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戦時下日記

戦時下日記(3) インファンティーノ、ウクライナ破壊、台湾選挙、中国デモ

11月20日(日) インファンティーノ

明日からワールドカップが始まる。

ここに来てヨーロッパの各種機関や個人がカタールの人権侵害がどうのとか言っているのは見苦しい。とくに同性愛が違法な件。そんなのすぐに変えられるはずがない。

インファンティーノのコメントがその雑な感じも含めてとてもカッコよかった。

https://www.liverpoolecho.co.uk/sport/football/football-news/gianni-infantino-speech-world-cup-25556788

西洋人は3000年間謝罪してから説教しろ、というところもよかったが、多分日本語で紹介されていなくて感銘を受けたのは次の部分。

批判は理解できない。私たちがやるべきことは、彼らの役に立つこと、教育に投資をし、よりよい将来と希望をもたらすことだ。私たちはみな自分たち自身を教育するべきなのだ。もちろん多くのことは完全ではない。しかし改革や変化には時間がかかるものだ。

こういう一方的な説教はただの偽善だと思う。なぜ誰も2016年からこれまでの進歩に目を向けないのか分からない。

11月24日(木) ウクライナ破壊

ロシア軍によるウクライナへの攻撃が本気で激しくなっている様子が、私の乏しい情報網からも感じ取れる。それなのに停戦に向けた動きが全く見えない。

その通りなんだろうと思ったスレッド(下に抜粋の翻訳を付ける)。

①今日、ウクライナに残っていた4つの原子力発電所のうちの3つがウクライナのエネルギー網の中核を狙ったロシアの攻撃の結果停止されました。人口300万の都市、キエフの80%は現在電力、水、暖房がありません。では、なぜ交渉が始まらないのでしょうか。

・・

③これらの攻撃は、1年で最も寒い時期に突入しようとしているウクライナにとって、極めて破壊的なものです。重要なインフラ、特にウクライナのエネルギー網の中核を標的とした攻撃は、ウクライナ政府を交渉のテーブルにつかせようとする新しい戦略の一部であるように見えます

・・ 

⑥現地の状況に鑑みると、いまウクライナ政府にできる唯一の合理的な行動はロシア政府との交渉のテーブルにつき、停戦合意の条件を吟味することであるように思えます。何がそれを妨げているのでしょうか?

⑦2つのことがあります。第1に、バイデン政権の強硬な「対ロシア戦争推進派」がまだ決定権を握っている。今月初めに党内の進歩派がごく控えめな言葉遣いで対話路線を提案する書簡を書きましたが、バイデン政権によって1日も立たないうちに潰されました。

⑧そして第2に、ウクライナ政府は完全にナチスに乗っ取られているため、交渉に向けた一歩はどんなものであってもゼレンスキーの最後となる可能性が高い。

ゼレンスキーが自らの意思に反して行動しているといっているわけではありません。単に交渉という選択肢はないというだけです。

⑨ナチの動機がはっきりしているのに対し、アメリカが紛争を長引かせようとする意図は最近になってようやく明らかになってきました:
ーロシアとヨーロッパの間のエネルギー網を恒久的に断絶し、ヨーロッパをアメリカのガスに依存させること、
ーアメリカの新しい戦争テクノロジーをテストする実験場として機能させること。

⑩シリアに対してと同様、アメリカはウクライナを破綻国家に転落させる戦略に満足しているように見えます。戦略が成功すれば、絶望し避難を余儀なくされた大量の人々がヨーロッパに流入し、その巨大な波は今世紀に起きたどんな危機も小さく見せるでしょう。

⑪ウクライナの代理戦争とその影響は、アメリカがその「同盟国」に残す選択肢がどのようなものかを完璧に示しています:完全な服従か、失敗した帝国の崩壊を遅らせようとする哀れな企てにおける安い人質として犠牲に差し出されるかのいずれかです。

11月26日(土)台湾統一地方選挙

台湾の統一地方選挙で民進党が敗北。地方選挙ではあるが、蔡英文自身が「民主主義のための投票」として、中国に対する結束した姿勢を示すよう呼びかけていた。

ペロシの訪台とか台湾の人たちはOKなのか?、と思っていたが、これが答えかも。

11月29日(火)中国デモ

中国のデモについてのニュースがBBCやNHKでも多くなっている。

現在の(とくに若者人口が減り気味の)中国で、コロナ対応程度のことで打倒習近平、打倒共産党政権の動きが出てくるとは考えにくい。

日本の報道は中国のニュースすら英米のソースを垂れ流しているようだ。中国についてはSNSでかなり確からしい情報が手に入るのでありがたい。

扇動しているのはイギリスなのかアメリカなのか知らないが、「これ以上がっかりさせないで‥」という気持ちがつのる。

でもがまん。個人的な願望は受け流し、科学者の目で見つめるのだ。

12月3日(土) 

こうして日記などつけていると、フェイドアウトしていくニュースの存在を意識するようになる。

ノルド・ストリーム2については、スウェーデンが調査結果を報告するとか言っていたような気がしたが、続報はなし。

ポーランドへのミサイルの件も立ち消えた。

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世界を学ぶ

イランの民主化
(翻訳記事付)

目次


主要メディアを通して見るイランは、イスラム原理主義で女性を抑圧する前近代的な国家である。しかし、トッドは事あるごとに、中東で最も自由主義的で近代化が進んだ国はイランであると指摘している。

「本当のことを知りたいなー」と思っていたら、ほどよい記事が見つかった。

まずトッドによるイラン情報の骨子を確認し、それから記事をご紹介しよう。

イランの家族システム

イランの家族システムは基本的には内婚制共同体家族なのだが、アラブ世界とは違いがあるという。

 同じイスラム圏でも、イラン・トルコとアラブ世界には大きな違いがあります。その違いは、家族構造の違いとしても現れています。

 トルコ西部は、かなり核家族的な地域です。それ以外の部分は内婚制共同体家族の地域ですが、それでも内婚率はそれほど高くありません。また、イラン中央部では世帯人数が少なく、核家族の痕跡が確認できます。イラン北部のカスピ海沿岸部には、女性の地位が相対的に高い地域があります。‥‥

 ですから、女性たちの被るヴェールという見た目ばかりに気を取られてはいけません、同じイスラム圏でも、シーア派のイランは、父権性がより弱く、女性の地位がより高く、より核家族的で、より個人主義的なのです。この点を西洋は見ようとしません。ここが見えていないから、サウジアラビアに同調し、イランに対抗するというような、人類学的にはまったく不自然なことになってしまうのです。

『問題は英国ではない、EUなのだ−21世紀の新・国家論』(文春新書 2016年)136-138頁

人口動態

イランが中東で「最も」自由主義的で近代的であるということは、実際上は「トルコより」自由主義的で近代的であるということを意味する。

2020年のデータではトルコの出生率は2.04人、イランは2.14人で、両者はあまり変わらない。というかトルコの方が低い(出生率と近代化の関係についてはこちらをご覧ください)。

しかし、トルコの出生率が人口の再生産ラインである2.1を初めて下回ったのが2016年であったのに対し、イランは2000年であった。

人口動態から見た近代化は、イランの方がかなり先行していたのである。 

『文明の接近』158頁

トッドによると、トルコにおける出生率の足踏みをもたらしたのは、トルコ国内の人類学的多様性である。イラン全土の人口動態が比較的同質的であるのに対し、トルコ国内にははっきりした分裂があって、別の国かというほど性格の異なる地域があるのだ。

トルコでは、クルディスタンの出生率は、2001年から2003年にかけて、未だに女性一人当り子供4.2に達していた。それに対して、イスタンブールとトルコ中央部という先進地域では、出生率は1.8なのである。これほど著しい人口学的・社会文化的亀裂を持った国を、一個の国民国家、「一にして不可分の」トルコ共和国、と言うことができるだろうか。

『文明の接近』165頁

政治的近代性

私たちが何となく持っているトルコ、イランのイメージは、トルコは非宗教化された近代民主主義国家だが、イランは宗教的で権威主義的な国だ、というものだろう。

しかしながら、出生率の全国的ならびに地方ごとの指標は、イランはより近代的で、より同質的で、より個人主義的であることを明瞭に示唆している。しかし実は、われわれがこれまで見ようとしなかった政治的な指標も、同じことを訴えていたのである。

『文明の接近』166-167頁

イランの方がより近代的であることを示す政治的指標とは何か、
というと‥

トルコの政体は、民族主義的傾向の軍事クーデタから生まれたものであり、いささかでも逸脱の兆しがあれば厳重に対処する用意のある軍の監視下に、いまでも生き続けている。トルコの非宗教性は、個々人の自由な選択という観念と同一視することはできない。イランでは政体は、フランス、イングランド、アメリカ合衆国と同様に、本物の革命から生まれたのであり、ここでは自律的な要因としての軍は存在しない。

トッドはまた、政治的意思決定の多元性にも言及している。

この国には軍が二つある。一つは正規軍、もう一つは革命から生まれた革命防衛隊である。この二重化が実際上は政治の自律性を保障している。選挙はたしかに絶対的に自由とは言いがたい。どんな者でも立候補することができるわけではないのだから。しかしイラン・イスラーム共和国では、いつでも投票が行なわれ、多数派の交替も頻繁に起こる。不完全な民主主義ではあろうが、将来大いに見込みのある民主主義なのだ。それというのも、この民主主義は、上から下された計画の表現ではなく、住民の総体の、異議申し立てを好み政治的多元主義を好む気質の表現だからである。

167頁

ふーん、そうですか。でも‥‥

「じゃあ、ヒジャブをめぐる最近の騒ぎは何なの?」
「女性を抑圧する権威主義体制なんでしょ?」

と言いたくなりますよね?

紹介記事要旨

そこでお読みいただきたいのが下の記事である。箇条書きで要旨を付けておく。私としては「まあ、そうだろうな」と思えることばかりで、ニュースを見る度に感じていたモヤモヤが払拭された。

  • イランでは数年前から「ヒジャブなし」が普通になっていた。
  • ヒジャブを義務付ける法律は存在するが、執行は厳格ではなかった。
  • 「ヒジャブなし」が問題になるのはエルシャド(指導巡回(日本では道徳警察といわれる))がいた場合だけで、エルシャドの動員は治安が不安定な状況に限定されていた。
  • 抗議行動につながった国民の不満は、ヒジャブ法ではなく、エルシャドによる指導の行き過ぎに対するものだった。
  • イランの政治的意思決定は多元的で、ヒジャブに対する態度も一枚岩ではない。
  • 最高権力者ハメネイやイラン革命防衛隊などの国家革命機関はヒジャブ問題が外国勢力に利用されていることを懸念し、聖職者に妥協を求めている。
  • ヒジャブ法は残しつつ法執行の緩和(死文化)で対応することが見込まれるが、ヒジャブ問題を利用した国家弱体化の試みは容赦なく処罰されるだろう。

イラン:To veil or not to veil
(ベールを付けるべきか、取るべきか)
Sharmine Narwani 2022.12.09

11月の2週間の訪問中、あらゆる年代の女性たちはヒジャブを付けずに自由に街を歩いていた。私たちが知らないだけで、彼らは何年もずっとそうしていたのである。

https://thecradle.co/Article/Columns/19259

9月に始まったイランでの爆発的な抗議行動は、イスラム共和国の「ヒジャブ法」を特に対象としたものではなく、いわゆる道徳警察ーガシュト・エルシャド(単にエルシャド、あるいは「指導巡回」とも)が、不品行な服装とみなされた一般のイラン人女性に対して行った虐待と行き過ぎについてのものだった。

国民の不満の引き金となったのは、広く報道されたMahsa Aminiの死(Ershadに逮捕され拘留中に死亡した)であった。

イラン警察当局が公開したビデオ映像にはアミニが自然に倒れる様子が写っていたおり、公式の検死結果の通り「殴打」によるものというより個人的な健康歴によるもののように見えた。しかし、イランの人々は、一連の不当な取扱のストレスが引き金となったと主張した。

抗議デモは暴動に発展し、民間人と治安部隊の両方から死者が出た。双方が銃で撃ち合ったのか、外部の扇動者が関与したのかは、この論考のテーマではない。

この論考が扱うのは、こうした出来事がイランをどこに向かわせるのか、ヒジャブに対する国民の感情にイランの統治機関がどのように対応するのかという問いである。

非常に分散的なイランの意思決定

イランは、西側の主流メディアでよく描かれるような「漫画のような独裁国家」では決してない。最高指導者アリー・ハメネイ師が戦略的な事柄に関する最終的な権限を持っているが、彼が国内の批判を受けるような形でその特権を行使することはめったにない。

ハメネイは西側諸国とのイラン核協議に反対していたが、当時のハサン・ロウハニ政権が経済関係を正常化しイランの(当時の)孤立を解消したいという願いから協議に関する交渉を進めることを全面的に認めていた。

イランにおいてハメネイほど激しく、西側諸国は決して絶対に信用してはならない、イランの最大の力は経済的な自給自足と西側諸国が支配するグローバルネットワークからの完全な独立性にあると公言して憚らない人物はいないであろう。それにもかかわらず、ハメネイは、ロウハニ政権が彼の深い信念に反する政策を追及するのを平然と見過ごしたのである。

最高指導者のこうした行動は、今日のイランの意思決定プロセスが非常に拡散的であるという現実を物語っている。この国に単一の権威は存在しない。意思決定は協働的に、あるいはイランメディアや議会で繰り広げられる熱を帯びたそしてしばしば非常にオープンな論争によって、そうでなければ密室で行われる。

今日のイランには主要な権力中枢が三つある。第一は、最高指導者と陸軍、警察、イスラム革命防衛隊(IRGC)、数百万人の強力なボランティア部隊であるバシジ隊などの国家革命機関各種。

第二は、イラン政府と選挙で選ばれた大統領、その内閣、国の省庁、議会から成る国家機関。

第三は、ゴム(Qom)にあるホウゼ(神学校)。イランの宗教の中枢で、イスラム共和国の宗教解釈、行動、振る舞いに影響を与える数千人のシーア派の学者、権威、インフルエンサーから影構成されている。

3つの権力中枢はどれも様々な形で国の政策に影響を与えるが、それぞれの影響力も時によって浮き沈みがある。各中枢の中には支持者、諸機関、メディア、経済的利害、影響力のある人物の広大なネットワークが広がっており、他の民主主義社会と同様に、自分たちの意見が反映され実行に移されるよう競い合っている。

したがって、ヒジャブのような複雑で象徴性の高い案件について一人の人間や意思決定機関が何らかの指令を発することができると一瞬でも想像するなら、それはイスラム共和国の政治体制の複雑さ、諸矛盾、多様性について全く無知であるということを意味する。

現地の様子

11月下旬の2週間にわたるテヘラン訪問の際、私はコロナによる渡航制限のせいで2020年にストップする以前の多くの訪問の時と大きな違いがあることに気づいた。

2020年にイランの首都を訪れたときには、レストランでヒジャブをかぶらずに座っているイラン人女性を時折見かけることがあるという程度だったのが、今回、女性たちは街なか、ショッピングモール、空港、伝統的なバザール、大学、公園など、山の手も下町も関係なくあらゆる場所で、伝統的なヘッド・カバーを付けずに歩いていたのである。

下に掲載するのは、私が市内のさまざまな場所で撮影した写真である。

イランのヒジャブをめぐる議論でもっとも重要なのは、この「ヘッドカバーなし」のトレンドが9月の抗議行動とともに始まったわけではないということである。この決定的な事情は、西側メディアではまったく触れられていない。

イラン人女性の多くが、すでにヘッドスカーフを脱いでおり、何年も前から上の写真のような光景が普通になっていた。パンデミックのせいで社会的規範が緩和されたのだろうか?誰に聞いてもはっきりした答えは返ってこない。「ただこれが普通になっただけ」と口々に言うだけだ。

今日のイランでは、年齢を問わず、ヒジャブなしの女性、ヘッドスカーフをした女性、より伝統的な床まである長いチャードルを身につけた女性が同じ通りを一緒に歩いている。みな自分の好きなように、他人のことは気にせずに。

非常に興味深い展開といえる。なぜなら、イランではヒジャブの着用は法律で義務付けられているからだ。しかしエルシャドがひょっこり姿を現さない限り、誰もこの法律を強引に執行しようとすることはないのである。

これは重要な点である。なぜなら、エルシャドはいつでもどこにでもいるというわけではないからだ。エルシャドは2006年から業務を開始したが、イラン当局は彼らを特定の時期にしか動員していないように見える。ゴムが倫理的な案件をめぐって落ち着かない状態になっているときや、保守派が改革派と争っているとき、国境で地政学的な緊張が起きているときなどである。

ともかく、エルシャドはイランの街角にいつも存在するわけではなく、普通は国内のどこかで政治的に何かが起きているときにのみ登場するのである。

当局者はヒジャブ問題を議論している

それにも関わらず、3カ月に及ぶ抗議行動とその後の暴動を経て、ヒジャブをめぐる議論はイスラム共和国で影響力を争う3つの権力中枢の間で山場を迎えているようだ。

私の個人的な経験では、イスラム革命防衛隊のようなイランの治安部門(ハメネイの下で活動している)はヒジャブの問題そのものについて戦闘的な姿勢を示すことは決してない。彼らは外国からの侵入、破壊工作、反テロ作戦、戦争に集中しており、日常生活や人々の立居ふるまいには関心を持っていない。

ヒジャブはイスラム共和国の「シンボル」である。そしてシンボルは、西アジアなどで戦われた無数のハイブリッド戦争を見れば明らかなように、外部の扇動者たちが最初に狙う安直なターゲットである。

抗議の象徴として国旗の色を変えたり、国家に代わる短い歌を作ったり、女性たちにヘッドスカーフを脱いでビデオに撮るよう勧めたり。いずれにせよ、これらはハイブリッド戦争の手っ取り早い手段なのである。

2018年1月、治安当局者や「保守派(principalist)」などの限定的な読者を対象とした出版物のインタビューで、シリアとイランにおけるこうした手段の使用について質問を受け、私は以下のように答えた。

象徴的なスローガン、横断幕、プラカードは、西側スタイルの「カラー革命」の定番です。イランでは2009年の選挙期間中に行われた「グリーン」運動のときに、こうしたツールが威力を発揮していました。運動のメッセージや目標を幅広い聴衆に対して一瞬で伝えることができる視覚的ツールの使用は、マーケティングの基本といえます。これまでも選挙のときには用いられていましたが、今では地政学レベルの情報戦においても効果的に活用されるようになっています。

シリアで植民地時代の緑色の旗が使われたのは、より多くのシリア人を即座に「反対派」チームに引き込む手段でした。基本的に、政府に対して不満を持っている人なら誰でも、その不満が政治、経済、社会、宗教のどれに関わるものであろうと、この新しい旗を掲げた抗議運動に参加したいという気持ちにさせられました。シリアの活動家たちは金曜の抗議行動に名前を付けることで、大衆の動員に成功しました。彼らは言葉の力を使って抗議の方向性を作り上げ、徐々にイスラム化の方向に進めていったのです。

スローガンや看板は、国民の中の強い主義主張のない層の関心を引いて反政府的な立場に立たせるプロパガンダの簡単なトリックです。人々の自己同一化を可能にするツールは政権転覆作戦の不可欠な構成要素となっています。新たなシンボルを作るために、既存の国家的シンボルを否定する必要があるというわけです。

イランではヒジャブを付けない若い女性の画像が抗議のシンボルとして瞬く間にSNS上に広がりました。皮肉なことですが、ヒジャブは1979年のイスラム革命にとってのシンボル、その政治的・宗教的な意味を一瞬で示すことができる看板でもあります。そのため、外国が支援するプロパガンダ攻撃においては、ヒジャブはほとんど常に、否定とあざけりの対象となるのです。

このインタビューはヒジャブをしていない私の写真とともに掲載された。数週間後、私は、イスラム革命防衛隊のクドス部隊と密接な関係にあるとされるイランのトップアナリストからメールを受け取った。彼はインタビューのスクリーンショットを送ってきて、これは私が書いたものかと尋ね、驚いたことに、私の見解に全面的に賛成だと述べた。

なお、これ以外にも、イスラム革命防衛隊が関係する出版物「Javan」から、雑誌の特集号にシリアに関する私の記事の翻訳とインタビューを載せたいと依頼を受けたことがあるが、このときも、彼らはヒジャブなしの私の写真を掲載した。

ヒジャブと国家

一言でいえば、イランの治安部門にとってヒジャブは優先事項ではない。彼らはほかにもっと重要な懸案を抱えている。しかし、ゴムの内外の神学者にとってはヒジャブは枢要なテーマである。

そして、おそらく、ヒジャブをつけることを選び、それによって迫害されることー1936年、当時の君主レザー・シャー・パーレビがイスラム教の伝統的な頭巾を禁止したときの彼女たちの祖母のようにーを望まない何百万のイラン人女性にとっても、同様に重要である。

ヒジャブが禁止されたことで、多くの女性が何年も家に閉じこもり、あるいは夜間や馬車に身を隠してしか外出しなかった。警察を避けるためである。警察は必要であれば力づくでベールを剥ぎ取った。当時は年配のキリスト教徒やユダヤ教徒の女性たちにとっても、ヘッドスカーフの禁止に従うのは難しかったのだ

マリアム・シネーは書いている。皮肉なことに、これを出版した(サウジ政府が関係する)会社(Iran International)は、最近ではイランの反政府主義者のプロパガンダを24時間365日実施している。

これらの問題はともかく、イランの治安部門の指導者たちは、今日、聖職者たちにかつてないほど強い異議を申し立てている。
「私たちが敬意を抱くヒジャブが、国家安全保障の領域に入りつつある。外国に支援された政権転覆計画がヒジャブをその武器として利用しているのだ。」
これは、近時の状況に鑑みても、聖職者が賛成できる立場ではない。

イラン当局が脅威を取り除くために、エルシャドの停止や解散、その代替としてのイスラムの節度に関する(男女を問わない)全国的な教育プログラムの導入を含む様々な選択肢を検討しているとされるのは、おそらくこうした懸念のためであろう。

前イラン大統領マフムード・アフマディネジャド政権の下で設立されたエルシャドは、何週間も前から街頭から姿を消している。イランの3つの権力中枢は、国民の間に残る緊張を鎮め社会的不満に対処する方法を熱心に議論している。

興味深いことに、この展開はペルシャ湾を挟んだ宿敵サウジアラビアの状況とどこか似ている。サウジでは2016年の勅令で「ムタワ」(サウジの宗教警察)のかつては無制限であった権限と特権が剥奪された。それ以来、サウジの成文法に変化はないにもかかわらず、女性が公の場でベールを脱ぎ、伝統的な黒いアバヤを纏わず通常の衣服でいるのを見ることはいっそう普通になった。

ゴムや他の機関がヒジャブ法の廃止に同意することはないだろう。元々、論争の原因は一部の者による過剰な法執行にあったのだ。イランのヒジャブ法は、どの国の法典にもある多くの死文化した法律と同じような運命をたどることになるのかもしれない。

しかし、ヒジャブに関する態度の緩和が期待されるとしても、それは、敬虔さの象徴であるヒジャブを利用して国家を弱体化させる試みに対する容赦のない取り締まりを伴うものとなるだろう。

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社会のしくみ

日本史概観(2)
-摂関政治、院政と平氏-

目次

平安末期ー父系の強化

飛鳥時代から平安時代までは、天皇を中心とした王侯貴族が大陸文化の独占によってその権威を保った時代であり、「舶来の権威」そのものの時代といえる。

しかし、その後半になると、天皇家を中心とした政権の枠内で、天皇親政から藤原氏による摂関政治(967-1068)、院政(1086~)へという推移が起こる。

この動きが家族システムと関連していることは明らかと思われる。なにしろ「天皇親政→摂関政治→院政」の変化とは、政治の実権が「天皇本人→母方親族→父方親族」に移行したことを意味しているのだから。

何がこのような変化をもたらしたのであろうか。 

摂関政治ー「舶来の権威」がもたらした女性重視の文化

摂関政治とは、藤原氏が天皇の外戚(母方の親戚)としての地位を確保したことで国政を支配した仕組みである。 

藤原北家は9世紀初めごろから、陰謀と天皇家との婚姻で徐々に一族内の他家、他氏排斥を進めた。当時、皇子の養育は母方の家で行われたので、皇子の母方の祖父は、皇子に大きな影響力をもった。この仕組みを巧妙に利用して、11世紀には道長が、その次の頼通も、意のままに国政を左右し、この世の栄華を誇った。

武光誠・大石学・小林英夫監修『地図・年表・図解でみる 日本の歴史 上』
(小学館 2012年)71頁

なるほど。しかし、そもそもなぜ、皇子の養育を母方の家で行うという仕組み(母方居住)が取られていたのだろうか。

母方居住とは、子供の養育における母親の役割をより重視するシステムである。当時の日本はまだ強固な父系社会ではなく、父母の重要度に大きな差異はなかった(双方系)と見られるが、母方居住が制度化されていたということには何らかの説明が必要であろう。

これには、当時の国家が「舶来の権威」によって成り立っていたというその事情がまさに関係しているように思われる。

推古天皇ー聖徳太子の頃から、皇族や貴族にとってもっとも重要だったのは中国の先進的文化に関する知識だった。律令制度による政治の仕組みが整った後は、皇族・貴族がもっとも重視したのは、学問的・文学的素養であり、彼らは文字を読み、詩歌を作り、儀式に習熟することで、その権威を保っていたのである。

源氏物語絵巻第38帖「鈴虫」(12世紀、五島美術館蔵)

いかなる家族システムの社会においても、幼い子供に読み書きを教え、教育的な雰囲気を涵養するのは母親である(トッド『世界の多様性』312頁以下等)。

当時の皇族・貴族が大陸由来の文字文化の担い手であることによって地位を保持していたことを考えれば、彼らが子供の養育を母方で行うようになるのは自然なことであろう。

母方居住の慣習により存在感を高めた藤原氏が、天皇の後宮に入れた娘たちの側近として教養の高い女性たちを登用し、『源氏物語』『枕草子』に代表される文学の興隆をもたらしたのも、故なきことではない。

* なお、この点についてトッドが立てている仮説は私のとは違う。彼は、藤原氏の覇権をもたらした母方居住を、中国の父系原則の流入に対する「補償的母方居住反応」と見ている(起源I・上239頁)。つまり、父系原則の流入による女性の地位低下(母系の価値観の衰退)を埋め合わせるために発生した習慣ではないかというのである。

人類学に関する私自身の専門性の低さからすると「ええ、そうかもしれませんね‥」としか言いようはないのだが、大宝律令(702年)が中国に学んである程度の父系原則を取り入れた後、養老律令(718年)では父系原則はむしろ後退しているし、その後も父系原則が中国から順調に伝播したという様子は見えない。

遣隋使の派遣により中国との公式の接触が再開(600年)したのと同時期に日本が女帝の時代を迎えたこと(593年の推古天皇から770年までに6名の女性天皇が誕生)については、中国の強固な父系原則に対する反作用と見るトッドの立場に説得力を感じるが、藤原氏の時代の母方居住の制度化(いつから始まったのが不明だが一応この時代に強まったと仮定する)については、その説明だけでは少し弱いと私は感じる。

トッドが指摘する女性的文学の登場も、どちらかというと「中国と日本の二元性が母方居住を生み出した」というよりは、「母方居住の習慣が女性的な文化の登場を可能にした」という順序ではないかと感じる。

院政ー「父系重視」の波

他方、院政は、院(上皇・法皇)が、天皇家の家長として天皇を後見するという体で実権を掌握する方式である。政治の実権は、後三条天皇の親政(1068-72)を介して、藤原氏の母方支配から父方支配の院政へと正反対に振れたことになる。

院政が始まったのは、地方で武士が台頭し、源氏と平氏を棟梁としてまとまりを見せていくのと同時期のことである。

したがって、院政の誕生は、かなり単純に、地方の勢力が軍事・行政上の実力を高め一大勢力として台頭してきたことへの、朝廷側の対応と理解することができる。

この時期、直系家族の中核的要素である長子相続の習慣はまだ発生していない。長子相続を促す「土地の不足」が生じるのは武士による所領の大規模開発が進む12世紀末のことである。

しかし、新興勢力が勢力を拡大するために武装し、紛争を多発させるという状況が、家の一体性の重視、そして父系(男性)の重視という傾向を生み出すことは容易に想像できよう。

要するに、この時代は、権力の基盤が「舶来もの」の文化的威信から在地勢力の実力に移行する過程の中で、直系家族の一要素を成す「父系権威の重視」の傾向が生まれた時代だった。

「実力」が問題となりつつある以上、天皇家も安穏と歌や儀式に興じてばかりはいられない。勢力の維持・拡大のためには、皇室も父系原則を取り入れ、新興勢力に伍していく必要があった。

そのような状況で開始されたのが院政の仕組みであり、院政とは在地の武士の間で高まった「父系重視」の波の天皇家バージョンなのである。

『平治物語絵巻』 三条殿焼討 ボストン美術館所蔵。平治の乱(1159年)

源氏と平氏ー貴族と武士の中間で

このように見ると、源氏や平氏と院の微妙な関係性も分かりやすくなる。いや、みんなは分かっているのかもしれないが、私はずっとよく分からなかったのだ。

まず、「天皇の時代→武士の時代」(舶来の権威→地物の権威)の移行期における源氏・平氏の活躍は、彼らが貴族でありかつ武士であるという中間的な存在であったことが大きい。

源氏と平氏はどちらも天皇の血筋である。皇室は平安前期から経費節減のために皇族を臣籍に下すことをするようになり、そのときに彼らに授けた姓が源氏であり平氏であった(清和源氏とか桓武平氏とかいうのは直近の祖先である天皇の名前である)。

彼らはやがて武士として力を付けていくけれども、高貴な血筋であることに違いはなく、「軍事貴族」(山川教科書にこの表現がある)とでもいうような存在であったのだ。

彼らは地方の武士からは高貴な血を引くリーダーとして慕われ、武家の棟梁としての地位を固める。一方、皇族や貴族にとっても身内として頼りにしやすい存在であったので、摂関家や院に奉仕することで、中央での地位を高めていった。

宮廷の時代を終わらせた平清盛

そういうわけで、まず、院政とともに平氏の時代がやってくる。歴代の上皇が軍事力の要として平氏を重用し彼らがそれに答えたからだ。平氏にとっても、中央でのし上がっていくためには上皇の力が必要だった。

しかし、政治の中枢に近づくにつれ、見えてくるのは「平氏こそが実力者である」という事実だった。彼らの背後には家人として従う全国の武士団とその土地があり、行政・経済の面における実力でも劣るところはない。

実力の時代に差し掛かっていたからこそ、平清盛は「だったら自分が頂点に立てばいいじゃん」と思った。一方で、まだ「舶来の権威」は健在であったので、清盛は天皇の外戚としての地位を確保し、一族で官職を独占するなど、往時の藤原氏のようにふるまった。

「貴族のようにふるまう武士」として専制的な権力を振るった平氏は、院をはじめとする皇族・貴族(+寺社勢力)と武士の双方から反感を買い、その覇権はまもなく終わる。

しかし、平氏を倒すための戦いで活躍し、その地位を高めていったのもやはり武士勢力だったのである。

朝廷を乗っ取り、貴族の衣を纏って自爆した平氏は、そのことによって、皇族・貴族の時代を終わらせたのだといえる。

それあってこそ、鎌倉の武士たちは、実直な武士のやり方で「地物の権威」を確立していくことができたのだ。

今日のまとめ

  • 平安期の政治は「天皇親政(天皇本人)→摂関政治(母方支配)→院政(父方支配)」と推移した。
  • 「母方支配」の基礎は母親の教育力であり、皇族・貴族が大陸由来の文字文化を担うことで権威を保っていた時代の産物である。
  • 「父方支配」の院政は、武士の間で生まれた父系傾向の天皇家バージョンである。
  • 移行期における源氏・平氏の活躍は、彼らが貴族と武士の中間的存在であったことによる。
  • 平氏は、貴族の衣を纏って自爆することで皇族・貴族の時代を終わらせた。

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社会のしくみ

日本史概観 (1)
-建国の秘密-

日本にも秘密がある

10世紀末に直系家族の「権威」が誕生する以前、原初的核家族のヨーロッパが国家を作ることができたのは、ローマ帝国の遺産であるキリスト教の権威を借り受けたためだった。

   *直系家族の「権威」と国家の関係についてはこちらこちらをご覧ください。

日本における直系家族の誕生は13世紀末から14世紀初頭(鎌倉時代後半)とされる1家族システムの起源I 240頁。日本もそれ以前は原初的核家族であったわけだが、その時期にすでに国家が成立していたことは明らかであろう。

ヤマト王権誕生の地と見られる纏向に大型の前方後円墳(箸墓古墳)が築造されたのは3世紀末、その後「5世紀後半から6世紀にかけて、大王を中心としたヤマト政権は、関東地方から九州中部に及ぶ地方豪族を含み込んだ支配体制を形成していった」(山川出版社・詳説日本史B改訂版(2020) 32頁(以下「山川教科書」))。

箸墓古墳 © 地図・空中写真閲覧サービス 国土地理院

蘇我氏が実権を握り、飛鳥の地で推古天皇が即位したのは592年、中央集権化と律令国家への道を踏み出す大化の改新は646年(改新の詔)、大宝律令が完成するのは701年である。

したがって、日本の建国についても、ヨーロッパのそれと同じ問いを問うてみる必要がある。

当時、「家族システム以前」であり「国家以前」であったはずの日本は、なぜ国家を作ることができたのだろうか。

日本の国家形成と中国

日本にとってのローマ帝国は、いうまでもなく、中国である。

中国では紀元前1100年頃に直系家族システムが定着し、すでに紀元前200-100年頃には共同体家族の帝国が生まれていた。その後もシステムの強化は続き、900-950年頃までに女性の地位の最大限の低下を伴う共同体家族に到達した。

いうまでもないことばかり書いて申し訳ないが、
日本と中国の交流の歴史は古い。

外交的交流としては、漢(前漢)の時代(前202-後8)に倭人の国が定期的に使者を送っていたとか(漢書地理志)、後漢の時代(25-220)に光武帝から印綬を贈られたとか(後漢書東夷伝)、邪馬台国の王(卑弥呼)が魏 (220-265)の皇帝に使いを送り「親魏倭王」の称号と金印、銅鏡などを贈られた (239年)(魏志倭人伝)といったことが記録に残されている。

金印 漢委奴國王印文(public domain)

4世紀には中国の南北分裂の影響で朝鮮半島にかけて高句麗、百済、新羅が生まれ、日本も加耶諸国(日本書紀では「任那」)を通じて朝鮮半島情勢に大きく関わる。日本はこの時期、朝鮮半島での外交上・軍事上の立場を有利にするため、宋(南朝)に朝貢していたという(5世紀・宋書倭国伝)。

6世紀から7世紀になると、中国は隋(589)、唐(618)が南北統一を果たし、朝鮮半島にも勢力を拡大する気配を見せる。ちょうどこの時期に政権を担った推古天皇(在位593-628)や聖徳太子(在位593-622)は、国の組織を整える作業を行う傍で、中国に遣隋使を派遣し(600年-)、外交関係の構築を図っていた。

3世紀末以降、とりわけ6世紀末以降の日本の国家形成の動きは、中国文明を中心に国際情勢が渦を巻き始める中で、日本列島にも外交・軍事上の主体としての政府が必要となったことによるものと思われる。

天皇ー中国から借りた権威

中国と対等な関係を構築していくためには、日本にも皇帝に対応する何かが必要である。そのとき生み出されたのが「天皇」だった。

村上重良先生の説明をお読みいただこう。

天皇という称号は、中国から取り入れたもので、スメラミコト、スベラギ、スベロギなどと訓(よ)んだ。‥‥中国で皇帝が天皇と称した例は、唐の高宗(在位650-683)があるのみで、中国ではもっぱら宗教上の用語である。日本での用例は、608年(推古天皇16)聖徳太子が隋に送った国書に「西皇帝(もろこしのきみ)」に対して「東天皇(やまとてんのう)」と称したとの『日本書紀』の記述が最初とされる。古代国家の大王がとくに天皇の称号を採用したのは、自己が天の神の子孫であることを強調するとともに、国の最高祭司として自ら祭祀を行い、祭りをすることによって神と一体化するという宗教的性格の強い王であることを表したものであろう。‥‥

小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)[村上重良]

「天皇」の称号がその宗教的性格を表すために選択されたという解釈は、家族システムと国家の関係を探究するわれわれには意義深い。

聖徳太子が外交文書で「天皇」を採用した後、国内で「天皇」の称号が用いられるようになったのは、天武天皇の頃だという(山川教科書39頁)。

壬申の乱(672年)で大友皇子を倒して即位した天武は、乱で(豪族を追い落として)勝ち取った強大な権力をもって中央集権的な国家体制の形成を進めた(なお、このとき天武が勝利を祈願した伊勢神宮が国家的祭祀の対象となった)。日本はこの少し前に白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗しているから(663年)、国力の強化は課題として意識されていたはずである。

日本には天武という力のある王がいて、家族システムは発達していない。この状況で中央集権的な「強い」国家を形成していくために、万世一系の神の権威が必要だったのであろう。フランクの王クローヴィスがキリスト教に改宗し、一神教の権威を身に纏ったのと同じように。

天武天皇を支えたのが伊勢の神であったとしても、天皇の権威を裏付けていたのは伊勢神宮ではないだろう。

大陸の威光に照らされることなしに、日本という国、そして、天皇という存在が生まれることはなかった。神との一体性という物語に彩られたその権威の真の源泉は、中国帝国の皇帝と並び立つ存在であるという事実の方にあったのである。

日本史の基本的対立軸
ー舶来の権威 VS 地物の権威 

そういうわけで、国家としての日本の出発点には、中国の威光に照らされた天皇の権威があった。中国由来の「舶来」の権威は、家族システムの発達を見ていなかった日本が国家を形成するには不可欠なものだった。

しかし、農耕が発達して人口が増え、やがて土地が不足していけば、日本の国土の上でも家族システムの進化が起きる。定石通りであれば、それは直系家族となるだろう。

冒頭で述べたように、日本では13世紀末から直系家族システムが形成されていく。直系家族が生成するということは、社会に縦型の権威の軸が生まれ、自律的な国家形成が可能になるということである。すでに「舶来の権威」のもとで国家が作られている土地で新たに「地物」の権威が発生すると何が起きるか。

自然の成り行きとして、「地物の権威」は自らの権威に拠って立つ国家を作ろうとする。これも自然の成り行きとして、新たな権威は既存の古い権威とぶつかる。直系家族の生成が始まると、「地物」の権威と「舶来」の権威が衝突し、勢力争いが始まるのである。

二つの権威と家族システムに着目すると、日本の歴史は、「舶来の権威」の時代から「地物の権威」の時代、つまり、大陸の威光を借りた原初的核家族の国家から、自前で構築した直系家族の国家に移行する過程として描くことができる。

家族システムが未完成の間、二つの権威はしばし並存し、綱引きをする。しかし、完成した暁には、国家の仕組みは直系家族の縦型の権威構造にしたがって組み替えられるのである。

予告編

移行過程を時代区分に照らして見ると、「舶来の権威」の時代に当たるのは飛鳥・奈良・平安時代、到達点の「地物の権威」が徳川支配の江戸時代である。

その中間に、天皇と未完成の直系家族の権威が併存し、対立・綱引きする時代(平安末期・鎌倉・室町)があり、優位を確定させた直系家族が直系家族間の覇権争いに天皇の権威を利用する時代(戦国・安土桃山)がある。それを経て、ようやく、直系家族が支配権を確立し、天皇の権威なしにやっていく時代(江戸時代)が来るのだ。 

移行期に当たる平安末期から江戸時代の開始まで‥‥そう、この時代こそ、何がなんだかよく分からない時代ですよね?

藤原家の摂関政治の後が院政で、平氏の時代かと思えば院と源氏がともに平氏を倒し、すぐに頼朝は院と対立し、その後実権を握った北条も院と争い、蒙古襲来で北条の力が落ちると後醍醐天皇が出てきて足利尊氏と一緒に倒幕したのに尊氏は別の天皇を立てて幕府を開き、南北朝の動乱はいろんな勢力を巻き込んで全国に広がって60年も続き、収まったと思ったらまたいろんな家が入り乱れて応仁の乱を戦い、誰が勝ったかよく分からないうちに戦国時代になって、やがて政治の中心は京から江戸に移るのだ。

「だから何?」「これ全部覚えて何かいいことあるの?」と高校生の私は思っただろう(覚えられなかったので受験科目は世界史を選択した)。

移行期にあたる平安末期から江戸時代の開始までは、直系家族が生成していった時代であると同時に、識字率が(たぶん)上昇を続けた「プレ近代化」の時代でもある。男性識字率50%(19世紀後半)とはいかないまでも、文字を読む層が、皇族・貴族・聖職者から武士、商人、農民(+それぞれの上層から中層)へと拡大し、政治的な発言力を持つ層が広がっていく。

識字層の拡大がもたらす成長に家族システムの進化が伴う地殻変動の時代だからこそいろいろな事件が起こるのだが、事件の意味は分かりにくい。

しかし、家族システムの進化が絡んでいることを意識すれば、それだけで、面白いほどよく分かるようになるのである。

というわけで、次回以降、家族システムの進化に焦点を当てて、「舶来の権威」の国家が「地物」直系家族の国家に生まれ変わるまでの過程を追ってまいります。

今日のまとめ

・直系家族の成立以前、原初的核家族の日本は大陸の威光を借りて国家を建設した。

・直系家族の生成が始まると、直系家族の「地物の権威」と大陸由来の「舶来の権威」が衝突した。

・近代以前の日本の歴史は、大陸の威光を借りた原初的核家族の国家から、自前で構築した直系家族の国家に移行する過程である。

  • 1
    家族システムの起源I 240頁
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戦時下日記

戦時下日記(11月7日-20日)

11月7日(月)

ノルド・ストリームの続報。

ロシアの対外情報庁長官セルゲイ・ナルイシキン(Sergey Naryshkin)が、トラス元英首相からブリンケン米国務長官へのメール(”It’s done”)を「間接的に」確認したと述べている。この「間接的に」とは、中国の諜報部門経由という意味だろう、というのがKim Dotcom氏の見立て。

ロシアからの報復については「最も懸命なやり方は何もしないこと」と指摘していて深く納得した。

なぜならロシアは勝っているからだ。メディアは報道しないが独立系の軍事専門家たちは、軍備の再増強を経て行われるこの冬の攻撃によってウクライナは倒れるだろうという意見で一致している。アメリカとNATOがどれだけの武器を追加でウクライナ軍に送ったとしても。

となればノルドストリームへの最も効果的な報復は報復しないことだ。誰がやったかはみな知っている。非西側諸国の目にはロシアと中国はますます思慮深く理性的なアクターに見えている。BRICSとその同盟国は支持を獲得する。新たな財政システムを伴う多元的秩序の誕生は不可避に見える。

ロシアは「報復を発表する」とか言いながら結局何もしていないようなので、その説明にもなっている。

11月10日(木)

アメリカのシリア=イラク国境への爆撃で民間人の死者30人。石油を運搬する船とか。

詳しく調べていないが、アメリカはシリアの資源(石油、ガス、小麦)の大半を略奪し続けていると言われているので、その関連か。

11月14日(月)

イスラエルがシリアに爆撃。

11月15日(火)

戦時下日記を書き始めたら「もう新しい秩序が始まっているのだ」という理解がやってきて、早くもやる気が低下していたところに大きなニュース。

13日のイスタンブールでの「テロ」とされる爆発事件(6人死亡、80人以上負傷)。直前にエルドアンがウクライナ戦争に関するアメリカの態度を非難するような発言をしていたので、CIAの関与を推測する声が聞かれたが、「まさかトルコほどの国に対してそれはないんじゃ」と思っていた。

だがしかし、今日のトルコ内務大臣のコメント。

私たちはこの事件がどのように仕組まれたか分かっています。この事件がどこから仕組まれたかも分かっています。この事件が伝えようとしているメッセージを理解しています。私たちはアメリカ大使の哀悼を受け入れません。拒絶します。

https://www.aa.com.tr/en/turkiye/turkiye-does-not-accept-us-condolence-over-istanbul-terrorist-attack-interior-minister-soylu/2737533

ーーー

先週末にロシア軍がヘルソン州の州都ヘルソンから軍を撤退させたニュースがあり、いろいろ総合すると、川向こうの州都ヘルソンに兵を置いておくことには物資の補給などの観点から不安があるのでロシア兵に多数の死者を出さないために(プーチン大統領が一番恐れているのはそれ、という意見に私は納得している)とりあえず一旦引いた、というような話に見える。

それが正しいかどうかはともかく、趣旨がまったく分からない状態で、ロシアが正式に発表して兵を引いた事実を、まるでウクライナの勝利であるかのように報道するBBCやらNHKには驚く。新聞(私が見てるのは中国新聞だけ)にも批判精神はまったく見られない。

でもまあずっとそうだったんだろうな~。
太平洋戦争中の日本の人たちの気持ちが今わかる。

一部の人たちは、ウソであることがはっきり分かっている。
だからといって何ができるわけでないことも分かっている。

それ以外の人たちも、全面的に信じているわけではないが、真実を知ったからってどうなるものでもないから、何となく信じているような顔をして暮らしている。

だから戦後になっていろいろウソだったことが分かり、戦勝国の方針にしたがって教えられ報道される内容がガラリと変わっても(そっちが本当というわけでもないのだが)、「やっぱりそうか」という感じで、全然対応できてしまうのだ。

衝撃を受けるのは生真面目な子供たちだけ、という。

今回、それが日本だけのことではないと分かったのがとにかく収穫だった。

11月16日(水)

ポーランド側の国境地帯にミサイルが着弾と報道。
ウクライナのミサイルである様子。

11月18日(金)

トッドが「ポーランドは要注意」と言っていたのを思い出したが、とりあえずアメリカ・NATOは大ごとになるのを避けようとしているのが感じられる。

しかし、ウクライナ政府は、ウクライナ国内の戦況についてはどんな虚偽・誇張を言っても許されるのに、ウクライナから西に戦線拡大の気配が見られた瞬間にはっきり否定されるという状況をどう感じるのだろうか。

ウクライナはどうなってもいいけど、他はダメ、という明確な意思表示を。

11月19日(土)

2014年のウクライナ東部上空でのマレーシア航空旅客機撃墜の判決。

1994年に発生したエストニア号沈没事件(NATO軍の船との誤衝突が隠蔽された強い疑いがあるという)との類似性を指摘する声を聞いた。

エストニア号の調査に深く関わったスウェーデンはまもなくノルド・ストリームの関連の報告書を出すとか。どういうクレンジングが行われるのか。楽しみ。

今回のもう一つの収穫は、ヨーロッパ各国も相当にアメリカの「ポチ」であるとわかったこと。全然よいことではないけれど、真実を知るのはよいことだ。

11月20日(日)

イスラエルがシリアに今週二度目の爆撃。

しかし(?)アメリカが現在関与している最低最悪の戦争はイエメンなのだという(Scott Horton情報)。ウクライナよりひどいという意味だ。今度調べよう。

広島では葉っぱの大きいモミジをよく見かける。もみじまんじゅうのモミジはこっちなのかも。

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世界を学ぶ

ルーラとBRICSと世界の未来(翻訳記事付)

ブラジル大統領選で勝利したルーラ(愛称を正式の名前に入れ込んだものらしい。だから「ルーラ」でいいと思う)はBRICSの創設メンバーの一人である。

彼の勝利はいわゆる「グローバル・サウス」の人たちに大いなる希望として映っている。ウクライナ危機のおかげで「米国(ドル)のヘゲモニー崩壊→多元的秩序の形成」という道筋が具体的に見えてきて勢い付いているところに、信頼できるリーダーが一人加わるということだから。

BRICSは、当初は成長著しい4ヵ国(ブラジル、ロシア、インド、中国)をまとめて呼ぶための(投資家目線の)名称にすぎなかったが、2009年に本人たちが4ヵ国の首脳会議を開催し、以後「加盟」という概念が成立する公式の国際組織に成長している。

*当初4ヵ国のときは「BRICs」と書いていたが南アフリカが加わって「BRICS」になった。

そのときブラジルの大統領だったのがルーラだ。

これははっきりウクライナ危機の影響だと思うが、今年の7月頃から多くの国が関心を見せはじめ、アルゼンチン、アルジェリア、イランがすでに正式に加盟申請、ほかにサウジアラビア、トルコ、エジプト、アフガニスタン、インドネシアの申請が見込まれ、カザフスタン、ニカラグア、セネガル、タイ、UAEが関心を示しているとされている。

https://www.silkroadbriefing.com/news/2022/11/09/the-new-candidate-countries-for-brics-expansion/

地図にするとこんな感じ。

https://www.silkroadbriefing.com/news/2022/11/09/the-new-candidate-countries-for-brics-expansion/

イムラン・カーンがパキスタンの首相になったら間違いなくパキスタンもこの動きに乗るだろう。ユーラシア大陸の重心が移動していくのがはっきり感じられるではないか。

迂闊に立てた予測が眼前に近づいているようで興奮してしまう..)

ーーー

ルーラについての手頃な記事があったので、翻訳を付けておきます(各項目に要旨も付けました)。

これはラテン・アメリカの話が中心だが、パレスチナ問題などでもその指導力に期待する声が上がっているらしい(https://www.mintpressnews.com/how-lula-da-silva-victory-opportunity-palestine/282720/)。

いろいろ楽しみですね。

 

ルーラの勝利が米国主導の世界を変える4つのルート(Ted Snider)

https://original.antiwar.com/ted_snider/2022/11/01/four-ways-lulas-victory-will-reshape-the-us-led-world/

10月30日、ルイス・イナシオ・ルーラ・ダ・シルバ前大統領が再びブラジルの大統領に就任することが決まった。

第一回投票では48%対43%で現職ボルソナロに対して優勢に立ったが、勝利に必要な50%には届かず、二人の候補者の決選投票が行われた。ルーラは50.9%対49.1%でボルソナロを破り、決選投票を制した。

ルーラの勝利はブラジルをはるかに超えた影響を世界に与えるだろう。それは衝撃波となって様々な形でアメリカ主導の世界秩序を揺り動かす可能性がある。

1 ラテンアメリカの統合

ルーラは、メキシコのロペス・オブラドール大統領とともにラテンアメリカを統合に寄与し、ラテンアメリカのアメリカの覇権と干渉からの解放を導いていくだろう。

米国は長い間ラテンアメリカを裏庭と見なしてきた。今年1月のバイデンの演説で裏庭から「アメリカの前庭」に格上げされたが、前庭であれ裏庭であれ、アメリカはほぼ2世紀に渡り、自国の外交政策上の望みを達成するため、あらゆる干渉や暴力を駆使してその庭で遊び続けてきた。地球の西半球における覇権は決して秘密裏のものではなく、つねに公式の政策だった。それは、モンロー・ドクトリンに明記され、セオドア・ルーズベルトによって強化された。

*訳者注:セオドア・ルーズベルトは1940年の年次教書でアメリカはカリブ海地域の安定のために内政干渉(「国際警察力の発動」)を行う責務を負うというモンロー・ドクトリンの新解釈(ローズヴェルト系論と呼ばれる)を提示した。

ラテンアメリカでは現在、メキシコのアンドレス・マヌエル・ロペス・オブラドール大統領のリーダーシップの下、ますます多くの国がモンロー・ドクトリン(すなわちこの地域でのアメリカの覇権と干渉)に対し反旗を翻している。ルーラ・ダ・シルバの当選により、ロペス・オブラドールとラテンアメリカ第二の経済大国であるメキシコは、ラテンアメリカ第一の経済大国で最大の政治的影響力を持つブラジルと手を組み、手強いパートナーシップを構築しようとしている。

大統領としての一期目の任期中、ルーラはベネズエラのウゴ・チャベスとともに、ラテンアメリカ統合と地域でのアメリカの覇権に対する抵抗の最初の波を率いた。今回の任期で、ルーラは第二の波を導く力となるだろう。

選挙戦の間、ルーラは、ブラジルは独立した外交政策を確保すると約束した。ラテンアメリカの専門家であるマーク・ワイズブロ(Co-Director of the Center for Economic Policy and Research)は「ルーラは一期目の任期のときと同様に、西半球の経済的統合を積極的に推進するだろう」と筆者に語った。

5月の選挙戦でルーラは西半球統合の重要性を強調し、「ラテンアメリカとの関係を回復する」と約束した後、ラテンアメリカ通貨の創設に言及した。これは無意味な選挙公約ではなかった。SURと呼ばれるルーラのラテンアメリカ通貨のアイデアにはすでにフェルナンド・ハダト前サンパウロ市長やガブリエル・ガリポロ前ファートル銀行頭取が賛意を示している。ルーラはさらにメルコスール・ブロック(ブラジル、アルゼンチン、ベネズエラ、パラグアイ、ウルグアイで構成されていた経済的・政治的ブロック)を再編成するとも述べている。

2 ベネズエラの孤立化政策

ルーラは、ラテンアメリカで進行するベネズエラの再統合の動きを後押しすることでアメリカのベネズエラ孤立化政策を破綻させ、ラテンアメリカの統合を強化していくだろう。

ベネズエラの孤立は、ラテンアメリカにおける米国の外交政策の礎であったが、近時その礎に亀裂が現れつつある。

アルゼンチンはすでにベネズエラとの関係を再構築すると発表しているし、メキシコ、ペルー、ホンジュラス、チリなど、他のラテンアメリカ諸国もベネズエラとの交流を再開している。エクアドルもベネズエラとの国交回復を検討中であり、アルゼンチンのアルベルト・フェルナンデス大統領はすべてのラテンアメリカ諸国に対しベネズエラ政府との関係を見直すよう呼びかけている。

ベネズエラと敵対し孤立させる政策において主要な役割を果たしてきたアメリカの同盟国コロンビアは、つい最近グスタボ・ペトロを大統領に選出したところである。8月9日、コロンビアはベネズエラとの国交を完全に回復させるというペトロの公約を実行し、ベネズエラへの大使の駐在を再開させた。

ブラジルの経済的・政治的な重みが加わることは、一期の任期でルーラがチャベスを支持したときと同様に、ベネズエラの再統合に強い影響を与えるだろう。5月、ルーラはTime誌のインタビューで「米国とEUがグアイドを大統領として承認したときには非常に気を揉んだ。民主主義を弄んではいけない」と述べている。

*訳者注:2019年1月、当時国民議会議長であったグアイドはマドゥロを再選した前年の選挙を無効と主張し、暫定大統領に就任した。

旧ルーラ政権の外務大臣でルーラの外交政策に関する最高顧問であるセルソ・アモリンは、ルーラの当選は「ブラジルが隣国ベネズエラと再度外交関係を築くための扉を開くことになるだろう」と述べている。彼は「ボルソナロとドナルド・トランプ米大統領はベネズエラのニコラス・マドゥロ大統領との関係を絶つことで何も達成しなかった」と付け加えた。

3 一極体制の世界

ルーラは、世界におけるBRICSの存在感を高め、ブラジルおよびラテンアメリカ地域と中国・ロシアとの関係を強化することで、アメリカの一極支配の対抗軸となっていくだろう。

ロシア、中国、インド、ブラジル、南アフリカをメンバーとするBRICSは、米国の覇権に均衡することを目指す重要な国際組織である。ルーラは一期目の任期中にその創設メンバーとなった。

第二期の政権でもルーラはその仕事の続きを担うと考えられる。ワイズブロットはルーラは「アメリカと中国の双方と良好な関係を保とうとするだろう。以前もそうだった」と私に語った。ルーラは中国との間に経済関係だけでなくより友好な関係を発展させていくつもりだと明言している。

ボルソナロがルーラに変わったことは、世界のBRICSに対する見方に重要なインパクトを与えるかもしれない。

世界を民主主義国家と権威主義国家に二分するバイデンのマニ教的な世界観の中では、BRICSは権威主義のレッテルを貼られるおそれがあった。しかし、ルーラの加入で、それほど単純に片付けることはできなくなるだろう。

ルーラは民主主義の支持者である。公正な選挙で選ばれたリーダーであり、国際的な尊敬も受けている。

一期目のルーラはBRICSに国際情勢の中で重要な役割を担わせることに貢献したが、彼のBRICSへの復帰は再度同じ効果を発揮する可能性がある。

ルーラの選出はBRICSの絆とブラジルの対中国・ロシア関係の両方を強めることになるだろう。

4 ウクライナ

ルーラは、ウクライナ紛争における戦争終結のための交渉を促進する役割を果たせるかもしれない。

ボルソナロ政権下でさえ、ブラジルはアメリカ主導のロシア制裁に加わり国連でアメリカとともにロシアに反対票を投じることに消極的だった。ルーラの下でもアメリカにとって状況が容易になることはないだろう。ルーラは制裁を政治的過ちと見なしている。

アメリカにとってより重要なのは、5月4日のTime誌のインタビューで、ルーラが次のように語っていることである。

「プーチンはウクライナを侵攻するべきではなかったと思う。だがプーチンだけに罪があるわけではない。アメリカとEUにも罪がある。ウクライナ侵攻の理由は何だったのか。NATO?それならアメリカとEUが「ウクライナはNATOに加盟しない」と言えばよかった。それで問題は解決できたはずだ」

続けてルーラはバイデンと彼の外交的解決への努力不足を批判した。

「私はロシアとウクライナの戦争について彼が正しい判断をしたとは思わない。アメリカは強い政治的影響力を持っている。バイデンは煽るかわりに戦争を回避することができたはずだ。彼はもっと対話をし、積極的に関与することができたはずだ。モスクワに飛行機を飛ばしてプーチンと話をすることができたはずだ。それこそがリーダーに期待される態度である。物事が軌道を外れないように介入すること。彼はそれをしなかったと思う。」

ルーラはウクライナ紛争における外交の欠如という状況を変える役割を果たしうるかもしれない。元外交官のセルソ・アモリンは、ルーラは再び世界的な和平交渉における主導的な役割を担うことができると言う。彼は、ルーラの下でブラジルは中立と紛争の平和的解決という政策に復帰するだろうと述べている。

アモリンは、一般論としてBRICSは戦争終結のための交渉の場になりうるし、特にルーラは重要な役割を果たしうると述べる。ルーラはロシアと良好な関係にありロシアに尊敬もされている。アモリンによれば「彼は和平交渉向きの気質と実績を併せ持っている。」「ルーラは交渉に参加することができる諸条件を持っている。EUとアメリカが主導し、もちろん中国も参加する必要がある。新興国と共鳴する国としてプラジルも重要な役割を果たしうるだろう」と彼は言う。「BRICSはその力になる。」

ルーラがブラジルと国際舞台に戻ってきたことは、地域的にも国際的にもアメリカの一極支配へのチャレンジとなるだろう。地域的には、ルーラは地域統合を推進しアメリカの庭(表であれ裏であれ)として扱われることに抵抗する力となりうる。国際的には、ルーラは、BRICSの強化とそのイメージの向上、ラテンアメリカと中国・ロシアとの経済的・政治的関係の継続的改善、そしてウクライナでの戦争終結のための交渉のすべてを推進する力となり得るだろう。

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世界を学ぶ

パキスタンは燃えている
-民主化過程見学ガイド-

11月3日にイムラン・カーンが銃撃された後も、パキスタン議会の解散と総選挙の実施を求める抗議デモは続いている。イムラン・カーン自身も早期の復帰を約束しデモの継続を呼びかけている。パキスタンでいったい何が起きているのだろうか。

推奨BGM
Clash “London’s Burning

イムラン・カーンの人気は何を意味するのか

イムラン・カーンは2018年に首相に就任した。しかし今年(2022年)4月に議会の不信任決議により首相職を追われ、8月には反テロ法容疑で逮捕、10月には議員資格を停止され5年間の公職追放処分を受けた(詳しい経緯は後ほど)。デモはこうした一連の措置に反対し、総選挙の実施を求める趣旨のものである。

イムラン・カーンの首相就任については、クリケットのスーパースターという経歴から「世界を席巻するポピュリズムの波がパキスタンにも訪れた」と評されることが多かったようだが、それはちょっと違うと思う。

トッドに学んだ人口学の知見を応用してみれば分かる。下に「参考」として示す各種データを見ていただきたい。はっきり読み取れるのは、パキスタンは今まさに近代化の過程をくぐり抜けている最中の、若者ひしめく活気に満ちた国家だということである(→近代化モデルについてはこちらをご参照ください)。

イムラン・カーンは、裕福な家庭に育ちパキスタンのエリート校を出てオックスフォード大学で哲学、政治学、経済学の学士号を取得した、パキスタン社会のエリートである。

イムラン・カーン首相の誕生は、識字化し政治に目覚めた人々が自分たちに相応しいエリートの人気者を選んだ結果である。考えられる限りもっとも健全な民主的選択ではないだろうか。

民主主義が終わろうとしている国の「ポピュリズム」などと一緒にするのは失礼だし、的外れだと思われる。

(参考)パキスタンの人口学・人類学データ

家族システム 内婚制共同体家族
宗教     イスラム教
近代化指数  男性識字化 1972  女性識字化 2002  出生率低下 1990
       *比較対象となる数字はこちら
年齢中央値 22.78歳(2020)
       (→日本の1940-50相当 2020の日本は48.36)
人口      約2億1322万人(2017)

By Abbasi786786 – Own work, CC BY-SA 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=120269592

↑ 年齢はとにかく若い。日本だと1940-50年頃がこんな感じだった。

↑ 人口もこんな感じで増えている。

↑ トッド的に重要な乳児死亡率も順調に低下を続けている。

パキスタン政治のこれまで

パキスタンではまだ(いわゆる)民主化革命は起きていない。しかし今起きていることは間違いなくその前兆(あるいは一部)である。

彼らがいったいどんな未来を作ってくれるのか、私は楽しみで仕方がないので、これをしかと味わうために必要と思われる情報をざっくりまとめてみたい(随時更新するかもしれません)。

独立〜クーデター政治

パキスタンがイギリスから独立したのは1947年。しかし、しばらくの間はよくある新興国の政治が続く。 

建国の父(ムハンマド・アリ・ジンナー)がいて、選挙で選ばれた初代大統領が誕生するがクーデターが起きて軍事独裁となり、その評判が落ちるとまた選挙で指導者が選ばれたりするがすぐにクーデターで軍事政権に戻る、という感じのやつである(なおパキスタンには大統領と首相がいる。両者の関係は(今のところ私には)不明だが2010年の憲法改正で議院内閣制に移行して以後、大統領は名誉職的なものになったという(wiki))。

なぜそうなってしまうのか。我々にはもう分かっている。パキスタンで男性識字率(20-24歳)が50%を超え、近代化の始まりを告げたのはようやく1972年のことである。国民の選択に基づく民主主義がそれより前に機能するはずはないのだ。

民主化の第一歩

真の民主化に向けた歩みの第一歩目が踏み出されたのは、2008年の総選挙であったと思われる。

そのときの大統領は、陸軍参謀総長であった1999年にクーデターを起こして政権についたムシャラフ。比較的自由主義的で進歩的だったとされる彼は「自由で透明性のある方法」で選挙をすると公約し(wiki)、行われたのがこのときの総選挙だった。

ムシャラフは国民の人気も高い指導者だったのだが、ベナジル・ブット元首相暗殺事件などの結果、議会は反ムシャラフ派で占められ、パキスタン人民党のギラーニが首相に選ばれた。詳細は省くがムシャラフ大統領は辞任に追い込まれ、新たに行われた大統領選挙でパキスタン人民党総裁のザルダーリー(ブットの夫でもある)が大統領に選出された。

ただ、このとき選ばれたギラーニ政権も任期を全うすることはできず、司法の介入により解任されている(後述)。司法の背後には軍がいたとされており、まだまだ軍の実力がものを言う世界であることは間違いない。

アメリカとの関係

アフガニスタン紛争の蜜月から
「テロとの戦い」へ

パキスタンはインドへの対抗上つねに大国の助力を必要としていたため、状況が許す限り中国ともアメリカとも緊密な関係を結んできた。

アメリカから見るとパキスタンはソ連およびイラン封じ込めのために重要で、戦略的重要性は1979年のソ連のアフガニスタン侵攻以後増大した。

アメリカはソ連が支援する当時の共産主義政権(アフガニスタン人民民主党)に対抗するため、アフガニスタンにおける対抗勢力であるイスラム主義者を支援し、同時にその後援者であるパキスタンの軍事政権への支援も強化した。

なお、アフガニスタンのタリバンはこのときアメリカが支援したイスラム主義勢力の中から生まれてきたものである。同じくイスラム主義を標榜するパキスタンは、アフガニスタンのタリバンに基本的には親近感を持っているはずである。

そのため、2001年の同時多発テロの後、アメリカがオサマ・ビン・ラディンを匿ったと難癖をつけてアフガニスタンのタリバンと戦争を始めると、パキスタンは難しい立場に置かれることになった。

無人機攻撃への反感

親米で知られる当時の大統領はアメリカの「テロとの戦い」を支援する現実的立場に立った。2008年に首相となったギラーニもその立場を継承し、この間アメリカはパキスタン西部のシャムシー空軍基地を無人機(ドローン)攻撃の拠点として使うことを許された。

無人機攻撃作戦の対象は当初はアルカイダ高官のみであり、アメリカにテロを仕掛けた者たちの討伐という理由はパキスタン国民にもどうにか受け入れ可能だった。

しかし、アフガニスタン戦争でタリバンに苦戦していたアメリカは、2008年、彼らと関係があると見られるパキスタン国内のイスラム主義勢力(北部ワジリスタン周辺を拠点とするパキスタン・タリバン運動)にまで対象を拡大することを決める。

オバマ政権(2009-)の下、パキスタン国内での無人機作戦の実行回数は大幅に増加した。2009年から2012年までの3年間の無人機攻撃作戦は約260回、民間人の犠牲者は282-535人(60人以上は子供)と報告されている(the Bureau of Investigative Journalism)。

パキスタン・タリバン運動(TTP)は50以上のイスラム主義グループの連合体で、その中には政府にテロ攻撃を仕掛ける過激派勢力がいる一方でそれを抑えようとする穏健派もいる。

過激派勢力にしても、彼らの存在はパキスタンの国内問題であって、アメリカの「テロとの戦い」とは何の関係もない。パキスタン側から見れば、パキスタンのイスラム主義勢力への攻撃が内政干渉であることは明らかだった。

パキスタンの人々にとっては、パキスタンのイスラム主義勢力もアフガニスタンのタリバンも本質的には敵ではない。アメリカが勝手に敵視するそれらの攻撃のために自国領土を荒らされ、民間人までが犠牲になるという事態に、パキスタン国民の反米感情は高まった。

ビン・ラディン急襲の余波

アメリカは、2011年5月、パキスタン政府への事前通告なしに国内に潜伏していたウサマ・ビン・ラディンを急襲し、殺害した上、ビン・ラディンの潜伏に協力していたと決めつけてパキスタン政府を非難した。

さらに、同年11月には、アフガニスタンに駐留するNATO軍がパキスタンの国境警備隊基地を越境爆撃し、兵士24名を死亡させる事件が起きた。

パキスタンはこうした事態を主権侵害であるとして非難し、政府はNATO軍のための物資の補給路を遮断した上、シャムシー空軍基地からの立退をアメリカに要求した(のちに交渉の末復旧)。

なお、このときの首相は先ほど述べた2008年の選挙の後に首相に選ばれたギラーニで、彼はこの直後の2012年2月にパキスタン最高裁により法廷侮辱罪(ザルダーリー大統領の汚職疑惑を追及しなかったという理由)で有罪とされ退任させられている。合憲性に疑問のあるこの司法の行動の背後には軍がいたというのが一般的な見方のようである。

2013年の総選挙では1990年代から2期に渡って首相を務めたナワーズ・シャリーフが選ばれ、2017年に汚職疑惑で亡命するまで政権を維持した(ちなみにイムラン・カーンの首相解任後に首相に選ばれた現職のシャバズ・シャリーフはナワーズの弟)。

イムラン・カーンの首相就任と排除

イムラン・カーンの躍進

こうした状況の中、アメリカの無人機攻撃や北部ワジリスタンでの軍事作戦に対し断固反対の姿勢を示し、国民の支持を集めていったのがイムラン・カーンなのである。

1996年に下院議員となったイムラン・カーンの政党「パキスタン正義運動」は2013年の選挙で第3党に躍進、2018年にはついに第1党となる。こうして、同年8月に、イムラン・カーンが首相に就任することになる。

イムラン・カーン排斥の手続きは正当か?

そのイムラン・カーンは、2022年4月10日に内閣不信任決議により首相の座を追われた。

必ずしも「クーデター」という報道はされていないようだが、以下に見るように、その経緯は通常とはいえない。

野党が不信任決議案を提出したとき、イムラン・カーン首相は議会を解散して総選挙に打って出ようとした。パキスタンの法制度がどういうものなのか私は知らないが、首相や内閣の決定による解散総選挙の実施は議会制民主主義の国では普通のことである。

不信任決議案は内閣を辞めさせるために出すのだから、内閣が解散し総選挙をするといえば文句はないはずであろう。日本の場合、不信任決議が可決された場合も、内閣は解散総選挙か内閣総辞職のどちらかを選ぶことになる。選挙の実施が許されないということはあり得ない。

ところがパキスタン最高裁はイムラン・カーン首相による議会解散を違憲と判示する。そして復旧した議会は提出された不信任決議を可決してカーンを辞めさせ、野党から首相(イムラン・カーンの前の首相ナワーズ・シャリーフの弟シャバズ・シャリーフ)を選ぶのである。

これではまるでイムラン・カーンを排斥し選挙によらずに次の首相を決めるための策謀のようではないか?

いつものパキスタンのやり方といえばそれまでではあるが、カーン首相を支持したのはこうした政治にうんざりした人々なのだ。

イムラン・カーンは「アメリカが背後にいる」と主張しているが、それが不合理な主張ではないことも確認しておく必要があるだろう。

イムラン・カーンは、ロシアがウクライナに侵攻する前日の2月23日に、プーチン大統領の招聘に応じてロシアを訪問していた

ウクライナ侵攻開始後、カーンは、ロシアの行為を非難するよう要求する西側諸国の圧力に不快感を示していた

おそらくその関係だと思うが、イムラン・カーンは「ある国」からの文書の存在を公表し(のちに「アメリカ」と明言)、3月31日に開催した国家安全保障委員会(NSC)の席でそれを内政干渉であると確認する決定を行った上で、アメリカ大使館に公式の抗議文を届けていた(4月1日)。

内閣不信任案の提出は、この直後というタイミングだったのである。

排斥の動きは続くが人気も続く

首相解任という事件の後も、イムラン・カーンの人気は衰えず、7月に行われたパンジャブ州の補欠選挙で、イムラン・カーンのパキスタン正義運動は20議席中15議席を獲得する大勝利を収めた。この結果は新政権への不信任と同時に、4月の政権交代の不当性を訴えるカーンへの国民の支持を示すものと捉えられた。

その直後(8月)、イムラン・カーンは反テロ法違反の容疑で逮捕され(パキスタンの反テロ法の問題性については「おまけ」の記事②に詳しい)、10月21日には選挙管理委員会により議員資格の剥奪と5年間の公職追放が決定される。

11月3日の暗殺未遂事件は、こうした一連の動きに反対し、早期の解散総選挙を求めるデモ行進の最中に発生したものである。

おわりに

イムラン・カーンはパキスタンの現政権にとって最大の政敵であり、アメリカの敵でもあるので、主流のメディアから中立的な(あるいは好意的な)情報を得るのは難しい。おまけとして独立系ジャーナリズムの記事(翻訳)を付けておくので、お読みいただくと大体の感じがお分かりいただけると思う。

パキスタンの民主化は大変だ。彼らが倒したい古い勢力の背後にはアメリカが付いていて、自らの覇権維持のためになりふり構わず介入してくるのだから。

彼らの今後は国際情勢に大きく左右されるだろうが、だからこそ、彼らの動きは間違いなく現今の激動に大きな影響を与えていくだろう。

ああ、楽しみ。

まとめ

  • パキスタンは近代化=民主化局面にある
  • パキスタンはアメリカの対ロシア・イラン政策上重要な支援対象だった
  • アメリカがアフガニスタンのタリバンと戦争を始めたことで、パキスタンとの関係が難しくなった
  • 「テロとの戦い」の中で展開されたパキスタン国内での無人機攻撃作戦が国民の反米感情を高揚させた
  • イムラン・カーンはアメリカの作戦に一貫して反対の姿勢を示したことで国民の信頼を勝ち取った
  • イムラン・カーン首相はロシアのウクライナ侵攻に関し西側に追従しない立場を明確にした直後、クーデターまがいのやり方で解任された
  • 首相解任後もイムラン・カーンに対する国民の支持は衰えていない

おまけ

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戦時下日記

戦時下日記(10月26日-11月5日)

ノルドストリーム2爆破のニュースの頃から、「これはもう戦時下だなー」と感じるようになった。そう遠くない将来に自分たちも巻き込まれずにはいないだろう。何かは分からないが、単に物価が上がるとかいうだけでない何かがやってくるだろう。なにしろアメリカがロシアに戦争を仕掛けているのだから。

表立って語られることがあまりにも少ないので、この話を持ち出そうとすると、なんかこう「不都合な真実を暴く!」みたいなノリになってしまいがちなのだが、そういうことではないのです。ただ、みんなで迎えるであろう近未来に関わるこれほど大きな出来事が、みんなの話題として共有されないのはなんか変だし、もったいなくないか?とも思うのだ。

そんなわけで、私自身の備忘も兼ねて、日記という形で、戦争の日々をおしゃべりしてみることにした。私は口数は少ない。だから日記も短いし、日記だから出典なども適当だ(積極的に嘘をつくことはしません)。

自分にとっても、こんなものを読もうと思う奇特などなたかにとっても、日々を心穏やかに過ごす役に立ったらいいと思う。

10月26日(水)までのうろおぼえ

ノルドストリーム2の破壊が報道されたのが9月末。スウェーデンが「機微性が高すぎる」という理由でドイツやデンマークとの調査結果の共有を拒否したというリーク報道があって以来情報が途絶えているので、アメリカが犯人なのだろう。

10月26日(水)

アメリカの民主党員の数人がウクライナ戦争への対処方針の変更(強硬路線からロシアとの対話路線へ)を提案する書簡をバイデンに手渡したという報道が昨日くらいにあって「お、ちょっといいニュースかも?」と思ったが、今日にはもう撤回されていた。理由は「スタッフのミス」。

ロシアが「汚い爆弾」をウクライナが使うおそれがあると言っている。ロシアは何か情報を掴んでいるのだろうと思うが、西側は取り合わないいつものパターン。

公園でウグイスを見かける。春にきれいに鳴いているときにはいくら探しても見えないが、秋冬には平地に出てくるのだそうだ。

10月27日(木)

イスラエルがダマスカス(シリア)を空爆。この一週間で3回目とか。シリアでもイラクでもパレスチナでも戦争は続いているらしい(他にもあるだろう)。

イスラエルは何をしても文句を言われなくてすごい。

10月31日(金) 

週末にロシアが穀物輸出の合意履行を停止するというニュースがあった。黒海艦隊へのテロ攻撃が理由。

黒海艦隊へテロ攻撃、それからノルドストリーム2のときも具体的な実行者はイギリス(背後にはもちろんアメリカ)というのがロシアの見解で、かなりの証拠があるもよう。

ブラジルではルラが勝利。

11月2日(水)

ノルドストリーム2爆破(by 英・米)に対する報復について土曜日にロシアが何か発表するとか。ちょっと楽しみ。

ロシアは穀物輸出の代わりに困っている国々に小麦を提供するとのこと。共同体家族のやり方だ。

中国も同じメンタリティで貧しい国を支援することがある。もちろん国家のやることだから全くの慈善事業ということはないだろうが、主体がロシアや中国だとNHKのアナウンサーが必ず「どういう(裏の)意図があるんでしょうか?」「〇〇の狙いがあるようです」とかいうやり取りをするのはゲスすぎる。教育上よくないのでやめてほしいといつも思う。

11月3日(木)

北朝鮮がやたらとミサイルを飛ばす。しかしそれは米韓日の軍事演習への反応だからやむを得ない。この時勢にアメリカが頻りに軍事演習をしていたら攻撃をおそれるのは当然だ。

この先アメリカの覇権が終わると北朝鮮が一方的に敵視されることもなくなり、それなりに発展していくのだろう。これがよいことでなくて何だろう。

夜にはイムラン・カーン銃撃のニュース。命に別状はないらしい。

銃撃の犯人は即座に誰かに射殺されたとか(実行犯2人のうち1人)。CIAの関与を疑わずにいられない。

パキスタンはいままさに移行期をくぐり抜けようとしているところで要注意、とトッドがどこかで言っていた。アフガニスタンもそうだけど、近代化の過程を目の当たりに見せてもらえるのだ。注目したい。

11月4日(金)

ロシア、穀物輸出の合意に復帰。エルドアンが偉い。

11月5日(土)

イムラン・カーンのニュースをNHKが全然報道しなくて驚く。

ブラジルでルラが勝って、イムラン・カーンは狙われても死なない。もう新しい世界になっているのだ、という気がする。

そう、ここ数日強く感じるのはそれだ。

ウクライナ危機を契機に、アメリカのしてきたことを中心に世界情勢を集中的に勉強し、あまりのことにショックを受けてあたふたとする時期を乗り越えてみたら、何のことはない。

もうすでにアメリカの覇権は終わり、新しい世界が生まれている。

アメリカや西側がそれを受け入れたくなくてジタバタしているだけなのだ。

そう思うと、もう、ただただ楽しみ。

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社会のしくみ

宗教と学問

脱キリスト教の開始とイデオロギーの誕生

宗教も国王も打ち捨てたフランスは、その「権威」の穴を何で埋めたのか。結論から言おう。学問である。

宗教の死によってイデオロギーの誕生が可能になる。人間は、消え失せた神のイメージの代わりに、直ちに新しい理想社会のイメージに飛びつく。1789年以降、ヨーロッパは相次いで押し寄せるイデオロギーの波に洗われることになる。フランス大革命、自由主義、社会民主主義、共産主義、ファシズム、民族社会主義……これらのイデオロギーの波は、時間と空間の中での脱キリスト教化の各段階に結びついている。

『新ヨーロッパ大全 I 』249頁

ヨーロッパにおける脱キリスト教化の開始時期とイデオロギー誕生の時期は一致している。

1789年〔フランス大革命〕以来、かくも多くの政党と共和国を育むことになった自由・平等のイデオロギーは、脱キリスト教化のわずか数十年後に発生している。脱キリスト教化は、1730年から1750年の間に、フランスの国土の三分の二で起こったのであった。

『デモクラシー以後』52頁

文字を読むようになった人々は信仰を捨て、唯一の正統教義のかわりに、好みのイデオロギーを選んで熱狂的に支持する。民主主義の始まりである。

波を生み出すのは識字化した市井の人々だが、イデオロギーそのものを生み出すのは学問の府、大学である。ロック、ルソー、カント、ヘーゲル、マルクス。彼らはみな何らかの形で大学やアカデミーに関わりその思想を世間に流布していった人々であり、学問が宗教に代わる権威となった時代を象徴する人々といえる。

Godfrey Kneller – Portrait of John Locke (1697)(public domain)

中世に神学者を輩出してキリスト教の権威を支えた大学は、脱宗教化の後には、自らが権威の源泉となって、近代国家を支えたのである。

脱キリスト教の完成とイデオロギーの崩壊

しかし、市民がイデオロギーに熱狂する時代は長くは続かなかった。

1965年から1990年までの間、ヨーロッパのイデオロギー・システムの大部分は、容赦ない解体のメカニズムに曝される。それは信条を破壊し、政党を弱体化し、政治的選択というものの本性を一変させ、全ては虚しく意味が無くなったという感情をいたるところで醸し出すのである。

『新ヨーロッパ大全 II 』265頁

フランス共産党は1978年には20.6%の票を獲得していたが1988年には11.3%に落ち込む。同様の低落傾向は明確なイデオロギーを有するすべての政党に認められ、共産党、ドゴール主義(民族主義右翼)、穏健右派、キリスト教民主主義の4政党の合計得票率は1962-1988の間に79.2%から49%へと大幅に低下するのである(なお、この間に行き場を失った票の受け皿として勢力を拡大したのが社会党である)1『新ヨーロッパ大全 II』314-318頁

1965年-1990年というこの時期、イデオロギーの崩壊という現象は、主義主張の中身を問わず、あらゆる政治的信条を平等に呑み込んでいく。この動きは、フランス、イギリス、オランダ、デンマーク、スペイン2いずれも核家族が中心であるといった国々でとりわけ大きくかつ急速だった。

何がこの変化をもたらしたのか。答えは単純である。

この変化の発端は実に平凡で、それは宗教の危機、ヨーロッパ圏の歴史上最後の宗教危機で始まった。

『新ヨーロッパ大全 II 』265頁

フランスでは、中心部の脱宗教化は1730-1800年に完了していたが、周縁部に残っていた宗教実践が1950-1970年の間に失われた。ヨーロッパ全体では、最後まで生き残っていた反動的カトリシズムが1965年から1990年にかけて消滅していく

イデオロギーの時代は、脱キリスト教化の開始とともに訪れた。ところが、脱キリスト教化が完了すると、同時にイデオロギーの方も力を失ってしまうのである。

フランスの国土の三分の一に活動的な宗教が存続したことは、フランスのイデオロギー・システムの良好な作動のために最後まで必要であり続けた、ということが分かる。共和主義、社会主義、共産主義は、実際上は、残存的カトリック教との対抗関係の中で自己定義を行なったのであり、残存的カトリック教は、いわば陰画(ネガ)の形で、それらのイデオロギーを構造化したのである。この宗教の死は、まるでそれが跳ね返ったかのようにして、近代イデオロギーを死に至らしめた。

『デモクラシー以後』52-53頁

宗教的危機のインパクトー西欧の場合

この連載の開始時に書いたように、トッドは現代の西欧世界の危機の根源には宗教的危機があるという立場を取っている。

神なき世界の出現は、幸福感につながるどころか、激しい不安、欠落感へと立ち至る。‥‥

天国、地獄、煉獄の消滅は、奇妙なことに、すべての地上の楽園の価値を失墜させてしまうのだ。‥‥ すると意味というものの必死の探求が始まる。それは通常、歴史的には、宗教が統制していた金銭、性行動、暴力という項目に括られる領域における極端な感覚の追求という形で行われるのである。

『デモクラシー以後』54頁、55頁

ここから、トッドは、人間精神の安定にとって信仰が古来から果たしてきた役割の決定的重要性という命題を引き出すのだが、私の考えは少し違う。

確かに、ヨーロッパの人間の精神の安定にとってキリスト教が果たしてきた役割は決定的に重要であったと思う。

なぜかといえば、キリスト教は、ヨーロッパの主要な家族システムである核家族に欠けている「権威」を補う役目を担っていたからである。

国家というシステムは、多数の人間が一定の領域内で共存していくためのシステムであり、安寧秩序の維持のためには、人々が共通の「正しさ」の存在を受け容れることが不可欠である。

共通の「正しさ」は、ルールの基盤となって人々の行動を制御することを可能にし、それ以上に、共通の「正しさ」の下にあるという感覚によって、人々の心を繋ぎ、安定させる。

この共通の「正しさ」を基礎付けるものが「権威」であり、だからこそ、権威の誕生(=直系家族の誕生)が国家の誕生と同期するのである。

直系家族の民や共同体家族の民が自然に持っている「みんなの正しさ」の感覚を、核家族の民は持っていない(家族システムと価値の対応関係についてはこちら)。

そこで、彼らは、彼岸にいる唯一絶対の神の存在を信じることによって、共有物としての「正しさ」を希求するという心の型を手に入れた。

核家族の国家は、神を畏れ、神への接近を希求するという心の動きが共有されたことで初めて、その統合を保つことができたのである。

西欧近代が見せた学問への情熱やイデオロギー的熱狂は、おそらく、神を希求する心の型がそのまま世俗の事物に転用されたことで可能になったものである。

だからこそ、それは信仰の喪失とともに失われ、西欧に深刻な精神的危機をひき起こすことになったのだ。

学問の時代の終わり

識字化の進展とともに、神の存在に疑念を抱くようになった人々は、その不安を癒すべく、頻りに神の存在について論じた(17世紀前半~)。デカルト(1596-1650)が神の存在証明を試み、パスカル(1623-1662)は神の実在に賭け、スピノザ(1632-1677)は汎神論を説いたように。

17世紀後半になると、核家族のヨーロッパ(イギリス、フランス)は、神の教えの代わりに人間理性を讃えるようになり、啓蒙の時代、言い換えれば、科学とイデオロギーの時代がやってくる。

アカデミアに属する知識人がヒーローとして燦然と輝いた時代。ジョン・ロック(1632-1704)を端緒、ミシェル・フーコー(1926-1984)を掉尾とするなら、こうした時代は約300年間続いたことになる。

Michel Foucault (1974) (public domain)

人文・社会科学の研究者で、この時代のヨーロッパの輝きに憧れたことがない人は少ないだろう。なぜ日本からは世界を魅了する力強い思想が生まれないのかと嘆き、強い「個」の確立を説く声はつい最近までよく聞かれた。同様に、社会における大学および学問の地位の高さにおいても、ヨーロッパは日本の大学人の憧憬の的であったように思う。

西欧における学術・イデオロギーの繚乱は、全知全能、唯一絶対の神のいました台座に渦巻く磁場が可能にしたものであり、キリスト教のドーピング作用が失われゆく過程のヨーロッパに一時的に顕現した特殊な現象であったと考えられる。

ご先祖さまに守られ「おてんとさま」3直系家族の権威の性質を一番よく表しているのは「おてんとさまが見ている」という感覚や「おまわりさん」への親しみの感覚だと思う。詳細は(もしかしたら)後日に照らされてぬくぬくと国家を営む日本にそのような磁場が渦巻く場所はない。補う必要がないから補填物が生まれなかったという事実を、「遅れている」とか「劣っている」と評価するのは端的に誤りだし、ばかげてもいるだろう。

いずれにせよ、キリスト教の残火が輝いた時代は終わった。それは20世紀末できっちり終了し、私たちはすでに西欧の特別な輝きが失われた世界を生きている。長くその輝きに幻惑され、恩恵も受けてきた私たちは、その現実の意味するところをよくよくかみしめる必要があると思う。

今日のまとめ

  • ヨーロッパでは脱宗教化の開始とともに学問・イデオロギーの時代が始まった
  • 脱宗教化が完了すると同時に学問・イデオロギーの時代も終了した
  • 西欧近代における学問・イデオロギーの特別な輝きは「唯一絶対の神を希求する」心の型が世俗の事物に転用された結果である
  • 西欧の宗教的危機が特別なインパクトを持ったのは、キリスト教が核家族に欠けている「権威」を代替していたからである

  • 1
    『新ヨーロッパ大全 II』314-318頁
  • 2
    いずれも核家族が中心である
  • 3
    直系家族の権威の性質を一番よく表しているのは「おてんとさまが見ている」という感覚や「おまわりさん」への親しみの感覚だと思う。詳細は(もしかしたら)後日
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