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結局あの戦争は何だったのか
ー日本から見たWW2ー

 

目次

はじめに

第二次世界大戦 -アメリカはなぜ参戦したのか-」を読んで下さった方の中には、「で、結局、あの戦争のことはどう考えたらいいの?」とモヤモヤしている方がいると思う。

私の基本的な理解は、日中戦争と第二次世界大戦はまったく別物だ、というものである。

倫理的な観点からいうなら、日本は中国に侵略した点では「悪」であり、中国に対してはいくら謝罪しても足りない。

しかし、アメリカとの関係は違う。

説明しよう。

侵略戦争、ライバル間戦争、覇権戦争

便宜的に、近代国家を主体とする国際戦争を次の三種類に分けて考えてみたい。

  1. 侵略戦争:領土や植民地、勢力圏を拡大するための戦争
  2. ライバル間戦争:国家同士がその勢力を争うために起こす戦争
  3. 覇権戦争:ある国が世界を制覇するために起こす戦争  
ロシア(ソ連)を入れるとややこしくなるので今回は除きます。すみません。
大衆識字化と工業化については、トッド「我々はどこから来て、今どこにいるのか?」上253頁を参照。

①侵略戦争

上図の6カ国は、みな海外膨張の時期を経験しており、征服または反乱鎮圧のための戦争を幾度も戦っている。

名前を問わず、ある程度以上の武力の行使を伴う案件を列挙するとこんな感じになる(↓)。

*網羅的ではありません 

ここでは、以下の点を確認していただくと見通しがよくなると思う。

  • イギリスフランスの海外進出の歴史がとにかく長いこと、
  • 統一が遅れたドイツ、統一も工業化も遅れたイタリアは後から膨張を始め、西欧列強によるアフリカ分割にも遅れて参加していること、
  • アメリカ日本が同時期にそれぞれ自国周辺での勢力拡大を行っていること、
  • 中国にはすべての国が進出していること。

日本は、明治維新を経て、欧米列強と肩を並べる強い国になりたいという願望のもと、数多くの侵略戦争を戦った。日中戦争もその一つである。

この意味での侵略戦争は、近代化の過程を先行した国がその分の優位を利用して後行の国を利用・支配する行為であり、倫理的に正当化の余地はない。これは「はじめに」で述べたとおりである。

②ライバル間戦争

ライバル間戦争は、比較的対等な関係にある国同士が勢力争いの過程で行う戦争を指す。

英蘭戦争(1652、1665、1672)、英仏植民地戦争(17世紀末-19世紀初頭)、米英戦争(1812)、普仏戦争(1870)、日露戦争(1904)などが典型である。

多数の国が関わった七年戦争、第一次世界大戦も、基本的には勢力争い(競争)のための戦争であり、「ライバル間戦争」といってよいと思う。

③覇権戦争

覇権戦争は、世界を征服して大帝国を築くという壮大な企てのための戦争である。そうしょっちゅうは起こらない。

例えば、イギリス(大英帝国)は、早期の海外進出の結果、金融・通商における世界の覇権を担ったが、覇権戦争によってこれを得たわけではない。

*ただし、初期に覇権を確立したという事実のために、その後に起こる覇権戦争ではたいてい敵役を務めることになった。

近代以降の覇権戦争として思い浮かぶのは、まずはナポレオン戦争

La bataille d’Austerlitz. 2 decembre 1805 (François Gérard)

次は、世界の「新秩序」を目指したヒトラー率いるドイツの戦いである(第二次世界大戦・ヨーロッパ戦線))。

そして、「第二次世界大戦 -アメリカはなぜ参戦したのか-」での検討を経て、私は、アメリカ参戦後のWW2はアメリカを主体とする覇権戦争だったと考えるようになった。

第二次世界大戦の整理・整頓

「結局あの戦争は何だったのか?」をクリアに理解するためには、参加主体毎に区別して整理・整頓を行うのがよいと思う。

(1)ドイツにとっては覇権戦争だった

WW2(ヨーロッパ戦線)は、ドイツを主体としてみた場合には純然たる覇権戦争である。

*これをくい止めるために戦った英仏露にとっては、国家ないし国土防衛戦争である。

ちなみに、ドイツにとって、WW1は覇権戦争ではなかった。もちろんドイツは勢力拡大を目指していたが、その行動様式に他国と大きな違いがあったわけではない。

*英仏に対してドイツが少し出遅れていたために「現状維持を望む英仏 VS 攻撃的なドイツ」という構図になってしまっただけである。

WW1におけるドイツと英仏の戦いは「ライバル間戦争」に過ぎなかったのだが、あたかもドイツによる覇権戦争のように扱われ、敗北したドイツに過大な責任が押し付けられた。

*このことは戦後処理にもよく現れている。WW1のドイツは交渉により和平に応じたのであり、無条件降伏をしたわけではなかった。にもかかわらず、敗戦後の交渉のテーブルにつけず、「戦争の責任は専らドイツとその同盟国にある」(条約231条)と勝手に決められて巨額の賠償を課せられた。

このときの心の傷が、ドイツをこじらせ、今度は本物の覇権戦争に向かわせる大きな要因となったのである。

(2)日米は「ライバル間戦争」を戦えば十分だった

日本は1937年から日中戦争を戦っていた。日中戦争はすでに述べたように侵略戦争であり、同じく中国に関心を持っていた欧米諸国から見ると日本はライバルだった。

「八紘一宇」とか「大東亜共栄圏」などと威勢のよいことを言ってはいたが、その実態は、限定的な地域における地域覇権の構想にすぎず、アメリカによる中南米・太平洋地域の植民地化と何ら異なるものではなかったのだ。

*文化が異なるから支配の仕方はもちろん異なるが、日本のやり方が際立って悪質だったということはないと思う。

日本の構想は、アメリカの利益には反していた。アメリカは中国を開放市場としてキープしたかったし、日本には(石油などを通じた)「アメリカ依存」から脱却してほしくなかった。

なので、日本がどうしても「大東亜共栄圏」を実現するつもりなら、どこかの時点でアメリカと戦うことは避けられなかったかもしれない。

*とはいえ、日本は石油も軍需品もアメリカに依存しており、戦って勝てないことは当時の指導者も分かっていた。交渉の余地はいくらでもあったのだ。

しかし、その場合に起こる戦争は、せいぜい「ライバル間戦争」であるはずだった。

当時の両国における総合的な軍事力(経済含む)の差を考えれば「日米戦争」はごく短期間で終わったはずで、負けた日本がいろいろ譲り、「依存」脱却は将来に期する、ということになったはずである。

310万人もの死者(日本人)を出す必要なんて全くなかったのだ。

(3)最終的にWW2はアメリカの覇権戦争となった

それにもかかわらず、日本がWW2に引っぱり込まれ、ヒトラーのドイツと一緒くたにされて「総力戦」を戦う羽目に陥ったのは、アメリカがWW2への参戦を世界の覇権を取るチャンスとみなしたからである。

 *詳細はこちらをご覧ください。

日本はそのとばっちりを食った格好だ。

(4)イタリアも「とばっちり」

WW2におけるイタリアと日本の立ち位置はかなり似ている。

イタリアも、直前にアルバニアを保護国化したり、エチオピアに侵攻したりしたことを咎められ、ついでにドイツと提携関係を結んだことで「覇権戦争」の主体に祭り上げられたのだが、イタリアが戦っていたのは覇権戦争ではない。侵略戦争であり、ライバル間戦争だ。

欧米列強から見れば「ライバル」だから開戦はしても、適当なところで交渉して終わらせれば十分で、無条件降伏を要求されるいわれなど全くなかった。

このときの日本やイタリアは、せいぜいWW1のときのドイツである。勢力拡大は願っていたが、世界征服なんて想像もしなかったのだ

*ドイツと日本・イタリアの時差は大衆識字化の時期で説明できると思う。ドイツは工業化の開始こそイギリスに遅れたが、識字率上昇による地力の蓄積があったので、非常に早期にキャッチアップできたのだ。

なぜWW2が「自由と民主主義のための戦争」になったのか

そういうわけで、WW2は、全体として見ると、ドイツの覇権戦争として始まり、アメリカの覇権戦争として終わった。

それがどうして、「ファシズム陣営 VS 自由主義陣営の戦い」「自由と民主主義のための戦争」と整理されることになったのか。

答えは簡単で、アメリカが(参戦し覇権戦争として総力戦を戦うための)口実を必要としたからだ。

(1)英仏の開戦理由はイデオロギーではない

1939年9月、ドイツと英仏の間で戦争が始まったとき、その戦いはイデオロギーを守るための戦いではなかった。

ヒトラーが政権についた1933年1月以降、ドイツはジュネーヴ軍縮会議・国際連盟脱退(1933年10月)、徴兵制復活(35年)、非武装地帯とされたラインラントへの進駐と、WW1後のヴェルサイユ条約を反故にするような動きを着々と進めたが、ヨーロッパ諸国は(文句を言いながらも)許容した。

1938年3月のオーストリア併合には抗議すらなく、ドイツがチェコスロバキアにズデーテン地方の割譲を要求したときも、英・仏・伊・独の4カ国(チェコ抜き!)の話し合いで割譲を認めている(ミュンヘン会談)。

*ドイツとオーストリアの「合邦」は「民族自決」というヴェルサイユ条約の基本理念に基づく「ドイツ民族の自決」の行為として行われ、現にほとんどのオーストリア人はこれを歓迎していたというから、ドイツの勢力が大きくなりすぎることを嫌う勢力にとって要警戒であったとしても、倫理的には問題のない行動だったかもしれない。

こうした首脳たちの姿勢が、「自由と民主主義」の国民に非難を浴びたかといえばそんなこともない。

ミュンヘン会談で「宥和外交」を主導したイギリス首相チェンバレンは「ヨーロッパの平和を守った」として国民の大歓迎を受けて帰国したのだ(坂井栄八郎『ドイツ史10講』194頁)。

英仏がようやく戦争の準備を始めたのは、ドイツがミュンヘン会談のラインを踏み越えてチェコスロバキアに侵攻・保護国化した後であり(1939年3月)、宣戦布告をしたのは、ドイツがポーランドに侵攻した後である(9月)。

ドイツの拡大方針が予想以上に「本気」であり、フランス、オランダ、ヨーロッパ全土がその支配下に置かれる危険性があると見てとって、初めて英仏は戦争に踏み切ったのだ。

英仏、そして後に対独戦争の中心となったソ連にとっては、第二次世界大戦は純粋に「国土防衛のための戦争」であり、それ以上でもそれ以下でもない。

(2)「自由と民主主義のための戦争」へ

この戦争が急速に「自由と民主主義のための戦争」の様相を見せるのは、アメリカが参戦に向けた世論形成に動き始めてからである。

1941年1月、フランクリン・デラノ・ルーズベルト大統領(以下FDR)は「4つの自由」演説(一般教書演説)を行い、来るべきアメリカの参戦は独裁者から人類の自由を守るための戦いであると位置付けた。

以後、FDRは類似の言説を繰り返し、チャーチルとも協力して、第二次世界大戦を「自由 VS 専制」の戦いに仕立て直す。

そうして国民世論をまとめ上げ、同年12月、日本の真珠湾攻撃を機に参戦するのだ。

この戦いが通商による世界帝国を完成させるための覇権戦争であることを隠すためには、天皇はヒトラーと同様の独裁者でなければならず、日本はドイツと同様の軍国主義国家でなければならなかった。

しかし、事実は違う。天皇はヒトラーとは全く異なる穏健な君主だった。満州事変以降、ナショナリズムは高揚し思想・言論の取締りも強化されたが、それは日本だけのことではない。

*WW1中のアメリカは戦時広報委員会を作って激しい戦争プロパガンダを展開するとともに、戦争批判を含む言論の取締りを行なった。大学は戦争批判を行なった教員を解雇し、国は戦時防諜法(スパイ活動法とも)・戦時騒擾法違反などの容疑で戦争批判者を逮捕・起訴した(こうした法律は廃止されずに残っていて多分現在も使われている)。人種差別的排外主義も顕著であり、1924年移民制限法は「帰化不能外国人」として事実上日本人の移民を禁止し、WW2への参戦後は苛烈な日系人収容政策をとった。

日本で軍部の権力がいよいよ強大になり、言論や報道の統制が厳しくなり、狂気じみた戦い方が見られるようになったのは、対米開戦後。つまり、絶対に勝てないと分かっている強大な敵に向かっていかなければならない状況に追い込まれた後のことなのだ。

ロシア・ウクライナは「あの時の日本」(おわりに)

改めて整理してみて思った。

WW2に引きずり込まれた日本は、ほぼ、ウクライナ戦争に引きずり込まれたロシアなんだ。

バイデン大統領はロシアの特別軍事作戦が始まったその日の演説で、ロシアの侵攻を”unprovoked and unjustified attack”と述べて非難した。

*一般的な訳語では「いわれのない不当な攻撃」だが、より直訳的には「挑発なしに行われた、正当化できない攻撃」。

準備万端整えた上でさんざん挑発し、相手が攻撃を仕掛けてくれば即座に「unprovoked」と決めつけて対抗措置に出る。

*この件について詳細は「よくわかるウクライナ危機」、「なぜロシアはいま戦争を始めたのか(翻訳・紹介)」等をご覧ください。

これはFDRがWW2で用いたのと全く同じやり方だ。

FDRは、日本が思惑通り攻撃を仕掛けてきた翌日、真珠湾攻撃を”unprovoked and dastardly attack”として議会に宣戦布告を求め、ほぼ満場一致で参戦を果たすのだ。

*dastardlyは「卑怯な」。なお決議では初の女性議員であるジャネット・ランキンのみが反対票を投じた。

そして、日本はウクライナである。

WW2(太平洋戦争)における日本は、アメリカの目論見のために、およそ対抗できるはずのない強大な敵(アメリカ)に対峙させられ、3年半もの間、愛国心だけを頼りに戦い続けた。現在のウクライナが、強国ロシアとの戦いを強いられ、愛国心を掻き立てているのと全く同様に。

もちろん、日本は真珠湾攻撃をしないことができたし、ロシアはウクライナに侵攻しないことができた。しかし、その選択は、日本の場合には、無抵抗のままアメリカの属国となるという選択だったし、ロシアの場合には、NATOの不当な威嚇に屈し、ウクライナ東部のロシア系住民を見殺しにするという選択だった。

そういうわけなので、私は当時の日本を愚かとは思わないし、現在のロシアを愚かとは思わないが、当時の日本を愚かという人たちは、現在のロシアを愚かというのだろう。

「なるほどねー」と、
私は非常に合点がいったのだ。

付・終わらない戦争ーもう一つの共通点ー

本文からはみ出てしまったが、世界平和のために重要なことだと思うので書く。

現在のロシア・ウクライナと「あの時の日本」の共通点はもう一つあって、それは、アメリカの法外な要求のせいで、戦争を終わらせることができないという点である。

確かなことは知らないが、アメリカは東部を含むウクライナ全土の返還を条件にしているとか、ロシアの政権交代(レジーム・チェンジ)を狙っているとかいう。どっちも無茶な要求だ。

しかし、その前例もWW2にある。

歴史の教科書には、イタリア、ドイツは「無条件降伏をした」、日本は「軍の無条件降伏を勧告するポツダム宣言を受諾した」等とされている。もちろんその記載は誤りではない。

*日本の降伏は厳密には無条件降伏ではないという議論があるようで(例えばこちら)、確かに手元の日本史・世界史教科書はどちらも日本については「無条件降伏をした」とは書いていない。しかし、私の議論の文脈ではこの点は重要ではないので、とりあえず一緒くたに「無条件降伏をした」という言い方をさせてもらう。

しかし、教科書には、なぜ無条件降伏をしなければならなかったのかということは書いてなくて、これはアンフェアだと思う。

イタリア、ドイツ、日本が無条件降伏をしたのは、1943年1月のカサブランカ会談(チャーチルとFDR)で、両者が(FDRの主導で)「全ての敵に無条件降伏を強いる」と決めてしまったからだ。

何をされても文句を言えないという条件の下では、早期の降伏は考えられない。「無条件降伏」の決定は、とくにイタリアと日本には明らかに不必要な過剰な要求で、そのために戦争が長引き、その分だけ(敵味方を問わず)大勢の人間が死んだ。

WW2を経験した日本が提起できる最大の教訓は、経済制裁は戦争の導火線である(または「戦争そのものである」)ということと、停戦に高い条件を課してはいけないということの2点だと思うが、どっちも全く生かされていない。

 

 

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基軸通貨ドル ARTICLE

第二次世界大戦
-アメリカはなぜ参戦したのか-

はじめに 

私はこれまでの人生の中で「アメリカはなぜWW2に参戦したのか」という問いを問うたことがなかった。

*このブログの最初の記事でも、私が問うたのは「昭和の日本が、勝ち目のない戦争を始めた(そしてなかなかやめなかった)のはなぜか」という問いだった。

しかし、この夏、ケインズの伝記(イギリス人の目線でWW1からWW2の時期を描いている。以下『ケインズ』)を読んで、アメリカにはWW2に参戦しないという選択肢があったことに気づき、同時に、アメリカは明確な意図を持って参戦を決めたのだということを知った。

私が理解したのは、次のことである(仮説です)。

アメリカが参戦を決めたのは、戦争への参加を、イギリスから覇権の最後の一片を奪い、世界の頂点に君臨するチャンスと捉えたためである。

その際、アメリカが日本を敵に選んだのは、非白人への差別意識を利用して参戦を容易にするとともに、日本の野心を取り除き、アメリカの通商上の覇権を完成するためである

「なるほど、そうだったのか‥」と理解した瞬間、私には、近代から現代(というか今ここにあるこの世界)に至る流れがとてもクリアに見えるようになった。

日本人としては「えーっ!」と思うところもあるけれど、それはそれとして、「なるほどねー」という感覚を共有していただけたらと思う。

*「基軸通貨ドル」としてこのテーマを扱うことは当初予定していなかったのですが、アメリカの参戦があってこその「ドル覇権」であることは確かだと思います。連載をお読みの方は連載の一部として、そうでない方は単独の論考としてお読みください。

アメリカはなぜイギリスをなかなか助けなかったのか?

ドイツ軍がポーランドに侵攻したのは1939年9月1日。その2日後、イギリスとフランスがドイツに宣戦を布告した(9月3日)。WW2の始まりである。

英仏の宣戦布告について、イギリスの歴史家は次のようにいう。

イギリス政府とフランス政府がドイツとの戦争に踏み切ったのは、ルーズヴェルト政権がともに民主主義を掲げる友好国の敗北を許すはずがないと信じ切っていたからである。

ロバート・スキデルスキー『ジョン・メイナード・ケインズ』下・213頁

しかし、実際には、アメリカは1941年12月になるまで参戦しなかった(2年以上後だ)。

フランスが敗れ(40年6月)、連合国が困難な状況に陥っても、アメリカはなかなか彼らの側に立とうとはしなかったのである。

アメリカが参戦した理由を知るためには、アメリカが「なかなか参戦しなかった」理由を知る必要があるだろう。

そこで、この項のタイトルはこうなった。

「アメリカはなぜイギリスをなかなか助けなかったのだろうか?」

(1)アメリカ国民はヨーロッパの戦争への関与に反対だった

当時、アメリカ国民の間には、ヨーロッパの戦争に関わることに対するかなり強い忌避感があった。

1930年代のアメリカ国民は、第一次世界大戦を、イギリスに引きずり込まれて12万もの(アメリカ人の)死者を出した「無益な戦争」と捉えていた。

ヨーロッパの情勢悪化を受けて、参戦反対の国民感情は具体的し、議会は中立法(交戦国への武器禁輸)を制定する(1935年)。

これにより、政府は、さしあたり、中立の立場を義務付けられることになった。「なかなか参戦しなかった」第一の理由といえる。

*中立法は、36年(交戦国への借款禁止)、37年(内戦にも適用)と順次厳格化されている。

(2)アメリカはイギリスが好きではなかった

(1)とも関係があるが、基本的な姿勢として、アメリカはイギリスのことがそれほど好きではなかった。

前回も書いたように、イギリスの方は「アメリカは絶対助けてくれるはず」と思い込んでいるのだが、アメリカの方はイギリスをそれほどよく思っていないのだ。

アメリカの左派〔当時の政権与党は左派の民主党ー辰井注〕からすれば、イギリスは狡猾な帝国主義国家である。アメリカはそのイギリスの軍隊と戦って独立を勝ち取ったのだ。‥‥ それにイギリスは銀行を中心とする資本主義の中枢だが、ニューディールはそうした金融主導に対抗して計画されたものである。ルーズヴェルト自身も英帝国を嫌悪し、イギリスの貴族たちは信用ならないと考え、〔イギリス〕外務省は親ファシストではないかと疑っていたし、イギリス人は全体として非常にずる賢いと感じていた。‥‥

共和党はそれほど反英ではないとしても、とにかく反ルーズヴェルトであり、参戦には断固反対だった。

『ケインズ』下・214頁

そういうわけで、アメリカはイギリスを好きではなく、仲間意識も持っていなかった。これが第二の理由といえる。

(3)アメリカは経済戦争でのイギリスのやり口に怒っていた

もう一つの背景は1930年代の経済戦争である。

いわゆる「経済戦争」の発端は、アメリカ高関税政策である(1930年関税法)。アメリカは、農産物価格の下落に対処するため、農産物と(ついでに)各種工業製品の輸入に高い関税をかけた。

このアメリカの措置が、各国による対抗・報復措置の連鎖を生じさせ、終わらない経済戦争に発展してしまうのだが、その過程で行われたイギリスによる3つの措置がアメリカを怒らせていた。

①金本位制離脱 

イギリスは1931年9月に金本位制を放棄した。

イギリスの金本位制への復帰は(主観的には)世界の基軸通貨・金融センターの地位を回復するためであったが、早すぎる復帰それも過大評価された(WW1以前の)旧平価での復帰はイギリス経済に悪影響をもたらした。

と前回書いたように、ポンドの過大評価が負担であったためだが、アメリカは「イギリスが不当にポンドを切り下げて輸出競争力を維持しようとしている」と理解して怒った。

*なお、この時期のアメリカには「イギリス経済はそんなに悪くない」「まだまだどっかにおかねを隠しているはず」と考える傾向が見て取れる。家出息子の方にも親を過大評価している部分があるのだ。このときのアメリカは、財務長官モーゲンソーが陣頭指揮を取りドル安誘導策を取って「1ドル=5ポンド」(金本位制下でのレート)を回復してのけ、イギリスをギャフンと言わせたという。

②イギリス連邦特恵関税制度

イギリスは、オタワ連邦会議を開催し、アメリカへの対抗措置として、イギリス連邦特恵関税制度を構築した。

*イギリスとカナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ、ニューファンドラントの間の関税を引き下げることで諸国間の貿易を活性化する貿易振興策

これにアメリカは激怒した。
不満はこうである。

アメリカの高関税政策は、すべての輸入に高関税をかけるもので、全世界に対して平等だ。

一方、イギリスのやり方は、連邦諸国のみを優遇して閉鎖的な市場を構築するもので、それ以外の国を排除するものである。連邦の構成メンバーからいって、これではまるでアメリカだけが差別されているみたいではないか。

「やりすぎだ」「許せん!」

とまあ、そういうことになってしまったのだ。

*実際、当時のアメリカの国務長官コーデル・ハルは、この英連邦特恵関税制度こそが、彼の在任期間において、アメリカの貿易に「最大の損害」を与えるものだったと述べている。

③開戦後のドル防衛策

さらにイギリスは、WW2の開戦後、貴重なドルが軍事物資以外の輸入に使われないように、ポンド・ブロック内を厳格な為替管理で囲い込んだ上(ドルを使えないようにする)、ドルを手に入れるために中南米に輸出攻勢をかけた。

イギリスとしては戦争に勝つための苦肉の策だったが、アメリカの目にはアメリカの輸出妨害にしか見えず、怒り心頭となったのである。

*ポンド地域のドル囲い込みはアメリカの輸出にとって大打撃+中南米は「アメリカの裏庭」であり大切な輸出市場

背景としての経済戦争(経済構造と戦術)

「経済戦争におけるやり口に怒っていたからイギリスを助けない」という態度にも見て取れるように、(とりわけ)アメリカにとってのWW2の主題は経済である

アメリカは、経済政策をめぐって、イギリスに、ついでにいうと日本にも「イラッ」と来ていた。

実際のところ、1930年代の経済戦争における各国の「戦い方」は、それぞれの国の事情に対応したものなので、「怒っても仕方がないじゃん」と私は思うのだが、しかしともかくアメリカは不満だったのだ。

WW2の理解にとっても、WW2後の世界の理解にとっても重要なポイントなので、整理をしておきたい。 

アメリカは、資源大国であり、エネルギーも食料も他国に依存しないでやっていくことができる国である。

当時のアメリカにとっては、国内産業の強さと輸出市場の確保のみが重要であり、輸入はどうでもよかった。だから彼らは単純な高関税政策を取った。

*実際にはうまくいかなかったが。

他方、イギリスは、土地も資源も不足しており、自給自足は考えられない。輸入と輸出の双方を活発に行うことで初めて成立する貿易立国である。

だからこそ、イギリスは、高関税で国内産業を保護するだけでは不況を脱出できず、ブロック内で関税優遇策を取ることで、貿易(輸出と輸入)を維持する必要があったのだ。

しかし、市場から排除され、輸出先を奪われたアメリカはこれに不満で、「イギリスなんか絶対助けてやらない」と誓ったのである。

日本の場合である。日本はイギリスと同じく資源不足の貿易立国であるから、大英帝国にならって、勢力圏を広げてブロック経済を構築する方向を模索した。

*日本の場合、まだまだ資源確保には全然足りなかったので、経済戦争だけでなく領土拡大のための侵略戦争も並行して実施することになった。

アメリカはもちろんこれにも不満である。全世界はアメリカの市場でなければならないのに、日本は(朝鮮、台湾を含む)日本帝国、満州、中国全土をブロック化し、東南アジアへの拡大まで狙っている。

この時期のルーズヴェルト政権が関心を持っていたのは、強い国内産業と潤沢な市場による通商帝国の確立だった。

イギリスの特恵関税制度や日本の大東亜共栄圏構想はその妨げ以外の何ものでもなかったのである。

*「通商帝国」という言い方は、植民地として支配するのではなく(植民地だとちゃんと国家として経営しなければならないので)、諸外国を本国にとって都合のよい市場に仕立てて本国経済に奉仕させる非公式な帝国主義を指して用いられている。

イギリスとアメリカの攻防

そういうわけで、アメリカは、単にイギリスを助けるための参戦には全く興味がなかった。

そのアメリカがWW2への参戦を決めるのは、戦費調達をめぐるイギリスとの攻防の末のことである。

両者の間にどんなやり取りがあったのであろうか。

*私が『ケインズ』を読んで「ほー」と思ったのはこの辺です。以下、ほぼ同書に依拠して進めます。

(1)おかねが足りないイギリス

戦争を始めてはみたものの、イギリスにはおかねがなかった。

イギリスは、戦闘力にはそれなりに自信がある。しかし、重工業でイギリスを上回っていたドイツと戦争を続けるには、武器や軍需品を(アメリカから)入手し続けなければならず、イギリスにはその資金がなかった。

イギリスは再三に渡ってアメリカに支援を求めるが、アメリカ国民は参戦反対だし、アメリカ政府は「助けてやらない」と誓っている。その上、フランクリン・デラノ・ルーズヴェルト大統領(以下FDR)は、1940年11月の大統領選に向けた選挙戦を「アメリカの若者を海外の戦争に送らない」を公約に戦っていた。

しかし、イギリスにはとにかくおかねがない。おかねはないが、アメリカには武器や軍需品を送ってもらわなければ困るのだ。

(2)フィリップ・カーの説得術

この時期、ロジアン侯爵フィリップ・カーという人物が駐米イギリス大使を務めていた。 

Phillip Kerr 11th Marquess of Lothian

彼はまず、戦争を「自分たちには関係ない」と思っているアメリカ人に、この戦争にはアメリカの安全保障がかかっていると説得して回る戦術をとった。

標語にすれば、「イギリスの勝利なくしてアメリカの安全なし」。

*私が勝手に考えました。

一方、アメリカ国民は、ダンケルクの戦い(1940年5月)を経て、イギリスは負けるのではないかと考えるようになっていた。

*ドイツ軍に追い詰められた英仏軍が辛くも本国に撤退した「史上最大の撤退作戦」で有名。

敗戦を予測し「じゃあ助けなきゃ」となるかといえばそうではなく、彼らはこう考える。「負ける国に武器を売るなんてバカバカしい」。世論はますますイギリスに不利になっていた。

フィリップ・カーは、引き続き、イギリスの勝利がアメリカの安全保障の前提条件であることを訴えつつ、参戦にネガティブなアメリカ世論を考慮して、次のような論陣を張った。

アメリカが参戦しなくてすむ唯一の方法は、イギリスが負けないように支援することである。

この訴えはアメリカに響いたらしい。

1940年6月、カーは「このままではイギリスは負ける」と訴えて、FDRから旧式ライフル銃の破格での売却を引き出す。

*FDRは中立法の規定をかいくぐってこれを実現した(まずUSスティールに売って同社がそれを転売するという形をとったらしい)。

1940年11月、イギリスはバトル・オブ・ブリテンでドイツ空軍を撃退。

財政はますます逼迫の度を強めたが、アメリカの国民世論は好転している。

フィリップ・カーは考える。
さて、アメリカの資金を引き出すために何をしようか。

*この時点で、「年内に金・ドル準備はほぼ底をつく計算」だったという(ケインズ・219頁)。

(3)チャーチルの手紙

この時期、アメリカ政府(具体的には財務長官モーゲンソー)の基本姿勢は次のようなものだった。

イギリスがドイツと戦うのは助けよう。しかし世界におけるイギリスの地位を守ってやるつもりはない。」

イギリスがいくら支援を訴えても、アメリカはまだ、大英帝国の「隠し財産」を疑っており、帝国資産を温存したままでの支援はあり得ないと考えていた。

一計を案じたフィリップ・カーは、11月23日、ロンドンから飛行機で戻りアメリカの空港に降り立った際、その場にいた報道陣に大声でこう言い放った。

諸君、イギリスは文なしだ。
 われわれにはあなた方の資金が必要なのだ。

この発言はイギリスでもアメリカでも騒動となったが、FDR政権がイギリスのドル不足問題に公式に取り組まざるを得ない状況を作った。

それでもなお、アメリカは「ポケットを全部ひっくり返して」、イギリスが中南米に保有する資産の明細を提示しろと迫る。

*12月初めのイギリス大使との会談における財務長官モーゲンソーの発言。

窮地に陥ったフィリップ・カーは、チャーチルを動かそうとした。
カーに急き立てられ、チャーチルはFDRに書簡を送った。

これが効いたのだ。

FDRは、この手紙を読んで、WW2への参戦を最終的に決意した

私がそう思うのは、以下(具体的には次項以下)に示す状況証拠による。

「アメリカの若者を海外の戦争に送らない」と訴えて1940年11月の大統領選挙に勝利していた彼は、手紙を読んだ直後、一転して参戦に向けた環境整備に動き始めるのである。

*チャーチル自身、この手紙を「私がこれまでに書いた中で最も重要な手紙の一つ」との認識を示しているという。

手紙の内容はこちらで紹介しています。

FDRはどんな夢を見たか

手紙は、カリブ海に浮かぶクルーザーの上で選挙戦後の休養をとっていたFDRのもとに届けられた。彼は2日間、繰り返し手紙を読んで、沈思黙考したという。

威厳ある文体を保ちながらも「イギリスを身ぐるみ剥ぐことなく」船舶や軍需品を支援してくれと懇願するチャーチルの文章を読みながら、FDRは何を考えたのだろうか。

*ここからは私の想像です。

ついに来た。この時が

彼は考えたと思う。

イギリスからすべての特権を奪い、覇権をわがものにする最高のチャンスだ。

温情にすがるイギリスを助け、晴れて勝者の側に立てば、戦後の主導権はわが国に転がり込んでくる。帝国特恵関税制度はもちろん廃止させ、ポンドの地位も奪う。いよいよアメリカが名実ともに世界の中心になるときが来たのだ。

つぎに考えたのが、おそらく、日本のことだ。

*チャーチルの手紙にも日本への言及がある。

最大の障害はアメリカ世論だが ‥‥ それには日本を使うのがいいだろう。向こうから仕掛けさせれば、満場一致で参戦できる。

日本を叩いてその野望を打ち砕けば、東アジアに東南アジア、太平洋にインド洋。世界中の海と市場が、真にわが国のものとして確保されることになるだろう。

と、こんなことを考えて、うっとりしたのではないだろうか。

「よし」と心を決めたFDRは、さっそく、いわゆるレンドリース・プログラム(Lend-lease)の構想を発表する(12月17日)。

1941年3月に議会を通過するレンドリース法(武器貸与法)は、「大統領が合衆国の安全保障上必要と認めた国に対して武器・軍事物資を売却、貸与、賃貸などを行うことができる」というもので、それまで中立を保っていたアメリカが、以後(アメリカ的表現では)「民主主義の武器庫」として連合国側に立つことを明確にするものだった。

1941年1月には、「アメリカの安全保障が今ほど深刻に脅かされたことはない」という煽りから始まる「4つの自由」演説を行う。

*イギリス、ソ連が少なくとも互角でドイツと戦っている以上、1941年1月の時点でアメリカに危険が及ぶ可能性はほぼなかったというのが一般的な評価だと思います。

1941年8月には、早くも(まだ参戦もしてないのに!)、第二次世界大戦後の世界秩序に関する構想をまとめた英米共同宣言である「大西洋憲章」を発表する。

あとは日本に先制攻撃を仕掛けさせるのみ
というのがFDRの頭の中だったと私は思う。

実際、通商帝国の確立を目指すアメリカから見ると、日本は確かに目障りな存在で、ちょうどこの時期、両者の利害の対立は深まる一方だった。

日本とアメリカ:対立する利害

(1)夢は「アメリカ依存」からの脱却

資源不足の日本はイギリス型の帝国経営を志向していたが、それはあくまで「夢」であり、現実には石油の8割以上、屑鉄、軍需部品などをアメリカに依存していた。

*屑鉄は重工業の原料。
*当時の日本の重工業は軍需物資を完全に自給できる水準に達しておらず、部品を輸入に頼っていた。

アメリカ依存の状況をどうにか脱し、国家運営における自立性を高めたいというのが日本の悲願だったが、もちろんアメリカにとっては日本が依存してくれていた方が都合がよい。

ここに第一の(そして根本的な)利害対立があった。

(2)ブロック経済を目指す日本

帝国経営による自給自足を目指す日本は、日本、満州、中国を軸とした自給的ブロック(いわゆる円ブロック)の形成を目指した(東亜新秩序)。

*当時の近衛文麿首相による「東亜新秩序声明」は1938年11月3日と12月22日の2回。

自給自足の方向性はもちろんだが、排他的ブロックの構築もまた「輸出市場の確保」というアメリカの国是に真っ向から反する。

アメリカ政府の姿勢は硬化し、1939年7月には「日本の中国侵略に抗議する」という名目で日米通商航海条約の破棄を通告(1939年7月・失効は40年1月)。

日本とアメリカの貿易環境は悪化し、日本は軍需資材の入手が困難な状況に陥った。

(3)「南進」にかける夢

ヨーロッパで戦争が始まったのはちょうどその頃だ(1939年9月)。

1940年5月以降、オランダとフランスが立て続けに降伏すると、日本の目はそれぞれの植民地に向かう。

*いわゆる仏印(ベトナム・カンボジア)、蘭印(インドネシア)

東南アジアへの進出はアメリカへの石油依存を脱却する格好の手段だ。ドイツやイタリアに獲られる前に、なんとか日本のものにしたい。

え、イギリスも負けるかも?
それならシンガポールやマレーシアもぜひぜひ獲得しなければ。

南進すればアメリカが妨害してくることはわかっていたが、それでもというか「だからこそ」、日本は東南アジアに進出したかった。だって、それだけが、アメリカ依存から脱却する唯一の手段なのだ。

日本は「何かしてきたら、こっちだって黙ってないぞ」というところを見せるため、日独伊三国同盟を結んだ(1940年9月)。 

*要するに「強そうに見せるため」だったのだが、これは無意味で逆効果だったというのが一般的な評価である。アメリカを牽制する効果はゼロだったのに、日本を敵国扱いするよい口実を与えてしまったからだ。

当時の絵葉書(wiki)

並行して、フランスのヴィシー政府(ドイツの傀儡)と交渉し、日本は北部仏印に進駐した(1940年9月)。

案の定、怒ったアメリカは、日本に対する経済制裁として、高品質の航空機燃料の禁輸(8月)、屑鉄の全面禁輸(9月)を決める。

ルーズベルト政権は中国をめぐる戦いに介入する意図はなかったが、日本がその帝国の勢力を東南アジアに拡張することは決して容認できなかった。

ジェフリー・レコード『アメリカはいかにして日本を追い詰めたか』45頁

FDRがチャーチルからの手紙を受け取ったのは、この直後ということになる(12月8日)

1941年の日米交渉

1940年の末に参戦を決めたFDR政権は、1941年の1年間をフル活用し、日本に先制攻撃を仕掛けさせることに見事に成功した、といえると思う。

交渉の過程を確認しよう。

*ポイントと思われる部分だけを拾います。日米交渉についてはwikiがかなり詳しくかつ公平に書かれているように見えます。

(1)日本にアメリカと戦うつもりはなかった

大前提として、独伊と三国同盟を結び、北部仏印に進駐した日本に、アメリカと戦う意思があったかといえば、ない。

 *通説だと思います。

こう言っては何だが、戦って勝てるくらいならとっくにやっていただろう。勝てるはずがないから、せめて三国同盟を結んだり、南進したりして、アメリカへの依存度を減らそうと努めているのだ。

とはいえ現状では、アメリカとの関係が本格的に悪化して石油や屑鉄の輸入が途絶えるのは悪夢でしかない。

そういうわけなので、日本は、アメリカが(レンドリースに大西洋憲章と)着々と参戦の下準備を整えている間も、必死で、アメリカとの関係改善を成し遂げようとしていたのだ。

(2)いきなり無理な要求を突きつけるアメリカ

交渉の任を負った駐米大使の野村吉三郎は、1941年3月に米国務大臣コーデル・ハル、続けてFDRと会談して交渉の意向を伝え、4月に再び野村ーハル会談が行われた。

1941年2月にホワイトハウスを訪ねる野村

  

コーデル・ハル

この席で、ハルは「日本政府が一項でも同意しなかったら、アメリカ政府は交渉に入ることを拒絶する」と念を押した上で、「ハル4原則」を手渡したとされる(田原・506頁)。

 ハル4原則
(1)すべての国家の領土と主権を尊重すること
(2)他国の内政に干渉しない原則を守ること
(3)通商の平等を含めて平等の原則を守ること
(4)平和的手段によって変更される場合を除き太平洋の現状を維持すること

現代のわれわれは、WW2については「アメリカが正しくて日本が間違っていた」という歴史観を非常に強く植え付けられているので、アメリカの日本への要求には何でも理があるような気がしてしまうが、当時の日本の立場に立って考えてみると、アメリカのこの要求はおかしい。

何といったらよいのであろうか。アメリカの要求は、基本的に、戦争に勝った国が負けた国に対してする要求なのだ

当時の日本人がこれを読むと、
(1)は「中国から撤退しろ」という意味だし、
(2)も「中国から手を引け」という意味だ。
(3)はブロック経済の否定だし、
(4)は「南進するな」という意味だ。

*日中戦争の泥沼化で、日本は大規模攻撃を中断し、中国各地に傀儡政権を樹立する方式に切り替えており、1940年には各地の傀儡政権を統合した新国民政府政権(汪兆銘政権)を南京に樹立していた。

1937年7月から日中戦争を戦ってようやっと手に入れた権益を全部手放せというのだから、当時の日本にこれは受け入れられない(とくに(1)(2))し、アメリカはそのことを先刻承知であったはずである。

なぜそんな要求を平然と突きつけることができるのかといえば、それは、アメリカが石油という日本の「弱み」を握っているからであるし、もっといえば、戦争をしても構わない(私の仮説では「攻撃を仕掛けてくるよう仕向けたい」)、すれば絶対に勝つと思っているからである。

(3)強化される経済制裁

これに黙って従えば、日本は自発的にアメリカの属国になるのと同じである。欧米列強に並ぶ一人前の国家として発展することを目指す当時の日本に、それができるはずはない。

「でも、アメリカとの関係を改善しなければ、石油が・・」

とぐずぐずしていると、1941年6月に独ソ戦が始まり(日本は全く察知していなかった)、日本が(ちょっとは)期待していたドイツからの物資供給の見込みはなくなった。

それを見越したように、アメリカは日本への石油製品の無許可輸出を禁止する(6月)。

インドネシア(蘭印)からの石油買付をめぐるオランダとの交渉も不調に終わり、追い詰められた日本は、ヴィシー政府との交渉により、南部仏印に進駐(7月)。

アメリカは直ちに対日資産凍結令を出し、イギリスとオランダもこれに追随、オランダ(蘭印)は続いて日蘭石油協定も停止する。

そして、8月、アメリカはついに、日本に対する石油の全面輸出禁止を発表するのだ。

*軍部の主導による南部仏印進駐については「対米英戦やむなしとの判断から」進駐したとする文献もあるが、少なくとも近衛首相(や主要な軍・政権幹部)にとってはそうではなかったようだ。

幣原喜重郎『外交五十年』に依拠した田原・516頁によると、「そんなことをしたら日米戦争になる」「船をただちに引き返させろ」と主張する幣原に対し、近衛は顔面蒼白となり、「御前会議で決まったことを覆すのは無理‥‥、他に何か方法はないでしょうか」とすがるように言った、という。

(4)戦争回避への努力

日本にとって、資産凍結と石油の全面輸出禁止は大変な痛手である。はっきり言って、戦争どころの騒ぎではない。

日本の石油は8割をアメリカに、2割を蘭印やボルネオに依存しており、これで一滴の石油も入って来ないことになったのである。この時点で、日本の石油貯蔵量は1年半しかもたないことがはっきりした。

田原・517頁

そして、資産凍結(ドル口座の凍結)は、アメリカ以外(南米など)からの輸入の道も閉ざされることを意味していた。

こうなると軍部を中心に強硬論が強くはなるのだが、それでも、日本の首脳部は戦争を望んではいなかった

*石油もないのにどうやって戦うのか。 

近衛文麿首相は、8月4日(米の対日石油輸出全面禁止発表直後)、ルーズヴェルト大統領との直接会談の道を探ると発表。

*和平に向けた交渉には、陸海軍も天皇も賛成していた。

野村駐米大使は、ハル国務長官に近衛とFDRの日米首脳会談の開催を正式に申し入れ(8月8日)、17日にはFDR本人と面会、28日には近衛からの親書を手渡している。

しかし、日米首脳会談は実現しなかった。

近衛は、軍を激怒させることを厭わず「中国からの全面撤退」のカードを切るつもりだった。

*内務官僚伊沢多喜男の「それをやれば殺されるに決まっている」との忠告には「自分の生命のことは考えない」。「アメリカに日本を売ったといわれる」には「それでも結構だ」と答えたという。「優柔不断の見本のようないわれ方をしている近衛も、少なくともこの時期は生命をかけていたのだった」(田原・526-527頁)。

しかし、アメリカ側は、事前協議によって「予め基本問題を承認した上でなければ首脳会談は行えない」の一本槍で、会談の申し入れを突っぱねた。

*「基本問題の承認」とはハル4原則の全面受諾のこと。

近衛は「全面受諾」に応じるつもりだった。しかし、国内の強硬派を押し切るためにはFDRとの首脳会談が必要だった(おそらくその事情をアメリカは理解している)。

アメリカはその席を設けることすら拒否したのである。

1940年秋頃の近衛文麿(wiki)

(5)進む戦争準備・諦めない近衛

こうした事態を受けて、9月6日の御前会議では、「帝国は自存自衛を全うするため、対米(英・蘭)戦争を辞せざる決意の下に、おおむね10月下旬を目処として戦争準備を完整する」という文言を含む(外交手段を尽くす旨の記載もある)「帝国国策遂行要領」が決定した。

それでも近衛は諦めず、グルー駐日大使に言葉を尽くして日米首脳会談の実現を求めた。

近衛はグルーに、ハル4原則を全面的に受け入れ、支那から速やかに撤退する用意があると伝えた。日米関係の回復のために、自分は身の犠牲や安全を顧みない、ただし事態は切迫している、とも伝えた。

グルー大使は、日米首脳会談の実現を勧める報告書を本国に送っている。

米日関係を改善できるのは彼(近衛)だけです。彼がそれをできない場合、彼の後を襲う首相にそれができる可能性はありません。少なくとも近衛が生きている間にそんなことができる者はいないでしょう。‥‥近衛公は、彼に反対する勢力があっても、いかなる努力も惜しまず関係改善を目指すと固く決意しています。

グルー駐日大使の本省宛報告書(渡辺・159頁)

この点は、イギリスの駐日大使も同じ意見だった。

アメリカの要求が、日本人の心理をまったく斟酌していないこと、そして日本国内の政治状況を理解していないことは明白です。日本の状況は、(首脳会談を)遅らせるわけにはいかないのです。アメリカがいまのような要求を続ければ、極東問題をうまく解決できる絶好のチャンスをみすみす逃すことになるでしょう。私が日本に赴任してから初めて訪れた好機なのです。

アメリカ大使館の同僚も、そして私も、近衛公は、三国同盟および枢軸国との提携がもたらす危険を心から回避しようとしている、と判断しています。もちろん彼は、日本をそのような危険に導いた彼自身の責任もわかっています。‥‥(近衛)首相は、対米関係改善に動くことに彼の政治生命をかけています。そのことは天皇の支持を得ています。もし首脳会談ができず、あるいは開催のための交渉が無闇に長引くことがあれば、近衛もその内閣も崩壊するでしょう。

アメリカ大使館の同僚も本官も、この好機を逃すのは愚かなことだという意見で一致しています。確かに近衛の動きを警戒することは大事ですが、そうかといってその動きを冷笑するようなことがあってはなりません。いまの悪い状況を改善することはできず、停滞を生むだけです。

9月29・30日 ロバート・クレイギー英駐日大使の本国宛公電(渡辺・159-160頁)
(6)戦争へ

それでも、結局、日米首脳会談は実現しなかった。
行き詰まった近衛内閣は辞職し、東條英機内閣に変わる(10月18日)。

11月5日は新たな「帝国国策要領」が決まり、11月30日中に日米交渉が成功しなければ対米戦争に突入する、ということになった。

もちろん交渉は成功せず、11月26日、事実上の最後通牒である「ハル・ノート」が駐米日本大使に手渡される。

そしてついに12月7日未明(ハワイ時間)、FDRがチャーチルからの手紙を読んだちょうど1年後に、日本は真珠湾攻撃を開始するのだ。

*アメリカは交渉中からずっと日本の暗号を解読していたので、この攻撃のことも予め知っていた。

おわりに

そうやって、アメリカは見事に国民の支持を得てWW2に参戦し、世界の覇者になった。

日本を戦争に引きずり込み、すべての敵国に無条件降伏を要求し、ヨーロッパ、ソ連、中国、東南アジア、日本を壊滅させた。

そうしてただ一人、無傷の土地と人口、豊かな資源と工業生産力を備えた国家として、戦後を迎えるのである。

主な参考文献

  • ロバート・スキデルスキー(村井章子訳)『ジョン・メイナード・ケインズ 1883-1946 下』(日本経済新聞出版、2023年)
  • 中野耕太郎『20世紀アメリカの夢 世紀転換期から1970年代』シリーズ アメリカ合衆国史③(岩波新書、2019年)
  • 田原総一朗『日本の戦争』(小学館文庫、2005年)
  • 渡辺惣樹『誰が第二次世界大戦を起こしたのか フーバー大統領『裏切られた自由』を読み解く』(草思社文庫、2020年)
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昭和の戦争について

1 はじめに

昭和の日本が、勝ち目のない戦争を始めた(そしてなかなかやめなかった)のはなぜか、というのは、分野を問わず、社会科学者にとっては重たい問いである。私自身はエマニュエル・トッドの移行期危機の理論1トッドの本のあちこちに出てくる。エマニュエル・トッド ユセフ・クルバージュ(石崎晴己 訳・解説)『文明の接近 イスラーム VS 西洋 の虚構』(藤原書店、2008年)58頁以下等(ざっくりいうと「近代化に伴う心性の混乱のせいである」)で、ある程度納得していたが、幕末から明治にかけての動乱がトッドのいう「ストーンの法則」(「男性識字率が50%を超える頃に近代化革命が起きる。後でもう一度触れるので典拠はそちらで)によってしみじみと納得できるのと比べると(今年の大河ドラマ「青天を衝け」の描き方は見事だった!)、どうしてあの時代に、ああいうかたちで暴発したのかを説明できないのはちょっと弱いな、とも思っていた。

日本社会の心の傷であるような現象について理由がピンとこないのはよいことではない。「将来また同じようなことをしてしまうのではないか」と不安だし、実際、いわゆるリベラルの知識人の人たちは始終「あの戦争のときと同じ空気」のようなことを言って市民を脅かしている(私もやったことがある)。

それとこれとは多分違うので、違うとはっきり言えた方がいいんだけどなあ、と漠然と思っていたところ、この夏の読書(ジョン・ダワー「吉田茂とその時代(上・下)」中公文庫、1991)をきっかけに「あ、それか!」というところまで分かり、私としてはすっかり納得できてしまったので、書きます。

2 吉田茂と戦争

上の本を読んで「へー」と思ったことが二つあった。一つは、敗戦時点で吉田茂は67歳のおじいさんだったこと、もう一つは、吉田は全然開戦に賛成しておらず、始まってからも早く終わらせたいとヤキモキしていたのだが(ここまでは別に「へー」ではない)、このときに吉田の周辺にいたじいさん仲間たち一同が、戦争を主導していた陸軍の軍人たちをまったく信用しておらず、「過激派」「赤の巣窟」くらいに思っていたということである2吉田が日本の再軍備に一貫して消極的だったのは、おそらく「いま再軍備をしたら、またあいつらがロクでもないことを仕出かすに決まってる」ということでもあったのだ。ジョン・ダワー「吉田茂とその時代(下)」(中公文庫、1991年)150頁以下参照(上のカギカッコは引用ではありません)

東京裁判でA級戦犯に指定された人たちの生年は1867年から1895年(敗戦時点で78歳から50歳)で、一番多いのが80年代生(65-56歳)である。要するに中高年ばっかりだったので3日暮吉延『東京裁判』(講談社現代新書、2008)107頁。これは、戦犯の指定が「知名度」重視で、「大物」責任者を選ぶという方針で行われたためだという(同101頁)、私も何となくそういう年代の人たちが日本を戦争に引き摺り込んで大勢の若者を犠牲にした、と思っていたような気がするが、「ちょっと違うな」と感じた。

昔、やはり夏休みに、川田稔「昭和陸軍全史(全3巻)」(講談社現代新書、2014年)を読んで、陸軍の人たちとしてはもう突っ走るしかなくなっていた感じをひしひしと感じ、「近衛、なんとかしてやれよ!」などと思ったものだが、近衛文麿のような年寄り(とはいえ1891年生(敗戦時54歳)だから吉田よりはだいぶ若い)に止められるようなものではなかったのかもしれない。この辺の「感じ」から、調査を開始した。

3 世代の差

満州事変から二・二六事件、盧溝橋事件後の日中戦争突入、太平洋戦争に至る時期の中心人物について、吉田茂との世代の差を確認しておこう。

吉田茂は1978年生、吉野作造と同じ歳で、美濃部達吉(1873年生)よりちょっと若い。マルクス主義が流行する以前に大学を卒業し、英国流のリベラリズムにシンパシーを持つ「オールドリベラル」の世代だ。

満州事変(1931年)の首謀者である陸軍軍人たちは、これより7-10歳くらい若い。板垣征四郎が1885年生、石原莞爾は1889年生である。盧溝橋事件後の対応を巡り、石原との抗争に勝利して実権を握るようになったのは、石原より少し若い武藤章(1892年生)、田中新一(1893年生)らで、彼らは太平洋戦争に至るまで陸軍の中心であり続ける4この辺の情報は、川田『昭和陸軍全史』2巻と3巻を参照

二・二六事件(1936年)に参加した人たちはもう一段若く、中心は1900年代生。対米開戦の時期には、この世代も幹部クラスの一翼を担っている。開戦を決めた時の陸軍の中心人物としては、武藤、田中の他に、服部卓四郎(1901年生)の名が挙がる。ちなみに、服部は昭和天皇と同じ年である(天皇も若かった!)。

吉田から見て、この人たちが「信用できない過激派」に見えた理由はおそらく二つあって、一つは、彼らがマルクス主義などの(当時でいう)革新思想の洗礼を受けた世代であるため5「マルクス全集」の一冊として資本論の翻訳が出版されたのは1920年で、1920~30年代に「膨大な量のマルクス主義文献の翻訳がなされた」(丸山眞男「「戦前日本のマルクス主義」英文草稿」(丸山文庫所蔵未発表資料翻訳)106頁(1963年の講演草稿。https://twcu.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=20182&file_id=22&file_no=1)らしいので、この時期にマルクス主義が大流行になったと見ていいだろう。1900年前後から一般に知られはじめ、1910年に幸徳秋水の事件があって下火になったりしつつもじわじわ普及し、大正デモクラシーの波にも乗って、1920年頃にはごく普通に学術的な研究の対象となるくらいに流行してきたという感じか、もう一つは、後で述べるように、彼らが戦後でいえば「団塊の世代」的に人数が多く、かつ、大学の大衆化が始まりかけた時代の若者たちだったためである。

4 近代化と人口

人口学の二つの理論が、今回の探究の鍵になった。歴史人口学などの学問は、過去の統計的数値を復元することで、歴史上の出来事を(疾患の原因を探るときの)疫学研究のようなやり方で研究することを可能にしている。こういう手法は、戦争や虐殺のような「非常識な」事象の解明にはとくに有益であるように思われる。

(1) 人口転換(demographic transition)

人口転換の理論とは、近代化は「多産多死」から「少産少死」への転換を伴うというもので、人口学における最重要理論の一つとされる6河野稠実『人口学への招待 少子・高齢化はどこまで解明されたか』(中公新書、2007年)107頁は「人口学では数少ないグランド・セオリー(大理論)である」とし、Sarah Harper, Demography, A Very Short Introduction, Oxford University Press, 2018, p55は「one of the centrepieces of demography」としている。 

この理論によると、近代化の過程で、社会は必ず「死亡率の低下」と「出生率の低下」を経験する。ただし、両者の間にはタイムラグがあって、死亡率が先に低下し、出生率はその後しばらくしてから低下する。日本の場合も、死亡率は19世紀末から低下しているが、出生率が下がるのは1950年頃からである。

人口転換の過程(タイムラグの期間)にある「低い死亡率+高い出生率」の期間には、当然、人口が増える(「人口爆発」といわれる)。死亡率が下がっているところに(死亡率低下の局面では乳幼児死亡率の低下がとくに大きいとされているようである)、高い出生率が維持される、ということは、変わらずたくさんの子どもが生まれてくるわけなので、人口の中で若年者の割合が高くなる。人口爆発とはさしあたり「若年人口爆発」なのである。

近代化の過程における「若年人口爆発」的な時期を、日本は、戦前と戦後の2度に分けて経験している。1度目は1870年以降から戦争終結直前までの時期である。近代日本の人口は、1800年に3030万人だったのが1850年は3220万人と19世紀前半は「微増」であったが、後半以降加速的に増え、1870年から1936年の間に2倍になった(3470万→6925万)7主にStatistica.com調べ。1936年のデータは 内閣府「平成16年版少子化社会白書」4頁

戦後の増加は、いわゆる「ベビーブーム」に始まる。まず1947年-49年のベビーブームがあり、死亡率がさらに低下し、ベビーブーム世代が成長して大規模な出生集団を構成したことで勢いが増し、1945年から1976年までの間に7700万人から1億1400万人に増加している8河野・前掲113頁以下など参照

(2) ユースバルジ

若年層の人口が急激に増えると何が起きるか。それを教えるのが、人口学や政治学などの論者が提示している「ユースバルジ(youth bulge)」の理論である。

直訳は「若年層の膨らみ」だが、「bulge」は人口ピラミッドから来ている言葉だと思われるので、「団塊の世代」というときの「団塊」とおそらく同じ語源である9自身の小説の中でこの世代を「団塊の世代」と名付けた堺屋太一は「通常ごく安定的な動きをする人口増においては、これほどの膨みはきわめて異常なものであり、経済と社会とに大きな影響を与える」と書いているそうである(日本大百科全書(ニッポニカ)[三浦 展]による)。話は単純で「若者が増えると暴力的な騒動が起きる」。それもしばしば想像を絶するほどに激しい、残虐な事件が発生するというのである。

1983年から2009年のスリランカ内戦では、シンハラ人とタミル人の相互で虐殺事件が発生し、内戦全体では数万から十数万の人が死亡したとされている。各事件の調査を行ったアメリカの政治学者ゲイリー・フラー(Gary Fuller)が出した結論は、残虐行為に大きく寄与したと見られるのは、飢えや医療の不足といった要因ではなく、若者人口の急増である、というものだった10グナル・ハインゾーン『自爆する若者たち 人口学が警告する驚愕の未来』(新潮社、2008年)63-64頁

「ユースバルジ」という概念を紹介している英文記事などによると、18世紀のフランス(→フランス革命)、1914年頃のバルカン諸国(→第一次世界大戦)、1930年頃の日本(→中国侵略 この件は後で詳しく検討します)、1970年代と80年代のラテンアメリカ(→マルクス主義革命)などにその例が見られるとされているという11Lionel Beehner, The Effects of ‘Youth Bulge’ on Civil Conflicts(April 13, 2007 3:23 pm (EST))https://on.cfr.org/2Fe2bKb @CFR_org(典拠とされているのは Jack A. Goldstoneの仕事(私は読んでいません))。翻訳が出ているハインゾーンによれば、16世紀から17世紀(1550年~1650年)のイギリス(→ピューリタン革命)1700年から1800年の間のアメリカ(→独立革命)、1897–1913年のロシア、ワイマール共和国時代のドイツなどがその例であり近年は中東、中央アジア、アフリカが、若年人口の爆発期を迎えている。

ただ、若者が大勢いれば常に暴力が生まれるというわけではない。例えば、日本では、1980年代後半から1990年頃の間にも、団塊ジュニアが15歳から25歳くらいを構成するユースバルジ的状況があった(私もその一員)。もしかするとこの状況がバブル期の空騒ぎの要因であったかもしれないが、騒動はあくまで平和的なものにとどまっていた。

そう考えると、「ユースバルジ」(若年者人口の急増)という数量だけの説明では「惜しい」感じが否めない。その過程で人口爆発をもたらす「人口転換」とは要するに「人口の近代化」だというのだから、ここは「近代化とは何か」という問いと結びついたより深い解釈を聞きたい気がする。

(3)トッドの議論との接合

そう、それを行ったのが、エマニュエル・トッドなのである。歴史学者でありかつ人口学者であるという背景がそのような仕事を可能にしたのだと思われる。

人口学の主流は、近代化そのものの発生因については通りいっぺんの関心しか示さない。主流の「なぜ」は、産業革命を契機に経済的に豊かになるとなぜ死亡率が低下するのか、なぜ出生率の低下がその後に起こるのか、という狭い問題に向けられ、近代化とは経済の向上がもたらすものだという常識が問われることは少ない12人口転換は経済的諸条件とは無関係に発生し、経済が人口に与える影響よりも人口が経済に与える影響の方が大きいという見方を取るものとして、Tim Dyson, Population and Development, 2010, Zed Books Ltd, London, NY.(序文の一部しか読んでいません) (ようである)。

しかし、エマニュエル・トッドの研究成果を手にしている私たちは、この説明では満足できない。冒頭でも触れたが、トッドは、ストーンの発見(イギリス革命、フランス革命、ロシア革命のすべてが成人男子の識字率が50%前後の時期に起きたことを指摘した)に着想を得て13ストーン自身は「3分の1から3分の2の間」と幅を持たせている。Lawrence Stone, Literacy and Education in England, 1650-1900, Past and Present, 1969, p138、識字率上昇こそがもっとも重要な近代化の動因であることを明らかにした(エマニュエル・トッド「世界の幼少期ーー家族構造と成長」『世界の多様性』(藤原書店、2008年)所収)。産業革命が起こるのはその後なのだ。

トッドは、識字率上昇に伴うメンタリティの変化こそが近代化を導いたという仮説を立て、近代化のシークエンスを概ね次のように定式化した14エマニュエル・トッド『アラブ革命はなぜ起きたかーーデモグラフィーとデモクラシー』(藤原書店、2011年)29頁以下等参照

男性識字率50%越え→政治的危機(民主化革命)→産業革命

女性識字率50%越え→出生率低下

その上で、近代化の過程で、虐殺や内戦による大量の人間の死が発生する理由については、以下のように説明している。

「文化的進歩は、住民を不安定化する。識字率が50%を越えた社会とはどんな社会か、具体的に思い描いてみる必要がある。それは、息子たちは読み書きができるが、父親はできない、そうした世界なのだ。全般化された教育は、やがて家庭内での権威関係を不安定化することになる。教育水準の上昇に続いて起こる出生調節の普及の方は、これはこれで、男女間の伝統的関係、夫の妻に対する権威を揺るがすことになる。この二つの権威失墜は、二つ組み合わさるか否かにかかわらず、社会の全般的な当惑を引き起こし、大抵の場合、政治的権威の過渡的崩壊を引き起こす。そしてそれは多くの人間の死をもたらすことにもなり得るのである。」

エマニュエル・トッド ユセフ・クルパージュ『文明の接近 「イスラームVS西洋」の虚構』(石崎晴己 訳・解説)(藤原書店、2008年)59頁

トッドのこの説明は、人口転換の理論(死亡率低下→人口爆発→出生率低下)と完全に整合的であり、死亡率低下に遅れて起こる出生率低下を、女性識字率の上昇から説明できる点も魅力的である。さらに、識字率上昇という、時間的に政治的危機より産業革命よりもちろん死亡率低下より早く発生する現象によって、その先の顛末が予測できるのも好ましい。

トッドの理論には、若年人口の急増という要素は組み込まれていないのだが、「ユースバルジ」の項目で挙げた例のように、トッドのいう「移行期危機」の中で発生する個々の具体的な事件の発生時期はこれで説明できるのかもしれない。日本の戦争は、どうだろうか。

5 学園紛争、70年安保

わかりやすい方から行こう。1968年頃から日本中の国立・私立大学に吹き荒れた嵐の主体は、ベビーブーマーたちだった。明治維新からちょうど100年、出生率が安定的に低下傾向を示し、人口転換がほぼ完了したと見られるこの時期に、「団塊」の若者たちの暴発が大学紛争という形を取ったのは、高等教育の拡大(大学進学率の急上昇)が関係していると思われる。

1955-60年の間15%前後で推移した大学進学率は、60年代に20%を、71年に30%を超え、74年には40%超えとなる。大学+短大進学者の人数は、1955年の13.2万、1960年の15.5万人が1971年には約2倍の30.6万人になった15広島大学高等教育研究開発センター・高等教育統計データ集(サイトよりデータをダウンロード)https://rihe.hiroshima-u.ac.jp/publications/statistical_data/

ベトナム反戦運動から学園紛争、70年安保に至る一連の騒動は、近代化の最終局面において、大学という場に大量の若者が供給され、エリート主義を体現する大学(や政府)と「大衆」である若者たちの間に軋轢不和葛藤が噴出したことで発火したユースバルジ現象と見ることが可能であり、説得力もあると思われる。

なお、学生運動としては、60年安保との関係も視野に入れておきたい。1960年の18-20代前半の若者たちは、68年には及ばないが、それなりの「バルジ」を構成していた(下の人口ピラミッドは1960年のデータ。10年後の若者のバルジもわかります(英語版Wikipediaの項目「Demographics of Japan」より))。

大学進学率もそれ以前から増加傾向であり、パーセンテージはなお「エリート」的といわれる段階にとどまっているものの、「親は大卒ではないが子どもは大学に行っている」層が確実に増えていた時代である。この時期には、まだ(比較的には)エリートであった学生を主体に、安保闘争が闘われた。それが10年後には、より多くの若者、より多くの大学生による、大規模で大衆的な学園紛争に発展する。

6 昭和の戦争

いよいよ昭和の戦争である。4(1)で述べたように、日本の人口は1870年以降から戦争終結直前までの間に大幅に増加し、1930年の人口ピラミッドはこんな感じになっていた(これも英語版Wikipediaより)。 

実は1920-40年も高等教育の拡大期で、吉田茂の頃には1%未満だった就学率が1920年1.6%、1940年には3.7%に上昇している16伊藤彰浩「高等教育機関拡充と新中間層形成」『シリーズ 日本近現代史 構造と変動 3 現代社会への転形』147頁(数字の典拠は、文部省『日本の教育統計 明治ー大正』(1971年)19頁(私は確認していません))。これは支配階級のじいさんたちに「最近の若い奴らはバカで粗暴で…」と嘆かせるには十分であったかもしれないが、社会全体からみるとまだまだ少ない。

この時期に、若い人間が大挙して押し寄せ(あるいは連れ込まれ)ていたのは、軍隊である。

軍人の数は、日露戦争後や満州事変後にはそれほど増えていない(1910-18年の平均が299,600人、19-30年が306100人、31-36年が324,100人)。しかし、日中戦争が始まる頃から急激に増加を始め、1937年には陸軍だけで95万人(全体では100万人超)、軍全体で1943年358万人、44年540万人、45年には734万人にまで膨れ上がっていた17渡邊 勉「誰が兵士になったのか(1) : 兵役におけるコーホート間の不平等」関西大学社会学部紀要119号8頁参照(数字の典拠は『日本長期統計総覧』(私は確認してません))軍人の数についてはこちらの記事(竹田かずきさんの「日本の軍人の数〜軍人の数から戦争を見る〜」)もぜひご覧ください(サイトはこちら。45年の人口で単純に割ると、軍人の数は全人口の10%を超えている計算になる。もちろん、増やしたから増えたのだ。増やした結果、ともかくこの時期には、大勢の若者が軍(とくに陸軍)に集結するという状況が生じていた。

日中戦争が始まって間もない1937年12月に起きた南京事件は、昭和の戦争が、「大物」が若者を巻き込んだというより、若者たちに引きずられるようにして泥沼化していったことを例証している事例のように思う。略奪や強姦、虐殺を含む乱暴狼藉の全ては陸軍の首脳部や現場の上級将校が指示してやらせたものではない。勝手に起きたのだ。現場の上層部はむしろ規律を命じていたし、陸軍首脳部は外務省から事件の詳細を聞いて嘆き慌てていたのだから18秦郁彦『南京事件 「虐殺」の構造(増補版)』(中公新書、2007年)14頁、100頁、171-2頁等。同書では「陸軍は体質的に国際感覚が乏し」く、陸軍中央部が慌て始めたのは、兵士たちが外国公館への侵入・略奪を始めたために国際問題化したり、作戦に影響が出るようになってからであったことも指摘されている

満州事変(1931年)を主導したのは革新的思想を持つエリート軍人たち(石原莞爾など)だった。1937年に盧溝橋事件が起き、対中強行姿勢を取る者たちに軍の主導権が移ったとき、彼らの下には100万人近い若者たちがおり、その数はその後短期間の間に加速度的に増えていった。

近代化と移行期危機に関するトッドの定式化、その一部に組み込むことができる「ユースバルジ」の理論を手にしてこの状況をみると、日本が無謀な戦争に突入「せざるをえなかった」理由はほぼ明らかであるように思われる。

近代化という大きな変化の渦中、「団塊」の若者たちのエネルギーが充満する社会で大量の青年たちが軍に集められ、そこに「戦うか、戦わないか」という選択肢があったら、開戦は止められない。彼らがそこにいて、数を増やしている限り、止めることも容易ではないだろう。たぶん、地下に溜まったマグマが上昇を始めると噴火のメカニズムが始動し、プレートの歪みが限界に達すると地震が起きる、というのと同じようなことなのだ。

7 おわりに 

そういうわけで、昭和の戦争は、学生運動と同じようなメカニズムで発生したものであり、思想信条や社会の仕組みとは直接的な関係はない、というのが、現在の私の考えである。

もちろん、背景には、教科書や各種歴史書に書かれているような事実があり、思想や風潮があった。しかし、それらの事実と「無謀な」戦争や残忍な虐殺・強姦事件との間には埋めがたい距離がある。大抵の場合、私たちはその距離を、当時の人たちの倫理的または知的な愚かさを仮定することで埋めているのだが(だからこそ「過ちを繰り返さない」などと言えるのだ)、それは倫理的にも知的にも不当なことだと思う。

男子として当時の日本に生まれ、20歳で南京に送られていたら、私は、非常に高い確率で、虐殺や強姦に加担していただろう。28歳で上官に意見を聞かれたら「戦うしかない」と言い、50歳で責任ある立場にあったら、なすすべもなくオロオロしていたはずである。そして(生きて帰ったならば)後に自分のしたことを振り返り、親を敬い妻子を愛し仲間に親しむ自分がいったいなぜあのようなことをしたのか、理解できずに呆然としたに違いない。

私たちがいま戦争や虐殺や暴動に参加せずに済んでいるのは、倫理的・知的に進歩しているからでも、民主主義や平和憲法を維持しているからでもなく、(諸条件により)社会の深部にそれだけの量のマグマが溜まっていないからにすぎない。人間はいつどこに生を受けるかを選べない(多分そうだと思う)。ということは、それはほとんど偶然のようなものなのだ。

人類学や人口学によって得られるこのような視点は、大袈裟にいえば「救い」である、と私は思う。「裁く」ことなく、過去の非行に向き合うことを可能にしてくれるのだから。

このように歴史(現在を含む)を見ることは、世界平和の基礎にもなるはず、と私は信じているが、詳しくはまた別の機会に。

あと「マグマが暴れ出したら呑み込まれる以外にない、というのでは、理想や倫理などというものは成りたたない。人間が生きる意味すらなくなってしまうのでは?」と感じる人もいると思うが、この点も別の機会に書きます。

(おまけ) アメリカ側の事情

日本側に理由があったのは間違いないとして、戦争をするには相手が必要である。当時の戦争は、最近の中東や中央アジアでの戦争のような、地上では現地の傭兵を使い米兵はドローンや航空機の操作のみ(なのか?)、といったものとは違うはずである。

大変に規模の大きい戦争を4年近くも戦ったということは、アメリカの方にもそれなりの素地があったのではないか、と思って調べてみた。アメリカの人口は、最初が少ないので(1610年で350人)そこからずっと増え続けており(面白いのでwikiなどでグラフをご覧になって下さい。、本文で触れたように、18世紀の増加は独立戦争に寄与したことが指摘されているが、人数的には1850年頃からの伸びが著しい。1850年の2320万人が1880年には2倍以上(5020万)、1920年にはさらにその倍(10600万)になり、1940年には13220万人に達している。年齢の中央値は1940年時点で29歳なので、当時の日本(22歳)ほどではないが、まだまだ若かった。

ちなみに、アメリカは今でも、老化が進む先進国(ヨーロッパは軒並み(中央値が)40歳代を超え、日本なんか48.36歳!)の中では比較的若さを保っており、38.31歳、ということは、タイ(37.7歳)や中国(37.4歳)と変わらない。人口もまだまだ増えていて、2020年には3億3145万人に達している。

それがあのいつまでも好戦的な感じにつながっているのかはよくわからない。アメリカのことはとにかくよくわからないので、いつか何か書くと思う。

  • 1
    トッドの本のあちこちに出てくる。エマニュエル・トッド ユセフ・クルバージュ(石崎晴己 訳・解説)『文明の接近 イスラーム VS 西洋 の虚構』(藤原書店、2008年)58頁以下等
  • 2
    吉田が日本の再軍備に一貫して消極的だったのは、おそらく「いま再軍備をしたら、またあいつらがロクでもないことを仕出かすに決まってる」ということでもあったのだ。ジョン・ダワー「吉田茂とその時代(下)」(中公文庫、1991年)150頁以下参照(上のカギカッコは引用ではありません)
  • 3
    日暮吉延『東京裁判』(講談社現代新書、2008)107頁。これは、戦犯の指定が「知名度」重視で、「大物」責任者を選ぶという方針で行われたためだという(同101頁)
  • 4
    この辺の情報は、川田『昭和陸軍全史』2巻と3巻を参照
  • 5
    「マルクス全集」の一冊として資本論の翻訳が出版されたのは1920年で、1920~30年代に「膨大な量のマルクス主義文献の翻訳がなされた」(丸山眞男「「戦前日本のマルクス主義」英文草稿」(丸山文庫所蔵未発表資料翻訳)106頁(1963年の講演草稿。https://twcu.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=20182&file_id=22&file_no=1)らしいので、この時期にマルクス主義が大流行になったと見ていいだろう。1900年前後から一般に知られはじめ、1910年に幸徳秋水の事件があって下火になったりしつつもじわじわ普及し、大正デモクラシーの波にも乗って、1920年頃にはごく普通に学術的な研究の対象となるくらいに流行してきたという感じか
  • 6
    河野稠実『人口学への招待 少子・高齢化はどこまで解明されたか』(中公新書、2007年)107頁は「人口学では数少ないグランド・セオリー(大理論)である」とし、Sarah Harper, Demography, A Very Short Introduction, Oxford University Press, 2018, p55は「one of the centrepieces of demography」としている
  • 7
    主にStatistica.com調べ。1936年のデータは 内閣府「平成16年版少子化社会白書」4頁
  • 8
    河野・前掲113頁以下など参照
  • 9
    自身の小説の中でこの世代を「団塊の世代」と名付けた堺屋太一は「通常ごく安定的な動きをする人口増においては、これほどの膨みはきわめて異常なものであり、経済と社会とに大きな影響を与える」と書いているそうである(日本大百科全書(ニッポニカ)[三浦 展]による)
  • 10
    グナル・ハインゾーン『自爆する若者たち 人口学が警告する驚愕の未来』(新潮社、2008年)63-64頁
  • 11
    Lionel Beehner, The Effects of ‘Youth Bulge’ on Civil Conflicts(April 13, 2007 3:23 pm (EST))https://on.cfr.org/2Fe2bKb @CFR_org(典拠とされているのは Jack A. Goldstoneの仕事(私は読んでいません))
  • 12
    人口転換は経済的諸条件とは無関係に発生し、経済が人口に与える影響よりも人口が経済に与える影響の方が大きいという見方を取るものとして、Tim Dyson, Population and Development, 2010, Zed Books Ltd, London, NY.(序文の一部しか読んでいません)
  • 13
    ストーン自身は「3分の1から3分の2の間」と幅を持たせている。Lawrence Stone, Literacy and Education in England, 1650-1900, Past and Present, 1969, p138
  • 14
    エマニュエル・トッド『アラブ革命はなぜ起きたかーーデモグラフィーとデモクラシー』(藤原書店、2011年)29頁以下等参照
  • 15
    広島大学高等教育研究開発センター・高等教育統計データ集(サイトよりデータをダウンロード)https://rihe.hiroshima-u.ac.jp/publications/statistical_data/
  • 16
    伊藤彰浩「高等教育機関拡充と新中間層形成」『シリーズ 日本近現代史 構造と変動 3 現代社会への転形』147頁(数字の典拠は、文部省『日本の教育統計 明治ー大正』(1971年)19頁(私は確認していません))
  • 17
    渡邊 勉「誰が兵士になったのか(1) : 兵役におけるコーホート間の不平等」関西大学社会学部紀要119号8頁参照(数字の典拠は『日本長期統計総覧』(私は確認してません))軍人の数についてはこちらの記事(竹田かずきさんの「日本の軍人の数〜軍人の数から戦争を見る〜」)もぜひご覧ください(サイトはこちら
  • 18
    秦郁彦『南京事件 「虐殺」の構造(増補版)』(中公新書、2007年)14頁、100頁、171-2頁等。同書では「陸軍は体質的に国際感覚が乏し」く、陸軍中央部が慌て始めたのは、兵士たちが外国公館への侵入・略奪を始めたために国際問題化したり、作戦に影響が出るようになってからであったことも指摘されている