに推挙する動きが巻き起こり、再び、内戦が必至の情勢となった。

◼️フセインとヤズィードの争い:カルバラーの悲劇(680年10月10日)

しかし、フセイン勝利の芽は、戦いが始まる前に摘み取られてしまう。フセインとその一族は、支持派の招きを受けてメディナからクーファに向かう途中のカルバラーの地で、ヤズィードが派遣した軍に包囲され、惨殺されてしまうのだ。

この事件が、今もシーア派の間で語り継がれる「カルバラーの悲劇」である。

地図はこちらのサイトからお借りしました。この前後の歴史についても大変詳しいです。

◼️ウマイヤ朝+スンニー派の確立

この事件の後、第6代カリフにはヤズィード、第7代にはその息子が就任。その後もいろいろとあったものの、しばらくはムアーウィアに始まるウマイヤ朝の時代が続く(661-750)。

そしてウマイヤ朝においては(シーア派との対立を経て)正統イスラム教としてのスンナ派が成立し、以後、中心的なイスラム王朝の奉じる立場して確立していく。

しかし、ヤズィード、ウマイヤ朝、そして歴代スンナ派王朝は、カルバラーの悲劇のために、由緒正しいムハンマドの一族を殺害することでカリフの地位を簒奪した者という、消すことのできない汚名を着ることになったのだ。

◼️「抵抗」の象徴としての「アリーの子孫」

そういうわけで、以後、ウマイヤ朝や歴代スンナ派王朝に反発し、ときに反旗を翻すムスリムは、こぞって「アリーの子孫」を奉じることになった。

「アリーの子孫」ということによって、ムハンマドの血統であることを主張し、同時に、アリーの子フセインが虐殺された悲劇の記憶を喚起し、主流派の不正性をアピールすることができるからだ。

「シーア」とは「党派」の意味であり、アリーとムアーウィアが争っていた時代にできた「シーア・アリー」(アリー派)の語が省略されて定着した言葉だという。したがって、主流に対して反発し、「アリーの子孫」を奉じる人々は、定義上、みな「シーア」(シーア派)に分類されることになる。

しかし、「アリーの子孫」という観念の共有は、彼らが何か共通の思想信条を持っていることを意味しない。シーア派が共有しているのは、おそらく、本流や主流に対する「抵抗」の立ち位置のみなのである。

(4)イエメン北部はなぜザイド派の地となったのか

イエメンは、由緒正しい第一世代のイスラム圏であり、メッカやメディナにも近い。そのイエメンがでは、なぜ「抵抗」のシーア派(ザイド派)の拠点となったのであろうか。

次のように考えることはできるだろう。

ザイド派の成立は8-9世紀。ウマイヤ朝からアッバース朝にかけての時期である(↓)。

ムハンマドの生前、宗教上の聖地はメッカであり、政治の中心はメディナにあった。イエメンの都市サナアは、メッカに近い主要都市として繁栄していたことだろう。

しかし、ムアーウィアがカリフとなると(ウマイヤ朝開始)、首都はダマスカスに移され、アッバース朝も、現在のイラクの領域(クーファやバグダード)に首都を置いた。政治の中心が北に移動することで、イスラム世界の重心がイエメンから遠ざかっていったのだ。

イスラム第一世代のイエメンの人々が、ときのイスラム王朝のやり方に不満を抱いたとき、彼らの運動はごく自然に「アリーの子孫」を奉じるという形を取ったはずである。

ちょうどそのとき、そこにザイド・ブン・アリーがいた。あるいは、その記憶があったのだ。

ザイド派は、イスラム世界で数限りなく起こったであろう反主流派運動の最初期のものの一つである。その多くが時と共に消滅したのに対し、イエメンのザイド派は1000年以上の時を生き抜いた。

そして、このザイド派が担う誇り高い抵抗のメンタリティが、イエメンの近・現代史において大きな役割を果たしていくことになるのである。

今日のまとめ

  • イエメンの歴史は古い。
  • イエメン国家の中核は北部のザイド派地域であり、フーシ派(アンサール・アッラー)拠点もここである。
  • イエメンは預言者ムハンマドの時代にイスラム圏となったイスラム化第一世代である。
  • シーア派の共通項は「反主流」「抵抗」の立ち位置であり、必ずしも思想信条を共有するわけではない。
  • ザイド派はシーア派の分派とされるが、イランのシーア派とは無関係である。
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イエメンを知ろう(付/イエメンの人口動態)

 

はじめに

現在、ガザ危機を終わらせるための行動をもっとも激しくかつ直接的に展開しているのはイエメンの人々である。

イエメンの人々は、10・7の直後からイスラエルに対するミサイル・ドローン攻撃を開始し、紅海を通行するイスラエル関連船舶を拿捕し、今ではアメリカ・イギリスと戦っている

イエメンは西アジアのアラブ諸国の中では圧倒的に「遅れた」国だ。例えば、トルコの男性識字化(20-24歳の50%)は1932年、シリアは1946年だが、イエメンは1980年。女性に至っては2006年である。 

イスラム諸国の近代化(トッド/クルバージュ『文明の接近』(藤原書店、2008年)31頁より)

しかしその「遅れ」のために、イエメンはいま現在、最も若く活力のある時期を迎えているのである。

*イエメンの年齢中央値は19歳(2024年)。イラクやパレスチナと並んで最も若い一群だ(wikiの表を並べ替えてご覧ください)。 https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_countries_by_median_age

19世紀後半から20世紀初頭の日本人のような血気盛んな若者たちの前に、同じアラブの人々を襲うガザ危機があったら、「そりゃあ、やるよなー」と、私はまず思った。

それで興味を持ったのだが、軽い気持ちで調査を始めてみると、イエメンが現在置かれている状況はかなり非道なものだった。

しかし、さらに奥地に入り、調査を進めてみると、何か輝かしいものも見えてきたのである。

「これ、本物の民主化革命じゃないか‥‥」

そう。イエメンは今、フランス革命も真っ青(?)の本物の革命の只中にあったのだ。

「人道危機」の原因は内戦ではない

現在のイエメンは「世界最悪の人道危機」の当事国としてよく知られている。一般的な説明では、「危機」の原因は「2015年に始まった内戦」とされている。 

NHK「キャッチ!世界のトップニュース」
NHK「キャッチ!世界のトップニュース」

この説明は、根本的な原因はイエメンにある、という印象を与える(ための)説明といえる。イエメンという国はそもそも国家の体をなしていない破綻国家であり、反政府勢力が蔓延り、悪者のイランにつけ入る隙を与えている。だから、それらを撃退し、秩序を回復するために、外国が介入しているのだ、と。

ガザ危機が「イスラエル VS イスラム過激派ハマス」の構図で描かれ、前者の介入にも一定の理がある、とされているのと全く同じである。

しかし、調査してみて分かった。この説明は意図的に流布されている「ウソ」である。

イエメンという国に問題がないというわけではない。北部と南部は当初から分裂していたし、1963-70年には北イエメンの内部でも内戦があった。南北イエメンは1990年に統一されたが、1994年には南北の間で内戦が起き、その後も政治の安定には程遠い状態が続いた。

しかし、2015年からの内戦は、その延長線上に起きたものではない。後で詳しく説明するが、イエメンのもともとの政情不安定と「世界最悪の人道危機」は、基本的には関係がないのである。

人口動態から見るイエメン

私は勝手に、イエメンという国は、この先の激動において大きな役割を担っていく可能性がある、と感じている(根拠はない)。

イエメンの人口動態に関するデータをいくつかご覧いただこう。

男性識字率50%越の時期は1980年、女性は2006年だが、その前の1995年にすでに出生率の低下が始まっている。近代化の過程をくぐり抜けている真っ最中である(上記の図を参照)。

年齢中央値は19歳、人口ピラミッドは下のような感じで、とにかく若い。 

https://www.worldometers.info/demographics/yemen-demographics/#
https://en.wikipedia.org/wiki/Demographics_of_Yemen#/media/File:Yemen_single_age_population_pyramid_2020.png

そして現在の人口は約3500万人。日本の場合、1870年代の人口が3500万人くらいだった。その時期の年齢中央値のデータはないが1940年が22歳なので、1870年代に20歳前後だったとしてもおかしくないだろう。当時の日本と同様、イエメンもまだ出生率は下がり切っていないので、この先国情が安定すれば、人口は大きく増えていくと見込まれる。

乳幼児死亡率はまだまだ高い(2022年で42,245人(/1000人)*)。とくに「世界最悪の人道危機」が始まった2015年頃からは足踏み状態が続いているが、長期の傾向は明らかに低下に向かっている。近代化は着実に進んでいるのだ。

https://data.worldbank.org/indicator/SP.DYN.IMRT.IN?end=2021&locations=1W-YE&start=1963&view=chart

次回の予告(おわりに)

そういうわけで、イエメンは現在、近代化を始めた当初(約150年前)の日本と同じような時期を迎えている。

民主化革命のさ中にあるその国は、(アメリカが支援する)サウジアラビアの攻撃によって大変な目に遭いながら(詳しくは次回以降)、80年前の日本よりもはるかに積極的かつ断固した姿勢で、アメリカと対決しようとしている。

次の地図をご覧いただきたい。西アジアではイランを除くすべての国に米軍基地があり、多数の兵士を駐留させている。しかし、イエメンには一つもないのである。 

どうしてこんなことが可能になったのだろうか?

*ちなみに日本は約54000人、基地は数え方がよく分からないが大きめの単位で数えると約15。人員・基地のそれぞれ約半数は沖縄。
https://www.usfj.mil/About-USFJ/
https://en.wikipedia.org/wiki/United_States_Forces_Japan#/media/File:Military_facilities_of_the_United_States_in_Japan,_2016.gif

興味、ありますよね?

「イエメンを知ろう!」ということで、今回を含めて数回をイエメン特集とさせていただきます。

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世界を学ぶ

民主化の果て
ーリビアの場合ー

 

以下は、ムスタファ・フェトゥーリ「リビアはカダフィとともに消えた:「解放」されたリビア人はなぜ占領下にあると感じているのか」の翻訳です。

エジプトの西隣、地中海沿岸にあるリビア。文化圏としては西アジア(中東)の一部です。近現代史の骨格だけを拾うと、以下の通り。

  • 16世紀以降オスマン帝国の版図
  • 1911年 イタリアの侵攻を受ける。イタリアとオスマン帝国の戦争(伊土戦争)を経てイタリア植民地
  • 各地域で激しい抵抗運動が続くが1932年に完全平定。イタリア領リビア
  • イタリアのWW2敗戦で英仏の共同統治領となった後、国連決議により独立(1951年)。リビア連合王国となり、東部地域の君主であったムハンマド・イドリースが国王(イドリース1世)に就任
  • イドリース国王の下、国際石油資本による開発を受け入れたリビアは産油国として一定の経済成長を遂げるが、多くの国民は貧しいまま。エジプト・ナセル大統領が主導する汎アラブ主義の影響もあり、王政および親欧米政策への不満高まる
  • 1969年 青年将校によるクーデター(リビア革命)。イドリース国王は退位し、カダフィを指導者とするリビア・アラブ共和国が成立。
  • カダフィ政権下の事象は真偽が不明なことが多く調査できていないので省略。ともかくカダフィ政権は英米と敵対し、テロ支援国家に指定されたり、命を狙われたりする。1992-1999は国連の経済制裁 
  • イラク戦争(2003年)後、カダフィの姿勢が軟化したとされ、テロ支援国家指定解除。2006年アメリカとの国交正常化
  • 2011年「アラブの春」の一部として起きた反政府運動の後、内戦に突入。欧米(米英仏)の軍事介入を経て、反政府勢力が政権を樹立。カダフィは射殺されて死亡。国名「リビア」に

この記事は、リビア国民の視点から、2011年以後、西側諸国の主導によって行われた「民主化」とは何だったのかを問うものです。

リビア国民の多くは今、「民主化」とは、結局、西側の言いなりになる政権が樹立され、リビアの国土と資源が体よく利用されただけであり、新たな形態の植民地支配にほかならないと考えているようです。

リビア国民の経験は、おそらく、イラク国民の経験とほぼ重なります。そして、同様の事態に陥ることを避けるために必死の抵抗を続け、ついに勝利しつつあるのがシリアだと思います。

ところで、1945年以後、つまり、アメリカが君臨する世界における「民主化」成功事例の第1号は、日本です。短い記事ですが、彼らの経験は、日本に住むわれわれが、現代の世界を理解し、20世紀以降の自分たちの歴史を振り返り、「アメリカ後」の世界を展望するのに役立つと思い、紹介させていただきます。

(前書き終わり・以下本編)

リビアはカダフィとともに消えた:「解放」されたリビア人はなぜ占領下にあると感じているのか(Mustafa Fetouri)

12年前、リビアに到来し、ムアンマル・カダフィの政権を終わらせた「アラブの春」は、リビアをカオスに陥れ、国家は部族や地域によって分断された。カダフィ本人は、西側の支援を受けた民間の軍事組織によって殺害された。

https://www.azernews.az/region/212351.html

https://www.cbsnews.com/news/clinton-on-qaddafi-we-came-we-saw-he-died/

https://www.youtube.com/watch?v=6DXDU48RHLU

NATOによる軍事侵攻

2011年2月、リビア東部で発生したカダフィ政権への小規模かつ限定的な市民運動は、やがて西側が支援する政権転覆の試みに変貌し、NATOは「民間人保護」の名目でリビアに軍事介入を行なった。

アメリカ、イギリス、フランスの主導によって採択された国連安保理決議1973が、リビアに対する武力行使の道を開いた。軍事侵攻は、西側諸国がカダフィを政権から追放したいというだけの理由で行われたものであり、それ自体、あからさまな安保理決議違反だった。これ以降に何が起きたかはよく知られている通りである。

混乱の中、リビアの人々は、民主主義と繁栄、自由はすぐそこだと聞かされていた。ところが、彼らはまもなく気づくことになる。カダフィはいなくなった。しかし、ある意味で、カダフィと共に、リビアそのものが失われてしまったのだと。

何年経っても、リビアは停滞したままで、自由も安定も勝ち得ていない。主権に関わる事項のほとんどは他国によって決定され、外国の手先となった武装勢力が国を支配している。

「占領下」のリビア

現在、ほとんどのリビア人は、リビアは独立を失い、新たな形態の占領状態にあると感じている。政治家は外国の意見を聞かなければ何も決められない。そして、10数年前にリビアを混沌に陥れた同じ国々が、現在もリビアの発展を妨害しているのだ。

国家主権、そして自律的な内政・外交政策は、カダフィ政権の中核だった。石油資源に恵まれた北アフリカ国家の指導者として君臨した40年間、カダフィはこの2つをリビア人の国民的アイデンティティに組み込むことに成功した。その結果、リビア国民は、あらゆる外国からの干渉を警戒し、西側、とりわけイタリア、アメリカ、イギリス、フランスから来るすべてを疑ってかかるようになった。この4カ国がリビアの歴史上果たした邪悪な役割は深く記憶に刻まれている。いずれも、リビアの主権を侵害した責任が問われている。

西側主導の政権交代と内戦が起きた2011年以前、リビアは毎年4つの祝日を祝っていた。それぞれの祝日は、リビアが誇る歴史の転換点を祝い、若い世代に独立した主権国家であることの重要性を思い出させるものだった。各祝日の行事には、外国の要人、時には国家元首も参列し、その重要性を印象付けていた。

誇り高いかつてのリビア

例えば、3月28日はリビア東部のトブルクの戦略軍事基地を占領していたイギリス軍の追放記念日である。1970年3月、革命によって政権を掌握して6ヶ月のカダフィは、すべての外国軍に国外退去を命じた。その年の6月11日には、アメリカ軍がトリポリ郊外の巨大軍事基地から撤退した。ウィールス空軍基地は、ピーク時約50㎢の敷地にアメリカ国外で最大の軍病院や大型映画館(シネコン)、ボーリング場、高校を備え(リビア人は立ち入り禁止!)、その規模と提供されるサービスから「リトル・アメリカ」と呼ばれた。約15,000人の軍人とその家族が暮らし、空軍のパイロットは近隣のアルウィティア(リビア砂漠付近)にある5ヶ所の射撃訓練場も利用していた。ウィールスは現在ミティアガ空港となっている。

10月7日は、1970年に20,000人に及んだイタリア人入植者を追放した記念日である。彼らは1911年9月に始まったイタリアのリビア占領の際にやってきた民間人で、一時期は主要商品の貿易や修理サービス、小規模工場等のほぼ全てが彼らの所有ないし支配下にあった。リビア東部では、イタリア人入植者がもっとも肥沃な土地を所有し、リビア人は安い労働力として使われた。リビア人労働者への対価は多くは(賃金ではなく)食料や住居であり、手工業の工房で働くリビア人技術者に与えられた賃金もごくわずかだった。

外国勢力の排除は、銀行部門と石油部門でも行われた。1969年のカダフィ革命以前、銀行部門はイタリア人とイギリス人が独占していたが、1970年12月、同年に成立した法律153号によってすべての銀行が国有化された。石油部門も同様である。国内のすべての石油会社をアラビア語の名称に変える措置が取られた後、1973年に成立した新石油法によって石油の探査・生産・輸出のほぼ全てが国営となった。

カダフィ政権は、リビアを侵略した列強、とくにイタリアの植民地支配と戦った歴史をリビア人の誇りとして刻むことに使命感を抱いていた。イタリアは、1911-43の間に、レジスタンスの指導者オマール・ムフタール(1931年に拘束され絞首刑)を含む50万人近いリビア人を殺害している。

実際、何年にもわたる圧力と交渉の末、リビアは他のどの国もなし得なかったことを成し遂げたといえる。リビアは、イタリアに植民地時代の暴虐を謝罪させ、賠償金を支払わせたのだ。2008年、リビア政府とイタリア政府は、植民地支配に起因する問題の解決と反植民地主義を宣言する友好・協力・パートナーシップ協定に調印した。同協定では、イタリア側が、リビアへの賠償として、道路、病院、鉄道網の整備やリビア人学生への奨学金、盗まれた工芸品の返還といった開発協力プロジェクトの形で、25年間に渡り5億ドルを支払うことが取り決められた。

誇りを失った新生リビア

トリポリ在住のある歴史学者(匿名を希望)は次のように指摘する。新生リビアは、歴史を祝おうとしないどころか、思い出そうともしない。「遠い歴史も、最近の歴史も」。彼は言う。歴史とは、国家が経験した過去を若い者に教え、老いた者には思い出させることで、時間をかけて「国の性格(国柄)の不可欠な一部」となっていくものだ。

彼の同僚であるミラド(彼も報復への懸念から姓の公表を恐れている)もこれに賛同し、次のように付け加えた。「カダフィ時代の最大の遺産の一つは、国家の過去の事蹟を讃えることで、リビア国民に誇りを持たせたことだと思う」。

2011年10月以後、リビアでは国家的な記念式典や祝賀行事は一度も行われていない。それどころか、リビアの政治は、選挙や経済を含む全てが、外国政府かその手先である勢力によって牛耳られているのだ。

現在、リビアには外国の軍人、傭兵、武装集団が20,000人以上在住し、権勢を争う様々な地域勢力を支援している。この状況は多くのリビア国民にとって「信じがたいこと」だと、トリポリ大学のアリ・マフムードは言う。「何十年も前に外国軍を追放したリビアに、再び外国軍が駐留するなんてことが、いったいなぜ起きたのだろうか?」

リビア国民の大多数は、ミスラータ、ベンガジ、アル・ワティア、トリポリ南西部その他の地域のリビア軍基地に外国軍が駐留している事態を、外国による占領の一種とみなし、快く思っていない。

隠微な「占領」

普通のリビア国民は、リビアは「軍事的にも政治的にも」間接的な占領状態にあると見ている。こう指摘するのは、ベンガジ在住の弁護士、サミア・アル・フサイン(仮名)である。2021年に予定されていた選挙は、無期限に延期された。アメリカおよびイギリスの大使が、サイフ・アルイスラム・カダフィームアンマルの息子であるーが最有力候補である状況での選挙の実施を嫌ったからだ。

カダフィ・ジュニアは、リビア国内で広く支持を集めている。彼は大統領選への出馬禁止措置を受けていたが、裁判所は2021年にこれを解除した。予定通り2021年に大統領選挙が行われていれば、間違いなくカダフィが勝利したはずである。それを避けるため、前イギリス大使キャロリン・ハーンダルとアメリカ大使リチャード・ノーランドは、カダフィの候補者指名に公式に反対した。

国民の怒りに直面した議会は、外務省とは異なり*、選挙についてのコメントを理由にハーンダルを「ペルソナ・ノン・グラータ」に指定せざるを得なかった。しかし、任期が終了した昨年10月まで、彼女が国を出ることはなかった。これもまたリビアが占領状態に置かれていることを示す証拠の一つといえる。ノーランドに至っては、リビア外務省から非難を受けることすらなかった。なぜか。アメリカ大使だからだ。

アル・フサインは政治的には反カダフィだが、それでも、最近明るみに出た今年8月の前外務大臣ナジュラ・アルマングーシュとイスラエルの外務大臣の会談(@ローマ)について、以下のように指摘する。「リビアにとってイスラエルとの関係正常化にどんな利益があるというのでしょうか。外部からの命令なしに、リビアの高官がシオニスト国家の代表と会うはずがありません」。アル・フサインによれば、リビアは国家の歴史上一貫してパレスチナ人を支援してきたことに「大変な誇りを持っている」。1948年の第一次パレスチナ戦争では何百人ものリビア人が志願してパレスチナのために戦った。アル・フサイン自身もまた、ガザ戦争に対するリビアの反応は、パレスチナ国家の樹立を神聖な大義と認める国家として「期待に答えるものではない」と感じている。政府はガザへの支援のために5000万ドルを拠出したが、ほとんどのリビア国民は、リビアはガザのためにもっと多くをなすべだと考えている。

カダフィの地盤であるバニ・ワリドで法律を学んでいるムスバ・アドカリは、リビアの指導者たちは外国から命令を受け、国民の意思に反する行動をとっていると考えている。アドカリは、2022年12月にリビア人アブ・アギラ・マスードが33年前のパンナム機爆破事件に関与した容疑で拘束されアメリカで裁判にかけられた件を挙げ、次のように述べた。「アメリカの命令で行われたことだと思う。そうでなければ、あんなことが起きるはずはない。」「これが占領でないというなら、占領とはいったい何なのだろうか?」

(本編終わり) 

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コペル君の志

 

目次

コペル君の人生

『君たちはどう生きるか』の主人公、コペル君のプロファイリングをしたことがあります。概要はこんな感じ(↓)。

コペル君(プロフィール) 

  • 本名:本田潤一
  • 生年:1923年生
  • 出身:東京都 
  • 家庭:父親は大手銀行の重役。召使が何人もいるような裕福な家庭に育つ。11歳のときに父が病気で死去。母一人子一人となり、郊外に転居(ばあやと女中1名が同居)。叔父さん(法学部卒のインテリ)と仲良し
  • 人生:旧制中学卒業後、17歳で東京帝国大学法学部に進学(1940年)。1943年、20歳で学徒出陣。特攻等で戦死、または生還して復学し、エリートとして戦後復興を支える

 

○生年

コペル君(本名:本田潤一)は、本の中では、中学2年生です。

「15歳」と書かれていますが、当時は数え年なので、満年齢に直すと13歳だと思います。作者の吉野源三郎さんが本の執筆を始めたのは1936年(出版は1937年)なので、その時点で13歳だったと仮定すると、コペル君の誕生年は1923年になります。

生きていれば昨年でちょうど100歳ですね。日本人だと、佐藤愛子さん、三國連太郎さん(俳優。佐藤浩一のお父さん)、司馬遼太郎さんなんかが同じ年です。

○出身・家庭

出身地は東京都の東京市。かつての15区内(↓)だと思います。だから、郊外に転居といっても、世田谷とか杉並かもしれません。

お父さんは大手銀行の重役です。五大銀行のどれかでしょう。お父さんはコペル君が11歳のときに亡くなっていますが、その後も本田家の暮らし向きは比較的裕福であることが感じ取れます。 

 1878年(明治11年)の郡区町村編制法によって設置された東京15区(Beagle at ja.wikipedia

○人生

コペル君と仲良しの叔父さんは、法学部卒のインテリです。こうした家庭環境や性格、本の中で、学問を修めて人類の進歩に役立つ立派な人間になろうと決意しているところなどから見て、コペル君は、旧制中学校を卒業した後、東京帝国大学法学部に進学した可能性が高いと思われます。

1940年に17歳で帝国大学に進学した若者がその後どうなったか。

1940年当時、高等教育機関(大学・高等学校・専門学校)に在籍中の学生は徴兵が猶予されていました。しかし、1943年にこれが一部解除され、いわゆる学徒動員(学徒出陣)が始まります。コペル君が文科系の学生であったなら、20歳になる頃、戦地に赴いたはずです。

帝大を含め、学徒出陣で戦地に送られた学生の多くが、特攻隊員となって命を落としています。コペル君がその一人であった可能性は決して小さくありません。

いずれにせよ、コペル君は、出征して戦死したか、生還して復学し、中央官庁・企業などでエリートとして戦後日本の復興・発展を支えたか、そのどちらかの人生を送った可能性が高いと思われます。

『君たちはどう生きるか』について

2017年に漫画版が出て以来、コペル君を主人公とするこの本が再び人気です。宮崎駿監督は同タイトルの映画を作り(本も出演していました)、そのせいもあってまた売れているようです。

確かによい本だと思います。感動する気持ちも分かる。子どもさんや若い人が読んだら、何かよいものを受け取るでしょう。

でも、この本を、これからを生きる人たちに薦めたいか、と言われると、社会系の研究者としては、微妙な気持ちを拭えません。

なぜか。

『君たちはどう生きるか』は、単なる「生き方」(倫理)の本ではありません。人間の理性を信奉し、人類の進歩を礼賛する近代主義(西欧中心的な進歩主義)の立場から、少年を社会科学の世界に誘うことをはっきり意図して書かれた本です。

シリーズ(日本少国民文庫)を企画した山本有三や著者の吉野源三郎は、軍国主義の風潮が高まり、言論・出版の自由は制限され、労働運動や社会運動が激しい弾圧を受けていた日本で、次代を担う子どもたちだけは、時代の「悪い影響」から守らなければならないと考えたといいます。山本や吉野は、西欧文化に親しんだ知識人として、自分を捨てて国家に尽くすことを求める偏狭な国粋主義とは異なる「自由で豊かな文化」が存在することを伝え、人間の自由な精神こそが進歩の原動力なのだという信念をかき立てることで、彼らの信じる進歩を、子どもたちに託そうとしたのです(岩波文庫版巻末・吉野源三郎「作品について」参照)。

だから、叔父さんは、コペル君に、立派な人になるには、世の中の規範にただ従うのではなく、自分が本当に感じたことや、心を動かされたことと深く向き合って、本当の自分自身の思想を持つ人間になることが大事なんだと熱く語ります。

そして、当時の日本においては最先端の思想であったマルクス主義の知見を紹介し、人類の過去の叡智をまとめ上げたものが学問である以上、まずは「今日の学問の頂上にのぼりきってしまう」ことが必要であり、その先にこそさらなる進歩があるのだと力説するのです。

実際、コペル君は、このシリーズの第1巻・第2巻である『人間はどれだけの事をして来たか(一)(二)』(人類の発展の歴史を描いたもの。国立国会図書館のウェブサイトで読めます)をしっかり読んで勉強したという設定になっています。『君たちはどう生きるか』は、読者である少年少女に、近代主義の流れに棹さし、自由で民主的な「よい」世の中を作るために、一人一人の人間はどう生きていくべきなのかを、自分の問題として考えることを求め、導くための書物にほかなりません。

対米戦争が始まった頃には刊行できなくなったこの本が、戦後の日本で大いに評価されたのは、この本の基本思想が、アメリカへの敗戦で義務化された「民主化」路線にピッタリとはまったからです。

しかし、そうしたこととは別に、この本に、現在も読者を感動させる力があるとすれば、それは、作者である吉野源三郎さんが、人間精神の偉大なる可能性、そして、人類の集合的叡智たる学問を基礎に置くことで、自由で豊かで平和な社会が実現できるという希望を、本気で胸に抱いていたからでしょう。心から信じることを若い世代に託す。その真率な気持ちが、読み手に伝わるのです。

2024年を生きる私たちはどうでしょう。私たちは、吉野さんの抱いた理想が、実現しなかったことを知っています。コペル君の生誕から100年、世界は、近代以降の人類の活動に起因するとされる自然災害、戦争や殺戮に溢れ、貧困や経済的不平等すら克服される気配はない。もっとも豊かな国の豊かな階層にとってすら、未来は不確実になりました。

このような時期に生まれてきた年若い人々に、100年前と同じ理想を語るこの本を薦めることができるでしょうか。

その中には、もしかして、特攻で戦死し、生まれ変わったコペル君が混じっているかもしれない。

この世に戻ってきたコペル君や仲間の子どもたちに『君たちはどう生きるか』を託す大人は、いったい、どんな言葉をかけるのでしょう。

「率直に言って、あの後、世界が良くなったとは言えないかもしれない。

でも、理想が間違っていたわけではないんだ。だって、本当に良い人間になって、良い世界を作る。そんな普遍的な理想が、間違ってるなんてこと、あるわけないだろう?

だから、君ならできる。君たちならできるよ。絶対。人間に不可能なんてないんだから。

今度こそ、がんばって勉強して、立派な人になって、持続可能な、よい世界を作ってね。期待してるよ!」

それはちょっと、無責任、というか、非道ではないか、と私は思うのですが・・

おわりに

そういうわけで、私は、ある時期から、現代・近未来版の『君たちはどう生きるか』を書いてみたい、と考えるようになりました。

2003年に出た池田晶子さんの『14歳からの哲学  考えるための教科書』は、たしか、その趣旨だったと思います(ご本人がどこかで書いていました)。池田晶子さんの書くものは好きでよく読んでいましたが、この本は、私にはピンと来なかった。形而上学に寄り過ぎていると感じたのだと思います(手元にないので勘と記憶ですが)。

僕は、すべての人がおたがいによい友だちであるような、そういう世の中が来なければいけないと思います。人類は今まで進歩して来たのですから、きっと今にそういう世の中に行きつくだろうと思います。そして僕は、それに役立つような人間になりたいと思います。

岩波文庫版(1982年)・298頁

ノートにこう書きつけたコペル君の志を、子どもっぽい理想と笑うことはできません。大体、社会の研究者などというものは、全員、コペル君なのですから。

100年経っても、全く「そういう世の中」に近づいていないことを知って、ショックを受けるコペル君(本当に私ですね)。

彼と彼らに必要なものは、夢や希望、理想や「世界観」ではなく、人間と社会に関する端的な真実であると私は思います。まあ、真実というのは分かりませんので、自分で拾いにいくしかないのですが。

だから、私なら、彼らを探検の旅に連れ出したい。方位磁石やピッケル、鍬、探検仲間が残してくれた怪しい地図なんかを手に、素朴な「なぜ」を手掛かりに、真実を掘り当てるのです。

この世界の有り様に納得できれば、彼らの生命力は、勝手に希望を見出して、楽しく生きていってくれるでしょう。

そう思って、時期が来るのを待っていました。ようやく「今ならできるな」と思えるようになりましたので、今年、この取り組みを始めたいと思います(他のこともします)。どうぞ、お楽しみに。