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日本史概観(4・完)
-天皇の位置-

 

目次

はじめに

「日本史概観」最終回のテーマは「天皇」である。なぜか。
ご説明しよう。

前回も書いたように、戦国時代から後の日本の歴史は、ごく標準的な直系家族国家の歴史である。

まずは小国が並び立ち、覇権争いをする。

信長、秀吉を経て、最終的に勝利を収めた家康の徳川家が統一日本の覇権を確立する。

この間、騎馬民族が侵入してきて相互に影響を与え合うといった事情もなかったので、共同体家族への進化は起こらず、直系家族のまま近代化して現在に至る。

ただし、典型的な直系家族国家の日本には、一つ、非典型的なものが存在している。それこそが、何あろう、「天皇」なのだ。

直系家族がすっかり完成したのに、なぜ、どのような形で、「舶来の」権威である「天皇」が生き続けることになったのか。家族システムと国家の関係を探究しているこのシリーズとしては、最後にぜひとも解明しておきたい課題なのである。

まずはその準備として、前回からの積み残し、戦国時代に入る直前、応仁の乱を経て室町幕府が倒れたときに、同じ京都に存在していた天皇や貴族はどうなったのか、というところから話をはじめよう。

応仁の乱と「舶来の」権威

(1)室町幕府ー京都の武家政権

真面目に日本史の勉強をしたことがない人間(私だ)にとって、室町幕府はちょっと分かりにくい。

幕府なんだから武家の政権のはずだ。しかし、場所は京都だし、花の御所に住んでみたり、煌びやかな離宮を建ててみたり、貴族みたいな雰囲気も濃厚ではないか。

金閣寺(鹿苑寺) PennyによるPixabayからの画像

鎌倉幕府から戦国時代になって徳川幕府、というなら分かりやすいのだが、その間に室町幕府があるせいで、全体の流れが一気に掴みにくくなってしまうのだ。

しかし、今なら分かる。「ローマは一日にして成らず」というとおり、鎌倉幕府が武家政権を打ち立てたといっても、鎌倉が一夜にして京都になれるわけではない。

「京都の武家政権」室町幕府の存在は、人口や教育といった人的な成長のスピードと、蓄積が物をいう「場所」の成長スピードの違いがもたらしたものなのだ。

(2)室町幕府はなぜ京都に本拠を置いたのか?

室町幕府は鎌倉ではなく京都に本拠地を置いたのか。

それには、南北朝の動乱で敵対した後醍醐天皇の動きを封じる必要があったという当初の事情に加え、都市としての京都の力があったとされる。

‥‥〔幕府が京都に置かれた〕根本は、京都がいぜんとして政治・文化・宗教の中心であるばかりか、荘園領主が集住し、全国の富や人や情報が集まる経済・流通の中心都市で、幕府が真の意味で全国政権たらんとすれば、そこに政権を置かざるをえないという点にあった。

高橋正明『京都〈千年の都〉の歴史』(岩波新書、2014年)140頁

そう。繰り返しになるが、東国で武士が力をつけて政権を確保したとはいえ、鎌倉や関東がすぐに京都や畿内と同じ程度に発展できるというわけではない。

流通経済が発達し、農村中心の社会から都市間のネットワークが支える社会に移行しつつあったこの時期、武家政権が全国を統治するには、京都という歴史ある大都市に蓄積された各種資源を活用することが不可欠だったのだ。

(3)伝統的政治文化と一体化した室町幕府

鎌倉時代がそうであったように、室町時代もまた、直系家族の地物の権威がその基盤を強化し、朝廷の「舶来の」権威を凌駕していく(かなり一直線に近い)過程(↓下図)の一部であり、室町幕府が京都に政権を置いたからといってその点が揺らぐわけではない。

しかし、室町幕府が京都に拠点を置いたことで、幕府と朝廷という二つの権威の関係性には変化が生じた。

鎌倉時代、鎌倉の幕府と京都の朝廷は並び立ち、やがて前者が優位になったものの、朝廷は政治勢力として存在し続けた。

これに対し、京都の武家政権である室町幕府は、同地における天皇や貴族、寺社勢力の権力とその文化を吸収し、一体化していくのである。

少し具体的に見ていこう。

南北朝の動乱が収まった頃、すでに幕府の優位は明らかであり、天皇や貴族が統治に実質的に関与する世の中は終わっていた。

一方で、幕府は、朝廷や寺社に直接に影響力を行使し、その力を抑え込むために、それぞれに仕える公家衆や門徒を雇って使ったりもしている(高橋・147頁)。

つまり、京都の地で幕府が朝廷の上に立つということは、幕府の下で、天皇家や公家の政治文化と武家文化が融合し、一体となることでもあったのだ。 

室町幕府に貴族風のきらびやかな雰囲気が漂うのはそのためで、皇位簒奪疑惑もある足利義満は、公家から買い上げた「花の御所」に住み、のちに金閣寺となる絢爛豪華な建物を建てて別荘に用い、公家風の花押を用いた。京都に暮らすようになった有力武士たちもまた、貴族風の贅沢な暮らしを始め、財政を圧迫させたりしていたのである。

こっちは武家様の花押で
https://nanbokuchounikki.blog.fc2.com/blog-entry-1141.html
これが公家様の花押だそうです。https://twitter.com/toki_museum/status/1269498479216230400?lang=zh-Hant

室町幕府における貴族文化と武家文化の一体化の傾向は、北条氏の歴代得宗が官位に関心を示さず「とんでもなく低い地位に甘んじていた」のに対し、足利将軍が高い官位を求めたことにも見て取れる。

京都で権力を振るう以上、将軍は「官位の上でも他を圧する地位に立つ必要があった。」

この点で、足利氏は平氏と同じ地平に立つ。だからこそ、「清盛は従一位太政大臣に達したし、義満も従一位太政大臣に達した後に出家し、法皇と同等の礼遇を受け」たのである(以上につき、近藤成一『鎌倉幕府と朝廷』(岩波新書、2016年)253頁)。

(4)応仁の乱の効果ー「舶来の権威」の決定的凋落

応仁の乱による京都の荒廃そして室町幕府の崩壊は、幕府が京の地で伝統的権力と一体化していたことにより、幕府の滅亡以上の結果をもたらすことになった。

かつて京都で権力を振るった平清盛は、貴族の衣を纏って自爆することで、皇族・貴族政治の時代を終わらせ、武家が主役となる時代を導いた。

同様に、京都の町の荒廃と同時に起きた室町幕府の崩壊は、日本に残った皇族・貴族政治の「残像」をきれいさっぱり吹き飛ばし、正真正銘の武将の時代を現出させることになったのである。

〈図解〉日本史概観 

ここまで書いてきたことのまとめとして、日本の建国から徳川の覇権に至るまでの日本史の流れを、国家の軸である「権威」に着目して図解してみよう。

①日本の建国

家族システムは進化していなかったが(原初的核家族)、中国皇帝に並び立つ存在としての「天皇」の権威を軸に国家を形成した。 

②平安時代末期

天皇家・貴族の「舶来の権威」+原初的核家族という基本構造は変わらないが、地域で武士が力を付け始める。

③平氏政権

貴族と武士の中間的な存在である平氏が政権をとる。舶来の権威+原初的核家族という基本構造の中で、平氏が「舶来の権威」に成り代わり、天皇家を抱え込む形で権力を振るう。

そして、それゆえに、 平氏の滅亡は「舶来の権威」にも大きな打撃を与えることになった。 

④頼朝による鎌倉幕府

同じく貴族と武士の中間的な存在である源頼朝が鎌倉に幕府を開き、舶来の権威(京都・朝廷)と地物の権威(関東・武家)が並び立つ体制を作り出す。関東では直系家族の生成が近づく。

⑤北条氏による鎌倉幕府

北条氏の下で直系家族が成立。権威を安定させて勢力を強め、京都の朝廷に対する優位を確立する。

⑥京都の武家政権、室町幕府

足利尊氏は全国統治の必要から京都に幕府を開き、幕府の下で天皇・貴族文化と一体化。そのため、 室町幕府の崩壊は、天皇・貴族の権威の決定的凋落をもたらした。

なお、この間、京都は核家族が基本であった(と考えられる)一方、全国では着実に直系家族が拡大していく。

⑦徳川幕府の覇権 

もちろん濃淡はあるのだが、全国に直系家族が広がり、直系家族の権威の頂点に立つ徳川家の下で安定した国家体制が確立。

天皇の位置

(1)天皇の存在は「当然」ではない

室町幕府とともに天皇や貴族による政治の残像が吹っ飛び、戦国時代を経て、みごとな直系家族の国家体制が確立した、というのが(すぐ上の)図⑦である。

しかし、それで日本から「天皇」という権威が失われたかといえば、もちろんそんなことはない。

日本に天皇がいるのは、当たり前のことのように思えるかもしれない。だって建国のときにすでに天皇はいたのだし。しかし、家族システムの観点から見ると、全然、まったく当たり前ではないのである。

例えば、日本と同じく、原初的核家族の時代に「借り物」の権威を用いて建国を成し遂げたフランスの場合である。彼らはローマ帝国の遺産であるキリスト教の権威を借りたのだが、平等主義核家族の国家体制を確立するや、直ちに宗教を公領域から捨て去った。

日本の場合も、直系家族が成立した時点で、国家の軸としての「権威」は自前で持つようになったのだから、舶来品である天皇の権威を排除したって、おかしくはなかったのだ。

(2)直系家族と天皇の相性

それでも日本が「天皇」を持ち続けたのはなぜかというと、直系家族と天皇の権威とは相性がよかったからである。

建国から約1300年を経てフランスが確立した「地物」の国家体制の基礎にあったのは平等主義核家族で、この家族システムは宗教的権威とは決定的に相性がわるかった

「自由と平等」のフランス市民にとって、宗教は「権威と不平等」そのもの、彼らの価値観に真っ向から対立する不倶戴天の敵である。

彼らの意思が政治に反映されるようになった時点で、公共領域からの宗教の排除は必然であったのだ。

カトリックとライシテのフランスー建国の秘密(西欧編) https://www.satokotatsui.com/secret-founding-european-nations/

他方、直系家族(権威と不平等)の日本の民にとって、はるかな大陸の威光に照らされ、「万世一系」の物語のもと古式ゆかしい日本の伝統を体現する存在でもある天皇は、ごく自然な敬意の対象である。

共同体家族とは違い、直系家族は自ら「帝国」を統率するに足る強大な権威を生み出すことはできないのだが、よく似たものが予め存在しているとなれば、それを排除する理由はない。

そういうわけで、いってみれば、後から成立した家族システムとの「たまさかの相性」によって、日本は地物の権威が確立した後も、天皇という存在を戴き続けることになったのである。

(3)天皇の「政治的」機能

とはいえ、天皇が、共同体家族(例えば中国)の皇帝に相当する強大な権威を担う存在であったかといえば、それは違う。

日本は中国における皇帝の存在に感化されて「天皇」を戴くこととなったが、そのやり方は最初から自己流で、文物や人的交流を通じて「権威とはこんな感じかな?」と考えながらやってみた、当時核家族であった日本人による「大陸風」である。

その後、戦国時代に至る頃までには、天皇や貴族の界隈にも直系家族システムが伝播し定着していたと思われ、メンタリティにおいて本質的な相違はなくなっていたはずである。

しかし、その生い立ち(?)に由来する「別種の」権威としての立ち位置によって、「天皇」は、自ずと、直系家族システムに欠ける点を補うべく進化していったように思われる。

二つの実例を挙げたい。

①「天下統一」の夢

二つの動乱によるシステム改変を経て、直系家族国家に生まれ変わった日本は、大名の領国が並立し互いに勢力を争う戦国時代に突入した。

このとき各地に成立した独立性の高い「国」は、いずれも直系家族システムに立脚した小国であり、織田、豊臣、徳川のいずれも、共同体家族システムの「帝国」を発展させることはなかった。

この地点から、人類学の知見をもって、日本の「ありうべき将来」を展望してみると、このたくさんの領国たちが、ときには征服したりされたりして再編を繰り返しつつ、相互に独立した国家として長く存続し続ける、ということは十分に考えられる(ドイツがこれに近い状態だった)。「統一国家の形成には適しない」というのが、直系家族システムの特性なのだから。

しかし、実際には、信長は天下統一を目指して上洛し、その事業を引き継いだ秀吉は統一を成し遂げた。直系家族システムに依拠しながら、彼らはなぜ「統一」を目指すことができたのだろうか?

考えられる理由は一つしかないと私は思う。
「そこに京都があり、天皇がいたから」である。

歴史と伝統といってしまえばそれまでだが、日本に「天皇」があり、帝国に並び立つ国家のイメージを伝えていたからこそ、彼らは当然のように「統一」を目指した。

統一に際して、信長や秀吉が天皇の権威を利用したことはよく知られているが、それ以前に、彼らが「天下統一」を夢見ることができたのは、天皇の存在があったからこそなのである。

②非常用「権威」装置

他方、すでに統一された国家の中で、覇権を確立してしまった徳川幕府にとっては、天皇はどちらかといえば邪魔な存在だった。下手に尊んで政治に口出しをされても困るし、他の大名に利用されても困る。

そういうわけで、徳川政権は、最初こそ正統性の確保のために天皇の権威を利用したものの、その時期をすぎると天皇や貴族勢力の規制と監視に努め、天皇は、祭祀や儀式の再興に努め、(人によっては)学問や歌道に打ち込むだけの存在となっていった。

しかし、そのことによって、天皇の存在に(政治的に)意味がなくなったかといえば、そうではないと思われる。その何よりの証拠は、江戸末期、日本が「内憂外患」の危機におそわれたとき、各階層の人々の間から自然と天皇・朝廷の権威を求める動きが生じたことである(山川出版社『詳説日本史 改訂版』(2020年)242頁)。

この後、1868年から1945年までの77年間、天皇が果たした役割は、私の思うに、「非常用代替「権威」装置」としてのそれだ。

直系家族の安定した政治システムは、平時には、天皇のような大きな権威を必要としない。しかし、安定性が高いからこそ、時代の転換期に大きな困難を抱えるのも直系家族であり、「別種の」権威の存在は、このときに威力を発揮する。

19世紀後半から20世紀前半、日本が「移行期」を迎え、否応なしの政治的変革に導かれたとき、天皇は、若い新政権には望むべくもない「権威」を提供し、危機の日本を支えた。

この時期については、天皇が政治的権力を持ったから危機がもたらされたかのように言われることがある。しかし、順序はおそらく逆で、日本が非常事態にあったからこそ、天皇は、その「権威」を発動し、表舞台に立つことになったのである。

③〈図解〉天皇

普段は目立たないが確かに権威として存在している「天皇」。図解してみたのが下図である。

色は白ではなく透明だ。

直系家族日本の日の丸(⑦)には、つねに、天皇の権威が重ね合わさっている。

政治体制がどのような色合いのものに変わっても、政治的に無色の存在としてそこにあり、平時には目立たず国家の一体性を支え、危機に陥ったときにのみ、表に出てきて、政治的な権威として機能する。

何とありがたい存在であろうか、と私はしみじみと思ったが、いかがであろうか。

 

おわりに

日本はいま直系家族が生み出した二度目の長期安定政権のもとにある。

この政権は、第二次大戦後、アメリカと融和的な関係を切り結ぶことで安定を築いた政権なので、アメリカ中心の世界が変わるときが、政権交代のときとなると予想される。

その激動のとき、次の安定を見出すまでの一時期に、再び天皇が日本政治を支えるというようなことがあるのかもしれない。

そんなことを考えるようになるなんて自分でも驚きだが、「概観」を書き終えた今、それはかなり現実的な可能性であるように思える。

今日のまとめ

  • 京都の武家政権(室町幕府)の下で武家の文化と朝廷の文化が一体化したため、応仁の乱による幕府の崩壊+京都の荒廃は、同時に、天皇・貴族の決定的凋落をもたらした。
  • 直系家族の国家体制確立後も「天皇」が存在し続けたのは、直系家族と天皇の「権威」の相性がよかったからである。
  • 戦国時代以降、天皇の権威は、分裂しがちな直系家族の日本の統一を保つのに役立った。
  • 直系家族の安定政権の下では、天皇の権威は、政治的危機の際に発動される「非常用代替「権威」装置」として機能する。

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日本史概観(2)
-摂関政治、院政と平氏-

目次

平安末期ー父系の強化

飛鳥時代から平安時代までは、天皇を中心とした王侯貴族が大陸文化の独占によってその権威を保った時代であり、「舶来の権威」そのものの時代といえる。

しかし、その後半になると、天皇家を中心とした政権の枠内で、天皇親政から藤原氏による摂関政治(967-1068)、院政(1086~)へという推移が起こる。

この動きが家族システムと関連していることは明らかと思われる。なにしろ「天皇親政→摂関政治→院政」の変化とは、政治の実権が「天皇本人→母方親族→父方親族」に移行したことを意味しているのだから。

何がこのような変化をもたらしたのであろうか。 

摂関政治ー「舶来の権威」がもたらした女性重視の文化

摂関政治とは、藤原氏が天皇の外戚(母方の親戚)としての地位を確保したことで国政を支配した仕組みである。 

藤原北家は9世紀初めごろから、陰謀と天皇家との婚姻で徐々に一族内の他家、他氏排斥を進めた。当時、皇子の養育は母方の家で行われたので、皇子の母方の祖父は、皇子に大きな影響力をもった。この仕組みを巧妙に利用して、11世紀には道長が、その次の頼通も、意のままに国政を左右し、この世の栄華を誇った。

武光誠・大石学・小林英夫監修『地図・年表・図解でみる 日本の歴史 上』
(小学館 2012年)71頁

なるほど。しかし、そもそもなぜ、皇子の養育を母方の家で行うという仕組み(母方居住)が取られていたのだろうか。

母方居住とは、子供の養育における母親の役割をより重視するシステムである。当時の日本はまだ強固な父系社会ではなく、父母の重要度に大きな差異はなかった(双方系)と見られるが、母方居住が制度化されていたということには何らかの説明が必要であろう。

これには、当時の国家が「舶来の権威」によって成り立っていたというその事情がまさに関係しているように思われる。

推古天皇ー聖徳太子の頃から、皇族や貴族にとってもっとも重要だったのは中国の先進的文化に関する知識だった。律令制度による政治の仕組みが整った後は、皇族・貴族がもっとも重視したのは、学問的・文学的素養であり、彼らは文字を読み、詩歌を作り、儀式に習熟することで、その権威を保っていたのである。

源氏物語絵巻第38帖「鈴虫」(12世紀、五島美術館蔵)

いかなる家族システムの社会においても、幼い子供に読み書きを教え、教育的な雰囲気を涵養するのは母親である(トッド『世界の多様性』312頁以下等)。

当時の皇族・貴族が大陸由来の文字文化の担い手であることによって地位を保持していたことを考えれば、彼らが子供の養育を母方で行うようになるのは自然なことであろう。

母方居住の慣習により存在感を高めた藤原氏が、天皇の後宮に入れた娘たちの側近として教養の高い女性たちを登用し、『源氏物語』『枕草子』に代表される文学の興隆をもたらしたのも、故なきことではない。

* なお、この点についてトッドが立てている仮説は私のとは違う。彼は、藤原氏の覇権をもたらした母方居住を、中国の父系原則の流入に対する「補償的母方居住反応」と見ている(起源I・上239頁)。つまり、父系原則の流入による女性の地位低下(母系の価値観の衰退)を埋め合わせるために発生した習慣ではないかというのである。

人類学に関する私自身の専門性の低さからすると「ええ、そうかもしれませんね‥」としか言いようはないのだが、大宝律令(702年)が中国に学んである程度の父系原則を取り入れた後、養老律令(718年)では父系原則はむしろ後退しているし、その後も父系原則が中国から順調に伝播したという様子は見えない。

遣隋使の派遣により中国との公式の接触が再開(600年)したのと同時期に日本が女帝の時代を迎えたこと(593年の推古天皇から770年までに6名の女性天皇が誕生)については、中国の強固な父系原則に対する反作用と見るトッドの立場に説得力を感じるが、藤原氏の時代の母方居住の制度化(いつから始まったのが不明だが一応この時代に強まったと仮定する)については、その説明だけでは少し弱いと私は感じる。

トッドが指摘する女性的文学の登場も、どちらかというと「中国と日本の二元性が母方居住を生み出した」というよりは、「母方居住の習慣が女性的な文化の登場を可能にした」という順序ではないかと感じる。

院政ー「父系重視」の波

他方、院政は、院(上皇・法皇)が、天皇家の家長として天皇を後見するという体で実権を掌握する方式である。政治の実権は、後三条天皇の親政(1068-72)を介して、藤原氏の母方支配から父方支配の院政へと正反対に振れたことになる。

院政が始まったのは、地方で武士が台頭し、源氏と平氏を棟梁としてまとまりを見せていくのと同時期のことである。

したがって、院政の誕生は、かなり単純に、地方の勢力が軍事・行政上の実力を高め一大勢力として台頭してきたことへの、朝廷側の対応と理解することができる。

この時期、直系家族の中核的要素である長子相続の習慣はまだ発生していない。長子相続を促す「土地の不足」が生じるのは武士による所領の大規模開発が進む12世紀末のことである。

しかし、新興勢力が勢力を拡大するために武装し、紛争を多発させるという状況が、家の一体性の重視、そして父系(男性)の重視という傾向を生み出すことは容易に想像できよう。

要するに、この時代は、権力の基盤が「舶来もの」の文化的威信から在地勢力の実力に移行する過程の中で、直系家族の一要素を成す「父系権威の重視」の傾向が生まれた時代だった。

「実力」が問題となりつつある以上、天皇家も安穏と歌や儀式に興じてばかりはいられない。勢力の維持・拡大のためには、皇室も父系原則を取り入れ、新興勢力に伍していく必要があった。

そのような状況で開始されたのが院政の仕組みであり、院政とは在地の武士の間で高まった「父系重視」の波の天皇家バージョンなのである。

『平治物語絵巻』 三条殿焼討 ボストン美術館所蔵。平治の乱(1159年)

源氏と平氏ー貴族と武士の中間で

このように見ると、源氏や平氏と院の微妙な関係性も分かりやすくなる。いや、みんなは分かっているのかもしれないが、私はずっとよく分からなかったのだ。

まず、「天皇の時代→武士の時代」(舶来の権威→地物の権威)の移行期における源氏・平氏の活躍は、彼らが貴族でありかつ武士であるという中間的な存在であったことが大きい。

源氏と平氏はどちらも天皇の血筋である。皇室は平安前期から経費節減のために皇族を臣籍に下すことをするようになり、そのときに彼らに授けた姓が源氏であり平氏であった(清和源氏とか桓武平氏とかいうのは直近の祖先である天皇の名前である)。

彼らはやがて武士として力を付けていくけれども、高貴な血筋であることに違いはなく、「軍事貴族」(山川教科書にこの表現がある)とでもいうような存在であったのだ。

彼らは地方の武士からは高貴な血を引くリーダーとして慕われ、武家の棟梁としての地位を固める。一方、皇族や貴族にとっても身内として頼りにしやすい存在であったので、摂関家や院に奉仕することで、中央での地位を高めていった。

宮廷の時代を終わらせた平清盛

そういうわけで、まず、院政とともに平氏の時代がやってくる。歴代の上皇が軍事力の要として平氏を重用し彼らがそれに答えたからだ。平氏にとっても、中央でのし上がっていくためには上皇の力が必要だった。

しかし、政治の中枢に近づくにつれ、見えてくるのは「平氏こそが実力者である」という事実だった。彼らの背後には家人として従う全国の武士団とその土地があり、行政・経済の面における実力でも劣るところはない。

実力の時代に差し掛かっていたからこそ、平清盛は「だったら自分が頂点に立てばいいじゃん」と思った。一方で、まだ「舶来の権威」は健在であったので、清盛は天皇の外戚としての地位を確保し、一族で官職を独占するなど、往時の藤原氏のようにふるまった。

「貴族のようにふるまう武士」として専制的な権力を振るった平氏は、院をはじめとする皇族・貴族(+寺社勢力)と武士の双方から反感を買い、その覇権はまもなく終わる。

しかし、平氏を倒すための戦いで活躍し、その地位を高めていったのもやはり武士勢力だったのである。

朝廷を乗っ取り、貴族の衣を纏って自爆した平氏は、そのことによって、皇族・貴族の時代を終わらせたのだといえる。

それあってこそ、鎌倉の武士たちは、実直な武士のやり方で「地物の権威」を確立していくことができたのだ。

今日のまとめ

  • 平安期の政治は「天皇親政(天皇本人)→摂関政治(母方支配)→院政(父方支配)」と推移した。
  • 「母方支配」の基礎は母親の教育力であり、皇族・貴族が大陸由来の文字文化を担うことで権威を保っていた時代の産物である。
  • 「父方支配」の院政は、武士の間で生まれた父系傾向の天皇家バージョンである。
  • 移行期における源氏・平氏の活躍は、彼らが貴族と武士の中間的存在であったことによる。
  • 平氏は、貴族の衣を纏って自爆することで皇族・貴族の時代を終わらせた。

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日本史概観 (1)
-建国の秘密-

日本にも秘密がある

10世紀末に直系家族の「権威」が誕生する以前、原初的核家族のヨーロッパが国家を作ることができたのは、ローマ帝国の遺産であるキリスト教の権威を借り受けたためだった。

   *直系家族の「権威」と国家の関係についてはこちらこちらをご覧ください。

日本における直系家族の誕生は13世紀末から14世紀初頭(鎌倉時代後半)とされる1家族システムの起源I 240頁。日本もそれ以前は原初的核家族であったわけだが、その時期にすでに国家が成立していたことは明らかであろう。

ヤマト王権誕生の地と見られる纏向に大型の前方後円墳(箸墓古墳)が築造されたのは3世紀末、その後「5世紀後半から6世紀にかけて、大王を中心としたヤマト政権は、関東地方から九州中部に及ぶ地方豪族を含み込んだ支配体制を形成していった」(山川出版社・詳説日本史B改訂版(2020) 32頁(以下「山川教科書」))。

箸墓古墳 © 地図・空中写真閲覧サービス 国土地理院

蘇我氏が実権を握り、飛鳥の地で推古天皇が即位したのは592年、中央集権化と律令国家への道を踏み出す大化の改新は646年(改新の詔)、大宝律令が完成するのは701年である。

したがって、日本の建国についても、ヨーロッパのそれと同じ問いを問うてみる必要がある。

当時、「家族システム以前」であり「国家以前」であったはずの日本は、なぜ国家を作ることができたのだろうか。

日本の国家形成と中国

日本にとってのローマ帝国は、いうまでもなく、中国である。

中国では紀元前1100年頃に直系家族システムが定着し、すでに紀元前200-100年頃には共同体家族の帝国が生まれていた。その後もシステムの強化は続き、900-950年頃までに女性の地位の最大限の低下を伴う共同体家族に到達した。

いうまでもないことばかり書いて申し訳ないが、
日本と中国の交流の歴史は古い。

外交的交流としては、漢(前漢)の時代(前202-後8)に倭人の国が定期的に使者を送っていたとか(漢書地理志)、後漢の時代(25-220)に光武帝から印綬を贈られたとか(後漢書東夷伝)、邪馬台国の王(卑弥呼)が魏 (220-265)の皇帝に使いを送り「親魏倭王」の称号と金印、銅鏡などを贈られた (239年)(魏志倭人伝)といったことが記録に残されている。

金印 漢委奴國王印文(public domain)

4世紀には中国の南北分裂の影響で朝鮮半島にかけて高句麗、百済、新羅が生まれ、日本も加耶諸国(日本書紀では「任那」)を通じて朝鮮半島情勢に大きく関わる。日本はこの時期、朝鮮半島での外交上・軍事上の立場を有利にするため、宋(南朝)に朝貢していたという(5世紀・宋書倭国伝)。

6世紀から7世紀になると、中国は隋(589)、唐(618)が南北統一を果たし、朝鮮半島にも勢力を拡大する気配を見せる。ちょうどこの時期に政権を担った推古天皇(在位593-628)や聖徳太子(在位593-622)は、国の組織を整える作業を行う傍で、中国に遣隋使を派遣し(600年-)、外交関係の構築を図っていた。

3世紀末以降、とりわけ6世紀末以降の日本の国家形成の動きは、中国文明を中心に国際情勢が渦を巻き始める中で、日本列島にも外交・軍事上の主体としての政府が必要となったことによるものと思われる。

天皇ー中国から借りた権威

中国と対等な関係を構築していくためには、日本にも皇帝に対応する何かが必要である。そのとき生み出されたのが「天皇」だった。

村上重良先生の説明をお読みいただこう。

天皇という称号は、中国から取り入れたもので、スメラミコト、スベラギ、スベロギなどと訓(よ)んだ。‥‥中国で皇帝が天皇と称した例は、唐の高宗(在位650-683)があるのみで、中国ではもっぱら宗教上の用語である。日本での用例は、608年(推古天皇16)聖徳太子が隋に送った国書に「西皇帝(もろこしのきみ)」に対して「東天皇(やまとてんのう)」と称したとの『日本書紀』の記述が最初とされる。古代国家の大王がとくに天皇の称号を採用したのは、自己が天の神の子孫であることを強調するとともに、国の最高祭司として自ら祭祀を行い、祭りをすることによって神と一体化するという宗教的性格の強い王であることを表したものであろう。‥‥

小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)[村上重良]

「天皇」の称号がその宗教的性格を表すために選択されたという解釈は、家族システムと国家の関係を探究するわれわれには意義深い。

聖徳太子が外交文書で「天皇」を採用した後、国内で「天皇」の称号が用いられるようになったのは、天武天皇の頃だという(山川教科書39頁)。

壬申の乱(672年)で大友皇子を倒して即位した天武は、乱で(豪族を追い落として)勝ち取った強大な権力をもって中央集権的な国家体制の形成を進めた(なお、このとき天武が勝利を祈願した伊勢神宮が国家的祭祀の対象となった)。日本はこの少し前に白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗しているから(663年)、国力の強化は課題として意識されていたはずである。

日本には天武という力のある王がいて、家族システムは発達していない。この状況で中央集権的な「強い」国家を形成していくために、万世一系の神の権威が必要だったのであろう。フランクの王クローヴィスがキリスト教に改宗し、一神教の権威を身に纏ったのと同じように。

天武天皇を支えたのが伊勢の神であったとしても、天皇の権威を裏付けていたのは伊勢神宮ではないだろう。

大陸の威光に照らされることなしに、日本という国、そして、天皇という存在が生まれることはなかった。神との一体性という物語に彩られたその権威の真の源泉は、中国帝国の皇帝と並び立つ存在であるという事実の方にあったのである。

日本史の基本的対立軸
ー舶来の権威 VS 地物の権威 

そういうわけで、国家としての日本の出発点には、中国の威光に照らされた天皇の権威があった。中国由来の「舶来」の権威は、家族システムの発達を見ていなかった日本が国家を形成するには不可欠なものだった。

しかし、農耕が発達して人口が増え、やがて土地が不足していけば、日本の国土の上でも家族システムの進化が起きる。定石通りであれば、それは直系家族となるだろう。

冒頭で述べたように、日本では13世紀末から直系家族システムが形成されていく。直系家族が生成するということは、社会に縦型の権威の軸が生まれ、自律的な国家形成が可能になるということである。すでに「舶来の権威」のもとで国家が作られている土地で新たに「地物」の権威が発生すると何が起きるか。

自然の成り行きとして、「地物の権威」は自らの権威に拠って立つ国家を作ろうとする。これも自然の成り行きとして、新たな権威は既存の古い権威とぶつかる。直系家族の生成が始まると、「地物」の権威と「舶来」の権威が衝突し、勢力争いが始まるのである。

二つの権威と家族システムに着目すると、日本の歴史は、「舶来の権威」の時代から「地物の権威」の時代、つまり、大陸の威光を借りた原初的核家族の国家から、自前で構築した直系家族の国家に移行する過程として描くことができる。

家族システムが未完成の間、二つの権威はしばし並存し、綱引きをする。しかし、完成した暁には、国家の仕組みは直系家族の縦型の権威構造にしたがって組み替えられるのである。

予告編

移行過程を時代区分に照らして見ると、「舶来の権威」の時代に当たるのは飛鳥・奈良・平安時代、到達点の「地物の権威」が徳川支配の江戸時代である。

その中間に、天皇と未完成の直系家族の権威が併存し、対立・綱引きする時代(平安末期・鎌倉・室町)があり、優位を確定させた直系家族が直系家族間の覇権争いに天皇の権威を利用する時代(戦国・安土桃山)がある。それを経て、ようやく、直系家族が支配権を確立し、天皇の権威なしにやっていく時代(江戸時代)が来るのだ。 

移行期に当たる平安末期から江戸時代の開始まで‥‥そう、この時代こそ、何がなんだかよく分からない時代ですよね?

藤原家の摂関政治の後が院政で、平氏の時代かと思えば院と源氏がともに平氏を倒し、すぐに頼朝は院と対立し、その後実権を握った北条も院と争い、蒙古襲来で北条の力が落ちると後醍醐天皇が出てきて足利尊氏と一緒に倒幕したのに尊氏は別の天皇を立てて幕府を開き、南北朝の動乱はいろんな勢力を巻き込んで全国に広がって60年も続き、収まったと思ったらまたいろんな家が入り乱れて応仁の乱を戦い、誰が勝ったかよく分からないうちに戦国時代になって、やがて政治の中心は京から江戸に移るのだ。

「だから何?」「これ全部覚えて何かいいことあるの?」と高校生の私は思っただろう(覚えられなかったので受験科目は世界史を選択した)。

移行期にあたる平安末期から江戸時代の開始までは、直系家族が生成していった時代であると同時に、識字率が(たぶん)上昇を続けた「プレ近代化」の時代でもある。男性識字率50%(19世紀後半)とはいかないまでも、文字を読む層が、皇族・貴族・聖職者から武士、商人、農民(+それぞれの上層から中層)へと拡大し、政治的な発言力を持つ層が広がっていく。

識字層の拡大がもたらす成長に家族システムの進化が伴う地殻変動の時代だからこそいろいろな事件が起こるのだが、事件の意味は分かりにくい。

しかし、家族システムの進化が絡んでいることを意識すれば、それだけで、面白いほどよく分かるようになるのである。

というわけで、次回以降、家族システムの進化に焦点を当てて、「舶来の権威」の国家が「地物」直系家族の国家に生まれ変わるまでの過程を追ってまいります。

今日のまとめ

・直系家族の成立以前、原初的核家族の日本は大陸の威光を借りて国家を建設した。

・直系家族の生成が始まると、直系家族の「地物の権威」と大陸由来の「舶来の権威」が衝突した。

・近代以前の日本の歴史は、大陸の威光を借りた原初的核家族の国家から、自前で構築した直系家族の国家に移行する過程である。

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    家族システムの起源I 240頁