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基軸通貨ドル

基軸通貨ドル:私たちはどんな世界に暮らしてきたのか ①ドル覇権とは何か

はじめに

この記事は「基軸通貨ドルー私たちはどんな世界に暮らしてきたのかー」というタイトルで始めた連載の最終回である。

数年前から「どうも西側世界の鏡は歪んでいるようだ」と感じて探究を続け、「かなり分かった」と思ったところでウクライナ戦争が起きた。

ウクライナ戦争をめぐる西側世界の動きは「なぜ?」の連続で、これを理解して、同じように「知りたい」と思っている人たちと共有するには、まだ何かが欠けていると感じた。

*ウクライナ戦争ではピンと来なかった人たちも、ガザ危機で同じ疑問を持ったのではないでしょうか。

その最後のピースがこれ。
「基軸通貨ドル」である。

私と同じように「なぜ?」と思うような方は、おかねの話に詳しくない方が多いと思う。でも、素直に現実を見てみれば、現代では、おかねは、事実上、食物であり、資源であり、武器である。生物としての人類の争いが、おかねをめぐる争いという形をとるのは、たぶん、当たり前のことなのだ。

おかねをめぐってどんどんおかしな方向に進んでいく世界の物語。
どうぞお楽しみください。

ドル覇権とは何か:途方もない特権を持つアメリカ

アメリカに覇権が移ったのは第二次世界大戦の後だが(こちらをどうぞ)、基軸通貨ドルの下での通貨システムが現在の形で定まったのは、1971-73年を経た後のことである。

ここではその体制のことを「ドル覇権」と呼ぼう。

この体制の特徴は、基軸通貨国アメリカが持つ途方もない特権にある。4点にまとめよう。

*以下の記述が誇張でないことは日本大百科全書(ニッポニカ)の「通貨発行特権」の項(中條誠一)をお読みいただければ分かると思う(最後の一文が虚しくて好きです→「本来はこうした特権をもつ基軸通貨国は、節度ある経済運営を行い通貨価値の安定を確保するという義務を負っている」)。

①基軸通貨であるドルを作りたいだけ作ることができる

基軸通貨を作ることができるというのは、基軸通貨国の基本的な特権である。

*国際取引のほとんどは基軸通貨で行われるため、他国は輸出で基軸通貨を稼ぐか(通常は基軸通貨国の金融機関から)借りるかしなければ取引に参加できないが、基軸通貨国だけは、自国で通貨を作り、それを使って取引を行うことができる。

しかし、アメリカが持っている特権は、ただ「作ることができる」というだけではない。アメリカは、基軸通貨ドルを「作りたいだけ」作ることができるのだ。

かつてのポンドは金本位制の下にあった。そして、1971年8月15日以前のドルも、金=ドル本位制の下にあった。

*金=ドル本位制とは、ドルは金を裏付けとし(ドルと金を固定相場で結び、アメリカはドルの金兌換を保証する)、ドル以外の通貨はドルまたは金に対して相場を固定する通貨システム。実際には金を基準に選んだ国は一つもなく皆ドルを基準としたので、各国通貨の対外的価値はドル(を媒介として金)が支える格好になった。

金本位制の下では、基軸通貨国は、他国の中央銀行が「金に変えてくれ」と求めてきた場合、それに応じる義務を負う(基軸通貨の金兌換義務)。

つまり、かつてのイギリスおよび(1971年以前の)アメリカが持っていた「通貨発行特権」には、「金兌換義務を果たすことができる限度で」という制限が付いていたのである。

*金の保有量に合わせるのがもっとも安全だが、基軸通貨の信用が保たれていれば無闇に金兌換を求められることはないので「他国から信頼される経済運営」が条件ともいえる。

ところが、1971年8月、ドルを作り(そして使い)すぎて、金のストックがなくなりかけたとき、アメリカは、金兌換義務を放棄した(経緯はこちら)。

金兌換義務の放棄で、ドルの信用はもちろん低下した。しかし、ドルが基軸通貨の地位を追われることにはならなかった。

その結果、アメリカは、歴史上初めて、無制限の基軸通貨発行特権というものを手に入れたのである。

②赤字を出せば出した分だけ、他国から好条件の融資を受けることができる

アメリカの経常赤字が大変なことになっているのはご存じであろう。

世界経済のネタ帳 より

アメリカの経常収支は1970年代末から赤字になり始め、赤字は拡大の一途をたどった。にもかかわらず、決して国家財政が破綻することはなかった。

なぜかというと、アメリカが金兌換義務を放棄した結果として、ドル覇権システムの中に、「アメリカの出す赤字は(ほぼ)自動的にアメリカに対する融資となって戻ってくる」という仕組みが組み込まれたからである。

どういうことか。

アメリカの赤字とは他国の黒字である。1970-80年代であれば日本やドイツ、それ以降であれば産油国や中国が対米黒字でドルを蓄積した。

この国々が稼いだドルを資産として保有したいと考えたとき、かつてであれば、金に交換して安全資産として保有するという方法があった。しかし、ドルが金と切り離されたとき、タンス預金(紙幣を手元に置いておく)以外の方法は(実質的に)一つしかなかった。

ドル金融市場における投資(国債、株式、預金など)である。

ドル金融市場における投資は、投資国から見れば資産だが、アメリカから見れば債務すなわち「借金」である。

つまり、アメリカは、赤字を出せば出すほど、その分のおかねを他国が貸してくれるという、不思議な構造の中にいるのである。

もちろん、債権国は、建前上は、債務を引き上げることもできるし、厳しく取り立てることもできる。しかし、それをやって、アメリカの財政が本当に破綻したらどうなる?

彼らが持っている資産は、すべてパーになってしまうのではないか?

というわけで、日本を含む西側先進国はいつのまにやら一蓮托生。アメリカに倒れられては困るので、積極的かつ必死に支えざるを得ない、という状況が、1970年代にはでき上がっていたのである。

詳しくはこちらをご覧ください

③借りたおかねを信用の源として他国に融資をし、支配的な影響力を及ぼすことができる

基軸通貨の金融機関にはおかねが集まる(「世界の銀行」)。アメリカの場合、経常赤字の多くが自国の金融機関に戻ってくるのだから、その金額は膨大だ。

金融機関にとって、預金は信用の源である。預金が多ければ多いほど信用は高まり、その分だけ多くの貸付ができるようになる。

そういうわけで、アメリカは、金兌換義務を放棄することによって、多額の経常赤字を出し、多額の債務を抱えつつ、同時に、多額の対外貸付を行い、債権者として強い影響力を及ぼすことができるという不思議な地位を手に入れたのである。

アメリカの(とくに民間の)対外融資はしばしば相手国に債務危機を生じさせたが、アメリカはIMF(国際通貨基金)を手足として利用して、債権を確実に回収させた。詳しくは後述するが、アメリカにとって、通貨覇権を、債権確保の手段でもあったのだ。

④経済制裁を通じて「世界の警察」としてふるまうことができる

基軸通貨国でなくても経済制裁を実施することはできる。しかし、基軸通貨国が行う場合の効果は圧倒的だ。

アメリカから金融制裁(資産凍結、金融システムからの締め出し等)を受けるということは、事実上、一切の国際取引(貿易や資本取引)からの排除を意味していた。ドルが基軸通貨である以上、国際決済のほとんどはドル建てで行われるのだから。

この地位を利用して、アメリカは、キューバ、イラン、北朝鮮、シリアなど、恣意的に選んだ国々を国際取引のネットワークから排除し、「悪」のイメージを押し付けるとともに、その経済発展を妨げてきた。

この点は、後述の(投資による)「途上国の搾取」の問題と並んで、いわゆるグローバル・サウスがドル覇権に反感を抱く理由の一つとなっている。

*ちなみに下はアメリカの対キューバ制裁の解除を求める国連決議(2023年11月3日)の結果。アメリカとイスラエルだけが反対。31回連続で採択されているという。

ドル覇権の社会・経済的帰結:格差、搾取、終わらない戦争 

(1)根本は「おかねの増えすぎ」

基軸通貨国が上記のような特権を持っている以上、世界に流通するおかねの量が劇的に増えるのは当然だ(↓)。

どうにもバカバカしいことだが、以後、この「おかねの増えすぎ」こそが、世界の顕著な特徴を形づくっていくことになるのである。

ドル覇権下のおかねの量(https://www.bullionvault.com/gold-news/all_the_money_in_the_world_102720093
2008年以降はGDPを超えているという(https://www.nikkei.com/article/DGKKZO23437180U7A111C1MM8000/

(2)増えすぎたおかねの活用ー金融部門の極大化

おかねは、市場を作り出し、産業(財やサービスの生産)を活性化し、社会のすみずみに物資を送り届ける機能を持つが、それ自体は富ではない。

1970年代、出生率の低下とともに経済成長が頭打ちとなった先進国に送り込まれた大量のおかねは、スタグフレーション(不況+物価の持続的上昇)と呼ばれる現象をもたらした。

有効活用されなかったおかねは、ただ市場にあふれて自らの価値を下げ、物価のみを押し上げたのだ。

*おかねの価値が下がると、同じものを買うのにより多くのお金が必要になり、物価が上がります。

苦境を経た先進国は、1980年代、増えすぎたおかねの新たな活用先を見出す。それが、金融である。

先進国は競って金融自由化を推し進め、ありとあらゆる金融手法を実用化した。「おかねがおかねを生む」錬金術に目を眩ませた人々は、増えたものが(富ではなく)ただのおかねであることを忘れ、「永遠の経済発展」が可能になったと信じた。

そして、この「金融部門の極大化」は、世界の通貨供給量の増加にさらに拍車をかけたのである。

詳しくはこちらをご覧ください。

(3)格差社会に「付加価値」経済

増えすぎたおかねは、先進国では、金融にアクセスできる一部の者とそれ以外の者の間の極端な経済的格差を生み出した(とくに極端なのは米英)。

実体経済(収益・賃金・消費)は拡大せず、一般の人々の可処分所得は増えないが、どこかに大量のおかねがあり、それを手にする人間がいる。

そのような社会では、一般の人々の富はむしろ減っていく。大量のおかねが流通しているせいで、土地や住宅をはじめとする生活必需品の価格は下がらない(むしろ上がる)からだ。

それをよく示しているのが下のグラフである(↓)。アメリカにおける賃料と世帯収入(いずれも平均)の上昇率の推移を表している。

1985年以降、収入は大して上がっていないのに賃料はどんどん上がっている。株価が上がろうが、平均的な世帯の暮らしは苦しくなる一方なのだ。 

アメリカにおける賃料と世帯収入
https://x.com/WinfieldSmart/status/1701227710100484477?s=20

もう一つ、重要なことがある。

おかねが増え、増えたおかねが一部の者の手に握られると、その一部の者の水準に引き寄せられて、普通の人がごく普通に暮らしていくためのコストが上がる。

この変化は、普通の人のなりわい(日々の仕事)にも跳ね返るのだ。

人々は、普通の人の普通の需要を満たすだけでは食べていけなくなって、超富裕層のインバウンド需要を呼びこんだり、やたらと高級な米とかシャインマスカットとかを作るよう強いられる。

人間界では若者や社会人が日々心をすり減らし、自然界では環境や天然資源への負荷が高まり続ける(↓)。それは、この「付加価値経済」が、あらゆる人に、あらゆる領域で、「無意味なフロンティア開拓」を迫っているせいなのである。 

おかねの量と比例している気が・・

(4)途上国の搾取、環境破壊

ドルは基軸通貨であるから、増やしたドルを手にした人々は、世界中の富を買い漁ることが可能であったと思われる。

例えば土地。 

https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/4678b772cd0d698ff49b83e4ad53b13b3fe4cdaa六辻彰二さんの記事(2018年3月10日)より)

しかし、土地以外の財は、継続的に富をもたらすことがない。そこで、より好まれたのが、投資である。

低成長時代に入った先進国は、途上国が持つ「伸びしろ」を、有望な投資先とみなした。そこまではポンド覇権下のイギリスと同じだが、この時代(現代)の投資家の目的はあくまで自己利益(それも短期的な)なので、強引に貸し付けては気まぐれに引き上げるようなまねをして、途上国経済に深刻なダメージを与えた。

途上国においてもっとも手っ取り早くおかねを稼ぐ方法は天然資源の開発である。先進国からの資金の多くは資源開発=環境破壊のために用いられ、途上国は膨れ上がる債務の返済のために天然資源を売った。

例えば、南米アマゾンの破壊ではブラジルの歴代政府が批判されることが多いが、開発を促したのは先進国のおかねなのである。

先進国から途上国への投資の問題は、「ドル覇権 VS グローバル・サウス」の対立の核心なので、後で(③)詳しく扱うことにしよう。

世界全体の森林破壊は1980-90年代にピークを迎えている(https://ourworldindata.org/deforestation

(5)戦争

アメリカの対外赤字の源泉の一つは軍事支出である。WW2後のアメリカは共産主義封じ込めのためにあらゆる国に軍事支援を行い、自らも戦闘を行った。アメリカを金=ドル本位制の放棄に追い込んだ直接的な要因は、ベトナム戦争における多額の軍事支出である。

朝鮮戦争やベトナム戦争以外にも、アメリカは、CIAなどの諜報機関を通じたきわめて多数の秘密作戦や、単独ないし多国籍軍を主導する形での多数の戦争を実行している。

アメリカがこれだけの軍事費(表に出ている分だけでこの額↓)を支出できるのは、もちろん、上述の「特権」のゆえである。

しかし、話はこれで終わらない。ここからがより重要なのだ。

アメリカはかつて、ドル覇権に基づく経済的な「特権」を利用して戦争を戦っていた。冷戦の終結で戦争が必要なくなったとき、アメリカは、自国経済が「ドル覇権」なしに成り立たなくなっていることに気づいた。そこで、アメリカは、今度はドル覇権に基づく経済的な「特権」を守るために、再度軍備を増強し、終わりなき戦争を戦いはじめた、というのである。

もちろん、これは一つの仮説にすぎない。しかし、2000年以降の軍事支出の増大(↓)、冷戦終結後もなぜか終わらない戦争、金融危機(2008)の後の再度の軍事的活性化(ウクライナでの各種工作を含む)という事実は、「基軸通貨特権を守るための戦争」という仮説に、非常によく合致している。

https://data.worldbank.org/indicator/MS.MIL.XPND.CD?end=2022&locations=US&start=1960&view=chart

次回に向けて

第二次世界大戦直後、基軸通貨ドルを誕生させ、その信用を支えたのは、アメリカの経済的実力だった。しかし、ドル覇権(1971-3以後)は違う。

ドル覇権は、アメリカの経済力・経済的信用の低下によって生み出されたシステムである。現在、ドルの信用を支えているのは、アメリカというより、実質的には、アメリカと西側諸国(ヨーロッパと日本)の協力関係なのである。

西側諸国は、ドル覇権の一部を構成している。何がどうしてこうなったのか。それが次回のテーマである。

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結局あの戦争は何だったのか
ー日本から見たWW2ー

 

目次

はじめに

第二次世界大戦 -アメリカはなぜ参戦したのか-」を読んで下さった方の中には、「で、結局、あの戦争のことはどう考えたらいいの?」とモヤモヤしている方がいると思う。

私の基本的な理解は、日中戦争と第二次世界大戦はまったく別物だ、というものである。

倫理的な観点からいうなら、日本は中国に侵略した点では「悪」であり、中国に対してはいくら謝罪しても足りない。

しかし、アメリカとの関係は違う。

説明しよう。

侵略戦争、ライバル間戦争、覇権戦争

便宜的に、近代国家を主体とする国際戦争を次の三種類に分けて考えてみたい。

  1. 侵略戦争:領土や植民地、勢力圏を拡大するための戦争
  2. ライバル間戦争:国家同士がその勢力を争うために起こす戦争
  3. 覇権戦争:ある国が世界を制覇するために起こす戦争  
ロシア(ソ連)を入れるとややこしくなるので今回は除きます。すみません。
大衆識字化と工業化については、トッド「我々はどこから来て、今どこにいるのか?」上253頁を参照。

①侵略戦争

上図の6カ国は、みな海外膨張の時期を経験しており、征服または反乱鎮圧のための戦争を幾度も戦っている。

名前を問わず、ある程度以上の武力の行使を伴う案件を列挙するとこんな感じになる(↓)。

*網羅的ではありません 

ここでは、以下の点を確認していただくと見通しがよくなると思う。

  • イギリスフランスの海外進出の歴史がとにかく長いこと、
  • 統一が遅れたドイツ、統一も工業化も遅れたイタリアは後から膨張を始め、西欧列強によるアフリカ分割にも遅れて参加していること、
  • アメリカ日本が同時期にそれぞれ自国周辺での勢力拡大を行っていること、
  • 中国にはすべての国が進出していること。

日本は、明治維新を経て、欧米列強と肩を並べる強い国になりたいという願望のもと、数多くの侵略戦争を戦った。日中戦争もその一つである。

この意味での侵略戦争は、近代化の過程を先行した国がその分の優位を利用して後行の国を利用・支配する行為であり、倫理的に正当化の余地はない。これは「はじめに」で述べたとおりである。

②ライバル間戦争

ライバル間戦争は、比較的対等な関係にある国同士が勢力争いの過程で行う戦争を指す。

英蘭戦争(1652、1665、1672)、英仏植民地戦争(17世紀末-19世紀初頭)、米英戦争(1812)、普仏戦争(1870)、日露戦争(1904)などが典型である。

多数の国が関わった七年戦争、第一次世界大戦も、基本的には勢力争い(競争)のための戦争であり、「ライバル間戦争」といってよいと思う。

③覇権戦争

覇権戦争は、世界を征服して大帝国を築くという壮大な企てのための戦争である。そうしょっちゅうは起こらない。

例えば、イギリス(大英帝国)は、早期の海外進出の結果、金融・通商における世界の覇権を担ったが、覇権戦争によってこれを得たわけではない。

*ただし、初期に覇権を確立したという事実のために、その後に起こる覇権戦争ではたいてい敵役を務めることになった。

近代以降の覇権戦争として思い浮かぶのは、まずはナポレオン戦争

La bataille d’Austerlitz. 2 decembre 1805 (François Gérard)

次は、世界の「新秩序」を目指したヒトラー率いるドイツの戦いである(第二次世界大戦・ヨーロッパ戦線))。

そして、「第二次世界大戦 -アメリカはなぜ参戦したのか-」での検討を経て、私は、アメリカ参戦後のWW2はアメリカを主体とする覇権戦争だったと考えるようになった。

第二次世界大戦の整理・整頓

「結局あの戦争は何だったのか?」をクリアに理解するためには、参加主体毎に区別して整理・整頓を行うのがよいと思う。

(1)ドイツにとっては覇権戦争だった

WW2(ヨーロッパ戦線)は、ドイツを主体としてみた場合には純然たる覇権戦争である。

*これをくい止めるために戦った英仏露にとっては、国家ないし国土防衛戦争である。

ちなみに、ドイツにとって、WW1は覇権戦争ではなかった。もちろんドイツは勢力拡大を目指していたが、その行動様式に他国と大きな違いがあったわけではない。

*英仏に対してドイツが少し出遅れていたために「現状維持を望む英仏 VS 攻撃的なドイツ」という構図になってしまっただけである。

WW1におけるドイツと英仏の戦いは「ライバル間戦争」に過ぎなかったのだが、あたかもドイツによる覇権戦争のように扱われ、敗北したドイツに過大な責任が押し付けられた。

*このことは戦後処理にもよく現れている。WW1のドイツは交渉により和平に応じたのであり、無条件降伏をしたわけではなかった。にもかかわらず、敗戦後の交渉のテーブルにつけず、「戦争の責任は専らドイツとその同盟国にある」(条約231条)と勝手に決められて巨額の賠償を課せられた。

このときの心の傷が、ドイツをこじらせ、今度は本物の覇権戦争に向かわせる大きな要因となったのである。

(2)日米は「ライバル間戦争」を戦えば十分だった

日本は1937年から日中戦争を戦っていた。日中戦争はすでに述べたように侵略戦争であり、同じく中国に関心を持っていた欧米諸国から見ると日本はライバルだった。

「八紘一宇」とか「大東亜共栄圏」などと威勢のよいことを言ってはいたが、その実態は、限定的な地域における地域覇権の構想にすぎず、アメリカによる中南米・太平洋地域の植民地化と何ら異なるものではなかったのだ。

*文化が異なるから支配の仕方はもちろん異なるが、日本のやり方が際立って悪質だったということはないと思う。

日本の構想は、アメリカの利益には反していた。アメリカは中国を開放市場としてキープしたかったし、日本には(石油などを通じた)「アメリカ依存」から脱却してほしくなかった。

なので、日本がどうしても「大東亜共栄圏」を実現するつもりなら、どこかの時点でアメリカと戦うことは避けられなかったかもしれない。

*とはいえ、日本は石油も軍需品もアメリカに依存しており、戦って勝てないことは当時の指導者も分かっていた。交渉の余地はいくらでもあったのだ。

しかし、その場合に起こる戦争は、せいぜい「ライバル間戦争」であるはずだった。

当時の両国における総合的な軍事力(経済含む)の差を考えれば「日米戦争」はごく短期間で終わったはずで、負けた日本がいろいろ譲り、「依存」脱却は将来に期する、ということになったはずである。

310万人もの死者(日本人)を出す必要なんて全くなかったのだ。

(3)最終的にWW2はアメリカの覇権戦争となった

それにもかかわらず、日本がWW2に引っぱり込まれ、ヒトラーのドイツと一緒くたにされて「総力戦」を戦う羽目に陥ったのは、アメリカがWW2への参戦を世界の覇権を取るチャンスとみなしたからである。

 *詳細はこちらをご覧ください。

日本はそのとばっちりを食った格好だ。

(4)イタリアも「とばっちり」

WW2におけるイタリアと日本の立ち位置はかなり似ている。

イタリアも、直前にアルバニアを保護国化したり、エチオピアに侵攻したりしたことを咎められ、ついでにドイツと提携関係を結んだことで「覇権戦争」の主体に祭り上げられたのだが、イタリアが戦っていたのは覇権戦争ではない。侵略戦争であり、ライバル間戦争だ。

欧米列強から見れば「ライバル」だから開戦はしても、適当なところで交渉して終わらせれば十分で、無条件降伏を要求されるいわれなど全くなかった。

このときの日本やイタリアは、せいぜいWW1のときのドイツである。勢力拡大は願っていたが、世界征服なんて想像もしなかったのだ

*ドイツと日本・イタリアの時差は大衆識字化の時期で説明できると思う。ドイツは工業化の開始こそイギリスに遅れたが、識字率上昇による地力の蓄積があったので、非常に早期にキャッチアップできたのだ。

なぜWW2が「自由と民主主義のための戦争」になったのか

そういうわけで、WW2は、全体として見ると、ドイツの覇権戦争として始まり、アメリカの覇権戦争として終わった。

それがどうして、「ファシズム陣営 VS 自由主義陣営の戦い」「自由と民主主義のための戦争」と整理されることになったのか。

答えは簡単で、アメリカが(参戦し覇権戦争として総力戦を戦うための)口実を必要としたからだ。

(1)英仏の開戦理由はイデオロギーではない

1939年9月、ドイツと英仏の間で戦争が始まったとき、その戦いはイデオロギーを守るための戦いではなかった。

ヒトラーが政権についた1933年1月以降、ドイツはジュネーヴ軍縮会議・国際連盟脱退(1933年10月)、徴兵制復活(35年)、非武装地帯とされたラインラントへの進駐と、WW1後のヴェルサイユ条約を反故にするような動きを着々と進めたが、ヨーロッパ諸国は(文句を言いながらも)許容した。

1938年3月のオーストリア併合には抗議すらなく、ドイツがチェコスロバキアにズデーテン地方の割譲を要求したときも、英・仏・伊・独の4カ国(チェコ抜き!)の話し合いで割譲を認めている(ミュンヘン会談)。

*ドイツとオーストリアの「合邦」は「民族自決」というヴェルサイユ条約の基本理念に基づく「ドイツ民族の自決」の行為として行われ、現にほとんどのオーストリア人はこれを歓迎していたというから、ドイツの勢力が大きくなりすぎることを嫌う勢力にとって要警戒であったとしても、倫理的には問題のない行動だったかもしれない。

こうした首脳たちの姿勢が、「自由と民主主義」の国民に非難を浴びたかといえばそんなこともない。

ミュンヘン会談で「宥和外交」を主導したイギリス首相チェンバレンは「ヨーロッパの平和を守った」として国民の大歓迎を受けて帰国したのだ(坂井栄八郎『ドイツ史10講』194頁)。

英仏がようやく戦争の準備を始めたのは、ドイツがミュンヘン会談のラインを踏み越えてチェコスロバキアに侵攻・保護国化した後であり(1939年3月)、宣戦布告をしたのは、ドイツがポーランドに侵攻した後である(9月)。

ドイツの拡大方針が予想以上に「本気」であり、フランス、オランダ、ヨーロッパ全土がその支配下に置かれる危険性があると見てとって、初めて英仏は戦争に踏み切ったのだ。

英仏、そして後に対独戦争の中心となったソ連にとっては、第二次世界大戦は純粋に「国土防衛のための戦争」であり、それ以上でもそれ以下でもない。

(2)「自由と民主主義のための戦争」へ

この戦争が急速に「自由と民主主義のための戦争」の様相を見せるのは、アメリカが参戦に向けた世論形成に動き始めてからである。

1941年1月、フランクリン・デラノ・ルーズベルト大統領(以下FDR)は「4つの自由」演説(一般教書演説)を行い、来るべきアメリカの参戦は独裁者から人類の自由を守るための戦いであると位置付けた。

以後、FDRは類似の言説を繰り返し、チャーチルとも協力して、第二次世界大戦を「自由 VS 専制」の戦いに仕立て直す。

そうして国民世論をまとめ上げ、同年12月、日本の真珠湾攻撃を機に参戦するのだ。

この戦いが通商による世界帝国を完成させるための覇権戦争であることを隠すためには、天皇はヒトラーと同様の独裁者でなければならず、日本はドイツと同様の軍国主義国家でなければならなかった。

しかし、事実は違う。天皇はヒトラーとは全く異なる穏健な君主だった。満州事変以降、ナショナリズムは高揚し思想・言論の取締りも強化されたが、それは日本だけのことではない。

*WW1中のアメリカは戦時広報委員会を作って激しい戦争プロパガンダを展開するとともに、戦争批判を含む言論の取締りを行なった。大学は戦争批判を行なった教員を解雇し、国は戦時防諜法(スパイ活動法とも)・戦時騒擾法違反などの容疑で戦争批判者を逮捕・起訴した(こうした法律は廃止されずに残っていて多分現在も使われている)。人種差別的排外主義も顕著であり、1924年移民制限法は「帰化不能外国人」として事実上日本人の移民を禁止し、WW2への参戦後は苛烈な日系人収容政策をとった。

日本で軍部の権力がいよいよ強大になり、言論や報道の統制が厳しくなり、狂気じみた戦い方が見られるようになったのは、対米開戦後。つまり、絶対に勝てないと分かっている強大な敵に向かっていかなければならない状況に追い込まれた後のことなのだ。

ロシア・ウクライナは「あの時の日本」(おわりに)

改めて整理してみて思った。

WW2に引きずり込まれた日本は、ほぼ、ウクライナ戦争に引きずり込まれたロシアなんだ。

バイデン大統領はロシアの特別軍事作戦が始まったその日の演説で、ロシアの侵攻を”unprovoked and unjustified attack”と述べて非難した。

*一般的な訳語では「いわれのない不当な攻撃」だが、より直訳的には「挑発なしに行われた、正当化できない攻撃」。

準備万端整えた上でさんざん挑発し、相手が攻撃を仕掛けてくれば即座に「unprovoked」と決めつけて対抗措置に出る。

*この件について詳細は「よくわかるウクライナ危機」、「なぜロシアはいま戦争を始めたのか(翻訳・紹介)」等をご覧ください。

これはFDRがWW2で用いたのと全く同じやり方だ。

FDRは、日本が思惑通り攻撃を仕掛けてきた翌日、真珠湾攻撃を”unprovoked and dastardly attack”として議会に宣戦布告を求め、ほぼ満場一致で参戦を果たすのだ。

*dastardlyは「卑怯な」。なお決議では初の女性議員であるジャネット・ランキンのみが反対票を投じた。

そして、日本はウクライナである。

WW2(太平洋戦争)における日本は、アメリカの目論見のために、およそ対抗できるはずのない強大な敵(アメリカ)に対峙させられ、3年半もの間、愛国心だけを頼りに戦い続けた。現在のウクライナが、強国ロシアとの戦いを強いられ、愛国心を掻き立てているのと全く同様に。

もちろん、日本は真珠湾攻撃をしないことができたし、ロシアはウクライナに侵攻しないことができた。しかし、その選択は、日本の場合には、無抵抗のままアメリカの属国となるという選択だったし、ロシアの場合には、NATOの不当な威嚇に屈し、ウクライナ東部のロシア系住民を見殺しにするという選択だった。

そういうわけなので、私は当時の日本を愚かとは思わないし、現在のロシアを愚かとは思わないが、当時の日本を愚かという人たちは、現在のロシアを愚かというのだろう。

「なるほどねー」と、
私は非常に合点がいったのだ。

付・終わらない戦争ーもう一つの共通点ー

本文からはみ出てしまったが、世界平和のために重要なことだと思うので書く。

現在のロシア・ウクライナと「あの時の日本」の共通点はもう一つあって、それは、アメリカの法外な要求のせいで、戦争を終わらせることができないという点である。

確かなことは知らないが、アメリカは東部を含むウクライナ全土の返還を条件にしているとか、ロシアの政権交代(レジーム・チェンジ)を狙っているとかいう。どっちも無茶な要求だ。

しかし、その前例もWW2にある。

歴史の教科書には、イタリア、ドイツは「無条件降伏をした」、日本は「軍の無条件降伏を勧告するポツダム宣言を受諾した」等とされている。もちろんその記載は誤りではない。

*日本の降伏は厳密には無条件降伏ではないという議論があるようで(例えばこちら)、確かに手元の日本史・世界史教科書はどちらも日本については「無条件降伏をした」とは書いていない。しかし、私の議論の文脈ではこの点は重要ではないので、とりあえず一緒くたに「無条件降伏をした」という言い方をさせてもらう。

しかし、教科書には、なぜ無条件降伏をしなければならなかったのかということは書いてなくて、これはアンフェアだと思う。

イタリア、ドイツ、日本が無条件降伏をしたのは、1943年1月のカサブランカ会談(チャーチルとFDR)で、両者が(FDRの主導で)「全ての敵に無条件降伏を強いる」と決めてしまったからだ。

何をされても文句を言えないという条件の下では、早期の降伏は考えられない。「無条件降伏」の決定は、とくにイタリアと日本には明らかに不必要な過剰な要求で、そのために戦争が長引き、その分だけ(敵味方を問わず)大勢の人間が死んだ。

WW2を経験した日本が提起できる最大の教訓は、経済制裁は戦争の導火線である(または「戦争そのものである」)ということと、停戦に高い条件を課してはいけないということの2点だと思うが、どっちも全く生かされていない。

 

 

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第二次世界大戦
-アメリカはなぜ参戦したのか-

はじめに 

私はこれまでの人生の中で「アメリカはなぜWW2に参戦したのか」という問いを問うたことがなかった。

*このブログの最初の記事でも、私が問うたのは「昭和の日本が、勝ち目のない戦争を始めた(そしてなかなかやめなかった)のはなぜか」という問いだった。

しかし、この夏、ケインズの伝記(イギリス人の目線でWW1からWW2の時期を描いている。以下『ケインズ』)を読んで、アメリカにはWW2に参戦しないという選択肢があったことに気づき、同時に、アメリカは明確な意図を持って参戦を決めたのだということを知った。

私が理解したのは、次のことである(仮説です)。

アメリカが参戦を決めたのは、戦争への参加を、イギリスから覇権の最後の一片を奪い、世界の頂点に君臨するチャンスと捉えたためである。

その際、アメリカが日本を敵に選んだのは、非白人への差別意識を利用して参戦を容易にするとともに、日本の野心を取り除き、アメリカの通商上の覇権を完成するためである

「なるほど、そうだったのか‥」と理解した瞬間、私には、近代から現代(というか今ここにあるこの世界)に至る流れがとてもクリアに見えるようになった。

日本人としては「えーっ!」と思うところもあるけれど、それはそれとして、「なるほどねー」という感覚を共有していただけたらと思う。

*「基軸通貨ドル」としてこのテーマを扱うことは当初予定していなかったのですが、アメリカの参戦があってこその「ドル覇権」であることは確かだと思います。連載をお読みの方は連載の一部として、そうでない方は単独の論考としてお読みください。

アメリカはなぜイギリスをなかなか助けなかったのか?

ドイツ軍がポーランドに侵攻したのは1939年9月1日。その2日後、イギリスとフランスがドイツに宣戦を布告した(9月3日)。WW2の始まりである。

英仏の宣戦布告について、イギリスの歴史家は次のようにいう。

イギリス政府とフランス政府がドイツとの戦争に踏み切ったのは、ルーズヴェルト政権がともに民主主義を掲げる友好国の敗北を許すはずがないと信じ切っていたからである。

ロバート・スキデルスキー『ジョン・メイナード・ケインズ』下・213頁

しかし、実際には、アメリカは1941年12月になるまで参戦しなかった(2年以上後だ)。

フランスが敗れ(40年6月)、連合国が困難な状況に陥っても、アメリカはなかなか彼らの側に立とうとはしなかったのである。

アメリカが参戦した理由を知るためには、アメリカが「なかなか参戦しなかった」理由を知る必要があるだろう。

そこで、この項のタイトルはこうなった。

「アメリカはなぜイギリスをなかなか助けなかったのだろうか?」

(1)アメリカ国民はヨーロッパの戦争への関与に反対だった

当時、アメリカ国民の間には、ヨーロッパの戦争に関わることに対するかなり強い忌避感があった。

1930年代のアメリカ国民は、第一次世界大戦を、イギリスに引きずり込まれて12万もの(アメリカ人の)死者を出した「無益な戦争」と捉えていた。

ヨーロッパの情勢悪化を受けて、参戦反対の国民感情は具体的し、議会は中立法(交戦国への武器禁輸)を制定する(1935年)。

これにより、政府は、さしあたり、中立の立場を義務付けられることになった。「なかなか参戦しなかった」第一の理由といえる。

*中立法は、36年(交戦国への借款禁止)、37年(内戦にも適用)と順次厳格化されている。

(2)アメリカはイギリスが好きではなかった

(1)とも関係があるが、基本的な姿勢として、アメリカはイギリスのことがそれほど好きではなかった。

前回も書いたように、イギリスの方は「アメリカは絶対助けてくれるはず」と思い込んでいるのだが、アメリカの方はイギリスをそれほどよく思っていないのだ。

アメリカの左派〔当時の政権与党は左派の民主党ー辰井注〕からすれば、イギリスは狡猾な帝国主義国家である。アメリカはそのイギリスの軍隊と戦って独立を勝ち取ったのだ。‥‥ それにイギリスは銀行を中心とする資本主義の中枢だが、ニューディールはそうした金融主導に対抗して計画されたものである。ルーズヴェルト自身も英帝国を嫌悪し、イギリスの貴族たちは信用ならないと考え、〔イギリス〕外務省は親ファシストではないかと疑っていたし、イギリス人は全体として非常にずる賢いと感じていた。‥‥

共和党はそれほど反英ではないとしても、とにかく反ルーズヴェルトであり、参戦には断固反対だった。

『ケインズ』下・214頁

そういうわけで、アメリカはイギリスを好きではなく、仲間意識も持っていなかった。これが第二の理由といえる。

(3)アメリカは経済戦争でのイギリスのやり口に怒っていた

もう一つの背景は1930年代の経済戦争である。

いわゆる「経済戦争」の発端は、アメリカ高関税政策である(1930年関税法)。アメリカは、農産物価格の下落に対処するため、農産物と(ついでに)各種工業製品の輸入に高い関税をかけた。

このアメリカの措置が、各国による対抗・報復措置の連鎖を生じさせ、終わらない経済戦争に発展してしまうのだが、その過程で行われたイギリスによる3つの措置がアメリカを怒らせていた。

①金本位制離脱 

イギリスは1931年9月に金本位制を放棄した。

イギリスの金本位制への復帰は(主観的には)世界の基軸通貨・金融センターの地位を回復するためであったが、早すぎる復帰それも過大評価された(WW1以前の)旧平価での復帰はイギリス経済に悪影響をもたらした。

と前回書いたように、ポンドの過大評価が負担であったためだが、アメリカは「イギリスが不当にポンドを切り下げて輸出競争力を維持しようとしている」と理解して怒った。

*なお、この時期のアメリカには「イギリス経済はそんなに悪くない」「まだまだどっかにおかねを隠しているはず」と考える傾向が見て取れる。家出息子の方にも親を過大評価している部分があるのだ。このときのアメリカは、財務長官モーゲンソーが陣頭指揮を取りドル安誘導策を取って「1ドル=5ポンド」(金本位制下でのレート)を回復してのけ、イギリスをギャフンと言わせたという。

②イギリス連邦特恵関税制度

イギリスは、オタワ連邦会議を開催し、アメリカへの対抗措置として、イギリス連邦特恵関税制度を構築した。

*イギリスとカナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ、ニューファンドラントの間の関税を引き下げることで諸国間の貿易を活性化する貿易振興策

これにアメリカは激怒した。
不満はこうである。

アメリカの高関税政策は、すべての輸入に高関税をかけるもので、全世界に対して平等だ。

一方、イギリスのやり方は、連邦諸国のみを優遇して閉鎖的な市場を構築するもので、それ以外の国を排除するものである。連邦の構成メンバーからいって、これではまるでアメリカだけが差別されているみたいではないか。

「やりすぎだ」「許せん!」

とまあ、そういうことになってしまったのだ。

*実際、当時のアメリカの国務長官コーデル・ハルは、この英連邦特恵関税制度こそが、彼の在任期間において、アメリカの貿易に「最大の損害」を与えるものだったと述べている。

③開戦後のドル防衛策

さらにイギリスは、WW2の開戦後、貴重なドルが軍事物資以外の輸入に使われないように、ポンド・ブロック内を厳格な為替管理で囲い込んだ上(ドルを使えないようにする)、ドルを手に入れるために中南米に輸出攻勢をかけた。

イギリスとしては戦争に勝つための苦肉の策だったが、アメリカの目にはアメリカの輸出妨害にしか見えず、怒り心頭となったのである。

*ポンド地域のドル囲い込みはアメリカの輸出にとって大打撃+中南米は「アメリカの裏庭」であり大切な輸出市場

背景としての経済戦争(経済構造と戦術)

「経済戦争におけるやり口に怒っていたからイギリスを助けない」という態度にも見て取れるように、(とりわけ)アメリカにとってのWW2の主題は経済である

アメリカは、経済政策をめぐって、イギリスに、ついでにいうと日本にも「イラッ」と来ていた。

実際のところ、1930年代の経済戦争における各国の「戦い方」は、それぞれの国の事情に対応したものなので、「怒っても仕方がないじゃん」と私は思うのだが、しかしともかくアメリカは不満だったのだ。

WW2の理解にとっても、WW2後の世界の理解にとっても重要なポイントなので、整理をしておきたい。 

アメリカは、資源大国であり、エネルギーも食料も他国に依存しないでやっていくことができる国である。

当時のアメリカにとっては、国内産業の強さと輸出市場の確保のみが重要であり、輸入はどうでもよかった。だから彼らは単純な高関税政策を取った。

*実際にはうまくいかなかったが。

他方、イギリスは、土地も資源も不足しており、自給自足は考えられない。輸入と輸出の双方を活発に行うことで初めて成立する貿易立国である。

だからこそ、イギリスは、高関税で国内産業を保護するだけでは不況を脱出できず、ブロック内で関税優遇策を取ることで、貿易(輸出と輸入)を維持する必要があったのだ。

しかし、市場から排除され、輸出先を奪われたアメリカはこれに不満で、「イギリスなんか絶対助けてやらない」と誓ったのである。

日本の場合である。日本はイギリスと同じく資源不足の貿易立国であるから、大英帝国にならって、勢力圏を広げてブロック経済を構築する方向を模索した。

*日本の場合、まだまだ資源確保には全然足りなかったので、経済戦争だけでなく領土拡大のための侵略戦争も並行して実施することになった。

アメリカはもちろんこれにも不満である。全世界はアメリカの市場でなければならないのに、日本は(朝鮮、台湾を含む)日本帝国、満州、中国全土をブロック化し、東南アジアへの拡大まで狙っている。

この時期のルーズヴェルト政権が関心を持っていたのは、強い国内産業と潤沢な市場による通商帝国の確立だった。

イギリスの特恵関税制度や日本の大東亜共栄圏構想はその妨げ以外の何ものでもなかったのである。

*「通商帝国」という言い方は、植民地として支配するのではなく(植民地だとちゃんと国家として経営しなければならないので)、諸外国を本国にとって都合のよい市場に仕立てて本国経済に奉仕させる非公式な帝国主義を指して用いられている。

イギリスとアメリカの攻防

そういうわけで、アメリカは、単にイギリスを助けるための参戦には全く興味がなかった。

そのアメリカがWW2への参戦を決めるのは、戦費調達をめぐるイギリスとの攻防の末のことである。

両者の間にどんなやり取りがあったのであろうか。

*私が『ケインズ』を読んで「ほー」と思ったのはこの辺です。以下、ほぼ同書に依拠して進めます。

(1)おかねが足りないイギリス

戦争を始めてはみたものの、イギリスにはおかねがなかった。

イギリスは、戦闘力にはそれなりに自信がある。しかし、重工業でイギリスを上回っていたドイツと戦争を続けるには、武器や軍需品を(アメリカから)入手し続けなければならず、イギリスにはその資金がなかった。

イギリスは再三に渡ってアメリカに支援を求めるが、アメリカ国民は参戦反対だし、アメリカ政府は「助けてやらない」と誓っている。その上、フランクリン・デラノ・ルーズヴェルト大統領(以下FDR)は、1940年11月の大統領選に向けた選挙戦を「アメリカの若者を海外の戦争に送らない」を公約に戦っていた。

しかし、イギリスにはとにかくおかねがない。おかねはないが、アメリカには武器や軍需品を送ってもらわなければ困るのだ。

(2)フィリップ・カーの説得術

この時期、ロジアン侯爵フィリップ・カーという人物が駐米イギリス大使を務めていた。 

Phillip Kerr 11th Marquess of Lothian

彼はまず、戦争を「自分たちには関係ない」と思っているアメリカ人に、この戦争にはアメリカの安全保障がかかっていると説得して回る戦術をとった。

標語にすれば、「イギリスの勝利なくしてアメリカの安全なし」。

*私が勝手に考えました。

一方、アメリカ国民は、ダンケルクの戦い(1940年5月)を経て、イギリスは負けるのではないかと考えるようになっていた。

*ドイツ軍に追い詰められた英仏軍が辛くも本国に撤退した「史上最大の撤退作戦」で有名。

敗戦を予測し「じゃあ助けなきゃ」となるかといえばそうではなく、彼らはこう考える。「負ける国に武器を売るなんてバカバカしい」。世論はますますイギリスに不利になっていた。

フィリップ・カーは、引き続き、イギリスの勝利がアメリカの安全保障の前提条件であることを訴えつつ、参戦にネガティブなアメリカ世論を考慮して、次のような論陣を張った。

アメリカが参戦しなくてすむ唯一の方法は、イギリスが負けないように支援することである。

この訴えはアメリカに響いたらしい。

1940年6月、カーは「このままではイギリスは負ける」と訴えて、FDRから旧式ライフル銃の破格での売却を引き出す。

*FDRは中立法の規定をかいくぐってこれを実現した(まずUSスティールに売って同社がそれを転売するという形をとったらしい)。

1940年11月、イギリスはバトル・オブ・ブリテンでドイツ空軍を撃退。

財政はますます逼迫の度を強めたが、アメリカの国民世論は好転している。

フィリップ・カーは考える。
さて、アメリカの資金を引き出すために何をしようか。

*この時点で、「年内に金・ドル準備はほぼ底をつく計算」だったという(ケインズ・219頁)。

(3)チャーチルの手紙

この時期、アメリカ政府(具体的には財務長官モーゲンソー)の基本姿勢は次のようなものだった。

イギリスがドイツと戦うのは助けよう。しかし世界におけるイギリスの地位を守ってやるつもりはない。」

イギリスがいくら支援を訴えても、アメリカはまだ、大英帝国の「隠し財産」を疑っており、帝国資産を温存したままでの支援はあり得ないと考えていた。

一計を案じたフィリップ・カーは、11月23日、ロンドンから飛行機で戻りアメリカの空港に降り立った際、その場にいた報道陣に大声でこう言い放った。

諸君、イギリスは文なしだ。
 われわれにはあなた方の資金が必要なのだ。

この発言はイギリスでもアメリカでも騒動となったが、FDR政権がイギリスのドル不足問題に公式に取り組まざるを得ない状況を作った。

それでもなお、アメリカは「ポケットを全部ひっくり返して」、イギリスが中南米に保有する資産の明細を提示しろと迫る。

*12月初めのイギリス大使との会談における財務長官モーゲンソーの発言。

窮地に陥ったフィリップ・カーは、チャーチルを動かそうとした。
カーに急き立てられ、チャーチルはFDRに書簡を送った。

これが効いたのだ。

FDRは、この手紙を読んで、WW2への参戦を最終的に決意した

私がそう思うのは、以下(具体的には次項以下)に示す状況証拠による。

「アメリカの若者を海外の戦争に送らない」と訴えて1940年11月の大統領選挙に勝利していた彼は、手紙を読んだ直後、一転して参戦に向けた環境整備に動き始めるのである。

*チャーチル自身、この手紙を「私がこれまでに書いた中で最も重要な手紙の一つ」との認識を示しているという。

手紙の内容はこちらで紹介しています。

FDRはどんな夢を見たか

手紙は、カリブ海に浮かぶクルーザーの上で選挙戦後の休養をとっていたFDRのもとに届けられた。彼は2日間、繰り返し手紙を読んで、沈思黙考したという。

威厳ある文体を保ちながらも「イギリスを身ぐるみ剥ぐことなく」船舶や軍需品を支援してくれと懇願するチャーチルの文章を読みながら、FDRは何を考えたのだろうか。

*ここからは私の想像です。

ついに来た。この時が

彼は考えたと思う。

イギリスからすべての特権を奪い、覇権をわがものにする最高のチャンスだ。

温情にすがるイギリスを助け、晴れて勝者の側に立てば、戦後の主導権はわが国に転がり込んでくる。帝国特恵関税制度はもちろん廃止させ、ポンドの地位も奪う。いよいよアメリカが名実ともに世界の中心になるときが来たのだ。

つぎに考えたのが、おそらく、日本のことだ。

*チャーチルの手紙にも日本への言及がある。

最大の障害はアメリカ世論だが ‥‥ それには日本を使うのがいいだろう。向こうから仕掛けさせれば、満場一致で参戦できる。

日本を叩いてその野望を打ち砕けば、東アジアに東南アジア、太平洋にインド洋。世界中の海と市場が、真にわが国のものとして確保されることになるだろう。

と、こんなことを考えて、うっとりしたのではないだろうか。

「よし」と心を決めたFDRは、さっそく、いわゆるレンドリース・プログラム(Lend-lease)の構想を発表する(12月17日)。

1941年3月に議会を通過するレンドリース法(武器貸与法)は、「大統領が合衆国の安全保障上必要と認めた国に対して武器・軍事物資を売却、貸与、賃貸などを行うことができる」というもので、それまで中立を保っていたアメリカが、以後(アメリカ的表現では)「民主主義の武器庫」として連合国側に立つことを明確にするものだった。

1941年1月には、「アメリカの安全保障が今ほど深刻に脅かされたことはない」という煽りから始まる「4つの自由」演説を行う。

*イギリス、ソ連が少なくとも互角でドイツと戦っている以上、1941年1月の時点でアメリカに危険が及ぶ可能性はほぼなかったというのが一般的な評価だと思います。

1941年8月には、早くも(まだ参戦もしてないのに!)、第二次世界大戦後の世界秩序に関する構想をまとめた英米共同宣言である「大西洋憲章」を発表する。

あとは日本に先制攻撃を仕掛けさせるのみ
というのがFDRの頭の中だったと私は思う。

実際、通商帝国の確立を目指すアメリカから見ると、日本は確かに目障りな存在で、ちょうどこの時期、両者の利害の対立は深まる一方だった。

日本とアメリカ:対立する利害

(1)夢は「アメリカ依存」からの脱却

資源不足の日本はイギリス型の帝国経営を志向していたが、それはあくまで「夢」であり、現実には石油の8割以上、屑鉄、軍需部品などをアメリカに依存していた。

*屑鉄は重工業の原料。
*当時の日本の重工業は軍需物資を完全に自給できる水準に達しておらず、部品を輸入に頼っていた。

アメリカ依存の状況をどうにか脱し、国家運営における自立性を高めたいというのが日本の悲願だったが、もちろんアメリカにとっては日本が依存してくれていた方が都合がよい。

ここに第一の(そして根本的な)利害対立があった。

(2)ブロック経済を目指す日本

帝国経営による自給自足を目指す日本は、日本、満州、中国を軸とした自給的ブロック(いわゆる円ブロック)の形成を目指した(東亜新秩序)。

*当時の近衛文麿首相による「東亜新秩序声明」は1938年11月3日と12月22日の2回。

自給自足の方向性はもちろんだが、排他的ブロックの構築もまた「輸出市場の確保」というアメリカの国是に真っ向から反する。

アメリカ政府の姿勢は硬化し、1939年7月には「日本の中国侵略に抗議する」という名目で日米通商航海条約の破棄を通告(1939年7月・失効は40年1月)。

日本とアメリカの貿易環境は悪化し、日本は軍需資材の入手が困難な状況に陥った。

(3)「南進」にかける夢

ヨーロッパで戦争が始まったのはちょうどその頃だ(1939年9月)。

1940年5月以降、オランダとフランスが立て続けに降伏すると、日本の目はそれぞれの植民地に向かう。

*いわゆる仏印(ベトナム・カンボジア)、蘭印(インドネシア)

東南アジアへの進出はアメリカへの石油依存を脱却する格好の手段だ。ドイツやイタリアに獲られる前に、なんとか日本のものにしたい。

え、イギリスも負けるかも?
それならシンガポールやマレーシアもぜひぜひ獲得しなければ。

南進すればアメリカが妨害してくることはわかっていたが、それでもというか「だからこそ」、日本は東南アジアに進出したかった。だって、それだけが、アメリカ依存から脱却する唯一の手段なのだ。

日本は「何かしてきたら、こっちだって黙ってないぞ」というところを見せるため、日独伊三国同盟を結んだ(1940年9月)。 

*要するに「強そうに見せるため」だったのだが、これは無意味で逆効果だったというのが一般的な評価である。アメリカを牽制する効果はゼロだったのに、日本を敵国扱いするよい口実を与えてしまったからだ。

当時の絵葉書(wiki)

並行して、フランスのヴィシー政府(ドイツの傀儡)と交渉し、日本は北部仏印に進駐した(1940年9月)。

案の定、怒ったアメリカは、日本に対する経済制裁として、高品質の航空機燃料の禁輸(8月)、屑鉄の全面禁輸(9月)を決める。

ルーズベルト政権は中国をめぐる戦いに介入する意図はなかったが、日本がその帝国の勢力を東南アジアに拡張することは決して容認できなかった。

ジェフリー・レコード『アメリカはいかにして日本を追い詰めたか』45頁

FDRがチャーチルからの手紙を受け取ったのは、この直後ということになる(12月8日)

1941年の日米交渉

1940年の末に参戦を決めたFDR政権は、1941年の1年間をフル活用し、日本に先制攻撃を仕掛けさせることに見事に成功した、といえると思う。

交渉の過程を確認しよう。

*ポイントと思われる部分だけを拾います。日米交渉についてはwikiがかなり詳しくかつ公平に書かれているように見えます。

(1)日本にアメリカと戦うつもりはなかった

大前提として、独伊と三国同盟を結び、北部仏印に進駐した日本に、アメリカと戦う意思があったかといえば、ない。

 *通説だと思います。

こう言っては何だが、戦って勝てるくらいならとっくにやっていただろう。勝てるはずがないから、せめて三国同盟を結んだり、南進したりして、アメリカへの依存度を減らそうと努めているのだ。

とはいえ現状では、アメリカとの関係が本格的に悪化して石油や屑鉄の輸入が途絶えるのは悪夢でしかない。

そういうわけなので、日本は、アメリカが(レンドリースに大西洋憲章と)着々と参戦の下準備を整えている間も、必死で、アメリカとの関係改善を成し遂げようとしていたのだ。

(2)いきなり無理な要求を突きつけるアメリカ

交渉の任を負った駐米大使の野村吉三郎は、1941年3月に米国務大臣コーデル・ハル、続けてFDRと会談して交渉の意向を伝え、4月に再び野村ーハル会談が行われた。

1941年2月にホワイトハウスを訪ねる野村

  

コーデル・ハル

この席で、ハルは「日本政府が一項でも同意しなかったら、アメリカ政府は交渉に入ることを拒絶する」と念を押した上で、「ハル4原則」を手渡したとされる(田原・506頁)。

 ハル4原則
(1)すべての国家の領土と主権を尊重すること
(2)他国の内政に干渉しない原則を守ること
(3)通商の平等を含めて平等の原則を守ること
(4)平和的手段によって変更される場合を除き太平洋の現状を維持すること

現代のわれわれは、WW2については「アメリカが正しくて日本が間違っていた」という歴史観を非常に強く植え付けられているので、アメリカの日本への要求には何でも理があるような気がしてしまうが、当時の日本の立場に立って考えてみると、アメリカのこの要求はおかしい。

何といったらよいのであろうか。アメリカの要求は、基本的に、戦争に勝った国が負けた国に対してする要求なのだ

当時の日本人がこれを読むと、
(1)は「中国から撤退しろ」という意味だし、
(2)も「中国から手を引け」という意味だ。
(3)はブロック経済の否定だし、
(4)は「南進するな」という意味だ。

*日中戦争の泥沼化で、日本は大規模攻撃を中断し、中国各地に傀儡政権を樹立する方式に切り替えており、1940年には各地の傀儡政権を統合した新国民政府政権(汪兆銘政権)を南京に樹立していた。

1937年7月から日中戦争を戦ってようやっと手に入れた権益を全部手放せというのだから、当時の日本にこれは受け入れられない(とくに(1)(2))し、アメリカはそのことを先刻承知であったはずである。

なぜそんな要求を平然と突きつけることができるのかといえば、それは、アメリカが石油という日本の「弱み」を握っているからであるし、もっといえば、戦争をしても構わない(私の仮説では「攻撃を仕掛けてくるよう仕向けたい」)、すれば絶対に勝つと思っているからである。

(3)強化される経済制裁

これに黙って従えば、日本は自発的にアメリカの属国になるのと同じである。欧米列強に並ぶ一人前の国家として発展することを目指す当時の日本に、それができるはずはない。

「でも、アメリカとの関係を改善しなければ、石油が・・」

とぐずぐずしていると、1941年6月に独ソ戦が始まり(日本は全く察知していなかった)、日本が(ちょっとは)期待していたドイツからの物資供給の見込みはなくなった。

それを見越したように、アメリカは日本への石油製品の無許可輸出を禁止する(6月)。

インドネシア(蘭印)からの石油買付をめぐるオランダとの交渉も不調に終わり、追い詰められた日本は、ヴィシー政府との交渉により、南部仏印に進駐(7月)。

アメリカは直ちに対日資産凍結令を出し、イギリスとオランダもこれに追随、オランダ(蘭印)は続いて日蘭石油協定も停止する。

そして、8月、アメリカはついに、日本に対する石油の全面輸出禁止を発表するのだ。

*軍部の主導による南部仏印進駐については「対米英戦やむなしとの判断から」進駐したとする文献もあるが、少なくとも近衛首相(や主要な軍・政権幹部)にとってはそうではなかったようだ。

幣原喜重郎『外交五十年』に依拠した田原・516頁によると、「そんなことをしたら日米戦争になる」「船をただちに引き返させろ」と主張する幣原に対し、近衛は顔面蒼白となり、「御前会議で決まったことを覆すのは無理‥‥、他に何か方法はないでしょうか」とすがるように言った、という。

(4)戦争回避への努力

日本にとって、資産凍結と石油の全面輸出禁止は大変な痛手である。はっきり言って、戦争どころの騒ぎではない。

日本の石油は8割をアメリカに、2割を蘭印やボルネオに依存しており、これで一滴の石油も入って来ないことになったのである。この時点で、日本の石油貯蔵量は1年半しかもたないことがはっきりした。

田原・517頁

そして、資産凍結(ドル口座の凍結)は、アメリカ以外(南米など)からの輸入の道も閉ざされることを意味していた。

こうなると軍部を中心に強硬論が強くはなるのだが、それでも、日本の首脳部は戦争を望んではいなかった

*石油もないのにどうやって戦うのか。 

近衛文麿首相は、8月4日(米の対日石油輸出全面禁止発表直後)、ルーズヴェルト大統領との直接会談の道を探ると発表。

*和平に向けた交渉には、陸海軍も天皇も賛成していた。

野村駐米大使は、ハル国務長官に近衛とFDRの日米首脳会談の開催を正式に申し入れ(8月8日)、17日にはFDR本人と面会、28日には近衛からの親書を手渡している。

しかし、日米首脳会談は実現しなかった。

近衛は、軍を激怒させることを厭わず「中国からの全面撤退」のカードを切るつもりだった。

*内務官僚伊沢多喜男の「それをやれば殺されるに決まっている」との忠告には「自分の生命のことは考えない」。「アメリカに日本を売ったといわれる」には「それでも結構だ」と答えたという。「優柔不断の見本のようないわれ方をしている近衛も、少なくともこの時期は生命をかけていたのだった」(田原・526-527頁)。

しかし、アメリカ側は、事前協議によって「予め基本問題を承認した上でなければ首脳会談は行えない」の一本槍で、会談の申し入れを突っぱねた。

*「基本問題の承認」とはハル4原則の全面受諾のこと。

近衛は「全面受諾」に応じるつもりだった。しかし、国内の強硬派を押し切るためにはFDRとの首脳会談が必要だった(おそらくその事情をアメリカは理解している)。

アメリカはその席を設けることすら拒否したのである。

1940年秋頃の近衛文麿(wiki)

(5)進む戦争準備・諦めない近衛

こうした事態を受けて、9月6日の御前会議では、「帝国は自存自衛を全うするため、対米(英・蘭)戦争を辞せざる決意の下に、おおむね10月下旬を目処として戦争準備を完整する」という文言を含む(外交手段を尽くす旨の記載もある)「帝国国策遂行要領」が決定した。

それでも近衛は諦めず、グルー駐日大使に言葉を尽くして日米首脳会談の実現を求めた。

近衛はグルーに、ハル4原則を全面的に受け入れ、支那から速やかに撤退する用意があると伝えた。日米関係の回復のために、自分は身の犠牲や安全を顧みない、ただし事態は切迫している、とも伝えた。

グルー大使は、日米首脳会談の実現を勧める報告書を本国に送っている。

米日関係を改善できるのは彼(近衛)だけです。彼がそれをできない場合、彼の後を襲う首相にそれができる可能性はありません。少なくとも近衛が生きている間にそんなことができる者はいないでしょう。‥‥近衛公は、彼に反対する勢力があっても、いかなる努力も惜しまず関係改善を目指すと固く決意しています。

グルー駐日大使の本省宛報告書(渡辺・159頁)

この点は、イギリスの駐日大使も同じ意見だった。

アメリカの要求が、日本人の心理をまったく斟酌していないこと、そして日本国内の政治状況を理解していないことは明白です。日本の状況は、(首脳会談を)遅らせるわけにはいかないのです。アメリカがいまのような要求を続ければ、極東問題をうまく解決できる絶好のチャンスをみすみす逃すことになるでしょう。私が日本に赴任してから初めて訪れた好機なのです。

アメリカ大使館の同僚も、そして私も、近衛公は、三国同盟および枢軸国との提携がもたらす危険を心から回避しようとしている、と判断しています。もちろん彼は、日本をそのような危険に導いた彼自身の責任もわかっています。‥‥(近衛)首相は、対米関係改善に動くことに彼の政治生命をかけています。そのことは天皇の支持を得ています。もし首脳会談ができず、あるいは開催のための交渉が無闇に長引くことがあれば、近衛もその内閣も崩壊するでしょう。

アメリカ大使館の同僚も本官も、この好機を逃すのは愚かなことだという意見で一致しています。確かに近衛の動きを警戒することは大事ですが、そうかといってその動きを冷笑するようなことがあってはなりません。いまの悪い状況を改善することはできず、停滞を生むだけです。

9月29・30日 ロバート・クレイギー英駐日大使の本国宛公電(渡辺・159-160頁)
(6)戦争へ

それでも、結局、日米首脳会談は実現しなかった。
行き詰まった近衛内閣は辞職し、東條英機内閣に変わる(10月18日)。

11月5日は新たな「帝国国策要領」が決まり、11月30日中に日米交渉が成功しなければ対米戦争に突入する、ということになった。

もちろん交渉は成功せず、11月26日、事実上の最後通牒である「ハル・ノート」が駐米日本大使に手渡される。

そしてついに12月7日未明(ハワイ時間)、FDRがチャーチルからの手紙を読んだちょうど1年後に、日本は真珠湾攻撃を開始するのだ。

*アメリカは交渉中からずっと日本の暗号を解読していたので、この攻撃のことも予め知っていた。

おわりに

そうやって、アメリカは見事に国民の支持を得てWW2に参戦し、世界の覇者になった。

日本を戦争に引きずり込み、すべての敵国に無条件降伏を要求し、ヨーロッパ、ソ連、中国、東南アジア、日本を壊滅させた。

そうしてただ一人、無傷の土地と人口、豊かな資源と工業生産力を備えた国家として、戦後を迎えるのである。

主な参考文献

  • ロバート・スキデルスキー(村井章子訳)『ジョン・メイナード・ケインズ 1883-1946 下』(日本経済新聞出版、2023年)
  • 中野耕太郎『20世紀アメリカの夢 世紀転換期から1970年代』シリーズ アメリカ合衆国史③(岩波新書、2019年)
  • 田原総一朗『日本の戦争』(小学館文庫、2005年)
  • 渡辺惣樹『誰が第二次世界大戦を起こしたのか フーバー大統領『裏切られた自由』を読み解く』(草思社文庫、2020年)
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基軸通貨ドル

ポンドの沈下/ドルの浮上
-アメリカはどうやって大英帝国の力を削いだか-

はじめに

第一次世界大戦を契機に、安定したポンド覇権(国際金本位制)は終わりを告げる。

ポンドの地位が低下する一方、アメリカ・ドルの地位は上がる。ポンドとドルのダブル基軸通貨体制になるのだが、ドルは基軸通貨国としての責務を担うことはしない。

こうした不安定な体制の結果生じた金融秩序の混乱が、かなり直接的に、第二次世界大戦の勃発につながっていくのだ。

もちろん、ポンドの沈下は、自然現象のように起きたわけではない。それをもたらしたのは、アメリカの、おそらくさほど意図的ではないものの、とても「アメリカらしい」行動である。

イギリスとアメリカ

第一次世界大戦とその戦後処理、戦間期、そして第二次世界大戦と戦後の秩序回復に至る歴史は、一面では、イギリスからアメリカへの覇権交代の歴史である。

イギリスとアメリカは実際にはライバル関係にあるのだが、それぞれの行動は、その過去に由来する微妙な関係性に支配されている、という感じがする。

イギリスを由緒正しい本家、放蕩の後に出世した家出息子をアメリカとしよう。

イギリスはアメリカに対し「そうはいっても息子」という思いを捨てられない。本家イギリスの大国としての地位を守るために、アメリカは最後には力を貸してくれるはずだと信じている。

*そして、一度や二度、裏切られても、その思いは揺らがない。

一方、アメリカにはイギリスの大国意識こそが煩わしい。あんたが大国でいられるかどうかなんて知ったことか。

どうしてもと頭を下げれば支援はしてやろう。だがやり方は俺が決める。大国になったなら大国らしくしろ? 大きなお世話だ。

こうしたそれぞれの姿勢は、第二次世界大戦とその戦後処理に至るまで継続していくのだが、今回は第一次世界大戦とその戦後の話である。

第一次世界大戦におけるアメリカの立ち位置

第一次世界大戦(1914-1918)(以下WW1とする場合がある)は、大局的に見ると、ヨーロッパの覇権をめぐって戦われたイギリスとドイツの戦争である。勢力拡大を狙うドイツをイギリス、フランスで抑え込んだ格好だ。

WW1の対立の構図は、同盟国 VS 協商国(連合国)である。

同盟国(中央同盟国 central powers)の中心はドイツとオーストリア、一方の協商国(連合国)(entente or allied powers)には、当初のイギリス、フランス、ロシアに加え、ポルトガル、日本、イタリアが名を連ねた。

*英仏露のいわゆる三国協商はtriple entente。「協商国」の語はここから来ているが、日本語で英仏の側を協商国とも連合国ともいうように、英語でもentente powersともallied powers(またはallies)ともいうようだ。

あれ、アメリカは?

私は今回調べるまで全く知らなかったが、
ここが大事なところなのである。

アメリカは1917年4月にドイツに宣戦布告し、大戦に参戦する。

アメリカ兵が本格的に前線に配備されたのは1918年になってからだが(訓練に時間がかかったとか)、それでも、戦争末期には140万人のアメリカ兵が西部戦線で戦い、同戦線での戦死者は11万6000人にのぼっている(木村靖一『第一次世界大戦』(ちくま新書 2014年)178頁)。

 *大戦全体の国別統計はこちら

フランスに運ばれるアメリカの兵士たち

連合国にとって直接的に何よりも大きな支援は、アメリカの資力と工業力にあった。イギリスの輸入量に占める合衆国の比率は、1914年では26%、17年に43%、18年になるとほぼ半分の49%にもなっている。また連合国への総額112億ドルにもなる借款がなければ、戦争の継続は難しかったと指摘されている。

木村・前出178頁

というわけで、アメリカの力、とりわけ経済力がなければ、連合国の勝利はなかったというのが一般的な評価である。ところが、アメリカはallied powersの一員ではないというのだ。

じゃあ、何なのか。

第一次世界大戦の講和条約であるヴェルサイユ条約では、いわゆる連合国は ”allied and associated powers” と記されている。

同盟を結んだ国々(allied powers)と、それ以外の、いわば提携関係にあった国々(associated powers)とが、概念上区別されているのである。

*この両者を日本語でどのように訳し分けるのかわからない。wiki日本語版では、「同盟国と連合国」としていて、ゼロから訳してよいなら妥当な訳だと思うが、日本語ではドイツ側を「同盟国」イギリス側を「連合国」と呼ぶのが一般的なので、その訳し分けはちょっとややこしすぎると感じる。イギリス側参加国を「連合国」と呼ぶ慣例に従った上でいうと、実態は、連合国の中に、同盟による連合国と、事実上の協力関係による連合国がある、という感じだと思う。

そして、この区別に誰よりもこだわったのがアメリカだった(両者の区別を含めてブリタニカのサイトが参考になる)。

実際のところ、アメリカは、イギリスやフランスとの同盟関係を否定することによって、第一次世界大戦の「真の勝者」になったのである。

「戦債問題」の真実

大戦中、アメリカはヨーロッパ各国に多額の物資や資金を提供した。その額は、連合国全体で71億ドルに及んでいる。資金援助は大戦後も続き、1921年には120億ドルに達していた。

*71億ドルのうち37億ドルがイギリス、20億ドルがフランスである。120億ドルの内訳は45億ドルがイギリス、42億ドルがフランスで、復興資金としてフランスに投下された金額の大きさが窺われる。

この多額の「戦債」が、WW1の戦後処理における最大の問題であったことはよく知られている。

*しかし正直にいうと私は知らなかった。賠償金のことは知っていたが戦債のことはよく知らなかった。

勝利した連合国は、アメリカに対する債務の支払いに苦しみ、敗北したドイツは戦勝国への賠償金の支払いに苦しんだ。

多額の対米戦債と賠償金こそが、WW1後のイギリスおよび大陸ヨーロッパの経済を停滞させた直接の原因であり、第二次世界大戦の遠因でもあった。

と、ここまでのことは、世界史の教科書にも書いてあるし、大抵の金融史の本にも書いてある。しかし、ほとんどどの文献にも書かれていないことがある。

同じ戦争を味方同士として戦った同盟国の間で融通された物資や資金のすべてを「債務」として扱い、その返済を(利子付きで!)義務付けるというやり方は、当時としては普通ではなかった、ということである。

アメリカがalllied powersの一員であることを拒絶した最大の理由は、これらの戦債の処理において「俺のやり方」を貫くためだったと考えられる。

戦債処理における「アメリカ流」とは、物資・資金提供が持つ政治的な意味を捨象し、民間の債務とまったく同様に、ビジネスの問題として処理することだった。

出世した放蕩息子のアメリカは、「俺は別に同盟国じゃないし」「ただ助けてやっただけだし」ということでそれまでのやり方を無視し、多額の債務をテコに、イギリスを王者の地位から追い落としたのである。

*この時点でどこまで意図的であったのかはわかりません。

新兵器:国家間債務

アメリカが示した「俺流」の新しさを、2つの側面から説明しよう。

①政治的文脈の無視

一つは、軍事支援の政治的文脈を無視して、ビジネスに徹したことである。

それ以前の戦争は、一国(大抵はイギリス)が同盟国の軍事費を賄うのが通常で、融資ではなく月々の助成金のような形で支払っていたという。

*この方式は、同盟国の忠誠を担保する目的も果たすことができた(相手がいうことを聞かなくなったら即座に支払いを停止するのだ)。

アメリカ独立戦争(1775-1783)の際にはフランスがアメリカに多額の支援を行ったが、そのほとんどはやはり純粋に助成ないし贈与として供されている。

フランスはアメリカに提供した援助(7億ドル相当の軍事援助と200万ドルの資金)の代償を要求することはなかったし、融資の形で提供された600万ドルを厳しく取り立てることもなかった。

*というか、(1789年の革命を経て)生まれたばかりのフランス共和国はおかねに困っていたので同じく生まれたばかりのアメリカ合衆国に再三返済を要請したが、まったく耳を傾けてもらえなかった。要するに返してもらえなかったのだ。

WW1でも、英仏は、連合国側での参戦を条件に、ギリシャに「返済の心配は無用」という形の軍需品の供給を約束している。

同じくWW1で、イギリスはロシア、イタリア、フランス等に約70億ドルの資金を提供しているが、もとより回収の目処はなく、回収するつもりもなかったと思われる。

戦費の返済を求めない慣習は、「戦争とは政治的目的を達成するための手段である」という常識によるものである。

ギリシャはギリシャのために戦うのではなく、連合国のために戦うのである。資金は政治的目的を同じくするものの間で融通し合うのが当然ではないか。

しかし、アメリカはこの常識に異議を唱えた。

実際には、当初は「返済の心配は無用」という姿勢を見せていたというが、戦争終結後、アメリカ政府は態度を変える。

「借りたものは返す。それが常識でしょう、奥さん?」と言いつのる高利貸しのように、アメリカは各国からの債務調整の申し入れをキッパリと断り、提供した軍需品や資金のすべてを帳簿に書き込んで、連合国とりわけイギリスに対して、債務の返済を強要した。

*実際、この時期のアメリカは(イギリス人に)「シャイロックおじさん」と呼ばれていたそうである。

「同盟国ではない」ということを論拠に、支払いの猶予すら認めず、直ちに元本と利子の支払いを始めるよう要求したのである。

戦間期を覆う不況の中で、アメリカが実際に回収することができた金額はごくわずかだった。

しかし、多額の債務を背負わせたことが、イギリス経済の回復を阻害し、ポンドの沈下/ドルの浮上に大いに役立ったことは間違いない。というか、これによって、アメリカは「WW1 の真の勝者」となったのだ。

②国家間の債権ー債務関係

WW1後の戦債処理のもう一つの新しさは、国家と国家の間に債権者ー債務者の関係性を持ち込んだことにある。

当時も政府が外国から借金をすること自体は珍しいことではなかった。しかし、債権者は民間の個人投資家であるのが通常だった。鉄道事業などを対象としたイギリスの資本輸出(証券投資)はその典型だ。

*日本政府も鉄道建設や秩禄奉還者への就業資本供与(!)など、さまざまな事業についてロンドンの金融市場で発行した外債で調達している(日本銀行「戦前における外資導入について」)。日露戦争の戦費をロンドンとニューヨークの金融市場で発行した外債によって調達したことも有名だ。詳しくはこちら(渡辺利夫「高橋是清の日露戦争」)

この写真をどこから見つけてきたのか忘れてしまいました。思い出したら加筆します。

しかし、連合国がWW1の戦費を民間投資で賄うことができたかといえば、できなかったであろう。収益性が見込めないからである。

*イギリスはある程度は民間からの借金もしている。

WW1は当時の先進国同士の戦争である。「新興国が大活躍を始める」といった大きな希望を伴わない潰し合いのための戦争で、どちらが勝つとしても、その費用は基本的にはヨーロッパの破壊に用いられるのだ。

資金は必要だが、収益性は期待できない。それが、一般に戦費が同盟国間の補助金方式で融通されていた理由であり、連合国が民間のアメリカ人ではなく、アメリカ政府の援助を仰ぐことになった理由である。

計算づくだったとは思わないが、結果から見ると、「アメリカはこの状況を見事に利用した」ということになるだろう。

民間投資家なら決して資本を投下しない案件に「政治的同盟者」の顔で資金を提供し、すべてが終わった後、「投資家」の顔に変身する。

そうすることで、アメリカは、他国に対して、返済不可能な債務についての債権者であるという政治的にきわめて優越的な地位を(史上初めて)獲得したのである。

彼らは知った。
国家間債務は武器になる」と。

とはいえ、相手が自国を草刈場として見ていることが明らかなときに、返済困難な債務を背負い込もうとする国は少ないだろう(指導者がグルである場合は別である)。

しかし、(表向き)公益的な主体から、政治的ないし人道的支援として提供されるとしたらどうだろう。経済的に苦境にある国が、その申し出を断ることは決してないだろう。

アメリカはWW1の経験を通じて、ここまでのことを「知恵」として学んだかもしれない。

次回以降の話だが、このスキームは後に、途上国に対して支配的影響力を及ぼす手段として用いられていくことになるのである。

1914-1939の金融・経済事情

そういうわけで、WW1の戦債問題がかなり直接的に作用した結果、ポンドは沈下し、ドルが浮上した。

しかし、放蕩息子のアメリカは、「別に親父の跡なんか継ぐ気はないし」「まだまだ自分のことで精一杯だし」ということで、その責任を果たそうとはしない。その結果、金融を震源地として世界経済は混乱の一途を辿り、WW2を迎えるのである。

この間の出来事は再度の戦争を招いた大きな過ちとして記憶され、WW2後の秩序形成の際、「反面教師」として参照されることになる。戦債問題を含めて、箇条書きで整理し、次回以降に備えよう。

①国際金本位制崩壊

世界大戦が勃発してパニックに陥った各国は、金保有量と通貨量を連動させる金本位制の「ゲームのルール」を無視して金の抱え込みに走り、国際金本位制は崩壊した。

ケインズの伝記に、彼が1919年に「田舎暮らしの退屈を紛らわすため」に外国為替の投機を始めた旨の記載があり、金本位制の崩壊後まもなく為替変動を利用した投機が始まっていたことがわかる。ケインズは母親宛の手紙に次のように書いている。

「現在のシステムの長期的な継続が許されるとは思えません。特殊な知識と経験が少しあるだけで、お金が造作なく(かついかなる意味においても不当に)流れ込んでくるのですから」。

ロバート・スキデルスキー(村井章子訳)『ジョン・メイナード・ケインズ 1883-1946  経済学者、思想家、ステーツマン』(日本経済新聞出版、2023)上・350頁

②ポンドの地位が低下し、ドルが急浮上

イギリスが純債務国に転落した一方、アメリカは純債務国から巨額の純債権国となっていち早く金本位制に復帰。ドルの地位が急浮上した。

*アメリカは1914年6月末時点では(大戦前)22億ドルの純債務国だったのが1919年末には64億ドルの純債権国に。イギリスについては数字がないが大戦前は少なくとも「トントン」であったのが大幅な純債務国に転落したようである。(以上につき、上川ほか・39-44頁[平岡賢司])

③多額の戦債または賠償金によりヨーロッパ各国が困窮に陥る

・イギリス、フランスを始めとする連合国はアメリカに対して約71億ドルの債務を負った(うち約37億ドルがイギリス、20億ドルがフランス)(いずれも休戦時)。

・ドイツは1320億マルク(約66億ドル)の賠償金を課された。

・復讐心に燃えるフランスはともかくイギリスはドイツへの過大な賠償金請求がヨーロッパの安定を損なうことを理解していた。

・それでも多額の賠償金を求めざるを得なかったのは、アメリカが戦時中の資金提供を債務として回収する立場を取ったことが理由である。

*連合国の対米債務と賠償金の額が概ね一致していることに注目していただきたい。

④基軸通貨がポンドとドルの2つに分裂

・貿易その他の国際取引に関してニューヨーク金融市場が急成長を遂げ、ロンドン金融市場と肩を並べるようになった。

*ただし、第三国間の貿易金融を中心に、全体としてはまだポンドに優位性があったとされる。

・基軸通貨と国際金融市場の分裂で、ロンドン、ニューヨークに加えベルリン、パリなどの主要国の金融市場を激しく移動する「ホット・マネー」が発生。システムの不安定化が進んだ。

⑤再建金本位制の下でドルの存在感が上昇

・アメリカに続いてイギリスが金本位制に復帰(1925)。再建金本位制の時代が始まる。

・なぜイギリスの復帰=再建金本位制なのかについては、山本栄治先生にご説明いただく。

再建国際金本位制は2極通貨体制だといっても、ポンドを中心に構成された国際通貨システムであり、ドルはそれを補完する役割を果たしていた。アメリカは巨額の資本輸出を行ったので、ドルは契約通貨や投資通貨の機能を獲得したが、その国際的信用制度はまだ世界システムに発展しておらず、ドルはグローバルな基軸通貨の地位を獲得してはいなかったのである。

他方、イギリスは資本輸出能力を低下させたことによって契約通貨や投資通貨の機能をドルと分割しなければならなかったが、その国際的信用制度はまだ世界システムであり続けていた。‥‥ここにイギリスが金本位制復帰しなければ国際金本位制が再建されたとは言えなかった理由があ(る。)

山本栄治『国際通貨システム』45-46頁

・イギリスの金本位制への復帰は(主観的には)世界の基軸通貨・金融センターの地位を回復するためであったが、早すぎる復帰それも過大評価された(WW1以前の)旧平価での復帰はイギリス経済に悪影響をもたらした。

*通貨の価値が過大評価されると、国内では外国製品の価格が下がるため需要が国内製品から外国製品にシフトし、国外では自国商品の値段が上がるので買われにくくなる。国際収支は悪化し、自国の産業にも大打撃。

・1927年にはポンド危機が発生。危機はニューヨーク連邦準備銀行の主導によって打開され、国際金本位制の維持がロンドン(イングランド銀行)ではなくニューヨークの政策に依存するようになったことを印象付けた。

⑥金融恐慌で金本位制瓦解。

・1929年ニューヨーク株式市場大暴落。国際金融恐慌に発展し、イギリスの金本位制離脱(31年)により再建金本位制は崩壊。

・金融恐慌は、企業活動の停滞、大量失業、世界貿易の縮小を招き、世界的規模の大不況をもたらした。

⑥不況下で、為替戦争(通貨切り下げ競争)・貿易戦争(ブロック化、関税障壁の導入)が激化危機は解消しないまま、第二次世界大戦

・各国は為替の切り下げや保護主義的措置(貿易障壁の導入)を駆使して、自国の景気回復を図った。

*為替を切り下げる(自国通貨の価値を下げる)と、国内では外国製品の値段が上がるため需要が外国商品から国内商品にシフトし、外国では自国商品の値段が下がるので買われやすくなり、国際収支が改善する。ちなみに1933年の時点で為替相場の切下げ率が最大だったのは日本で1929年(金本位制時代)の金平価と比べて57%の下落。

・どうにかこの状況を改善する(つまり、不況から脱出し、かつ相場の安定を図る)ため、1933年にロンドン経済会議が開催されたが、アメリカ(ルーズヴェルト大統領)の非協力的な姿勢により、会議は何も達成せずに終わる。

・この時期のアメリカの姿勢については、次のような評価が一般的。

1930年代の大不況期に基軸国が国際経済の安定に寄与する可能性があったとすれば、自由主義的な通商政策や拡張的マクロ経済政策によって商品輸入を拡大するか、もしくは資本輸出を再開して、他の諸国の国際収支上の困難を緩和させること」であり、「その可能性を持っていたのはアメリカしかなかった。ところがアメリカは、‥‥国際通貨システムの安定よりも自国の景気回復を優先させる行動をとった。

石見徹『国際通貨・金融システムの歴史 1870-1990』86頁

・その結果、世界経済は、ポンド・ブロック、ドル・ブロック、金ブロック、ドイツ広域経済圏、円ブロックに分裂。互いにブロック内の関税を下げブロック外の国に高関税を課する「保護主義=近隣窮乏化」政策を展開して恐慌を深化・長期化させ、第二次世界大戦に突入。

*金ブロックは金本位制を堅持する国々。中核はフランス、スイス、ベルギー、オランダ、イタリア、ルクセンブルク

保護主義アレルギーについて

この時期に、各国が通貨切り下げや関税障壁により自国経済のみを保護する「保護主義」的政策を取ったことが、恐慌を長引かせ、戦争の要因になったことは事実である。

欧米各国の「保護主義」アレルギーはここから来ているのだが、しかし、この時期の経験が、あらゆる状況の下で自由貿易主義を正当化し、保護主義を不当とするものでないことは明らかだと思う。 

イギリスは1651年以来の航海法によって自国の海運と貿易を保護していた(イギリスがオランダを抜いて海運と貿易の覇者となり、通貨覇権を担うに至ったのはこのためといってよい)。これが廃止されるのは、1849年である。

フランス、ドイツ、アメリカも、19世紀のいわゆる産業革命の最中には高関税によって自国の産業育成を図っていた。日本だってそうだ。これらの国が経済発展を達成できたのは、保護政策によって十分な体力を付けていたからなのだ。

1930年代の大恐慌時の「保護主義」が不毛であったのは、それが自国産業の成長や貿易拡大のためのものでなく、単に他国の足を引っ張るためのものだったからである。

「このような為替戦争や貿易戦争は、貿易相手国を犠牲にして自国の景気回復を図ろうとする近隣窮乏化政策であり、また輸出を増大させることよりも輸入を減少させることによって国際収支の改善を図ろうとするものであった。その結果、国際貿易は物価の大幅な下落の影響も加わって急減した。」(山本栄治『国際通貨システム』61頁)

自国経済の健全な発展のために、一定の保護が必要になる場面は間違いなく存在する。それを無視して、自由貿易主義を言い募ることで、世界がどんな悪影響を被ったかは、次回以降に見ていくことになると思う。

まとめ

  • ポンド低落の要因は、いわゆる戦債問題(多額の対米債務)である。
  • 戦債問題」は、アメリカが戦争のための物資・資金援助を民間債務と同様に扱ったことによって発生した新たな現象である。
  • このときアメリカが開発した「政治的・人道的支援の顔をした返済困難な国家間債務」という武器は、爾後、他国に支配的な影響力を及ぼすために利用されていく。
  • 基軸通貨が分裂する不安定な体制の下、NY発の金融恐慌が世界規模の大不況に発展する。
  • 唯一の実力者であるアメリカを含む各国が保護主義=近隣窮乏化策(経済戦争)を展開して不況を深化・長期化させ、第二次世界大戦に突入。

主な参考文献

  • 山本栄治『国際通貨システム』岩波書店 1997
  • 上川孝夫・矢後和彦『国際金融史』有斐閣 2007
  • 石見徹『国際通貨・金融システムの歴史 1870-1990』有斐閣 1995
  • 加藤栄一「賠償・戦債問題」宇野弘蔵監修『講座 帝国主義の研究 2 世界経済』青木書店 1975
  • ロバート・スキデルスキー(村井章子訳)『ジョン・メイナード・ケインズ1883-1946 上』日本経済新聞出版 2023
  • Michael Hudson, Super Imperialism, Second Edition, Pluto Press 2003
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基軸通貨ドル

基軸通貨の誕生
-ポンドの場合-

はじめに

自分がこれまでどんな世界に暮らしてきたのかを知るためには、ドルが基軸通貨であるということの意味をよくよく理解する必要があるらしい、という認識に至り、覚悟を決めて勉強した。

するとあら不思議(?)、第一次世界大戦のあたりからウクライナ危機まで、何となくよくわからないと感じていた歴史の流れが全部わかっちゃったのだ。

金融秩序の変遷などという項目は、普通の世界史教科書の項目には入っていないし、社会科学各分野の専門家はもちろん、国際政治の専門家ですらみんなが知っているというわけではないだろう。しかし‥‥

国際政治経済において権力は、安全保障を管理できる人びとの手にある。また、生産による富の創造を統制している人びとによっても握られている。しかし、これまで述べてきたような安全保障構造と生産構造と並んで、そのどちらとも重要性はいささかも劣らないものとして、金融構造は重要な位置を占めている。

スーザン・ストレンジ(西川潤・佐藤元彦訳)『国家と市場』(ちくま学芸文庫、2020年)205頁(原著は1988年)

戦争や外交(安全保障)、物質的豊かさ(生産)が歴史が始まって以来の関心事であるのに対し、金融秩序における覇権という現象は、それ自体、19世紀の終わり頃になって初めて現れたものである。

ジョン・ロックもルソーもそれを論じていないし、アダム・スミスだってマルクスだって論じていない。

しかし、イギリスを中心とするヨーロッパからアメリカへ、核家族から核家族へ覇権が移行し強化されていく過程は、通貨覇権という現象とともにあった。

*英語ではmonetary hegemonyというのが一般的なようです。

今回勉強するまで私はまったく知らなかったが、19世紀末から現代、とりわけ1940年代から現代の特異な在り方は、かなりの部分、通貨覇権という現象と関わりがあるようなのだ。

基軸通貨ドルー私たちはどんな世界に暮らしてきたのか」というタイトルで始めるこの連載は、第二次世界大戦頃から現在までのドルの覇権がテーマである。

ただ、通貨覇権の基本構造を知り、ドル覇権の特性を知るために、先代の基軸通貨であるポンドのことを知る必要があるので、その限度で歴史を遡る。

というわけで、今回のテーマはポンド。
通貨覇権の誕生である。

基軸通貨とは何か

まず、基軸通貨とは何か。いろいろ調べてみたが「基軸通貨」という言葉に明確な定義はないらしい。

一般的には、国際取引の決済などに主に用いられ、国際金融や決済(為替)システムの要となっている通貨のことを基軸通貨と呼ぶようだ。

この連載でもその意味で用いる。

*「為替」という言葉はわかりにくくてなるべく使いたくないのだが、使わないのも不自然なのでカッコがきで使うことにする。また外国為替市場(外国通貨を売買する市場)については一般的な用語なのでそのまま使う。これらの言葉のわかりにくさについては、こちら(↓)をご覧ください。

ポンドが基軸通貨になるまで

(1)イギリスは世界貿易の中心地だった

近代化後の世界に初めて生まれた基軸通貨がポンドである。

*もって回った言い方をするのは、世界のグローバル化の先駆けであるモンゴル帝国の時代に銀本位制の通貨が基軸通貨として通用していたように思われるからである(そのうち書きます)。

イギリスの地に基軸通貨が誕生した理由は明快で、イギリスが世界貿易の中心地となっていたからである。

世界貿易で先行したのはオランダ。しかしイギリスは18世紀には毛織物貿易や海運でオランダをしのぎ、19世紀には産業革命による「世界の工場」化と交通・通信革命の効果として、多角的な貿易機構の中心地としての地位を確たるものとした、というのが教科書的な説明である。

*「多角的」はこれまで私の語彙にはなかったが、この領域で非常によく使われる形容詞(multilateralの訳と思われる)なのでこの先もちょいちょい使うかもしれない。この文脈では「二者間に限定されない多方面の」というような意味だが、経済のブロック化へのアンチとして使われることも多い。

インドはわがために綿花を作り、オーストラリアはわがために羊毛を剪り、ブラジルはわがために香り高き珈琲をつくる。……世界はわが農園、イギリスは世界の工場(workshop of the world)

と、こんなことを言った人がいたというが、その言葉の通り、繊維産業を主力とするイギリスの経済発展には、自国製品の輸出だけでなく、原料の輸入が不可欠だった。そして、もちろん、イギリスはお茶やコーヒー、砂糖などの輸入品を大量に購入し、物質的な豊かさを堪能した。

大事なことは、イギリス経済の豊かさは当初から輸出と輸入の両方によって成り立っていたということである。

輸出ばかりしていたわけでも輸入ばかりしていたわけでもなく、双方から成り立つ貿易システムの全体がイギリスの繁栄に不可欠だった。

だからこそ、イギリスは世界貿易の要となったのだ。

*なお、イギリスは悪名高い大西洋三角貿易(奴隷貿易)の拠点でもあったが19世紀には下火になっている。

(2)基軸通貨ポンド

世界貿易の中心地が世界金融の中心地となるのは道理といえる。

ロンドンではマーチャントバンカーと呼ばれる人々が先駆けとなり、ロンドン宛貿易手形の引受(短期の信用供与→要するに決済のための一時的なおかねの融通)サービスが普及した。

*マーチャント・バンカーとは、ロスチャイルド商会、ベアリング商会、モルガン商会などの(元は個人の)国際金融業者。世界大百科事典によると「19世紀初頭、ナポレオン戦争の終結とイギリス産業革命の進展を背景に、ロンドンが国際金融の中心となろうとするころ、有力な貿易商人であるヨーロッパ大陸(とくにドイツ)の富豪たちが来住し、その資力と名声をもとに上記の金融業務を開始したことに起源を持つ。」

*貿易手形の引受とは? これは現代の貿易手形のサンプル(↓)。貿易においては輸出業者が海外の輸入業者から支払いを受ける必要があるが、その決済業務を輸出業者・輸入業者それぞれの取引銀行が代行する。下は輸出業者(Export Handel NV)が取引銀行(Commerzbank AG)に(本来は輸入業者が支払うはずの)代金の支払いを依頼する書類(為替手形)。Commerzbank AGはこの為替手形を買い取ってDrawee(支払人)としてExport Handel NVに対する支払を引受け(=一時的に貸し付け(信用供与))、代金を輸入業者の銀行を通じて回収する。このケースでは輸入業者の信用状を発行しているのもCommerzbank AGなので、同銀行が輸入業者の取引銀行を兼ねていることが分かる(話が早いですね)。

このサービスが便利なので、世界の貿易業者は、イギリスとの貿易はもちろん、それ以外の国との貿易でも、ロンドンの銀行宛の貿易手形による決済を行うようになった。手形はもちろんポンド建てである。

世界中の人々がポンドを使って取引をする。
基軸通貨ポンドの誕生である。

第一次世界大戦よりも前のポンド紙幣ってこんな感じらしい。
https://www.bankofengland.co.uk/banknotes/withdrawn-banknotes

(3)「世界の銀行」

世界中の貿易業者が、決済をロンドン宛の貿易手形で行うようになるということは、主に次の2つのことを意味する。

一つは、すべての決済がポンドで行われるようになること(すでに書いた)。

もう一つは、貿易に従事したり、国際決済を必要とする世界中の人々がみんな、ロンドンの銀行に預金口座を持つようになるということである。

*日本国内で企業や個人事業主が手形・小切手の決済を行うときは(事業用の決済口座である)当座預金口座を用いるのが普通だが、これと同様に、国際決済が必要な企業や個人事業主は、当座預金口座に相当するものをロンドンに持つことになったのだ。

要するに、世界中からおかねが集まるのだ(この場合、支払いのための一時的な預金(短期資金))。

世界中からおかねがロンドンの金融機関に集まると、ロンドンの金融機関の信用は高まる。こうした場合、金融機関のやることは一つ。

貸付である。

おかねとは何か」で書いたが、貸付とは、信用に元手におかねを作り出すことにほかならない。

その意味するところの大きさについて、スーザン・ストレンジさんに補足していただこう(雰囲気を読んでいただければOKです)。

信用をつくり出す権力とは、他の人びとに今日消費を行い、明日その分の埋めあわせをする可能性を与えたり、否定したりする権力を意味する。この権力はまた、他の人びとに購買力を与え、それによって生産物にとっての市場を生み出す力を意味している。また、信用はそれを通じて与えられる通貨の管理を行い、他の通貨によって与えられている信用の交換レートに影響を及ぼす権力をも意味している。

ストレンジ・前出205頁

このとき、イギリスは文字通り、「世界の銀行」として、世界に通用するおかねを作り出し、人びとに消費の可能性を与えまたは否定し、市場を生み出し、通貨の管理を行い、他国通貨との交換レートに影響を及ぼす権力を手にしたのである。

通貨覇権の誕生

(1)気づいたら覇権国

ところで、ポンドが基軸通貨となり、イギリスが「世界の銀行」の地位に着いたのは、何というか、ただのなりゆきである。

イギリスとしては、狙って取りにいったわけではないし、こういうものを欲しいと漠然と思っていたということですらないだろう。

しかし、現実に世界の金融秩序がイギリスを中心に回り始めた以上、イギリスが相応の役割を果たさなければ、世界経済に支障が生じてしまう。

世界にはいつのまにか金融覇権ないし通貨覇権というべき巨大な権力が生まれていた。イギリスは気づいたときにはその地位にあり、重い責任を担っていたのである。

同時代に生き、事態の大きさに気づいたバジョットという人はつぎのように書いている。

現在ではロンドンは諸外国に対する手形交換所であるから、ロンドンは諸外国に対して新しい責任を有している。どういうところであろうとも、多数の人々がそこで支払をしなければならないならば、これらの人々はそこに資金を保有しなければならない。ロンドンにおける外国資金の大量的預金は、今や世界商業にとって欠くべからざるものになる。

W. バジョット『ロンバード街』(岩波書店、1941年)45頁(原著は1873年)(山本・14-15頁からの孫引きです)
Norman Hirst によるバジョットの肖像画

(2)通貨覇権国の責務

このとき、イギリスがいつの間にか負担していた責務とは何か。以下の3つが挙げられると思う。

  ①ポンドの供給
  ②ポンドの信用維持
  ③各国通貨との交換レート(為替レート)の安定

①ポンドの供給

まずはポンドの供給だ。ポンドが世界の基軸通貨である以上、世界経済の発展のためには、世界にポンドが潤沢に出回る必要がある。

この点は、私が勉強していて「ほほう。なるほど」と感じた点で、通貨覇権国の財政を理解するために重要なポイントだと思う。

イギリスの銀行は貸付を行うことによってポンドをつくることができるが、そのポンドが世界に流通するルートはつぎの2つしかない(無償で配ってもよいのだが彼らはそういうことはしないので)。

 ①イギリス国民が海外の製品・サービスを買う
 ②イギリス国民が海外に投資する

後で見るように、イギリスの貿易収支はつねに赤字であり、通貨覇権国となってからは海外投資(資本輸出)が生命線となっていく。「赤字なのに投資で儲けて補うなんて・・(ずるい?)」と感じる人も多いだろう(私だ)。

しかし、現に世界はポンドを必要としており、世界にポンドを供給できるのはイギリスだけなのだ。

おそらく、通貨覇権国である限り、貿易赤字を投資による収益が補うような収支構造になっていくのは(ある程度)必然的であり、そのこと自体は問題ではないのである。

また、産業競争力の低下についても同じことがいえる。

通貨覇権国は、当初はその圧倒的な競争力によって覇権を得るのだが、その力はやがて低下し、せいぜい数ある先進国の中の一つという感じになっていく。

イギリス、アメリカに共通するこの現象も、やはり(ある程度)必然的であり、それ自体は問題とはいえない。

彼らが積極的に海外との貿易や海外投資を行えば、諸外国も相応に成長を遂げていくはずであり、それはむしろ望ましいことなのだから。

②ポンドの信用維持
③為替(通貨交換)レートの安定

一方で、彼らの貿易収支や投資行動、経済的パフォーマンスがどんな状態であっても構わないというわけではもちろんない。

いまや、ポンドを支えている彼らの信用は、基軸通貨を通じて世界の金融秩序を支えている。イギリスの経済的信用が失われるような事態になれば、基軸通貨の信用や為替レートの安定性は損なわれ、直ちに世界経済に波及してしまうのだ。

したがって、問題は、おそらく、赤字の程度であり、投資の質であり、また投資による利潤と実体経済とのバランスである。

要するに、それらがポンドの信用を脅かすことがなく、世界経済の健全な発展に資するような内実を持つものかどうかが問題なのだ。

(3)通貨覇権国の特権

責務の方を先に書いたが、彼らの責任は、彼らがそれだけの特権を持っていることの裏返しでもある。

世界の銀行であるということは、世界中からおかねが集まってきて、その信用を元手におかねを作り、世界中の事業に投資することができるということである。

自分で働かなくても、投資による利子・配当によって利益を得ていくことができるというのだから、これが大変な特権であることは疑いない。

実際、資本輸出(投資)による利子・配当収入は、国内産業の競争力が低下した後のイギリス経済を長く支えていくことになったのだ。

ポンド覇権下の金融システム

私たちの主な関心事であるドル覇権についてみると、いま現在、ドルの信用はかなり危うい。そして、だいぶ前から、通貨交換レート(為替レート)が日々上がったり下がったりするのは日常茶飯事だ(だからFXで儲けたりできる)。

*FXはforeign exchangeの略で、この文脈では外国為替証拠金取引のことを指す。

ポンドが覇権にあった時代はどうだったのであろうか。

(1)通貨交換レート(為替レート)は安定していた

ポンドの時代は、国際金本位制(1880-1914)の時代と同視される。

国際金本位制といっても、国際機関で話し合って制度化したというわけではなく、基軸通貨であるポンドが金本位制を採用していたので、他の国々もそれに合わせて金本位制を採用した結果、そのような体制ができあがったというだけであるが、とにかくこの時代のことをそう呼ぶ。

*ポンドとの交換レートが安定すれば、貿易や投資を呼び込みやすいというのが主な理由で、1870年代末までにヨーロッパの主要国すべてが金本位制に移行した(日本は1897年)。

通貨交換レート(為替レート)についていうと、みんなが金本位制を取っているということは、実際上、固定相場制が採用されているのと同じである。

*例えば、イギリスが金1オンス=4ポンドを平価(交換比率)とし、アメリカが金1オンス20ドルを平価としていた場合、ポンドのドルに対する交換レートが1ポンド=5ドルに固定されているのと同じことになる。

もちろん、みんなで話し合って決めたわけではないので、各国が自分の判断で金に対する平価(交換比率)を変更することは可能であったし、金本位制の「ゲームのルール」を守らないことも可能であった。

*金本位制の「ゲームのルール」: 保有する金の量に合わせて自国通貨の供給量を調整すること。この言葉を普及させたケインズは、(通貨量に対して?)「大量の金を獲得することもなく、また喪失することもなく管理すること」という言い方をしたという。

しかし、この期間においては、イギリスはもちろん、他にもそうしたことを(少なくとも大々的に)行う国はなく、みんなが国際金本位制=固定相場制の維持に協力していたようだ。

なぜ各国が金本位制を採用し、またそのルールを遵守していたのかといえば、通貨交換レート(為替レート)の安定は各国にとっての利益であったからである。

イギリスの後を追う国々にとっては、産業の発展のために、イギリスから機械や鉄道を買い、資本を輸入する(投資してもらう)ことが必要だった。

貿易の中心地であり世界の銀行であるイギリスにとっては、多くの国にイギリスを中心とする多角的貿易機構および決済機構に参加してもらい、物とおかねの自由な移動を確保することが何より望ましかった。

現代では忘れがちな単純な真実だが、日常的に物とおかねをやりとりする間柄である以上、通貨の交換レートは安定していた方がいい。本当なら、同じおかねを使いたいくらいだ。

商品やサービスの価値と無関係の事情で損をしたり得をしたり。そんなことがしょっちゅう起こるようでは、安心して生産に取り組み、商売を行うことなんかできなくなってしまうではないか。

 *今はまさにそういう世界ですが‥‥

そういうわけで、現在の先進国が世界貿易と資本移動を通じた経済発展の只中にあった当時、ポンドの覇権の下で、通貨交換レート(為替レート)は安定していたのである。

(2)イギリス経済は堅調で、ポンドの信用はゆるがなかった

ポンドの信用を支えているのは、イギリス経済の信用である。

すでに述べたように、外国製品の輸入や投資によって世界にポンドを供給するのは通貨覇権国イギリスの責務であって、多少の赤字や、貿易赤字を投資収入で埋め合わせるような構造は問題ではない。

問題は、おそらく、赤字の程度であり、投資の質であり、また投資による利潤と実体経済とのバランスである。

ということで、1880-1914のイギリス経済について、この点を確認しておこう。

拡大する貿易赤字を投資収益が埋める

国際金本位制が確立した頃、貿易立国としてのイギリスはすでに盛りを過ぎていた。

次の表をご覧いただきたい(面倒な方は見なくても構いません)。 

https://dl.ndl.go.jp/view/prepareDownload?itemId=info%3Andljp%2Fpid%2F11172226&contentNo=1(富田ほか)

輸出入の双方に積極的だったイギリスの貿易収支は最初から赤字(輸入超過)なのだが、経常収支は一貫して黒字である。

当初、貿易赤字を埋めていたのは、貿易にまつわるサービス収支(海運や保険)だった。 

*このサービス収支の黒字はまさにイギリスが世界貿易の要であったことによるものだ。

貿易赤字は一貫して拡大傾向だが、とくに1870年代の後半からが顕著であり、理由としては、工業でイギリスを追い上げていたアメリカ、ドイツ、フランスが自国の産業保護のために輸入品に高い関税をかけたことでこれらの国への輸出が停滞したこと、交通・運輸と食品加工技術の発達で安い農畜産物が大量流入したことなどが挙げられている。

しかしそれ以降も経常収支は黒字で、黒字幅はむしろ大きくなっている。数字を見れば一目瞭然。サービス収支とともにこの時期の国際収支を支えたのは投資収益なのである。

イギリスの資本輸出

「投資によって収益を得る」というとそれだけで悪い人が暴利を貪るような印象をお持ちの方もいると思うが(私ですが)、この時期の投資はまだ比較的健全だった(現在も健全な投資はある)。

終わり頃になると個別企業への株式投資という形態が普及してくるが、それ以前はもっぱら鉄道などの公共事業への長期投資である(↓下の図を参照)。

株式や通貨の短期的な売買を繰り返して利益を得るようなタイプの投資とは質的に異なっていたのだ。

*具体的なやり方はこんな感じ
①イギリスの銀行が外国政府や鉄道会社からの請負で債券(国債や鉄道債)を発行する(銀行は手数料などの収入を得る)。
②イギリスの投資家がそれを買う。
③投資家は債券を長く保有し、利子や配当によって利益を得る。

https://dl.ndl.go.jp/view/prepareDownload?itemId=info%3Andljp%2Fpid%2F11172226&contentNo=1 
労作!ありがたい(富田ほか)

実体経済と投資のバランス

量的に見ても、当時の資本輸出(海外投資)は外国為替市場のごく一部にすぎなかった。

当時の外国為替市場で行われていた通貨の売買は、ほとんどが商品の貿易に伴うもので、資本輸出額は商品貿易額の10分の1程度に過ぎなかったという(山本・22頁)。

イギリスは貿易赤字の補填を資本輸出に頼っていたが、取引の規模においては商品の売買(貿易)が圧倒的で、海外投資のせいで為替市場が混乱するというような状況ではおよそなかったのである。

(おまけ)現在の外国為替市場

ちなみに、現在の外国為替市場がどんなことになっているかご存じであろうか。

現在の外国為替市場で行われる通貨の売買のうち、貿易やサービスの輸出入、直接投資などの実需に伴う売買は全体の約1割程度にとどまっているという(↓)。

外国為替取引には、輸出入などの実需取引から派生する取引と、国家間における金融資産の売買や投機的な売買などの資本取引から派生する取引がある。2018年末時点では、資本取引に派生する取引が全体の約9割を占める。

みずほ証券×一橋大学 ファイナンス用語集

*なお、資本取引であっても直接投資(経営への実質的関与を伴うもの)は実需側にカウントするようだが、この時期のイギリスの資本輸出は主に(上述のような)国債や鉄道債の購入という形態だったようなので、多くは「資本取引に派生する取引」の側だと思われる。

直接投資と間接投資の区別については、ブリタニカの説明がわかりやすかったので一部引用させていただく(以下「直接投資」)。

経営参加を目的として株式を購入したり、現地の既存企業を買収したり、新たに工場を建設したりする投資をさす。一方、値上がり益や利子・配当所得を目指した証券の購入が間接投資である。

ブリタニカ国際大百科事典 小項目電子辞書版 2016

2007年の調査だが、実際の数字を入れたつぎのような説明もある。

世界の主要な外国為替市場における取引総額は2007年の調査によると1日あたり約3兆2,100億ドルに達しているが、同年の世界の貿易総額(輸出ベース)は約13兆8,208億ドルであるから、貿易にともなって必要になる外為取引だけなら4~5日分で済むということになる。

金井ほか・221頁

貿易以外の「実需」(サービスや直接投資)は2~3日分だそうなので、全部合わせても約1週間。

つまり、世界中で日々行われている外為取引の圧倒的大部分は、必ずしも実際に外貨が必要なわけではないのに行われているということなのである。

金井ほか・221頁

しかも、全体の9割にあたるとされる「資本取引に派生する取引」のほとんどは、ヘッジファンドなどによる投機的な短期投資だという。要するに、現在の為替相場(通貨交換相場)を動かしているのは、実体経済というより、投機的参加者の思惑なのである。

*こちらのサイトに引用されている池田雄之輔『円安シナリオの落とし穴』(日経プレミアシリーズ、2013)からの情報です。 

「すごい」と思ってイメージ図を作ってみた。左がポンド覇権の下での外国為替市場、右がドル覇権の現在だ(資本輸出の比率は適当です)。

スーザン・ストレンジの言葉の通り、通貨覇権国は、自国通貨(基軸通貨)を管理し、他の通貨との交換レートにも影響を及ぼす。

イギリスが管理をしていたのは紛れもなく世界の商取引のための市場であった。しかし、現在、アメリカが管理している市場は、ほとんど賭博場である。

世界貿易のための市場がカジノに変わるまでに何があり、この世界がどう変化したのか。

それを追っていくのが次回からのテーマということになるのかもしれない。

まとめ

  • 世界貿易の中心地イギリスに発達した国際決済サービス(ポンド建て)を通じ、ポンドが基軸通貨の地位を獲得した。
  • イギリスは、世界中から集まるおかねに基づく信用により「世界の銀行」の地位を得た。
  • イギリスが得た主な特権は(信用を元手とした)資本輸出による利子・配当収入だった。
  • 国際金本位制の下、外国為替相場(通貨交換相場)は安定し、世界経済の発展に役立った。
  • 当時の外国為替取引の大部分は貿易に伴うもので、資本輸出はその10分の1程度にとどまっていた。
  • その資本輸出も長期投資が中心堅実なものであり、相場を撹乱する要因となることはなかった。

主な参考文献

  • 山本栄治『国際通貨システム』岩波書店 1997
  • 上川孝夫・矢後和彦『国際金融史』有斐閣 2007
  • 金井雄一・中西聡・福沢直樹『世界経済の歴史』名古屋大学出版会 2010
  • 石見徹『国際通貨・金融システムの歴史 1870-1990』有斐閣 1995
  • 西村陽造・佐久間浩司『新・国際金融のしくみ』有斐閣 2020
  • 奥田宏司・代田純・櫻井公人『深く学べる国際金融』法律文化社 2020
  • 秋田茂『イギリス帝国の歴史』中公新書 2012
  • ミシェル・ボー『増補新版 資本主義の世界史』藤原書店 2015
  • 富田俊基・篠原照明・永戸一彦・山本美樹子「19世紀イギリスの資本輸出」大蔵省財政金融研究所「ファイナンシャル・レビュー」March-1987

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「弱肉強食」の真実

目次

はじめに

「アメリカ II」の中で、家族システムにおける「権威」が果たす機能の第一は秩序維持であると書いた

権威には秩序維持機能があるという想定の下、「権威が確立していないとどう困るか」についてはこう書いている。

限られた領域に大勢の人間が暮らしている場合、少なくとも最小限の秩序維持機能は絶対に必要といえる。それがなければ、弱肉強食、血で血を洗う抗争の世界となってしまうから。

このとき私が想定していた「弱肉強食」の世界とは、殺人やら喧嘩闘争が頻発する世界、要するに、無秩序が支配する世界だった。

しかし、その後、いわゆる未開社会(=原初的核家族)の事例をいろいろ読んでいて、「あれ?」と思うようになった。

そこはたしかに「弱肉強食」の世界ではあった。しかし無秩序かといえば無秩序ではない。何というか、秩序そのものが「弱肉強食」の原理に従っているのだ。

原初的核家族がもたらす「不正な秩序」

「権威の不在→無秩序」という想定は、秩序には「正しさ」が含まれることを暗黙の前提としている。

だからこそ、私は権威(「正しさ」の基盤である)が確立していない社会では、秩序の維持は困難であろうと考えたのだ。

広辞苑で「秩序」を引くと、最初の説明はこうである。

①物事の条理。物事の正しい順序・筋道。次第。

これでいくと、「秩序」とは何かしら「正しい」ものであり、権威がなければ秩序は築けないということになりそうである。

他方、Oxford Dictionary of Englishで ”order” を引くと、その大元の意味はつぎのように説明されている。

1 the arrangement or disposition of people or things in relation to each other according to a particular sequence, pattern, or method:  

こちらの説明では、人間や物事同士の関係が何らかの順序、パターン、方法にしたがって配置・整理されていれば「order」といえるのであって、それが「正しい」ことは必要ではない。

言われてみればその通り。

日本人(広辞苑や私)の思い込みとは違って、たしかに、「正しさ」(したがって権威の裏付け)がなくても、秩序の維持は可能だ。

強い者が有利な立場を得て、弱い者がいろいろと我慢を強いられる。その弱肉強食の状態をそのまま固定してしまえばよいのである。その状態は「不正」ではあるが、無秩序ではない。

実際、いろいろ見てみると、権威の確立していない社会がもたらしがちなのは、無秩序というよりは「不正な秩序」のようなのである。

「不正な秩序」が生まれるとき

農耕を始め、定住し、人口が増え、土地が不足し、利害関係の調整が必要となったような場合、共同体は、何らかの形で権威を組み入れた家族システムを発展させ、「正しい秩序」を可能にするのが普通だろう。

しかし、この世界では、原初的核家族を営む人々のもとに、ふいに外部から文明が現れ、複雑な利害調整が必要な状況に追い込まれるということもありうる。例えば、未開社会に西欧の人々が踏み込んできて、奴隷貿易を持ちかけてくるとか。

*奴隷貿易に関しては西欧の側の「不正」ぶりも興味深いが、ここでは未開社会の側に着目する。

突然巨大な権益を投げ込まれた未開社会は、一時の無秩序を経て、秩序形成に向かう。しかし、社会の基層をなすシステムの中に、複雑な事象を「正しく」処理するのに必要な「権威」は確立されていない。

そういうときに何が起こるか。デヴィッド・グレーバー『負債論―貨幣と暴力の5000年』(以文社、2016年)が紹介する事例を見てみよう。

大西洋奴隷貿易と西アフリカ

大西洋奴隷貿易は15世紀に始まり19世紀まで続いた。17世紀後半までには、ヨーロッパの6つの帝国(イギリス、デンマーク、オランダ、フランス、スペイン、ポルトガル)による三角貿易の仕組みが確立し、現地の社会を揺るがせることになる。

wiki掲載の図に加筆(https://ja.wikipedia.org/wiki/大西洋奴隷貿易

①ヨーロッパの工業製品(布、雑貨、武器など)がアフリカへ
②アフリカの奴隷がアメリカへ
③アメリカの一次産品(銀、砂糖、綿花、タバコなど)がヨーロッパへ
 

ヨーロッパの各種製品や武器の流入が西アフリカ社会に大きな影響を与えたことは、この時期以降に諸王国が興隆した事実にみてとれる。オヨ王国やアシャンティ王国、ダホメ王国(現在のベナン共和国の場所)などである。

ダホメ王国の王と女官たち 

西アフリカでの奴隷の調達は、最初のうちは、純粋な暴力が中心だった(戦争の捕虜とか、適当に拉致して連れ去るとか)。アフリカの商人がヨーロッパの商人から信用取引で商品を購入する際に、信用の担保として人質を提供し、その人質が債務不履行によって奴隷として売られていくというパターンも多かったという(債務不履行を待たずに連れ去られてしまうケースもあった)。

しかし、奴隷貿易はやがて、アフリカの権力者や有力商人にとっても、富と権力の源として「なくてはならないもの」に成長する。すると、彼らは、組織的かつ合法的に、地域の住民を奴隷に変えて、ヨーロッパの商人に売り払う仕組みを作り上げていくのである。

奴隷調達のための「不正な秩序」

ダホメやアシャンティといった王国では、統治者は、犯罪に対する刑罰として、本人の奴隷化や「本人の死刑+家族の奴隷化」を定めたり、とてつもなく高額の罰金を課して支払えない場合に本人と家族を奴隷にする、といった方法で奴隷を調達したという。

王国といえるほど発達していない地域では、長老や有力な商人が同様の司法体系を整備し、罪を犯した者を(比較的軽微な罪であっても)奴隷として売り飛ばした。訴えた者は一定の代金を得る仕組みであったので、長老などの協力を得て、無実の罪がでっち上げられることも少なくなかったという。

後者のケースで(国の行政組織に代わって)大きな役割を果たしたのは、商人のリーダーたちが作る秘密結社であった。この秘密結社(エクペ(Ekpe)という)は、神秘的な教義を伝授したり、大掛かりな仮装パーティーを主催することで知られていたが、その裏で、極秘の任務を遂行していた。債務の取り立てである。彼らは債務を支払えない者に対して、(組織的な)取引拒否から、罰金、差し押さえ、逮捕、処刑に至る各種制裁を実行する権限を有していた。

南ナイジェリアのekpeのコスチューム(詳細は不明)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Egbo_Secret_Society,_Mgbe,_Etuam,_Egbo,_South_Nigeria_Wellcome_M0005360.jpg

秘密結社エクペの会員であることは名誉と風格の証とされ、誰もが会員になることを望んだ。果たして、エクペには、等級別に異なる入会金を支払いさえすれば、誰でも加入することができたのだ。

入会金は高額だったが、金を用意できればメンバーになれる。そこで、多くの人々が、商人に借金をして高額の入会金を払い、エクペに加入した。彼らはまた、仮装パーティーで使用する道具や衣装を作るためにも、商人から金を借りた。

こんなのを作ったのかもしれません。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:British_Museum_Room_25_Mask_Ekoi_people_17022019_5015.jpg

エクペに憧れ、借金をして入会し、やはり借金をして衣装を作った人々。彼らがこの借金を返せなかったらどうなるか。

彼らはいまやエクペの一員であるため、債務者であると同時に、自ら債務取り立ての任務も負っている。彼らは、自分の家族や従僕を人質として差し出す代わりに、エクペの一員であるという地位を利用して近隣の村を襲い、子どもや大人、財物、家畜などあらゆるものを強奪して、それを代わりに差し出すことで許しを得ようとした。

*この場合、襲われた人々は、何の正当な理由もないのに、奴隷として売られていくことになる。

責任を他人に押し付けるこの作戦は成功することもあったが、しないこともあったという。後者の場合、結局は、自分の子ども、家族、従僕、最後には自分自身まで差し出すよう強いられ、手枷足枷をはめられて、奴隷として売られていったのである。

エクペのメンバーになりたくて、商人から金を借りたばっかりに、一族郎党が殺され、あるいは奴隷として売り払われていく。そんな仕組みが確立されて、長期間保持されていたのだ。

「人肉債務」の物語

こうした奴隷調達システムが現地の人々の心性にどんな影響を与えていたかを示すものとして、ティブ族の信じる「人肉債務」の話がある。

ティブ族(Tiv)は1750年ごろ(ちょうど奴隷貿易が活発であったころだ)からナイジェリアのべヌエ川流域に居住する部族で、20世紀中頃に人類学者による調査が行われている。

あきらかに、ティブ族には権威の形成にかんして大きな問題があった。

グレーバー『負債論』227頁

ティブ族の間には、公式の政治機構は存在せず、人々は平等主義的で、あらゆる形式の主従関係について懐疑的だったという。それぞれの村落は、一人の長老(=カリスマ性のある実力者)が絶対的な権力をふるうことによって、その秩序を維持していた。典型的な原初的核家族の世界である。

ティブ族の人々の間では、人肉を食べることで特別なカリスマを得る妖術師=殺人鬼の存在が信じられていた。人々は、政治的な指導者になるような有力者はみなこの妖術師なのではないかという疑惑に取り憑かれていたという。

妖術師は結社を組織していて、結社は、つねに新しい成員を求めている。成員を獲得する方法は、だまして人肉を食べさせることである。妖術師は、候補者を食事に招き、こっそり人肉(妖術師が妖術師自身の家族を殺し、その肉を混ぜるとされている)を食べさせる。

うっかり人肉を食べてしまった者は、結社と「人肉負債」の契約を結んだことになり、自らの肉を提供するよう言われる。それを逃れる唯一の方法は、自らの家族をかわりに差し出すことである。彼は、妖術師の指図通りに、兄弟、姉妹、こどもたちを一人一人殺していかなければならないのだ。

「人肉負債」は、はてしなくつづく。債権者はいくどもやってくる。‥‥すべての係累を失い、家族が全滅するまで「人肉負債」から逃れられない。かくして、債務者は、みずからおもむいて横たわり、屠殺され、そこで負債からついに解き放たれるのである。

グレーバー・226頁

このストーリーが何を示唆しているかは明らかだろう。先ほどの秘密結社の影響力がティブ族の地域にまで及んでいたのかどうかは(本を読んだ範囲では)はっきりしない。

*グレーバーは「〔彼らが〕なぜそんな強迫観念に脅かされていたのかというと、2、300マイル離れたところの住人たちの身にそれが文字通り起こっていたからである」としか述べていない。

しかし、私は、ティブ族の有力者の中にも秘密結社のメンバーになったり、周辺地域の秘密結社と関わりがある者がいたのではないかと想像する。

ティブ族の人々は、隣人である有力者の手引きによって、いつ何時、債務不履行、あるいは押し付けられた負債によって、自分やその家族が奴隷として売り払われてもおかしくないという秩序の下で暮らしていた。

そうした事態が現実化することへの恐怖が、妖術師による「人肉負債」の物語を生んだのではないだろうか。

巨大な権益を得た原初的核家族の一般理論

奴隷貿易にまつわるこうした「不正な秩序」の発生は、西アフリカに特異な事例というわけでは決してなく、むしろ、西欧の商業文明と接した未開社会では通常のことだったという。

支配者が(でっち上げを含む)犯罪や債務を理由に臣民を従属させ、奴隷として外国人に売り払って富を築く。「弱肉強食」の自然的事実をそのまま糊で固めたような社会制度は、奴隷貿易の対象となった各地域に確立し、100〜数百年にもわたって営まれていた。

*グレーバーの本では、東南アジアの山間部やバリ島の事例が紹介されている。

権威が確立されていない社会では、強さと正しさは同義である。巨大な権益を手にした強者はそれを正当な自分の取り分であると信じ、弱者の側もそれを信じる。おそらくはそんな単純な仕組みによって、「不正な秩序」は確立され、維持されていくのだと思われる。

原初的核家族のもとに巨大な既得権が発生したとき、必ずといってよいほど「不正な秩序」が形成されるという事実は、この世界を隈なく理解したいと願うわれわれにとって、非常に示唆に富んでいる。

何しろ、現在の世界の秩序は、二度の世界大戦でヨーロッパ列強が凋落した結果、さほど強く望んだわけでもないのに、いつの間にか巨大な権益を手中にしていた原初的核家族を中心に形成されてきたものなのだから。

おわりに

私がグレーバーの本を手に取ったのは、一つには、アメリカの金融覇権とはいったい何なのかを理解するためだった。

なぜ(日本を含む)西側諸国はこれほどまでにアメリカに従属することとなり、なぜグローバルサウスはドルの支配から逃れようとしているのかを、何となくではなく、はっきりと理解するためだった。

グレーバーを読み、さらに調査を進めて分かったことは、現在の金融秩序はかなりデタラメだということである。デタラメで、めちゃくちゃで、まあ、特にアメリカ、それから(ある程度)その同盟国である西側諸国に都合のよい仕組みである。

ただ、じゃあ、アメリカは巨大な悪の帝国で、緻密な計画に基づき周到に準備してこの仕組みを作り上げてきたのか、といえば、そういうわけでもなく、どちらかというと、あまり深く考えず、短期的に見た自己利益を最大にするべく、そのつどそのつど行き当たりばったりで策を講じてきたら、壮大な「不正な秩序」が確立されていた、という感じなのだ。

そのやり方は、まさしく突然巨大な権益を手に入れた原初的核家族のものであり、もう笑うしかない。しかし、被害者の側面もありつつ、グローバルサウスと呼ばれる地域との関係では明らかに受益者側であるわれわれは、やはり、その仕組みをしっかりと理解して、世界と、それからとくに若い人たちと、認識を共有する必要があると思う。

もうすぐシリーズが始まります。
お楽しみに。

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世界を学ぶ 戦時下日記

ユーラシア大陸の中心で起きていること
ー戦時下日記(6)

西アジア中国を震源地として、本当に重要なことが起きていると思うのでまとめておく。

*以前、イランのハメネイ師が「ここは西アジアだ。中東などではない」と言っているのを聞いて「なるほど」と思ったので、西アジアを採用する(「中東」とか「極東」はヨーロッパを基準点とする言い方である)。

1 西アジアー和解に次ぐ和解

【予備知識】西アジアにおけるアメリカ

・アメリカは、冷戦終結後もロシア・中国・イランを敵視し、これらの国と良好な関係を保つ国々(イラク、北朝鮮、シリア、リビア、イエメン、ソマリア)で、政権転覆等を目的とした代理戦争を展開してきた(主な手段は武力攻撃と経済制裁)。

・アメリカの西アジアにおける最重要同盟国はサウジアラビア。サウジは長年イランシリアと対立して西アジア・アラブ世界で両者を孤立させ、アメリカの利益に貢献してきた。

・西アジアでの紛争状態の継続は、アメリカの利益(石油資源確保、武器輸出拡大、影響力保持)に合致した。

・もっとも破壊的な影響を受けたのはシリア

ーアメリカはアサド政権に「専制主義」のレッテルを貼り打倒を目指している(事実は異なる。アサド政権のシリアは世俗国家であり、近隣の王制国家と比べはるかに民主的)。

ーアメリカは2011年の反政府運動(「アラブの春」の一部)を契機に勃発した内戦で反政府側を強力に支援してきた。西アジア諸国ではサウジ、トルコ、カタールが反政府側。

ーアメリカは2015年から正式にシリアに駐留を開始。現在も一部を占領し、経済制裁も続けている。

ーISISとの戦いというのは口実に過ぎず、①中国、ロシアとの経済的関係(シリアはこれらの国に石油を売り武器を買っている。アメリカはこれらの国に石油を売ってほしくなく、また自国の武器を買ってほしい)、②イランとの政治的友好関係(アメリカは2010年に「イランとの関係を解消すればその見返りとして経済制裁を中止する」とシリアに提案して断られている)、③政権転覆(アメリカはアサド政権を倒しアメリカに従順な政権に変えたい)が主な目的と見られている。 

(1)サウジアラビアとイランの和解

・そういうわけで、サウジを中核とするイラン・シリア包囲網の構築がアメリカの西アジア政策の肝であったが、3月以降、この包囲網が一挙に瓦解をはじめ、西アジアに平和が訪れようとしているようなのである。

・3月10日、サウジとイランは外交関係正常化(7年ぶり)で合意した。共同声明は3カ国の連名でもう1国は中国。3カ国は北京で4日間に渡って協議を行ったとのこと。中国政府が仲介役を果たしたのである。

・アメリカは「イランが履行義務を果たすかが問題」とか言っていたようだが、履行に向けた動きは着々と進んでいることが窺える。

・4月6日にはサウジとイランの外務大臣が北京で会談して大使館の再開に向けた合意を締結。サウジの国王はイラン大統領をサウジに公式に招待し、大統領もこれに応じたという。

この記事を大いに参考にしました

(2)サウジーシリア関係にも和平が波及!

・3月末、サウジとシリアが外交関係の正常化に合意したことが伝えられ、4月18日にシリアでサウジ外相とアサド大統領が会談した。

・サウジは5月に開催されるアラブ連盟の首脳会議にアサド大統領を招待する方針とのこと。

アラブ連盟からの排除(ヨーロッパの国がEUから除名されたようなものだろう)というのが、アメリカの意向に基づく「シリアの孤立」の象徴のようなものだったので、これは本当に大きな動きなのだ。

シリアの外務大臣は4月1日はカイロを公式訪問している(4月12日にはサウジ。いずれも12年ぶりとのこと)。サウジ、エジプトというアラブ連盟の二大大国がシリアを歓迎していることが窺える動き。

・この動きの前提には、シリア内戦でアサド政権側がすでに勝利を決定的にしていて、周辺国がアサド政権の正統性を認めているという事実があるらしい。実際、サウジとの関係正常化に先立つ今年2月に、レバノンチュニジアアラブ列国議会同盟に属する各国の議員たちが相次いでシリアを訪問していた。

・そうした事実を前提に、仲介役を果たしたのはロシアであるらしい。

今年3月のモスクワでの会談の様子https://www.france24.com/en/middle-east/20230315-assad-meets-putin-in-moscow-as-syrians-mark-12-years-since-anti-regime-uprising
今年3月のモスクワでのアサド・プーチン会談の様子
https://www.france24.com/en/middle-east/20230315-assad-meets-putin-in-moscow-as-syrians-mark-12-years-since-anti-regime-uprising

・3月20日-21日には非常に印象的な習近平のモスクワ訪問があったが、そのときにこうしたことも話し合われていたに違いない。

・ちなみに中国はイスラエル-パレスチナ和平の仲介にも積極的な意向を示している(さすが共同体家族だ)。

*ところでシリア情勢とくにアサド政権について日本語で出回っている情報は「専門家」とか「現地で取材したジャーナリスト」のものを含めてほとんど嘘ばっかりだと思います。私はまず元外交官の国枝昌樹さんが書いたこの本(↓)を読んで「世間で言われていることは全然間違ってるっぽい」ということを知り、以後は情報を海外の非主流メディアに求めています。

国枝昌樹『シリア アサド政権の40年史』(2012年、平凡社)
この記事ではこのスレッドを大いに参考にしました。

*内戦前のシリアの美しい街並みを紹介したこちらの記事もとてもおすすめです(写真しか見ていません)。

https://www.theatlantic.com/membership/archive/2018/04/remembering-syria-before-the-war/558716/

(3)イエメンも?

イエメン内戦にも波及効果が期待できるという。

・イエメン内戦は、一般に「暫定政府軍」とシーア派の武装組織「フーシ派」の戦いとされている。前者の背後にはサウジがいて、かなり積極的に関与しているという。

・一方、世間では、フーシ派の背後にはイランがいるとされているが、アメリカが主張するほどイランが積極的に関わっているわけではないらしく、まだよくは分からないのだが、実態はサウジ=アメリカが扇動する戦争ということなのかもしれない。

・いずれにしても、サウジとイランの関係が改善するなら、イエメン内戦の終結は十分に期待できるのだ。

・4月14日から16日に行われた捕虜の交換は、両者の間で対話と妥協が成立しつつあることをうかがわせる。

・4月8日にはサウジの代表団停戦協議のためにイエメンを訪問し、次回の協議は4月21日に行われるという。

サウジはイエメン南部の港における輸入品の封鎖措置を解除することを発表、イランはフーシ派への武器送付を停止し、フーシ派にサウジへの攻撃を止めるよう圧力をかけることに合意したと報道されている。

サウジはイランがイエメンから手を引くなら、サウジはイラクとシリアから手を引くと約束したともされており、これが実行されるなら、本当に、シリアにもイエメンにも同時に平和が訪れるということになるだろう。

フーシ派のリーダーと握手するサウジ代表団

(4)アメリカだけが嬉しくない

アメリカは、イランおよびシリアとの和平に向けたサウジアラビアの動きを「不意打ち」と非難しCIA長官ウィリアム・バーンズをサウジに送り込んでいる。

https://www.businessinsider.com/cia-director-visited-saudi-mend-tattered-relations-mbs-report-2022-5

・しかし、サウジはもうずいぶん前から明確に「中立」の姿勢を打ち出し始めている。

・2021年には上海協力機構に対話パートナーとして加盟(今年の3月にサウジ議会も承認)、BRICSへの参加を目指していることも伝えられている。

・ウクライナ紛争では対ロシア制裁への参加を拒否した上、ロシア産原油の輸入量を2倍に増やし、対ロ制裁の効果を高めるためのアメリカからの石油増産要請すら拒絶している(大幅に減産した)。

・「中立」とは、この文脈では、アメリカの一極支配ではなく中国やロシアが推し進める多極化した国際秩序を支持するということなので、サウジは明確にアメリカに反旗を翻しているのだ。

2 ルーラは動く(中国訪問)

もう一つ、重要だと思うのは、ブラジル大統領ルーラの中国訪問である。

ルーラは3月下旬に中国訪問の予定を直前にキャンセルし(「本人の病気」が理由)、「むむ、怪しい‥(アメリカに懐柔されたのか?)」などと思っていたが、4月12日-15日に訪中が実現。

私の疑念を大いに払拭するハイテンションで、多極的世界に向けた意欲を語っていた(そして中国の人々に大喜びされていた)。

中国でのルーラの発言はすごい。

ウクライナ情勢については「アメリカは戦争をけしかけるのを止めて、停戦協議を始めるべきだ」。

*この発言についてアメリカは不快感を示し、ロシアは賞賛している。

*なおブラジルは、今年3月にロシアが国連安全保障理事会にノルド・ストリームの爆破について調査するよう求めた際、ロシア、中国とともに決議案に賛成している。

おまけに、ドルの覇権にはっきり疑問を呈する発言もしているのだ。

私は毎晩考えます。いったいなぜ全ての国が貿易をドルベースで行わなければならないのかと。なぜ私たちは自国の通貨で取引をすることができないのでしょうか。金本位制の後、ドルを基軸通貨にすると誰が決めたのでしょうか?

https://www.france24.com/en/americas/20230414-brazil-s-lula-criticises-us-dollar-and-imf-during-china-visit

中国とブラジルは3月に両国間の貿易を中国元ブラジル・レアルで行うことで既に合意していた(同様の動きは中国、ロシアの周辺のあちこちで出てきている)。ルーラはこれがドルの支配から抜け出すための動きであることを非常に明確に語ったわけである。

今まで中南米では、アメリカに抵抗し、なかでもドルの覇権に抵抗する動きを見せた為政者は、必ずアメリカの手によって倒されてきた(と分析する記事を読んだことがある)。

ルーラ自身も前回の大統領の任期中に汚職の罪をでっち上げられて投獄されているのだ(CIAの関与があったとされている)。

ルーラにせよ、サウジにせよ、彼らの行動をアメリカがどのように受け止めるかは熟知しているはずである。

それにもかかわらず、これほどあからさまに動くということは、彼らが「潮目は変わった」と見ていることを示していると思われる。

彼らは、「現在のこの世界では、もはやアメリカに従順に従う必要はない。いや、むしろ従うべきではない」と考えているのだ。

西アジア中南米、そしてアフリカがはっきりとアメリカ(ないし西側)一極支配体制から離脱する動きを見せている。

アメリカおよび西側は、もはや信頼に値するリーダーとはみなされていない。それだけで、すでに、アメリカ(および西側)の覇権は終わっているといえると思う。

中国側は歓迎式典で(アメリカが支援していた)ブラジルの軍事政権時代の
抵抗運動を象徴する曲を演奏してルーラを驚かせたという

3 おわりに

ウクライナは膠着状態(勝ち目はない)、西アジアにおける影響力を中国、ロシアに奪われ、グローバル・サウスがドル覇権体制から離脱する‥‥となると、アメリカは台湾問題で賭けに出るしかない、という感じがいよいよ強まる。

日本、韓国、オーストラリア、ニュージーランドは、ギリギリまでアメリカに従って動き、最後の最後に引導を渡す、というような役回りであろうか(このツイートの動画が面白かったです。是非↓)。

ちゃんと考えている人がいるといいなあ。

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世界を学ぶ 戦時下日記

(翻訳)メディアと国家
-アメリカの場合-

以下は、Caitlin Johnston, The US Could Use Some Separation Of Media And State の翻訳です。何かすごく新しいことが書いてあるわけではありませんが、「へー」と思うことが(私は)いくつかありました。お役に立てば幸いです。 

目次

アメリカ政府とメディアの間に線引きはない

アメリカ国務省の報道官ネッド・プライス(写真↓)に代わってマシュー・ミラーが就任した。プライスと同様、ミラーは以前からアメリカ政府とマスメディアの双方に深い関わりを持つ人物である。プライスは元CIA職員でオバマ政権の国家安全保障会議のスタッフ、NBCニュースのアナリストとしても長年活躍した。ミラーはオバマ政権、バイデン政権で働き、MSNBCのアナリストも務めていた。

Ned Price
元CIA職員、オバマ政権のNSCスタッフ、NBCニュースのアナリスト

他の政府高官と同様、アメリカ帝国がしでかすロクでもない物事をまるでよいことのように語り、都合の悪い質問には遠回しな言葉遣いで煙に巻き何も答えないことがミラーの職務となるだろう。これは、なんと偶然にも、主流メディアのプロパガンダたちの仕事と本質的に全く同じである。

ジャーナリズムの学校では、政府とメディアの間には明確な一線があると教えられる。ジャーナリストの仕事は政府の責任を追求することである。ジャーナリストが政府高官と友人関係にあったり、政府で仕事をすることへの期待を持つことは、明らかな利益相反であると。

しかし、世界でもっとも強力な政府と、世界でもっとも影響力のあるメディア・プラットフォームの最上層においては、メディアと国家の間の一線は事実上存在しない。彼らは政権交代に応じてメディアと政府の間をまったくシームレスに行ったり来たりするのである。

 

ホワイトハウスの報道官たち

ホワイトハウスの報道官では、政府とメディアの一体性はよりいっそう明瞭である。現報道官のカリーヌ・ジャンピエール(↑)はNBCニュースとMSNBCの元アナリストであり、前報道官のジェン・サキ(↓)は現在MSNBCで自分の番組を持っている。サキはホワイトハウスの報道官を務める前はCNNのアナリストとして働き、その前はプライスやミラーと同じく国務省の報道官だった。

ニュース関連のスタートアップ企業Semaforの最近のイベントで、自分をジャーナリストだと思うかと問われたサキは、思うと答えて次のように述べた。

私にとって、ジャーナリズムとは一般の人々に情報を提供し、明確な理解を助け、わかりやすく説明することです。

これはちょっと笑える。サキの党派(民主党)は、過去7年間、ウィキリークスの創設者ジュリアン・アサンジはジャーナリストではないと猛烈に主張し続けてきた。リベラルの脳内では世界最高のジャーナリストはジャーナリストではなく、ジョー・バイデンのスポークスマンはジャーナリストなのだ。「わかりやすく説明する」能力が高いというだけの理由で。

もちろん共和党も

この現象が民主党と協力メディアに特有のものという誤った印象を与えてはいけないので、共和党関連の事実を付け加えておこう。

トランプの報道官サラ・ハッカビー・サンダース(↑)は、その職を辞した直後にFox Newsに仕事を得て、今はアーカンソー州の知事になっている。もう一人のトランプ政権報道官、ケイリー・マッケナニー(↑右)は、今はFox Newsで働き、以前はCNNに勤めていた。

報道によると、トランプの初代報道官ショーン・スパイサーは、ホワイトハウス勤務後にCBSニュース、CNN、Foxニュース、ABCニュース、NBCニュースの仕事を得ようとしたが、すべての会社から断られた。誰からも好かれていなかったのがその理由だという。

情報統制を政府に指示する米メディア

メディアと国家の間に明確な線引きがない以上、アメリカのメディアは、西側が声高に「専制主義」と非難するロシアや中国の国営メディアと有意の違いはないといえる。

唯一の違いといえば、専制主義国家では政府がメディアをコントロールするが、自由民主主義国家では政府がメディアである(政府とメディアが一体)ということだろう。

ジャーナリストのマイケル・トレイシーはツイッターで、国防総省からネット上に流出した文書に関する今日の国防総省の記者会見でメディアから出された質問がすべて、文書に記載された情報に関するものではなく、国防総省がその文書の流出を防げなかった過ちに着目したものだったことを指摘している。

ジャーナリストとして政府からもっと多くの情報を得て真実を明らかにしようとする代わりに、彼らはなんと重要な情報がジャーナリストの手に渡るのを防ぐ措置を取るよう政府に働きかけているのだ。

こうなると、全体主義国家と自由民主主義国家の違いとして、もう一点を指摘せざるを得ない。全体主義国家では政府がメディアに不都合な情報を出さないよう指示するが、自由民主主義国家では不都合な情報を出させないよう、メディアが政府に指示するのである。

ペンタゴンの機密文書漏洩者を特定したのはNYタイムズの記者集団 

ペンタゴンの文書をリークしたとされているJack Teixeiraという21歳の州兵はFBIに逮捕される前にニューヨーク・タイムズ紙に追跡されすでに名前が挙がっていた

ニューヨーク・タイムズは数十人の記者を集めてチームを作りリークの犯人を追い詰めた。その際にはアメリカ帝国が出資するプロパガンダ会社Bellingcatからの情報も用いていた。

本来連邦の捜査官だけに義務付けられたこの仕事を最初に引き受けたのは主流メディアの記者だったのだ。FBIさながら、機密情報を漏らした人間の自宅のドアを蹴り破り、その飼い犬を撃つニューヨーク・タイムズの記者達は、私たちからほんの1、2クリックのところにいる。

Twitterのラベリング

この間、国のプロパガンダ機関であるNPRは、Twitterが彼らのアカウントに「政府の資金提供(Government Funded)」という正しいラベルを貼ったことに癇癪を起こしている(その前は「アメリカ政府系メディア」(US state-affiliated media)でこちらも正しい)。

笑わせるのは、NPRが「ツイッターはわれわれが編集上の独立性を持っていないという虚偽の情報を示唆することでわれわれの信頼性を損なっている」という理由で怒ってTwitterを退会したことだ。NPRには損なうだけの信頼性などもともとないのに。

最近論じたように、NPRはアメリカ政府からの資金援助を受け、一貫してアメリカ政府の利益に合致する情報を流している。NPRを経営しているのは、アメリカ政府の対外プロパガンダネットワークであるUS Agency for Global Mediaの元CEOである。こうした点からすると、「政府の資金提供」というラベルは相応しいとは言えない。むしろロシアや中国の国営メディアと全く同じラベルを貼るべきである。実質的に違いがないのだから。

 

Voice of Americaの「独立性」

もっと笑わせるのは、アメリカの文字通りの国営メディアであるVoice of Americaが同じく「政府の資金援助」というラベルに異議を唱えてNPRに(全く無意味な)連帯を示していることである。Voice of AmericaはNPRの苦境を伝える「ニュース」の中で次のように書いている。

VOAの広報部もまたこのラベルはVOAは独立のメディアではないという誤った印象を与えるとしてTwitterの決定に反対している。

TwitterはVOAのコメント要請に応じていない。

VOAはU.S.Agency for Global Mediaを通してアメリカ政府の資金提供を受けているが、編集の独立性は規制とファイアーウォールによって守られている。

VOAの広報担当ディレクターであるブリジット・サーチャックは次のように述べている。

「『政府の資金提供』というラベルはミスリーディングであり、『政府が管理している』と解釈されるおそれがある。VOAは間違いなくそうではない。」

「我々の編集上のファイヤーウォールは、法律に明記されており、ニュース報道と編集の意思決定プロセスにおいて、いかなるレベルの政府関係者からの干渉も禁じている。

「この新しいラベルはVOAのニュース報道の正確さと客観性について不当で是認できない懸念を呼び起こすものであり、VOAは引き続きTwitterと協議しその違いを訴えていく所存である”。」

Branko MarceticがTwitterで指摘したように、VOAの「編集の独立性」に関するこれらの主張は、35年間同機関に勤務した人物によって真っ向から否定されている。

コロンビア・ジャーナリズム・レビューの2017年の記事「Spare the indignation:Voice of Americaに独立性はない」において、VOAのベテラン、ダン・ロビンソンは、VOAのような機関は通常のニュース会社とはまったく異なり、政府資金を受けるためにアメリカの利益を促進するための情報を流すことが期待されているという。

私はVOAで約35年間、ホワイトハウス特派員長から海外支局長、主要言語部門の責任者まで務めたが、以下の2点を長期に渡る真実として断言することができる。第一に、アメリカの政府資金を受けたメディアの運営は深刻な問題を抱えている。それはオバマ大統領が2017年度国防授権法に署名したときにクライマックスに達し、議会における超党派の改革努力を促した。第二に、議会やその他の場所において、継続的な資金提供を受けている以上、これらの政府系放送局は、国家安全保障機構の一部として、ロシア、ISIS、アルカイダなどとの情報戦の支援により積極的に関わるべきだという合意が広範に成立しているということだ。

*「第一に」からのくだり(とくに「それは‥」の文))の翻訳はあまり自信がないです。超党派の改革努力というのはこれのことかもしれません。

メディアと国家、企業と国家の分離が必要だ

至る所に、西側の人々が情報を得ているニュースメディアとアメリカ政府との間の広範かつ密接なつながりを見てとることができる。

おまけに、アメリカのメディアを所有ないし影響力を持つ富裕層と政府の間にも実質的な線引きは存在しない。企業が政府の一部であるなら、企業メディアが国営メディアとなるのは当然のことといえる。

もし、メディアと国家の分離、企業と国家の分離の原則が、政教分離原則と同等に重要視されていたら、アメリカは間違いなく全く異なる国になっていただろう。

国内では自国民を貧困に陥れ抑圧し、海外では人々を爆撃して飢餓に追い込む。そんな狂人めいた現在の政治体制をアメリカ国民が支持している理由は、その支持が政府と事実上一体であるメディア階級によって捏造されたものだということ以外にありえない。

メディアがその本来の場所に置かれ、政府に対峙しその行動を監視する役目を果たすなら、国家の諸問題の根底にある力学が国民の目に明らかになることだろう。

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戦時下日記

アーダーン首相はなぜ辞めたのか

はじめに

ジャシンダ・アーダーンがニュージーランド首相の辞任を発表したとき(2023年1月)、驚くと同時に「あ、あれか?」と思い当たることがあった。

古い話になってしまったが、日本にとって大事なことだと思うので書く。

訪米(2022年5月)

2017年に弱冠37歳で首相に就任したアーダーンの政治姿勢に私は何となく好感を持っていた。

それだけに、2022年5月31日、バイデン米大統領とのワシントンでの会談後の共同声明をテレビで見たとき、ちょっとがっかりしたのを覚えている。以下はロイターの記事から引用。

会談後に出した共同声明では、中国とソロモン諸島の間で合意された安全保障協定に懸念を示した。「われわれの価値観や安全保障上の利益を共有しない国家が太平洋に永続的な軍事プレゼンスを確立することは、この地域の戦略的バランスを根本的に変え、(米NZ)両国にとって国家安全保障上の懸念となる」とした。

 

https://jp.reuters.com/article/usa-newzealand-idJPL4N2XN3Q3

このときにはもちろんウクライナ戦争についても話し合われたということなので、おそらく、ニュージーランド(以下NZ)はNATO-アメリカに対するそれなりに濃密な支援を約束したに違いないと思う。

日本で見ているとNZは牧歌的で平和な国という印象だが、実際にはそれなりの規模の軍隊を持ち、第二次大戦後も朝鮮戦争、ベトナム戦争から一連の「対テロ戦争」まで、忠実に米英に付き従って戦闘に参加している。

*私はオークランド博物館で見て知った。同博物館の展示は1フロア分「戦争博物館」の趣である。

FIVE EYESへの「不快感」表明  

しかし、中国に対して「価値観を共有しない国家」と決めつけ、「国家安全保障上の懸念」と宣言することは、アーダーンの本意ではなかったと思う。

ちょうどバイデンとの会談の1年ほど前から、NZは、米英を中心とするFIVE EYESの安全保障政策から距離を置き、NZ自身の価値観と国益に基づいて、外交上の決定を自律的に行いたいという姿勢をはっきりと示し始めていた。

2021年4月、政権の2期目に新たに着任した(ということは、より政権の色が出ているということだろう)外務大臣 Nanaia Mahuta(写真↑)は、対中国政策に関して、NZはFIVE EYESから独立して、外交と対話を重視したアプローチを取ると述べた。

同じ席でMahutaは、FIVE EYES(「米英」と読み替えればよいでしょう)がその権限を超えて様々な圧力をかけてくることへの不快感を表明し、自分たちは独自の道を行く、と宣言しているのだ。

https://www.theguardian.com/world/2021/apr/19/new-zealand-uncomfortable-with-expanding-five-eyes-remit-says-foreign-minister

NZは、そのさらに1年前(2020年5月)、FIVE EYESが中国の国家安全法施行を非難したときにも、共同声明に参加していなかった。

https://www.stuff.co.nz/national/politics/121667644/new-zealand-missing-in-five-eyes-condemnation-of-beijing-over-hong-kong-security-law

FIVE EYES という機密情報共有のための枠組みは外交上の懸念を取り扱うのに適切な場ではないという考えであったというが、圧力ではなくて話し合い、というスタンスはこのときからはっきりしていたのだ。

 *アーダーンはコミュニケーション学で学位を取っている(wiki)。

このスレッドを大いに参考にしました。

なぜ辞職?

アーダーン首相は、米英の圧力外交に抵抗し、独自の平和・話し合い路線を行きたかった。

とくに中国との関係はNZにとっては決定的だ。経済的にも軍事的にも何か起きればただでは済まない。

国民に対して責任を有する首相として、NZの価値観と国益に従って行動する道を付けるべく、アーダーンは努力した。素直に、かなり直球勝負で、米英の圧力から逃れるべく、外務大臣とともに戦った。

そして‥‥その試みは、おそらく、大国アメリカによって挫折させられたのではないだろうか。

近年、各国首脳がワシントンに招かれて懐柔されることはよくある(どういうやり方を取っているのかは知らない)。

*もちろん真偽は不明だがロシアの外務大臣ラブロフが語っている映像を見たことがある。「私にはアメリカや世界中に友人がたくさんいて、アメリカのやり口を教えてくれる。彼らは「あなたのお子さんは・・大学にいらっしゃいますよね」「ところであなたの銀行口座は・・」といった調子で明け透けに利益誘導ないし脅迫をするというのだ。ここにいる多くの人たちもそのことを知っているはずだ」(というようなことを語っていました。)

アーダーンはニュージーランド人だ。自由と民主主義の国のリーダーとして、大国と小国という関係性はあるにせよ、アメリカともイギリスとも価値観を共有するパートナーとして同盟を組んでいるのであり、従属しているわけではないと信じていただろう。

しかし、現在のこの世界では、アメリカはNZが独自路線を取ることを許さない。決して。アーダーンはワシントンでかなり最低最悪の方法でそれを伝えられたのではないかと思う。

そんなことが分かってしまったら、政治に立ち向かうエネルギーなんてなくなってしまう。当然だ。素直によりよい世界を目指していればなおのこと。

*一方、世間で言われているような「批判が強まっていた」というくらいの理由では、志をもって首相になった人間が政治家を辞めたりはしないと思う。

アーダーンが首相だけでなく議員も辞したのは、そういう事情ではないかな、と私は思っている。

おわりにーアメリカについて語ろう

近年、日本がアメリカの属国であるということは、普通に言われるようになった。

しかし、では、日本がアメリカから離反しようと正面から努力してできる状況なのかといえば、そうではないことは明らかだと思う。

何しろ、今や属国扱いは戦争に負けた日本や(負けたわけではないけど)保護国扱いの韓国だけではない。ほとんどすべての西側の国が事実上従属を迫られているのだ。

いまの世界情勢(日本や多くの国では国内問題のかなり多くの部分を含む)における最大の問題は、明らかに、アメリカである。

コロナ・ワクチンをめぐる騒動だって、インフレだって、エネルギー価格の高騰だって、そうした様々に関する報道規制(自粛を含む)だって、基本的に全部アメリカが引き起こした問題だ、と言うのは陰謀論でも何でもない。健全な常識だと思う。

第二次大戦後の一時期は世界の安定の要であったはずのアメリカが、いつしか支配層を中心に暴走を始め、アメリカ国民を含む世界中の人々の安定を脅かしている、というのが現在の世界情勢である。

*暴走に加わっているのはアメリカの支配層だけではないと思うが渦の中心がアメリカであることは間違いないので「アメリカ」で語らせてもらう。

だったら、もっとアメリカについて語った方がよいのではないだろうか。

暴走機関車が世界中で暴れ回っているのなら、世界中の人たち(アメリカの人たちをもちろん含む!)と協力して、どうやって暴走を止めるか、どうやって被害を最小限に食い止めるか、話し合った方がよいのではないだろうか。

いわゆる「グローバル・サウス」の諸国やロシア、中国は、とっくにそのことを考えているだろう。

マクロンの発言があったけど、中国との関係でアメリカがさらなる動きに出て、ヨーロッパがうまくそこから離反したとき、最後まで「アメリカ対策」に悩まされることになる同胞は、韓国であり、もしかすると、ニュージーランドやオーストラリアなのかもしれない。

日本の知識人の間で「問題」としてのアメリカについての語りがあまりにも少なく、私はちょっと怪訝に思っている。

語ったからといってできることは少ないだろう。しかし、アメリカの支配層が引き起こしている問題を、日本の国内問題と捉えて政府を批判したり、ましてや中国やロシアに押し付けたり、そういうことをして、これからを生きていく小さく若い人たちに歪んだ鏡で世界を見るように仕向けるなんて、知識人としては最大の罪ではないだろうか。

よりよい将来のために、アメリカについて、アメリカ後の世界について語ろう。世界中の人々(しつこいようだが、アメリカの人々を含む)とともに。

いま、社会科学者として一番言いたいことかもしれない。