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「権威主義」を使いこなそう(3・マスコミ 日常生活編)

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大本営発表的マスコミ報道ーーNHK国営化案

今回、私が結構ショックを受けているのは、マスコミがワクチン摂取後の死亡例に関する報道をひどく抑制していることです。日本の人々は安全性に対して非常に敏感ですから、「こんなにがむしゃらにワクチン接種を推進して、死亡事例が出たりしたら大変なんじゃ…」と思っていたのですが、1000件以上も疑い例が出ているのに大きな騒ぎにならない。騒ぎにならないようにマスコミが報道を抑えている。「無責任に不安を煽るのがマスコミだ」とお思いの方も多いと思いますが、どの不安をどう煽るかについて、マスコミはしっかり空気を読んでいます。権威による統制は、効きすぎるほど効いているのです。

もちろん、報道に携わっているのはごく普通の日本の人たちですから、こうなるのは自然なことです。この社会の一員として、彼らだって、キョロキョロと周りを見て、みんなと「正しさ」を擦り合わせたい。日本の人たちは、長らくそうやって生き延びてきたのですから。

しかし、やはりそれでは困ります。困りますよね?

「少数派」にとってはもちろんですが、基本的には権威に合わせることを好む人たちにとっても、さまざまな情報が提示された上で「合わせる」を選ぶのか、まったく知らないで「合わせる」のかでは、意味が異なります。

選挙で政権が変わることがほとんどない社会でも、日本は「民主的」であると胸を張って言えるのは、人々が、政権に有利な情報にも不利な情報にもアクセス可能な状態で、自らの行動を選択し、選挙に臨んでいる(はず)だからです。政府による締め付けがあろうがなかろうが、権威にとって不都合な情報が出回らない社会を「民主的」ということはできません。

「公共放送」NHKは国営ではありません。政府の資金によって運営すると公平中立な報道ができない、という考え方によるもののようですが、果たしてそうでしょうか。

政治権力からの自由、権力に対する批判性を旗印とする欧米のジャーナリズムは、明らかに「親子関係の自由」を基礎とする核家族システムの産物です。彼らは、力による強制さえなければ、勝手に権力を批判し、そのために必要な情報を探し出してきます。だから、政府との「紐」を外しさえすれば、中立が実現できるのです。

一方、日本のような社会では、権威に配慮するというのは、市井の人々の心に深く根付いた伝統の行動様式であって、強権的な力やら「金」なんかの問題ではありません。紐があろうがなからろうが、勝手に配慮してしまうのです。民営にすればよい、議会の意向を反映させればよい、などという思想には「日本の権威主義なめんな」と言いたくなります。

それでも、民主主義国家の運営のために、(少なくとも「ある程度」)批判的な(=権威から自由な)ジャーナリズムを欠くことができないとしたら、どうしたらいいか。

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ここまで考えて、私の心に浮かぶものがあります。司法制度です。あれの真似をしたらいいんじゃないか。

「法の支配」の思想に基づく近代的な司法制度は、国民だけでなく、政府にも「法」の制約の下で行動することを求めます。したがって、国民は、政府のやることに文句がある場合には、司法に訴えて、政府をその判断に従わせることができる。

このようなシステムは、核家族システムの人々にとっては「当たり前」です。もともと人間は自由なのだから、政府が便宜的にそれを規制する機能を担うとしても、その範囲が無制限でないのは当然だ、と彼らは考え、このような「自由主義的な」仕組みを作った。

日本の人にとっては全然当たり前ではないこの制度ですが、西欧に学んで制度を作り、真面目に運用することによって、それなりに機能させています。夫婦別姓を求める人が国の立場の不当性を訴えることができるのも、彫師が医師法違反による処罰の適正を争って無罪を勝ち取ることができたのも、日本が近代的な司法制度を導入し、国の機能として、独立の司法機関(裁判所)を営んでいるおかげなのです。

日本の裁判官は、平均的には、保守的な人たちだと思います。しかし、その人たちが、(あえていえば)官僚的な職業意識をもって、真面目に「法」を守ってくれているおかげで、この権威主義的な社会の中に、近代的司法制度という「異界」を維持することができているのです。

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権威から自由な報道は、民主主義国家にとって絶対に不可欠なものです。これほど重要な社会的機能が、「規制しない」という消極的な方法では実現できないのなら、国は自ら積極的にその機能を作り出す必要があるのではないでしょうか。

NHK(の報道部門?)を国営化するのはどうでしょう。報道規範を法制化し、裁判所と同様の、独立の機関として運営するのです。そうなれば、NHKの人々は、公正中立な報道を保護する者としての責任感と、官僚的生真面目さによって、その機能を日本社会に提供し続けてくれると私は思います。そのときには、NHKの報道が模範となり、民間の報道機関も、過度に空気を読むことを止めるでしょう。

私は冗談を言っていません。本気です。

各社会にそれぞれ固有のシステムがあるということを理解し、真面目に受け止めると、このくらいドラスティックに考える必要が出てくるのです。

「すごくいい案だ!」と私は思うのですが、いかがでしょうか。

同調圧力と忖度

最後に取り上げるのは、同調圧力と忖度です。

責任の不在、過ちの修正が困難、といった「問題」は、主に、権威関係の上位の側に関わるものでした。しかし、社会を作っているのは「上」の人たちだけではない。われわれ全員です。意識するとしないとにかかわらず、ほとんどの人は、この社会のあり方を維持するために、一定の機能を果たしています。

普通の人々が、権威によって統制された社会を守ろうとする、自分もその一部であろうとするとき、よく用いられるのが「同調を求める」という態度です。そして、「正しさ」がどこらへんにあるのかを探ることで、自分もその一部であろうとするときには、上の人の意向を伺う「忖度」になると考えられます。「空気を読む」のも同じです。

このような意思疎通の仕方を生んでいるのは、この地域に定住した人類が、より生存の可能性を高めるために培ってきた「心の習慣」なので、そう簡単には変わりません。そして、今もそうかもしれませんが、社会が「危機」を感じたときに、より強く現れる傾向があります。

「なんで日本だけ」と不快に思う方もいると思うのですが…(本当に日本だけなのかどうかについては、いつか詳しく書きます)でも、これが、イワシがマグロに食べられないように大群で動くとか、犬が人間と仲良くすることで生存可能性を高めているとかいうのと同じように、人類がこの世界に適応して生き抜いていくために獲得した習慣(の一つ)なんだと思うと、まあ、仕方ない、という感じがしませんか。

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それでも、一つ、はっきり言えることがあります。それは、こうした「心の習慣」に従うかどうかは、倫理の問題ではないということです。

「誰も「空気を読む」ことが倫理的に正しいなんて思ってないよ」と思った方もいると思いますが、本当にそうでしょうか。

「他人に迷惑をかけない」ことを、人として最低限の倫理だと思っている方って少なくないと思います。というか、むしろ、ほとんどの人が、そう思っているような気がします。

たしかに、「迷惑」が、他人を殴るとか、物を盗むとか、そういうことだけを指しているなら、「最低限の倫理」かもしれないと思うのですが、普通、窃盗犯人を指して「あの人、ちょっと迷惑だよね」とか、言いませんよね。

私たちが普段、(自他に対して)「迷惑だなあ」とか「迷惑かも?」と感じる対象は、もっと些細なことです。滔々と意見を述べて会議を長引かせるとか、みんなが単品のパスタなのに自分だけコースメニューを頼むとか、忙しい日に風邪で休むとか、お葬式に普段着で来るとか。

「他人に迷惑をかけない」というときの「迷惑」は、こんな感じで、「空気を読まない言動による和の乱れ」に対して使われることがほとんどです。ということは‥‥そう、そうなのです。「他人に迷惑をかけない」ことを倫理規範として受け入れるということは、世間の空気に従うことを、自らの「倫理的な」行動規範として受け入れることにほかならないのです。

実際、同調圧力や忖度の行き交う社会を「息苦しい」と感じるとしたら、それは、自分自身の中に、「この件については従いたくない気がする。でも‥」「やっぱり、従う方が(倫理的に)「正しい」のかなあ。」「いやあ、でも‥」という葛藤があるからではないか、という気がします。そりゃそうです。日常生活の中で、しょっちゅう倫理的葛藤に苛まれていたら、呼吸が浅くなるに決まっています。

ですので、まずは、はっきり言わせていただきます。「空気を読んでそれに従うことを自他に求める心の習慣」は、生存可能性を高めるという実利的な観点から人類が編み出した適応方法(生存戦略)の一つに過ぎず、倫理(形而上的な善悪)に関わるものではありません。

それは、「倫理的に正しいからルール化された」のではなく、「私たちが(実利的な生存戦略として)ルールを身につけたから「正しい」と感じようになった」(倫理とはそういうものだと言ってしまえばそれまでですが)。順番が逆なのです。

直系家族システムの生存戦略は、実利面から、つまり、現代の世界を生きる知恵として見た場合、「長所もあれば短所もある」という以上のものではありません(他のシステムも同じです)。

ですから、結論としては、「どっちでもいい」。

「是非とも守るべき」という理由はないですし、目くじらを立てて否定することもない。従う方も、従わない方も、好きにすればよいと思います。罪悪感を抱くべき合理的理由は、まったく、これっぽっちもないのですから。

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社会に刷り込まれた「心の習慣」「心のくせ」は、簡単には変わりません(何度も繰り返してすみません)。なので、差し当たっては、社会の側の変化を期待せず、しかし、自分はそれにとらわれずに行動するというのが、お勧めです。

ただ、その「心の習慣」が、誰かよその人が作ってしまったもので、私たちにはどうしようもないのかといえば、決してそうではありません。

集合的心性(心の習慣)は、社会に暮らす人々の心の成分が集まってできています(共通の要素がくっついて層になって底に溜まっている、というイメージです。別稿で詳しく書く予定ですが、さしあたりこちらをご覧ください)。なので、一人が「いち抜け」して、それにとらわれなくなると、その分、集合的心性の濃度は薄まります。空気に加担する(=巻き込まれる)側から、客観的に眺めて笑ってしまう側に移動すると、きっちり一人分、確実に、社会の「権威主義」濃度が下がるのです。

自分自身が自由になる(=倫理的葛藤がなくなって楽になる)ことで、社会全体が「自由」の方向に変わるなんて、すごくラクで、楽しそうで、希望の持てることだと思いませんか。(終わり)