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社会のしくみ

ドイツ(2)
-ドイツ史概観-

   

目次

建国:クローヴィスの洗礼 (496)

今回は、ドイツがキリスト教の権威を借りて建国するところから、皇帝の権威が低下し諸侯が優位を確立するところまで一気に行く。

ドイツは建国時にはフランク王国の一部であったので、建国の事情はフランスと同じである。

ゲルマンの民、フランク族の王クローヴィス(在位481-511)が496年にカトリックの洗礼を受け、カトリック王としての権威とローマ帝国貴族の支持(と行政能力)を獲得し、「異端からの解放」の大義の下に全フランクを統一した。

というくらいを思い出していただければOKである。

カール大帝:(皇帝+教会)の蜜月

まだフランスとドイツは一体の「フランク王国」であるが、そのフランク王国とローマ教会の関係はカール大帝(在位768-814)の時代にいっそう強まった。 

カールは、フランス、ドイツ、中部イタリアを支配下に収める帝国を築き上げ、領域内のゲルマン諸部族をローマ=カトリックに改宗させる。

名実ともに「西方キリスト教世界の王」となったカールに、教皇レオ3世(ハドリアヌス1世の次)は、ローマ皇帝の帝冠を与え、西ローマ帝国の復活を宣言するのである(800年)。

教皇がカールに戴冠した背景にあったのは、ローマ教会が、ビザンツ帝国下のコンスタンティノープル教会との対抗上、強力な政治勢力による保護を必要としていたという事情である。

カールの方としても、広大な帝国を維持し、その勢力を安定させるためには、キリスト教の権威と教会の組織力が不可欠であったので、教会と皇帝の利害は完全に一致し、両者は二人三脚で「教会国家」カロリング帝国を支えることになったのだった。

青がカール即位時、赤がカールが征服した領土、黄色がカールの勢力圏
(紫はビザンツ帝国領)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Empire_carolingien_768-811.jpg

 

神聖ローマ帝国(10世紀~)

(1)オットー1世:蜜月は続く

フランク王国は(まだ原初的核家族だったので)カールの死後に3つに分裂する。

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Vertrag-von-verdun_1-660x500_japref.png

そのうち、ドイツにつながる東フランクでは、10世紀初頭にカロリング家の血統が途絶え、諸侯の選挙で王が選ばれる選挙王制となる。

936年に選挙で選ばれて即位したオットー1世(在位936-973)が、962年にローマ皇帝の戴冠を受けたのが、いわゆる「神聖ローマ帝国」の始まりである。

ローマ皇帝の名の通り、オットーもまた、「西方キリスト教世界の王」というに相応しい存在だった。

彼は「当時東方から侵入を繰り返していたアジア系マジャール人を‥‥決定的に破ってキリスト教世界の防衛に大きな成果をあげ」「東方辺境のエルベ川中・上流に軍事植民地「辺境区」を設定してこれを辺境伯に託し、スラヴ系異教徒に対する防衛体制を固め」、そして「北方や東方、デンマークやスラヴ諸民族へのキリスト教布教にも努めた」。

そしてイタリア遠征を行ってイタリアの支配権を確立したオットーが、962年にローマで皇帝に戴冠した時、彼はまさに名実ともに「西方キリスト教会の指導者」だったのである。

坂井栄八郎『ドイツ史10講』(岩波新書、2003年)30−31頁

(2)諸侯との綱引きが始まり、教会との火種が生まれる(王国教会政策)

国内統治に教会組織を活用した点もカールと同じだが、オットーの場合には、「カールの時代のようにそれ以外に方法がなかったからというよりも、世俗の大貴族勢力〔「諸侯」ー筆者注〕に対する対抗勢力として、教会を意図的かつ積極的に利用した」(坂井・31頁)、ということらしい。

オットーは、分国の支配者(公)は自身で直接任命し、それより下のレベルの地方勢力については事実上世襲を認めていた。

しかし地方の支配者が世襲的にその地方権力を固めれば、それがとかく王権から離反する傾向をもつこともまた避けがたい。

坂井・31頁

そこで、オットーは、教会組織を「王国教会」と位置付けて手厚く保護し、国の統治機構の一部とすることで、地方権力(諸侯)の離反を防ぐための重しとしたのである。

もちろん、皇帝が教会の保護を続けると、教会そのものが大きな権力を持つようになるのだが、

世俗諸侯と違って結婚しない聖職者に世襲はない

坂井・31頁

「だから任免権さえ握っていれば大丈夫」と、オットーをはじめとする歴代皇帝は(多分)思っていたのだが、長い目で見ると、そうは問屋が卸さなかったのである。

 これが聖職叙任権ですね!

「世襲はない」といってもローマ教会の聖職者はみな広い意味では親族のようなものだから、「保護」(具体的には土地の寄進や特権の付与など)を続ければ、教会組織全体の権力が肥大していくことは避けられない。

教会が皇帝の庇護を必要としなくなったときが、皇帝と教会の「蜜月」が終わるときである。教会と皇帝の間には紛争が発生し「地物」諸侯に付けいる隙を与えていくだろう。

叙任権闘争

(1)教皇 VS 皇帝

11世紀、ローマ教会周辺では、教会の腐敗や世俗化傾向を正そうとする教会刷新運動(「修道院運動」という)が活発になっていた。

  *なぜこの時期に教会組織や信仰のあり方を見直す運動が
   起きたのかは次回取り上げます。

「西方キリスト教世界の王」である神聖ローマ皇帝にとっても、教会の混乱は望ましいことではなかったので、歴代の皇帝は、この運動の精神に則って教皇庁や教会の改革を支援した。

ところが、改革が成果を上げて、教会が体制を立て直すと、教皇側は、なんと、「刷新」のロジックをそのまま用いて、皇帝を攻撃しはじめるのである。

その教皇とは、グレゴリウス7世(在位1073-85)。改革派として大教会改革を指導し、教皇権の最盛期を開くことになる人物である(日本大百科全書(ニッポニカ)[野口洋二])。

グレゴリウス7世

聖職売買や聖職者の妻帯を禁じる方針を取っていたグレゴリウス7世は、即位後まもなく、俗人による聖職叙任を禁じる勅書を発布する。俗人による聖職叙任は「聖職売買」に当たるというのがその理由である。

前項で述べたように、聖職者の任免権の掌握は、ドイツにおける「王国教会政策」の肝だった。ところが、教皇は、皇帝による聖職者の任免は「聖職売買」であるとして、これを糾弾してきたのである。

聖職叙任権をめぐる教皇との争いは、ドイツ以外(フランスやイギリス)でも起こったが、ドイツにおける闘争がとくに激しいものとなったことには理由がある。

教皇側では司教の叙任権は国王や俗人のものではないという主張を繰り返した。しかしドイツでは伝統的に国王は俗人とは見なされていなかったのである。国王はChristus Domini 〔*神の子としてイエス・キリストと同様の存在であることを意味していると思います(辰井)〕であり、いかなる人間よりも高められて聖なる職位についていると見なされていた。したがって、国王も俗人であり、司教叙任権を持たないという教皇側の主張は単に司教叙任権のみならず、国王の存在そのものに対する侵害を意味していた。

阿部謹也『物語 ドイツの歴史』(中公新書、1998年)19−20頁(太字は筆者)

そういうわけで、皇帝と教皇の叙任権闘争は大荒れに荒れ、ついに教皇は皇帝を破門するに至る。ショックを受けたドイツ諸侯は皇帝の廃位を決議(鎌倉幕府の御家人が上皇との和平を求めて執権を解任するような感じでしょうか)。

やむなく皇帝は北イタリアのカノッサ城に教皇を訪ね、雪中3日間門前に立って謝罪する。いわゆるカノッサの屈辱(1077年)である。

カノッサの屈辱(中央にひざまづくのが皇帝(ハインリッヒ4世)
左がクリュニー修道院長、右は仲介者マティルダ伯妃)

謝罪は功を奏し、皇帝は破門を解かれたが、叙任権をめぐる争い自体はまだしばらく続き、ヴォルムスの協約(1122年)によってようやく決着が付く。

(2)ヴォルムスの協約:「神の子」から俗人へ

当時の聖職者には、聖職者としての側面と行政官ないし領主としての側面があった。そこで、教皇と皇帝は、「聖職叙任権」を二つに分け、聖職者の「聖的」側面の任免権を教皇が、「世俗的」側面の任免権を皇帝が持つという形で妥協した。これがヴォルムスの協約である。

いろいろあって単純に「教皇の勝ち」とは言えないのであるが、諸侯との綱引きという観点からは、皇帝が被った打撃は決定的だった。

ドイツの文脈では、皇帝が聖職叙任権の「聖」の部分を放棄するということは、皇帝が自らその「聖性」を否定し、俗人であると認めることを意味したからである。

カールやオットーの時代には「神の子」であった皇帝は、いまやどこにでもいる世俗勢力の一人である。この時点で、もともと脆弱な国内基盤しか持っていなかった皇帝に、国内における支配的な地位を維持できる見込みはほとんどなくなっていたのである。

(3)大空位時代:「皇帝の時代」から「諸侯の時代」へ

以後、歴代の皇帝は、残された唯一の資産である「ヨーロッパの王」としての権威を保つべく、支配領域の拡大に努め、ブルグンド王国(フランス語でブルゴーニュ)からシチリア王国に至る地域に君臨したフリードリヒ2世(在位1215-50)の下で、「神聖ローマ帝国の帝権はまさに絶頂に達した」(10講37頁)と言われるまでになるのだが、それによって国内における勢力の低下に歯止めがかかることはなかった。

ここに至る前の段階で、皇帝は、すでにイタリアに遠征するにも諸侯の協力が不可欠だという状況に陥っており、領域拡大に成功したからといって国内での状況が改善する余地はなかったのである。

フリードリヒ2世

そういうわけで、フリードリヒ2世が亡くなり、その血統が途絶えると、「大空位時代」(1256-73)がやってくる。名目上の国王は選ばれたものの、誰一人、実質的な支配権を得て、正規の皇帝に認定される者はなかったという時代である。

1272年にローマ教皇に促されてハプスブルク家のルードルフを国王=皇帝に選ぶまで、ドイツ諸侯は自分たちの国王を自分たちの中から選ぶことができなかった。反面、諸侯の独立性だけはこの間に決定的に固められたのである。以後ドイツ史は「皇帝の時代」から「諸侯の時代」に入ってゆくのである

『ドイツ史10講』42頁

次回予告

今回は教科書的にドイツにおける「舶来の権威」から「地物の権威」への移行の過程を見てきたが、その背景、というか「深層」にはもちろん家族システムの進化があって、家族システムそして識字率の上昇に伴うメンタリティの変化こそが次の展開(地殻変動)をもたらすのである。

というわけで次回予定は「ドイツ的メンタリティの誕生」。
お楽しみに!

今日のまとめ

・フランク王国時代にキリスト教の権威と行政能力を借りて建国
・皇帝と教会の利害が一致し、カール大帝の時代に(皇帝+教会)統合体による支配が確立
・神聖ローマ帝国でも蜜月は続くが、皇帝の庇護(王国教会政策)が教会の成長と離反を招く
叙任権闘争で「神の子」の地位を奪われ、皇帝の権威が大きく低下。「皇帝の時代」から「諸侯の時代」へ