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社会のしくみ

核家族とイノベーション
ー人類の未来ー

 

核家族のイノベーション適性

技術力全般でいえば、日本や韓国、ドイツなどの直系家族に劣るところはないが、イノベーションとくに新技術の実用化といえば核家族だ。

鉄道、自動車、飛行機、電話。テレビにコンピューターにインターネット。冷蔵庫に電子レンジに抗生物質に‥‥と、暮らしを一変させたイノベーションにはたいていイギリス人やアメリカ人がかんでいる。

  *よく調べていません。

家族システムの観点から見ると、理由はかなりはっきりしているように思われる。

核家族はがまんができない。より正確にいうと、限られた領域の中で大勢の人間が定住生活をしていくという場面で、自分の側の価値観や行動を変えて状況に適応するという心の構えを持っていない。

狩猟採集の移動生活ならそのままでも快適に暮らせるし、定住を始めても人口密度が低いうちは何とかなったかもしれない。

しかし、そんな彼らが「満員の世界」への居住を余儀なくされたらどうなるか。彼らは困る。実に不自由で、不愉快だ。

だったら外側を変えればいいじゃないか💡」

ということで、核家族は、科学技術を使ったイノベーションに乗り出すのである。

古代ギリシャやアラブ・イスラム圏における学問・科学の発展も、同じ仕組みである可能性があると思う。古代ギリシャはメソポタミアやエジプトとの関係では辺境に位置する原初的核家族だった。のちに内婚制共同体家族を発明しイスラム教の民となるアラブの人々も、もともとは、メソポタミアやエジプトとの関係で辺境に位置する原初的核家族だった。彼らは、より発展した地域の文明を受け入れ、あるいは伍していく際に、家族システムの後進性を補うために、科学技術を必要としたのではないだろうか。

家族システムはもう進化しない

科学技術が発達する以前、人類の生存・繁栄に必要なイノベーションは、主に、人間側が工夫し、技術を高め、暮らし方を変えることで実現された(たぶん)。家族システムの構築はその一つであり、最大のものといえる。

人口が増え「満員の世界」が訪れたとき、人類は、その環境に適合するために、家族システムを進化させた。

家族システムの進化は、原則として、世代間の縦の繋がり(権威的関係)の構築から始まる。本質的に、社会の全成員に対して、一定の自己抑制(規律)や不自由を強いる性格のものである。

それでも、人口密度が高まり、現に争いが頻発する世界では、そうした方が快適だから、その方向にシステムが進化していったのだ。

文明の中心地とその周辺で家族システムが進化する一方、原初に近い核家族を保っていた辺境の人々が、識字化を契機に、唐突に世界の中心に躍り出る。

心の奥底に原初的自由を湛えた彼らは、人間側の自己抑制による「適応」を潔しとしなかった。さまざまな道具を作り、天然資源を大々的に利用し、自分たちを取り巻く環境の側に手を加えることで、世界をわがものとした。それが近代だ。

したがって、近代以降の世界では、どれだけ人口密度が上がっても、家族システムは、退化こそすれ、進化はしないと思われる。人間の関係性を体系化し、自分たちの行動をシステマティックに制御するという「不自由な」やり方を採用しなくても、科学技術を用いれば、快適に暮らしていくことができるからだ。

土地が少なければ高層マンションを建てればいいし、農地が足りなければビルの一室で野菜を作ればいい。そういう世界で、家族システムが進化することはないだろう。

アメリカの家族システムがいつまでも原初的核家族のままなのは、おそらくそういう事情である。

持続可能性には問題が

こうして、核家族は世界を変えた。

その核家族に、「君たち、何でそんな不自由な暮らしをしているんだ。こうすれば、もっと自由に快適に暮らせるじゃないか。」

と、言われてみればそのとおりなので、直系家族の民も、共同体家族の民も、こぞって彼らの後を追い、見事に科学技術を発展させた。

おかげで、私たちは、熊に襲われることもない安全で清潔な環境で、衣食住の必要を容易に満たし、医療技術に守られ、長い平均寿命を謳歌するようになった。最先端の娯楽にだってスイッチ一つでアクセスできる。ほとんどおとぎ話の世界といえる。

しかし、「人類が世界に適応するのではなく、人類の都合に合うように世界を変える」というこのやり方には、問題があった。人口が増えすぎて、世界を蕩尽し、地球を壊してしまうのだ。

私は、過去に起こったことについてとやかくいうつもりは全くない。核家族の躍進も、科学技術の発展も、起こるべくして起きたことであると思えるし、人類史に新たな地平が開かれたことは間違いない。

しかし、このまま「世界を変える」「イノベーション」方式で進んでいけば、早晩地球が壊れるということはかなりはっきりしている。

さて、どうするか。

サステナブルな未来

私がトッドと決定的に袂を分かつのはここからだ。

人口学者であるトッドは、人口の維持が良い未来を作るという命題を譲らない。彼は経済の問題はよく語るが、環境問題にはほぼ言及しないのだ。

「人口維持こそ希望の源」という立場の決定的な弱点だからかもしれないし、「人類の側が適応する」という構えを持たない核家族メンタリティで、困難があるなら克服すればよいと考えているのかもしれないし、世代かもしれない。まあ、理由は分からない。

一方、私は、地球環境の問題は重大だと感じている。おまけに「SDGs」はもちろん、化石燃料の使用を止めて平均気温の上昇を抑えればサステナブルな未来が待っているというような話はまったく信じていない(やっても仕方がないと言っているわけではない)。

現代の大学や企業や研究機関でなされる何らかの技術開発が地球を救うという可能性も基本的に信じていない(だってそれはシステム上「金儲けのため」「保身のため」「とにかく現状維持のため」として設計されているので‥‥)。

私の考えでは、サステナブルな未来とは、たぶん、人類の人口が激減し、平均寿命も低下し、人類以外の動植物、有機物、無機物が(他にもありますか?)豊かに繁茂したときに訪れるものである。

そのとき、人類の暮らしが、原始人みたいな暮らしになるのか、江戸~中世みたいになるのか、それとも何か全く新しい形態になるのか、そこら辺はまったく見当がつかない。

もしかしたら、その前に地球環境が激変し、恐竜が鳥として生き延びているように、人類は、妙に脳と言語機能が発達したネズミ系の小動物(ミッキーマウス!?)となって生き延びたりするのかも‥‥などと考えたりもする。

 *「ネズミ系の小動物」という設定はここから来ています。

しかし、いずれにしても、人口が激減し、平均寿命も低下し、人類が「その他大勢」の動植物の中の一つ(今もそうだけど)に落ち着く未来は、それほどわるいものではないと思う。

生きている限り、同類の仲間と、他のありとあらゆる生命や物質と、助け合ったり、食べたり食べられたり、コミュニケーションを取ったり、遊んだりしながら、生きる。そして、病気でも事故でも、自然災害でも、飢えでも、老いでも、とにかく死ぬ時がくれば死ぬ。

何だそれ。

まったく普通ではないか。

おわりにー選択

最後に少しもっともらしいことをいうと、仮に「ソフトランディング」がありうるとしたら、それを主導するのは共同体家族ではないかと思う。

自然を破壊・蕩尽することで「豊かに」暮らすという近代以降の方向性を大々的に転換するというような巨大プロジェクトを率いることができるのは、おそらく、共同体家族だけだから。

人類史としては美しいストーリーかもしれない。直系家族が国家を作り、共同体家族が帝国を繁栄させた。ジョーカーの核家族は科学技術を解き放ち、文明の大転換をもたらした。それが行き過ぎに及んだとき、再び共同体家族が底力を発揮して地球と人類を和解させ、サステナブルな未来を導くのだ。

いい話だねえ。‥‥とは思うが、正直なところ、ソフトランディングはないんじゃないか、と私は思う。人類はちょっと増えすぎた。あまりにも急激に増えすぎたのだ(↓)。

 

人類だけが豊かに栄える「サステナブルな地球(あるいは宇宙)」などというものはあり得ないと私は思う。

おそらくは自然の摂理として、適正規模に戻るまでは、自然災害や戦争の絶えない世界が続く。あるいはまた、気象変動が起きて、否応なく数を減らされたりするのだろう。

世間的には、こんなことはうっかり口にしてはいけない恐怖のシナリオなのかもしれないが、宇宙に属する一個の生物として考えると、別にどうってことはない。

最悪、ちょっと早めに死ぬだけだし。

 *「悪」かどうかももちろん分からない。

さて、ここからが私たちの選択だ。

この人生を、人類のみの繁栄の永続というあり得ない(と私は思う)目標のために捧げるか、自然界の一部として普通に生きるか、私たちは選べる。

前者はどちらかといえば奴隷の人生であり(主人は「人類至上主義」あるいは「人間社会」)、焦燥と恐怖とたぶん狂気の人生である。

後者は、現下の環境の中に生きる人類であるという条件の下で、正気を保ち、最大限平和に楽しく自由に生きる道だと思う。

現下の環境の中に生きる人類であるから、戦争やら何やらに巻き込まれることは避けられない。でも火に油を注ぐようなことをせず、人間や動物やその他もろもろと助け合い、ともに楽しみ、平和な宇宙に貢献することはできるのだ。

どうする?

どうしよう?

私はもちろん、後者を選びます。

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戦時下日記

戦時下日記(4) 南米、メルケル、W杯

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12月4日(日)「陸自沖縄部隊 大規模化 台湾有事に備え」(中国新聞1面トップ)

日本が事実上アメリカの属国である‥というか、独自の軍事・外交政策を展開できる立場にないということは、国内外で普通に知られている。

私が外国人としてこのニュースに接したとしたら、「ああ、アメリカは台湾で何か仕掛ける計画で、日本にその準備をさせているんだな」と思うだろう。

そうなのか?

12月6日(火)アルゼンチンでクーデター?

アルゼンチン副大統領クリスティーナ・フェルナンデス・デ・キルチネル(Cristina Elisabet Fernández de Kirchner)に有罪判決

元大統領である夫の後を受けて大統領を2期務めた後の副大統領職。貧困層や若者に人気のある左派の政治家。今年(2022年)8月に汚職の罪で訴追され、9月に暗殺未遂に遭い、今日有罪判決+終身公職追放。

イムラン・カーンのケースに酷似。

12月7日(水)今度はペルー

今度はペルーで大統領罷免。

暗殺未遂こそないけれど、それ以外の事態の推移はパキスタンと瓜二つ。アメリカは即座に歓迎を表明している。

消化しきれないほど次々と事件が起きるのはワールドカップ開催中だからか?

(スポーツイベントにクーデターは付き物で、2014年のウクライナのクーデターもソチオリンピック開催中だった。)

ドイツではクーデターを計画したとされる25人が逮捕とか。
これが何を意味しているのか私にはまだよく分からない。

12月9日(金)メルケル発言

Die Zeit に載ったメルケル元首相のインタビューにプーチン大統領が反応。

メルケルは何と「ミンスク合意はウクライナの戦力を強化するための時間稼ぎだった」と言っているのだ(同趣旨の発言は先に12月1日のder Spiegelに載ったそう。私は読んでいません)。

 *ミンスク合意についてはこちらの「解説・資料編」をご覧ください。

プーチンの発言はこんな感じ。

正直、全く予想外だった。非常にがっかりしている。信頼はほとんどゼロになってしまった。どうやって、何を交渉すればいいのか。彼らと交渉など成り立つのか。守られる保証はどこにある?

https://twitter.com/AZgeopolitics/status/1601240676905078785

メルケルの発言に関しては、真意が伝わっていないという意見がある。

メルケルは真にドンバスとウクライナの関係修復を目指してミンスク合意に取り組んだが、結果的にうまくいかなかったので、取り繕うために(ドイツではメルケルへの風当たりはかなり強いらしい)、ドイツのズデーテン領有を認めた1938年のミュンヘン合意に関してチェンバレン英首相が使った「時間稼ぎだった」という言い訳を持ち出したのだ、と。

そうかもしれないけど、うかつだ。

その意見を聞いてからもう一度該当部分を読んでも、やっぱり「戦力強化のため」と言っていることは間違いなく、ロシア側から見ればプーチンのような捉え方にならざるを得ないと思う。

メルケルが信用できないなら、他に一体誰を信用したらいいのだろう?

12月10日(土)引き続きメルケル

しかし、そういえばトッドがメルケルをすごく批判していたことがあったのを思い出し、引っ張り出してみた。

まず2014年6月に出たインタビュー。ウクライナのクーデター(2014年2月)後の時期。

いつの日か、歴史家たちがシュレーダーからメルケルへの大転換に言及することになるでしょうか。

・・

現在の局面は、ドイツ外相シュタインマイアーのウクライナ訪問から始まりました。ウクライナの首都キエフにポーランド外相シコルスキーも姿を見せたということが、シュタインマイアーの任務がアグレッシブなものであったことの証です。

・・あのキエフ訪問がわれわれの目に明らかにしたのは、ドイツの新たなパワー外交であり、その中期的目標はたぶん、ウクライナ(統一されているか、分裂しているかは二義的な問題です)を安い労働力市場として、自らの経済的影響ゾーンに併合することです。2003年のシュレーダーならば、絶対にやらなかったであろうオペレーションです。

『「ドイツ帝国」が世界を破滅させる』(文春新書、2015)110−111頁

 こんなことも言っている。

公言されにくい真実をずばり言いましょう。今日、アメリカはドイツに対するコントロールを失ってしまって、そのことが露見しないようにウクライナでドイツに追随しているのです。

117頁

次は2014年8月。

ドイツから来る信号をキャッチしてみると、それはさまざまで、互いに矛盾している。

ときには、ドイツはむしろ平和主義的で、控えめで、協調路線をとっているように感じられる。ときには、それと真逆に、先頭に立ってロシアに対する異議申し立てと対決姿勢を引っ張っているように見える。

この強硬路線が日々力を増してきている。かつて、ドイツ外相のシュタインマイアーはキエフを訪れる際、フランス外相ファビウスやポーランド外相シコルスキーと一緒に行ったものだ。ところが、メルケルは今や単独で、新たな保護領ともいえるウクライナを訪問する。

ドイツが突出してきたのはこの対立においてだけではない。ここ6ヶ月間、最近の数週間も含めてのことだが、ウクライナの平原でロシアを相手にすでに潜在的紛争状態に入っているというのに、メルケルはヨーロッパ委員会の委員長に、元ルクセンブルク首相のジャン=クロード・ユンケルを据えた。ちょっと信じがたい不作法さをもって、強い反対の意思を明らかにしていたキャメロンのイギリスを屈辱的な目に遭わせたのだ。

さらに途方もないことに、アメリカによるスパイ行為の問題を使って、アメリカにもぶつかり始めた。冷戦時代以来のアメリカとドイツの諜報活動の複雑な絡み合いを知っている者にとっては、まったく信じがたい。

24-25頁

ドイツは現下の国際的危機において複合的でアンビヴァレントだが、それでも推進力となる役割を演じている。しばしばドイツというネイションは平和的に見える。が、それでいて、ドイツにコントロールされているヨーロッパは攻撃的に見える。あるいはその逆もある。ドイツには今や二つの顔があるわけだ。・・

目下私は容赦のない語り方をしていると自覚しているけれども、今、ヨーロッパはロシアとの戦争に瀬戸際にいるのであって、われわれはもはや礼儀正しく穏やかでいるだけの時間に恵まれていない。言語と文化とアイデンティティにおいてロシア系である人びとがウクライナ東部で攻撃されており、その攻撃はEUの是認と支持と、そしてすでにおそらくは武器でもって実行されている。

ロシアは自国が事実上ドイツとの戦争状態にあることを知っていると思う。

32-33頁

これを読み、2014年の時点でトッドには全部見えていたのだなあとしみじみ思うと同時に(ただし本人も認めているとおり米英の見方は甘かった)分かったことがある。 

私はこの戦争を、米英とロシアの代理戦争だと思っていたが、それだけではなくて、アメリカがロシアをダシにしてドイツを屈服させる‥‥というか、ドイツがロシアと組んでアメリカに対抗してくる可能性を摘みとるための戦争でもあるのだ。

戦争の過程を見ていて、「ドイツも日本と同じようにアメリカの言うなりなんだなあ‥‥」と思うことが多かったのだが、違った。もともと言うなりだったのではなくて、この戦争を通じて踏み絵を踏まされているのだ。

EU委員長のフォン・デア・ライエンはドイツ人。
メルケル政権で一貫して閣僚を務め、一番肝心な時期(2013年12月ー2019年7月)に国防大臣だった人間だ。

彼女がおそらく「ドイツにコントロールされている攻撃的なヨーロッパ」を代表している。米・NATOとEUはもうチキンレースなのか何なのかよく分からない。

一方、ショルツの顔を見ていると、何をされるか分からないのであからさまにアメリカに対立することはできないが、覇権が崩れたときに備えて布石は打っておきたい、というような感じか。

ちょっと前まではドイツが何とかしてくれないかなあ、とか思っていたが、しばらくは何もできないだろう(ようやく分かってきた)。

今のアメリカでは本当に何をされるか分からない。もちろん、日本が刃向かうそぶりを見せた場合も同じだ。

ところで、トッドは日本についても語っている。(2014年8月)

〔米・独の衝突以外の〕もう一つのシナリオは、ロシア・中国・インドが大陸でブロックを成し、欧米・西洋ブロックに対抗するというシナリオだろう。しかし、このユーラシア大陸ブロックは、日本を加えなければ機能しないだろう。このブロックを西洋のテクノロシーのレベルに引き上げることができるのは日本だけだから。

しかし、日本は今後どうするだろうか?今のところ、日本はドイツよりもアメリカに対して忠誠的である。しかしながら、日本は西洋諸国間の昔からの諍いにうんざりするかもしれない。

現在起こっている衝突が日本のロシアとの接近を停止させている。ところが、エネルギー的、軍事的観点から見て、日本にとってロシアとの接近はまったく論理的なのであって、安倍首相が選択した新たな政治方針の重要な要素でもある。ここにアメリカにとってのもう一つのリスクがあり、これもまた、ドイツが最近アグレッシブになったことから派生してきている。

71-72頁

たしかに、安倍元首相はロシアに接近する姿勢を見せた人物だった。

12月11日(日)ロシア国内にドローン攻撃

しばらく前(12月6日頃)にウクライナがロシア国内の軍事基地などにドローン攻撃を仕掛け始めたという報道があり、そんな重大なことをアメリカの支持なしにやることはないだろうと思っていたが、それを裏付ける報道(「アメリカの黙認があった」旨)。

ちょっといい加減にしてほしいと思う(無駄)。

これを受けてのことなのか、ストルテンベルクが、ウクライナの戦況がコントロール不能に陥っていてNATOとロシアの全面戦争もありうる、と発言したとか。

だからやめようという話ではないところがすごい。

12月15日(木)

W杯フランス・モロッコ戦。

どっちが勝っても(というか負けても)パリは暴動だ、と楽しみにしていたが、今のところそういうことはないようだ。 

12月17日(金)再びインファンティーノ、ペルー続報

W杯の決勝でゼレンスキーのビデオ・メッセージを映すというオファーをFIFAが断ったという。

やはりインファンティーノが偉いのではないか?

ペルーは抗議運動が続いて大ごとになっている。南米では連帯の動きも。確かに、南米の左派政権にとってはアメリカからの宣戦布告のように見えるだろう。

新大統領が次の大統領選挙の前倒しを求めているという報道があるが、カスティージョの公職追放解除を言わないと意味がない。引き続き注目。

12月19日(月)国連決議2種

今日のニュースではないが、国連総会の決議

「ナチスの英雄化、さらにはネオナチ、民族差別、人種差別、排他主義、およびこれらに関連した非寛容的態度の悪化を促す全ての現代的形態に対する戦い」と題する決議案が賛成多数で可決(12月16日)。

この決議案は例年、賛成多数で可決されている。

ということなので、日本が毎年核兵器廃絶決議案を出しているのと同じで、ロシアが毎年提出しているものなのだと思う。

内容は、「第二次世界大戦期に行われた人道に対する犯罪、及び戦争犯罪を否定し、大戦結果の改ざん阻を目的とし、法律や教育の分野において各国に人権に関する国際的義務に準ずる形で具体的な措置を講じることを要求するもの」。

今年は「ロシアが特別軍事作戦の正当化への利用を狙っている」ということで日本、ドイツ、イタリアを含む西側諸国が反対した。

国連次席大使によると、旧枢軸国がこの決議案に反対するのは国連誕生以来、初めてだという。

12月14日には「新しい国際経済秩序に向けて」という文書の決議が行われているのだが(これも1974年から毎年決議されているとか)、この二つの決議の結果を見比べると面白い。

まず反ナチ決議。

こっちが「新たな国際経済秩序」。 

これを見ていると、ウクライナ戦争というのは、南北朝の乱とか応仁の乱と一緒で(今ちょっと勉強してるので)、国際社会の深層部で何らかの地殻変動が起きていることを示す現象であって、関係者にとっての勝敗等とは全く無関係に、それが終わると新しい世界が生まれ出ている、というようなものなのかもな、という気がしてくる。

いまW杯の決勝(アルゼンチン VS フランス)を見ながら書いていて、試合が終わったところ。

すばらしいゲームの末のアルゼンチンの勝利。
将来の何かの暗示であるといい。

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世界を学ぶ

イランの民主化
(翻訳記事付)

目次


主要メディアを通して見るイランは、イスラム原理主義で女性を抑圧する前近代的な国家である。しかし、トッドは事あるごとに、中東で最も自由主義的で近代化が進んだ国はイランであると指摘している。

「本当のことを知りたいなー」と思っていたら、ほどよい記事が見つかった。

まずトッドによるイラン情報の骨子を確認し、それから記事をご紹介しよう。

イランの家族システム

イランの家族システムは基本的には内婚制共同体家族なのだが、アラブ世界とは違いがあるという。

 同じイスラム圏でも、イラン・トルコとアラブ世界には大きな違いがあります。その違いは、家族構造の違いとしても現れています。

 トルコ西部は、かなり核家族的な地域です。それ以外の部分は内婚制共同体家族の地域ですが、それでも内婚率はそれほど高くありません。また、イラン中央部では世帯人数が少なく、核家族の痕跡が確認できます。イラン北部のカスピ海沿岸部には、女性の地位が相対的に高い地域があります。‥‥

 ですから、女性たちの被るヴェールという見た目ばかりに気を取られてはいけません、同じイスラム圏でも、シーア派のイランは、父権性がより弱く、女性の地位がより高く、より核家族的で、より個人主義的なのです。この点を西洋は見ようとしません。ここが見えていないから、サウジアラビアに同調し、イランに対抗するというような、人類学的にはまったく不自然なことになってしまうのです。

『問題は英国ではない、EUなのだ−21世紀の新・国家論』(文春新書 2016年)136-138頁

人口動態

イランが中東で「最も」自由主義的で近代的であるということは、実際上は「トルコより」自由主義的で近代的であるということを意味する。

2020年のデータではトルコの出生率は2.04人、イランは2.14人で、両者はあまり変わらない。というかトルコの方が低い(出生率と近代化の関係についてはこちらをご覧ください)。

しかし、トルコの出生率が人口の再生産ラインである2.1を初めて下回ったのが2016年であったのに対し、イランは2000年であった。

人口動態から見た近代化は、イランの方がかなり先行していたのである。 

『文明の接近』158頁

トッドによると、トルコにおける出生率の足踏みをもたらしたのは、トルコ国内の人類学的多様性である。イラン全土の人口動態が比較的同質的であるのに対し、トルコ国内にははっきりした分裂があって、別の国かというほど性格の異なる地域があるのだ。

トルコでは、クルディスタンの出生率は、2001年から2003年にかけて、未だに女性一人当り子供4.2に達していた。それに対して、イスタンブールとトルコ中央部という先進地域では、出生率は1.8なのである。これほど著しい人口学的・社会文化的亀裂を持った国を、一個の国民国家、「一にして不可分の」トルコ共和国、と言うことができるだろうか。

『文明の接近』165頁

政治的近代性

私たちが何となく持っているトルコ、イランのイメージは、トルコは非宗教化された近代民主主義国家だが、イランは宗教的で権威主義的な国だ、というものだろう。

しかしながら、出生率の全国的ならびに地方ごとの指標は、イランはより近代的で、より同質的で、より個人主義的であることを明瞭に示唆している。しかし実は、われわれがこれまで見ようとしなかった政治的な指標も、同じことを訴えていたのである。

『文明の接近』166-167頁

イランの方がより近代的であることを示す政治的指標とは何か、
というと‥

トルコの政体は、民族主義的傾向の軍事クーデタから生まれたものであり、いささかでも逸脱の兆しがあれば厳重に対処する用意のある軍の監視下に、いまでも生き続けている。トルコの非宗教性は、個々人の自由な選択という観念と同一視することはできない。イランでは政体は、フランス、イングランド、アメリカ合衆国と同様に、本物の革命から生まれたのであり、ここでは自律的な要因としての軍は存在しない。

トッドはまた、政治的意思決定の多元性にも言及している。

この国には軍が二つある。一つは正規軍、もう一つは革命から生まれた革命防衛隊である。この二重化が実際上は政治の自律性を保障している。選挙はたしかに絶対的に自由とは言いがたい。どんな者でも立候補することができるわけではないのだから。しかしイラン・イスラーム共和国では、いつでも投票が行なわれ、多数派の交替も頻繁に起こる。不完全な民主主義ではあろうが、将来大いに見込みのある民主主義なのだ。それというのも、この民主主義は、上から下された計画の表現ではなく、住民の総体の、異議申し立てを好み政治的多元主義を好む気質の表現だからである。

167頁

ふーん、そうですか。でも‥‥

「じゃあ、ヒジャブをめぐる最近の騒ぎは何なの?」
「女性を抑圧する権威主義体制なんでしょ?」

と言いたくなりますよね?

紹介記事要旨

そこでお読みいただきたいのが下の記事である。箇条書きで要旨を付けておく。私としては「まあ、そうだろうな」と思えることばかりで、ニュースを見る度に感じていたモヤモヤが払拭された。

  • イランでは数年前から「ヒジャブなし」が普通になっていた。
  • ヒジャブを義務付ける法律は存在するが、執行は厳格ではなかった。
  • 「ヒジャブなし」が問題になるのはエルシャド(指導巡回(日本では道徳警察といわれる))がいた場合だけで、エルシャドの動員は治安が不安定な状況に限定されていた。
  • 抗議行動につながった国民の不満は、ヒジャブ法ではなく、エルシャドによる指導の行き過ぎに対するものだった。
  • イランの政治的意思決定は多元的で、ヒジャブに対する態度も一枚岩ではない。
  • 最高権力者ハメネイやイラン革命防衛隊などの国家革命機関はヒジャブ問題が外国勢力に利用されていることを懸念し、聖職者に妥協を求めている。
  • ヒジャブ法は残しつつ法執行の緩和(死文化)で対応することが見込まれるが、ヒジャブ問題を利用した国家弱体化の試みは容赦なく処罰されるだろう。

イラン:To veil or not to veil
(ベールを付けるべきか、取るべきか)
Sharmine Narwani 2022.12.09

11月の2週間の訪問中、あらゆる年代の女性たちはヒジャブを付けずに自由に街を歩いていた。私たちが知らないだけで、彼らは何年もずっとそうしていたのである。

https://thecradle.co/Article/Columns/19259

9月に始まったイランでの爆発的な抗議行動は、イスラム共和国の「ヒジャブ法」を特に対象としたものではなく、いわゆる道徳警察ーガシュト・エルシャド(単にエルシャド、あるいは「指導巡回」とも)が、不品行な服装とみなされた一般のイラン人女性に対して行った虐待と行き過ぎについてのものだった。

国民の不満の引き金となったのは、広く報道されたMahsa Aminiの死(Ershadに逮捕され拘留中に死亡した)であった。

イラン警察当局が公開したビデオ映像にはアミニが自然に倒れる様子が写っていたおり、公式の検死結果の通り「殴打」によるものというより個人的な健康歴によるもののように見えた。しかし、イランの人々は、一連の不当な取扱のストレスが引き金となったと主張した。

抗議デモは暴動に発展し、民間人と治安部隊の両方から死者が出た。双方が銃で撃ち合ったのか、外部の扇動者が関与したのかは、この論考のテーマではない。

この論考が扱うのは、こうした出来事がイランをどこに向かわせるのか、ヒジャブに対する国民の感情にイランの統治機関がどのように対応するのかという問いである。

非常に分散的なイランの意思決定

イランは、西側の主流メディアでよく描かれるような「漫画のような独裁国家」では決してない。最高指導者アリー・ハメネイ師が戦略的な事柄に関する最終的な権限を持っているが、彼が国内の批判を受けるような形でその特権を行使することはめったにない。

ハメネイは西側諸国とのイラン核協議に反対していたが、当時のハサン・ロウハニ政権が経済関係を正常化しイランの(当時の)孤立を解消したいという願いから協議に関する交渉を進めることを全面的に認めていた。

イランにおいてハメネイほど激しく、西側諸国は決して絶対に信用してはならない、イランの最大の力は経済的な自給自足と西側諸国が支配するグローバルネットワークからの完全な独立性にあると公言して憚らない人物はいないであろう。それにもかかわらず、ハメネイは、ロウハニ政権が彼の深い信念に反する政策を追及するのを平然と見過ごしたのである。

最高指導者のこうした行動は、今日のイランの意思決定プロセスが非常に拡散的であるという現実を物語っている。この国に単一の権威は存在しない。意思決定は協働的に、あるいはイランメディアや議会で繰り広げられる熱を帯びたそしてしばしば非常にオープンな論争によって、そうでなければ密室で行われる。

今日のイランには主要な権力中枢が三つある。第一は、最高指導者と陸軍、警察、イスラム革命防衛隊(IRGC)、数百万人の強力なボランティア部隊であるバシジ隊などの国家革命機関各種。

第二は、イラン政府と選挙で選ばれた大統領、その内閣、国の省庁、議会から成る国家機関。

第三は、ゴム(Qom)にあるホウゼ(神学校)。イランの宗教の中枢で、イスラム共和国の宗教解釈、行動、振る舞いに影響を与える数千人のシーア派の学者、権威、インフルエンサーから影構成されている。

3つの権力中枢はどれも様々な形で国の政策に影響を与えるが、それぞれの影響力も時によって浮き沈みがある。各中枢の中には支持者、諸機関、メディア、経済的利害、影響力のある人物の広大なネットワークが広がっており、他の民主主義社会と同様に、自分たちの意見が反映され実行に移されるよう競い合っている。

したがって、ヒジャブのような複雑で象徴性の高い案件について一人の人間や意思決定機関が何らかの指令を発することができると一瞬でも想像するなら、それはイスラム共和国の政治体制の複雑さ、諸矛盾、多様性について全く無知であるということを意味する。

現地の様子

11月下旬の2週間にわたるテヘラン訪問の際、私はコロナによる渡航制限のせいで2020年にストップする以前の多くの訪問の時と大きな違いがあることに気づいた。

2020年にイランの首都を訪れたときには、レストランでヒジャブをかぶらずに座っているイラン人女性を時折見かけることがあるという程度だったのが、今回、女性たちは街なか、ショッピングモール、空港、伝統的なバザール、大学、公園など、山の手も下町も関係なくあらゆる場所で、伝統的なヘッド・カバーを付けずに歩いていたのである。

下に掲載するのは、私が市内のさまざまな場所で撮影した写真である。

イランのヒジャブをめぐる議論でもっとも重要なのは、この「ヘッドカバーなし」のトレンドが9月の抗議行動とともに始まったわけではないということである。この決定的な事情は、西側メディアではまったく触れられていない。

イラン人女性の多くが、すでにヘッドスカーフを脱いでおり、何年も前から上の写真のような光景が普通になっていた。パンデミックのせいで社会的規範が緩和されたのだろうか?誰に聞いてもはっきりした答えは返ってこない。「ただこれが普通になっただけ」と口々に言うだけだ。

今日のイランでは、年齢を問わず、ヒジャブなしの女性、ヘッドスカーフをした女性、より伝統的な床まである長いチャードルを身につけた女性が同じ通りを一緒に歩いている。みな自分の好きなように、他人のことは気にせずに。

非常に興味深い展開といえる。なぜなら、イランではヒジャブの着用は法律で義務付けられているからだ。しかしエルシャドがひょっこり姿を現さない限り、誰もこの法律を強引に執行しようとすることはないのである。

これは重要な点である。なぜなら、エルシャドはいつでもどこにでもいるというわけではないからだ。エルシャドは2006年から業務を開始したが、イラン当局は彼らを特定の時期にしか動員していないように見える。ゴムが倫理的な案件をめぐって落ち着かない状態になっているときや、保守派が改革派と争っているとき、国境で地政学的な緊張が起きているときなどである。

ともかく、エルシャドはイランの街角にいつも存在するわけではなく、普通は国内のどこかで政治的に何かが起きているときにのみ登場するのである。

当局者はヒジャブ問題を議論している

それにも関わらず、3カ月に及ぶ抗議行動とその後の暴動を経て、ヒジャブをめぐる議論はイスラム共和国で影響力を争う3つの権力中枢の間で山場を迎えているようだ。

私の個人的な経験では、イスラム革命防衛隊のようなイランの治安部門(ハメネイの下で活動している)はヒジャブの問題そのものについて戦闘的な姿勢を示すことは決してない。彼らは外国からの侵入、破壊工作、反テロ作戦、戦争に集中しており、日常生活や人々の立居ふるまいには関心を持っていない。

ヒジャブはイスラム共和国の「シンボル」である。そしてシンボルは、西アジアなどで戦われた無数のハイブリッド戦争を見れば明らかなように、外部の扇動者たちが最初に狙う安直なターゲットである。

抗議の象徴として国旗の色を変えたり、国家に代わる短い歌を作ったり、女性たちにヘッドスカーフを脱いでビデオに撮るよう勧めたり。いずれにせよ、これらはハイブリッド戦争の手っ取り早い手段なのである。

2018年1月、治安当局者や「保守派(principalist)」などの限定的な読者を対象とした出版物のインタビューで、シリアとイランにおけるこうした手段の使用について質問を受け、私は以下のように答えた。

象徴的なスローガン、横断幕、プラカードは、西側スタイルの「カラー革命」の定番です。イランでは2009年の選挙期間中に行われた「グリーン」運動のときに、こうしたツールが威力を発揮していました。運動のメッセージや目標を幅広い聴衆に対して一瞬で伝えることができる視覚的ツールの使用は、マーケティングの基本といえます。これまでも選挙のときには用いられていましたが、今では地政学レベルの情報戦においても効果的に活用されるようになっています。

シリアで植民地時代の緑色の旗が使われたのは、より多くのシリア人を即座に「反対派」チームに引き込む手段でした。基本的に、政府に対して不満を持っている人なら誰でも、その不満が政治、経済、社会、宗教のどれに関わるものであろうと、この新しい旗を掲げた抗議運動に参加したいという気持ちにさせられました。シリアの活動家たちは金曜の抗議行動に名前を付けることで、大衆の動員に成功しました。彼らは言葉の力を使って抗議の方向性を作り上げ、徐々にイスラム化の方向に進めていったのです。

スローガンや看板は、国民の中の強い主義主張のない層の関心を引いて反政府的な立場に立たせるプロパガンダの簡単なトリックです。人々の自己同一化を可能にするツールは政権転覆作戦の不可欠な構成要素となっています。新たなシンボルを作るために、既存の国家的シンボルを否定する必要があるというわけです。

イランではヒジャブを付けない若い女性の画像が抗議のシンボルとして瞬く間にSNS上に広がりました。皮肉なことですが、ヒジャブは1979年のイスラム革命にとってのシンボル、その政治的・宗教的な意味を一瞬で示すことができる看板でもあります。そのため、外国が支援するプロパガンダ攻撃においては、ヒジャブはほとんど常に、否定とあざけりの対象となるのです。

このインタビューはヒジャブをしていない私の写真とともに掲載された。数週間後、私は、イスラム革命防衛隊のクドス部隊と密接な関係にあるとされるイランのトップアナリストからメールを受け取った。彼はインタビューのスクリーンショットを送ってきて、これは私が書いたものかと尋ね、驚いたことに、私の見解に全面的に賛成だと述べた。

なお、これ以外にも、イスラム革命防衛隊が関係する出版物「Javan」から、雑誌の特集号にシリアに関する私の記事の翻訳とインタビューを載せたいと依頼を受けたことがあるが、このときも、彼らはヒジャブなしの私の写真を掲載した。

ヒジャブと国家

一言でいえば、イランの治安部門にとってヒジャブは優先事項ではない。彼らはほかにもっと重要な懸案を抱えている。しかし、ゴムの内外の神学者にとってはヒジャブは枢要なテーマである。

そして、おそらく、ヒジャブをつけることを選び、それによって迫害されることー1936年、当時の君主レザー・シャー・パーレビがイスラム教の伝統的な頭巾を禁止したときの彼女たちの祖母のようにーを望まない何百万のイラン人女性にとっても、同様に重要である。

ヒジャブが禁止されたことで、多くの女性が何年も家に閉じこもり、あるいは夜間や馬車に身を隠してしか外出しなかった。警察を避けるためである。警察は必要であれば力づくでベールを剥ぎ取った。当時は年配のキリスト教徒やユダヤ教徒の女性たちにとっても、ヘッドスカーフの禁止に従うのは難しかったのだ

マリアム・シネーは書いている。皮肉なことに、これを出版した(サウジ政府が関係する)会社(Iran International)は、最近ではイランの反政府主義者のプロパガンダを24時間365日実施している。

これらの問題はともかく、イランの治安部門の指導者たちは、今日、聖職者たちにかつてないほど強い異議を申し立てている。
「私たちが敬意を抱くヒジャブが、国家安全保障の領域に入りつつある。外国に支援された政権転覆計画がヒジャブをその武器として利用しているのだ。」
これは、近時の状況に鑑みても、聖職者が賛成できる立場ではない。

イラン当局が脅威を取り除くために、エルシャドの停止や解散、その代替としてのイスラムの節度に関する(男女を問わない)全国的な教育プログラムの導入を含む様々な選択肢を検討しているとされるのは、おそらくこうした懸念のためであろう。

前イラン大統領マフムード・アフマディネジャド政権の下で設立されたエルシャドは、何週間も前から街頭から姿を消している。イランの3つの権力中枢は、国民の間に残る緊張を鎮め社会的不満に対処する方法を熱心に議論している。

興味深いことに、この展開はペルシャ湾を挟んだ宿敵サウジアラビアの状況とどこか似ている。サウジでは2016年の勅令で「ムタワ」(サウジの宗教警察)のかつては無制限であった権限と特権が剥奪された。それ以来、サウジの成文法に変化はないにもかかわらず、女性が公の場でベールを脱ぎ、伝統的な黒いアバヤを纏わず通常の衣服でいるのを見ることはいっそう普通になった。

ゴムや他の機関がヒジャブ法の廃止に同意することはないだろう。元々、論争の原因は一部の者による過剰な法執行にあったのだ。イランのヒジャブ法は、どの国の法典にもある多くの死文化した法律と同じような運命をたどることになるのかもしれない。

しかし、ヒジャブに関する態度の緩和が期待されるとしても、それは、敬虔さの象徴であるヒジャブを利用して国家を弱体化させる試みに対する容赦のない取り締まりを伴うものとなるだろう。

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社会のしくみ

日本史概観(2)
-摂関政治、院政と平氏-

目次

平安末期ー父系の強化

飛鳥時代から平安時代までは、天皇を中心とした王侯貴族が大陸文化の独占によってその権威を保った時代であり、「舶来の権威」そのものの時代といえる。

しかし、その後半になると、天皇家を中心とした政権の枠内で、天皇親政から藤原氏による摂関政治(967-1068)、院政(1086~)へという推移が起こる。

この動きが家族システムと関連していることは明らかと思われる。なにしろ「天皇親政→摂関政治→院政」の変化とは、政治の実権が「天皇本人→母方親族→父方親族」に移行したことを意味しているのだから。

何がこのような変化をもたらしたのであろうか。 

摂関政治ー「舶来の権威」がもたらした女性重視の文化

摂関政治とは、藤原氏が天皇の外戚(母方の親戚)としての地位を確保したことで国政を支配した仕組みである。 

藤原北家は9世紀初めごろから、陰謀と天皇家との婚姻で徐々に一族内の他家、他氏排斥を進めた。当時、皇子の養育は母方の家で行われたので、皇子の母方の祖父は、皇子に大きな影響力をもった。この仕組みを巧妙に利用して、11世紀には道長が、その次の頼通も、意のままに国政を左右し、この世の栄華を誇った。

武光誠・大石学・小林英夫監修『地図・年表・図解でみる 日本の歴史 上』
(小学館 2012年)71頁

なるほど。しかし、そもそもなぜ、皇子の養育を母方の家で行うという仕組み(母方居住)が取られていたのだろうか。

母方居住とは、子供の養育における母親の役割をより重視するシステムである。当時の日本はまだ強固な父系社会ではなく、父母の重要度に大きな差異はなかった(双方系)と見られるが、母方居住が制度化されていたということには何らかの説明が必要であろう。

これには、当時の国家が「舶来の権威」によって成り立っていたというその事情がまさに関係しているように思われる。

推古天皇ー聖徳太子の頃から、皇族や貴族にとってもっとも重要だったのは中国の先進的文化に関する知識だった。律令制度による政治の仕組みが整った後は、皇族・貴族がもっとも重視したのは、学問的・文学的素養であり、彼らは文字を読み、詩歌を作り、儀式に習熟することで、その権威を保っていたのである。

源氏物語絵巻第38帖「鈴虫」(12世紀、五島美術館蔵)

いかなる家族システムの社会においても、幼い子供に読み書きを教え、教育的な雰囲気を涵養するのは母親である(トッド『世界の多様性』312頁以下等)。

当時の皇族・貴族が大陸由来の文字文化の担い手であることによって地位を保持していたことを考えれば、彼らが子供の養育を母方で行うようになるのは自然なことであろう。

母方居住の慣習により存在感を高めた藤原氏が、天皇の後宮に入れた娘たちの側近として教養の高い女性たちを登用し、『源氏物語』『枕草子』に代表される文学の興隆をもたらしたのも、故なきことではない。

* なお、この点についてトッドが立てている仮説は私のとは違う。彼は、藤原氏の覇権をもたらした母方居住を、中国の父系原則の流入に対する「補償的母方居住反応」と見ている(起源I・上239頁)。つまり、父系原則の流入による女性の地位低下(母系の価値観の衰退)を埋め合わせるために発生した習慣ではないかというのである。

人類学に関する私自身の専門性の低さからすると「ええ、そうかもしれませんね‥」としか言いようはないのだが、大宝律令(702年)が中国に学んである程度の父系原則を取り入れた後、養老律令(718年)では父系原則はむしろ後退しているし、その後も父系原則が中国から順調に伝播したという様子は見えない。

遣隋使の派遣により中国との公式の接触が再開(600年)したのと同時期に日本が女帝の時代を迎えたこと(593年の推古天皇から770年までに6名の女性天皇が誕生)については、中国の強固な父系原則に対する反作用と見るトッドの立場に説得力を感じるが、藤原氏の時代の母方居住の制度化(いつから始まったのが不明だが一応この時代に強まったと仮定する)については、その説明だけでは少し弱いと私は感じる。

トッドが指摘する女性的文学の登場も、どちらかというと「中国と日本の二元性が母方居住を生み出した」というよりは、「母方居住の習慣が女性的な文化の登場を可能にした」という順序ではないかと感じる。

院政ー「父系重視」の波

他方、院政は、院(上皇・法皇)が、天皇家の家長として天皇を後見するという体で実権を掌握する方式である。政治の実権は、後三条天皇の親政(1068-72)を介して、藤原氏の母方支配から父方支配の院政へと正反対に振れたことになる。

院政が始まったのは、地方で武士が台頭し、源氏と平氏を棟梁としてまとまりを見せていくのと同時期のことである。

したがって、院政の誕生は、かなり単純に、地方の勢力が軍事・行政上の実力を高め一大勢力として台頭してきたことへの、朝廷側の対応と理解することができる。

この時期、直系家族の中核的要素である長子相続の習慣はまだ発生していない。長子相続を促す「土地の不足」が生じるのは武士による所領の大規模開発が進む12世紀末のことである。

しかし、新興勢力が勢力を拡大するために武装し、紛争を多発させるという状況が、家の一体性の重視、そして父系(男性)の重視という傾向を生み出すことは容易に想像できよう。

要するに、この時代は、権力の基盤が「舶来もの」の文化的威信から在地勢力の実力に移行する過程の中で、直系家族の一要素を成す「父系権威の重視」の傾向が生まれた時代だった。

「実力」が問題となりつつある以上、天皇家も安穏と歌や儀式に興じてばかりはいられない。勢力の維持・拡大のためには、皇室も父系原則を取り入れ、新興勢力に伍していく必要があった。

そのような状況で開始されたのが院政の仕組みであり、院政とは在地の武士の間で高まった「父系重視」の波の天皇家バージョンなのである。

『平治物語絵巻』 三条殿焼討 ボストン美術館所蔵。平治の乱(1159年)

源氏と平氏ー貴族と武士の中間で

このように見ると、源氏や平氏と院の微妙な関係性も分かりやすくなる。いや、みんなは分かっているのかもしれないが、私はずっとよく分からなかったのだ。

まず、「天皇の時代→武士の時代」(舶来の権威→地物の権威)の移行期における源氏・平氏の活躍は、彼らが貴族でありかつ武士であるという中間的な存在であったことが大きい。

源氏と平氏はどちらも天皇の血筋である。皇室は平安前期から経費節減のために皇族を臣籍に下すことをするようになり、そのときに彼らに授けた姓が源氏であり平氏であった(清和源氏とか桓武平氏とかいうのは直近の祖先である天皇の名前である)。

彼らはやがて武士として力を付けていくけれども、高貴な血筋であることに違いはなく、「軍事貴族」(山川教科書にこの表現がある)とでもいうような存在であったのだ。

彼らは地方の武士からは高貴な血を引くリーダーとして慕われ、武家の棟梁としての地位を固める。一方、皇族や貴族にとっても身内として頼りにしやすい存在であったので、摂関家や院に奉仕することで、中央での地位を高めていった。

宮廷の時代を終わらせた平清盛

そういうわけで、まず、院政とともに平氏の時代がやってくる。歴代の上皇が軍事力の要として平氏を重用し彼らがそれに答えたからだ。平氏にとっても、中央でのし上がっていくためには上皇の力が必要だった。

しかし、政治の中枢に近づくにつれ、見えてくるのは「平氏こそが実力者である」という事実だった。彼らの背後には家人として従う全国の武士団とその土地があり、行政・経済の面における実力でも劣るところはない。

実力の時代に差し掛かっていたからこそ、平清盛は「だったら自分が頂点に立てばいいじゃん」と思った。一方で、まだ「舶来の権威」は健在であったので、清盛は天皇の外戚としての地位を確保し、一族で官職を独占するなど、往時の藤原氏のようにふるまった。

「貴族のようにふるまう武士」として専制的な権力を振るった平氏は、院をはじめとする皇族・貴族(+寺社勢力)と武士の双方から反感を買い、その覇権はまもなく終わる。

しかし、平氏を倒すための戦いで活躍し、その地位を高めていったのもやはり武士勢力だったのである。

朝廷を乗っ取り、貴族の衣を纏って自爆した平氏は、そのことによって、皇族・貴族の時代を終わらせたのだといえる。

それあってこそ、鎌倉の武士たちは、実直な武士のやり方で「地物の権威」を確立していくことができたのだ。

今日のまとめ

  • 平安期の政治は「天皇親政(天皇本人)→摂関政治(母方支配)→院政(父方支配)」と推移した。
  • 「母方支配」の基礎は母親の教育力であり、皇族・貴族が大陸由来の文字文化を担うことで権威を保っていた時代の産物である。
  • 「父方支配」の院政は、武士の間で生まれた父系傾向の天皇家バージョンである。
  • 移行期における源氏・平氏の活躍は、彼らが貴族と武士の中間的存在であったことによる。
  • 平氏は、貴族の衣を纏って自爆することで皇族・貴族の時代を終わらせた。

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社会のしくみ

日本史概観 (1)
-建国の秘密-

日本にも秘密がある

10世紀末に直系家族の「権威」が誕生する以前、原初的核家族のヨーロッパが国家を作ることができたのは、ローマ帝国の遺産であるキリスト教の権威を借り受けたためだった。

   *直系家族の「権威」と国家の関係についてはこちらこちらをご覧ください。

日本における直系家族の誕生は13世紀末から14世紀初頭(鎌倉時代後半)とされる1家族システムの起源I 240頁。日本もそれ以前は原初的核家族であったわけだが、その時期にすでに国家が成立していたことは明らかであろう。

ヤマト王権誕生の地と見られる纏向に大型の前方後円墳(箸墓古墳)が築造されたのは3世紀末、その後「5世紀後半から6世紀にかけて、大王を中心としたヤマト政権は、関東地方から九州中部に及ぶ地方豪族を含み込んだ支配体制を形成していった」(山川出版社・詳説日本史B改訂版(2020) 32頁(以下「山川教科書」))。

箸墓古墳 © 地図・空中写真閲覧サービス 国土地理院

蘇我氏が実権を握り、飛鳥の地で推古天皇が即位したのは592年、中央集権化と律令国家への道を踏み出す大化の改新は646年(改新の詔)、大宝律令が完成するのは701年である。

したがって、日本の建国についても、ヨーロッパのそれと同じ問いを問うてみる必要がある。

当時、「家族システム以前」であり「国家以前」であったはずの日本は、なぜ国家を作ることができたのだろうか。

日本の国家形成と中国

日本にとってのローマ帝国は、いうまでもなく、中国である。

中国では紀元前1100年頃に直系家族システムが定着し、すでに紀元前200-100年頃には共同体家族の帝国が生まれていた。その後もシステムの強化は続き、900-950年頃までに女性の地位の最大限の低下を伴う共同体家族に到達した。

いうまでもないことばかり書いて申し訳ないが、
日本と中国の交流の歴史は古い。

外交的交流としては、漢(前漢)の時代(前202-後8)に倭人の国が定期的に使者を送っていたとか(漢書地理志)、後漢の時代(25-220)に光武帝から印綬を贈られたとか(後漢書東夷伝)、邪馬台国の王(卑弥呼)が魏 (220-265)の皇帝に使いを送り「親魏倭王」の称号と金印、銅鏡などを贈られた (239年)(魏志倭人伝)といったことが記録に残されている。

金印 漢委奴國王印文(public domain)

4世紀には中国の南北分裂の影響で朝鮮半島にかけて高句麗、百済、新羅が生まれ、日本も加耶諸国(日本書紀では「任那」)を通じて朝鮮半島情勢に大きく関わる。日本はこの時期、朝鮮半島での外交上・軍事上の立場を有利にするため、宋(南朝)に朝貢していたという(5世紀・宋書倭国伝)。

6世紀から7世紀になると、中国は隋(589)、唐(618)が南北統一を果たし、朝鮮半島にも勢力を拡大する気配を見せる。ちょうどこの時期に政権を担った推古天皇(在位593-628)や聖徳太子(在位593-622)は、国の組織を整える作業を行う傍で、中国に遣隋使を派遣し(600年-)、外交関係の構築を図っていた。

3世紀末以降、とりわけ6世紀末以降の日本の国家形成の動きは、中国文明を中心に国際情勢が渦を巻き始める中で、日本列島にも外交・軍事上の主体としての政府が必要となったことによるものと思われる。

天皇ー中国から借りた権威

中国と対等な関係を構築していくためには、日本にも皇帝に対応する何かが必要である。そのとき生み出されたのが「天皇」だった。

村上重良先生の説明をお読みいただこう。

天皇という称号は、中国から取り入れたもので、スメラミコト、スベラギ、スベロギなどと訓(よ)んだ。‥‥中国で皇帝が天皇と称した例は、唐の高宗(在位650-683)があるのみで、中国ではもっぱら宗教上の用語である。日本での用例は、608年(推古天皇16)聖徳太子が隋に送った国書に「西皇帝(もろこしのきみ)」に対して「東天皇(やまとてんのう)」と称したとの『日本書紀』の記述が最初とされる。古代国家の大王がとくに天皇の称号を採用したのは、自己が天の神の子孫であることを強調するとともに、国の最高祭司として自ら祭祀を行い、祭りをすることによって神と一体化するという宗教的性格の強い王であることを表したものであろう。‥‥

小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)[村上重良]

「天皇」の称号がその宗教的性格を表すために選択されたという解釈は、家族システムと国家の関係を探究するわれわれには意義深い。

聖徳太子が外交文書で「天皇」を採用した後、国内で「天皇」の称号が用いられるようになったのは、天武天皇の頃だという(山川教科書39頁)。

壬申の乱(672年)で大友皇子を倒して即位した天武は、乱で(豪族を追い落として)勝ち取った強大な権力をもって中央集権的な国家体制の形成を進めた(なお、このとき天武が勝利を祈願した伊勢神宮が国家的祭祀の対象となった)。日本はこの少し前に白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗しているから(663年)、国力の強化は課題として意識されていたはずである。

日本には天武という力のある王がいて、家族システムは発達していない。この状況で中央集権的な「強い」国家を形成していくために、万世一系の神の権威が必要だったのであろう。フランクの王クローヴィスがキリスト教に改宗し、一神教の権威を身に纏ったのと同じように。

天武天皇を支えたのが伊勢の神であったとしても、天皇の権威を裏付けていたのは伊勢神宮ではないだろう。

大陸の威光に照らされることなしに、日本という国、そして、天皇という存在が生まれることはなかった。神との一体性という物語に彩られたその権威の真の源泉は、中国帝国の皇帝と並び立つ存在であるという事実の方にあったのである。

日本史の基本的対立軸
ー舶来の権威 VS 地物の権威 

そういうわけで、国家としての日本の出発点には、中国の威光に照らされた天皇の権威があった。中国由来の「舶来」の権威は、家族システムの発達を見ていなかった日本が国家を形成するには不可欠なものだった。

しかし、農耕が発達して人口が増え、やがて土地が不足していけば、日本の国土の上でも家族システムの進化が起きる。定石通りであれば、それは直系家族となるだろう。

冒頭で述べたように、日本では13世紀末から直系家族システムが形成されていく。直系家族が生成するということは、社会に縦型の権威の軸が生まれ、自律的な国家形成が可能になるということである。すでに「舶来の権威」のもとで国家が作られている土地で新たに「地物」の権威が発生すると何が起きるか。

自然の成り行きとして、「地物の権威」は自らの権威に拠って立つ国家を作ろうとする。これも自然の成り行きとして、新たな権威は既存の古い権威とぶつかる。直系家族の生成が始まると、「地物」の権威と「舶来」の権威が衝突し、勢力争いが始まるのである。

二つの権威と家族システムに着目すると、日本の歴史は、「舶来の権威」の時代から「地物の権威」の時代、つまり、大陸の威光を借りた原初的核家族の国家から、自前で構築した直系家族の国家に移行する過程として描くことができる。

家族システムが未完成の間、二つの権威はしばし並存し、綱引きをする。しかし、完成した暁には、国家の仕組みは直系家族の縦型の権威構造にしたがって組み替えられるのである。

予告編

移行過程を時代区分に照らして見ると、「舶来の権威」の時代に当たるのは飛鳥・奈良・平安時代、到達点の「地物の権威」が徳川支配の江戸時代である。

その中間に、天皇と未完成の直系家族の権威が併存し、対立・綱引きする時代(平安末期・鎌倉・室町)があり、優位を確定させた直系家族が直系家族間の覇権争いに天皇の権威を利用する時代(戦国・安土桃山)がある。それを経て、ようやく、直系家族が支配権を確立し、天皇の権威なしにやっていく時代(江戸時代)が来るのだ。 

移行期に当たる平安末期から江戸時代の開始まで‥‥そう、この時代こそ、何がなんだかよく分からない時代ですよね?

藤原家の摂関政治の後が院政で、平氏の時代かと思えば院と源氏がともに平氏を倒し、すぐに頼朝は院と対立し、その後実権を握った北条も院と争い、蒙古襲来で北条の力が落ちると後醍醐天皇が出てきて足利尊氏と一緒に倒幕したのに尊氏は別の天皇を立てて幕府を開き、南北朝の動乱はいろんな勢力を巻き込んで全国に広がって60年も続き、収まったと思ったらまたいろんな家が入り乱れて応仁の乱を戦い、誰が勝ったかよく分からないうちに戦国時代になって、やがて政治の中心は京から江戸に移るのだ。

「だから何?」「これ全部覚えて何かいいことあるの?」と高校生の私は思っただろう(覚えられなかったので受験科目は世界史を選択した)。

移行期にあたる平安末期から江戸時代の開始までは、直系家族が生成していった時代であると同時に、識字率が(たぶん)上昇を続けた「プレ近代化」の時代でもある。男性識字率50%(19世紀後半)とはいかないまでも、文字を読む層が、皇族・貴族・聖職者から武士、商人、農民(+それぞれの上層から中層)へと拡大し、政治的な発言力を持つ層が広がっていく。

識字層の拡大がもたらす成長に家族システムの進化が伴う地殻変動の時代だからこそいろいろな事件が起こるのだが、事件の意味は分かりにくい。

しかし、家族システムの進化が絡んでいることを意識すれば、それだけで、面白いほどよく分かるようになるのである。

というわけで、次回以降、家族システムの進化に焦点を当てて、「舶来の権威」の国家が「地物」直系家族の国家に生まれ変わるまでの過程を追ってまいります。

今日のまとめ

・直系家族の成立以前、原初的核家族の日本は大陸の威光を借りて国家を建設した。

・直系家族の生成が始まると、直系家族の「地物の権威」と大陸由来の「舶来の権威」が衝突した。

・近代以前の日本の歴史は、大陸の威光を借りた原初的核家族の国家から、自前で構築した直系家族の国家に移行する過程である。

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    家族システムの起源I 240頁
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世界を学ぶ

パキスタンは燃えている
-民主化過程見学ガイド-

11月3日にイムラン・カーンが銃撃された後も、パキスタン議会の解散と総選挙の実施を求める抗議デモは続いている。イムラン・カーン自身も早期の復帰を約束しデモの継続を呼びかけている。パキスタンでいったい何が起きているのだろうか。

推奨BGM
Clash “London’s Burning

イムラン・カーンの人気は何を意味するのか

イムラン・カーンは2018年に首相に就任した。しかし今年(2022年)4月に議会の不信任決議により首相職を追われ、8月には反テロ法容疑で逮捕、10月には議員資格を停止され5年間の公職追放処分を受けた(詳しい経緯は後ほど)。デモはこうした一連の措置に反対し、総選挙の実施を求める趣旨のものである。

イムラン・カーンの首相就任については、クリケットのスーパースターという経歴から「世界を席巻するポピュリズムの波がパキスタンにも訪れた」と評されることが多かったようだが、それはちょっと違うと思う。

トッドに学んだ人口学の知見を応用してみれば分かる。下に「参考」として示す各種データを見ていただきたい。はっきり読み取れるのは、パキスタンは今まさに近代化の過程をくぐり抜けている最中の、若者ひしめく活気に満ちた国家だということである(→近代化モデルについてはこちらをご参照ください)。

イムラン・カーンは、裕福な家庭に育ちパキスタンのエリート校を出てオックスフォード大学で哲学、政治学、経済学の学士号を取得した、パキスタン社会のエリートである。

イムラン・カーン首相の誕生は、識字化し政治に目覚めた人々が自分たちに相応しいエリートの人気者を選んだ結果である。考えられる限りもっとも健全な民主的選択ではないだろうか。

民主主義が終わろうとしている国の「ポピュリズム」などと一緒にするのは失礼だし、的外れだと思われる。

(参考)パキスタンの人口学・人類学データ

家族システム 内婚制共同体家族
宗教     イスラム教
近代化指数  男性識字化 1972  女性識字化 2002  出生率低下 1990
       *比較対象となる数字はこちら
年齢中央値 22.78歳(2020)
       (→日本の1940-50相当 2020の日本は48.36)
人口      約2億1322万人(2017)

By Abbasi786786 – Own work, CC BY-SA 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=120269592

↑ 年齢はとにかく若い。日本だと1940-50年頃がこんな感じだった。

↑ 人口もこんな感じで増えている。

↑ トッド的に重要な乳児死亡率も順調に低下を続けている。

パキスタン政治のこれまで

パキスタンではまだ(いわゆる)民主化革命は起きていない。しかし今起きていることは間違いなくその前兆(あるいは一部)である。

彼らがいったいどんな未来を作ってくれるのか、私は楽しみで仕方がないので、これをしかと味わうために必要と思われる情報をざっくりまとめてみたい(随時更新するかもしれません)。

独立〜クーデター政治

パキスタンがイギリスから独立したのは1947年。しかし、しばらくの間はよくある新興国の政治が続く。 

建国の父(ムハンマド・アリ・ジンナー)がいて、選挙で選ばれた初代大統領が誕生するがクーデターが起きて軍事独裁となり、その評判が落ちるとまた選挙で指導者が選ばれたりするがすぐにクーデターで軍事政権に戻る、という感じのやつである(なおパキスタンには大統領と首相がいる。両者の関係は(今のところ私には)不明だが2010年の憲法改正で議院内閣制に移行して以後、大統領は名誉職的なものになったという(wiki))。

なぜそうなってしまうのか。我々にはもう分かっている。パキスタンで男性識字率(20-24歳)が50%を超え、近代化の始まりを告げたのはようやく1972年のことである。国民の選択に基づく民主主義がそれより前に機能するはずはないのだ。

民主化の第一歩

真の民主化に向けた歩みの第一歩目が踏み出されたのは、2008年の総選挙であったと思われる。

そのときの大統領は、陸軍参謀総長であった1999年にクーデターを起こして政権についたムシャラフ。比較的自由主義的で進歩的だったとされる彼は「自由で透明性のある方法」で選挙をすると公約し(wiki)、行われたのがこのときの総選挙だった。

ムシャラフは国民の人気も高い指導者だったのだが、ベナジル・ブット元首相暗殺事件などの結果、議会は反ムシャラフ派で占められ、パキスタン人民党のギラーニが首相に選ばれた。詳細は省くがムシャラフ大統領は辞任に追い込まれ、新たに行われた大統領選挙でパキスタン人民党総裁のザルダーリー(ブットの夫でもある)が大統領に選出された。

ただ、このとき選ばれたギラーニ政権も任期を全うすることはできず、司法の介入により解任されている(後述)。司法の背後には軍がいたとされており、まだまだ軍の実力がものを言う世界であることは間違いない。

アメリカとの関係

アフガニスタン紛争の蜜月から
「テロとの戦い」へ

パキスタンはインドへの対抗上つねに大国の助力を必要としていたため、状況が許す限り中国ともアメリカとも緊密な関係を結んできた。

アメリカから見るとパキスタンはソ連およびイラン封じ込めのために重要で、戦略的重要性は1979年のソ連のアフガニスタン侵攻以後増大した。

アメリカはソ連が支援する当時の共産主義政権(アフガニスタン人民民主党)に対抗するため、アフガニスタンにおける対抗勢力であるイスラム主義者を支援し、同時にその後援者であるパキスタンの軍事政権への支援も強化した。

なお、アフガニスタンのタリバンはこのときアメリカが支援したイスラム主義勢力の中から生まれてきたものである。同じくイスラム主義を標榜するパキスタンは、アフガニスタンのタリバンに基本的には親近感を持っているはずである。

そのため、2001年の同時多発テロの後、アメリカがオサマ・ビン・ラディンを匿ったと難癖をつけてアフガニスタンのタリバンと戦争を始めると、パキスタンは難しい立場に置かれることになった。

無人機攻撃への反感

親米で知られる当時の大統領はアメリカの「テロとの戦い」を支援する現実的立場に立った。2008年に首相となったギラーニもその立場を継承し、この間アメリカはパキスタン西部のシャムシー空軍基地を無人機(ドローン)攻撃の拠点として使うことを許された。

無人機攻撃作戦の対象は当初はアルカイダ高官のみであり、アメリカにテロを仕掛けた者たちの討伐という理由はパキスタン国民にもどうにか受け入れ可能だった。

しかし、アフガニスタン戦争でタリバンに苦戦していたアメリカは、2008年、彼らと関係があると見られるパキスタン国内のイスラム主義勢力(北部ワジリスタン周辺を拠点とするパキスタン・タリバン運動)にまで対象を拡大することを決める。

オバマ政権(2009-)の下、パキスタン国内での無人機作戦の実行回数は大幅に増加した。2009年から2012年までの3年間の無人機攻撃作戦は約260回、民間人の犠牲者は282-535人(60人以上は子供)と報告されている(the Bureau of Investigative Journalism)。

パキスタン・タリバン運動(TTP)は50以上のイスラム主義グループの連合体で、その中には政府にテロ攻撃を仕掛ける過激派勢力がいる一方でそれを抑えようとする穏健派もいる。

過激派勢力にしても、彼らの存在はパキスタンの国内問題であって、アメリカの「テロとの戦い」とは何の関係もない。パキスタン側から見れば、パキスタンのイスラム主義勢力への攻撃が内政干渉であることは明らかだった。

パキスタンの人々にとっては、パキスタンのイスラム主義勢力もアフガニスタンのタリバンも本質的には敵ではない。アメリカが勝手に敵視するそれらの攻撃のために自国領土を荒らされ、民間人までが犠牲になるという事態に、パキスタン国民の反米感情は高まった。

ビン・ラディン急襲の余波

アメリカは、2011年5月、パキスタン政府への事前通告なしに国内に潜伏していたウサマ・ビン・ラディンを急襲し、殺害した上、ビン・ラディンの潜伏に協力していたと決めつけてパキスタン政府を非難した。

さらに、同年11月には、アフガニスタンに駐留するNATO軍がパキスタンの国境警備隊基地を越境爆撃し、兵士24名を死亡させる事件が起きた。

パキスタンはこうした事態を主権侵害であるとして非難し、政府はNATO軍のための物資の補給路を遮断した上、シャムシー空軍基地からの立退をアメリカに要求した(のちに交渉の末復旧)。

なお、このときの首相は先ほど述べた2008年の選挙の後に首相に選ばれたギラーニで、彼はこの直後の2012年2月にパキスタン最高裁により法廷侮辱罪(ザルダーリー大統領の汚職疑惑を追及しなかったという理由)で有罪とされ退任させられている。合憲性に疑問のあるこの司法の行動の背後には軍がいたというのが一般的な見方のようである。

2013年の総選挙では1990年代から2期に渡って首相を務めたナワーズ・シャリーフが選ばれ、2017年に汚職疑惑で亡命するまで政権を維持した(ちなみにイムラン・カーンの首相解任後に首相に選ばれた現職のシャバズ・シャリーフはナワーズの弟)。

イムラン・カーンの首相就任と排除

イムラン・カーンの躍進

こうした状況の中、アメリカの無人機攻撃や北部ワジリスタンでの軍事作戦に対し断固反対の姿勢を示し、国民の支持を集めていったのがイムラン・カーンなのである。

1996年に下院議員となったイムラン・カーンの政党「パキスタン正義運動」は2013年の選挙で第3党に躍進、2018年にはついに第1党となる。こうして、同年8月に、イムラン・カーンが首相に就任することになる。

イムラン・カーン排斥の手続きは正当か?

そのイムラン・カーンは、2022年4月10日に内閣不信任決議により首相の座を追われた。

必ずしも「クーデター」という報道はされていないようだが、以下に見るように、その経緯は通常とはいえない。

野党が不信任決議案を提出したとき、イムラン・カーン首相は議会を解散して総選挙に打って出ようとした。パキスタンの法制度がどういうものなのか私は知らないが、首相や内閣の決定による解散総選挙の実施は議会制民主主義の国では普通のことである。

不信任決議案は内閣を辞めさせるために出すのだから、内閣が解散し総選挙をするといえば文句はないはずであろう。日本の場合、不信任決議が可決された場合も、内閣は解散総選挙か内閣総辞職のどちらかを選ぶことになる。選挙の実施が許されないということはあり得ない。

ところがパキスタン最高裁はイムラン・カーン首相による議会解散を違憲と判示する。そして復旧した議会は提出された不信任決議を可決してカーンを辞めさせ、野党から首相(イムラン・カーンの前の首相ナワーズ・シャリーフの弟シャバズ・シャリーフ)を選ぶのである。

これではまるでイムラン・カーンを排斥し選挙によらずに次の首相を決めるための策謀のようではないか?

いつものパキスタンのやり方といえばそれまでではあるが、カーン首相を支持したのはこうした政治にうんざりした人々なのだ。

イムラン・カーンは「アメリカが背後にいる」と主張しているが、それが不合理な主張ではないことも確認しておく必要があるだろう。

イムラン・カーンは、ロシアがウクライナに侵攻する前日の2月23日に、プーチン大統領の招聘に応じてロシアを訪問していた

ウクライナ侵攻開始後、カーンは、ロシアの行為を非難するよう要求する西側諸国の圧力に不快感を示していた

おそらくその関係だと思うが、イムラン・カーンは「ある国」からの文書の存在を公表し(のちに「アメリカ」と明言)、3月31日に開催した国家安全保障委員会(NSC)の席でそれを内政干渉であると確認する決定を行った上で、アメリカ大使館に公式の抗議文を届けていた(4月1日)。

内閣不信任案の提出は、この直後というタイミングだったのである。

排斥の動きは続くが人気も続く

首相解任という事件の後も、イムラン・カーンの人気は衰えず、7月に行われたパンジャブ州の補欠選挙で、イムラン・カーンのパキスタン正義運動は20議席中15議席を獲得する大勝利を収めた。この結果は新政権への不信任と同時に、4月の政権交代の不当性を訴えるカーンへの国民の支持を示すものと捉えられた。

その直後(8月)、イムラン・カーンは反テロ法違反の容疑で逮捕され(パキスタンの反テロ法の問題性については「おまけ」の記事②に詳しい)、10月21日には選挙管理委員会により議員資格の剥奪と5年間の公職追放が決定される。

11月3日の暗殺未遂事件は、こうした一連の動きに反対し、早期の解散総選挙を求めるデモ行進の最中に発生したものである。

おわりに

イムラン・カーンはパキスタンの現政権にとって最大の政敵であり、アメリカの敵でもあるので、主流のメディアから中立的な(あるいは好意的な)情報を得るのは難しい。おまけとして独立系ジャーナリズムの記事(翻訳)を付けておくので、お読みいただくと大体の感じがお分かりいただけると思う。

パキスタンの民主化は大変だ。彼らが倒したい古い勢力の背後にはアメリカが付いていて、自らの覇権維持のためになりふり構わず介入してくるのだから。

彼らの今後は国際情勢に大きく左右されるだろうが、だからこそ、彼らの動きは間違いなく現今の激動に大きな影響を与えていくだろう。

ああ、楽しみ。

まとめ

  • パキスタンは近代化=民主化局面にある
  • パキスタンはアメリカの対ロシア・イラン政策上重要な支援対象だった
  • アメリカがアフガニスタンのタリバンと戦争を始めたことで、パキスタンとの関係が難しくなった
  • 「テロとの戦い」の中で展開されたパキスタン国内での無人機攻撃作戦が国民の反米感情を高揚させた
  • イムラン・カーンはアメリカの作戦に一貫して反対の姿勢を示したことで国民の信頼を勝ち取った
  • イムラン・カーン首相はロシアのウクライナ侵攻に関し西側に追従しない立場を明確にした直後、クーデターまがいのやり方で解任された
  • 首相解任後もイムラン・カーンに対する国民の支持は衰えていない

おまけ

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宗教と学問

脱キリスト教の開始とイデオロギーの誕生

宗教も国王も打ち捨てたフランスは、その「権威」の穴を何で埋めたのか。結論から言おう。学問である。

宗教の死によってイデオロギーの誕生が可能になる。人間は、消え失せた神のイメージの代わりに、直ちに新しい理想社会のイメージに飛びつく。1789年以降、ヨーロッパは相次いで押し寄せるイデオロギーの波に洗われることになる。フランス大革命、自由主義、社会民主主義、共産主義、ファシズム、民族社会主義……これらのイデオロギーの波は、時間と空間の中での脱キリスト教化の各段階に結びついている。

『新ヨーロッパ大全 I 』249頁

ヨーロッパにおける脱キリスト教化の開始時期とイデオロギー誕生の時期は一致している。

1789年〔フランス大革命〕以来、かくも多くの政党と共和国を育むことになった自由・平等のイデオロギーは、脱キリスト教化のわずか数十年後に発生している。脱キリスト教化は、1730年から1750年の間に、フランスの国土の三分の二で起こったのであった。

『デモクラシー以後』52頁

文字を読むようになった人々は信仰を捨て、唯一の正統教義のかわりに、好みのイデオロギーを選んで熱狂的に支持する。民主主義の始まりである。

波を生み出すのは識字化した市井の人々だが、イデオロギーそのものを生み出すのは学問の府、大学である。ロック、ルソー、カント、ヘーゲル、マルクス。彼らはみな何らかの形で大学やアカデミーに関わりその思想を世間に流布していった人々であり、学問が宗教に代わる権威となった時代を象徴する人々といえる。

Godfrey Kneller – Portrait of John Locke (1697)(public domain)

中世に神学者を輩出してキリスト教の権威を支えた大学は、脱宗教化の後には、自らが権威の源泉となって、近代国家を支えたのである。

脱キリスト教の完成とイデオロギーの崩壊

しかし、市民がイデオロギーに熱狂する時代は長くは続かなかった。

1965年から1990年までの間、ヨーロッパのイデオロギー・システムの大部分は、容赦ない解体のメカニズムに曝される。それは信条を破壊し、政党を弱体化し、政治的選択というものの本性を一変させ、全ては虚しく意味が無くなったという感情をいたるところで醸し出すのである。

『新ヨーロッパ大全 II 』265頁

フランス共産党は1978年には20.6%の票を獲得していたが1988年には11.3%に落ち込む。同様の低落傾向は明確なイデオロギーを有するすべての政党に認められ、共産党、ドゴール主義(民族主義右翼)、穏健右派、キリスト教民主主義の4政党の合計得票率は1962-1988の間に79.2%から49%へと大幅に低下するのである(なお、この間に行き場を失った票の受け皿として勢力を拡大したのが社会党である)1『新ヨーロッパ大全 II』314-318頁

1965年-1990年というこの時期、イデオロギーの崩壊という現象は、主義主張の中身を問わず、あらゆる政治的信条を平等に呑み込んでいく。この動きは、フランス、イギリス、オランダ、デンマーク、スペイン2いずれも核家族が中心であるといった国々でとりわけ大きくかつ急速だった。

何がこの変化をもたらしたのか。答えは単純である。

この変化の発端は実に平凡で、それは宗教の危機、ヨーロッパ圏の歴史上最後の宗教危機で始まった。

『新ヨーロッパ大全 II 』265頁

フランスでは、中心部の脱宗教化は1730-1800年に完了していたが、周縁部に残っていた宗教実践が1950-1970年の間に失われた。ヨーロッパ全体では、最後まで生き残っていた反動的カトリシズムが1965年から1990年にかけて消滅していく

イデオロギーの時代は、脱キリスト教化の開始とともに訪れた。ところが、脱キリスト教化が完了すると、同時にイデオロギーの方も力を失ってしまうのである。

フランスの国土の三分の一に活動的な宗教が存続したことは、フランスのイデオロギー・システムの良好な作動のために最後まで必要であり続けた、ということが分かる。共和主義、社会主義、共産主義は、実際上は、残存的カトリック教との対抗関係の中で自己定義を行なったのであり、残存的カトリック教は、いわば陰画(ネガ)の形で、それらのイデオロギーを構造化したのである。この宗教の死は、まるでそれが跳ね返ったかのようにして、近代イデオロギーを死に至らしめた。

『デモクラシー以後』52-53頁

宗教的危機のインパクトー西欧の場合

この連載の開始時に書いたように、トッドは現代の西欧世界の危機の根源には宗教的危機があるという立場を取っている。

神なき世界の出現は、幸福感につながるどころか、激しい不安、欠落感へと立ち至る。‥‥

天国、地獄、煉獄の消滅は、奇妙なことに、すべての地上の楽園の価値を失墜させてしまうのだ。‥‥ すると意味というものの必死の探求が始まる。それは通常、歴史的には、宗教が統制していた金銭、性行動、暴力という項目に括られる領域における極端な感覚の追求という形で行われるのである。

『デモクラシー以後』54頁、55頁

ここから、トッドは、人間精神の安定にとって信仰が古来から果たしてきた役割の決定的重要性という命題を引き出すのだが、私の考えは少し違う。

確かに、ヨーロッパの人間の精神の安定にとってキリスト教が果たしてきた役割は決定的に重要であったと思う。

なぜかといえば、キリスト教は、ヨーロッパの主要な家族システムである核家族に欠けている「権威」を補う役目を担っていたからである。

国家というシステムは、多数の人間が一定の領域内で共存していくためのシステムであり、安寧秩序の維持のためには、人々が共通の「正しさ」の存在を受け容れることが不可欠である。

共通の「正しさ」は、ルールの基盤となって人々の行動を制御することを可能にし、それ以上に、共通の「正しさ」の下にあるという感覚によって、人々の心を繋ぎ、安定させる。

この共通の「正しさ」を基礎付けるものが「権威」であり、だからこそ、権威の誕生(=直系家族の誕生)が国家の誕生と同期するのである。

直系家族の民や共同体家族の民が自然に持っている「みんなの正しさ」の感覚を、核家族の民は持っていない(家族システムと価値の対応関係についてはこちら)。

そこで、彼らは、彼岸にいる唯一絶対の神の存在を信じることによって、共有物としての「正しさ」を希求するという心の型を手に入れた。

核家族の国家は、神を畏れ、神への接近を希求するという心の動きが共有されたことで初めて、その統合を保つことができたのである。

西欧近代が見せた学問への情熱やイデオロギー的熱狂は、おそらく、神を希求する心の型がそのまま世俗の事物に転用されたことで可能になったものである。

だからこそ、それは信仰の喪失とともに失われ、西欧に深刻な精神的危機をひき起こすことになったのだ。

学問の時代の終わり

識字化の進展とともに、神の存在に疑念を抱くようになった人々は、その不安を癒すべく、頻りに神の存在について論じた(17世紀前半~)。デカルト(1596-1650)が神の存在証明を試み、パスカル(1623-1662)は神の実在に賭け、スピノザ(1632-1677)は汎神論を説いたように。

17世紀後半になると、核家族のヨーロッパ(イギリス、フランス)は、神の教えの代わりに人間理性を讃えるようになり、啓蒙の時代、言い換えれば、科学とイデオロギーの時代がやってくる。

アカデミアに属する知識人がヒーローとして燦然と輝いた時代。ジョン・ロック(1632-1704)を端緒、ミシェル・フーコー(1926-1984)を掉尾とするなら、こうした時代は約300年間続いたことになる。

Michel Foucault (1974) (public domain)

人文・社会科学の研究者で、この時代のヨーロッパの輝きに憧れたことがない人は少ないだろう。なぜ日本からは世界を魅了する力強い思想が生まれないのかと嘆き、強い「個」の確立を説く声はつい最近までよく聞かれた。同様に、社会における大学および学問の地位の高さにおいても、ヨーロッパは日本の大学人の憧憬の的であったように思う。

西欧における学術・イデオロギーの繚乱は、全知全能、唯一絶対の神のいました台座に渦巻く磁場が可能にしたものであり、キリスト教のドーピング作用が失われゆく過程のヨーロッパに一時的に顕現した特殊な現象であったと考えられる。

ご先祖さまに守られ「おてんとさま」3直系家族の権威の性質を一番よく表しているのは「おてんとさまが見ている」という感覚や「おまわりさん」への親しみの感覚だと思う。詳細は(もしかしたら)後日に照らされてぬくぬくと国家を営む日本にそのような磁場が渦巻く場所はない。補う必要がないから補填物が生まれなかったという事実を、「遅れている」とか「劣っている」と評価するのは端的に誤りだし、ばかげてもいるだろう。

いずれにせよ、キリスト教の残火が輝いた時代は終わった。それは20世紀末できっちり終了し、私たちはすでに西欧の特別な輝きが失われた世界を生きている。長くその輝きに幻惑され、恩恵も受けてきた私たちは、その現実の意味するところをよくよくかみしめる必要があると思う。

今日のまとめ

  • ヨーロッパでは脱宗教化の開始とともに学問・イデオロギーの時代が始まった
  • 脱宗教化が完了すると同時に学問・イデオロギーの時代も終了した
  • 西欧近代における学問・イデオロギーの特別な輝きは「唯一絶対の神を希求する」心の型が世俗の事物に転用された結果である
  • 西欧の宗教的危機が特別なインパクトを持ったのは、キリスト教が核家族に欠けている「権威」を代替していたからである

  • 1
    『新ヨーロッパ大全 II』314-318頁
  • 2
    いずれも核家族が中心である
  • 3
    直系家族の権威の性質を一番よく表しているのは「おてんとさまが見ている」という感覚や「おまわりさん」への親しみの感覚だと思う。詳細は(もしかしたら)後日
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カトリックとライシテのフランスー建国の秘密(西欧編)

ゲルマン人はなぜ国家を作れたのか?

ヨーロッパにおける直系家族の起源は10世紀末、カペー朝のフランス(フランク王国)である。ローマ帝国分裂の頃からヨーロッパに入ってきていたゲルマン人たちは基本的に「家族システム以前」の原初的核家族であり、国家形成に必要な「権威」の軸をまだ持っていなかった。

それでも、彼らは国家を作っていく。西ゴート王国、ブルグンド王国、ランゴバルド王国、アングロ=サクソン七王国とか。中でもフランク王国は栄え、のちに分裂してフランス、ドイツ、イタリアの元になる。

ゲルマン人たちは「家族システム以前」であり「国家以前」であったはずなのに、なぜ国家を作ることができたのだろうか。

私の考えでは、原初的核家族に国家の樹立・運営が困難なのは、彼らがその家族システム(=メンタリティの深層)の中に「権威」を持たないからである。

それでも国家を作りたかったらどうしよう。
どっかから「権威」を借りてくればよいのだ。

フランスの誕生

ヨーロッパの場合、ローマ帝国の権威、そしてローマの遺産であるキリスト教がそれに当たる。内面に深く働きかける宗教、しかも一神教であるキリスト教は、核家族の無意識に「権威」を補う最高のサプリメントであったと思われる。

今回はフランク王国(≒フランス)の場合を少し詳しめに見ていきたい。

彼らはどのようにキリスト教と関わり、国家を築いていったのか。

そして、家族システムが進化し国家が軌道に乗ったとき、国家とキリスト教の関係はどのように変化していったのか。

①クローヴィスの洗礼(メロヴィング朝)
 ー原初的核家族+外付けの権威

ガリア北部からピレネー山脈までを支配下に収めたフランクの王クローヴィス(在位481-511)は、496年に洗礼を受け、キリスト教に改宗している。

ローマ教会の司教の勧めによるものだというが(ブルグンド王国出身の妻の勧めという説もあり)、タイミングがとてもよかった。

この以前、教会内部に教義上の争いがあって、アリウス派とアタナシウス派が対立していた(内容はさしあたりどうでもよい)。

論争の決着は4世紀末に着き、アタナシウス派が正統(カトリック)となったので、5世紀に改宗したクローヴィスはアタナシウス派を受容した。

しかし、ローマの近くに位置していたためにより早期に改宗していた各国の王たちは、みなアリウス派だった。

クローヴィスは図らずも「唯一のカトリック王」となり、カトリック王としての権威と「異端からの解放」という(周辺地域征服の)大義が与えられたのである。

カトリック王としての権威によってローマ帝国時代の貴族たちも味方に付けたクローヴィスは、武力に加え、教会(キリスト教)の権威、征服の大義、貴族たちの行政能力を手に入れて、国家の統一を成し遂げた。

クローヴィスの頃のフランクは原初的核家族であったが、教会との関係および唯一のカトリック王としての地位を「外付けの権威」として用いることで、統一国家の樹立に成功したといえる。

②「聖別」の典礼(カペー朝)
 ー直系家族+権威の補強

しかし、この統一は長続きしない。原初的核家族のメロヴィング朝は相続の度に王国の分割をめぐって争いを起こし、混乱の末にカロリング朝に取って代わられる。

そのカロリング朝の王たちは順調に支配領域を拡大し、シャルルマーニュ(=カール大帝)の時代には、ドイツ、フランス、イタリアにまたがる広大な地域を支配下に収め、ローマ教皇からローマ皇帝の戴冠を受けるまでになる(800年)。

しかしまだ核家族だったのでやはり相続争いを避けられず、シャルルマーニュの死後、カロリング帝国はフランス、ドイツ、イタリア(の原型となる3つの国)に分裂してしまうのである。

「おい、そろそろ何とかしろよ」と思えるこの頃、ようやく、フランス領域内で家族システムの進化が始まる。

柴田三千雄『フランス史10講』によると、この頃のフランスでは、王の任命で行政官として配された地方の有力者たちが「分割継承をめぐる武力抗争の過程で武装銃士団をつくって自立し、領邦権力にまで成長していた」という。

ちょうど、日本で武士というか武家が生まれてくるのと同じような感じである。この領邦権力=貴族たちは、間もなく、長子相続を採用し、直系家族を確立していくだろう。

下から権力が育ってくると、国王の権威は揺らぐ。選挙王制が採用され、カロリング家以外の王が登場したのもその一つの現れである。

まず888年にロベール家のウード、987年にはやはりロベール家のユーグ・カペーが非カロリング家の王となった。

ユーグ・カペーは、相続争いを避け安定的な継承を可能にするため、貴族の間で広まりつつあった長子相続制を自ら採用し、生前に長子を後継者に指名する。こうして、ついに、家族システムの進化(直系家族)とともに、カペー朝が始まるのである。

カペー朝の登場は、現在から見ると、実質的に「フランス国誕生」と同視できる大きな事件であるが、当初、その権力基盤は脆弱だった。

シャルルマーニュが持っていたローマ皇帝の称号は、さっさと直系家族を定着させて安定を見たドイツに持っていかれてしまうし(962年オットー1世に教皇からローマ皇帝の称号が与えられ、神聖ローマ帝国が始まる)。

内外に対してその正統性を主張する必要に迫られたカペー朝が用いたのも、やはりキリスト教だった。

カペー朝は「聖別」の儀式としての塗油を即位式の典礼として確立する1カロリング帝国分裂後のフランス(西フランク)で新たに生み出されていた伝説(クローヴィスの洗礼の際、白い鳩が聖油の小瓶を口にくわえて天から舞い降りたという)に依拠するものという。。塗油の儀式には、神による選択という意味が込められる。これによって、カペー朝の王は、教会の権威にも依存せず、神に選ばれ、神に超自然的な力を与えられた者、いわば「新たなキリスト」と位置づけられたのである。

③教皇のバビロン捕囚
 ー教皇を屈服させる王権

当初は群雄割拠の中の名目上の王に過ぎなかったカペー王朝は、12世紀以降次第に勢力圏を広げ、14世紀初めには王国の約4分の3を支配下に置くなどして、実質的な統一を実現していった。

12世紀以降というこの時期は、フランスの主たる家族システムである平等主義核家族が成立した時期と一致している。

10世紀に生まれた直系家族はドイツ全土に広がったが、フランスでは農地システム(大規模土地所有)に阻まれて拡大を止めた(大規模土地所有はローマの遺産である)。

しかし、直系家族を拒んだ地域では、貨幣経済への回帰、都市の再生、大規模農業経営の再確立とともに、平等主義核家族が「再浮上」したのである2「再確立」とか「再浮上」とかいう言葉は、ローマ帝国時代のものが一旦失われて再度現れたことを指示する。

この時期が、フランスという国の「国柄」が確立されていった時期といってよいだろう。

基層における(直系家族+)平等主義核家族システムの確立と実質的な国家統一が同時に実現したこの時期に、世界史の教科書でも印象深い、教皇ボニファティウス8世と国王フィリップ4世の確執が起きている。

ヨーロッパ各国の王と教皇の間には従前から聖職者への課税や司教の任命権をめぐる対立があったが、フランス王は教皇と比較的良好な関係を保っていた。

しかし、カペー朝の王は13世紀後半から攻勢に出る。フィリップ4世は教皇権の絶対性を主張する教皇を側近に急襲させ監禁するという挙に出たのである(1303年 アナーニ事件)。教皇はまもなく釈放されたが屈辱のうちに死亡した(「憤死した」とも言われますね)。

フィリップ4世はその後教皇庁をアヴィニョン(南フランス)に移し、以後約70年間、教皇を支配下に置く(教皇のバビロン捕囚 1309-1377)。

王権の拡大と教皇権の衰退を示すエピソードとして知られるこれらの事件は、ヨーロッパの国家建設においてキリスト教が果たしていた役割を頭に置くと、いっそう分かりやすくなる。

原初的核家族のゲルマン人が国家を樹立するには「外付けの権威」としての宗教が不可欠だった。

家族システムの進化とともに国家が権力基盤を固めていく過程においても、宗教の力を借りて「権威」を補強する必要があった。

しかし、王権が伸張し、国家運営が軌道にのってくれば、聖なる権力はむしろジャマになる。この段階に至ると、これまでとは反対に、宗教の権威を押さえつけ、あからさまに蹂躙することこそが、王の権威を高めることになるのである。

ライシテ(政教分離)の基盤

フランス王国はその後もカトリック国家であり続けたが、革命を経た共和政フランスは、国王の権威を否定すると同時に聖職者の権威も否定し、やがて、公共領域から宗教を徹底して排除する独自の政教分離原則(ライシテ)を確立するに至る。

とりわけ厳格な宗教排除原則がフランスで確立されたのは、同国に定着したのが平等主義核家族システムであったことによると考えられる。

「自由と平等」のフランス市民にとって、宗教は「権威と不平等」そのもの、彼らの価値観に真っ向から対立する不倶戴天の敵である。

彼らの意思が政治に反映されるようになった時点で、公共領域からの宗教の排除は必然であったのだ。

経緯を整理しておこう。

①第1段階:原初的核家族のフランス
権威の欠落をキリスト教で補い、国家建設に成功。

②第2段階:直系家族のフランス
王侯貴族(と一部地域の人々)の間に直系家族が定着し「権威」が発生するが、キリスト教は引き続き脆弱な権力基盤を補強する役目を果たす。

③第3段階:直系家族+平等主義核家族のフランス
王権が伸張し中央集権国家が軌道に乗る。王は教皇を侮辱し聖職者を支配下に置くことで安定した国家運営を図る。

④第4段階:平等主義核家族のフランス
直系家族(王侯貴族)VS 平等主義核家族(一般市民)の戦いで(も)あったフランス革命で平等主義核家族が勝利。「自由と平等」の人民は「権威と不平等」の権化である宗教の公領域からの排斥を求める。

次回に向けて

原初的核家族がキリスト教の助けを借りて作った国家である点は他のヨーロッパ諸国も同じだが、宗教への態度や宗教(および脱宗教化)が社会に与えた影響は国によってかなり異なる。おそらくは定着した家族システムとの関係なので、次回に探究したい。日本との比較もできると思う。

もう一つ。国家における「権威」の重要性を知ると、宗教を排斥し、国王も排斥したフランスが、その空白を何で埋めたのかを知りたくなる。この点も次回以降に探究しよう。

今日のまとめ

  • 原初的核家族(権威なし)であるゲルマン人の国家建設にはキリスト教の権威が不可欠だった。
  • キリスト教は、直系家族+平等主義核家族のフランスが生まれた後も、権力基盤の強化・安定に役立った。
  • フランス革命は直系家族(王侯貴族) VS 平等主義核家族(一般市民)の戦いでもあった。
  • 革命に勝利したフランス人民(平等主義核家族=自由と平等)にとって、宗教(権威と不平等)は不倶戴天の敵だった。
  • ライシテは、平等主義核家族と宗教システムの極度の不適合が生み出した制度である。

<主要参考文献>
・柴田三千雄『フランス史10講』(岩波新書、2006年)
・エマニュエル・トッド(石崎晴己訳)『新ヨーロッパ大全I』(藤原書店、1992年)
・エマニュエル・トッド(石崎晴己監訳)『家族システムの起源I ユーラシア 下』(藤原書店、2016年)

  • 1
    カロリング帝国分裂後のフランス(西フランク)で新たに生み出されていた伝説(クローヴィスの洗礼の際、白い鳩が聖油の小瓶を口にくわえて天から舞い降りたという)に依拠するものという。
  • 2
    「再確立」とか「再浮上」とかいう言葉は、ローマ帝国時代のものが一旦失われて再度現れたことを指示する。
カテゴリー
社会のしくみ

国家と宗教
ー一神教と多神教ー

神は権威を支える

国家を統治するために不可欠の道具は「正しさ」である。武力でも一時的な秩序維持は可能だが、長きに渡って共存していくことを前提とするのが国家である以上、いずれその正統性を「正しさ」(=法)に求めなければならないときが来る。

強さとは異なり「正しさ」は自然界に存在しないので、統治に使うには裏付けが必要である。それを担うのが権威だ。

縦型の権威がないところに国家がなく、権威が生まれると同時に国家が誕生するのは、そういうわけである。

そう考えると、国家の誕生と同時に歴史(=文字)が生まれ、宗教が生まれるという事実も驚くには当たらない。

直系家族(国家誕生の第一段階である)の場合、権威の基礎は先祖代々家系が受け継がれてきたという事実にあるので、歴史を書き記し後世に伝えることは欠かせない。

そして、直系家族に限らず、権威を自他に対して納得させるには、彼岸から、神に支えてもらうのが一番なのだ。

直系家族の神

世界で初めて都市国家を生んだシュメールの宗教は多神教である。

この点は、同じ直系家族の日本人には分かりやすい。

直系家族システムを支えるのは縦のラインだが、そのラインは一本ではないし、それぞれの線が一人の先祖だけにつながっているわけでもない。

田中さんには田中さんの先祖がいて、鈴木さんには鈴木さんの先祖がいる。

それぞれの家系に、お父さん、おじいさん、ひいおじいさん、ひいおばあさん(女性が権威を担うこともある)・・と沢山の人々が連なって、権威を構成しているわけなので、神様は一人で済むわけがないのだ。

エマニュエル・トッドは直系家族と一神教のつながりを論じたことがある(『移民の運命』198頁以下)。しかし、これはちょっと無理筋だと私は思う。ルター派の強い神のイメージと浄土真宗の阿弥陀信仰に共通性を見出したりするのだが、ドイツは直系家族の成立以前にキリスト教を受容しているからその範囲内でアレンジしただけと思われるし、浄土真宗が阿弥陀を大事にするからといって日本人の信仰が一神教的であるとは到底いえないだろう。トッドは当初ユダヤ人を直系家族と見ていたので(のちに撤回している)、それに引っ張られた面もありそうだ。

勝手に断言しよう。
直系家族システムの権威を支える宗教体系は多神教だ。

間違いない。

帝国を支える神

中東では、直系家族とともに都市国家が生まれた後、都市国家間の争いが絶えない時代を経て統一国家が生まれ、やがて帝国に発展する。そのとき、社会の基層では、共同体家族システムが形成されていた。

国家統一がなされると何となく一神教が生まれそうな感じもするが、おそらくそうではない。

帝国では、王は何らかの形で神格化され、王にその身を投影する神は最高神とされるであろう。しかし、ほかにもさまざまな神、妃や母に当たる女神や、帝国に服属する地域の神などがいて、皆が揃って最高神を崇める、といった形で現実の王の権威を支えるのが典型的ではないかと思われる。

共同体家族の帝国では、頂点に君臨するのは生身の王であり、その人格こそが権威の源泉である。直系家族にも当てはまることだが、すでに確固たる権威が存在する国家において、宗教に期待されるのは補強の役割にすぎない。世俗の権威を凌駕するような強大な神にいてもらってはむしろ困るのだ。

王が君臨する国家と一神教の相性の悪さは、旧約聖書にも描かれている。

唯一神ヤハウェは、預言者サムエルを通じて、イスラエルの人々に、異教の神々への信仰を捨て、ヤハウェのみに心を定めることを要求する(一神教であるゆえんである)。しかし、ヤハウェの要求はそれにとどまらない。ヤハウェは人々に、世俗の王を求めず、ひたすらヤハウェのみに従うことを求めるのである。

聖書が王の君臨する国家をロクでもないものと考え、ほとんど憎しみすら抱いていることは、世俗の王を求める民に預言者サムエルが伝える次の言葉に現れている。

君達を支配する王の習慣(ならわし)は次のようなものだ。彼は君達の息子をとって、自分の為にその戦車に乗り組ませ、王の軍馬に乗らせ、又王の車の前を走らせる。又彼らを千人の隊長、百人の隊長とし、更にその耕地を耕させ、刈入れの労働に服させ、又武器の製造と戦車の装備にあたらせる。君達の息女(むすめ)達をとって、香料作りとし、料理女とし、又パン焼き女とする。王は君達の畑地と葡萄園と橄欖畑のよきものを取り上げ、それを彼の宦官と役人達に与える。又、君達の下僕(しもべ)、婢女(はしため)、又君達の牛のよきものと驢馬とを取って、自分の為に働かせる。彼は君達の家畜の群の十分の一を取り上げ、君達は遂に彼の奴隷となるであろう。君達はその時自ら選んだ君達の王の前に泣き叫ぶであろう。しかしヤハウェは最早その時君たちに答え給わない。 

『サムエル記』(関根正雄訳)岩波文庫、昭和32年、29頁

それでも人々は、自分たちにもよその国と同じように王が必要であると言って聞かない。そこで、ヤハウェは彼らに王(サウル)を与えるが、サウルはヤハウェの命令に背いたことで王位を奪われ、王国の樹立はつぎのダビデの治世まで持ち越されることになる。

一神教を必要とするのは誰か

直系家族システムの国家には縦に連なる権威の軸が存在し、家々の祖先達を思わせる多神教の神々がそのイメージを補強する。

共同体家族システムの帝国には生身の王が君臨し、下位の神々の上に最高神が君臨する天界のイメージが、王の権威の正統性を強化する。

現実世界に確固とした権威を備えたこれらの国家は、決して、世俗の権威を否定するような強大な神を彼岸に生み出すことはない。

ではいったい誰が一神教の神を必要とするのだろうか。

家族システムと国家の対応関係を知った後では、答えは明らかなように思われる。

原初的核家族である。

親子関係兄弟関係国家形態
原初的核家族不定(イデオロギーなし)不定(イデオロギーなし)なし
直系家族権威不平等都市国家 / 封建制 
共同体家族 権威平等帝国
(表1)家族システムの「進化」と国家

原初的核家族とは、関係性を律する規則を持たない「家族システム以前」の状態(あるいはそれに近い状態)を指し、彼らは内発的に国家を生み出すことはない。

それでも、近隣に都市国家やら帝国やらが林立してその勢力が迫ってくると、自身も国家を組織しなければアイデンティティを保つことができない状況に陥るであろう。しかし、彼らの家族システムは国家形成に必要な権威を欠いている。

窮地に陥った彼らは、天上にその権威を求める。
それが一神教の神である。

世俗の人々を導いてくれる強い神、全知全能で唯一絶対の神の姿を彼岸に描き、その支配を受け入れることで、世俗の権威に代替するのである。

以上が私の仮説である。さて、これが実例で証明できるかどうか。
試してみよう。

例証① ユダヤ教

もともと遊牧民であったため、長く未分化な核家族性を保持していたユダヤの人々が、国家(イスラエル王国)を形成するに至ったのは、紀元前11世紀の終わり頃である。

世界史の教科書によると、シリア・パレスチナ地方では、紀元前13世紀頃の「海の民」の進出によりエジプト、ヒッタイトという大国が勢力を後退させ、それに乗じてアラム人・フェニキア人・ヘブライ人(ユダヤ人)が活動を開始していた。

このうち、アラム人とフェニキア人はそれぞれシリアと地中海沿岸に多くの都市国家を建設していた。アラム文字は楔形文字に代わってオリエント世界の多くの文字の源流となり、フェニキア文字はアルファベットの起源となったということでも知られる。そして、彼らの宗教は多神教である。都市国家、文字、多神教‥‥おそらく、彼らの家族システムは直系家族だ。

一方、原初的核家族のユダヤ人には国家がなかった。しかし「海の民」の一派であるペリシテ人との争い等を通じ、ユダヤの人々は王が統率する国家の成立を待望するようになっていた。

その経緯は、旧約聖書の「サムエル記」(「王国の書」の別名もある)で扱われている。

預言者サムエルの下でヤハウェに忠実であった間、ペリシテ人は撃退され、再度イスラエルを侵すことはなかった。やがてサムエルは年を取り、その息子達を後継に任じたが、彼らは父と違って行いが悪く、およそ頼りにならなかった。

人々はサムエルに訴える。

「御覧下さい。あなたは既にお年を召され、あなたの息子達はあなたの歩まれた道を守りません。さあ、どうかわれわれを審(さば)く為、総ての異国の民と同じようにわれわれに一人の王を与えて下さい。」

『サムエル記』28頁

前々項で引用した「王の習慣(ならわし)」に関するサムエルの言葉は、この訴えに対する回答の中で述べられたものである。しかし、人々はそれを聞こうともせず、こういうのである。

「いや、われわれには王が必要です。私達もそうすれば他の総ての国民と同じようになるでしょう。王は私達を審き、先頭に立って出陣し、われわれの戦いを闘ってくれるでしょう」。

『サムエル記』29頁

エジプトやヒッタイトはもちろん、アラム人にもフェニキア人にもペリシテ人にも王があり国家があるのに、ユダヤの民にはそれがない。しかし、彼らだって人並みに、先頭に立って彼らを率いてくれる王が欲しかったのだ。

家族システムの中に権威を持たない彼らは、そのままでは国家を作れない。そこで、必要に駆られた人々は、その彼岸に、強大な神ヤハウェを頂く一神教を作り上げた。

天上の権威を地上の権威に代替することで、国家の建設を可能にしたのである。

と、このように考えると、かなり辻褄が合うように思われる。

例証② キリスト教

キリスト教については、1世紀以後ローマ帝国の版図内で勢いを増し、コンスタンティヌス帝の下での公認(313年)を経て、テオドシウス帝の下で国教とされるに至った(392年)、その「時期」に着目したい。

共和政末期から帝政の初期にかけて(前1世紀~)、ローマはガリア全土(現在のフランス、ベルギー)とブリタニア(イギリス)を征服、ヒスパニア(スペイン)を吸収し、西ヨーロッパ全体を版図に収め、北アフリカとエジプトも支配下に置いた。

ローマ帝国は絶頂期を迎えたわけだが、西と南に向かう版図の拡大は、水面下で、というか社会の最基層、家族システムの層において、後の解体につながる本質的な変化をもたらしていた。

トッド入門講座の方で扱ったが、当初は父系制で共同体的であったローマの家族システムは、「共和政末期から後期ローマ帝国に至る少なくとも6世紀に渡る期間」に一種の退行を見せ、おそらくは征服した核家族地域(西ヨーロッパとエジプト)の影響で、より核家族的なシステムに変化していったのである。

キリスト教が普及し、迫害、公認を経て、ローマ帝国の国教となって定着する期間(後1世紀~5世紀)は、ちょうどローマが西ヨーロッパを版図に収め、家族システムを退行させていく期間と一致する。

未分化の核家族であるユダヤ人の間で生まれたキリスト教が、この時期に帝国版図内の人々の心を掴んでいったのは、やはり未分化の核家族であった西ヨーロッパの人々にとっては、帝国という現実に順応するのに必要な(意識下の)「権威」を、その一神教が彼らに供給してくれたためかもしれない。

帝国中央部の人々にとっては、(家族システムの退行により)薄らいでいく権威を、その一神教が補充してくれるのが感じられたためかもしれない。

もちろん、それでも帝国の分裂を回避することはできず(395年)、西ローマ帝国の方はまもなく滅亡に至る(476年)。しかし、この地に根付いたキリスト教は、おそらく、多くは未分化の核家族であったゲルマン人に権威を貸し与えることで、その国家形成を促すことになるのである(次回扱う予定です)。

例証③ イスラム教

最後はイスラム教である。

唯一神アッラーへの信仰を説いたムハンマド(570頃-632)が、軍事的・宗教的指導者としてイスラム共同体を成立させ、アラビア半島の大半を支配するに至った頃、アラブ人の家族システムは(内婚制)共同体家族システムであった。

しかし、アラブ人が生粋の共同体家族の民であったかというと、決してそうではない。

メソポタミアから見れば辺境であるアラビア半島で遊牧生活を送っていた彼らは、中央部で共同体家族が確立してからも長い間、未分化の家族システムを保っていた。

彼らの共同体家族は、2-3世紀から5-6世紀の間に受容した、比較的新しいものなのだ(システムの新しさは一般にシステムの弱さを意味します)。

後に中東を席巻した内婚制共同体家族というシステムは、アラブ人が(外婚制)共同体家族を受容したとき、叔父方イトコとの結婚を理想とする「内婚制」を付け加えたことで生み出されたものである(比較的男女平等であったアラブ人が女性の地位を確保するために編み出した工夫ではないかというのがトッドの仮説である)。

元々のシステムから来る彼らのメンタリティは、硬質の共同体家族とはミスマッチであり、修正を加えなければ受け入れることができなかったのである。

国家形成に不向きな「システム以前」の状態にあったアラブ人に、たった数世紀の間に、統一国家、さらにはイスラム帝国を建設させるだけの軍事的・政治的統率力を与えたもの、その一つはもちろん共同体家族の伝播であるが、それを補強したのが一神教の受容ではなかったかと思われる。

ムハンマド以前、アラビア半島には国家も大都市もなかったが、アラブの人々は、隣接するササン朝ペルシアとビザンツ帝国から強い影響を受けていた。各地の有力者はササン朝皇帝の「総督」という称号を受けてそれぞれの地を抑え1(後藤明「巨大文明の継承者」『都市の文明イスラーム(新書 イスラームの世界史①)』講談社現代新書、1993年)57頁)、半島の外れ(シリアなど)にはビザンツ帝国の衛星国家的な小国もあったという2(小杉泰『イスラーム帝国のジハード』講談社学術文庫、2016年)27頁)

おそらく、彼らは、ササン朝から共同体家族を受け取り、ビザンツ帝国から一神教を受け取った(キリスト教とユダヤ教は5世紀頃から浸透していた)3(後藤・47-48頁)。一神教の神の権威は、女性の地位の確保のために弱めざるを得なかった共同体家族の父の権威を補い、イスラム帝国の大攻勢を可能にしたのである。

おまけ 韓国のキリスト教

国家を成立させるために必要な権威を代替するのが一神教であると考えると、近代朝鮮(韓国)におけるキリスト教定着の基盤も理解できるような気がする。

朝鮮半島は直系家族が中心と考えられ、もともと国家形成がまったく不得意というわけではない。しかし、共同体家族の帝国が隣接していた朝鮮半島で、直系家族が独立を維持していくことは容易ではなく、朝鮮の王朝はつねに中国の強い影響下にあった。

14世紀以来の朝鮮王朝(李氏朝鮮)は、中国の弱体化により後ろ盾を失い、日本に併合されて滅亡する。その日本もすぐに敗戦し、権力の空白が生まれる。

韓国でキリスト教が広がったのはまさにこの時期(19世紀末~)、誇り高い韓国の人々が国家の中心となるべき世俗の権威を失った時期である。

異国(日本ですが)の侵略下で、世俗の王に代わる寄る辺となって韓国社会を支えたもの、それが一神教の神であった、という仮説は、それなりに説得力があるような気がするが、いかがでしょうか。

今日のまとめ

  • 国家は「正しさ」(=法)の裏付けとして権威を必要とする。
  • 直系家族の権威を支えるのは、家々かつ代々の祖先たちを思わせる多神教の神々である。
  • 共同体家族の帝国では、王は神格化され、多神教の神々が最高神に服する形で王の強大な権威を支える。
  • 確固たる権威を備えた社会は、世俗の権威を凌駕するような強大な一神教の神を生み出すことはない。
  • 権威を欠く原初的核家族が国家形成の必要に迫られたとき、地上の権威の代替として生み出すのが一神教の神である。




  • 1
    (後藤明「巨大文明の継承者」『都市の文明イスラーム(新書 イスラームの世界史①)』講談社現代新書、1993年)57頁)
  • 2
    (小杉泰『イスラーム帝国のジハード』講談社学術文庫、2016年)27頁)
  • 3
    (後藤・47-48頁)
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私に講師資格はあるのでしょうか?(エマニュエル・トッド入門講座 講師自己紹介)

 

日本における法学

私のもともとの専門は法学(刑法学)です。2018年度まで法科大学院で刑法を教えていました。

つまり、人類学者でも人口学者でも歴史学者でもないのですが、ある日ふと、「(日本では)法学者って意外とこの任務に向いてるんじゃないか?」と思いました。考えて、確信が持てたので、「エマニュエル・トッド入門講座」を始めることにしたのです。

「法律、それも刑法なんていう狭そうな領域の研究者がトッドの理論の解説に向いてるなんて、あるわけないだろう」と思った方のために、ちょっとご説明させていただきます。

明治時代、日本に初めて大学ができたとき、どんな学部があったかご存じですか。

明治10年に発足した東京大学が持っていたのは、法学部、文学部、理学部、医学部の4つでした。政治学部もないし、経済学部もない。社会科学にあたるものは、法学しかありません。

ちなみに現在も日本に「政治学部」というのは存在せず(過去にはあったそうですが)、法学部の中にあるケースが多いです。現代のヨーロッパやアメリカでは、政治学は独立していたり人文社会科学や歴史と結びついているケースが多いようなので、法学との結合がスタンダードである日本は特殊なケースだと思います。

なぜか。いくつかの理由を思いつきますが、一番本質的な理由は、日本を西欧に伍する近代国家にするためには、何よりもまず、西欧と同じような(=近代的意味の)法制度そのものの構築が必要であったということだろうと思います。

なお、「近代的意味の法」とか「近代法」とかいう言葉は、専門用語の一種です。近代に法律を作れば何でも「近代法」になるというわけではなく、「近代法」というためには、いろいろとうるさい条件があります。

こうした条件を備えた法制度を持ち、それに基づいて国家が運営されているということが、欧米列強から信頼に値する国家と認められるためにどうしても必要だった。当時の日本にとって、新しい社会を作るということは、新しい法制度(に基づく国家)を作るということとほとんどイコールであったのです。

このような事情の下で、法学という学問は、明治以降の日本に、西欧的な「新しい常識」を導入するチャネルとして機能することになりました。西欧から思想や制度を輸入して、日本で受け入れ可能な形に整えて、社会に供給する。社会の要請の下で、日本を西欧式の国家に変えるための革命の綱領を作り続けたのが法学であった、といういい方もできるでしょう。

最近は廃れてきましたが、戦前・戦後の日本には、一般社会人を目指している(=法曹資格を取るつもりがなく、公務員を目指しているわけでもない)人が進んで法学部に入って勉強するという伝統がありました。それは、法学が、西欧に学んで新たな文明国家を築き上げるための「新しい常識」を供給する学問だったことの反映です。当時はみんなが「西欧式の新しい常識を身につけなければいけない」と思っていたのですね。

「新しい常識」(ないし革命の綱領)の根幹にあるのは、もちろん、近代主義=西欧中心思想です。つまり、法学は、エマニュエル・トッドの理論によって否定される運命にあるその思想の普及について、非常に大きな責任を担っているのです。

革命は成功しなかったー法学者は知っている

もう一つ、トッドへのコミットメントという点ではより本質的かもしれない事情があります。

法学は、明治以来、西欧的な常識に基づいた法制度の構築を助け、講義し、その運用を見守ってきました。行政の審議会やら民間の様々な会議に出席し、人々が従う制度が法の基本を踏み外さないように注視し、意見を述べてきました。

しかし、それによって、西欧的な法制度は日本に定着したのか、というと、してません。何度でも言いますが、「近代法」の一番肝心な部分(「法の支配」と言われるものです)は、日本に根づいていません。そして、そのことを一番よく知っているのは、法学者なのです(よく知らない法学者もいるとは思いますが、ちょっとおめでたい人だと思います)。

「法の支配」が根付いていないとはどういうことか。一言でいいます。日本は法治国家(「法の支配する国家」の意味で使います)としては、行政の裁量権が強すぎるのです。「法の支配」の核心は統治機関(≒行政機関)を法のコントロールの下に置くことにあります。しかし、日本の場合、法は形ばかりは存在し行政の上に君臨しているようなフリをしているけれども(行政も法に従っているようなフリをしているけれども)、あらゆる領域で、重要事項の決定権を持っているのは行政です(ある行為を犯罪として処罰するかどうかを決める権限ですら、実際に行使しているのは検察官(=行政官)です)。

法律があろうがあるまいが行政が様々なことを差配し、国民がそれに従うというのは日本の人にとっては普通のことです。普通すぎて、「法の支配」とかその派生原理である「法律による行政」などを説明してもポカンとされてしまう。そのくらい普通だし、それこそが行政の責任だと思っている人も少なくない(行政官の中にもそういう人がたくさんいます)。このような社会のあり方は、しかし、もしも日本が西欧式の法治国家であるならば、明確に否定されなければならないはずのものなのです。

トッドは何度か日本を訪れていて、日本の研究者と対談や議論をしています。その記録を読んでいて、感じるのは、文学や歴史人口学の専門家の方たちが、トッドの理論の妥当性について疑念を持っている、あるいは確信を持てていないということです。この「迷い」は、おそらく、彼らに(例えば「トッド入門」を書くような)トッドの理論への全面的なコミットメントを躊躇わせる理由になっています。

彼らには、つぎのような逡巡があるようなのです。

「確かにトッドの理論にはなるほどと思うことが多い。しかし、家族システムにかかわらず、政治制度や法制度は、国家が法律を定め、制度を打ち立てることで、変えることができるはずである。そう考えなければ、明治以降(あるいは少なくとも第二次対戦後)の日本で、「近代的な」(西欧風の)政治制度、法制度が確立されたという事実を否定することになってしまうのではないか。」

例えば、速水融(歴史人口学)は、トッドとの対談で、次のような問いを発しています。

速水 ‥‥ 政治とか国家とか法制、これをどうお考えでしょうか。つまり、政治や国家や法制によって、家族構造あるいは農地制度というのは変わるものなのかどうか。というのは、日本を考えたときに‥‥明治になって日本が統一されてはじめて、明治政府が日本全体に適用される法律をつくろうとします。‥‥明治政府がまずやったことは、特に民法ですけれども、フランスからボワソナードという民法学者を呼んで、日本の民法を作ろうとしました。ところが民法典の案ができた時に、ドイツ法を学んだ穂積八束という日本の法学者が猛反対しました。つまりこれは日本の慣行に合わないと。そこで民法典論争という猛烈な論争が起こって、結局、ボワソナード派は負けてしまいます。そして日本的な民法、つまり長子単独相続を基本とする民法ができ、それが戦後までずっとつづきます。ところが戦後になって、今度は日本はアメリカに占領されて、そこでまた民法の改正があって、分割均分相続になります。

そのように法律がどんどん変わっていきます。こういうことは、たぶんフランスでは考えられないと思いますけれども、現実にわれわれ日本に生きている者としては、そういう中で変わっていくものだと考えざるをえない。民法だけでなくて、憲法からしていろいろ問題を含んでいますけれども、一体全体、政府や国、とくに法律はそういう社会の慣行を変える力を十分もっているとお考えかどうか伺いたいのです。

エマニュエル・トッド(石崎晴己 編)『世界像革命』(藤原書店、2001年)157-158頁)

ふふふ。
ご安心ください。

今から約20年前(2001年)、内閣に設置された司法制度改革審議会は、司法制度の改革に向けた意見書をまとめました。

この意見書は、なんと(?)、つぎのような文章で始まっています。

民法典等の編さんから約100年、日本国憲法の制定から50余年が経った。当審議会は、‥‥近代の幕開け以来の苦闘に充ちた我が国の歴史を省察しつつ、司法制度改革の根本的な課題を、「法の精神、法の支配がこの国の血肉と化し、『この国のかたち』となるために、一体何をなさなければならないのか」、「日本国憲法のよって立つ個人の尊重(憲法第13条)と国民主権(同前文、第1条)が真の意味において実現されるために何が必要とされているのか」を明らかにすることにあると設定した。

これを読んで、驚く方もいるのではないでしょうか。何しろ、2001年の日本における根本的な課題が、「法の精神、法の支配を「この国のかたち」とすることであり、個人の尊重と国民主権を実現すること」なのです。「日本国憲法って何なんですか」と言いたくなりますね。

しかも、この「意見書」の中に、日本がいかに法の支配を欠き、個人の尊重、国民主義を実現できていないかを論証する文章はありません。つまり、この文章を読む関係者にとって、「法の精神、法の支配が日本に根づいていない」という認識は、争うまでもない、当然の前提として共有されているのです。

私の経験

私自身の経験もちょっとお話ししようと思います。

私は、中高生のころから、ただ社会に興味がありました。どの専門科目を選べばよいのかわからなかったので(今もわかりません)、何となく法学部に入りました。講義に出て直ちに「間違えた!」と悟り、あまり授業に出ない学生として4年間を過ごしました。

でも、学者にはなりたかった。なりたかったので、手近にあった刑法学の道に進みました。

真面目に取り組んでみたらこれが意外に面白く、資質としては向いていました。

よく覚えているのは、好き放題に本を読んで物を考えていた大学時代を終えて、大学院で法学の研究を始めたとき、「なんかラク」と感じたこと。

何ていうのでしょう。法学の中の概念って、みんなカッコがついているのです。まったく手ぶらで、ただ一人の思索がちの人間として、例えば自由という言葉を使うとすると、そんなものは本当にありうるのか、あるとしたら何なのか、そんなものを論じることに意味があるのか、‥‥と無限に疑問がついてまわってくるものですが、法学の中だと、ある程度専門用語として、「ここでいう自由はその自由ではなくて、あくまで「法学的な意味の」自由ですから~」という感じで、さくさくと議論を先に進めていける。しかも、その議論は、現に存在し機能している法制度をよりよく機能させるための議論なのですから、大前提として「意味はある」。

しかも、法学、なかでもとくに刑法学という学問は、根っこにある価値観が、リベラリズム、それも(詳しくは知りませんが)古典的リベラリズムといわれる、イギリス庶民(あるいはパンクロック)のような素朴な自由主義思想です。

自分の知的能力を駆使して、素朴な自由主義に基づく分析をすれば、評価され、世の中の役に立つ(らしい)。何と夢のようなことでしょうか。

そういうわけで、私は、非常に消極的な理由で選んだ刑法学の道を歩み続けることになりました。ずっと後になって「カッコがついている」ということの意味を思い知ることになるのですけど。

日本社会の現実を知る

私は刑法学者であると同時に医事法学者でもあります。医療や医学研究の領域では、様々な形で現場と関わる仕事をさせてもらいました。

研究機関の倫理委員会から、研究プロジェクトの法的・倫理的・社会的課題を検討するための委員会、厚生労働省や文部科学省の審議会にも多数参加しました。医療や医学研究に関連する学会などのシンポジウムなどに呼んでいただいて講演をしたり討議をすることもありました。

私に声をかけてくれる方というのは、基本的に、現在の法制度(というより、多くの場合は、インフォーマルな行政指導的規制)に満足しておらず、「なんかおかしいと思うんだけど本当のところどうなの?」「本当に自分たちが妥当だと思うことを正当に実施していくためにはどうしたらいいの?」と思っている方たちです。

そういう方達と一緒に、あるべき姿を考えていく仕事は本当に楽しかった。法学者から見ると、行政の規制のあり方や現場の常識などはツッコミどころ満載なので、「法学的にはここはすごくおかしくて、ほとんど憲法違反」「こうやれば問題ないはず」「ここについては公的な規制がない状況だから、自主的にガイドライン的なものをつくってやっていくのがよい」等々と指摘し、実際にルール案を一緒に考えたりもしました。

「おかしい」という法学者からの指摘は、医学系の研究者の方々にとっては、目から鱗というか「え、ほんと?」という驚きであったようでした。私たちの指摘や提案は、彼らには喜んで受け入れられ、とてもやりがいを持って仕事をすることができました。

しかし、10年以上もそんな仕事を続けると、頭でっかちな法学徒にも、日本の現実が見えてきます。

私たちがどれほど法理論上の誤りを指摘し、みんなを感心させても、現場の状況がまったく変化しないのはなぜなのか。

この間には私自身も少し偉くなり、行政の審議会などで、法案の内容に正面から意見を言える立場になっていました。しかし、ごく標準的な法学的立場に立って意見を述べて、その場にいるほとんどの人を納得させても、はたまた行政官と裏で何度も議論をし、憲法違反の疑いを払拭するために必要な措置を伝え、何度「わかりました」と言わせても、肝心なポイントが修正されることは決してない。いったいなぜなのか。

答えは一つしかありません。

日本の法制度は、日本の社会で通用していないということです。

日本社会は、法学の教科書(=社会科の教科書)に書いてあるのとは異なる、固有のシステムで成り立ち、動いている社会である

もし、これが「近代化の遅れ」であるなら、改善の努力を続ければよいのですが、私一人の経験からも、そんな生やさしいものでないことは、明らかであるように思えました。その上、「民法典等の編さんから約120年、日本国憲法の制定から70余年」が経った2021年に、このシステムはビクともせず、見ようによっては、ますます強まっているように見えるのです。

さて、どうしたものか。

法学を離れる

法学者の中には「法が大好き」という人がいます。近代法の思想に強く惹かれ、それを法制度として機能させることに情熱を抱く人たちです。この人たちは、日本社会に、近代法が定着していないことを知っていると思いますが、「少しでもそれに近づけることが日本社会をよくする道だ」と信じて、活動を続けているのだと思います。

また、東大を出て、とくに優秀な東大教授として名を馳せるような人たちは、日本社会と法理論との齟齬をおそらく熟知していますが(意識化の程度は人によります)、その中でなんとか折り合いをつけることを自らの使命としている人たちといえます。

近代主義の理想との相違をことごとしく非難したりせず、職人的なバランス感覚で落とし所を探るのが彼らの職責です。

私は、法に関心があったわけでも、エリート官僚的なメンタリティで日本社会を導くことに関心があったわけでもなく、単に「社会に興味がある」というだけで法学者になりました。近代法の理想(リベラリズムですね)は、自由を求める若い者には何しろ魅力的なものなので、私もしばらくの間は幻惑され、「法が大好き」という人たちと同じように、「日本社会を少しでもそれに近づけること」に対して、情熱をもって取り組むことができました。

しかし、「教科書に書いてあることって、全部フィクションだったのか」と、おなかの底からしみじみと理解してしまったとき、それでも同じ活動を続けるのは、私には無理でした。

私は不可能なことのために活動することができない人間なのです。ご存知のように、なかには道徳的な感情、価値あるいは善なるものを提唱するだけで満足し、それが実現できるかどうかについては関心をもたない人々がいますが、私はそうではありません。絶望の歌が最も美しい歌であるとは思わないのです。虚空に向かって叫ぶこと、自己満足のためにいくつかの価値を提唱することには、関心がありません。

エマニュエル・トッド(石崎晴己 編)「世界像革命」(藤原書店、2001年)120頁

この状況で、社会科学者である自分のやるべきことは、現実をフィクションに近づけようとすることではなく、現実をよりよく知り、伝えていくことであるように思えました。何より、高校生の自分は、まさに「それ」を知りたかったのですから。

しかし、それはもう刑法学の仕事ではありません。法学とも言えないでしょう。仕方なく、私は仕事を辞めて、現在に至ります。

奇跡に見舞われる

では、法学部に入り、刑法学者になったことを後悔しているかというと、それは全くしていません。

大学を辞めて、歴史とか、経済とか、いくつかの気になる分野を勉強し、同時に、改めて、トッドの理論に取り組みました。そのとき感じた気持ちを、どう表現したらよいのか。

昔、福田恒存が小林秀雄の文章について、「(この文章を)これほど味わうことができるのは自分だけではないかと、これは自惚れとはまったく異なる、深い幸福感のようなものを堪能した」という趣旨のことを書いているのを読んだことがあります。池田晶子さんも小林秀雄について同じようなことを書いていたかもしれない(福田恒存のその文章も引用していたかもしれない)。

「こんなことを言えるなんて、すごいな~」と思っていましたが、いま、私がトッドの理論について感じるのはまさにこれです。

社会に関心を持ちつつ、なりゆきで実定法学者になり、西欧近代の物差しを現代日本にきっちり当てはめてみた。ああすればいい、こうすればいいと言ってやってみても、その目盛り一つがどうしても動かない。その過程で得た認識、経験した感情のすべてが、現在、私がトッドの理論に全幅の信頼を置き、理解し、味わい尽くす下地になっているのです。

おかげで、現在の私は、高校生のときに知りたかったことをすべて知り、その先を考えることができるようになっています。なんてありがたいことでしょうか。奇跡です、奇跡。いや、本当に。大して興味もないのによく法学を選び、研究者にまでなったと、自分を褒めたい気持ちでいっぱいです。

他の領域で研究をしていたとしたら、おそらく、文理を問わず、社会に一定の関心がある真面目で良心的な人々のほとんど全てが抱いているリベラリズムの夢ないし幻想を完全に捨て切ることはできなかったでしょう。

ちょっとおかしいと思いつつ、「合理的な」提案をし、変える努力をして、変わらないと嘆くことを繰り返す。そんな知識人であり続けたと思います。

いま、そこら辺から外に出て、次に進むことがとても大事だと思うので、準備ができている人たちと一緒に、それをしようと思います。

その第一弾が、エマニュエル・トッド入門講座です。