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社会のしくみ

日本史概観(2)
-摂関政治、院政と平氏-

目次

平安末期ー父系の強化

飛鳥時代から平安時代までは、天皇を中心とした王侯貴族が大陸文化の独占によってその権威を保った時代であり、「舶来の権威」そのものの時代といえる。

しかし、その後半になると、天皇家を中心とした政権の枠内で、天皇親政から藤原氏による摂関政治(967-1068)、院政(1086~)へという推移が起こる。

この動きが家族システムと関連していることは明らかと思われる。なにしろ「天皇親政→摂関政治→院政」の変化とは、政治の実権が「天皇本人→母方親族→父方親族」に移行したことを意味しているのだから。

何がこのような変化をもたらしたのであろうか。 

摂関政治ー「舶来の権威」がもたらした女性重視の文化

摂関政治とは、藤原氏が天皇の外戚(母方の親戚)としての地位を確保したことで国政を支配した仕組みである。 

藤原北家は9世紀初めごろから、陰謀と天皇家との婚姻で徐々に一族内の他家、他氏排斥を進めた。当時、皇子の養育は母方の家で行われたので、皇子の母方の祖父は、皇子に大きな影響力をもった。この仕組みを巧妙に利用して、11世紀には道長が、その次の頼通も、意のままに国政を左右し、この世の栄華を誇った。

武光誠・大石学・小林英夫監修『地図・年表・図解でみる 日本の歴史 上』
(小学館 2012年)71頁

なるほど。しかし、そもそもなぜ、皇子の養育を母方の家で行うという仕組み(母方居住)が取られていたのだろうか。

母方居住とは、子供の養育における母親の役割をより重視するシステムである。当時の日本はまだ強固な父系社会ではなく、父母の重要度に大きな差異はなかった(双方系)と見られるが、母方居住が制度化されていたということには何らかの説明が必要であろう。

これには、当時の国家が「舶来の権威」によって成り立っていたというその事情がまさに関係しているように思われる。

推古天皇ー聖徳太子の頃から、皇族や貴族にとってもっとも重要だったのは中国の先進的文化に関する知識だった。律令制度による政治の仕組みが整った後は、皇族・貴族がもっとも重視したのは、学問的・文学的素養であり、彼らは文字を読み、詩歌を作り、儀式に習熟することで、その権威を保っていたのである。

源氏物語絵巻第38帖「鈴虫」(12世紀、五島美術館蔵)

いかなる家族システムの社会においても、幼い子供に読み書きを教え、教育的な雰囲気を涵養するのは母親である(トッド『世界の多様性』312頁以下等)。

当時の皇族・貴族が大陸由来の文字文化の担い手であることによって地位を保持していたことを考えれば、彼らが子供の養育を母方で行うようになるのは自然なことであろう。

母方居住の慣習により存在感を高めた藤原氏が、天皇の後宮に入れた娘たちの側近として教養の高い女性たちを登用し、『源氏物語』『枕草子』に代表される文学の興隆をもたらしたのも、故なきことではない。

* なお、この点についてトッドが立てている仮説は私のとは違う。彼は、藤原氏の覇権をもたらした母方居住を、中国の父系原則の流入に対する「補償的母方居住反応」と見ている(起源I・上239頁)。つまり、父系原則の流入による女性の地位低下(母系の価値観の衰退)を埋め合わせるために発生した習慣ではないかというのである。

人類学に関する私自身の専門性の低さからすると「ええ、そうかもしれませんね‥」としか言いようはないのだが、大宝律令(702年)が中国に学んである程度の父系原則を取り入れた後、養老律令(718年)では父系原則はむしろ後退しているし、その後も父系原則が中国から順調に伝播したという様子は見えない。

遣隋使の派遣により中国との公式の接触が再開(600年)したのと同時期に日本が女帝の時代を迎えたこと(593年の推古天皇から770年までに6名の女性天皇が誕生)については、中国の強固な父系原則に対する反作用と見るトッドの立場に説得力を感じるが、藤原氏の時代の母方居住の制度化(いつから始まったのが不明だが一応この時代に強まったと仮定する)については、その説明だけでは少し弱いと私は感じる。

トッドが指摘する女性的文学の登場も、どちらかというと「中国と日本の二元性が母方居住を生み出した」というよりは、「母方居住の習慣が女性的な文化の登場を可能にした」という順序ではないかと感じる。

院政ー「父系重視」の波

他方、院政は、院(上皇・法皇)が、天皇家の家長として天皇を後見するという体で実権を掌握する方式である。政治の実権は、後三条天皇の親政(1068-72)を介して、藤原氏の母方支配から父方支配の院政へと正反対に振れたことになる。

院政が始まったのは、地方で武士が台頭し、源氏と平氏を棟梁としてまとまりを見せていくのと同時期のことである。

したがって、院政の誕生は、かなり単純に、地方の勢力が軍事・行政上の実力を高め一大勢力として台頭してきたことへの、朝廷側の対応と理解することができる。

この時期、直系家族の中核的要素である長子相続の習慣はまだ発生していない。長子相続を促す「土地の不足」が生じるのは武士による所領の大規模開発が進む12世紀末のことである。

しかし、新興勢力が勢力を拡大するために武装し、紛争を多発させるという状況が、家の一体性の重視、そして父系(男性)の重視という傾向を生み出すことは容易に想像できよう。

要するに、この時代は、権力の基盤が「舶来もの」の文化的威信から在地勢力の実力に移行する過程の中で、直系家族の一要素を成す「父系権威の重視」の傾向が生まれた時代だった。

「実力」が問題となりつつある以上、天皇家も安穏と歌や儀式に興じてばかりはいられない。勢力の維持・拡大のためには、皇室も父系原則を取り入れ、新興勢力に伍していく必要があった。

そのような状況で開始されたのが院政の仕組みであり、院政とは在地の武士の間で高まった「父系重視」の波の天皇家バージョンなのである。

『平治物語絵巻』 三条殿焼討 ボストン美術館所蔵。平治の乱(1159年)

源氏と平氏ー貴族と武士の中間で

このように見ると、源氏や平氏と院の微妙な関係性も分かりやすくなる。いや、みんなは分かっているのかもしれないが、私はずっとよく分からなかったのだ。

まず、「天皇の時代→武士の時代」(舶来の権威→地物の権威)の移行期における源氏・平氏の活躍は、彼らが貴族でありかつ武士であるという中間的な存在であったことが大きい。

源氏と平氏はどちらも天皇の血筋である。皇室は平安前期から経費節減のために皇族を臣籍に下すことをするようになり、そのときに彼らに授けた姓が源氏であり平氏であった(清和源氏とか桓武平氏とかいうのは直近の祖先である天皇の名前である)。

彼らはやがて武士として力を付けていくけれども、高貴な血筋であることに違いはなく、「軍事貴族」(山川教科書にこの表現がある)とでもいうような存在であったのだ。

彼らは地方の武士からは高貴な血を引くリーダーとして慕われ、武家の棟梁としての地位を固める。一方、皇族や貴族にとっても身内として頼りにしやすい存在であったので、摂関家や院に奉仕することで、中央での地位を高めていった。

宮廷の時代を終わらせた平清盛

そういうわけで、まず、院政とともに平氏の時代がやってくる。歴代の上皇が軍事力の要として平氏を重用し彼らがそれに答えたからだ。平氏にとっても、中央でのし上がっていくためには上皇の力が必要だった。

しかし、政治の中枢に近づくにつれ、見えてくるのは「平氏こそが実力者である」という事実だった。彼らの背後には家人として従う全国の武士団とその土地があり、行政・経済の面における実力でも劣るところはない。

実力の時代に差し掛かっていたからこそ、平清盛は「だったら自分が頂点に立てばいいじゃん」と思った。一方で、まだ「舶来の権威」は健在であったので、清盛は天皇の外戚としての地位を確保し、一族で官職を独占するなど、往時の藤原氏のようにふるまった。

「貴族のようにふるまう武士」として専制的な権力を振るった平氏は、院をはじめとする皇族・貴族(+寺社勢力)と武士の双方から反感を買い、その覇権はまもなく終わる。

しかし、平氏を倒すための戦いで活躍し、その地位を高めていったのもやはり武士勢力だったのである。

朝廷を乗っ取り、貴族の衣を纏って自爆した平氏は、そのことによって、皇族・貴族の時代を終わらせたのだといえる。

それあってこそ、鎌倉の武士たちは、実直な武士のやり方で「地物の権威」を確立していくことができたのだ。

今日のまとめ

  • 平安期の政治は「天皇親政(天皇本人)→摂関政治(母方支配)→院政(父方支配)」と推移した。
  • 「母方支配」の基礎は母親の教育力であり、皇族・貴族が大陸由来の文字文化を担うことで権威を保っていた時代の産物である。
  • 「父方支配」の院政は、武士の間で生まれた父系傾向の天皇家バージョンである。
  • 移行期における源氏・平氏の活躍は、彼らが貴族と武士の中間的存在であったことによる。
  • 平氏は、貴族の衣を纏って自爆することで皇族・貴族の時代を終わらせた。