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世界を学ぶ

ガザとイエメン
– 「フーシ派」は何と闘っているのか-

目次

1 革命のイエメン

イエメンはいま革命の只中にある。誰もそんなことを言う人はいないが、そうなのだ。CIAが仕組んだ「カラー革命」なんかとは違う、フランス革命と明治維新を足して2で割ったような本物の市民革命だ。

イエメンは西アジアの中でもっとも近代化が遅れた国で、20-24歳の男性の識字率が50%を超えたのは1980年である(↓)。彼らは、日本の150年前、フランスの250年前くらいの時期を迎えているわけなので、いまが市民革命の真っ只中というのは、人類史の過程として全く正常といえる。

イスラム諸国の近代化(トッド/クルバージュ『文明の接近』(藤原書店、2008年)31頁より)

世間では、イエメンはいま「世界最悪の人道危機」に陥っていて、その原因は内戦であるとされている。私の調査によれば、それは真実ではない。真実はこうだ。

イエメンに攻撃を加え、国境封鎖までして、「人道危機」を引き起こしているのは、イエメンの革命を阻止したい外国の勢力である。イエメンで起きているのは、革命のイエメンに対して外国(サウジ、アメリカほか「国際社会」)が仕掛けた干渉戦争なのである。

しかし、いったいなぜ、近代化において先行しているはずの諸外国は、そんなにまでしてイエメンの民主化を妨害しなければならないのであろうか。

イエメン情勢に深く関わる勢力は、サウジ、アメリカ、IMF/世界銀行。私にとっては「基軸通貨ドル」の総復習のような事例だった。

2 イエメンの旧体制(アンシャン・レジーム)

(1)イエメンの近代化

イエメン革命の中心地は北部、首都サナア周辺の山岳地帯である。この地域は、859年以来、ザイド派イマーム(宗教指導者)が王として統治していた。

Northern Yemen (Photo by aisha59, available at Flickr.)

しかし「歴史」でも書いたように、イマーム=国王が安定した中央集権を実現していたわけではないという点は重要である。イエメン北部には部族単位の地域共同体があって、その長が大きな力を持っている。国王は、彼らの協力を取り付けなければ、決して国をまとめることはできなかったのだ。

オスマン帝国の支配を受けた時代にも、北部地域はオスマン帝国への抵抗を続けた。ということは、その時期も、イマーム=国王がいて、部族長が治める地域共同体があるという国の基本構造が失われることはなかったということである。

イエメン史の中心にはいつもこの北部地域の部族社会がある。この地域を中心に、市民革命に至る近代化の歴史を描くと、その過程は以下のようにまとめることができる。

1️⃣イエメン王国の成立(1918):オスマン帝国からのザイド派イマーム王国の独立

2️⃣イエメン・アラブ共和国の誕生と確立(1962-68):イエメン革命(1962)によって共和国が成立。内戦を経てザイド派イマーム王朝が終焉を迎え、共和政体が確立

3️⃣強権的リーダーによる近代化(1968-2012):共和国の確立後も政権交代は主にクーデター、強権的なリーダーの力で近代化が進められた。ハムディ政権(1974-1978)の後に長期政権を確立したのがアリー・アブドッラー・サーレハ(Ali Abudullah Saleh 1978-2012)。

このサーレハの時代こそが、現在の革命にとっての旧体制(アンシャン・レジーム)である。

(2)サーレハ政権末期

サーレハは毀誉褒貶(というか毀と貶)の激しい人物だが、アメリカやサウジの意向で政権を追われた人物であるから、その全てを真に受けることはできない。彼の任期全体についての概観は現在の私の手には負えないので、政権末期の状況を中心に、要点を確認しよう。

2004年アメリカ国防総省でのサーレハ(wiki)

①サーレハと石油

1940年頃には石油生産を始めていたサウジなどと異なり、イエメンが産油国となったのは1980年代に入ってからである(おそらく1985年頃)。

サーレハ大統領は、長年続いた内戦からの国家再建のために石油・ガス開発に取り組み、石油開発を成功させて、経済を活性化させた。

そこまではよかったのだが、サーレハは、分裂含みのこの国をまとめていくにあたって、地域や勢力間の利害調整を行い、共通の基盤を形成するという根気のいる仕事に取り組む代わりに、北部の部族長やら、南部の分離派勢力、対立する議員を、石油利権で懐柔するという安直な方法に頼った。

国の経済についても、持続的な発展の基盤の上に、近代国家としての仕組みを成り立たせるのではなく、公務員の給与から施設の整備まで、すべてを石油収入に依存した。

サーレハは、石油利権や、1980年代に急増した外国からの開発資金をほしいままに分配することで、自らの権力を固めつつ、イエメンを石油(と外国からの資金)なしには成り立たない、不安定な国家に仕立てていった。

この記事を大いに参考にしました

②サーレハとアメリカ:湾岸戦争の経験

サーレハ政権は、就任当初から、外国からの開発資金を積極的に受け入れる政策を取った。石油開発もおそらくアメリカなどの資金であろう(調べていません)。

ただ、その頃のサーレハが「親米」であったかどうかはよくわからない。サーレハは湾岸戦争の際に中立の姿勢を保った(要するにアメリカ側に付かなかった)ことで知られている。このことから推察するに、当初のサーレハは、ごく普通に、国家建設や政権の安定に必要な限度で外国からの資金を受け入れるが、だからといって外国の言いなりにはならない、という気分でいたのではないだろうか。

しかし「是々非々」の常識は「国際社会」には通用しなかった。湾岸戦争でアメリカ率いる多国籍軍側につかなかったことで、イエメンは、アメリカをはじめとする「国際社会」や周辺のアラブ諸国から総スカンを喰らい、外国からの資金は激減、深刻な経済的困窮に陥ったのだ。

このときの経験が、おそらく、サーレハと、のちに革命を率いることになる若者たちの行く先を分けることになる。サーレハの方は、アメリカをはじめとする「国際社会」や湾岸諸国の資金なしに政権を維持するのが不可能であることを悟り、親米・親サウジの現実路線を選択した。他方、若者たちは、アメリカ、サウジの横暴に怒りを募らせ、これに迎合してイエメンの外国依存度をいっそう高めようとするサーレハ政権にも怒りを向けたのだ。

湾岸戦争後の経済的困窮の中、イエメン各地で頻発するようになった反米・反サウジの抗議運動は、政府への抗議運動と重なり、不安な政情の下に、革命の下地を形成していくのである。

③IMF/世界銀行への依存度の増大

イエメンは1990年に南北統一を果たしているが、サーレハ政権への南イエメン側の不信感は収まらず、1994年には内戦が勃発している。内戦はすぐに(2か月)終わったが、経済的困窮の度は増した。 

こうした中、サーレハ政権は、IMF/世銀からの多額の融資と構造調整プログラムの受け入れを決める。多額の開発資金という「毒饅頭」の受け入れは、サーレハの当座の権力基盤を強化し、同時に、GDP成長率を急激に押し上げた。

しかし、「ワシントン・コンセンサス」に忠実なプログラムー公務員数の削減、増税、補助金の削減、金融・資本自由化等ーが、イエメン経済の安定的な成長を阻み、経済の土台を不安定化するものであったことは疑いない。

開発資金の流入による目先の利益を求め、IMF/世界銀行(≒ アメリカ)への依存度を高めるサーレハ政権に、安定した生活基盤を求めるイエメン国民そして「憂国の志士たち」の不信感はいよいよ強まったはずである。

IMF/世界銀行のやり方の問題点についてはこちらをご覧ください。

この(記事の)先の理解のキーになるポイント3点を予め解説しておきます。必要を感じたら戻ってお読み下さい。

公務員:発展途上の国家としては当然のことだが、イエメンでは公務員の存在が極めて大きい。教師、医師、ソーシャルワーカー、建設労働者、各種技術者、警察官などのあらゆる仕事を公務員が担っており、彼らの雇用が維持され、給与がきちんと支払われるということが、イエメン社会にとって決定的な重要性を持っている。IMF/世界銀行の「民営化」方針によって公務員の数が削減されたり、その他の事情で給与の支払いが停止すれば、直ちに社会の緊張・不安が発生する。そういう構造の社会である。

燃料補助金:イエメンが石油によって上げる利益が国民に還元される主なルートは燃料補助金。補助金による安価なガソリン・軽油が多くの国民の生活を支えている(燃料補助金の恩恵を受けていたのは貧困ラインよりも上の人々だったとされている)。

社会福祉基金(the Social Welfare Fund):おそらく1995年以降の支援の過程で世界銀行が創設した基金で、イエメンにおける唯一の社会福祉プログラムだった。資金も全面的に世界銀行が拠出しており、石油が払底してからは燃料補助金(の一部?)もこの基金から支払われていた(公務員の給与もこの基金から出ていたという話もある)。設立当初(1996年)の10万人だった支援対象者は、2000年には100万人を超えていた。社会福祉を必要とする貧困世帯はイエメンの場合、国民の半数近くに及んでいる。つまり、IMF/世界銀行は、社会福祉基金への資金提供(→燃料補助金の維持と貧困世帯への支援)を通じて、イエメンの人々の生殺与奪の権を握る存在となっていたのだ。

④払底する石油

こうした中、外国からの援助(+出稼ぎ)以外の唯一の資金源であり、政治的安定の要でもあった石油の産出に翳りが見え始める。

1980年代にようやく石油産出国となったイエメンの石油生産高は、1990年代後半には早くも減少に転じるのである。

石油が底をついたことで、サーレハの求心力はあからさまに弱まり、権力失墜の過程が始まる。同時に、経済には暗雲が漂い、IMF/世界銀行への依存度はいっそう強まる。

「革命前夜」のイエメンである。

3 革命の端緒:イエメン焦土作戦

(1)アンサール・アッラー(フーシ派)の勃興

世間では一般に「フーシ派」と呼ばれるアンサール・アッラーが勃興したのもこの頃のことである。幕末の日本で「尊王攘夷」が盛り上がったのと全く同様に、北イエメンでは、ザイド派の再興を図り、反米・反イスラエルの機運を高めようとする運動が盛り上がった。ザイド派のウラマーを父に持つフセイン・バドルッディーン・フーシ(1959-2004)が1990年頃に立ち上げた青年信仰運動。それがアンサール・アッラーの起源である。

アンサール・アッラーは基本的に生真面目な若者たちの集まりであったと私は思うが、政権側から見て、アンサール・アッラーの勃興が「脅威」と感じられたことは疑いない。

イエメン史を通じて基幹的な政治的影響力を手放したことのない北部ザイド派地域から出た運動であること、サーレハの提供する各種利権に懐柔された部族長たちの不甲斐なさに不満を抱く若者たちの運動であること、加えて、イエメンは出生率が低下を始めたばかりの時期、つまり、若年人口極大化(ユースバルジ)の時期に当たっていたこと(↓)。

サーレハ政権にとっての脅威は、政権と蜜月の関係にあるサウジやアメリカにとっての脅威でもある。2004年にフセイン・バドルッディーン・フーシがイエメン当局に殺害されて以降、反対勢力には「フーシ派」と呼ばれるようになったアンサール・アッラーは、こうして、明確に、国際社会の「敵」と位置付けられるようになった。

これは2020年のピラミッドですが、35年分ずらして見ると、ユースバルジ(若年人口の団塊)が一層顕著であることがわかります。

(2)イエメン焦土作戦(Operation Scorched Earth 2009)

これもほとんどどこにも書いていないのだが、アンサール・アッラーが率いる現在の革命の端緒といえるのは、2009年にサーレハが実施したイエメン焦土作戦(Operation Scorched Earth 8月-2010年2月)である。

イエメン北部サーダ(Saada)で発生した政府への抗議運動を口実に、イエメン政府とサウジアラビアは北部ザイド派地域に対する合同軍事作戦を展開した。

イエメン軍の地上部隊は北部に散らばるアンサール・アッラーの拠点を、サウジ空軍は部族勢力の居住地域を執拗な空爆で攻撃。数ヶ月に渡る作戦で、北部住民を中心に8000人以上のイエメン人が死亡、50000人以上が強制退去させられたという。

サーレハがサウジと組んで行ったこの作戦は、当然のことながら、イエメン中の人々を激怒させた。貧しく若い国民にとって「敵」に近いのはどちらかといえばサーレハやサウジであって、アンサール・アッラーではない。イエメン政府でありながら、サウジと組んでの「焦土作戦」とは何事か。

こうして、人々の心は政府から離れた。長年サーレハを支えてきた部族勢力、ザイド派、そして南部の分離派運動の担い手までもが、サーレハの非道なやり方に怒り、アンサール・アッラーとの連帯を示し、反政府で団結した。

この作戦を機に、イエメン全土で、政府側と反政府側が散発的に交戦する内戦状態が始まった。北イエメンではアンサール・アッラーとサーレハ政府が、南イエメンでは分離派とAQAP(アラビア半島のアルカーイダ)が、1年近くに渡って戦闘を繰り広げた。

(3)「焦土作戦」の背景:世銀レポート

イエメン焦土作戦は、アンサール・アッラーの反政府運動を鎮圧するための軍事行動と説明されるのが一般的であるが、その真実性はかなり疑わしい。

この時期、イエメン政府とサウジアラビア、そしてIMF/世界銀行(≒ アメリカ)には、イエメン北部を「焦土」にしたい明確な理由があったからだ。

イエメンにおける石油の将来が暗いことを知った世界銀行は、新たな投資・開発の対象として、イエメンの鉱物資源とその開発状況に関する調査を行った。

世界銀行「イエメン 鉱物開発部門の調査報告(2009年6月)」(Yemen Mineral Sector Review, June 2009)の中で、執筆者は、イエメンがサバア王国(潤沢な金の産出で知られていたらしい)の地であることに触れ、「イエメン西部がそれらの金の産出源であることが明らかになっているにもかかわらず、近代以降、金の採掘がほとんど行われていないのは驚くべきことのように思われる」と述べる。

その同じレポートの中で、世界銀行は、イエメンの鉱物部門が投資先として非常に有望であることを示しつつ、投資および開発にとって脅威となりうる要素として以下の2点を挙げているのだ。

・イエメン北部の反乱は投資家の国に対する印象を悪化させる。
・部族の土地では資源へのアクセスが困難である可能性がある。

このレポートが公表された2ヶ月後、イエメン政府とサウジアラビアは「焦土作戦」を実施した。

彼らが、1️⃣鉱物資源へのアクセスを容易にし、2️⃣アンサール・アッラーを叩く、という一石二鳥を狙っていたのだとしたら、作戦は1️⃣については失敗、2️⃣については逆効果に終わったことになる。

甚大な被害を出したにも関わらず、政府は勝利を宣言することはできなかった(1️⃣は失敗)。それどころか、全国民を敵に回し、革命の導火線に火をともすことになったのだ。

4 前哨戦:イエメン尊厳革命(2011)

(1)イエメンに到達した「アラブの春」

https://en.wikipedia.org/wiki/Yemeni_Revolution#/media/File:Yemen_protest.jpg

2010年12月にチュニジア、2011年1月にエジプトに到達した「アラブの春」の波を受け、イエメンでも学生を中心とするデモが始まった。

学生の要求は当初は失業、経済、汚職に関するものだったというが、要求はエスカレートし、彼らはやがてサーレハ大統領の辞任を要求するようになった。

サーレハはいつも通りの強硬な対応を取り、軍の鎮圧によって2000人以上の市民が死亡、数百人以上が負傷した。

決定的な転機として知られるのは「変革広場(Change Square)の虐殺」である。サーレハは、学生たちがサナアの大モスクから金曜礼拝を終えて出てきたところを軍に実弾と毒ガス弾で狙い撃ちさせ、90人の学生のうち52人を死亡させたという(生存者の約4割は脳障害等の傷害を負った)。

この事件の後、軍のトップであり長年イエメンのナンバー2と目されてきたアリー・ムフセン・アブダッラー(Ali Mohsen Abdullah)が公式にサーレハ政権からの離反を表明し、サーレハの辞任は避けられない情勢となった。

・ ・ ・

というのが、一般に言われている筋書きなのだが、どうでしょう。私はこれをその通りに受け止めることができない。

学生がデモを始めたところまでは、自発的な動きかもしれない。しかし、その後、彼らがサーレハの辞任を要求するようになるまでの間に、外国勢力(アメリカが中心)の介入があったのではないだろうか。

2011年のデモについては、イギリスの監督による映画「気乗りのしない革命家」があって、学生たちがツイッターによるエジプトから指示を受けながらデモを実行する様子が映されているという(私は見ていない)。

さらに、このデモで負傷した息子を抱き抱える女性を撮影した写真が、2012年の世界報道写真大賞に選ばれている。

その上、「尊厳革命(the Yemen Revolutionary of Dignity)なんていう立派な名前を付けられて。

どう見ても怪しい、と私は思う。

(2)サーレハの辞任

約10ヶ月の抗議運動の後、2011年11月にサーレハ大統領は正式に辞任するのだが、これを「民衆の勝利」と評価してよいのかはわからない。

なぜかというと、サーレハが辞任を約束したのは、2011年6月に大統領官邸のモスクで謎の爆弾事件が起き、身体の40%の火傷、頭部負傷、内臓出血で死にかけて運ばれたサウジアラビアの病院で、当時のオバマ政権の国土安全保障・テロ対策大統領補佐官で後にCIA長官となったジョン・ブレナンと面会した後のことだからだ。

尊厳革命でサーレハをめぐる情勢が悪化して以来、サウジアラビアをはじめとするGCC(the Gulf Co-operation Council:湾岸協力理事会)諸国は、サーレハに対する早期退陣を説得していた。

サーレハは、GCCが仲介する権力の平和的移行のための協定への署名を繰り返し拒否していたが、爆破事件の2週間後、オバマ大統領からの書簡を携えてサーレハ大統領と面会したブレナンは、GCCが仲介する合意に署名し辞任するよう要求したという(以上アルジャジーラ)。

結局、サーレハは、サウジの事実上の国営メディアであるアル=アラビーヤが生中継する中、リヤドのアル・ヤママ宮殿で合意に調印(2011年11月23日)。身柄の保証や訴追免除等を条件とした権力の移譲に合意した(GCCイニシアチブ)。

https://www.cbc.ca/news/world/yemen-president-agrees-to-step-down-1.990428

(3)「国際的に承認された」新政府:傀儡政権の誕生

サーレハの後、代行を経て大統領に就任したのは、アブド・ラッボ・マンスール・ハーディである。

2013年のハーディ(これも場所はアメリカの国防総省)

彼は南イエメンの出身だが、同じく南部出身の副大統領(アル・サーレム・アル=ビード)が1994年の内戦で敗北した後、その後任として副大統領になった。以来、一貫して、サーレハの片腕であった人物である。

ハーディは、IMF/世界銀行への依存度を高める政策においても、サウジと組んでのイエメン焦土作戦の実施においても、サーレハの共犯者であった。したがって当然、抗議運動に参加したイエメンの民衆は彼の大統領就任を歓迎しなかった。

サーレハを辞任に追い込み、ハーディに跡を継がせるというこの一連のプロセスの筋書きを書いたのは国連所属の外交官でイエメン特使(2011-15)を務めたジャマル・ベノマール(Jamal Benomar)だとされている(本人が2021年のニューズウィーク誌に書いているという)。

それにしても、「尊厳革命」と(西側に)持て囃された反政府運動の末に辞任した大統領の跡を、長年連れ添った副大統領に継がせる、というのは一体どういう筋書きなのか。

「決まっている」と私は思う。

サーレハ政権末期、サウジやアメリカに代表される「国際社会」とサーレハ政権の利害は一致していた。「現実路線」を選択したサーレハは、外国からの資金を積極的に受け入れ、構造調整プログラムも大人しく実施したし、IMF/世界銀行(≒ アメリカ)やサウジ、UAEが推進したい鉱山開発のためには、自国民を犠牲にすることすら厭わなかった。

しかし、その「焦土作戦」は、予想外の反発ーアンサール・アッラー以外の勢力も一丸となって反対するというーを生み、事実上、サーレハの下で開発を進めることは不可能な状況に陥った。

そこで、アメリカ、サウジなどの「国際社会」は、すべての責任をサーレハに押し付け、何もかも承知しているハーディを後釜に据えた。

はっきりさせておこう。

ハーディの大統領就任によって、イエメン政府は本物の傀儡政権になった。曲がりなりにもイエメン共和国の正当な大統領であったサーレハと異なり、ハーディ、そして2022年4月にその後を継いだアリーミー(大統領職は廃止され、大統領指導評議会議長)が率いる「国際的に承認された」イエメン政府は、もはや、イエメン国内にはまったく支持基盤を持っていない。「国際社会」だけが支持する政権なのである。

5 革命本番へ(2014年7月〜)

(1)引き金を引いたIMF/世界銀行

本物の革命のスタートは2014年7月。イエメン社会にはすでにそのエネルギーが満ちていた。しかし、2014年に7月に革命が始まるよう仕向けたのはIMF/世界銀行である。

世界銀行を経由したイエメン政府への融資は、ハーディの着任以降急増していた。しかし、2014年1月、政府は融資に対する基本手数料の支払いができなくなり、(おそらく融資が中断されて)政府は資金難に陥った。公務員に対する給与の支払いは停止され(1月〜)、社会福祉基金の資金もなくなった(代替するセーフティーネットは存在しなかった)。他になすすべもなく、政府はIMFに手数料支払いのための援助を求めた。

2014年5月、IMFとイエメン政府は、政府が要請した5億6000万ドルの融資について協議した。IMFはイエメン政府に燃料補助金を削減し、燃料価格を引き上げて歳入を確保するよう要請した(債務の返済に充てるため)。ハーディは、融資の条件として2014年10月から段階的に燃料補助金の削減を行うことを約束したが、IMFは納得せず、より早期に燃料補助金の削減を行うよう圧力をかけた。

この時点で、IMF/世界銀行は、燃料補助金がイエメン社会にとって極めてクリティカルな事項であること、セーフティーネットの構築なしに燃料補助金の削減=燃料価格の引き上げを行えば、イエメンに大きな社会不安が発生することを十分に承知していた(世界銀行のプロジェクト評価文書に記載がある)。それにもかかわらず、IMFは、今すぐ、思い切った燃料補助金削減=燃料価格の引き上げを行うよう、ハーディに迫ったのである。

(2)「名なし」の抗議運動が勃発

2014年7月、いまだ公務員の給与が支払われない中、政府は燃料価格の引き上げを行った(ガソリン価格60%、軽油価格95%値上げ)。燃料価格の高騰でパンの輸送費は一晩で20%上昇、人口の60%を占める農業従事者は農機具を動かす燃料を賄えなくなり失業が蔓延、商品は不足し、市場は閑散とした。

案の定、2011年を超える規模の抗議運動がイエメン政府を襲った。首都サナアにおける学生主導の運動であった2011年の「尊厳革命」と異なり、今度は各種労働者、部族勢力、貧困層、学生など、あらゆる人々が、イエメン全土で立ち上がった。

それにもかかわらず、2014年に始まった抗議運動には「尊厳革命」のような名前がついていない。理由は明らかだと思われる。「国際社会」(アメリカ、サウジほか)にとって、彼ら自身の傀儡政権に対する抗議運動は(少なくとも建前上は)不都合なものである。美しい名前など付けて称賛している場合ではない。

しかし、将来、イエメンが自律的な秩序を回復した暁には、こちらの運動こそが、長く困難な革命の始まりを告げた事件として記憶されることになるだろう。

8月22日サナア アンサール・アッラーの支持者が傀儡政権の辞任を求めるデモの最中に祈りを捧げる様子(Reuter

(3)革命政権の樹立

抗議運動の中心にいたアンサール・アッラーは、2014年9月、首都サナアを掌握した。

ハーディの政府は一切抵抗せず(怪しいですね・・)、国連の仲介でアンサール・アッラーとの間で協定を結び(the Peace and National Partnarship Agreement)を結んでサナアを共同統治するという体裁を確保した。しかし、軍事力を伴う実際の統治権がアンサール・アッラーに移ったことは「誰の目にも明らかだった」。

アンサール・アッラーは2015年1月下旬に大統領府・官邸と主要軍事施設、メディアを掌握。ハーディ大統領と首相は辞任を表明し、2月6日、アンサール・アッラーが新政権の樹立を宣言した。

(4)「内戦」名下の干渉戦争ー第二次サウジ-イエメン戦争

これを受けて、2015年3月、サウジ率いる有志連合軍(the SLC:Saudi-Led Coalition)は(なんと!)イエメンへの空爆を開始する。第二次サウジーイエメン戦争の始まりである。この戦争を「第二次サウジーイエメン戦争」と呼ぶ人を私は今のところ見たことがないが、どう見てもそれが実情なので、そう呼ぶことにする。

サウジによるイエメンへの攻撃は、イエメンで起きている革命に対する純然たる干渉戦争である。それなのになぜ、世間はこれを「内戦」と呼ぶのかといえば、「国際社会」が、予め、これを「内戦」に見せかけるためのお膳立てをしておいたからである。

傀儡政権のハーディは、2015年1月に辞任を表明した後、2月末になってこれを撤回する意向を表明し、自分たちこそが正統なイエメン政府であると改めて主張した。直後に(3月)彼はサウジに逃亡し、サウジに庇護される形でリヤドに亡命政府を置いたのだ。

これによって、本当は「サウジ VS サナア政府(アンサール・アッラー) 率いるイエメン」(サウジ・イエメン戦争)である戦争の構図は、「国際的に承認されたイエメン亡命政府 VS サナア政府」の戦い(内戦)に書き換えられた。以後、サウジがイエメンに対して行う蛮行は、すべて「内戦」への介入(「正規の政府軍への支援」)と位置付けられることになったのである。

確認しておきたい。「国際的に承認された」政府のイエメン国内の支持基盤はゼロである。したがって、ハーディ傀儡政権 VS アンサール・アッラーの戦いはいかなる意味でも「内戦」ではない。実態は純粋なサウジ(ないし「国際社会」) VS イエメン の戦争なのだ。

(5)無差別爆撃と国境封鎖ー「史上最大の人道危機」へ

2015年3月、サウジはイエメンの空爆を始めた(Operation Decisive Storm:決意の嵐作戦)。彼らの攻撃は最初から無差別爆撃で、民間人の居住地域が破壊され、多くの犠牲者が出た。

サウジ連合軍は、当初から、国連の承認を取り付けて、ある程度の国境封鎖も行なっていたようだが、2017年11月4日、サウジアラビアの空港を狙ったイエメン国内からの弾道ミサイル発射が確認されると(サウジは「迎撃した」と発表)、国境封鎖の範囲をイエメン全土に拡大した。

国連はすぐに、サウジ連合軍による無差別爆撃と国境封鎖が、イエメンにどれほど破滅的な影響を及ぼすかに気付き、注意を喚起した。

国連の専門家パネルは、サウジが意図的にイエメンへの人道援助物資の搬入を妨害していることを指摘し、何百万の市民を飢餓に陥らせるおそれのある措置の合理性に疑問を呈していたし、国連の人道問題担当長官も、国境封鎖が続けば、何百万人が飢餓によって死亡し、世界が数十年来経験したことのないレベルの人道危機が発生すると指摘した

指摘はそのまま現実となった。2021年12月の国連開発計画の報告書によれば、2015年から2021年12月末までの死者は37万7000人に達する見込みであり、死因の4割は爆撃などの戦闘関連、残り6割は飢餓や感染症であるという。そして、これを書いている2024年2月、国境封鎖はまだ解除されていない。

こういうことである。

イエメンにおける「世界最悪の人道危機」は、内戦の激化によってひとりでにもたらされたものでは決してない。

サウジは、最初から、民間人の犠牲を全く厭わず、イエメンの国土を破壊することを意図して攻撃を開始し、それを全面的に支持・支援したアメリカは、犠牲が増え続ける中でも、軍事的支援の手を緩めることはなかった。

国連もまた(アメリカが支援している以上当然ではあるが)、サウジの攻撃を止めるための有効な手立てを講じることはなかった。

でも、なぜ?

サウジの方から行こう。

6 アンサール・アッラーとサウジの和平交渉

(1)サウジはなぜ戦争を起こしたのか

「決意の嵐作戦」を指揮したのは、ムハンマド・ビン・サルマーン王太子(当時国防大臣)とされている。サルマーンは、数日でサナアを奪還できるという見通しで作戦を始め、泥沼にはまった。

若きプリンス、ムハンマドはなぜイエメンに介入したかったのだろうか。

2つの理由があったと考えられる。1つはサウジ(というか湾岸諸国)固有のもので、もう一つはアメリカとの関係に関わるものだ。

サウジは1957年に男性識字率50%の時期を迎えているが、民主化革命を経験していない。

幕末日本に例えると、ムハンマドは徳川慶喜である。1985年生まれの彼は、民主化 ≒ 近代化の流れが不可避であることも、アメリカ頼みの国家経営が盤石でないことも理解しているであろう。とはいえ、せっかく王子に生まれ、王太子の地位を手に入れたのだから、その地位を生かして活躍したい。革命で倒される役回りなどまっぴらごめんだ。

そういうわけで、隣国イエメンで本格的な革命が始まった時、ムハンマドはまず、それを潰さなければならなかった。「遅れた」国であるはずのイエメンの革命は、サウジに波及し、彼の地位を危うくする可能性が大であるからだ。

加えて、イエメンへの介入は、アメリカとの軍事的・経済的な相互依存(ないし共存共栄)の関係を強化し、サウジの政権基盤の当面の安定にもつながるはずだった。

2009年以来、「国際社会」は、サウジやUAEを表に立てたイエメンでの鉱山開発に並々ならぬ意欲を示しており、イエメンが自立し、コントロールが効かなくなることをおそれている。サウジとアメリカの利害は完全に一致しているのだ。

アメリカの全面的な支持と支援が約束されている以上、イエメンでの勝利は容易であり、確実だ、とムハンマドは思ったであろう。革命勢力を潰し、傀儡政権を維持できれば、イエメンはサウジの属国同然となる。その華々しい成果は、サウジ王室への国民の支持をつなぎ止め、民主化への流れを抑えるのに役立つはずだ。

そう考えたムハンマドは、電撃的勝利を夢見て「決意の嵐」を吹かせたが、アンサール・アッラーはしぶとかった。そこで、ムハンマドは、イランに責任を転嫁し(「背後で支援している」と攻め立て)、国境を封鎖しあらゆる物資の供給をストップするという非情な手段まで動員した。それでも、サウジ連合軍はアンサール・アッラーの勢力拡大を抑えることができず、イエメン全人口の70-80%の居住地域がアンサール・アッラーの支配下に入る事態となった。

ここまで来ると、サウジとアメリカの利害は分かれる。アメリカにとってイエメンそのものは取り立てて重要な国ではない。イエメンの開発がうまくいかないなら他に行けばよいだけだ(他国が取りにくれば別)。しかし、サウジにとっては、イエメンは国境を接する隣国だ。激しい憎悪を掻き立てて、そのままにしておくわけにはいかない。

(2)単独・直接の和平交渉へ

バイデン政権が始まり(2021年)アメリカからの武器供与や後方支援が縮小すると、サウジは出口を探し始める。

停戦に向けた動きはいろいろあったようだが、大きく報道されたものとしては、国連の仲介による2022年4月の停戦合意があった。しかし、この合意は結局は機能しないまま終わった。

より重要なのは、2023年1月に、国連やその他の関与なしに、アンサール・アッラーとサウジの直接交渉が開始されたことである。

こちらを参照しました。

2022年12月、アンサール・アッラーは会談したオマーンの代表団にイエメン北部全域に設置されたミサイル発射基地の地図を見せ、彼らがサウジアラビア域内、具体的にはリヤド国際空港をいつでも攻撃できる態勢にあることを伝えるとともに、サウジ当局への伝達を依頼。オマーン代表団はアンサール・アッラーが攻撃可能な標的を示した地図を見せてサウジを説得し、サウジは直接交渉に臨むことを決める。

2023年1月の交渉の席では、アンサール・アッラーは同様の情報をサウジに直接伝えた上、サウジがイエメンの封鎖を解除しないなら、サウジの空港が封鎖されることになると述べたという。サウジは和平の必要を認め、封鎖の解除・公務員への給与支払を条件に含めた和平の実現に前向きな姿勢を示した。

2023年1月 サナア サウジ連合軍の国境封鎖に対する抗議デモ
スローガンは「Blockade is War!(国境封鎖は戦争だ)」

https://twitter.com/syribelle/status/1611468741128212501?s=21&t=nkoK3iQUHJ20Ik_BJLG4oQ (デモの動画が見れます)

この直後、西アジア情勢に大きな動きがあった。サウジとイランの外交関係正常化である(2023年3月・仲介は中国)。当時の私には考えが及ばなかったが、今思えば、サウジをイランとの関係改善に向かわせた要因の一つは、イエメンであったかもしれない。

アンサール・アッラーを裏で操っているのがイランだというのは嘘である。しかし、両者が良好な関係にあることは事実なので、サウジが、イランを間にはさんで、イエメンと安定した関係を構築することを考えたということは十分にありうる。

ともかく、サウジとイランの関係正常化は大事件だった。これを契機に、サウジとイエメン、サウジとシリアの関係が改善に向かう可能性があったし、立役者であった中国はパレスチナーイスラエルの和平の仲介にも積極的な意向を示していた。

ひょっとして、西アジアについに平和が訪れるのか、という明るい展望が開けたそのとき、ガザ危機が起きたのだ。

5 ガザとイエメン

(1)ガザ危機とアメリカ

ガザ危機へのアメリカの関与は、基本的に、サウジによる「決意の嵐」作戦への関与と類似のものだと私は思う。

つまり、サウジにはサウジ固有の動機があり、イスラエルにはイスラエル固有の動機がある。アメリカはそれを後押しするだけだ。

しかし、アメリカという覇権国家の全面的な支持と支援は、イスラエルやサウジといった普通の国家が本来なら成し得ないことを可能にしてしまう。加えて、アメリカは、自らの許可を得てから実行するよう含めておくことで、実行のタイミングをほぼ完全にコントロールできるのだ。

サウジがイエメンに「決意の嵐」を吹かせ、イスラエルが(念願の!)パレスチナ人の駆逐に乗り出したのは、アメリカがゴーサインを出したからである。彼らの攻撃の規模とタイミングを決めたのはやはりアメリカだと私は思う。

では、なぜ、アメリカはこのタイミングで、イスラエルに「Go!」のサインを出したのか。

第二次サウジ・イエメン戦争と同様、背景として資源の問題があったことは間違いないと思うが(イエメンは鉱物(金とか)、ガザはガス田)、タイミングを決めたのは、もしかしたら、西アジアの和平の動きであったかもしれない。

軍事的支援によって西アジアの「友好国」との関係をつなぎ止めているアメリカは、そのプレゼンス(というか支配力)の維持のため、地域の軍事的緊張をつねに一定以上に高めておくよう腐心している。平和になって、居場所がなくなっては困るのだ。

そのための火種なら、ガザに用意されている。いつ、どんなときでも使えるように。

(2)イエメンの決意

こうして(多分)起きたガザ危機に、イエメンの人々が即座に強い反応を示したのは当然といえる。

2014年以来サウジの無差別爆撃を受け続け、2017年からはほぼ完全に国境を封鎖されたイエメンの状況は、長年狭い場所に押し込められてイスラエルからの度重なる攻撃を受け、2008年からは国境封鎖の強化で基本物資もロクに手に入らなくなっていたガザとうり二つだった。

10年前にイエメンを襲い、アンラール・アッラーが長く激しい戦いを経てようやく撃退しようとしている「決意の嵐」が、同じ敵(アメリカ)の手によって、今度は、同じアラブ・イスラム地域の仲間であり、同じ苦境を戦ってきた同志であるガザのパレスチナ人に襲い掛かり、彼らを殲滅しようとすらしている。年齢中央値19歳、革命の只中にあるイエメンが行動しないはずがない。

彼らにとって、紅海におけるアメリカ・イギリスとの戦いは、もちろん、パレスチナの解放のための戦いであり、イエメンの自由と独立のための戦いである。しかし、それだけではない。

欧米諸国が西アジアの歴史の中で果たしてきた邪悪な役割を知らない人は(西アジアには)いない。しかし、第二次大戦後、覇権国アメリカと結ぶことで利益を得てきた諸国は、それを殊更には言い立てないようにしてきたし、いま現在、アメリカが行なっている各種策謀も見ないことにしている。

アメリカに敵視され、蹂躙されている国の人々には、現在の世界においてアメリカが果たしている邪悪な役割が、これ以上ないほど鮮明に見えているだろう。

同時に、アメリカに従属することで利益を得てきた国々の狡さ、醜さ、不甲斐なさも、正すべき不正と見えているに違いない。

彼らにとって、アメリカ・イギリス・イスラエルとの戦いは、決して、パレスチナやイエメンだけのための戦いではあり得ない。世界をアメリカから解放し、道理の通った新しい世界を作るための戦いなのだ。

おわりに

これを書いている2024年2月下旬、アンサール・アッラーとアメリカ・イギリス・イスラエルの戦いはますます本格化している。

しかし、アンサール・アッラーはまったく怯んでいないし、彼らの決然とした行動により、サナア政府へのイエメン国民の支持は拡大しているという

パレスチナとの連帯を示すデモ(2024年2月23日)https://www.ansarollah.com/archives/657639

こちらでデモの動画が見られます。

われわれは、神を礼賛するーーわれわれに、イスラエルやアメリカと直接対峙するという偉大なる祝福、偉大なる名誉を与えて下さったことに。

Abdul-Malik al-Houthi(出典

攻撃をエスカレートさせる道を選んだアメリカは、すぐに後悔することになるだろう

Hussein al-Ezzi(出典

強がりと見る向きもあろうが、私はそうは思わない。2014年以来の過酷な状況に耐え、革命を実現させた彼らが、あと数年の戦いを持ちこたえられない理由がないからだ。

1、2年がまんすればアメリカは勝手に潰れる(要するに彼らが勝つ)。今回の戦争では、大義は明らかにアンサール・アッラーの側にある。「アメリカ後」の世界を担う次代の「国際社会」は、彼らの政府を正統と認め、惜しみない支援を与えるだろう。

当面の苦境を乗り切り、人口を増やしたイエメンは、数十年後、世界の中心に返り咲いているのかもしれない。

(おわり)

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イエメンを知ろう(付/イエメンの人口動態)

 

はじめに

現在、ガザ危機を終わらせるための行動をもっとも激しくかつ直接的に展開しているのはイエメンの人々である。

イエメンの人々は、10・7の直後からイスラエルに対するミサイル・ドローン攻撃を開始し、紅海を通行するイスラエル関連船舶を拿捕し、今ではアメリカ・イギリスと戦っている

イエメンは西アジアのアラブ諸国の中では圧倒的に「遅れた」国だ。例えば、トルコの男性識字化(20-24歳の50%)は1932年、シリアは1946年だが、イエメンは1980年。女性に至っては2006年である。 

イスラム諸国の近代化(トッド/クルバージュ『文明の接近』(藤原書店、2008年)31頁より)

しかしその「遅れ」のために、イエメンはいま現在、最も若く活力のある時期を迎えているのである。

*イエメンの年齢中央値は19歳(2024年)。イラクやパレスチナと並んで最も若い一群だ(wikiの表を並べ替えてご覧ください)。 https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_countries_by_median_age

19世紀後半から20世紀初頭の日本人のような血気盛んな若者たちの前に、同じアラブの人々を襲うガザ危機があったら、「そりゃあ、やるよなー」と、私はまず思った。

それで興味を持ったのだが、軽い気持ちで調査を始めてみると、イエメンが現在置かれている状況はかなり非道なものだった。

しかし、さらに奥地に入り、調査を進めてみると、何か輝かしいものも見えてきたのである。

「これ、本物の民主化革命じゃないか‥‥」

そう。イエメンは今、フランス革命も真っ青(?)の本物の革命の只中にあったのだ。

「人道危機」の原因は内戦ではない

現在のイエメンは「世界最悪の人道危機」の当事国としてよく知られている。一般的な説明では、「危機」の原因は「2015年に始まった内戦」とされている。 

NHK「キャッチ!世界のトップニュース」
NHK「キャッチ!世界のトップニュース」

この説明は、根本的な原因はイエメンにある、という印象を与える(ための)説明といえる。イエメンという国はそもそも国家の体をなしていない破綻国家であり、反政府勢力が蔓延り、悪者のイランにつけ入る隙を与えている。だから、それらを撃退し、秩序を回復するために、外国が介入しているのだ、と。

ガザ危機が「イスラエル VS イスラム過激派ハマス」の構図で描かれ、前者の介入にも一定の理がある、とされているのと全く同じである。

しかし、調査してみて分かった。この説明は意図的に流布されている「ウソ」である。

イエメンという国に問題がないというわけではない。北部と南部は当初から分裂していたし、1963-70年には北イエメンの内部でも内戦があった。南北イエメンは1990年に統一されたが、1994年には南北の間で内戦が起き、その後も政治の安定には程遠い状態が続いた。

しかし、2015年からの内戦は、その延長線上に起きたものではない。後で詳しく説明するが、イエメンのもともとの政情不安定と「世界最悪の人道危機」は、基本的には関係がないのである。

人口動態から見るイエメン

私は勝手に、イエメンという国は、この先の激動において大きな役割を担っていく可能性がある、と感じている(根拠はない)。

イエメンの人口動態に関するデータをいくつかご覧いただこう。

男性識字率50%越の時期は1980年、女性は2006年だが、その前の1995年にすでに出生率の低下が始まっている。近代化の過程をくぐり抜けている真っ最中である(上記の図を参照)。

年齢中央値は19歳、人口ピラミッドは下のような感じで、とにかく若い。 

https://www.worldometers.info/demographics/yemen-demographics/#
https://en.wikipedia.org/wiki/Demographics_of_Yemen#/media/File:Yemen_single_age_population_pyramid_2020.png

そして現在の人口は約3500万人。日本の場合、1870年代の人口が3500万人くらいだった。その時期の年齢中央値のデータはないが1940年が22歳なので、1870年代に20歳前後だったとしてもおかしくないだろう。当時の日本と同様、イエメンもまだ出生率は下がり切っていないので、この先国情が安定すれば、人口は大きく増えていくと見込まれる。

乳幼児死亡率はまだまだ高い(2022年で42,245人(/1000人)*)。とくに「世界最悪の人道危機」が始まった2015年頃からは足踏み状態が続いているが、長期の傾向は明らかに低下に向かっている。近代化は着実に進んでいるのだ。

https://data.worldbank.org/indicator/SP.DYN.IMRT.IN?end=2021&locations=1W-YE&start=1963&view=chart

次回の予告(おわりに)

そういうわけで、イエメンは現在、近代化を始めた当初(約150年前)の日本と同じような時期を迎えている。

民主化革命のさ中にあるその国は、(アメリカが支援する)サウジアラビアの攻撃によって大変な目に遭いながら(詳しくは次回以降)、80年前の日本よりもはるかに積極的かつ断固した姿勢で、アメリカと対決しようとしている。

次の地図をご覧いただきたい。西アジアではイランを除くすべての国に米軍基地があり、多数の兵士を駐留させている。しかし、イエメンには一つもないのである。 

どうしてこんなことが可能になったのだろうか?

*ちなみに日本は約54000人、基地は数え方がよく分からないが大きめの単位で数えると約15。人員・基地のそれぞれ約半数は沖縄。
https://www.usfj.mil/About-USFJ/
https://en.wikipedia.org/wiki/United_States_Forces_Japan#/media/File:Military_facilities_of_the_United_States_in_Japan,_2016.gif

興味、ありますよね?

「イエメンを知ろう!」ということで、今回を含めて数回をイエメン特集とさせていただきます。

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コペル君の志

 

目次

コペル君の人生

『君たちはどう生きるか』の主人公、コペル君のプロファイリングをしたことがあります。概要はこんな感じ(↓)。

コペル君(プロフィール) 

  • 本名:本田潤一
  • 生年:1923年生
  • 出身:東京都 
  • 家庭:父親は大手銀行の重役。召使が何人もいるような裕福な家庭に育つ。11歳のときに父が病気で死去。母一人子一人となり、郊外に転居(ばあやと女中1名が同居)。叔父さん(法学部卒のインテリ)と仲良し
  • 人生:旧制中学卒業後、17歳で東京帝国大学法学部に進学(1940年)。1943年、20歳で学徒出陣。特攻等で戦死、または生還して復学し、エリートとして戦後復興を支える

 

○生年

コペル君(本名:本田潤一)は、本の中では、中学2年生です。

「15歳」と書かれていますが、当時は数え年なので、満年齢に直すと13歳だと思います。作者の吉野源三郎さんが本の執筆を始めたのは1936年(出版は1937年)なので、その時点で13歳だったと仮定すると、コペル君の誕生年は1923年になります。

生きていれば昨年でちょうど100歳ですね。日本人だと、佐藤愛子さん、三國連太郎さん(俳優。佐藤浩一のお父さん)、司馬遼太郎さんなんかが同じ年です。

○出身・家庭

出身地は東京都の東京市。かつての15区内(↓)だと思います。だから、郊外に転居といっても、世田谷とか杉並かもしれません。

お父さんは大手銀行の重役です。五大銀行のどれかでしょう。お父さんはコペル君が11歳のときに亡くなっていますが、その後も本田家の暮らし向きは比較的裕福であることが感じ取れます。 

 1878年(明治11年)の郡区町村編制法によって設置された東京15区(Beagle at ja.wikipedia

○人生

コペル君と仲良しの叔父さんは、法学部卒のインテリです。こうした家庭環境や性格、本の中で、学問を修めて人類の進歩に役立つ立派な人間になろうと決意しているところなどから見て、コペル君は、旧制中学校を卒業した後、東京帝国大学法学部に進学した可能性が高いと思われます。

1940年に17歳で帝国大学に進学した若者がその後どうなったか。

1940年当時、高等教育機関(大学・高等学校・専門学校)に在籍中の学生は徴兵が猶予されていました。しかし、1943年にこれが一部解除され、いわゆる学徒動員(学徒出陣)が始まります。コペル君が文科系の学生であったなら、20歳になる頃、戦地に赴いたはずです。

帝大を含め、学徒出陣で戦地に送られた学生の多くが、特攻隊員となって命を落としています。コペル君がその一人であった可能性は決して小さくありません。

いずれにせよ、コペル君は、出征して戦死したか、生還して復学し、中央官庁・企業などでエリートとして戦後日本の復興・発展を支えたか、そのどちらかの人生を送った可能性が高いと思われます。

『君たちはどう生きるか』について

2017年に漫画版が出て以来、コペル君を主人公とするこの本が再び人気です。宮崎駿監督は同タイトルの映画を作り(本も出演していました)、そのせいもあってまた売れているようです。

確かによい本だと思います。感動する気持ちも分かる。子どもさんや若い人が読んだら、何かよいものを受け取るでしょう。

でも、この本を、これからを生きる人たちに薦めたいか、と言われると、社会系の研究者としては、微妙な気持ちを拭えません。

なぜか。

『君たちはどう生きるか』は、単なる「生き方」(倫理)の本ではありません。人間の理性を信奉し、人類の進歩を礼賛する近代主義(西欧中心的な進歩主義)の立場から、少年を社会科学の世界に誘うことをはっきり意図して書かれた本です。

シリーズ(日本少国民文庫)を企画した山本有三や著者の吉野源三郎は、軍国主義の風潮が高まり、言論・出版の自由は制限され、労働運動や社会運動が激しい弾圧を受けていた日本で、次代を担う子どもたちだけは、時代の「悪い影響」から守らなければならないと考えたといいます。山本や吉野は、西欧文化に親しんだ知識人として、自分を捨てて国家に尽くすことを求める偏狭な国粋主義とは異なる「自由で豊かな文化」が存在することを伝え、人間の自由な精神こそが進歩の原動力なのだという信念をかき立てることで、彼らの信じる進歩を、子どもたちに託そうとしたのです(岩波文庫版巻末・吉野源三郎「作品について」参照)。

だから、叔父さんは、コペル君に、立派な人になるには、世の中の規範にただ従うのではなく、自分が本当に感じたことや、心を動かされたことと深く向き合って、本当の自分自身の思想を持つ人間になることが大事なんだと熱く語ります。

そして、当時の日本においては最先端の思想であったマルクス主義の知見を紹介し、人類の過去の叡智をまとめ上げたものが学問である以上、まずは「今日の学問の頂上にのぼりきってしまう」ことが必要であり、その先にこそさらなる進歩があるのだと力説するのです。

実際、コペル君は、このシリーズの第1巻・第2巻である『人間はどれだけの事をして来たか(一)(二)』(人類の発展の歴史を描いたもの。国立国会図書館のウェブサイトで読めます)をしっかり読んで勉強したという設定になっています。『君たちはどう生きるか』は、読者である少年少女に、近代主義の流れに棹さし、自由で民主的な「よい」世の中を作るために、一人一人の人間はどう生きていくべきなのかを、自分の問題として考えることを求め、導くための書物にほかなりません。

対米戦争が始まった頃には刊行できなくなったこの本が、戦後の日本で大いに評価されたのは、この本の基本思想が、アメリカへの敗戦で義務化された「民主化」路線にピッタリとはまったからです。

しかし、そうしたこととは別に、この本に、現在も読者を感動させる力があるとすれば、それは、作者である吉野源三郎さんが、人間精神の偉大なる可能性、そして、人類の集合的叡智たる学問を基礎に置くことで、自由で豊かで平和な社会が実現できるという希望を、本気で胸に抱いていたからでしょう。心から信じることを若い世代に託す。その真率な気持ちが、読み手に伝わるのです。

2024年を生きる私たちはどうでしょう。私たちは、吉野さんの抱いた理想が、実現しなかったことを知っています。コペル君の生誕から100年、世界は、近代以降の人類の活動に起因するとされる自然災害、戦争や殺戮に溢れ、貧困や経済的不平等すら克服される気配はない。もっとも豊かな国の豊かな階層にとってすら、未来は不確実になりました。

このような時期に生まれてきた年若い人々に、100年前と同じ理想を語るこの本を薦めることができるでしょうか。

その中には、もしかして、特攻で戦死し、生まれ変わったコペル君が混じっているかもしれない。

この世に戻ってきたコペル君や仲間の子どもたちに『君たちはどう生きるか』を託す大人は、いったい、どんな言葉をかけるのでしょう。

「率直に言って、あの後、世界が良くなったとは言えないかもしれない。

でも、理想が間違っていたわけではないんだ。だって、本当に良い人間になって、良い世界を作る。そんな普遍的な理想が、間違ってるなんてこと、あるわけないだろう?

だから、君ならできる。君たちならできるよ。絶対。人間に不可能なんてないんだから。

今度こそ、がんばって勉強して、立派な人になって、持続可能な、よい世界を作ってね。期待してるよ!」

それはちょっと、無責任、というか、非道ではないか、と私は思うのですが・・

おわりに

そういうわけで、私は、ある時期から、現代・近未来版の『君たちはどう生きるか』を書いてみたい、と考えるようになりました。

2003年に出た池田晶子さんの『14歳からの哲学  考えるための教科書』は、たしか、その趣旨だったと思います(ご本人がどこかで書いていました)。池田晶子さんの書くものは好きでよく読んでいましたが、この本は、私にはピンと来なかった。形而上学に寄り過ぎていると感じたのだと思います(手元にないので勘と記憶ですが)。

僕は、すべての人がおたがいによい友だちであるような、そういう世の中が来なければいけないと思います。人類は今まで進歩して来たのですから、きっと今にそういう世の中に行きつくだろうと思います。そして僕は、それに役立つような人間になりたいと思います。

岩波文庫版(1982年)・298頁

ノートにこう書きつけたコペル君の志を、子どもっぽい理想と笑うことはできません。大体、社会の研究者などというものは、全員、コペル君なのですから。

100年経っても、全く「そういう世の中」に近づいていないことを知って、ショックを受けるコペル君(本当に私ですね)。

彼と彼らに必要なものは、夢や希望、理想や「世界観」ではなく、人間と社会に関する端的な真実であると私は思います。まあ、真実というのは分かりませんので、自分で拾いにいくしかないのですが。

だから、私なら、彼らを探検の旅に連れ出したい。方位磁石やピッケル、鍬、探検仲間が残してくれた怪しい地図なんかを手に、素朴な「なぜ」を手掛かりに、真実を掘り当てるのです。

この世界の有り様に納得できれば、彼らの生命力は、勝手に希望を見出して、楽しく生きていってくれるでしょう。

そう思って、時期が来るのを待っていました。ようやく「今ならできるな」と思えるようになりましたので、今年、この取り組みを始めたいと思います(他のこともします)。どうぞ、お楽しみに。

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パキスタンは燃えている
-民主化過程見学ガイド-

11月3日にイムラン・カーンが銃撃された後も、パキスタン議会の解散と総選挙の実施を求める抗議デモは続いている。イムラン・カーン自身も早期の復帰を約束しデモの継続を呼びかけている。パキスタンでいったい何が起きているのだろうか。

推奨BGM
Clash “London’s Burning

イムラン・カーンの人気は何を意味するのか

イムラン・カーンは2018年に首相に就任した。しかし今年(2022年)4月に議会の不信任決議により首相職を追われ、8月には反テロ法容疑で逮捕、10月には議員資格を停止され5年間の公職追放処分を受けた(詳しい経緯は後ほど)。デモはこうした一連の措置に反対し、総選挙の実施を求める趣旨のものである。

イムラン・カーンの首相就任については、クリケットのスーパースターという経歴から「世界を席巻するポピュリズムの波がパキスタンにも訪れた」と評されることが多かったようだが、それはちょっと違うと思う。

トッドに学んだ人口学の知見を応用してみれば分かる。下に「参考」として示す各種データを見ていただきたい。はっきり読み取れるのは、パキスタンは今まさに近代化の過程をくぐり抜けている最中の、若者ひしめく活気に満ちた国家だということである(→近代化モデルについてはこちらをご参照ください)。

イムラン・カーンは、裕福な家庭に育ちパキスタンのエリート校を出てオックスフォード大学で哲学、政治学、経済学の学士号を取得した、パキスタン社会のエリートである。

イムラン・カーン首相の誕生は、識字化し政治に目覚めた人々が自分たちに相応しいエリートの人気者を選んだ結果である。考えられる限りもっとも健全な民主的選択ではないだろうか。

民主主義が終わろうとしている国の「ポピュリズム」などと一緒にするのは失礼だし、的外れだと思われる。

(参考)パキスタンの人口学・人類学データ

家族システム 内婚制共同体家族
宗教     イスラム教
近代化指数  男性識字化 1972  女性識字化 2002  出生率低下 1990
       *比較対象となる数字はこちら
年齢中央値 22.78歳(2020)
       (→日本の1940-50相当 2020の日本は48.36)
人口      約2億1322万人(2017)

By Abbasi786786 – Own work, CC BY-SA 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=120269592

↑ 年齢はとにかく若い。日本だと1940-50年頃がこんな感じだった。

↑ 人口もこんな感じで増えている。

↑ トッド的に重要な乳児死亡率も順調に低下を続けている。

パキスタン政治のこれまで

パキスタンではまだ(いわゆる)民主化革命は起きていない。しかし今起きていることは間違いなくその前兆(あるいは一部)である。

彼らがいったいどんな未来を作ってくれるのか、私は楽しみで仕方がないので、これをしかと味わうために必要と思われる情報をざっくりまとめてみたい(随時更新するかもしれません)。

独立〜クーデター政治

パキスタンがイギリスから独立したのは1947年。しかし、しばらくの間はよくある新興国の政治が続く。 

建国の父(ムハンマド・アリ・ジンナー)がいて、選挙で選ばれた初代大統領が誕生するがクーデターが起きて軍事独裁となり、その評判が落ちるとまた選挙で指導者が選ばれたりするがすぐにクーデターで軍事政権に戻る、という感じのやつである(なおパキスタンには大統領と首相がいる。両者の関係は(今のところ私には)不明だが2010年の憲法改正で議院内閣制に移行して以後、大統領は名誉職的なものになったという(wiki))。

なぜそうなってしまうのか。我々にはもう分かっている。パキスタンで男性識字率(20-24歳)が50%を超え、近代化の始まりを告げたのはようやく1972年のことである。国民の選択に基づく民主主義がそれより前に機能するはずはないのだ。

民主化の第一歩

真の民主化に向けた歩みの第一歩目が踏み出されたのは、2008年の総選挙であったと思われる。

そのときの大統領は、陸軍参謀総長であった1999年にクーデターを起こして政権についたムシャラフ。比較的自由主義的で進歩的だったとされる彼は「自由で透明性のある方法」で選挙をすると公約し(wiki)、行われたのがこのときの総選挙だった。

ムシャラフは国民の人気も高い指導者だったのだが、ベナジル・ブット元首相暗殺事件などの結果、議会は反ムシャラフ派で占められ、パキスタン人民党のギラーニが首相に選ばれた。詳細は省くがムシャラフ大統領は辞任に追い込まれ、新たに行われた大統領選挙でパキスタン人民党総裁のザルダーリー(ブットの夫でもある)が大統領に選出された。

ただ、このとき選ばれたギラーニ政権も任期を全うすることはできず、司法の介入により解任されている(後述)。司法の背後には軍がいたとされており、まだまだ軍の実力がものを言う世界であることは間違いない。

アメリカとの関係

アフガニスタン紛争の蜜月から
「テロとの戦い」へ

パキスタンはインドへの対抗上つねに大国の助力を必要としていたため、状況が許す限り中国ともアメリカとも緊密な関係を結んできた。

アメリカから見るとパキスタンはソ連およびイラン封じ込めのために重要で、戦略的重要性は1979年のソ連のアフガニスタン侵攻以後増大した。

アメリカはソ連が支援する当時の共産主義政権(アフガニスタン人民民主党)に対抗するため、アフガニスタンにおける対抗勢力であるイスラム主義者を支援し、同時にその後援者であるパキスタンの軍事政権への支援も強化した。

なお、アフガニスタンのタリバンはこのときアメリカが支援したイスラム主義勢力の中から生まれてきたものである。同じくイスラム主義を標榜するパキスタンは、アフガニスタンのタリバンに基本的には親近感を持っているはずである。

そのため、2001年の同時多発テロの後、アメリカがオサマ・ビン・ラディンを匿ったと難癖をつけてアフガニスタンのタリバンと戦争を始めると、パキスタンは難しい立場に置かれることになった。

無人機攻撃への反感

親米で知られる当時の大統領はアメリカの「テロとの戦い」を支援する現実的立場に立った。2008年に首相となったギラーニもその立場を継承し、この間アメリカはパキスタン西部のシャムシー空軍基地を無人機(ドローン)攻撃の拠点として使うことを許された。

無人機攻撃作戦の対象は当初はアルカイダ高官のみであり、アメリカにテロを仕掛けた者たちの討伐という理由はパキスタン国民にもどうにか受け入れ可能だった。

しかし、アフガニスタン戦争でタリバンに苦戦していたアメリカは、2008年、彼らと関係があると見られるパキスタン国内のイスラム主義勢力(北部ワジリスタン周辺を拠点とするパキスタン・タリバン運動)にまで対象を拡大することを決める。

オバマ政権(2009-)の下、パキスタン国内での無人機作戦の実行回数は大幅に増加した。2009年から2012年までの3年間の無人機攻撃作戦は約260回、民間人の犠牲者は282-535人(60人以上は子供)と報告されている(the Bureau of Investigative Journalism)。

パキスタン・タリバン運動(TTP)は50以上のイスラム主義グループの連合体で、その中には政府にテロ攻撃を仕掛ける過激派勢力がいる一方でそれを抑えようとする穏健派もいる。

過激派勢力にしても、彼らの存在はパキスタンの国内問題であって、アメリカの「テロとの戦い」とは何の関係もない。パキスタン側から見れば、パキスタンのイスラム主義勢力への攻撃が内政干渉であることは明らかだった。

パキスタンの人々にとっては、パキスタンのイスラム主義勢力もアフガニスタンのタリバンも本質的には敵ではない。アメリカが勝手に敵視するそれらの攻撃のために自国領土を荒らされ、民間人までが犠牲になるという事態に、パキスタン国民の反米感情は高まった。

ビン・ラディン急襲の余波

アメリカは、2011年5月、パキスタン政府への事前通告なしに国内に潜伏していたウサマ・ビン・ラディンを急襲し、殺害した上、ビン・ラディンの潜伏に協力していたと決めつけてパキスタン政府を非難した。

さらに、同年11月には、アフガニスタンに駐留するNATO軍がパキスタンの国境警備隊基地を越境爆撃し、兵士24名を死亡させる事件が起きた。

パキスタンはこうした事態を主権侵害であるとして非難し、政府はNATO軍のための物資の補給路を遮断した上、シャムシー空軍基地からの立退をアメリカに要求した(のちに交渉の末復旧)。

なお、このときの首相は先ほど述べた2008年の選挙の後に首相に選ばれたギラーニで、彼はこの直後の2012年2月にパキスタン最高裁により法廷侮辱罪(ザルダーリー大統領の汚職疑惑を追及しなかったという理由)で有罪とされ退任させられている。合憲性に疑問のあるこの司法の行動の背後には軍がいたというのが一般的な見方のようである。

2013年の総選挙では1990年代から2期に渡って首相を務めたナワーズ・シャリーフが選ばれ、2017年に汚職疑惑で亡命するまで政権を維持した(ちなみにイムラン・カーンの首相解任後に首相に選ばれた現職のシャバズ・シャリーフはナワーズの弟)。

イムラン・カーンの首相就任と排除

イムラン・カーンの躍進

こうした状況の中、アメリカの無人機攻撃や北部ワジリスタンでの軍事作戦に対し断固反対の姿勢を示し、国民の支持を集めていったのがイムラン・カーンなのである。

1996年に下院議員となったイムラン・カーンの政党「パキスタン正義運動」は2013年の選挙で第3党に躍進、2018年にはついに第1党となる。こうして、同年8月に、イムラン・カーンが首相に就任することになる。

イムラン・カーン排斥の手続きは正当か?

そのイムラン・カーンは、2022年4月10日に内閣不信任決議により首相の座を追われた。

必ずしも「クーデター」という報道はされていないようだが、以下に見るように、その経緯は通常とはいえない。

野党が不信任決議案を提出したとき、イムラン・カーン首相は議会を解散して総選挙に打って出ようとした。パキスタンの法制度がどういうものなのか私は知らないが、首相や内閣の決定による解散総選挙の実施は議会制民主主義の国では普通のことである。

不信任決議案は内閣を辞めさせるために出すのだから、内閣が解散し総選挙をするといえば文句はないはずであろう。日本の場合、不信任決議が可決された場合も、内閣は解散総選挙か内閣総辞職のどちらかを選ぶことになる。選挙の実施が許されないということはあり得ない。

ところがパキスタン最高裁はイムラン・カーン首相による議会解散を違憲と判示する。そして復旧した議会は提出された不信任決議を可決してカーンを辞めさせ、野党から首相(イムラン・カーンの前の首相ナワーズ・シャリーフの弟シャバズ・シャリーフ)を選ぶのである。

これではまるでイムラン・カーンを排斥し選挙によらずに次の首相を決めるための策謀のようではないか?

いつものパキスタンのやり方といえばそれまでではあるが、カーン首相を支持したのはこうした政治にうんざりした人々なのだ。

イムラン・カーンは「アメリカが背後にいる」と主張しているが、それが不合理な主張ではないことも確認しておく必要があるだろう。

イムラン・カーンは、ロシアがウクライナに侵攻する前日の2月23日に、プーチン大統領の招聘に応じてロシアを訪問していた

ウクライナ侵攻開始後、カーンは、ロシアの行為を非難するよう要求する西側諸国の圧力に不快感を示していた

おそらくその関係だと思うが、イムラン・カーンは「ある国」からの文書の存在を公表し(のちに「アメリカ」と明言)、3月31日に開催した国家安全保障委員会(NSC)の席でそれを内政干渉であると確認する決定を行った上で、アメリカ大使館に公式の抗議文を届けていた(4月1日)。

内閣不信任案の提出は、この直後というタイミングだったのである。

排斥の動きは続くが人気も続く

首相解任という事件の後も、イムラン・カーンの人気は衰えず、7月に行われたパンジャブ州の補欠選挙で、イムラン・カーンのパキスタン正義運動は20議席中15議席を獲得する大勝利を収めた。この結果は新政権への不信任と同時に、4月の政権交代の不当性を訴えるカーンへの国民の支持を示すものと捉えられた。

その直後(8月)、イムラン・カーンは反テロ法違反の容疑で逮捕され(パキスタンの反テロ法の問題性については「おまけ」の記事②に詳しい)、10月21日には選挙管理委員会により議員資格の剥奪と5年間の公職追放が決定される。

11月3日の暗殺未遂事件は、こうした一連の動きに反対し、早期の解散総選挙を求めるデモ行進の最中に発生したものである。

おわりに

イムラン・カーンはパキスタンの現政権にとって最大の政敵であり、アメリカの敵でもあるので、主流のメディアから中立的な(あるいは好意的な)情報を得るのは難しい。おまけとして独立系ジャーナリズムの記事(翻訳)を付けておくので、お読みいただくと大体の感じがお分かりいただけると思う。

パキスタンの民主化は大変だ。彼らが倒したい古い勢力の背後にはアメリカが付いていて、自らの覇権維持のためになりふり構わず介入してくるのだから。

彼らの今後は国際情勢に大きく左右されるだろうが、だからこそ、彼らの動きは間違いなく現今の激動に大きな影響を与えていくだろう。

ああ、楽しみ。

まとめ

  • パキスタンは近代化=民主化局面にある
  • パキスタンはアメリカの対ロシア・イラン政策上重要な支援対象だった
  • アメリカがアフガニスタンのタリバンと戦争を始めたことで、パキスタンとの関係が難しくなった
  • 「テロとの戦い」の中で展開されたパキスタン国内での無人機攻撃作戦が国民の反米感情を高揚させた
  • イムラン・カーンはアメリカの作戦に一貫して反対の姿勢を示したことで国民の信頼を勝ち取った
  • イムラン・カーン首相はロシアのウクライナ侵攻に関し西側に追従しない立場を明確にした直後、クーデターまがいのやり方で解任された
  • 首相解任後もイムラン・カーンに対する国民の支持は衰えていない

おまけ

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私に講師資格はあるのでしょうか?(エマニュエル・トッド入門講座 講師自己紹介)

 

日本における法学

私のもともとの専門は法学(刑法学)です。2018年度まで法科大学院で刑法を教えていました。

つまり、人類学者でも人口学者でも歴史学者でもないのですが、ある日ふと、「(日本では)法学者って意外とこの任務に向いてるんじゃないか?」と思いました。考えて、確信が持てたので、「エマニュエル・トッド入門講座」を始めることにしたのです。

「法律、それも刑法なんていう狭そうな領域の研究者がトッドの理論の解説に向いてるなんて、あるわけないだろう」と思った方のために、ちょっとご説明させていただきます。

明治時代、日本に初めて大学ができたとき、どんな学部があったかご存じですか。

明治10年に発足した東京大学が持っていたのは、法学部、文学部、理学部、医学部の4つでした。政治学部もないし、経済学部もない。社会科学にあたるものは、法学しかありません。

ちなみに現在も日本に「政治学部」というのは存在せず(過去にはあったそうですが)、法学部の中にあるケースが多いです。現代のヨーロッパやアメリカでは、政治学は独立していたり人文社会科学や歴史と結びついているケースが多いようなので、法学との結合がスタンダードである日本は特殊なケースだと思います。

なぜか。いくつかの理由を思いつきますが、一番本質的な理由は、日本を西欧に伍する近代国家にするためには、何よりもまず、西欧と同じような(=近代的意味の)法制度そのものの構築が必要であったということだろうと思います。

なお、「近代的意味の法」とか「近代法」とかいう言葉は、専門用語の一種です。近代に法律を作れば何でも「近代法」になるというわけではなく、「近代法」というためには、いろいろとうるさい条件があります。

こうした条件を備えた法制度を持ち、それに基づいて国家が運営されているということが、欧米列強から信頼に値する国家と認められるためにどうしても必要だった。当時の日本にとって、新しい社会を作るということは、新しい法制度(に基づく国家)を作るということとほとんどイコールであったのです。

このような事情の下で、法学という学問は、明治以降の日本に、西欧的な「新しい常識」を導入するチャネルとして機能することになりました。西欧から思想や制度を輸入して、日本で受け入れ可能な形に整えて、社会に供給する。社会の要請の下で、日本を西欧式の国家に変えるための革命の綱領を作り続けたのが法学であった、といういい方もできるでしょう。

最近は廃れてきましたが、戦前・戦後の日本には、一般社会人を目指している(=法曹資格を取るつもりがなく、公務員を目指しているわけでもない)人が進んで法学部に入って勉強するという伝統がありました。それは、法学が、西欧に学んで新たな文明国家を築き上げるための「新しい常識」を供給する学問だったことの反映です。当時はみんなが「西欧式の新しい常識を身につけなければいけない」と思っていたのですね。

「新しい常識」(ないし革命の綱領)の根幹にあるのは、もちろん、近代主義=西欧中心思想です。つまり、法学は、エマニュエル・トッドの理論によって否定される運命にあるその思想の普及について、非常に大きな責任を担っているのです。

革命は成功しなかったー法学者は知っている

もう一つ、トッドへのコミットメントという点ではより本質的かもしれない事情があります。

法学は、明治以来、西欧的な常識に基づいた法制度の構築を助け、講義し、その運用を見守ってきました。行政の審議会やら民間の様々な会議に出席し、人々が従う制度が法の基本を踏み外さないように注視し、意見を述べてきました。

しかし、それによって、西欧的な法制度は日本に定着したのか、というと、してません。何度でも言いますが、「近代法」の一番肝心な部分(「法の支配」と言われるものです)は、日本に根づいていません。そして、そのことを一番よく知っているのは、法学者なのです(よく知らない法学者もいるとは思いますが、ちょっとおめでたい人だと思います)。

「法の支配」が根付いていないとはどういうことか。一言でいいます。日本は法治国家(「法の支配する国家」の意味で使います)としては、行政の裁量権が強すぎるのです。「法の支配」の核心は統治機関(≒行政機関)を法のコントロールの下に置くことにあります。しかし、日本の場合、法は形ばかりは存在し行政の上に君臨しているようなフリをしているけれども(行政も法に従っているようなフリをしているけれども)、あらゆる領域で、重要事項の決定権を持っているのは行政です(ある行為を犯罪として処罰するかどうかを決める権限ですら、実際に行使しているのは検察官(=行政官)です)。

法律があろうがあるまいが行政が様々なことを差配し、国民がそれに従うというのは日本の人にとっては普通のことです。普通すぎて、「法の支配」とかその派生原理である「法律による行政」などを説明してもポカンとされてしまう。そのくらい普通だし、それこそが行政の責任だと思っている人も少なくない(行政官の中にもそういう人がたくさんいます)。このような社会のあり方は、しかし、もしも日本が西欧式の法治国家であるならば、明確に否定されなければならないはずのものなのです。

トッドは何度か日本を訪れていて、日本の研究者と対談や議論をしています。その記録を読んでいて、感じるのは、文学や歴史人口学の専門家の方たちが、トッドの理論の妥当性について疑念を持っている、あるいは確信を持てていないということです。この「迷い」は、おそらく、彼らに(例えば「トッド入門」を書くような)トッドの理論への全面的なコミットメントを躊躇わせる理由になっています。

彼らには、つぎのような逡巡があるようなのです。

「確かにトッドの理論にはなるほどと思うことが多い。しかし、家族システムにかかわらず、政治制度や法制度は、国家が法律を定め、制度を打ち立てることで、変えることができるはずである。そう考えなければ、明治以降(あるいは少なくとも第二次対戦後)の日本で、「近代的な」(西欧風の)政治制度、法制度が確立されたという事実を否定することになってしまうのではないか。」

例えば、速水融(歴史人口学)は、トッドとの対談で、次のような問いを発しています。

速水 ‥‥ 政治とか国家とか法制、これをどうお考えでしょうか。つまり、政治や国家や法制によって、家族構造あるいは農地制度というのは変わるものなのかどうか。というのは、日本を考えたときに‥‥明治になって日本が統一されてはじめて、明治政府が日本全体に適用される法律をつくろうとします。‥‥明治政府がまずやったことは、特に民法ですけれども、フランスからボワソナードという民法学者を呼んで、日本の民法を作ろうとしました。ところが民法典の案ができた時に、ドイツ法を学んだ穂積八束という日本の法学者が猛反対しました。つまりこれは日本の慣行に合わないと。そこで民法典論争という猛烈な論争が起こって、結局、ボワソナード派は負けてしまいます。そして日本的な民法、つまり長子単独相続を基本とする民法ができ、それが戦後までずっとつづきます。ところが戦後になって、今度は日本はアメリカに占領されて、そこでまた民法の改正があって、分割均分相続になります。

そのように法律がどんどん変わっていきます。こういうことは、たぶんフランスでは考えられないと思いますけれども、現実にわれわれ日本に生きている者としては、そういう中で変わっていくものだと考えざるをえない。民法だけでなくて、憲法からしていろいろ問題を含んでいますけれども、一体全体、政府や国、とくに法律はそういう社会の慣行を変える力を十分もっているとお考えかどうか伺いたいのです。

エマニュエル・トッド(石崎晴己 編)『世界像革命』(藤原書店、2001年)157-158頁)

ふふふ。
ご安心ください。

今から約20年前(2001年)、内閣に設置された司法制度改革審議会は、司法制度の改革に向けた意見書をまとめました。

この意見書は、なんと(?)、つぎのような文章で始まっています。

民法典等の編さんから約100年、日本国憲法の制定から50余年が経った。当審議会は、‥‥近代の幕開け以来の苦闘に充ちた我が国の歴史を省察しつつ、司法制度改革の根本的な課題を、「法の精神、法の支配がこの国の血肉と化し、『この国のかたち』となるために、一体何をなさなければならないのか」、「日本国憲法のよって立つ個人の尊重(憲法第13条)と国民主権(同前文、第1条)が真の意味において実現されるために何が必要とされているのか」を明らかにすることにあると設定した。

これを読んで、驚く方もいるのではないでしょうか。何しろ、2001年の日本における根本的な課題が、「法の精神、法の支配を「この国のかたち」とすることであり、個人の尊重と国民主権を実現すること」なのです。「日本国憲法って何なんですか」と言いたくなりますね。

しかも、この「意見書」の中に、日本がいかに法の支配を欠き、個人の尊重、国民主義を実現できていないかを論証する文章はありません。つまり、この文章を読む関係者にとって、「法の精神、法の支配が日本に根づいていない」という認識は、争うまでもない、当然の前提として共有されているのです。

私の経験

私自身の経験もちょっとお話ししようと思います。

私は、中高生のころから、ただ社会に興味がありました。どの専門科目を選べばよいのかわからなかったので(今もわかりません)、何となく法学部に入りました。講義に出て直ちに「間違えた!」と悟り、あまり授業に出ない学生として4年間を過ごしました。

でも、学者にはなりたかった。なりたかったので、手近にあった刑法学の道に進みました。

真面目に取り組んでみたらこれが意外に面白く、資質としては向いていました。

よく覚えているのは、好き放題に本を読んで物を考えていた大学時代を終えて、大学院で法学の研究を始めたとき、「なんかラク」と感じたこと。

何ていうのでしょう。法学の中の概念って、みんなカッコがついているのです。まったく手ぶらで、ただ一人の思索がちの人間として、例えば自由という言葉を使うとすると、そんなものは本当にありうるのか、あるとしたら何なのか、そんなものを論じることに意味があるのか、‥‥と無限に疑問がついてまわってくるものですが、法学の中だと、ある程度専門用語として、「ここでいう自由はその自由ではなくて、あくまで「法学的な意味の」自由ですから~」という感じで、さくさくと議論を先に進めていける。しかも、その議論は、現に存在し機能している法制度をよりよく機能させるための議論なのですから、大前提として「意味はある」。

しかも、法学、なかでもとくに刑法学という学問は、根っこにある価値観が、リベラリズム、それも(詳しくは知りませんが)古典的リベラリズムといわれる、イギリス庶民(あるいはパンクロック)のような素朴な自由主義思想です。

自分の知的能力を駆使して、素朴な自由主義に基づく分析をすれば、評価され、世の中の役に立つ(らしい)。何と夢のようなことでしょうか。

そういうわけで、私は、非常に消極的な理由で選んだ刑法学の道を歩み続けることになりました。ずっと後になって「カッコがついている」ということの意味を思い知ることになるのですけど。

日本社会の現実を知る

私は刑法学者であると同時に医事法学者でもあります。医療や医学研究の領域では、様々な形で現場と関わる仕事をさせてもらいました。

研究機関の倫理委員会から、研究プロジェクトの法的・倫理的・社会的課題を検討するための委員会、厚生労働省や文部科学省の審議会にも多数参加しました。医療や医学研究に関連する学会などのシンポジウムなどに呼んでいただいて講演をしたり討議をすることもありました。

私に声をかけてくれる方というのは、基本的に、現在の法制度(というより、多くの場合は、インフォーマルな行政指導的規制)に満足しておらず、「なんかおかしいと思うんだけど本当のところどうなの?」「本当に自分たちが妥当だと思うことを正当に実施していくためにはどうしたらいいの?」と思っている方たちです。

そういう方達と一緒に、あるべき姿を考えていく仕事は本当に楽しかった。法学者から見ると、行政の規制のあり方や現場の常識などはツッコミどころ満載なので、「法学的にはここはすごくおかしくて、ほとんど憲法違反」「こうやれば問題ないはず」「ここについては公的な規制がない状況だから、自主的にガイドライン的なものをつくってやっていくのがよい」等々と指摘し、実際にルール案を一緒に考えたりもしました。

「おかしい」という法学者からの指摘は、医学系の研究者の方々にとっては、目から鱗というか「え、ほんと?」という驚きであったようでした。私たちの指摘や提案は、彼らには喜んで受け入れられ、とてもやりがいを持って仕事をすることができました。

しかし、10年以上もそんな仕事を続けると、頭でっかちな法学徒にも、日本の現実が見えてきます。

私たちがどれほど法理論上の誤りを指摘し、みんなを感心させても、現場の状況がまったく変化しないのはなぜなのか。

この間には私自身も少し偉くなり、行政の審議会などで、法案の内容に正面から意見を言える立場になっていました。しかし、ごく標準的な法学的立場に立って意見を述べて、その場にいるほとんどの人を納得させても、はたまた行政官と裏で何度も議論をし、憲法違反の疑いを払拭するために必要な措置を伝え、何度「わかりました」と言わせても、肝心なポイントが修正されることは決してない。いったいなぜなのか。

答えは一つしかありません。

日本の法制度は、日本の社会で通用していないということです。

日本社会は、法学の教科書(=社会科の教科書)に書いてあるのとは異なる、固有のシステムで成り立ち、動いている社会である

もし、これが「近代化の遅れ」であるなら、改善の努力を続ければよいのですが、私一人の経験からも、そんな生やさしいものでないことは、明らかであるように思えました。その上、「民法典等の編さんから約120年、日本国憲法の制定から70余年」が経った2021年に、このシステムはビクともせず、見ようによっては、ますます強まっているように見えるのです。

さて、どうしたものか。

法学を離れる

法学者の中には「法が大好き」という人がいます。近代法の思想に強く惹かれ、それを法制度として機能させることに情熱を抱く人たちです。この人たちは、日本社会に、近代法が定着していないことを知っていると思いますが、「少しでもそれに近づけることが日本社会をよくする道だ」と信じて、活動を続けているのだと思います。

また、東大を出て、とくに優秀な東大教授として名を馳せるような人たちは、日本社会と法理論との齟齬をおそらく熟知していますが(意識化の程度は人によります)、その中でなんとか折り合いをつけることを自らの使命としている人たちといえます。

近代主義の理想との相違をことごとしく非難したりせず、職人的なバランス感覚で落とし所を探るのが彼らの職責です。

私は、法に関心があったわけでも、エリート官僚的なメンタリティで日本社会を導くことに関心があったわけでもなく、単に「社会に興味がある」というだけで法学者になりました。近代法の理想(リベラリズムですね)は、自由を求める若い者には何しろ魅力的なものなので、私もしばらくの間は幻惑され、「法が大好き」という人たちと同じように、「日本社会を少しでもそれに近づけること」に対して、情熱をもって取り組むことができました。

しかし、「教科書に書いてあることって、全部フィクションだったのか」と、おなかの底からしみじみと理解してしまったとき、それでも同じ活動を続けるのは、私には無理でした。

私は不可能なことのために活動することができない人間なのです。ご存知のように、なかには道徳的な感情、価値あるいは善なるものを提唱するだけで満足し、それが実現できるかどうかについては関心をもたない人々がいますが、私はそうではありません。絶望の歌が最も美しい歌であるとは思わないのです。虚空に向かって叫ぶこと、自己満足のためにいくつかの価値を提唱することには、関心がありません。

エマニュエル・トッド(石崎晴己 編)「世界像革命」(藤原書店、2001年)120頁

この状況で、社会科学者である自分のやるべきことは、現実をフィクションに近づけようとすることではなく、現実をよりよく知り、伝えていくことであるように思えました。何より、高校生の自分は、まさに「それ」を知りたかったのですから。

しかし、それはもう刑法学の仕事ではありません。法学とも言えないでしょう。仕方なく、私は仕事を辞めて、現在に至ります。

奇跡に見舞われる

では、法学部に入り、刑法学者になったことを後悔しているかというと、それは全くしていません。

大学を辞めて、歴史とか、経済とか、いくつかの気になる分野を勉強し、同時に、改めて、トッドの理論に取り組みました。そのとき感じた気持ちを、どう表現したらよいのか。

昔、福田恒存が小林秀雄の文章について、「(この文章を)これほど味わうことができるのは自分だけではないかと、これは自惚れとはまったく異なる、深い幸福感のようなものを堪能した」という趣旨のことを書いているのを読んだことがあります。池田晶子さんも小林秀雄について同じようなことを書いていたかもしれない(福田恒存のその文章も引用していたかもしれない)。

「こんなことを言えるなんて、すごいな~」と思っていましたが、いま、私がトッドの理論について感じるのはまさにこれです。

社会に関心を持ちつつ、なりゆきで実定法学者になり、西欧近代の物差しを現代日本にきっちり当てはめてみた。ああすればいい、こうすればいいと言ってやってみても、その目盛り一つがどうしても動かない。その過程で得た認識、経験した感情のすべてが、現在、私がトッドの理論に全幅の信頼を置き、理解し、味わい尽くす下地になっているのです。

おかげで、現在の私は、高校生のときに知りたかったことをすべて知り、その先を考えることができるようになっています。なんてありがたいことでしょうか。奇跡です、奇跡。いや、本当に。大して興味もないのによく法学を選び、研究者にまでなったと、自分を褒めたい気持ちでいっぱいです。

他の領域で研究をしていたとしたら、おそらく、文理を問わず、社会に一定の関心がある真面目で良心的な人々のほとんど全てが抱いているリベラリズムの夢ないし幻想を完全に捨て切ることはできなかったでしょう。

ちょっとおかしいと思いつつ、「合理的な」提案をし、変える努力をして、変わらないと嘆くことを繰り返す。そんな知識人であり続けたと思います。

いま、そこら辺から外に出て、次に進むことがとても大事だと思うので、準備ができている人たちと一緒に、それをしようと思います。

その第一弾が、エマニュエル・トッド入門講座です。

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昭和の戦争について

1 はじめに

昭和の日本が、勝ち目のない戦争を始めた(そしてなかなかやめなかった)のはなぜか、というのは、分野を問わず、社会科学者にとっては重たい問いである。私自身はエマニュエル・トッドの移行期危機の理論1トッドの本のあちこちに出てくる。エマニュエル・トッド ユセフ・クルバージュ(石崎晴己 訳・解説)『文明の接近 イスラーム VS 西洋 の虚構』(藤原書店、2008年)58頁以下等(ざっくりいうと「近代化に伴う心性の混乱のせいである」)で、ある程度納得していたが、幕末から明治にかけての動乱がトッドのいう「ストーンの法則」(「男性識字率が50%を超える頃に近代化革命が起きる。後でもう一度触れるので典拠はそちらで)によってしみじみと納得できるのと比べると(今年の大河ドラマ「青天を衝け」の描き方は見事だった!)、どうしてあの時代に、ああいうかたちで暴発したのかを説明できないのはちょっと弱いな、とも思っていた。

日本社会の心の傷であるような現象について理由がピンとこないのはよいことではない。「将来また同じようなことをしてしまうのではないか」と不安だし、実際、いわゆるリベラルの知識人の人たちは始終「あの戦争のときと同じ空気」のようなことを言って市民を脅かしている(私もやったことがある)。

それとこれとは多分違うので、違うとはっきり言えた方がいいんだけどなあ、と漠然と思っていたところ、この夏の読書(ジョン・ダワー「吉田茂とその時代(上・下)」中公文庫、1991)をきっかけに「あ、それか!」というところまで分かり、私としてはすっかり納得できてしまったので、書きます。

2 吉田茂と戦争

上の本を読んで「へー」と思ったことが二つあった。一つは、敗戦時点で吉田茂は67歳のおじいさんだったこと、もう一つは、吉田は全然開戦に賛成しておらず、始まってからも早く終わらせたいとヤキモキしていたのだが(ここまでは別に「へー」ではない)、このときに吉田の周辺にいたじいさん仲間たち一同が、戦争を主導していた陸軍の軍人たちをまったく信用しておらず、「過激派」「赤の巣窟」くらいに思っていたということである2吉田が日本の再軍備に一貫して消極的だったのは、おそらく「いま再軍備をしたら、またあいつらがロクでもないことを仕出かすに決まってる」ということでもあったのだ。ジョン・ダワー「吉田茂とその時代(下)」(中公文庫、1991年)150頁以下参照(上のカギカッコは引用ではありません)

東京裁判でA級戦犯に指定された人たちの生年は1867年から1895年(敗戦時点で78歳から50歳)で、一番多いのが80年代生(65-56歳)である。要するに中高年ばっかりだったので3日暮吉延『東京裁判』(講談社現代新書、2008)107頁。これは、戦犯の指定が「知名度」重視で、「大物」責任者を選ぶという方針で行われたためだという(同101頁)、私も何となくそういう年代の人たちが日本を戦争に引き摺り込んで大勢の若者を犠牲にした、と思っていたような気がするが、「ちょっと違うな」と感じた。

昔、やはり夏休みに、川田稔「昭和陸軍全史(全3巻)」(講談社現代新書、2014年)を読んで、陸軍の人たちとしてはもう突っ走るしかなくなっていた感じをひしひしと感じ、「近衛、なんとかしてやれよ!」などと思ったものだが、近衛文麿のような年寄り(とはいえ1891年生(敗戦時54歳)だから吉田よりはだいぶ若い)に止められるようなものではなかったのかもしれない。この辺の「感じ」から、調査を開始した。

3 世代の差

満州事変から二・二六事件、盧溝橋事件後の日中戦争突入、太平洋戦争に至る時期の中心人物について、吉田茂との世代の差を確認しておこう。

吉田茂は1978年生、吉野作造と同じ歳で、美濃部達吉(1873年生)よりちょっと若い。マルクス主義が流行する以前に大学を卒業し、英国流のリベラリズムにシンパシーを持つ「オールドリベラル」の世代だ。

満州事変(1931年)の首謀者である陸軍軍人たちは、これより7-10歳くらい若い。板垣征四郎が1885年生、石原莞爾は1889年生である。盧溝橋事件後の対応を巡り、石原との抗争に勝利して実権を握るようになったのは、石原より少し若い武藤章(1892年生)、田中新一(1893年生)らで、彼らは太平洋戦争に至るまで陸軍の中心であり続ける4この辺の情報は、川田『昭和陸軍全史』2巻と3巻を参照

二・二六事件(1936年)に参加した人たちはもう一段若く、中心は1900年代生。対米開戦の時期には、この世代も幹部クラスの一翼を担っている。開戦を決めた時の陸軍の中心人物としては、武藤、田中の他に、服部卓四郎(1901年生)の名が挙がる。ちなみに、服部は昭和天皇と同じ年である(天皇も若かった!)。

吉田から見て、この人たちが「信用できない過激派」に見えた理由はおそらく二つあって、一つは、彼らがマルクス主義などの(当時でいう)革新思想の洗礼を受けた世代であるため5「マルクス全集」の一冊として資本論の翻訳が出版されたのは1920年で、1920~30年代に「膨大な量のマルクス主義文献の翻訳がなされた」(丸山眞男「「戦前日本のマルクス主義」英文草稿」(丸山文庫所蔵未発表資料翻訳)106頁(1963年の講演草稿。https://twcu.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=20182&file_id=22&file_no=1)らしいので、この時期にマルクス主義が大流行になったと見ていいだろう。1900年前後から一般に知られはじめ、1910年に幸徳秋水の事件があって下火になったりしつつもじわじわ普及し、大正デモクラシーの波にも乗って、1920年頃にはごく普通に学術的な研究の対象となるくらいに流行してきたという感じか、もう一つは、後で述べるように、彼らが戦後でいえば「団塊の世代」的に人数が多く、かつ、大学の大衆化が始まりかけた時代の若者たちだったためである。

4 近代化と人口

人口学の二つの理論が、今回の探究の鍵になった。歴史人口学などの学問は、過去の統計的数値を復元することで、歴史上の出来事を(疾患の原因を探るときの)疫学研究のようなやり方で研究することを可能にしている。こういう手法は、戦争や虐殺のような「非常識な」事象の解明にはとくに有益であるように思われる。

(1) 人口転換(demographic transition)

人口転換の理論とは、近代化は「多産多死」から「少産少死」への転換を伴うというもので、人口学における最重要理論の一つとされる6河野稠実『人口学への招待 少子・高齢化はどこまで解明されたか』(中公新書、2007年)107頁は「人口学では数少ないグランド・セオリー(大理論)である」とし、Sarah Harper, Demography, A Very Short Introduction, Oxford University Press, 2018, p55は「one of the centrepieces of demography」としている。 

この理論によると、近代化の過程で、社会は必ず「死亡率の低下」と「出生率の低下」を経験する。ただし、両者の間にはタイムラグがあって、死亡率が先に低下し、出生率はその後しばらくしてから低下する。日本の場合も、死亡率は19世紀末から低下しているが、出生率が下がるのは1950年頃からである。

人口転換の過程(タイムラグの期間)にある「低い死亡率+高い出生率」の期間には、当然、人口が増える(「人口爆発」といわれる)。死亡率が下がっているところに(死亡率低下の局面では乳幼児死亡率の低下がとくに大きいとされているようである)、高い出生率が維持される、ということは、変わらずたくさんの子どもが生まれてくるわけなので、人口の中で若年者の割合が高くなる。人口爆発とはさしあたり「若年人口爆発」なのである。

近代化の過程における「若年人口爆発」的な時期を、日本は、戦前と戦後の2度に分けて経験している。1度目は1870年以降から戦争終結直前までの時期である。近代日本の人口は、1800年に3030万人だったのが1850年は3220万人と19世紀前半は「微増」であったが、後半以降加速的に増え、1870年から1936年の間に2倍になった(3470万→6925万)7主にStatistica.com調べ。1936年のデータは 内閣府「平成16年版少子化社会白書」4頁

戦後の増加は、いわゆる「ベビーブーム」に始まる。まず1947年-49年のベビーブームがあり、死亡率がさらに低下し、ベビーブーム世代が成長して大規模な出生集団を構成したことで勢いが増し、1945年から1976年までの間に7700万人から1億1400万人に増加している8河野・前掲113頁以下など参照

(2) ユースバルジ

若年層の人口が急激に増えると何が起きるか。それを教えるのが、人口学や政治学などの論者が提示している「ユースバルジ(youth bulge)」の理論である。

直訳は「若年層の膨らみ」だが、「bulge」は人口ピラミッドから来ている言葉だと思われるので、「団塊の世代」というときの「団塊」とおそらく同じ語源である9自身の小説の中でこの世代を「団塊の世代」と名付けた堺屋太一は「通常ごく安定的な動きをする人口増においては、これほどの膨みはきわめて異常なものであり、経済と社会とに大きな影響を与える」と書いているそうである(日本大百科全書(ニッポニカ)[三浦 展]による)。話は単純で「若者が増えると暴力的な騒動が起きる」。それもしばしば想像を絶するほどに激しい、残虐な事件が発生するというのである。

1983年から2009年のスリランカ内戦では、シンハラ人とタミル人の相互で虐殺事件が発生し、内戦全体では数万から十数万の人が死亡したとされている。各事件の調査を行ったアメリカの政治学者ゲイリー・フラー(Gary Fuller)が出した結論は、残虐行為に大きく寄与したと見られるのは、飢えや医療の不足といった要因ではなく、若者人口の急増である、というものだった10グナル・ハインゾーン『自爆する若者たち 人口学が警告する驚愕の未来』(新潮社、2008年)63-64頁

「ユースバルジ」という概念を紹介している英文記事などによると、18世紀のフランス(→フランス革命)、1914年頃のバルカン諸国(→第一次世界大戦)、1930年頃の日本(→中国侵略 この件は後で詳しく検討します)、1970年代と80年代のラテンアメリカ(→マルクス主義革命)などにその例が見られるとされているという11Lionel Beehner, The Effects of ‘Youth Bulge’ on Civil Conflicts(April 13, 2007 3:23 pm (EST))https://on.cfr.org/2Fe2bKb @CFR_org(典拠とされているのは Jack A. Goldstoneの仕事(私は読んでいません))。翻訳が出ているハインゾーンによれば、16世紀から17世紀(1550年~1650年)のイギリス(→ピューリタン革命)1700年から1800年の間のアメリカ(→独立革命)、1897–1913年のロシア、ワイマール共和国時代のドイツなどがその例であり近年は中東、中央アジア、アフリカが、若年人口の爆発期を迎えている。

ただ、若者が大勢いれば常に暴力が生まれるというわけではない。例えば、日本では、1980年代後半から1990年頃の間にも、団塊ジュニアが15歳から25歳くらいを構成するユースバルジ的状況があった(私もその一員)。もしかするとこの状況がバブル期の空騒ぎの要因であったかもしれないが、騒動はあくまで平和的なものにとどまっていた。

そう考えると、「ユースバルジ」(若年者人口の急増)という数量だけの説明では「惜しい」感じが否めない。その過程で人口爆発をもたらす「人口転換」とは要するに「人口の近代化」だというのだから、ここは「近代化とは何か」という問いと結びついたより深い解釈を聞きたい気がする。

(3)トッドの議論との接合

そう、それを行ったのが、エマニュエル・トッドなのである。歴史学者でありかつ人口学者であるという背景がそのような仕事を可能にしたのだと思われる。

人口学の主流は、近代化そのものの発生因については通りいっぺんの関心しか示さない。主流の「なぜ」は、産業革命を契機に経済的に豊かになるとなぜ死亡率が低下するのか、なぜ出生率の低下がその後に起こるのか、という狭い問題に向けられ、近代化とは経済の向上がもたらすものだという常識が問われることは少ない12人口転換は経済的諸条件とは無関係に発生し、経済が人口に与える影響よりも人口が経済に与える影響の方が大きいという見方を取るものとして、Tim Dyson, Population and Development, 2010, Zed Books Ltd, London, NY.(序文の一部しか読んでいません) (ようである)。

しかし、エマニュエル・トッドの研究成果を手にしている私たちは、この説明では満足できない。冒頭でも触れたが、トッドは、ストーンの発見(イギリス革命、フランス革命、ロシア革命のすべてが成人男子の識字率が50%前後の時期に起きたことを指摘した)に着想を得て13ストーン自身は「3分の1から3分の2の間」と幅を持たせている。Lawrence Stone, Literacy and Education in England, 1650-1900, Past and Present, 1969, p138、識字率上昇こそがもっとも重要な近代化の動因であることを明らかにした(エマニュエル・トッド「世界の幼少期ーー家族構造と成長」『世界の多様性』(藤原書店、2008年)所収)。産業革命が起こるのはその後なのだ。

トッドは、識字率上昇に伴うメンタリティの変化こそが近代化を導いたという仮説を立て、近代化のシークエンスを概ね次のように定式化した14エマニュエル・トッド『アラブ革命はなぜ起きたかーーデモグラフィーとデモクラシー』(藤原書店、2011年)29頁以下等参照

男性識字率50%越え→政治的危機(民主化革命)→産業革命

女性識字率50%越え→出生率低下

その上で、近代化の過程で、虐殺や内戦による大量の人間の死が発生する理由については、以下のように説明している。

「文化的進歩は、住民を不安定化する。識字率が50%を越えた社会とはどんな社会か、具体的に思い描いてみる必要がある。それは、息子たちは読み書きができるが、父親はできない、そうした世界なのだ。全般化された教育は、やがて家庭内での権威関係を不安定化することになる。教育水準の上昇に続いて起こる出生調節の普及の方は、これはこれで、男女間の伝統的関係、夫の妻に対する権威を揺るがすことになる。この二つの権威失墜は、二つ組み合わさるか否かにかかわらず、社会の全般的な当惑を引き起こし、大抵の場合、政治的権威の過渡的崩壊を引き起こす。そしてそれは多くの人間の死をもたらすことにもなり得るのである。」

エマニュエル・トッド ユセフ・クルパージュ『文明の接近 「イスラームVS西洋」の虚構』(石崎晴己 訳・解説)(藤原書店、2008年)59頁

トッドのこの説明は、人口転換の理論(死亡率低下→人口爆発→出生率低下)と完全に整合的であり、死亡率低下に遅れて起こる出生率低下を、女性識字率の上昇から説明できる点も魅力的である。さらに、識字率上昇という、時間的に政治的危機より産業革命よりもちろん死亡率低下より早く発生する現象によって、その先の顛末が予測できるのも好ましい。

トッドの理論には、若年人口の急増という要素は組み込まれていないのだが、「ユースバルジ」の項目で挙げた例のように、トッドのいう「移行期危機」の中で発生する個々の具体的な事件の発生時期はこれで説明できるのかもしれない。日本の戦争は、どうだろうか。

5 学園紛争、70年安保

わかりやすい方から行こう。1968年頃から日本中の国立・私立大学に吹き荒れた嵐の主体は、ベビーブーマーたちだった。明治維新からちょうど100年、出生率が安定的に低下傾向を示し、人口転換がほぼ完了したと見られるこの時期に、「団塊」の若者たちの暴発が大学紛争という形を取ったのは、高等教育の拡大(大学進学率の急上昇)が関係していると思われる。

1955-60年の間15%前後で推移した大学進学率は、60年代に20%を、71年に30%を超え、74年には40%超えとなる。大学+短大進学者の人数は、1955年の13.2万、1960年の15.5万人が1971年には約2倍の30.6万人になった15広島大学高等教育研究開発センター・高等教育統計データ集(サイトよりデータをダウンロード)https://rihe.hiroshima-u.ac.jp/publications/statistical_data/

ベトナム反戦運動から学園紛争、70年安保に至る一連の騒動は、近代化の最終局面において、大学という場に大量の若者が供給され、エリート主義を体現する大学(や政府)と「大衆」である若者たちの間に軋轢不和葛藤が噴出したことで発火したユースバルジ現象と見ることが可能であり、説得力もあると思われる。

なお、学生運動としては、60年安保との関係も視野に入れておきたい。1960年の18-20代前半の若者たちは、68年には及ばないが、それなりの「バルジ」を構成していた(下の人口ピラミッドは1960年のデータ。10年後の若者のバルジもわかります(英語版Wikipediaの項目「Demographics of Japan」より))。

大学進学率もそれ以前から増加傾向であり、パーセンテージはなお「エリート」的といわれる段階にとどまっているものの、「親は大卒ではないが子どもは大学に行っている」層が確実に増えていた時代である。この時期には、まだ(比較的には)エリートであった学生を主体に、安保闘争が闘われた。それが10年後には、より多くの若者、より多くの大学生による、大規模で大衆的な学園紛争に発展する。

6 昭和の戦争

いよいよ昭和の戦争である。4(1)で述べたように、日本の人口は1870年以降から戦争終結直前までの間に大幅に増加し、1930年の人口ピラミッドはこんな感じになっていた(これも英語版Wikipediaより)。 

実は1920-40年も高等教育の拡大期で、吉田茂の頃には1%未満だった就学率が1920年1.6%、1940年には3.7%に上昇している16伊藤彰浩「高等教育機関拡充と新中間層形成」『シリーズ 日本近現代史 構造と変動 3 現代社会への転形』147頁(数字の典拠は、文部省『日本の教育統計 明治ー大正』(1971年)19頁(私は確認していません))。これは支配階級のじいさんたちに「最近の若い奴らはバカで粗暴で…」と嘆かせるには十分であったかもしれないが、社会全体からみるとまだまだ少ない。

この時期に、若い人間が大挙して押し寄せ(あるいは連れ込まれ)ていたのは、軍隊である。

軍人の数は、日露戦争後や満州事変後にはそれほど増えていない(1910-18年の平均が299,600人、19-30年が306100人、31-36年が324,100人)。しかし、日中戦争が始まる頃から急激に増加を始め、1937年には陸軍だけで95万人(全体では100万人超)、軍全体で1943年358万人、44年540万人、45年には734万人にまで膨れ上がっていた17渡邊 勉「誰が兵士になったのか(1) : 兵役におけるコーホート間の不平等」関西大学社会学部紀要119号8頁参照(数字の典拠は『日本長期統計総覧』(私は確認してません))軍人の数についてはこちらの記事(竹田かずきさんの「日本の軍人の数〜軍人の数から戦争を見る〜」)もぜひご覧ください(サイトはこちら。45年の人口で単純に割ると、軍人の数は全人口の10%を超えている計算になる。もちろん、増やしたから増えたのだ。増やした結果、ともかくこの時期には、大勢の若者が軍(とくに陸軍)に集結するという状況が生じていた。

日中戦争が始まって間もない1937年12月に起きた南京事件は、昭和の戦争が、「大物」が若者を巻き込んだというより、若者たちに引きずられるようにして泥沼化していったことを例証している事例のように思う。略奪や強姦、虐殺を含む乱暴狼藉の全ては陸軍の首脳部や現場の上級将校が指示してやらせたものではない。勝手に起きたのだ。現場の上層部はむしろ規律を命じていたし、陸軍首脳部は外務省から事件の詳細を聞いて嘆き慌てていたのだから18秦郁彦『南京事件 「虐殺」の構造(増補版)』(中公新書、2007年)14頁、100頁、171-2頁等。同書では「陸軍は体質的に国際感覚が乏し」く、陸軍中央部が慌て始めたのは、兵士たちが外国公館への侵入・略奪を始めたために国際問題化したり、作戦に影響が出るようになってからであったことも指摘されている

満州事変(1931年)を主導したのは革新的思想を持つエリート軍人たち(石原莞爾など)だった。1937年に盧溝橋事件が起き、対中強行姿勢を取る者たちに軍の主導権が移ったとき、彼らの下には100万人近い若者たちがおり、その数はその後短期間の間に加速度的に増えていった。

近代化と移行期危機に関するトッドの定式化、その一部に組み込むことができる「ユースバルジ」の理論を手にしてこの状況をみると、日本が無謀な戦争に突入「せざるをえなかった」理由はほぼ明らかであるように思われる。

近代化という大きな変化の渦中、「団塊」の若者たちのエネルギーが充満する社会で大量の青年たちが軍に集められ、そこに「戦うか、戦わないか」という選択肢があったら、開戦は止められない。彼らがそこにいて、数を増やしている限り、止めることも容易ではないだろう。たぶん、地下に溜まったマグマが上昇を始めると噴火のメカニズムが始動し、プレートの歪みが限界に達すると地震が起きる、というのと同じようなことなのだ。

7 おわりに 

そういうわけで、昭和の戦争は、学生運動と同じようなメカニズムで発生したものであり、思想信条や社会の仕組みとは直接的な関係はない、というのが、現在の私の考えである。

もちろん、背景には、教科書や各種歴史書に書かれているような事実があり、思想や風潮があった。しかし、それらの事実と「無謀な」戦争や残忍な虐殺・強姦事件との間には埋めがたい距離がある。大抵の場合、私たちはその距離を、当時の人たちの倫理的または知的な愚かさを仮定することで埋めているのだが(だからこそ「過ちを繰り返さない」などと言えるのだ)、それは倫理的にも知的にも不当なことだと思う。

男子として当時の日本に生まれ、20歳で南京に送られていたら、私は、非常に高い確率で、虐殺や強姦に加担していただろう。28歳で上官に意見を聞かれたら「戦うしかない」と言い、50歳で責任ある立場にあったら、なすすべもなくオロオロしていたはずである。そして(生きて帰ったならば)後に自分のしたことを振り返り、親を敬い妻子を愛し仲間に親しむ自分がいったいなぜあのようなことをしたのか、理解できずに呆然としたに違いない。

私たちがいま戦争や虐殺や暴動に参加せずに済んでいるのは、倫理的・知的に進歩しているからでも、民主主義や平和憲法を維持しているからでもなく、(諸条件により)社会の深部にそれだけの量のマグマが溜まっていないからにすぎない。人間はいつどこに生を受けるかを選べない(多分そうだと思う)。ということは、それはほとんど偶然のようなものなのだ。

人類学や人口学によって得られるこのような視点は、大袈裟にいえば「救い」である、と私は思う。「裁く」ことなく、過去の非行に向き合うことを可能にしてくれるのだから。

このように歴史(現在を含む)を見ることは、世界平和の基礎にもなるはず、と私は信じているが、詳しくはまた別の機会に。

あと「マグマが暴れ出したら呑み込まれる以外にない、というのでは、理想や倫理などというものは成りたたない。人間が生きる意味すらなくなってしまうのでは?」と感じる人もいると思うが、この点も別の機会に書きます。

(おまけ) アメリカ側の事情

日本側に理由があったのは間違いないとして、戦争をするには相手が必要である。当時の戦争は、最近の中東や中央アジアでの戦争のような、地上では現地の傭兵を使い米兵はドローンや航空機の操作のみ(なのか?)、といったものとは違うはずである。

大変に規模の大きい戦争を4年近くも戦ったということは、アメリカの方にもそれなりの素地があったのではないか、と思って調べてみた。アメリカの人口は、最初が少ないので(1610年で350人)そこからずっと増え続けており(面白いのでwikiなどでグラフをご覧になって下さい。、本文で触れたように、18世紀の増加は独立戦争に寄与したことが指摘されているが、人数的には1850年頃からの伸びが著しい。1850年の2320万人が1880年には2倍以上(5020万)、1920年にはさらにその倍(10600万)になり、1940年には13220万人に達している。年齢の中央値は1940年時点で29歳なので、当時の日本(22歳)ほどではないが、まだまだ若かった。

ちなみに、アメリカは今でも、老化が進む先進国(ヨーロッパは軒並み(中央値が)40歳代を超え、日本なんか48.36歳!)の中では比較的若さを保っており、38.31歳、ということは、タイ(37.7歳)や中国(37.4歳)と変わらない。人口もまだまだ増えていて、2020年には3億3145万人に達している。

それがあのいつまでも好戦的な感じにつながっているのかはよくわからない。アメリカのことはとにかくよくわからないので、いつか何か書くと思う。

  • 1
    トッドの本のあちこちに出てくる。エマニュエル・トッド ユセフ・クルバージュ(石崎晴己 訳・解説)『文明の接近 イスラーム VS 西洋 の虚構』(藤原書店、2008年)58頁以下等
  • 2
    吉田が日本の再軍備に一貫して消極的だったのは、おそらく「いま再軍備をしたら、またあいつらがロクでもないことを仕出かすに決まってる」ということでもあったのだ。ジョン・ダワー「吉田茂とその時代(下)」(中公文庫、1991年)150頁以下参照(上のカギカッコは引用ではありません)
  • 3
    日暮吉延『東京裁判』(講談社現代新書、2008)107頁。これは、戦犯の指定が「知名度」重視で、「大物」責任者を選ぶという方針で行われたためだという(同101頁)
  • 4
    この辺の情報は、川田『昭和陸軍全史』2巻と3巻を参照
  • 5
    「マルクス全集」の一冊として資本論の翻訳が出版されたのは1920年で、1920~30年代に「膨大な量のマルクス主義文献の翻訳がなされた」(丸山眞男「「戦前日本のマルクス主義」英文草稿」(丸山文庫所蔵未発表資料翻訳)106頁(1963年の講演草稿。https://twcu.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=20182&file_id=22&file_no=1)らしいので、この時期にマルクス主義が大流行になったと見ていいだろう。1900年前後から一般に知られはじめ、1910年に幸徳秋水の事件があって下火になったりしつつもじわじわ普及し、大正デモクラシーの波にも乗って、1920年頃にはごく普通に学術的な研究の対象となるくらいに流行してきたという感じか
  • 6
    河野稠実『人口学への招待 少子・高齢化はどこまで解明されたか』(中公新書、2007年)107頁は「人口学では数少ないグランド・セオリー(大理論)である」とし、Sarah Harper, Demography, A Very Short Introduction, Oxford University Press, 2018, p55は「one of the centrepieces of demography」としている
  • 7
    主にStatistica.com調べ。1936年のデータは 内閣府「平成16年版少子化社会白書」4頁
  • 8
    河野・前掲113頁以下など参照
  • 9
    自身の小説の中でこの世代を「団塊の世代」と名付けた堺屋太一は「通常ごく安定的な動きをする人口増においては、これほどの膨みはきわめて異常なものであり、経済と社会とに大きな影響を与える」と書いているそうである(日本大百科全書(ニッポニカ)[三浦 展]による)
  • 10
    グナル・ハインゾーン『自爆する若者たち 人口学が警告する驚愕の未来』(新潮社、2008年)63-64頁
  • 11
    Lionel Beehner, The Effects of ‘Youth Bulge’ on Civil Conflicts(April 13, 2007 3:23 pm (EST))https://on.cfr.org/2Fe2bKb @CFR_org(典拠とされているのは Jack A. Goldstoneの仕事(私は読んでいません))
  • 12
    人口転換は経済的諸条件とは無関係に発生し、経済が人口に与える影響よりも人口が経済に与える影響の方が大きいという見方を取るものとして、Tim Dyson, Population and Development, 2010, Zed Books Ltd, London, NY.(序文の一部しか読んでいません)
  • 13
    ストーン自身は「3分の1から3分の2の間」と幅を持たせている。Lawrence Stone, Literacy and Education in England, 1650-1900, Past and Present, 1969, p138
  • 14
    エマニュエル・トッド『アラブ革命はなぜ起きたかーーデモグラフィーとデモクラシー』(藤原書店、2011年)29頁以下等参照
  • 15
    広島大学高等教育研究開発センター・高等教育統計データ集(サイトよりデータをダウンロード)https://rihe.hiroshima-u.ac.jp/publications/statistical_data/
  • 16
    伊藤彰浩「高等教育機関拡充と新中間層形成」『シリーズ 日本近現代史 構造と変動 3 現代社会への転形』147頁(数字の典拠は、文部省『日本の教育統計 明治ー大正』(1971年)19頁(私は確認していません))
  • 17
    渡邊 勉「誰が兵士になったのか(1) : 兵役におけるコーホート間の不平等」関西大学社会学部紀要119号8頁参照(数字の典拠は『日本長期統計総覧』(私は確認してません))軍人の数についてはこちらの記事(竹田かずきさんの「日本の軍人の数〜軍人の数から戦争を見る〜」)もぜひご覧ください(サイトはこちら
  • 18
    秦郁彦『南京事件 「虐殺」の構造(増補版)』(中公新書、2007年)14頁、100頁、171-2頁等。同書では「陸軍は体質的に国際感覚が乏し」く、陸軍中央部が慌て始めたのは、兵士たちが外国公館への侵入・略奪を始めたために国際問題化したり、作戦に影響が出るようになってからであったことも指摘されている