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戦時下日記

戦時下日記(5) 岸田政権、イーロン・マスクとタッカー・カールソン

目次

12月20日(火)政権支持率低下

岸田内閣の支持率低迷。防衛費増額のための増税(あくまで「増税」)「支持しない」が64.9%。支持率は33.1%(共同通信)。

支持率が低迷するのは分かるが、現政権が今の日本が選択可能な政権としては比較的ましだという気持ちは変わらない。

テレビで子育て中の女性が「子育て支援はなかなか決まらなくて、防衛費はあっという間に決まる」と嘆いていて、もっともだが、「あっという間に決まる」のは、選択の余地がないからだろう。

リベラル系の論客の人たちが軍拡について岸田首相を批判しているのを見ると「本当に岸田首相の判断で左右できる問題だと思っているのか? アホなのか?」と言いたい気持ちを抑えられない(言ってる)。

現今の情勢においてアメリカが押し付けてくるものを日本が拒否できるはずがない(ドイツ関連で前回も少し書きました)。

強くて抵抗できないからというより、覇権が崩れかかって、異常に不安定になっているからだ。

いまは静かにアメリカの覇権が崩れ落ちていくのを待つしかないと思う。そのときとはおそらく自民党政権が終わるときだが、それまで自民党にできることはあまりない。「そのとき」に生じる被害をこれ以上大きくしないというのがせいぜいで、そういう仕事で頼りになるのは(日本の場合)政治家というよりは官僚だから、官僚に任せられる人がいい。

こんなとき、目立ちたがり屋のお調子者がトップに立つと何をするかというと、たぶん、日本を売るだろう。何かやったフリをして目立ちたければ、必要以上にアメリカのいうことを聞いて、褒めてもらう以外にないからだ(何人かの顔が思い浮かぶ)。

だから、今は岸田政権でいいと私は思う。

志のある人には、自民党を倒すことなど考えなくていいから、その先を見据えて力を蓄えてほしい。

・・・

とはいえ、私もここまでクールな見方をするようになったのはごく最近だ。ウクライナについて西側の様子がおかしいので焦って勉強し、開戦までの経緯、とくにドンバスの内戦について知ったことが大きい。

古き良きアメリカも、新しくて魅力的なアメリカも今はもうない。アメリカがこの先、国家として成り立っていけるのかも疑わしいと思う。

12月21日(水)イスラエル

数日前からイスラエルがシリアを爆撃していることが報道されている。イスラエルはいつもシリアかパレスチナを爆撃しているのだ。

イスラエルはネオナチ的勢力が非常に強くなっている様子。米英は、中国やロシアのような統制の利いた社会を怖がるけれど、今のウクライナ、イスラエルに出現しているような極端な民族差別主義は平然と受け入れられるみたいで興味深い。

多分、家族システムと関係があると思う。

12月22日(木)プーチン、メドヴェージェフ、ゼレンスキー

ここ2日くらいの間に、プーチンがベラルーシを訪問してルカシェンコに会い、メドヴェージェフは中国を訪問して習近平に会い、ゼレンスキーはワシントンを訪問している。

まもなく非常に激しい攻撃が行われる兆しでは、という見立てをいくつか見る。

違いない。

中国の報道(環球時報とかCGTNとか)を見ていると、中国が関与しているかどうかに関わらず「誰が誰に会った」「誰と誰が会談した」というニュースがとても多い。それが政治というものなのだろう。  

12月23日(金)雪

天気予報に反して広島市内でも大雪。

犬と一緒だと雪の日は最高に楽しい。「雪」(雪やこんこ♪)の歌詞は本当で、ほとんどの犬は大喜びでかけ回っている。犬は決して転ばないけど(四本足は偉大なのだ)、人間はちょっと危ない。

12月26日(月)アメリカの平均余命

アメリカで平均余命が激しく下がっている。何が起きているのか。

 

ちなみに乳児死亡率はほぼ横ばいだった。

12月29日(木)

数日前にヘルソンへの攻撃が強まっているとNHKが報道していたが、とにかく攻撃が強まっているらしい。Kievでも、ほかでも。

12月30日(金)イーロン・マスクとタッカー・カールソン

Twitterファイル(最新のはこれ)は、twitterやその他SNSを通じた米国の情報操作についていろいろ暴露してくれているけど、イーロン・マスクがそれをやらせているという事実をどう考えていいのかよく分からなかった。

あと、FOXニュースのタッカー・カールソンが、私が独立系メディアから集めているような情報をテレビでバンバン報道していて、これもどう理解したらいいのか分からなかった。

今でもよくは分からないのだが、参考になる意見を目にしたので、書き留めておく。

手の込んだプロパガンダだということは間違いなさそう。

米国の右派は数年おきにディープ·ステートと密接なつながりを持つ億万長者の中からディープステートと戦うポピュリストのヒーローの役目を演じる者を世に送り出す。以前それはトランプだった。今はマスクだ。しばらくすれば別の誰かに変わるだろう。しかしそれは誰かが戦っているように見せかけるためのショーに過ぎない。

トランプとマスクはどちらもヒラリー·クリントンが共和党支持者を激昂させたのと全く同じやり方で対立する党派を大騒ぎさせ、激怒させる。実際には、マスク、トランプ、クリントンはみな民主党と共和党の双方が力を合わせて守っている既得権層に仕えているのだ。

すべては、自分たちの苦境に全く関心を示さない支配者に怒りを募らせているアメリカの不満分子に対して、彼らを代表して戦っている者がいると見せかけるための演出にすぎない。拍手喝采するヒーローを与えておけ、そうすれば奴らは自ら立ち上がって戦うことはない。

一方の党派を代表するピカピカの飾り物に怒りを向けさせることによって、そのピカピカの飾り物に対する支持ないし不支持という形で人々の関心を党派対立に繋ぎ止める。こうして全ての人を主流派の世界観の中に閉じ込めるのだ。

彼らは批判を封じ込めるだけでなく、批判の封じ込めに対する批判も封じ込める。それがAOC[Alexandria Ocasio-Cortez:民主党の政治家]/Bernie[Sanders]/TYT[the Young Turks:進歩派のニュースショー]であり、MAGA[Make America Great Again:共和党内のトランプ派]/タッカー・カールソン/マスクの役割だ。彼らは既得権層と戦っているフリをしながら、実際にはそれを守っているのだ。

イーロン・マスクについてはMintPress Newsのこの記事を読むのがよさそう(私はまだ読んでいません)。

「イーロン・マスクはアウトサイダーの反逆者ではない。ペンタゴンの強力な請負人だ」

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社会のしくみ

日本史概観(3)
-鎌倉幕府、二つの動乱、直系家族国家の誕生-

鎌倉幕府ー綱引きが始まった

(1)源頼朝ー朝廷と並び立つ武家政権の確立

平氏が朝廷を乗っ取って(最終的に)討たれたのに対し、東国に拠点を築くことで、天皇家と武家が並び立つ時代を現出させたのが源氏である。

源氏も天皇家の出身だから元々は畿内(西)の出だが、房総を舞台とした平忠常の乱(1028)の鎮圧に乗り出したのをきっかけに東国に進出したという。

以後、東国の武士団との主従関係を強め、着実に勢力を築いた源氏は、頼朝の下で平氏を討伐した後、弟義経を排斥(これをやらなければならなかったのはまだ長子相続の習慣が確立していなかったからだ)、上皇も黙らせて、武家政権としての鎌倉幕府を確立させる。

(2)北条氏ー直系家族の誕生

鎌倉幕府を本当に軌道に乗せたのは北条氏であるが、日本における直系家族誕生の瞬間に立ち会ったのも北条氏ではないかという気がする。

北条氏は現在でいえば総理大臣に当たりそうな「執権」の地位を世襲するが、やがて執権の地位は飾り物となり、権力は北条の家督を継ぐ嫡流の当主「得宗」に集中していく。天皇家の権力が家長としての上皇に集中したようなもので、父系の権威が強まったことの現れといえる。

*なお、得宗の地位は概ね長子に受け継がれているが、長子の死没以外に、側室の子を避けて次男の時宗が継いだ例がある。「側室の子は差別される」というと女性が低く扱われているような感じがするかもしれないが、そうではなく、この場合、(父親の家系ほどではないにせよ)母親の家系「も」重視されていることを示唆している。つまり、重要性において父親と母親(男性と女性)を区別しない双系性の名残りであり、どちらかというと、父系直系家族の未完成を示すものと考えられる。

北条はまた、泰時(坂口健太郎だ)の時代に御成敗式目(1232年)も作っている。

天正2年(1574年)写本
https://archives.pref.kanagawa.jp/www/contents/1551940097112/index.html

御成敗式目は律令の影響を受けない武家初の成文法典である。室町幕府には基本法典として継承され、江戸時代には武家の道理を教える子供向けの教科書として用いられたというから、武家版十七条憲法のような位置付けかもしれない(当初の条文はその3倍の51箇条である)。

メソポタミアにおいて(中国でも)直系家族の誕生は国家の誕生であり、文字と法律の誕生でもあった。北条における直系家族や武家法の成立を見ると、この時期こそ、日本における(大陸の影響を抜きにした)自律的な国家生成の時期だったのではないかと思われるのである。

(3)承久の乱ー「地物」の優位が確定

北条において直系家族の権威が生成中であったと考えると、この時期に、朝廷のトップであった後鳥羽上皇と北条義時がぶつかり、上皇側が挙兵するという事件が起きたのは「必然的だった」と言いたくなる。

1221年、今なら勝てると踏んだ後鳥羽上皇は義時追討の宣旨を出し、鎌倉に兵を差し向ける。しかし、期待に反して幕府への造反者は少なく、上皇側はあえなく敗北。幕府の圧勝に終わったのである。

もちろん、かりに朝廷と北条の対立が、深層の動きに操られた必然であったとしても、この段階で、北条率いる幕府軍の勝利が必然であったとまではいえないであろう。

しかし、ともかく、北条はこの戦いに勝ち、それによって、朝廷の権力を抑え、実質的な統治の範囲を西国にまで大きく広げることになった。統治という点で、朝廷に対する幕府の優位、すなわち「舶来」の権威に対する「地物」の権威の優位を確たるものとしたのである。

二つの動乱

(1)中世の動乱ーヨーロッパと日本

ヨーロッパの歴史と日本の歴史には、共通点、というか、共通の分かりにくさがある。それは、近世(初期近代)以降の分かりやすい発展の過程が始まる前に、何かよく訳のわからない激しい内戦の時期を経験しているということである。

英仏では百年戦争、薔薇戦争がある。フランスは宗教戦争を含めてもよいだろう。ドイツは宗教改革から三十年戦争まで。日本は南北朝の動乱と応仁の乱である。

これらはいったい何なのか。トッドの人類学を参照しながら歴史を見ると、つぎのような仮説が成り立つと思う。

ヨーロッパ日本はどちらも、家族システムの進化の前に、外部の権威を借りて建国している。

そのため、国家の内側が充実し(その基礎にはもちろん識字率の上昇がある)、自律的な家族システムの進化が起きると、新たなシステムに合わせた国家の作り替えが必要になる。

おそらくそのときに、内戦や動乱が起きるのである。

この時期に起きる動乱は、外国や国王といった分かりやすい敵がいないので、ディテールを追っても何が何だかよく分からないことが多いし、当事者の勝ち負けにも大きな意味はない。しかし、このとき、国家は、社会の地殻変動に合わせた大々的なシステム改変を行なっているのである。

(2)南北朝の動乱(1336-1392頃)

北条氏のもとで(多分)生まれた直系家族が、完成度を上げ、日本全土に拡大していく長い過程を開始した頃、南北朝の動乱は起きた。

端緒を作ったのは後醍醐天皇である。

この時期、政治の最高権力を握っていたのは北条であり、天皇ではなかった。しかし、政治に対して一貫して強いやる気を持っていた後醍醐は、鎌倉幕府の御家人であった足利尊氏の協力も得て北条の鎌倉幕府を滅し、政治的復権を狙う(1333年)。

後醍醐天皇は、幕府はもちろん、院も摂政・関白も置かずに自ら政治の舵取りをしようとするが(建武の新政)、うまくいかない。

そこで、足利尊氏は後醍醐を見限り、武家政権としての幕府再建を目指して武力で京都を制圧、光明天皇を立てて室町幕府を開始する(1336年)。

こうして、以後60年に長きに亘る南北朝の動乱が始まるのだが、この時期に、なぜこのような動乱が起こったのであろうか。 

https://ja.wikipedia.org/wiki/後醍醐天皇#/media/ファイル:Emperor_Godaigo.jpg

①後醍醐天皇 VS 直系家族システム

動乱が始まった時点で、後醍醐の南軍と尊氏の北軍の間には、二つの対立軸がある。

 (1) 武家政権 VS 天皇親政(地物の権威 VS 舶来の権威) 
 (2) 天皇家の家督争い(兄弟間の相続争い)

後醍醐天皇は、天皇政治の最盛期とされる醍醐天皇(897-930)・村上天皇(946-967)の親政を理想としていたという。後醍醐は、武家政権を倒し、自らの力で理想の政治を追及したかった。

自分の実力を試したいという後醍醐天皇のあり方には、実力の時代に差し掛かっていた時代の空気が影響しているようにも感じられるが、天皇がそれをやっても「下克上」にはならない。

後醍醐はもしかすると不本意かもしれないが、客観的に見れば、それは新興の「地物の権威」から旧来の「舶来の権威」が権力を奪い返すため戦いである(1)。

さらに、足利尊氏が光明天皇を立てた背景には、天皇家における相続争い(持明院統(北朝・後深草(兄)系統)VS 大覚寺統(南朝・弟(亀山)系統)があった。

光明天皇は北朝であり、後醍醐天皇は南朝(弟系統)である。争いは、天皇家において長子相続が未確立であったから起きたことだが、争いが激化したのは「長子相続」が確立する可能性が見えていたからだということもできるだろう(2)。

要するに、後醍醐天皇は、武家政権と争い、兄系統である光明天皇と争うことによって、日本の土地の上に生成しつつある直系家族システムと争っていた、ということができるのである。

②兄弟間の緊張は全国でーー拡大の要因

後醍醐天皇(南朝)VS 足利尊氏(北朝)の対立から始まった動乱は、やがて、南朝、北朝、足利直義(尊氏の弟)派の三者が離合集散を繰り返す長くややこしい争いに展開する。

なぜそんなことになったのか。

山川教科書にはこうある。

このように動乱が長引いて全国化した背景には、すでに鎌倉時代後期頃から始まっていた惣領制の解体があった。この頃、武家社会では本家と分家が独立し、それぞれの家の中では嫡子が全部の所領を相続して、庶子は嫡子に従属する単独相続が一般的になった。こうした変化は各地で武士団の内部に分裂と対立を引きおこし、一方が北朝に付けば反対派は南朝につくという形で、動乱を拡大させることになった。

惣領制とは何か、という話からいこう。

惣領制とは、幕府と御家人の関係が「惣領」を責任者とする血縁集団を単位として構築される仕組みのことである。

それぞれの血縁集団には「惣領」(「家督」ともいう)がいて、軍役や祭祀(葬儀とか)の責任を担う。しかし、この制度の前提はなお分割相続であり、惣領が所領のすべてを相続するということはない。惣領は「本家」として所領の多くを相続するけれども、それ以外の子供たち(庶子)も土地を持ち、「分家」として自立できたのである。

惣領制の解体は、人口が増え、開墾が進んだ結果土地が不足し、所領のすべてを惣領一人に一括して相続させなければならなくなったこと(単独相続)に起因する。制度の前提であった分割相続ができなくなったのである。

惣領制の下でも、惣領と庶子は平等ではなかったが、庶子は庶子で土地をもって自立することができた。しかし、これが崩れ、単独相続となると、兄弟のうち、家督を継ぐ者とそれ以外の者の格差が異常に大きくなる。

もしこの状態で惣領制を続けるとなると、惣領が家の主人であるのに対し、他の兄弟は全員使用人のような位置付けにならざるを得ないだろう。

そういうわけで、兄弟の間には激しい緊張が走り、惣領制は解体を始めた。しかもそれは、一軒や二軒ではなく、全国の武士(御家人)の家で起こっていたのだ。

後醍醐と尊氏の戦いは、ガスが充満する国土に火花を散らし、全国に終わらない動乱を広げることになったのだと思われる。

(3)応仁の乱へー騒ぎは続く15世紀も

14-15世紀は、直系家族拡大の第一波であったが、人口という面で見ると、日本における人口成長の第三の波が始まった時期とされる(鬼頭宏『人口から読む日本の歴史』(講談社学術文庫、2000年)77頁)。

直系家族への進化を生む典型的な状況は「土地の不足」であるから、直系家族の生成と人口成長の波が同時に来ても何の不思議もないのだが、頭に置いておきたいのは、人口が急成長している社会とは、大勢の若者で溢れる社会だということである。

南北朝の動乱が、家族システムの変化、若年人口の肥大、そして識字率の上昇という要素が同時期に重なったことで起きたものだとすれば、50年や100年での収束は見込めない。

そういうわけで、南北朝の動乱が収まった後に迎えた15世紀もまた、波乱と紛争の世紀となるのである。

①幕府内部のお家騒動 

まず、15世紀前半には、家内の緊張から来る争乱が室町幕府の内部を襲った。

1416年、幕府の関東の拠点である鎌倉府で、関東管領上杉禅秀が鎌倉公方足利持氏に反乱を起こす。詳細は省くが、背景にあったのは上杉一門の中の犬懸家と山内家の争いとされる(永原慶二『日本の歴史10 下克上の時代』(中公文庫、2005年)24頁)。

「世はすでに血縁による同族の絆が弱まり、諸家それぞれに武力をととのえ、互いに自立して力を争う時代になっていたのである。」(同上25頁)と説明されているから、基本的には、先ほどの惣領制の解体という状況に対応して生じた争いと見ることができるだろう。

1438年には、鎌倉公方足利持氏が幕府に背く行動を重ねて将軍足利義教と対立する(こちらの系図が見やすいです)。将軍義教は持氏を討伐したが(永享の乱)、1441年には、その義教が守護の赤松満祐に殺害されるという衝撃的な事件が起きる(嘉吉の変)。

騒動自体が将軍家の統率力の低下を表すものだが、立て続けに起こる事件で足利将軍の社会的権威は大いに低下することになった。

②土一揆の多発

同じ頃に土一揆が多発していたことも見逃せない。

農民たちは困窮した武士や都市の民とともに代官の免職や年貢の減免、債務の免除などを求めて蜂起した。背景には天候の異変による飢饉があったが、農民の中に自立的なアクターとなりうる層が育っていたことが大前提である。

14世紀には「国人」と呼ばれる在地の武士が団結し、自律的な地域権力を営んでいたことが知られる。農民もまた自ら惣・惣村という自治的な村を生み出していた。こうして主体性(≒識字能力)拡大の波は農民層にも及び、土一揆の15世紀を迎えたと考えられる。

数万人が京都を占拠した嘉吉の徳政一揆(1441年)で、ついに土一揆の要求を受け入れて徳政令を発布して以後、幕府は土一揆に応じて徳政令を乱発するようになる。

下克上のさきがけとなる民からの突き上げで、幕府の力はいっそう弱まった。

③応仁の乱(1467-1477)

こうした状況の下でいよいよ始まる応仁の乱。
これもきっかけは家督争いだった。

将軍の権力が弱体化したことも関係し、将軍家の周辺で家督争いが相次ぐ。畠山家、斯波家、そして将軍家本体。

これらの争いに、幕府内でその勢力を争っていた山名(西軍)と細川(東軍)が介入したことで、応仁の乱は始まった。

幕府内の二大勢力である山名と細川が争えば、幕政に関わっていた有力大名たちは必然的にこれに巻き込まれ、それぞれどちらかの陣営について戦わざるを得なくなる。そういうわけで、戦いは京都を中心に、日本の中央部分(≒ 東北、関東、九州以外)全体に広がり、中央を二分する争乱に発展したのである。

戦国時代の始まりー直系家族の日本へ

南北朝の乱、応仁の乱の二つの動乱を経て、システム改変を終えた日本は、どのような社会に生まれ変わったのだろうか(乱の詳細は全部省略します!)。

応仁の乱の後、日本は戦国時代に突入する。室町幕府の政治が崩壊し、群雄割拠の時代が始まるのである。

小規模な国家が濫立し互いに勢力を争うという状況は、まさしく直系家族システムのものであり、メソポタミア、中国では、直系家族の誕生=国家の誕生と同時に、類似の状況が訪れていた。

日本の場合、直系家族システムを素直に反映させたこの「戦国」状況を現出させるために、システムの大変革が必要であったのだが、具体的に、何がどう変わることで、「群雄割拠」が可能になったのかを見ていこう。

一般に指摘されるのは、以下の2点である。

(1)地域の独立

まず、室町幕府の崩壊によって、地域が中央の縛りから解放されたということがある。

鎌倉以後、力を付けた武士は大名として地域の支配に関わったが、その地位は幕府の守護職への任命に基づいていた。「守護大名」と呼ばれる彼らは、幕府の行政官だったのである。

応仁の乱を経て幕府による政治が崩壊すると、地域と中央を結びつけるものがなくなり、領国とか分国とか呼ばれた地方の行政区画が独立国家の様相を呈していく。これが、「群雄割拠」の一つの前提である。

(2)支配層の変化ー誰が戦国大名になったのか?

従来の社会秩序の中では低い地位にあった者が実力でのし上がり、「群雄」つまり戦国大名になっていく、というのがもう一つの変化であるが、この「下克上」には主に2つのルートがある(ようである)。

①辺境の守護大名の下克上(地域的な下克上)

第一は、辺境の守護大名による「下克上」である。

室町幕府の下で、有力だった守護大名はみな応仁の乱に巻き込まれてその勢力を大きく削がれたが、幕政に関わることの少なかった関東以北や九州の守護大名は、乱に参加せずに済んだので、力を温存することができたわけである。

のちに戦国大名として名を上げる何人かはこうした「辺境の」守護大名で、駿河の今川義元、薩摩の島津貴久、甲斐の武田信玄などがこれに当たる。

②守護代、国人の下克上(社会的地位の下克上)

では、守護大名が乱に参加した地域はどうなったかというと、彼らの留守中に領地を守り、地域版の乱を戦った守護代や国人が実権を握ることになり、そのうちの実力者が戦国大名にのし上がることになった。

有名な戦国大名のうち、上杉謙信、織田信長は守護代、長宗我部元親、徳川家康、伊達稙宗(政宗の曽祖父)、毛利元就は国人上がりである。

*以上につき、武光誠・大石学・小林英夫監修『地図・年表・図解で見る 日本の歴史(上)』(小学館 2012年)123頁)参照。この本はとてもおすすめです。

と、以上のようなわけで、応仁の乱は、幕府の縛りから地域を解放し、「下克上」を導くことで、群雄割拠の戦国時代を到来させたのである。・・

というのが教科書的な説明で、これはこれでこの通りなのだと思うが、「舶来の権威から地物の権威へ」の移行過程を追っているわれわれとしては、これだけではちょっと物足りない。

室町幕府が倒れたのはよいとして、同じ京都に存在していたはずの「舶来の」権威たち、つまり、天皇や貴族はいったいどうなったのだろうか。(次回に続きます)

今日のまとめ

  • 頼朝は関東に武家政権を打ち立て、天皇家(朝廷)と武家(幕府)が並び立つ時代を現出させた。
  • 直系家族の誕生に立ち会った北条氏の下で、朝廷(舶来)に対する幕府(地物)の優位が確立された。
  • 借り物の権威によって建国した国で独自の家族システムが生成するとシステム改変が必要となる。それが中世の動乱(西欧、日本)である。
  • 南北朝の動乱応仁の乱は、家族システムの進化、若年人口の肥大、識字率の上昇が重なる時期に起きた。
  • 小国が濫立する戦国時代は素直な直系家族システムの表れであり、日本が直系家族国家として生まれ変わったことを意味している。
  • 応仁の乱は、地域を中央から解き放ち、下克上の世を導くことで、群雄割拠の戦国時代を可能にした。
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戦時下日記(4) 南米、メルケル、W杯

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12月4日(日)「陸自沖縄部隊 大規模化 台湾有事に備え」(中国新聞1面トップ)

日本が事実上アメリカの属国である‥というか、独自の軍事・外交政策を展開できる立場にないということは、国内外で普通に知られている。

私が外国人としてこのニュースに接したとしたら、「ああ、アメリカは台湾で何か仕掛ける計画で、日本にその準備をさせているんだな」と思うだろう。

そうなのか?

12月6日(火)アルゼンチンでクーデター?

アルゼンチン副大統領クリスティーナ・フェルナンデス・デ・キルチネル(Cristina Elisabet Fernández de Kirchner)に有罪判決

元大統領である夫の後を受けて大統領を2期務めた後の副大統領職。貧困層や若者に人気のある左派の政治家。今年(2022年)8月に汚職の罪で訴追され、9月に暗殺未遂に遭い、今日有罪判決+終身公職追放。

イムラン・カーンのケースに酷似。

12月7日(水)今度はペルー

今度はペルーで大統領罷免。

暗殺未遂こそないけれど、それ以外の事態の推移はパキスタンと瓜二つ。アメリカは即座に歓迎を表明している。

消化しきれないほど次々と事件が起きるのはワールドカップ開催中だからか?

(スポーツイベントにクーデターは付き物で、2014年のウクライナのクーデターもソチオリンピック開催中だった。)

ドイツではクーデターを計画したとされる25人が逮捕とか。
これが何を意味しているのか私にはまだよく分からない。

12月9日(金)メルケル発言

Die Zeit に載ったメルケル元首相のインタビューにプーチン大統領が反応。

メルケルは何と「ミンスク合意はウクライナの戦力を強化するための時間稼ぎだった」と言っているのだ(同趣旨の発言は先に12月1日のder Spiegelに載ったそう。私は読んでいません)。

 *ミンスク合意についてはこちらの「解説・資料編」をご覧ください。

プーチンの発言はこんな感じ。

正直、全く予想外だった。非常にがっかりしている。信頼はほとんどゼロになってしまった。どうやって、何を交渉すればいいのか。彼らと交渉など成り立つのか。守られる保証はどこにある?

https://twitter.com/AZgeopolitics/status/1601240676905078785

メルケルの発言に関しては、真意が伝わっていないという意見がある。

メルケルは真にドンバスとウクライナの関係修復を目指してミンスク合意に取り組んだが、結果的にうまくいかなかったので、取り繕うために(ドイツではメルケルへの風当たりはかなり強いらしい)、ドイツのズデーテン領有を認めた1938年のミュンヘン合意に関してチェンバレン英首相が使った「時間稼ぎだった」という言い訳を持ち出したのだ、と。

そうかもしれないけど、うかつだ。

その意見を聞いてからもう一度該当部分を読んでも、やっぱり「戦力強化のため」と言っていることは間違いなく、ロシア側から見ればプーチンのような捉え方にならざるを得ないと思う。

メルケルが信用できないなら、他に一体誰を信用したらいいのだろう?

12月10日(土)引き続きメルケル

しかし、そういえばトッドがメルケルをすごく批判していたことがあったのを思い出し、引っ張り出してみた。

まず2014年6月に出たインタビュー。ウクライナのクーデター(2014年2月)後の時期。

いつの日か、歴史家たちがシュレーダーからメルケルへの大転換に言及することになるでしょうか。

・・

現在の局面は、ドイツ外相シュタインマイアーのウクライナ訪問から始まりました。ウクライナの首都キエフにポーランド外相シコルスキーも姿を見せたということが、シュタインマイアーの任務がアグレッシブなものであったことの証です。

・・あのキエフ訪問がわれわれの目に明らかにしたのは、ドイツの新たなパワー外交であり、その中期的目標はたぶん、ウクライナ(統一されているか、分裂しているかは二義的な問題です)を安い労働力市場として、自らの経済的影響ゾーンに併合することです。2003年のシュレーダーならば、絶対にやらなかったであろうオペレーションです。

『「ドイツ帝国」が世界を破滅させる』(文春新書、2015)110−111頁

 こんなことも言っている。

公言されにくい真実をずばり言いましょう。今日、アメリカはドイツに対するコントロールを失ってしまって、そのことが露見しないようにウクライナでドイツに追随しているのです。

117頁

次は2014年8月。

ドイツから来る信号をキャッチしてみると、それはさまざまで、互いに矛盾している。

ときには、ドイツはむしろ平和主義的で、控えめで、協調路線をとっているように感じられる。ときには、それと真逆に、先頭に立ってロシアに対する異議申し立てと対決姿勢を引っ張っているように見える。

この強硬路線が日々力を増してきている。かつて、ドイツ外相のシュタインマイアーはキエフを訪れる際、フランス外相ファビウスやポーランド外相シコルスキーと一緒に行ったものだ。ところが、メルケルは今や単独で、新たな保護領ともいえるウクライナを訪問する。

ドイツが突出してきたのはこの対立においてだけではない。ここ6ヶ月間、最近の数週間も含めてのことだが、ウクライナの平原でロシアを相手にすでに潜在的紛争状態に入っているというのに、メルケルはヨーロッパ委員会の委員長に、元ルクセンブルク首相のジャン=クロード・ユンケルを据えた。ちょっと信じがたい不作法さをもって、強い反対の意思を明らかにしていたキャメロンのイギリスを屈辱的な目に遭わせたのだ。

さらに途方もないことに、アメリカによるスパイ行為の問題を使って、アメリカにもぶつかり始めた。冷戦時代以来のアメリカとドイツの諜報活動の複雑な絡み合いを知っている者にとっては、まったく信じがたい。

24-25頁

ドイツは現下の国際的危機において複合的でアンビヴァレントだが、それでも推進力となる役割を演じている。しばしばドイツというネイションは平和的に見える。が、それでいて、ドイツにコントロールされているヨーロッパは攻撃的に見える。あるいはその逆もある。ドイツには今や二つの顔があるわけだ。・・

目下私は容赦のない語り方をしていると自覚しているけれども、今、ヨーロッパはロシアとの戦争に瀬戸際にいるのであって、われわれはもはや礼儀正しく穏やかでいるだけの時間に恵まれていない。言語と文化とアイデンティティにおいてロシア系である人びとがウクライナ東部で攻撃されており、その攻撃はEUの是認と支持と、そしてすでにおそらくは武器でもって実行されている。

ロシアは自国が事実上ドイツとの戦争状態にあることを知っていると思う。

32-33頁

これを読み、2014年の時点でトッドには全部見えていたのだなあとしみじみ思うと同時に(ただし本人も認めているとおり米英の見方は甘かった)分かったことがある。 

私はこの戦争を、米英とロシアの代理戦争だと思っていたが、それだけではなくて、アメリカがロシアをダシにしてドイツを屈服させる‥‥というか、ドイツがロシアと組んでアメリカに対抗してくる可能性を摘みとるための戦争でもあるのだ。

戦争の過程を見ていて、「ドイツも日本と同じようにアメリカの言うなりなんだなあ‥‥」と思うことが多かったのだが、違った。もともと言うなりだったのではなくて、この戦争を通じて踏み絵を踏まされているのだ。

EU委員長のフォン・デア・ライエンはドイツ人。
メルケル政権で一貫して閣僚を務め、一番肝心な時期(2013年12月ー2019年7月)に国防大臣だった人間だ。

彼女がおそらく「ドイツにコントロールされている攻撃的なヨーロッパ」を代表している。米・NATOとEUはもうチキンレースなのか何なのかよく分からない。

一方、ショルツの顔を見ていると、何をされるか分からないのであからさまにアメリカに対立することはできないが、覇権が崩れたときに備えて布石は打っておきたい、というような感じか。

ちょっと前まではドイツが何とかしてくれないかなあ、とか思っていたが、しばらくは何もできないだろう(ようやく分かってきた)。

今のアメリカでは本当に何をされるか分からない。もちろん、日本が刃向かうそぶりを見せた場合も同じだ。

ところで、トッドは日本についても語っている。(2014年8月)

〔米・独の衝突以外の〕もう一つのシナリオは、ロシア・中国・インドが大陸でブロックを成し、欧米・西洋ブロックに対抗するというシナリオだろう。しかし、このユーラシア大陸ブロックは、日本を加えなければ機能しないだろう。このブロックを西洋のテクノロシーのレベルに引き上げることができるのは日本だけだから。

しかし、日本は今後どうするだろうか?今のところ、日本はドイツよりもアメリカに対して忠誠的である。しかしながら、日本は西洋諸国間の昔からの諍いにうんざりするかもしれない。

現在起こっている衝突が日本のロシアとの接近を停止させている。ところが、エネルギー的、軍事的観点から見て、日本にとってロシアとの接近はまったく論理的なのであって、安倍首相が選択した新たな政治方針の重要な要素でもある。ここにアメリカにとってのもう一つのリスクがあり、これもまた、ドイツが最近アグレッシブになったことから派生してきている。

71-72頁

たしかに、安倍元首相はロシアに接近する姿勢を見せた人物だった。

12月11日(日)ロシア国内にドローン攻撃

しばらく前(12月6日頃)にウクライナがロシア国内の軍事基地などにドローン攻撃を仕掛け始めたという報道があり、そんな重大なことをアメリカの支持なしにやることはないだろうと思っていたが、それを裏付ける報道(「アメリカの黙認があった」旨)。

ちょっといい加減にしてほしいと思う(無駄)。

これを受けてのことなのか、ストルテンベルクが、ウクライナの戦況がコントロール不能に陥っていてNATOとロシアの全面戦争もありうる、と発言したとか。

だからやめようという話ではないところがすごい。

12月15日(木)

W杯フランス・モロッコ戦。

どっちが勝っても(というか負けても)パリは暴動だ、と楽しみにしていたが、今のところそういうことはないようだ。 

12月17日(金)再びインファンティーノ、ペルー続報

W杯の決勝でゼレンスキーのビデオ・メッセージを映すというオファーをFIFAが断ったという。

やはりインファンティーノが偉いのではないか?

ペルーは抗議運動が続いて大ごとになっている。南米では連帯の動きも。確かに、南米の左派政権にとってはアメリカからの宣戦布告のように見えるだろう。

新大統領が次の大統領選挙の前倒しを求めているという報道があるが、カスティージョの公職追放解除を言わないと意味がない。引き続き注目。

12月19日(月)国連決議2種

今日のニュースではないが、国連総会の決議

「ナチスの英雄化、さらにはネオナチ、民族差別、人種差別、排他主義、およびこれらに関連した非寛容的態度の悪化を促す全ての現代的形態に対する戦い」と題する決議案が賛成多数で可決(12月16日)。

この決議案は例年、賛成多数で可決されている。

ということなので、日本が毎年核兵器廃絶決議案を出しているのと同じで、ロシアが毎年提出しているものなのだと思う。

内容は、「第二次世界大戦期に行われた人道に対する犯罪、及び戦争犯罪を否定し、大戦結果の改ざん阻を目的とし、法律や教育の分野において各国に人権に関する国際的義務に準ずる形で具体的な措置を講じることを要求するもの」。

今年は「ロシアが特別軍事作戦の正当化への利用を狙っている」ということで日本、ドイツ、イタリアを含む西側諸国が反対した。

国連次席大使によると、旧枢軸国がこの決議案に反対するのは国連誕生以来、初めてだという。

12月14日には「新しい国際経済秩序に向けて」という文書の決議が行われているのだが(これも1974年から毎年決議されているとか)、この二つの決議の結果を見比べると面白い。

まず反ナチ決議。

こっちが「新たな国際経済秩序」。 

これを見ていると、ウクライナ戦争というのは、南北朝の乱とか応仁の乱と一緒で(今ちょっと勉強してるので)、国際社会の深層部で何らかの地殻変動が起きていることを示す現象であって、関係者にとっての勝敗等とは全く無関係に、それが終わると新しい世界が生まれ出ている、というようなものなのかもな、という気がしてくる。

いまW杯の決勝(アルゼンチン VS フランス)を見ながら書いていて、試合が終わったところ。

すばらしいゲームの末のアルゼンチンの勝利。
将来の何かの暗示であるといい。

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戦時下日記

戦時下日記(3) インファンティーノ、ウクライナ破壊、台湾選挙、中国デモ

11月20日(日) インファンティーノ

明日からワールドカップが始まる。

ここに来てヨーロッパの各種機関や個人がカタールの人権侵害がどうのとか言っているのは見苦しい。とくに同性愛が違法な件。そんなのすぐに変えられるはずがない。

インファンティーノのコメントがその雑な感じも含めてとてもカッコよかった。

https://www.liverpoolecho.co.uk/sport/football/football-news/gianni-infantino-speech-world-cup-25556788

西洋人は3000年間謝罪してから説教しろ、というところもよかったが、多分日本語で紹介されていなくて感銘を受けたのは次の部分。

批判は理解できない。私たちがやるべきことは、彼らの役に立つこと、教育に投資をし、よりよい将来と希望をもたらすことだ。私たちはみな自分たち自身を教育するべきなのだ。もちろん多くのことは完全ではない。しかし改革や変化には時間がかかるものだ。

こういう一方的な説教はただの偽善だと思う。なぜ誰も2016年からこれまでの進歩に目を向けないのか分からない。

11月24日(木) ウクライナ破壊

ロシア軍によるウクライナへの攻撃が本気で激しくなっている様子が、私の乏しい情報網からも感じ取れる。それなのに停戦に向けた動きが全く見えない。

その通りなんだろうと思ったスレッド(下に抜粋の翻訳を付ける)。

①今日、ウクライナに残っていた4つの原子力発電所のうちの3つがウクライナのエネルギー網の中核を狙ったロシアの攻撃の結果停止されました。人口300万の都市、キエフの80%は現在電力、水、暖房がありません。では、なぜ交渉が始まらないのでしょうか。

・・

③これらの攻撃は、1年で最も寒い時期に突入しようとしているウクライナにとって、極めて破壊的なものです。重要なインフラ、特にウクライナのエネルギー網の中核を標的とした攻撃は、ウクライナ政府を交渉のテーブルにつかせようとする新しい戦略の一部であるように見えます

・・ 

⑥現地の状況に鑑みると、いまウクライナ政府にできる唯一の合理的な行動はロシア政府との交渉のテーブルにつき、停戦合意の条件を吟味することであるように思えます。何がそれを妨げているのでしょうか?

⑦2つのことがあります。第1に、バイデン政権の強硬な「対ロシア戦争推進派」がまだ決定権を握っている。今月初めに党内の進歩派がごく控えめな言葉遣いで対話路線を提案する書簡を書きましたが、バイデン政権によって1日も立たないうちに潰されました。

⑧そして第2に、ウクライナ政府は完全にナチスに乗っ取られているため、交渉に向けた一歩はどんなものであってもゼレンスキーの最後となる可能性が高い。

ゼレンスキーが自らの意思に反して行動しているといっているわけではありません。単に交渉という選択肢はないというだけです。

⑨ナチの動機がはっきりしているのに対し、アメリカが紛争を長引かせようとする意図は最近になってようやく明らかになってきました:
ーロシアとヨーロッパの間のエネルギー網を恒久的に断絶し、ヨーロッパをアメリカのガスに依存させること、
ーアメリカの新しい戦争テクノロジーをテストする実験場として機能させること。

⑩シリアに対してと同様、アメリカはウクライナを破綻国家に転落させる戦略に満足しているように見えます。戦略が成功すれば、絶望し避難を余儀なくされた大量の人々がヨーロッパに流入し、その巨大な波は今世紀に起きたどんな危機も小さく見せるでしょう。

⑪ウクライナの代理戦争とその影響は、アメリカがその「同盟国」に残す選択肢がどのようなものかを完璧に示しています:完全な服従か、失敗した帝国の崩壊を遅らせようとする哀れな企てにおける安い人質として犠牲に差し出されるかのいずれかです。

11月26日(土)台湾統一地方選挙

台湾の統一地方選挙で民進党が敗北。地方選挙ではあるが、蔡英文自身が「民主主義のための投票」として、中国に対する結束した姿勢を示すよう呼びかけていた。

ペロシの訪台とか台湾の人たちはOKなのか?、と思っていたが、これが答えかも。

11月29日(火)中国デモ

中国のデモについてのニュースがBBCやNHKでも多くなっている。

現在の(とくに若者人口が減り気味の)中国で、コロナ対応程度のことで打倒習近平、打倒共産党政権の動きが出てくるとは考えにくい。

日本の報道は中国のニュースすら英米のソースを垂れ流しているようだ。中国についてはSNSでかなり確からしい情報が手に入るのでありがたい。

扇動しているのはイギリスなのかアメリカなのか知らないが、「これ以上がっかりさせないで‥」という気持ちがつのる。

でもがまん。個人的な願望は受け流し、科学者の目で見つめるのだ。

12月3日(土) 

こうして日記などつけていると、フェイドアウトしていくニュースの存在を意識するようになる。

ノルド・ストリーム2については、スウェーデンが調査結果を報告するとか言っていたような気がしたが、続報はなし。

ポーランドへのミサイルの件も立ち消えた。

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世界を学ぶ

イランの民主化
(翻訳記事付)

目次


主要メディアを通して見るイランは、イスラム原理主義で女性を抑圧する前近代的な国家である。しかし、トッドは事あるごとに、中東で最も自由主義的で近代化が進んだ国はイランであると指摘している。

「本当のことを知りたいなー」と思っていたら、ほどよい記事が見つかった。

まずトッドによるイラン情報の骨子を確認し、それから記事をご紹介しよう。

イランの家族システム

イランの家族システムは基本的には内婚制共同体家族なのだが、アラブ世界とは違いがあるという。

 同じイスラム圏でも、イラン・トルコとアラブ世界には大きな違いがあります。その違いは、家族構造の違いとしても現れています。

 トルコ西部は、かなり核家族的な地域です。それ以外の部分は内婚制共同体家族の地域ですが、それでも内婚率はそれほど高くありません。また、イラン中央部では世帯人数が少なく、核家族の痕跡が確認できます。イラン北部のカスピ海沿岸部には、女性の地位が相対的に高い地域があります。‥‥

 ですから、女性たちの被るヴェールという見た目ばかりに気を取られてはいけません、同じイスラム圏でも、シーア派のイランは、父権性がより弱く、女性の地位がより高く、より核家族的で、より個人主義的なのです。この点を西洋は見ようとしません。ここが見えていないから、サウジアラビアに同調し、イランに対抗するというような、人類学的にはまったく不自然なことになってしまうのです。

『問題は英国ではない、EUなのだ−21世紀の新・国家論』(文春新書 2016年)136-138頁

人口動態

イランが中東で「最も」自由主義的で近代的であるということは、実際上は「トルコより」自由主義的で近代的であるということを意味する。

2020年のデータではトルコの出生率は2.04人、イランは2.14人で、両者はあまり変わらない。というかトルコの方が低い(出生率と近代化の関係についてはこちらをご覧ください)。

しかし、トルコの出生率が人口の再生産ラインである2.1を初めて下回ったのが2016年であったのに対し、イランは2000年であった。

人口動態から見た近代化は、イランの方がかなり先行していたのである。 

『文明の接近』158頁

トッドによると、トルコにおける出生率の足踏みをもたらしたのは、トルコ国内の人類学的多様性である。イラン全土の人口動態が比較的同質的であるのに対し、トルコ国内にははっきりした分裂があって、別の国かというほど性格の異なる地域があるのだ。

トルコでは、クルディスタンの出生率は、2001年から2003年にかけて、未だに女性一人当り子供4.2に達していた。それに対して、イスタンブールとトルコ中央部という先進地域では、出生率は1.8なのである。これほど著しい人口学的・社会文化的亀裂を持った国を、一個の国民国家、「一にして不可分の」トルコ共和国、と言うことができるだろうか。

『文明の接近』165頁

政治的近代性

私たちが何となく持っているトルコ、イランのイメージは、トルコは非宗教化された近代民主主義国家だが、イランは宗教的で権威主義的な国だ、というものだろう。

しかしながら、出生率の全国的ならびに地方ごとの指標は、イランはより近代的で、より同質的で、より個人主義的であることを明瞭に示唆している。しかし実は、われわれがこれまで見ようとしなかった政治的な指標も、同じことを訴えていたのである。

『文明の接近』166-167頁

イランの方がより近代的であることを示す政治的指標とは何か、
というと‥

トルコの政体は、民族主義的傾向の軍事クーデタから生まれたものであり、いささかでも逸脱の兆しがあれば厳重に対処する用意のある軍の監視下に、いまでも生き続けている。トルコの非宗教性は、個々人の自由な選択という観念と同一視することはできない。イランでは政体は、フランス、イングランド、アメリカ合衆国と同様に、本物の革命から生まれたのであり、ここでは自律的な要因としての軍は存在しない。

トッドはまた、政治的意思決定の多元性にも言及している。

この国には軍が二つある。一つは正規軍、もう一つは革命から生まれた革命防衛隊である。この二重化が実際上は政治の自律性を保障している。選挙はたしかに絶対的に自由とは言いがたい。どんな者でも立候補することができるわけではないのだから。しかしイラン・イスラーム共和国では、いつでも投票が行なわれ、多数派の交替も頻繁に起こる。不完全な民主主義ではあろうが、将来大いに見込みのある民主主義なのだ。それというのも、この民主主義は、上から下された計画の表現ではなく、住民の総体の、異議申し立てを好み政治的多元主義を好む気質の表現だからである。

167頁

ふーん、そうですか。でも‥‥

「じゃあ、ヒジャブをめぐる最近の騒ぎは何なの?」
「女性を抑圧する権威主義体制なんでしょ?」

と言いたくなりますよね?

紹介記事要旨

そこでお読みいただきたいのが下の記事である。箇条書きで要旨を付けておく。私としては「まあ、そうだろうな」と思えることばかりで、ニュースを見る度に感じていたモヤモヤが払拭された。

  • イランでは数年前から「ヒジャブなし」が普通になっていた。
  • ヒジャブを義務付ける法律は存在するが、執行は厳格ではなかった。
  • 「ヒジャブなし」が問題になるのはエルシャド(指導巡回(日本では道徳警察といわれる))がいた場合だけで、エルシャドの動員は治安が不安定な状況に限定されていた。
  • 抗議行動につながった国民の不満は、ヒジャブ法ではなく、エルシャドによる指導の行き過ぎに対するものだった。
  • イランの政治的意思決定は多元的で、ヒジャブに対する態度も一枚岩ではない。
  • 最高権力者ハメネイやイラン革命防衛隊などの国家革命機関はヒジャブ問題が外国勢力に利用されていることを懸念し、聖職者に妥協を求めている。
  • ヒジャブ法は残しつつ法執行の緩和(死文化)で対応することが見込まれるが、ヒジャブ問題を利用した国家弱体化の試みは容赦なく処罰されるだろう。

イラン:To veil or not to veil
(ベールを付けるべきか、取るべきか)
Sharmine Narwani 2022.12.09

11月の2週間の訪問中、あらゆる年代の女性たちはヒジャブを付けずに自由に街を歩いていた。私たちが知らないだけで、彼らは何年もずっとそうしていたのである。

https://thecradle.co/Article/Columns/19259

9月に始まったイランでの爆発的な抗議行動は、イスラム共和国の「ヒジャブ法」を特に対象としたものではなく、いわゆる道徳警察ーガシュト・エルシャド(単にエルシャド、あるいは「指導巡回」とも)が、不品行な服装とみなされた一般のイラン人女性に対して行った虐待と行き過ぎについてのものだった。

国民の不満の引き金となったのは、広く報道されたMahsa Aminiの死(Ershadに逮捕され拘留中に死亡した)であった。

イラン警察当局が公開したビデオ映像にはアミニが自然に倒れる様子が写っていたおり、公式の検死結果の通り「殴打」によるものというより個人的な健康歴によるもののように見えた。しかし、イランの人々は、一連の不当な取扱のストレスが引き金となったと主張した。

抗議デモは暴動に発展し、民間人と治安部隊の両方から死者が出た。双方が銃で撃ち合ったのか、外部の扇動者が関与したのかは、この論考のテーマではない。

この論考が扱うのは、こうした出来事がイランをどこに向かわせるのか、ヒジャブに対する国民の感情にイランの統治機関がどのように対応するのかという問いである。

非常に分散的なイランの意思決定

イランは、西側の主流メディアでよく描かれるような「漫画のような独裁国家」では決してない。最高指導者アリー・ハメネイ師が戦略的な事柄に関する最終的な権限を持っているが、彼が国内の批判を受けるような形でその特権を行使することはめったにない。

ハメネイは西側諸国とのイラン核協議に反対していたが、当時のハサン・ロウハニ政権が経済関係を正常化しイランの(当時の)孤立を解消したいという願いから協議に関する交渉を進めることを全面的に認めていた。

イランにおいてハメネイほど激しく、西側諸国は決して絶対に信用してはならない、イランの最大の力は経済的な自給自足と西側諸国が支配するグローバルネットワークからの完全な独立性にあると公言して憚らない人物はいないであろう。それにもかかわらず、ハメネイは、ロウハニ政権が彼の深い信念に反する政策を追及するのを平然と見過ごしたのである。

最高指導者のこうした行動は、今日のイランの意思決定プロセスが非常に拡散的であるという現実を物語っている。この国に単一の権威は存在しない。意思決定は協働的に、あるいはイランメディアや議会で繰り広げられる熱を帯びたそしてしばしば非常にオープンな論争によって、そうでなければ密室で行われる。

今日のイランには主要な権力中枢が三つある。第一は、最高指導者と陸軍、警察、イスラム革命防衛隊(IRGC)、数百万人の強力なボランティア部隊であるバシジ隊などの国家革命機関各種。

第二は、イラン政府と選挙で選ばれた大統領、その内閣、国の省庁、議会から成る国家機関。

第三は、ゴム(Qom)にあるホウゼ(神学校)。イランの宗教の中枢で、イスラム共和国の宗教解釈、行動、振る舞いに影響を与える数千人のシーア派の学者、権威、インフルエンサーから影構成されている。

3つの権力中枢はどれも様々な形で国の政策に影響を与えるが、それぞれの影響力も時によって浮き沈みがある。各中枢の中には支持者、諸機関、メディア、経済的利害、影響力のある人物の広大なネットワークが広がっており、他の民主主義社会と同様に、自分たちの意見が反映され実行に移されるよう競い合っている。

したがって、ヒジャブのような複雑で象徴性の高い案件について一人の人間や意思決定機関が何らかの指令を発することができると一瞬でも想像するなら、それはイスラム共和国の政治体制の複雑さ、諸矛盾、多様性について全く無知であるということを意味する。

現地の様子

11月下旬の2週間にわたるテヘラン訪問の際、私はコロナによる渡航制限のせいで2020年にストップする以前の多くの訪問の時と大きな違いがあることに気づいた。

2020年にイランの首都を訪れたときには、レストランでヒジャブをかぶらずに座っているイラン人女性を時折見かけることがあるという程度だったのが、今回、女性たちは街なか、ショッピングモール、空港、伝統的なバザール、大学、公園など、山の手も下町も関係なくあらゆる場所で、伝統的なヘッド・カバーを付けずに歩いていたのである。

下に掲載するのは、私が市内のさまざまな場所で撮影した写真である。

イランのヒジャブをめぐる議論でもっとも重要なのは、この「ヘッドカバーなし」のトレンドが9月の抗議行動とともに始まったわけではないということである。この決定的な事情は、西側メディアではまったく触れられていない。

イラン人女性の多くが、すでにヘッドスカーフを脱いでおり、何年も前から上の写真のような光景が普通になっていた。パンデミックのせいで社会的規範が緩和されたのだろうか?誰に聞いてもはっきりした答えは返ってこない。「ただこれが普通になっただけ」と口々に言うだけだ。

今日のイランでは、年齢を問わず、ヒジャブなしの女性、ヘッドスカーフをした女性、より伝統的な床まである長いチャードルを身につけた女性が同じ通りを一緒に歩いている。みな自分の好きなように、他人のことは気にせずに。

非常に興味深い展開といえる。なぜなら、イランではヒジャブの着用は法律で義務付けられているからだ。しかしエルシャドがひょっこり姿を現さない限り、誰もこの法律を強引に執行しようとすることはないのである。

これは重要な点である。なぜなら、エルシャドはいつでもどこにでもいるというわけではないからだ。エルシャドは2006年から業務を開始したが、イラン当局は彼らを特定の時期にしか動員していないように見える。ゴムが倫理的な案件をめぐって落ち着かない状態になっているときや、保守派が改革派と争っているとき、国境で地政学的な緊張が起きているときなどである。

ともかく、エルシャドはイランの街角にいつも存在するわけではなく、普通は国内のどこかで政治的に何かが起きているときにのみ登場するのである。

当局者はヒジャブ問題を議論している

それにも関わらず、3カ月に及ぶ抗議行動とその後の暴動を経て、ヒジャブをめぐる議論はイスラム共和国で影響力を争う3つの権力中枢の間で山場を迎えているようだ。

私の個人的な経験では、イスラム革命防衛隊のようなイランの治安部門(ハメネイの下で活動している)はヒジャブの問題そのものについて戦闘的な姿勢を示すことは決してない。彼らは外国からの侵入、破壊工作、反テロ作戦、戦争に集中しており、日常生活や人々の立居ふるまいには関心を持っていない。

ヒジャブはイスラム共和国の「シンボル」である。そしてシンボルは、西アジアなどで戦われた無数のハイブリッド戦争を見れば明らかなように、外部の扇動者たちが最初に狙う安直なターゲットである。

抗議の象徴として国旗の色を変えたり、国家に代わる短い歌を作ったり、女性たちにヘッドスカーフを脱いでビデオに撮るよう勧めたり。いずれにせよ、これらはハイブリッド戦争の手っ取り早い手段なのである。

2018年1月、治安当局者や「保守派(principalist)」などの限定的な読者を対象とした出版物のインタビューで、シリアとイランにおけるこうした手段の使用について質問を受け、私は以下のように答えた。

象徴的なスローガン、横断幕、プラカードは、西側スタイルの「カラー革命」の定番です。イランでは2009年の選挙期間中に行われた「グリーン」運動のときに、こうしたツールが威力を発揮していました。運動のメッセージや目標を幅広い聴衆に対して一瞬で伝えることができる視覚的ツールの使用は、マーケティングの基本といえます。これまでも選挙のときには用いられていましたが、今では地政学レベルの情報戦においても効果的に活用されるようになっています。

シリアで植民地時代の緑色の旗が使われたのは、より多くのシリア人を即座に「反対派」チームに引き込む手段でした。基本的に、政府に対して不満を持っている人なら誰でも、その不満が政治、経済、社会、宗教のどれに関わるものであろうと、この新しい旗を掲げた抗議運動に参加したいという気持ちにさせられました。シリアの活動家たちは金曜の抗議行動に名前を付けることで、大衆の動員に成功しました。彼らは言葉の力を使って抗議の方向性を作り上げ、徐々にイスラム化の方向に進めていったのです。

スローガンや看板は、国民の中の強い主義主張のない層の関心を引いて反政府的な立場に立たせるプロパガンダの簡単なトリックです。人々の自己同一化を可能にするツールは政権転覆作戦の不可欠な構成要素となっています。新たなシンボルを作るために、既存の国家的シンボルを否定する必要があるというわけです。

イランではヒジャブを付けない若い女性の画像が抗議のシンボルとして瞬く間にSNS上に広がりました。皮肉なことですが、ヒジャブは1979年のイスラム革命にとってのシンボル、その政治的・宗教的な意味を一瞬で示すことができる看板でもあります。そのため、外国が支援するプロパガンダ攻撃においては、ヒジャブはほとんど常に、否定とあざけりの対象となるのです。

このインタビューはヒジャブをしていない私の写真とともに掲載された。数週間後、私は、イスラム革命防衛隊のクドス部隊と密接な関係にあるとされるイランのトップアナリストからメールを受け取った。彼はインタビューのスクリーンショットを送ってきて、これは私が書いたものかと尋ね、驚いたことに、私の見解に全面的に賛成だと述べた。

なお、これ以外にも、イスラム革命防衛隊が関係する出版物「Javan」から、雑誌の特集号にシリアに関する私の記事の翻訳とインタビューを載せたいと依頼を受けたことがあるが、このときも、彼らはヒジャブなしの私の写真を掲載した。

ヒジャブと国家

一言でいえば、イランの治安部門にとってヒジャブは優先事項ではない。彼らはほかにもっと重要な懸案を抱えている。しかし、ゴムの内外の神学者にとってはヒジャブは枢要なテーマである。

そして、おそらく、ヒジャブをつけることを選び、それによって迫害されることー1936年、当時の君主レザー・シャー・パーレビがイスラム教の伝統的な頭巾を禁止したときの彼女たちの祖母のようにーを望まない何百万のイラン人女性にとっても、同様に重要である。

ヒジャブが禁止されたことで、多くの女性が何年も家に閉じこもり、あるいは夜間や馬車に身を隠してしか外出しなかった。警察を避けるためである。警察は必要であれば力づくでベールを剥ぎ取った。当時は年配のキリスト教徒やユダヤ教徒の女性たちにとっても、ヘッドスカーフの禁止に従うのは難しかったのだ

マリアム・シネーは書いている。皮肉なことに、これを出版した(サウジ政府が関係する)会社(Iran International)は、最近ではイランの反政府主義者のプロパガンダを24時間365日実施している。

これらの問題はともかく、イランの治安部門の指導者たちは、今日、聖職者たちにかつてないほど強い異議を申し立てている。
「私たちが敬意を抱くヒジャブが、国家安全保障の領域に入りつつある。外国に支援された政権転覆計画がヒジャブをその武器として利用しているのだ。」
これは、近時の状況に鑑みても、聖職者が賛成できる立場ではない。

イラン当局が脅威を取り除くために、エルシャドの停止や解散、その代替としてのイスラムの節度に関する(男女を問わない)全国的な教育プログラムの導入を含む様々な選択肢を検討しているとされるのは、おそらくこうした懸念のためであろう。

前イラン大統領マフムード・アフマディネジャド政権の下で設立されたエルシャドは、何週間も前から街頭から姿を消している。イランの3つの権力中枢は、国民の間に残る緊張を鎮め社会的不満に対処する方法を熱心に議論している。

興味深いことに、この展開はペルシャ湾を挟んだ宿敵サウジアラビアの状況とどこか似ている。サウジでは2016年の勅令で「ムタワ」(サウジの宗教警察)のかつては無制限であった権限と特権が剥奪された。それ以来、サウジの成文法に変化はないにもかかわらず、女性が公の場でベールを脱ぎ、伝統的な黒いアバヤを纏わず通常の衣服でいるのを見ることはいっそう普通になった。

ゴムや他の機関がヒジャブ法の廃止に同意することはないだろう。元々、論争の原因は一部の者による過剰な法執行にあったのだ。イランのヒジャブ法は、どの国の法典にもある多くの死文化した法律と同じような運命をたどることになるのかもしれない。

しかし、ヒジャブに関する態度の緩和が期待されるとしても、それは、敬虔さの象徴であるヒジャブを利用して国家を弱体化させる試みに対する容赦のない取り締まりを伴うものとなるだろう。

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社会のしくみ

日本史概観(2)
-摂関政治、院政と平氏-

目次

平安末期ー父系の強化

飛鳥時代から平安時代までは、天皇を中心とした王侯貴族が大陸文化の独占によってその権威を保った時代であり、「舶来の権威」そのものの時代といえる。

しかし、その後半になると、天皇家を中心とした政権の枠内で、天皇親政から藤原氏による摂関政治(967-1068)、院政(1086~)へという推移が起こる。

この動きが家族システムと関連していることは明らかと思われる。なにしろ「天皇親政→摂関政治→院政」の変化とは、政治の実権が「天皇本人→母方親族→父方親族」に移行したことを意味しているのだから。

何がこのような変化をもたらしたのであろうか。 

摂関政治ー「舶来の権威」がもたらした女性重視の文化

摂関政治とは、藤原氏が天皇の外戚(母方の親戚)としての地位を確保したことで国政を支配した仕組みである。 

藤原北家は9世紀初めごろから、陰謀と天皇家との婚姻で徐々に一族内の他家、他氏排斥を進めた。当時、皇子の養育は母方の家で行われたので、皇子の母方の祖父は、皇子に大きな影響力をもった。この仕組みを巧妙に利用して、11世紀には道長が、その次の頼通も、意のままに国政を左右し、この世の栄華を誇った。

武光誠・大石学・小林英夫監修『地図・年表・図解でみる 日本の歴史 上』
(小学館 2012年)71頁

なるほど。しかし、そもそもなぜ、皇子の養育を母方の家で行うという仕組み(母方居住)が取られていたのだろうか。

母方居住とは、子供の養育における母親の役割をより重視するシステムである。当時の日本はまだ強固な父系社会ではなく、父母の重要度に大きな差異はなかった(双方系)と見られるが、母方居住が制度化されていたということには何らかの説明が必要であろう。

これには、当時の国家が「舶来の権威」によって成り立っていたというその事情がまさに関係しているように思われる。

推古天皇ー聖徳太子の頃から、皇族や貴族にとってもっとも重要だったのは中国の先進的文化に関する知識だった。律令制度による政治の仕組みが整った後は、皇族・貴族がもっとも重視したのは、学問的・文学的素養であり、彼らは文字を読み、詩歌を作り、儀式に習熟することで、その権威を保っていたのである。

源氏物語絵巻第38帖「鈴虫」(12世紀、五島美術館蔵)

いかなる家族システムの社会においても、幼い子供に読み書きを教え、教育的な雰囲気を涵養するのは母親である(トッド『世界の多様性』312頁以下等)。

当時の皇族・貴族が大陸由来の文字文化の担い手であることによって地位を保持していたことを考えれば、彼らが子供の養育を母方で行うようになるのは自然なことであろう。

母方居住の慣習により存在感を高めた藤原氏が、天皇の後宮に入れた娘たちの側近として教養の高い女性たちを登用し、『源氏物語』『枕草子』に代表される文学の興隆をもたらしたのも、故なきことではない。

* なお、この点についてトッドが立てている仮説は私のとは違う。彼は、藤原氏の覇権をもたらした母方居住を、中国の父系原則の流入に対する「補償的母方居住反応」と見ている(起源I・上239頁)。つまり、父系原則の流入による女性の地位低下(母系の価値観の衰退)を埋め合わせるために発生した習慣ではないかというのである。

人類学に関する私自身の専門性の低さからすると「ええ、そうかもしれませんね‥」としか言いようはないのだが、大宝律令(702年)が中国に学んである程度の父系原則を取り入れた後、養老律令(718年)では父系原則はむしろ後退しているし、その後も父系原則が中国から順調に伝播したという様子は見えない。

遣隋使の派遣により中国との公式の接触が再開(600年)したのと同時期に日本が女帝の時代を迎えたこと(593年の推古天皇から770年までに6名の女性天皇が誕生)については、中国の強固な父系原則に対する反作用と見るトッドの立場に説得力を感じるが、藤原氏の時代の母方居住の制度化(いつから始まったのが不明だが一応この時代に強まったと仮定する)については、その説明だけでは少し弱いと私は感じる。

トッドが指摘する女性的文学の登場も、どちらかというと「中国と日本の二元性が母方居住を生み出した」というよりは、「母方居住の習慣が女性的な文化の登場を可能にした」という順序ではないかと感じる。

院政ー「父系重視」の波

他方、院政は、院(上皇・法皇)が、天皇家の家長として天皇を後見するという体で実権を掌握する方式である。政治の実権は、後三条天皇の親政(1068-72)を介して、藤原氏の母方支配から父方支配の院政へと正反対に振れたことになる。

院政が始まったのは、地方で武士が台頭し、源氏と平氏を棟梁としてまとまりを見せていくのと同時期のことである。

したがって、院政の誕生は、かなり単純に、地方の勢力が軍事・行政上の実力を高め一大勢力として台頭してきたことへの、朝廷側の対応と理解することができる。

この時期、直系家族の中核的要素である長子相続の習慣はまだ発生していない。長子相続を促す「土地の不足」が生じるのは武士による所領の大規模開発が進む12世紀末のことである。

しかし、新興勢力が勢力を拡大するために武装し、紛争を多発させるという状況が、家の一体性の重視、そして父系(男性)の重視という傾向を生み出すことは容易に想像できよう。

要するに、この時代は、権力の基盤が「舶来もの」の文化的威信から在地勢力の実力に移行する過程の中で、直系家族の一要素を成す「父系権威の重視」の傾向が生まれた時代だった。

「実力」が問題となりつつある以上、天皇家も安穏と歌や儀式に興じてばかりはいられない。勢力の維持・拡大のためには、皇室も父系原則を取り入れ、新興勢力に伍していく必要があった。

そのような状況で開始されたのが院政の仕組みであり、院政とは在地の武士の間で高まった「父系重視」の波の天皇家バージョンなのである。

『平治物語絵巻』 三条殿焼討 ボストン美術館所蔵。平治の乱(1159年)

源氏と平氏ー貴族と武士の中間で

このように見ると、源氏や平氏と院の微妙な関係性も分かりやすくなる。いや、みんなは分かっているのかもしれないが、私はずっとよく分からなかったのだ。

まず、「天皇の時代→武士の時代」(舶来の権威→地物の権威)の移行期における源氏・平氏の活躍は、彼らが貴族でありかつ武士であるという中間的な存在であったことが大きい。

源氏と平氏はどちらも天皇の血筋である。皇室は平安前期から経費節減のために皇族を臣籍に下すことをするようになり、そのときに彼らに授けた姓が源氏であり平氏であった(清和源氏とか桓武平氏とかいうのは直近の祖先である天皇の名前である)。

彼らはやがて武士として力を付けていくけれども、高貴な血筋であることに違いはなく、「軍事貴族」(山川教科書にこの表現がある)とでもいうような存在であったのだ。

彼らは地方の武士からは高貴な血を引くリーダーとして慕われ、武家の棟梁としての地位を固める。一方、皇族や貴族にとっても身内として頼りにしやすい存在であったので、摂関家や院に奉仕することで、中央での地位を高めていった。

宮廷の時代を終わらせた平清盛

そういうわけで、まず、院政とともに平氏の時代がやってくる。歴代の上皇が軍事力の要として平氏を重用し彼らがそれに答えたからだ。平氏にとっても、中央でのし上がっていくためには上皇の力が必要だった。

しかし、政治の中枢に近づくにつれ、見えてくるのは「平氏こそが実力者である」という事実だった。彼らの背後には家人として従う全国の武士団とその土地があり、行政・経済の面における実力でも劣るところはない。

実力の時代に差し掛かっていたからこそ、平清盛は「だったら自分が頂点に立てばいいじゃん」と思った。一方で、まだ「舶来の権威」は健在であったので、清盛は天皇の外戚としての地位を確保し、一族で官職を独占するなど、往時の藤原氏のようにふるまった。

「貴族のようにふるまう武士」として専制的な権力を振るった平氏は、院をはじめとする皇族・貴族(+寺社勢力)と武士の双方から反感を買い、その覇権はまもなく終わる。

しかし、平氏を倒すための戦いで活躍し、その地位を高めていったのもやはり武士勢力だったのである。

朝廷を乗っ取り、貴族の衣を纏って自爆した平氏は、そのことによって、皇族・貴族の時代を終わらせたのだといえる。

それあってこそ、鎌倉の武士たちは、実直な武士のやり方で「地物の権威」を確立していくことができたのだ。

今日のまとめ

  • 平安期の政治は「天皇親政(天皇本人)→摂関政治(母方支配)→院政(父方支配)」と推移した。
  • 「母方支配」の基礎は母親の教育力であり、皇族・貴族が大陸由来の文字文化を担うことで権威を保っていた時代の産物である。
  • 「父方支配」の院政は、武士の間で生まれた父系傾向の天皇家バージョンである。
  • 移行期における源氏・平氏の活躍は、彼らが貴族と武士の中間的存在であったことによる。
  • 平氏は、貴族の衣を纏って自爆することで皇族・貴族の時代を終わらせた。

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社会のしくみ

日本史概観 (1)
-建国の秘密-

日本にも秘密がある

10世紀末に直系家族の「権威」が誕生する以前、原初的核家族のヨーロッパが国家を作ることができたのは、ローマ帝国の遺産であるキリスト教の権威を借り受けたためだった。

   *直系家族の「権威」と国家の関係についてはこちらこちらをご覧ください。

日本における直系家族の誕生は13世紀末から14世紀初頭(鎌倉時代後半)とされる1家族システムの起源I 240頁。日本もそれ以前は原初的核家族であったわけだが、その時期にすでに国家が成立していたことは明らかであろう。

ヤマト王権誕生の地と見られる纏向に大型の前方後円墳(箸墓古墳)が築造されたのは3世紀末、その後「5世紀後半から6世紀にかけて、大王を中心としたヤマト政権は、関東地方から九州中部に及ぶ地方豪族を含み込んだ支配体制を形成していった」(山川出版社・詳説日本史B改訂版(2020) 32頁(以下「山川教科書」))。

箸墓古墳 © 地図・空中写真閲覧サービス 国土地理院

蘇我氏が実権を握り、飛鳥の地で推古天皇が即位したのは592年、中央集権化と律令国家への道を踏み出す大化の改新は646年(改新の詔)、大宝律令が完成するのは701年である。

したがって、日本の建国についても、ヨーロッパのそれと同じ問いを問うてみる必要がある。

当時、「家族システム以前」であり「国家以前」であったはずの日本は、なぜ国家を作ることができたのだろうか。

日本の国家形成と中国

日本にとってのローマ帝国は、いうまでもなく、中国である。

中国では紀元前1100年頃に直系家族システムが定着し、すでに紀元前200-100年頃には共同体家族の帝国が生まれていた。その後もシステムの強化は続き、900-950年頃までに女性の地位の最大限の低下を伴う共同体家族に到達した。

いうまでもないことばかり書いて申し訳ないが、
日本と中国の交流の歴史は古い。

外交的交流としては、漢(前漢)の時代(前202-後8)に倭人の国が定期的に使者を送っていたとか(漢書地理志)、後漢の時代(25-220)に光武帝から印綬を贈られたとか(後漢書東夷伝)、邪馬台国の王(卑弥呼)が魏 (220-265)の皇帝に使いを送り「親魏倭王」の称号と金印、銅鏡などを贈られた (239年)(魏志倭人伝)といったことが記録に残されている。

金印 漢委奴國王印文(public domain)

4世紀には中国の南北分裂の影響で朝鮮半島にかけて高句麗、百済、新羅が生まれ、日本も加耶諸国(日本書紀では「任那」)を通じて朝鮮半島情勢に大きく関わる。日本はこの時期、朝鮮半島での外交上・軍事上の立場を有利にするため、宋(南朝)に朝貢していたという(5世紀・宋書倭国伝)。

6世紀から7世紀になると、中国は隋(589)、唐(618)が南北統一を果たし、朝鮮半島にも勢力を拡大する気配を見せる。ちょうどこの時期に政権を担った推古天皇(在位593-628)や聖徳太子(在位593-622)は、国の組織を整える作業を行う傍で、中国に遣隋使を派遣し(600年-)、外交関係の構築を図っていた。

3世紀末以降、とりわけ6世紀末以降の日本の国家形成の動きは、中国文明を中心に国際情勢が渦を巻き始める中で、日本列島にも外交・軍事上の主体としての政府が必要となったことによるものと思われる。

天皇ー中国から借りた権威

中国と対等な関係を構築していくためには、日本にも皇帝に対応する何かが必要である。そのとき生み出されたのが「天皇」だった。

村上重良先生の説明をお読みいただこう。

天皇という称号は、中国から取り入れたもので、スメラミコト、スベラギ、スベロギなどと訓(よ)んだ。‥‥中国で皇帝が天皇と称した例は、唐の高宗(在位650-683)があるのみで、中国ではもっぱら宗教上の用語である。日本での用例は、608年(推古天皇16)聖徳太子が隋に送った国書に「西皇帝(もろこしのきみ)」に対して「東天皇(やまとてんのう)」と称したとの『日本書紀』の記述が最初とされる。古代国家の大王がとくに天皇の称号を採用したのは、自己が天の神の子孫であることを強調するとともに、国の最高祭司として自ら祭祀を行い、祭りをすることによって神と一体化するという宗教的性格の強い王であることを表したものであろう。‥‥

小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)[村上重良]

「天皇」の称号がその宗教的性格を表すために選択されたという解釈は、家族システムと国家の関係を探究するわれわれには意義深い。

聖徳太子が外交文書で「天皇」を採用した後、国内で「天皇」の称号が用いられるようになったのは、天武天皇の頃だという(山川教科書39頁)。

壬申の乱(672年)で大友皇子を倒して即位した天武は、乱で(豪族を追い落として)勝ち取った強大な権力をもって中央集権的な国家体制の形成を進めた(なお、このとき天武が勝利を祈願した伊勢神宮が国家的祭祀の対象となった)。日本はこの少し前に白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗しているから(663年)、国力の強化は課題として意識されていたはずである。

日本には天武という力のある王がいて、家族システムは発達していない。この状況で中央集権的な「強い」国家を形成していくために、万世一系の神の権威が必要だったのであろう。フランクの王クローヴィスがキリスト教に改宗し、一神教の権威を身に纏ったのと同じように。

天武天皇を支えたのが伊勢の神であったとしても、天皇の権威を裏付けていたのは伊勢神宮ではないだろう。

大陸の威光に照らされることなしに、日本という国、そして、天皇という存在が生まれることはなかった。神との一体性という物語に彩られたその権威の真の源泉は、中国帝国の皇帝と並び立つ存在であるという事実の方にあったのである。

日本史の基本的対立軸
ー舶来の権威 VS 地物の権威 

そういうわけで、国家としての日本の出発点には、中国の威光に照らされた天皇の権威があった。中国由来の「舶来」の権威は、家族システムの発達を見ていなかった日本が国家を形成するには不可欠なものだった。

しかし、農耕が発達して人口が増え、やがて土地が不足していけば、日本の国土の上でも家族システムの進化が起きる。定石通りであれば、それは直系家族となるだろう。

冒頭で述べたように、日本では13世紀末から直系家族システムが形成されていく。直系家族が生成するということは、社会に縦型の権威の軸が生まれ、自律的な国家形成が可能になるということである。すでに「舶来の権威」のもとで国家が作られている土地で新たに「地物」の権威が発生すると何が起きるか。

自然の成り行きとして、「地物の権威」は自らの権威に拠って立つ国家を作ろうとする。これも自然の成り行きとして、新たな権威は既存の古い権威とぶつかる。直系家族の生成が始まると、「地物」の権威と「舶来」の権威が衝突し、勢力争いが始まるのである。

二つの権威と家族システムに着目すると、日本の歴史は、「舶来の権威」の時代から「地物の権威」の時代、つまり、大陸の威光を借りた原初的核家族の国家から、自前で構築した直系家族の国家に移行する過程として描くことができる。

家族システムが未完成の間、二つの権威はしばし並存し、綱引きをする。しかし、完成した暁には、国家の仕組みは直系家族の縦型の権威構造にしたがって組み替えられるのである。

予告編

移行過程を時代区分に照らして見ると、「舶来の権威」の時代に当たるのは飛鳥・奈良・平安時代、到達点の「地物の権威」が徳川支配の江戸時代である。

その中間に、天皇と未完成の直系家族の権威が併存し、対立・綱引きする時代(平安末期・鎌倉・室町)があり、優位を確定させた直系家族が直系家族間の覇権争いに天皇の権威を利用する時代(戦国・安土桃山)がある。それを経て、ようやく、直系家族が支配権を確立し、天皇の権威なしにやっていく時代(江戸時代)が来るのだ。 

移行期に当たる平安末期から江戸時代の開始まで‥‥そう、この時代こそ、何がなんだかよく分からない時代ですよね?

藤原家の摂関政治の後が院政で、平氏の時代かと思えば院と源氏がともに平氏を倒し、すぐに頼朝は院と対立し、その後実権を握った北条も院と争い、蒙古襲来で北条の力が落ちると後醍醐天皇が出てきて足利尊氏と一緒に倒幕したのに尊氏は別の天皇を立てて幕府を開き、南北朝の動乱はいろんな勢力を巻き込んで全国に広がって60年も続き、収まったと思ったらまたいろんな家が入り乱れて応仁の乱を戦い、誰が勝ったかよく分からないうちに戦国時代になって、やがて政治の中心は京から江戸に移るのだ。

「だから何?」「これ全部覚えて何かいいことあるの?」と高校生の私は思っただろう(覚えられなかったので受験科目は世界史を選択した)。

移行期にあたる平安末期から江戸時代の開始までは、直系家族が生成していった時代であると同時に、識字率が(たぶん)上昇を続けた「プレ近代化」の時代でもある。男性識字率50%(19世紀後半)とはいかないまでも、文字を読む層が、皇族・貴族・聖職者から武士、商人、農民(+それぞれの上層から中層)へと拡大し、政治的な発言力を持つ層が広がっていく。

識字層の拡大がもたらす成長に家族システムの進化が伴う地殻変動の時代だからこそいろいろな事件が起こるのだが、事件の意味は分かりにくい。

しかし、家族システムの進化が絡んでいることを意識すれば、それだけで、面白いほどよく分かるようになるのである。

というわけで、次回以降、家族システムの進化に焦点を当てて、「舶来の権威」の国家が「地物」直系家族の国家に生まれ変わるまでの過程を追ってまいります。

今日のまとめ

・直系家族の成立以前、原初的核家族の日本は大陸の威光を借りて国家を建設した。

・直系家族の生成が始まると、直系家族の「地物の権威」と大陸由来の「舶来の権威」が衝突した。

・近代以前の日本の歴史は、大陸の威光を借りた原初的核家族の国家から、自前で構築した直系家族の国家に移行する過程である。

  • 1
    家族システムの起源I 240頁